マホウトコロ   作:西野圭吾

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第2話 最もキツイ13日間

 

 転移の光が消えたとき、蓮根奎星は日本魔法省の中央広間に立っていた。地下深くにあるとは思えないほど天井は遠く、巨大な吹き抜けを囲むように幾層もの回廊が走っている。壁面には青白い炎を灯した転移扉が並び、その間を、書類を咥えた折り鶴が忙しなく飛び交っていた。

 

 何度来ても、最初に思うことは同じだった。

 

「高い……」

 

 ただ、今日はいつもと少し違う。中央広間の一角に、明らかに同じ目的で集まった人間たちがいるのだ。手に受験票を持ち、鞄には筆記具を入れ、参考書を開いている。案内板に掲げられた《禍祓官採用一次筆記試験》の文字の前には、何十人もの受験生が集まっていた。

 

「多っ……」

 

 奎星の足が、わずかに遅くなる。

 

 見覚えのある制服もあった。マホウトコロの生徒だ。話したことはないが、廊下や食堂で見かけたことくらいはある。その向こうには、濃い青や灰色、深緑の、見たこともない制服を着た学生たちがいた。胸元や袖には、それぞれ異なる校章が縫い付けられている。

 

 そして、雪を思わせる白い制服も見えた。

 

「あ」

 

 白峰魔法学校の生徒たちだった。去年の星迎祭で何度も見た色だ。数人の白峰生が壁際に集まり、静かに資料を確認している。一人は分厚い法規集に付箋をびっしり貼り、別の一人は目を閉じて小さな声で何かを暗唱していた。羽根筆を動かしながら、最後までノートを確認している受験生もいる。

 

 なんか、全員、頭が良さそうだった。ものすごく。

 

 奎星は自分の鞄へ目を落とした。中に入っているのは受験票と筆記具、それから岳に渡された食べ物だけだ。参考書は置いてきた。目の前では知らない男子生徒が魔法法規の条文を暗唱し、その隣では女子生徒が近代魔法史の年表を確認している。白峰の生徒は、奎星には内容すら分からない難しそうな資料を読みながら、何度も頷いていた。

 

「…………」

 

 もしかして、俺、この中で一番バカなんじゃね?

 

 その考えが口からこぼれた瞬間、心臓が急に速くなった。昨日まであれほど詰め込んだはずの知識が、頭の中から音を立てて逃げていくような気がする。魔法法規、魔法史、魔法犯罪史、呪術理論、対闇魔術。覚えたはずなのに、今はどれも手の届かない場所へ遠ざかっていた。

 

 奎星は両手で頬を押さえ、次の瞬間、思い切り叩いた。

 

 ぱんっ、と乾いた音が広間に響き、近くにいた受験生たちが一斉に振り返る。何人かは、明らかにぎょっとした顔をしていた。

 

「……すみません」

 

 奎星は小さく頭を下げ、それからゆっくり息を吐いた。もう一度、顔を上げる。

 

 俺が一番バカだとか、そんなことはどうでもいい。自分より頭のいい奴なんて、昔からいくらでもいた。伊織なんか絶対にそうだし、楓だってそうだ。スズメに至っては、比べるのも腹が立つくらい頭がいい。

 

 でも、確かなことが一つある。

 

 昨日まで、学校中の人間が自分を応援してくれた。教師たちが問題を作り、高宮が怒鳴り、土御門が何度も教え、坪田も早瀬も付き合ってくれた。御影は朝練まで潰し、スズメは最後まで赤筆を握っていた。日向たちも、天ぷらも、下級課程の子どもたちも、頑張れと言ってくれた。

 

 そして、自分もそれに応えた。

 

「……よし」

 

 小さく呟く。

 

 きつかった。本当にきつかった。黒曜の狩人と戦ったこともある。星帰りで学校へ突っ込んだこともある。幕末にも行ったし、死にかけたことだって一度や二度ではない。それでも、この十三日間は、あれらとは別の意味で過酷だった。

