男子寮の談話室は、今年も相変わらず酷かった。
「だからそこ通して!」
「どこ!?」
「輪っか!」
「輪っかどれだよ!」
「今お前が持ってるやつだよ!」
「これ!?」
「それは先っぽ!」
「分かんねえよ!!」
去年と何も変わっていない。普段の制服とは違う濃紺や黒を基調とした正装の前で、何人もの男子生徒が首元の細長い布切れに敗北していた。決闘なら魔法が使える。クィディッチなら箒に乗れる。魔法生物が暴れれば杖を抜けばいい。しかし、ネクタイには何も通じない。
「これ魔法で結べねえの?」
「去年も同じこと言ってたよ、それ」
鏡の前で奎星が言うと、背後から伊織の声が返ってきた。
「じゃあ魔法作ろうぜ」
「一年あったんだから自分で覚えればよかったでしょ」
「それができたら苦労してねえよ」
「威張ることじゃないよ」
去年なら、ここで一人の男が笑いながら助けに入ってきた。深い紅色の上着に綺麗に整えたネクタイを締め、誰かが困っていれば嫌な顔一つせず、結局は全員分を直してくれた三年生――三枝冬真。
──来年も冬真先輩に頼む。
──俺、卒業してるよ。
──じゃ残って。
──ネクタイのために留年させるな。
奎星は鏡を見たまま、ふっと笑った。本当に卒業してしまったのだ。だから今年、その役割を引き継いだのは、本人の意思とは一切関係なく、いつの間にか長い列の先頭に立たされていた伊織だった。
「次」
「お願いします!」
「締めすぎないで!」
「普通にして!」
「伊織先輩、俺も!」
「並ばなくていいから!」
「何で僕なの」
「できるからだろ」
「去年、僕も冬真先輩に直してもらったんだけど」
「一年で成長したな」
「君も成長してよ」
「俺は別方面で成長してる」
「ネクタイ方面も成長して」
伊織が誰かの結び目を直している横で、岳は今年も自分のネクタイをじっと見つめていた。
「岳」
「何」
「頭に巻くなよ」
「巻かない」
「成長したな」
「去年怒られたから」
「学習してる!」
「君、岳以下だね」
「何で!?」
そのとき、鏡の前から日向の声がした。
「これ、変じゃねえよな」
すでに伊織にネクタイを結んでもらい、正装そのものは完成している。問題はそのあとだった。日向はさっきから髪を右へ流しては戻し、前髪を少し上げては下ろし、鏡へ近づいたり離れたりしている。奎星はしばらく黙ってその様子を眺めてから、何気なく口を開いた。
「日向」
「何」
「告んの?」
「は!?」
日向が勢いよく振り返る。
「楓」
「告んねえよ!!」
「ふーん」
奎星は興味を失ったように鏡へ戻った。
「いやもうちょい興味持てよ!」
「いや、なんか毎回それだなお前ら」
「んだよ! お前だってそうだろ!」
「俺ぁ卒業したらいくわ!!」
談話室が静まり返った。伊織の手が止まり、岳が顔を上げ、近くにいた二年生まで一斉に振り返る。奎星自身も、言ってからようやく自分の発言の大きさに気づいた。
「あ」
「お前」
日向の顔がゆっくり笑う。
「今、結構なこと言ったぞ」
「別に言ってねえよ!」
「言っただろ!」
「誰にとは言ってねえ!」
「言わなくても分かるわ!」
「分かんの!?」
伊織が真顔で言った。
「九割九分分かるね」
「伊織!」
「誰」
岳が訊く。
「お前は分かれよ!」
「分かってる」
「じゃ訊くな!」
「確認」
「いらねえ!」
談話室に笑い声が広がった。日向が奎星の肩を掴む。
「じゃあ何だよ。偉そうに俺へ言ってたくせに、お前もまだじゃねえか!」
「俺は理由あんだよ!」
「何だよ!」
「先生と生徒だから!」
「ほぼ言ってんじゃねえか!」
「うるせえ!!」
「卒業したら何だよ!」
「知らねえ!!」
「さっき行くって言っただろ!」
「行くけど!!」
「どこへだよ!」
「だから知らねえ!!」
「意味分かんねえよ!!」
「俺だって分かんねえよ!!」
「二人ともうるさい!」
伊織の声が飛んだ。