 

「……あれよりキツかったな」

 

 勉強というものは恐ろしい。そう思いながらも、奎星は口元を上げた。

 

「俺、修羅場ならいくらでも潜ってんじゃん」

 

 なら、大丈夫だ。筆記試験くらいで死ぬことはない。多分。

 

 今度は頬を叩かなかった。周りが見るからだ。奎星は鞄を肩へ掛け直し、案内板に掲げられた《禍祓官採用一次筆記試験 受付》の文字を見据えると、真っ直ぐそちらへ歩き出した。

 

     *

 

 その頃、国立魔法学校マホウトコロは、妙に静かだった。

 

 高宮は教壇の前で立ち止まり、教室を見回した。上級課程第三学年の教室には、日向も楓も岳も伊織もいる。生徒はいつも通り揃っているのに、何かが足りなかった。

 

「静かだな」

 

 ぽつりと高宮が言うと、楓が顔を上げた。

 

「そうですか?」

 

「静かだ」

 

 高宮は即答した。

 

「非常に快適だ」

 

 誰も返事をしない。高宮は構わず続けた。

 

「誰かが授業中に勝手に喋らない。質問と称して関係のない話を始めない。寝ない」

 

 日向が手を挙げた。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「寂しいんですか?」

 

「違う!」

 

 即答した声が、少しだけ大きくなった。

 

「快適だと言っているだろう!」

 

「声でけえ」

 

「朝比奈!」

 

「はい!」

 

 教室に小さな笑いが起こる。高宮は咳払いを一つして黒板へ向き直り、チョークを走らせた。

 

「続けるぞ」

 

 そう言いながらも、ほんの一度だけ教室の後方へ目を向ける。いつも騒がしい男の席は空いていた。

 

 高宮はすぐに前へ向き直った。

 

「先生」

 

「何だ、水無瀬」

 

「今、見ましたよね」

 

「何をだ!」

 

「別に」

 

 楓は少し笑って教科書へ視線を戻した。机の下で握っていた指先を、そっと開く。昨日あれだけやったのだから、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。

 

 日向も窓の外へ目を向けた。

 

「……受かれよ」

 

 小さな声だったが、岳には聞こえた。

 

「受かる」

 

「分かんねえだろ」

 

「受かる」

 

「なんで」

 

「飯あげたから」

 

「関係あんの?」

 

 伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「静かに」

 

「先生みたいなこと言うなよ」

 

「授業中だから」

 

 四人はそれぞれ前を向いた。窓の外では、南硫黄島の海が今日も青く光っていた。

 

     *

 

 数時間後、転移の光が消えると、奎星はマホウトコロの転移区画へ戻ってきた。肩が重い。頭も重い。脳みそを一度全部取り出して洗い、もう一度戻したいくらいだった。

 

「……終わった」

 

 誰に言うでもなく呟いた、その直後だった。

 

「お疲れさまでした」

 

「うわっ!」

 

 奎星が跳ねる。少し離れた場所に、九重院紫苑が一人で立っていた。

 

「校長先生!」

 

「はい」

 

「いつもいるっすね」

 

 九重院は柔らかく笑った。

 

「あら。たまたまですよ」

 

「前もたまたまいたような」

 

「偶然は重なるものです」

 

「絶対待ってたでしょ」

 

「さて」

 

「誤魔化した」

 

 九重院は答えず、校舎へ向かって歩き始めた。奎星もその横へ並ぶ。転移区画を出ると、窓から午後の光が長く差し込み、二人の影が回廊の床へ伸びていた。

 

「どうでしたか?」

 

 九重院が訊く。

 

「大丈夫!」

 

 奎星は即答した。しかし、二歩ほど進んだところで声が小さくなる。

 

「……多分」

 

 九重院が横目で見る。

 

「自信のない問題もあったのですね」

 

「そうなんだよ。例えばさ、一般社会側で魔法事故が起きたときの手続きのやつ。最後に俺、担当部署への報告って書いたんだけど、その前に現場保存が──」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「後悔先に立たずですよ」

 

 奎星の足が止まった。

 

「まだ後悔してない!」

 

「今からしそうでしたので」

 

「ちょっとだけ!」

 

「もう答案は提出したのでしょう?」

 

「した」

 

「でしたら、今考えても点数は変わりません」

 

「魔法で戻せない?」

 

「戻しません」

 

「即答」

 

 九重院は小さく笑った。

 

「よく頑張りました」

 

 奎星は黙ったまま、少しだけ口を尖らせる。

 

「今日は、それで十分ですよ」

 

「校長先生、こういうとき急に優しいよな」

 

「普段も優しいつもりですよ」

 

「怖いときある」

 

「あら」

 

「ほら怖いときの顔!」

 

「覚えておきますね」

 

「もっと怖くなった」

 

 二人の足音が、午後の回廊へ重なっていった。

 

     *

 

「──よって、魔法契約における当事者間の合意が成立していたとしても、第三者に対する危険性が認められる場合には──」

 

 高宮が黒板へ文字を書いていたとき、教室の扉が開いた。

 

「ただいまー……」

 

 高宮の声が止まる。

 

「蓮──」

 

 声がわずかに上ずったが、高宮はすぐに平静を装った。

 

「……根。遅い」

 

「試験行ってたんだけど!?」

 

「知っている!」

 

「じゃあ遅くないだろ!」

 

「授業中だ! 座れ!」

 

「はい!」

 

 奎星が自分の席へ向かう途中、日向が小さく拳を突き出した。奎星も拳を当てる。楓が口だけを動かして、どうだった、と尋ねた。

 

 奎星は、分からん、と同じように口だけで返した。伊織がそれを見て小さく笑い、岳は机の下から何かを差し出す。飴だった。

 

「今食うなよ」

 

「蓮根!喋るな!」

 

「喋ったの岳!」

 

「人のせいにするな!」

 

「事実!」

 

「座れ!」

 

「はい!」

 

 教室に笑いが起こる。高宮は黒板へ向き直り、呆れたように息を吐いた。

 

「まったく……」

 

 その声には、先ほどまでとは違う温度があった。教室は少しずつ、いつもの音を取り戻していった。

 

     *

 

 そこからの二週間は長かった。奎星の試験が終われば、今度は仲間たちの番だった。

 

「行ってくるわ」

 

 楓が鞄を肩へ掛ける。

 

「おう!」

 

 奎星は親指を立てた。

 

「教育管理局、ぶっ倒してこい!」

 

「受験先を倒してどうするのよ」

 

「受かってこい!」

 

「最初からそう言いなさい」

 

「大丈夫だって。楓なら」

 

 楓は一瞬だけ足を止め、それから小さく笑った。

 

「……ありがと」

 

「おう!」

 

 数日後、術式解析官を目指す伊織が試験へ向かうときには、奎星はその背中を叩いた。

 

「伊織!」

 

「何」

 

「分かんなくても諦めんなよ!」

 

「君に言われると妙に重いね」

 

「経験者だからな!」

 

「三択に四番を書いた?」

 

「そっちじゃねえ!」

 

 岳の魔法生物保護官の選考の日には、奎星はいつも以上に大きな声で送り出した。

 

「岳!」

 

「うん」

 

「頑張れ!」

 

「うん」

 

「それだけ!?」

 

「何が」

 

「緊張とか!」

 

「腹減った」

 

「いつも通りだな!」

 

 奎星は全員を快く送り出した。笑って、肩を叩いて、大丈夫だと言った。けれど、自分のことになると、どうしても落ち着かなかった。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「また見てる」

 

 伊織が言う。

 

「何を」

 

「カレンダー」

 