「次奎星!」
「はい!」
なぜか反射的に返事をしてしまい、奎星は伊織の前へ立った。
「去年、冬真先輩にやってもらったのにな」
「そうだね」
「今年お前かぁ」
「嫌なら自分でやって」
「お願いします」
「素直でよろしい」
伊織は奎星のネクタイを一度ほどくと、手際よく長さを揃え、布を交差させ、結び目を作っていった。
「……来年どうすんだろな」
奎星が何気なく言う。
「何が?」
「こいつら」
談話室を見回すと、二年生や一年生が、去年の自分たちと同じように伊織の前へ並んでいる。
「自分たちで覚えるんじゃない?」
「俺らがいなくなったら?」
「そうやって毎年変わるんでしょ」
「…………そっか」
「はい。終わり」
伊織が結び目を中央へ合わせた。
「おお」
奎星は鏡を見る。
「今年もまとも」
「来年こそ自分でやってね」
「来年?」
「卒業式とかあるでしょ」
「あ」
伊織が少し笑った。
「ちゃんと卒業できればね」
「するわ!!」
*
大講堂では、すでに舞踏会が始まっていた。校舎の窓を抜けた弦楽器の柔らかな音が夜風に乗って流れ、回廊の欄干や中庭、木々の枝、校舎から講堂へ続く道のいたるところで、青や銀、薄い金の星灯籠が祭りの終わりを惜しむように揺れている。正装した生徒たちが大講堂へ向かう流れの中で、奎星だけはその反対へ歩いていた。
校舎の裏手に回り、普段はほとんど誰も使わない古い石段を上る。蔦に覆われた門を抜けると、その先に古い観測塔が見えてきた。
一年前も、同じ道を歩いた。あの夜は、歩くほどに心臓が速くなった。今日一日、遠くから何度も彼女を探しては声を掛けられず、二日前に手を避けられたことばかりを考えていた。嫌われたかもしれない。来ないかもしれない。そう思いながら階段を駆け上がり、最後には、頼むからいてくれと声にまで出した。
奎星は一人で笑った。
「懐かし」
今日は走らなかった。それでも足取りは自然と速くなる。螺旋階段を一段ずつ上がると、遠くの音楽と海鳴りと風の音が重なって聞こえた。去年と同じ音だった。
最後の階段を上がると、見覚えのある扉がある。一年前、この取っ手へ手を伸ばすだけであれほど怖かったのに、今の奎星は何の迷いもなく握った。
扉を開ける。
今年は、もうスズメがいた。
古い長椅子と開け放たれた窓、その向こうに広がる海と夜へ沈み始めた空。窓辺に立つ烏丸スズメは、祭りの日でも教員らしい装いを崩してはいなかったが、いつもの魔法衣より少しだけ落ち着いた正装を身につけていた。顎の辺りで揃えた黒髪が風に小さく揺れている。
扉の音に、スズメが振り返った。
「スズメちゃん」
「蓮根君」
たったそれだけのやり取りだったが、奎星は笑った。スズメも、少しだけ笑う。
「今年は早いじゃん」
「何がです?」
「来るの」
「去年が遅かっただけです」
「走ってたもんな」
「……覚えているのですね」
「そりゃ覚えてるよ」
奎星は中へ入りながら続けた。
「めっちゃ息切れてた」
「仕事が長引いたからです」
「髪もぐちゃってなってた」
「なっていません」
「なってたって」
「なっていません」
「俺、結構感動したんだけどな。スズメちゃん走れるんだって」
「どういう意味ですか」
「普段走らなそう」
「帰りますよ」
「待って待って!」
奎星が笑いながら近づく。
「あ、そうだ」
「何です?」
「見せるもんある」
正装の内側へ手を入れ、取り出したのは、今日の決闘大会で受け取った優勝メダルだった。星迎祭の紋章と三校の校章が刻まれた金属板が、窓から差し込む最後の夕光を受けて鈍く輝いている。
「じゃん! 優勝!」
「見ていました」
「知ってるけど!」
「おめでとうございます」
「もっと!」
「おめでとうございます」
「同じ!」
「では、何と言えば満足なのです?」
「なんかこう……すげえ!とか」
「すごかったですよ」
「軽い!」
スズメは小さく笑い、差し出されたメダルへ手を伸ばした。奎星の掌から受け取るとき、指先がほんの一瞬だけ触れる。奎星の声が止まったが、スズメは気づいているのかいないのか、メダルへ視線を落とした。
「本当に、強くなりましたね」
静かな声だった。
「……へへ」
「御影先生には負けましたが」
「今それ言う!?」
「事実です」
「あとちょっとだったんだぞ!」
「そうですね」
「マジで惜しかったんだからな!」
「はい」
スズメはメダルから顔を上げ、まっすぐ奎星を見た。
「ですが、初めてお会いした頃から考えれば、信じられないくらいです」
冗談を返そうとして、奎星はやめた。
「……うん」
少しだけ笑い、メダルを受け取る。
「俺も今日思った。ちゃんと強くなってた」
「ええ」
「御影先生にあとちょっとだった」
「そこを基準にするのですか?」
「あの人超えるって決めてるから」
「まだ先は長そうですね」
「絶対超える」
「頑張ってください」
「もっと信じろよ!」
「信じていますよ」
さらりと言われ、奎星の口が止まった。
「…………」
「どうしたのです?」
「いや、そういうの急に言うよな」
「何がです?」
「何でもない」
奎星は目を逸らした。
*
二人は長椅子へ腰を下ろした。一年前と同じ場所だった。
去年、奎星は無意識に隣へ一人分の空間を残して座った。来るかどうかも分からない誰かのために。今年は、そんなことを考える必要がない。スズメが先に座り、奎星がその隣へ腰を下ろす。近すぎもしない。遠くもない。いつの間にか、二人には二人の距離ができていた。
窓の外では、星迎祭の灯りが島の斜面を埋めている。遠い大講堂から舞踏会の音楽が届き、波の音と静かに混ざっていた。しばらく二人とも何も言わなかったが、その沈黙は苦しくなかった。それも昔とは違う。
「ここに初めてきた時は俺が凹んでた時だった」
奎星が言う。
「懐かしいですね」
「日向ぶっ飛ばしてさ」
「はい」
「俺、杖捨てようとしてた」
「捨ててはいません」
「捨てる寸前だった」
「握っていたでしょう」
「細かいな」
「覚えていますから」
その言葉に、奎星の目が少しだけ動いた。
覚えています。
今の二人にとって、その言葉は少し特別だった。スズメも、自分で言ってから気づいたらしい。二人の間に一瞬だけ静かなものが落ち、奎星は窓の外へ目を向けた。
「……あんときさ」
「はい」
「森のめっちゃ景色悪いとこで座ってた俺に、言ったじゃん」
口元を少し上げる。
「悩むなら、もっと景色いいとこで悩めって」
「少し違います」
「だいたい同じだろ」
「《悩むのであれば、もう少し景色の良いところで悩みませんか》です」
「細かいって」
「随分違います」
「意味一緒じゃん」
「言い方は大切です」
「相変わらずだなあ」
奎星は笑った。
「あの頃の俺、ずっと怖がってたな」
「今もでしょう?」
「おい」
「先日も、試験結果の封筒を開けられずに研究室へ来ました」
「…………」
「覚えています」
「最近じゃん!」
「ですから」
スズメは海を見る。
「怖がること自体は、あまり変わっていませんね」
「俺、成長したって話してたんだけど!?」
「最後まで聞いてください」
「はい」
「怖くても、そのあとどうするかは変わりました」
奎星が黙る。
「あの頃は、怖くなれば一人でいなくなりました」
「……うん」
「教室へ入るときも」
「あ」
奎星が笑った。
「一緒に入ってって言ったな」
「言いました」
「恥ず」
「教室の前でずっと制服を直していました」
「言うなって!」
「髪も触っていました」
「細かく覚えすぎだろ!」
「杖の位置も何度も確認していました」
「やめろぉ!」
スズメが小さく笑う。
「今では決闘場の中央で《俺が最強だ》と叫んでいます」
「それ関係なくない!?」
「随分変わりましたね」
「恥ずかしい方向にも成長してない!?」