 奎星は壁から目を逸らした。

 

「見てねえし」

 

「さっきから四回目」

 

「日付確認してるだけ」

 

「結果発表までの日数を?」

 

「…………」

 

「あと九日」

 

「言うなよ!!」

 

 結果が届くまで、何をしていても気が散った。

 

 そんなある日、御影が言った。

 

「明日から朝練はなしだ」

 

「え」

 

 奎星は思わず聞き返した。

 

「なし?」

 

「ああ」

 

「なんで?」

 

「身体を休めろ」

 

「俺、病気?」

 

「殴るぞ」

 

「元気です!」

 

 御影は腕を組んだ。

 

「実技へ進む可能性を考えれば、今無理に身体を追い込む意味はない」

 

「でも俺、朝練ないと」

 

「寝ろ」

 

「五時に起きちゃうんだけど」

 

「寝直せ」

 

「できるかな」

 

「知らん」

 

 できなかった。

 

     *

 

 それから約二週間が経ったある朝、奎星は午前五時に目を開けた。隣では日向が布団を蹴飛ばし、岳は壁を向き、伊織は微動だにせず眠っている。時計を見ると、五時二分だった。

 

「最悪だ……」

 

 奎星は頭を抱えた。

 

「御影先生のせいで健康になった……」

 

 十八歳にして朝五時に自然起床。以前なら考えられないことだった。休みの日なら昼まで寝ていた男である。二度寝しようと目を閉じても、三秒後には目が開いた。

 

「寝れねえ」

 

 身体が完全に起床している。御影玄一郎は恐ろしい男だった。生活習慣まで矯正してくる。

 

 奎星が諦めて身体を起こしたとき、机の上で小さく光が瞬いた。昨夜まで何もなかった場所に、一通の封筒が置かれている。厚い白紙に銀色の縁取りが施され、中央には見覚えのある印が押されていた。

 

《日本魔法省》

 

 眠気が完全に消えた。

 

「……え」

 

 心臓が一度、大きく鳴る。奎星はゆっくり立ち上がり、机へ近づいた。

 

「……マジ?」

 

 封筒の表には《蓮根奎星 殿》と記されている。裏返すと、《日本魔法省 魔法法執行局》の文字があった。

 

 どくん、どくん、と心臓の音が耳の奥で響く。指を封へ掛けたが、そこで止まった。開ければ分かる。この二週間、ずっと考えていたことが、たった一枚の紙で決まる。受かったのか、落ちたのか。

 

 奎星は一度、封筒から手を離した。

 

「無理」

 

 小声で呟き、封筒をそのまま鞄へ入れる。鞄を閉じてから、何がよしなのか自分でも分からないまま頷いた。

 

「……よし」

 

     *

 

 それから奎星は、いつも通り一日を過ごした。朝食を食べ、日向と喧嘩をし、授業を受け、一度は高宮に怒られた。岳の菓子を一個取ったら二個取り返された。

 

 ただし、鞄だけは一度も身体から遠ざけなかった。

 

「奎星」

 

「何?」

 

「今日、鞄ずっと持ってるね」

 

 伊織が訊いた。

 

「そう?」

 

「食堂にも持ってきてた」

 

「大事なもん入ってる」

 

「何?」

 

「秘密」

 

「珍しい」

 

「俺にも秘密くらいあるわ!」

 

 そう言いながら、奎星は肩紐を少し強く握った。封筒は、ずっと鞄の中にある。

 

     *

 

 学校では、十月十五日の星迎祭へ向けた準備が始まっていた。放課後の回廊を歩けば、あちこちから声が聞こえてくる。

 

「そっち持って!」

 

「浮かせすぎ!」

 

「天井ぶつかる!」

 

「誰か先生呼んでー!」

 

「待って待って、落ちる!」

 