「元からです」
「ひどっ!」
二人の笑い声が、古い石壁へ柔らかく響いた。
しばらくして、奎星が言う。
「一番最初なんかさ」
「はい」
「俺、スズメちゃんの名前聞いて」
少し笑う。
「鴉だったのに、って言ったよな」
「言いましたね」
「親、名前つける時、鳥なら何でもいいと思ったのって」
「初対面で家庭の命名事情へ踏み込んできました」
「今思うとヤバいな」
「今ですか?」
「今」
「遅いですね」
「でもあれなかったら、スズメちゃんって呼んでなかったかも」
「烏丸先生です」
「ほら」
「何です?」
「それもずっと変わんねえ」
奎星が笑う。
「何回言われたんだろ」
「数えていません」
「百?」
「もっとです」
「千?」
「あり得ますね」
「マジか」
「一日に何度も言いますので」
「じゃあ俺が卒業するまでに一万目指すわ」
「やめてください」
「記録作ろうぜ」
「何の記録ですか」
また笑う。
夜風が窓から流れ込み、スズメの髪を少し揺らした。
「……でも」
奎星の声が少しだけ変わる。
「スズメちゃん、ずっといたな」
スズメが隣を見る。
「俺が来てから」
魔力測定の水晶を壊した日。一人だけ別の部屋で授業を受けた二週間。初めて魔法を使った日。初めて友達ができた日。初めて失敗した日。魔法が怖くなった日。そして、ここへ来た日。奎星の中で、いくつもの記憶が静かに重なっていく。
「最初の二週間、毎日部屋まで来たじゃん」
「あなたの魔力が安定していなかったからです」
「お茶飲んでた」
「ご両親に勧められました」
「羊羹も」
「いただきました」
「俺、それで魔法界来たんだよなあ」
「羊羹で?」
「違うよ!」
「今の言い方だとそう聞こえました」
「スズメちゃんが来たから!」
少し大きな声が出た。その声が塔の中へ響き、奎星自身が一瞬黙る。
「……スズメちゃんが来たから」
今度は小さく言った。
「俺、ここにいるんだよな」
スズメは何も言わなかった。
「もしあの日、誰も来なかったらって考える時あるんだ」
「それはありません」
「分かってるけど」
「あなたには魔力がありましたから、誰かが行っています」
「そうじゃなくて」
奎星は笑った。
「スズメちゃんじゃなくても、今の俺になってたのかなって」
「…………」
「御影先生に会って、日向たちと友達になって。神代榊持って。禍祓官になりたいって思って」
左手首へ視線を落とす。銀色の腕時計が、星灯籠の光を受けていた。
「ここまで来れたかなって」
スズメも時計を見る。
「それは」
少しだけ考えてから、静かに言った。
「蓮根君が選んだことですよ」
「うん」
「私は学校へ連れてきただけです」
「それでも」
奎星は顔を上げる。
「最初の扉開けたの、スズメちゃんじゃん」
スズメの瞳が、わずかに揺れた。
*
遠くから、高い音が聞こえた。二人が同時に窓を見ると、ひゅう、と夜空を一本の光が昇り、次の瞬間、金色の花火が開いた。少し遅れて、どん、と低い音が海を渡ってくる。
「始まった」
「今年も綺麗ですね」
青、赤、銀。次々と夜空へ花が咲き、黒い海面へ色が映った。
「去年もここで見たな」
「はい」
「俺、一人で十五分くらい見てたけど」
「……その話はもういいでしょう」
「めちゃくちゃ落ち込んだんだぞ!」
「申し訳ありませんでした」
「いや、もう怒ってないけど」
奎星は笑う。
「俺、去年ここで人生終わったくらいの顔してた」
「していました」
「そこ否定して」
「事実です」
「泣いたし」
「泣きましたね」
「スズメちゃんも泣きそうだった」
「花火の光です」
「まだそれ言う?」
「便利ですので」
「認めちゃった!」
スズメが口元を隠して笑う。
「そんでさ」
「はい」
「踊った」
今度はスズメが黙った。
「めっちゃ下手だった」
「蓮根君がです」
「スズメちゃんもだろ!」
「あなたほどではありません」
「俺、途中から上手くなってた!」
「気のせいです」
「去年も言った!」
「事実です」
「最後転びそうになったの、スズメちゃんじゃん」
ぴたりと会話が止まった。二人とも同じ場面を思い出していた。足がもつれ、身体が傾き、奎星が腰を支えた。遠くの音楽がちょうど止まり、窓から夜風が入って、顔が近かった。近すぎた。
今年は、先に目を逸らしたのがどちらだったのか分からなかった。
「……あれさ」
奎星が鼻の下を擦る。
「近かったよな」
「言わなくていいです」
「スズメちゃんも思ってたじゃん」
「言わなくていいです」
「俺、後で全然寝れなかった」
「聞いていません」
「星見ながらずっと転がってた」
「聞いていません」
「スズメちゃんは?」
「知りません」
「寝れてなかった!?」
「知りません!」
耳が赤い。奎星はそれを見て笑いかけたが、自分の耳も熱いことに気づき、やめた。
「……あ」
何かを思い出し、上着の内側へ手を入れる。
「まだ持ってる」
掌へ落ちたのは、小さな銀色の星だった。星灯石が花火の光を受けて淡く輝いている。去年、二人が同じ屋台で、互いに相手へ渡そうとして、まったく同じものを買った星型のキーホルダーだった。
「ほら」
「……はい」
「スズメちゃんも?」
スズメは少しだけ迷ってから教員衣の内側へ手を入れ、同じ星を取り出した。
「おお」
「そんなに驚くことですか?」
「いや」
奎星は笑う。
「嬉しい」
それだけだった。スズメは少しだけ目を伏せ、二つの銀色の星が長椅子の上で並んだ。
「これもさ」
奎星が言う。
「めちゃくちゃ大事」
「…………」
「俺が、スズメちゃんに忘れられた時」
花火が開き、白い光が二人の顔を一瞬だけ照らした。
「あんとき、これ握ってた」
「覚えています」
「俺のことだけ忘れたんだよな」
「はい」
「半年分」
「……はい」
奎星は笑っていたが、その声は少しだけ静かだった。
「正直、あれ結構キツかった」
スズメの指が膝の上で僅かに動く。
「《どちら様ですか》って。目の前にスズメちゃんいるのにさ。俺の知ってるスズメちゃんがいない感じして」
「蓮根君」
「分かってる」
奎星はすぐに言った。
「スズメちゃんが悪いんじゃない」
「…………」
「今は分かってるよ」
銀色の星を指で転がす。
「でも、あの頃の俺には分かんなかった。何していいか」
「それでも」
スズメが言う。
「あなたは、私に何も押しつけませんでした」
「いや、結構押しつけた気するけど」
「思い出せとは、一度も言いませんでした」
「…………」
「思い出の場所へ連れていっても、思い出せなければ、それ以上は何も言わなかった」
観測塔。冬の夜。記憶のないスズメと、全部を覚えている奎星。二人で同じ景色を見た。
「でもスズメちゃん、手離さなかったじゃん」
「…………」
「俺のこと覚えてなかったのに」
奎星が笑う。
「《このままで構いませんか》って」
「忘れてください」
「無理だろ!」
「今すぐ忘れてください」
「記憶戻ってんだから余計無理!」
「忘却術を」
「やめろ!!」
笑い声が重なった。
「しかもさ」
「まだあるのですか」
「そのあと言ったじゃん」
奎星は少しだけ声を柔らかくした。
「自分の日記の中にいる自分を知りたいって」
スズメの笑みが消える。
「俺との記憶、取り戻したいって」
「……はい」
「あれ」
奎星は夜空を見る。
「嬉しかったなぁ」
「…………」
「めちゃくちゃ」
スズメも同じ空を見る。
「私も」
「ん?」
「取り戻せて、よかったです」
静かな声だった。
「全部」
奎星は何も言わない。
「あなたに初めて会った日のことも。観測塔も。第零書庫も。夏も。星迎祭も」
花火が開くたび、遠い記憶が光の中へ浮かんだ。
「あなたが何度も研究室へ来たことも」
「今も行ってる」
「知っています」
「怒られたことも?」
「当然です」
「そこ忘れてよかったのに」