 奎星が足を止めると、目の前を中級課程の生徒たちが大きな星形の飾りを抱えて走っていった。その向こうでは、下級課程の子どもたちが長机いっぱいに灯籠を並べている。星形の灯籠の中央には小さな魔石が埋め込まれ、術式を起動すると、淡い光をまとって胸の高さまでふわりと浮かび上がった。

 

「あ」

 

 奎星の口元が緩む。

 

 去年も、こんな光景を見た。

 

 教室の後ろには《魔法喫茶》と書かれた模造紙が貼られ、看板や内装、役割分担をめぐって、日向が看板を燃やしかけ、楓が怒り、伊織が会計表を作り、岳が試作品を食べ続けていた。何個目かと訊いたとき、岳は二個だと言い、伊織は七個だと答えた。

 

「……五個サバ読んでたな」

 

 思わず笑いがこぼれる。水羊羹も絶対に出せと騒いだ。あの頃の自分は、本気で星迎祭とマホウトコロの伝統を水羊羹で結びつけようとしていた。今考えても、間違ってはいない。多分。

 

「蓮根先輩!」

 

「ん?」

 

 声をかけられて振り返ると、下級課程の少女が、光らない星灯籠を両手で抱えて立っていた。

 

「これ、点かない!」

 

「見せて」

 

 奎星はしゃがみ込み、灯籠の魔石へ指を当てた。術式の流れを探ると、途中で線が一つ途切れている。

 

「あー。術式、ここで切れてる」

 

「直る?」

 

「直る直る」

 

 奎星は神代榊を抜き、細く魔力を流した。途切れていた線が繋がり、灯籠が淡い光を宿す。

 

「光った!」

 

「おう」

 

「ありがとう!」

 

「落とすなよー」

 

「はーい!」

 

 少女が走っていく。その背中を見送りながら、奎星は去年の自分を思い出していた。星灯籠を持って走り回り、脚立へ上がり、木材を運び、頼まれてもいない下級生の作業まで手伝った。白峰の生徒たちもいた。澪たちもいた。星迎祭まであと何日だと数えながら、授業より準備のほうが楽しいと騒いでいた。

 

 今年は、自分たちより下の学年が同じことをしている。

 

「……一年か」

 

 風が抜け、未完成の星飾りが頭上で小さく揺れた。一年前、まさか翌年の自分が、禍祓官の採用試験結果を鞄へ隠したまま歩いているとは思ってもいなかった。

 

「……進んでんなあ」

 

 時間が。学校が。みんなが。そして、自分も。

 

 そのはずなのに、肩に掛けた鞄が急に重く感じられた。

 

     *

 

 授業が終わったあと、奎星は魔法史研究室の前に立っていた。扉を見つめたまま、しばらく動けない。

 

「何してんだ俺」

 

 自分で呟き、こんこん、と扉を叩いた。

 

「どうぞ」

 

 聞き慣れた声が返ってくる。

 

 扉を開けると、古い紙の匂いと、窓から流れ込む夕方の潮風が迎えてくれた。棚いっぱいの本に囲まれた机の向こうで、烏丸スズメが資料を読んでいる。

 

「蓮根君」

 

「おう」

 

「どうしたんですか?」

 

「や……別に……」

 

 奎星は扉を閉めた。

 

「別に、で研究室へ来る人はあまりいませんよ」

 

「俺は違う」

 

「あなたは来ますね」

 

「じゃあいいだろ」

 

「……どうしたんです?」

 

 奎星は答えず、机の前まで歩いた。鞄を下ろし、中へ手を入れる。ごそごそと探る音に、スズメが少し不思議そうな視線を向けた。

 

 やがて奎星は、一通の封筒を机の上へ置いた。

 

「これ……」

 

「結果」

 

 奎星が言う。

 

「届いたみたい」

 

 封筒に記された《日本魔法省》《魔法法執行局》の文字を、スズメの視線が追った。

 

「見たのですか?」

 

 奎星は、ううん、と首を横へ振った。

 