「駄目です」
「都合悪っ」
「常隠島も」
奎星が黙る。
「二羽の鴉も」
銀色の光の中で、二人の杖先から飛び立った同じ形の守護霊が蘇る。
「……あれも嬉しかったな」
「守護霊ですか?」
「うん」
奎星は少し照れたように笑う。
「俺の守護霊、スズメちゃんと一緒だったじゃん」
「鴉でしたね」
「スズメなのに」
「その話は終わったでしょう」
「でもさ」
花火を見たまま、奎星は続けた。
「なんか、嬉しかった」
スズメは返事をしなかった。ただ、ほんの少しだけ唇が柔らかくなる。
「それから」
彼女は続けた。
「星帰りも」
「うん」
「あなたが学校へ戻ってきたことも」
「うん」
「過去へ行って帰ってきたことも」
「うん」
「……本当に、色々ありましたね」
「ありすぎだろ」
奎星が笑う。
「普通、学校生活で幕末行かねえよ」
「行くわけありません」
「清弦、元気かな」
「百五十年以上前の方ですが」
「そういう意味じゃなくて!」
「何を話したのです?」
「え」
「清弦さんと」
奎星の顔が固まった。
「色々」
「具体的には?」
「色々!」
「怪しいですね」
「何で!?」
「目が泳いでいます」
「泳いでねえ!」
「何か私について話しましたか?」
「…………」
「蓮根君?」
「言わねえ!!」
「話したのですね」
「違う!」
「今ので分かりました」
「スズメちゃん!」
「何を話したのです?」
「墓まで持ってく!」
「清弦さんのお墓ですか?」
「俺のだよ!!」
スズメが珍しく声を出して笑った。
「何でそんな楽しそうなんだよ!」
「すみません」
「絶対言わねえからな!」
「では、卒業したら訊きます」
奎星の声が止まった。スズメも、言ってからその意味に気づいたように黙る。
花火が一つ、夜空で大きく開いた。金色の光が二人の横顔を照らす。
「……卒業したら」
奎星が小さく繰り返す。
「はい」
「俺、卒業するから」
スズメの瞳が僅かに揺れた。
「知っています」
「絶対」
「まず試験を」
「今それ言う!?」
「まだ実技試験もあります」
「分かってるよ!」
奎星は笑った。けれど、少ししてから、ふと真面目な顔になる。
「この前も言ったじゃん」
「何をです?」
「来年も、再来年も」
スズメの表情が止まる。
「その次も」
八咫祭の花火の下で、奎星は何の飾りもなく言った。毎年、こうして一緒にいたいと。
「……覚えています」
「来年、俺ここにいねえんだよな」
「そうですね」
「寮も出る」
「はい」
「授業もない」
「はい」
「研究室行っても補習させられない」
「それは良いことでは?」
「寂しいだろ!」
「どちらがです?」
「俺が!」
即答だった。スズメが目を丸くする。
「俺、普通に寂しいと思う」
「…………」
「朝起きても学校にいて。大食堂行ったら日向たちいて。教室行けば高宮先生に怒鳴られて。研究室行けばスズメちゃんいて」
奎星は窓の向こうへ視線をやった。
「それ、全部なくなるんだな」
「なくなるわけではありません」
「でも変わるじゃん」
「……そうですね」
「友達も別々になるし」
日向はプロへ。楓は教育管理局へ。岳は魔法生物の道へ。伊織は術式解析官へ。そして自分は、禍祓官へ。
「俺さ」
奎星が言う。
「昔、未来とか全然考えてなかった」
「知っています」
「海賊とか書いてたし」
「知っています」
「忘れてくんない?」
「無理ですね」
「でも今は」
左手を見る。銀色の腕時計。右手には銀色の星。
「ちゃんと先がある」
スズメは静かに聞いている。
「禍祓官になりたい」
「はい」
「御影先生超えたい」
「はい」
「人助けたい」
「はい」
「もっと魔法知りたい」
「はい」
そこで一度、言葉が止まった。
「それで」
奎星がスズメを見る。
「その先にも、スズメちゃんがいたらいいなって思ってる」
風が入り、黒髪が揺れた。スズメは何も言わなかった。逃げなかったし、目も逸らさなかった。
「……この前も、そう言いましたね」
「うん」
「毎年、一緒にいたいと」
「うん」
「私がどう答えたか、覚えていますか?」
「なんか誤魔化した」
「違います」
「秘密って言った」
「それも言いました」
「じゃ分かんねえ」
スズメはほんの少しだけ笑う。
「拒まなかったでしょう」
奎星の目が開く。
「来年も、と」
「…………」
「私も言いました」
奎星は、本当に珍しく何も言えなくなった。スズメは夜空へ視線を戻す。
「来年も」
小さな声だった。
「再来年も」
花火が開く。
「その次も」
奎星の喉が動いた。
「……うん」
「未来のことは、分かりません」
「うん」
「あなたは忙しくなるでしょうし、私も学校にいます。今までのように毎日会うことはできなくなるかもしれません」
「うん」
「それでも」
スズメが奎星を見る。
「会えばいいでしょう」
奎星の胸が、一度だけ強く鳴った。
「来ればいいです」
「……研究室?」
「卒業生が勝手に研究室へ入り浸るのは困ります」
「じゃどこ!」
「水月庵でも」
「うん」
「祭りでも」
「うん」
「ここでも」
観測塔。二人の場所。
「会えばいいでしょう」
奎星はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「何です?」
「いや」
笑った。
「よかった」
*
次の花火が上がったとき、強い夜風が吹いた。スズメの髪が大きく揺れ、細い黒髪の一房が頬へ掛かる。奎星の右手が動きかけたが、そこで止まった。
スズメが気づく。
「蓮根君?」
一年前、体調が悪そうに見えたスズメへ、奎星は何も訊かず額へ触れた。それがきっかけで二人はすれ違った。
──人の額へ触るときは、一言訊いてください。
奎星はその言葉を覚えていた。右手を戻しかけてから少し考え、口を開く。
「スズメちゃん」
「はい」
「髪」
自分の頬を指差す。
「あ」
スズメが自分で直そうとした。その前に、奎星が言った。
「触っていい?」
動きが止まる。
今度は奎星も急かさず、ただ待った。スズメの目が少しだけ柔らかくなる。
「……はい」
奎星はゆっくり手を伸ばし、頬へ掛かった髪を指先でそっと掬って耳の後ろへ送った。触れたのは髪だけだった。それなのに、二人とも呼吸が少し浅くなる。
指を離すと、スズメが言った。
「……ちゃんと訊くようになりましたね」
奎星は笑った。
「成長しただろ」
「はい」
今度はスズメが先にそう言った。
「成長しました」
奎星の笑みが少しだけ消え、代わりにとても静かな顔になる。
「……そっか」
「はい」
その言葉が、決闘大会で優勝したことより、御影へあと数センチまで迫ったことより、少しだけ嬉しかった。
*
「蓮根君」
「ん?」
「ネクタイ」
「何?」
「少し曲がっています」
「マジ?」
奎星が首元を触る。
「どっち?」
「余計に曲げています」
「分かんねえ!」
「触らないでください」
「はい」
スズメが身体を向け、奎星のネクタイへごく自然に手を伸ばした。
奎星の背筋が固まる。
「どうしました?」
「いや」
「動かないでください」
「はい」
細い指が結び目へ触れ、少し緩めて中央へ合わせ、襟を整えていく。去年は冬真がしてくれた。今年は伊織がしてくれた。そして今、スズメが目の前で自分のネクタイを直している。
近い。
顔が。
去年のダンスほどではない。それでも近かった。奎星は息を止め、スズメも途中で気づいたのか、指を僅かに止めた。
目が合う。
去年と違い、足はもつれていない。転びそうになってもいない。支えたわけでもない。だからこそ、離れる理由もなかった。
奎星の左手首で銀色の時計が淡く光る。二人の間で、時間が進んでいる。去年から、初めて会った日から、一日ずつ。
奎星の脳裏へ、談話室で吐いた言葉が戻ってきた。
──俺ぁ卒業したらいくわ!!