「……怖くて」

 

 スズメは何も言わない。

 

「朝、来た」

 

「朝?」

 

「五時」

 

「早いですね」

 

「俺も起きてた」

 

「それは御影先生のおかげでしょうね」

 

「今その話いる?」

 

「すみません」

 

 奎星は少しだけ笑ったが、その表情はすぐに消えた。

 

「……怖いのはさ、結果だけじゃない」

 

 封筒へ目を落とし、指先で鞄の肩紐を弄る。

 

「いつまでも、こういうのを怖がっちゃう自分なんだ」

 

 初めて教室へ入るときも怖かった。扉の向こうから聞こえる笑い声に怯え、髪を触り、制服を直し、何度も杖の位置を確認した。最後には、小さな声で一緒に入ってよ、と頼んだ。

 

 日向を傷つけたときも怖かった。倒れた友人を前に、神代榊を握ることさえ怖くなり、誰にも会いたくなくて一人で歩いた夕暮れの先に、秘密の場所へ連れてってくれた人がいた。そこ古い観測塔と海があった。

 

 星帰りの前も怖かった。帰れるか分からず、学校の中に何が待っているのかも分からなかった。神代冥司、黒曜の環、戦い。それでも朝が来て、杖を持ち、帰ると決めた。

 

「……怖かった」

 

 奎星は笑おうとしたが、うまくいかなかった。

 

「色々あったじゃん」

 

「はい」

 

「あれから、俺も前よりは成長したって思ってた」

 

「成長していますよ」

 

「でもさ」

 

 奎星は封筒を見つめた。

 

「やっぱり怖い」

 

 研究室に、遠い波の音が流れ込んでくる。

 

「ずっと怖がってて、大人になれんのかな。俺」

 

 スズメの瞳が、わずかに揺れた。

 

「いつもスズメちゃんに支えられてばっかだ。いつだって」

 

「蓮根君」

 

 静かな声に、奎星が顔を上げる。

 

「大人になるというのは、怯えなくなることではありません」

 

 スズメは真っ直ぐに奎星を見た。

 

「怖くても、それでも立ち向かうことです」

 

 奎星は黙って聞いている。

 

「蓮根君。あなたは、いつだって逃げませんでした。教室にも入りました。友人を傷つけたと思って自分の魔法が怖くなっても、立ち上がりました。星帰りの前夜も、最後には自分で覚悟を決めたでしょう」

 

 スズメは、ほんの少しだけ笑った。

 

「全部、あなたなんですよ」

 

 奎星はしばらく何も言わなかった。窓の外で風が吹き、机の上の紙が一枚だけ揺れる。

 

「……でも」

 

 やがて奎星が言った。

 

「それは、スズメちゃんがいたから……」

 

 教室の前でも、日向のときも、星帰りのときも、ずっとスズメがいた。

 

「スズメちゃんがいたからなんだよ」

 

 スズメは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。

 

「……でしたら」

 

「ん?」

 

「私がいて勇気が出るのであれば、いつだって一緒にいます」

 

 奎星の目がわずかに開く。

 

 スズメは椅子から立ち上がり、机の上の封筒を手に取った。そして、奎星の隣へ立つ。

 

「……私が開けましょうか?」

 

 奎星は封筒を見て、スズメを見て、もう一度封筒へ視線を戻した。心臓が速い。怖い。やっぱり怖い。

 

 それでも、手を差し出した。

 

「……ううん。自分で開ける」

 

 スズメの目が、少しだけ柔らかくなる。

 

「はい」

 

 封筒が奎星の手へ戻る。奎星は指を掛け、今度は離さなかった。ゆっくり封を切り、中の厚い白紙を取り出す。魔法省の紋章が刻まれた紙を一度だけ深く息を吸ってから開いた。

 

―――

 

令和九年九月二十六日

 

蓮根 奎星 殿

 

日本魔法省 魔法法執行局

禍祓官採用試験委員会

 