心臓がうるさかった。
でも、今ではない。逃げるからではない。待つと決めたからだ。教師と生徒ではなくなり、自分で選んだ道へ一歩進んだそのときに、ちゃんと伝える。
奎星は目を逸らさなかった。スズメも逸らさなかった。
やがて、スズメが小さく言った。
「……できました」
「うん」
手が離れる。ほんの少し惜しいと思ったが、それでよかった。
*
花火は残り少なくなっていた。二人はまた前を向いたが、さっきまでより少しだけ近い。肩と肩の距離はあと数センチで、風が吹けば服の袖が触れるほどだった。
「スズメちゃん」
「はい」
「手」
「何です?」
奎星は右手を長椅子の上へ置き、掌を上へ向けた。
「去年言われたから」
「何をです?」
「訊けって」
奎星は少しだけ笑う。
「握っていい?」
遠くで花火が上がった。青い光が夜の海と古い観測塔を照らす。
スズメはしばらく奎星の手を見ていた。一年前、奎星が抱きしめたこと。冬、記憶を失った自分からその手を握ったこと。常隠島でも、魔法省でも、怖いときや離したくないときに何度も手を重ねたことが、静かに蘇っていく。
「……はい」
スズメの手が重なった。
小さな手。少し冷たい指。奎星の手は一年前より大きくなっていた。杖を握り、神代榊を振り、何度も傷つき、何度も誰かを掴んできた手。その手が今は、とても静かにスズメの手を包んでいる。
「俺さ」
奎星が言う。
「なんか思い出した」
「何です?」
「記憶なくしたスズメちゃんと、ここで手繋いだとき」
「はい」
「《忘れんなよ》って言った」
「言いましたね」
「スズメちゃん、《努力します》って」
「言いました」
「全然信用できねえって言った」
「失礼ですね」
「だって一回忘れてるから!」
「私の意思ではありません」
「分かってる」
奎星が笑う。
「でも」
握った手へ、ほんの少し力を込める。
「本当に忘れないでね」
スズメも握り返した。
「はい」
それだけだった。それだけなのに、胸が苦しくなるほど温かかった。
*
最後の花火が昇った。今年も大きかった。金色の光が空いっぱいへ広がり、その中心から無数の小さな星が降る。
「うわ……」
奎星が見上げる。
「綺麗ですね」
「うん」
金色の星は海へ落ちる前に消えていく。それでも残光だけは、しばらく空へ残った。
遠くの大講堂から聞こえていた音楽も、やがて最後の一音を長く伸ばして止まった。拍手と歓声が微かに届き、星迎祭が終わっていく。
「……終わったな」
「はい」
「最後の星迎祭」
「はい」
奎星は空を見る。
「寂しいな」
「そうですね」
「でも」
手はまだ繋がっていた。
「来年もあるんだよな」
「星迎祭は毎年あります」
「そうじゃなくて」
「分かっています」
奎星が横を見る。スズメも見ていた。二人とも笑う。
「来年も来る」
「はい」
「ここ」
「はい」
「スズメちゃんも?」
「……おそらく」
「そこは絶対って言えよ!」
「未来のことですから」
「じゃあ来年確認する」
「しつこいですね」
「再来年も」
「さらに延びましたね」
「その次も」
「何年確認するつもりですか?」
「ずっと」
あまりにも自然に出た言葉だった。スズメの笑みが止まり、奎星も自分で言ってからほんの少しだけ頬が熱くなる。それでも訂正しなかった。
「……ずっと」
もう一度だけ言う。
スズメは何も答えなかった。ただ、繋いでいた手を少しだけ強く握り返した。それで十分だった。
花火の残光がゆっくり消えていく。夕暮れの最後の色を残していた水平線も、少しずつ夜へ沈んでいった。その境目、深い藍色へ変わっていく空に、一つだけ小さな星が見えた。
奎星が気づく。
「あ」
スズメも空を見る。
まだ満天の星には早い。けれど、夜より先に一つだけ光っている。夕暮れと夜の間、昼の名残とこれから始まる闇の間で、誰より早く灯る星。
「宵星ですね」
「よいぼし?」
「宵の時間にだけ、西の空に現れる金星です」
「夜になったら、消えちゃうの?」
「はい」
「…なんか寂しい」
「だからあんなに綺麗なんですよ」
二人は並んで見上げていた。
初めてここへ来た夜とは違う。去年の星迎祭とも違う。失った記憶を探しに来た冬とも違う。もう、どちらか一人が歩調を緩めなくてもいい。怖くても、迷っても、遠くへ行っても、また隣へ来ればいい。
「帰る?」
奎星が訊く。
スズメは星を見たまま答えた。
「もう少しだけ」
「うん」
二人は動かなかった。手も離さなかった。
星迎祭は終わった。舞踏会も終わった。
けれど、宵星が一つ、空へ灯ったばかりだった。
まだ夜は、始まったばかりだった.