禍祓官採用試験 一次試験結果通知

 

 令和九年九月十二日に実施した禍祓官採用一次筆記試験について、厳正なる審査の結果、貴殿を一次試験合格者と決定しましたので、ここに通知します。

 

 つきましては、下記のとおり二次実技試験を実施します。

 

 実施日  令和九年十月十七日

 試験会場 日本魔法省 魔法法執行局実技審査区画

 

 試験当日は、本通知書、受験票、指定された魔法具および杖を持参し、所定の時刻までに受付を完了してください。

 

 なお、二次実技試験の詳細および注意事項については、同封の受験案内を確認すること。

 

                           以上

 

―――

 

 奎星は動かなかった。スズメも動かなかった。二人で紙を見つめ、そこに記された《一次試験合格者》の文字を、もう一度確認する。

 

 奎星がゆっくり顔を上げると、スズメも顔を上げた。目が合う。

 

「これって……」

 

 奎星の声が震えた。

 

 スズメの目が大きくなる。

 

「合格ですよ!!」

 

「…………」

 

 一秒遅れて、奎星の声が研究室を揺らした。

 

「やったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「受かりましたね!」

 

「俺、受かった!!」

 

「はい!」

 

「マジ!?」

 

「書いてあるでしょう!」

 

「やったああああ!!」

 

 奎星が跳び上がる。着地して、また跳ぶ。

 

「筆記!! 俺が!!」

 

「蓮根君!」

 

「筆記受かった!!」

 

「はい!!」

 

 スズメも笑っていた。いつもの口元だけの小さな笑みではない。本当に、自分のことのように喜んでいる。

 

「スズメちゃん!!」

 

「はい!」

 

 奎星が右手を上げると、スズメもほとんど反射的に手を上げた。

 

 ぱんっ、と乾いた音が研究室に響く。

 

「うおおおおおお!!」

 

「やりましたね!!」

 

「やった!!」

 

「本当に!」

 

 そのとき、研究室の扉が勢いよく開いた。

 

「うるさい!!」

 

 高宮だった。

 

「何時だと思って──」

 

 そこで言葉が止まる。奎星は跳び、スズメは珍しく満面の笑みを浮かべている。そして奎星の右手には、《日本魔法省》《魔法法執行局》と記された白い紙が握られていた。

 

 高宮の顔が変わる。震える指が、その紙を指した。

 

「は、蓮根……も、もしかしてそれ……」

 

 奎星の顔が一気に明るくなる。

 

「高宮先生!! 受かったよ!!!」

 

「…………」

 

 高宮の口が開く。

 

「や……」

 

「うん!」

 

「やったああああああああああああああ!!」

 

「うおおおおおおお!!」

 

 高宮まで跳び上がった。

 

「やった!!」

 

「先生が一番跳んでる!!」

 

「受かったぁぁぁぁ!!」

 

「俺が受かったんだよ!?」

 

「知ってる!!」

 

「高宮先生!!」

 

「蓮根ぇぇぇぇ!!」

 

「先生ぇぇぇぇ!!」

 

「良かったですね!!」

 

「スズメちゃん!!」

 

「烏丸先生です!!」

 

「今それ言う!?」

 

「言います!!」

 

「やったあああああ!!」

 

「やったぁぁぁぁぁ!!」

 

 なぜか三人で、わあわあと騒ぎ続けた。いつもなら一番先に静かにさせる高宮まで、今日は止める側にいなかった。

 

 廊下を歩いていた生徒たちが、何事かと研究室の扉を覗き込む。中では奎星が跳び、高宮も跳び、スズメが笑っている。机の上には、一通の手紙が置かれていた。

 

 九月二十六日。

 

 蓮根奎星、禍祓官採用一次筆記試験、合格。

 

 次は、十月十七日の実技試験。

 

 その未来へ向かうための、一枚目の扉が、ようやく開いた。

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