男は笑みを浮かべたまま、こちらへ歩いてきた。風の止まった模擬市街には、石畳を踏む足音だけが妙にはっきり響いている。奎星は神代榊を持ち上げ、杖先を男の胸へ真っ直ぐ向けた。
「おい。待て。そこで止まれ!」
男は足を止めなかった。やがて、穏やかな声で答える。
「……僕は君たちを救いにきたんだ」
「は?」
奎星の眉が寄る。隣では蒼真も杖を構え、男を睨みつけていた。
「救いに来た? 何言うてんねん。誰や、お前」
男は二人の杖など見えていないかのように、歩みを緩めなかった。
「君たちは、もう試験を受けなくていい。学校に帰りなさい」
「いきなり何言ってるんだ! 僕らは試験を受けにきたんだぞ!」
侑李が一歩前へ出る。対して奎星は動かなかった。男の足、肩、右手、視線を順に追いながら、神代榊を握る指へ力を込める。穏やかな顔をしている。怒っているようにも、敵意を抱いているようにも見えない。むしろ、本当にこちらを心配しているような目だった。
だからこそ、奎星の警戒は解けなかった。
「お前、誰だ?」
男は奎星を見た。
「僕は救済者。君たちを救いにきたんだ」
「救済者だぁ?」
「何から救うんだよ」
男は微笑んだ。
「未来から」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
「……未来?」
「君たちは、大人にならなくていい」
奎星の眉がぴくりと動く。
「……あ?」
「これから君たちは卒業する。学校を離れ、友人と別れ、仕事を選ぶ。失敗すれば責められ、誰かを傷つければ責任を負わされる。守れなかった人間のことを、いつまでも忘れられなくなる日も来る」
侑李の表情から笑みが消え、蒼真も黙って男の言葉を聞いていた。
「今までは、失敗しても教師がいる。守ってくれる大人がいる。帰る学校がある。けれど、それはずっと続くものではない。大人になれば、自分で選び、自分で決め、自分で背負わなければならない」
風のない街で、黒い煙だけがゆっくりと薄れていく。
「そんなもの、背負わなくていいんだよ」
その言葉に、奎星の頭の奥へ二日前の夜が一瞬だけ蘇った。星迎祭の観測塔。来年、自分はここにいない。日向も、楓も、岳も、伊織も、それぞれ別の場所へ行く。朝になっても、今までと同じ大食堂には集まらない。高宮に怒鳴られることも、研究室へ勝手に入り込んでスズメに呆れられることも、今までと同じ形では続かない。
寂しい。
確かに、そう思った。
「苦しいことを、わざわざ経験する必要はない。間違えて傷つく必要も、別れを経験する必要もない。責任なんて負わなくていい。誰かの命を背負う必要もない」
男は一歩、さらに一歩と近づいた。
「君たちは、子供のままでいていい。だから、通してくれ」
数秒の沈黙のあと、奎星は男を睨みつけた。
「ふざけんな!」
声が模擬市街全体へ響き渡る。男が足を止め、奎星へ顔を向けた。
「俺、せっかく筆記受かったんだぞ!!」
蒼真が横目で奎星を見る。
「もうちょいかっこいいこと言えや……」
「大事だろ!」
「今それちゃうやろ!」
「めちゃくちゃ勉強したんだぞ俺!」
「知らんがな!」
「学校中に教えてもらったんだぞ!」
「ええ話やけど!」
「結果の封筒だって、やっと開けたんだぞ!」
「話長なるやつや!」
侑李が二人へ怒鳴った。
「そんなこと言ってる場合じゃないよね!?」
「うるせえ!」
「お前が言うな!」
ほんの数秒だけ、いつもの調子が戻った。だが、男の足は止まっていなかった。こつ、こつ、と足音が近づいてくる。
蒼真の顔から笑みが消えた。
「……待てや」
男が横を通り過ぎようとした瞬間、蒼真がその肩を掴む。
「おい! 人の話、聞いとんのか!」
男は振り返らなかった。肩も大きく動かさない。ただ右腕だけが脇腹の横へ滑り、いつ抜いたのかさえ分からない杖先が蒼真へ向いた。
「デパルソ」
短い声とともに空気が弾け、蒼真の身体が地面から浮き上がった。十メートル近く吹き飛ばされた身体が建物の壁へ叩きつけられ、鈍い音を立てて地面へ落ちる。
「なっ!?」
「蒼真!!」
侑李が駆け出す一方、奎星は動かなかった。神代榊を男へ向けたまま、目だけを見開いている。
見えなかった。
いや、腕が動いたことも、杖が向けられたことも分かっている。だが、予備動作がほとんどなかった。肩が上がらない。肘を引かない。足も踏み込まない。
御影は何度も言っていた。魔法が飛んでくる前に、人間の身体は必ず何かを教える。肩、足、指、呼吸。だが、この男は、そのすべてをぎりぎりまで殺していた。
「……何だ、今の」
男が奎星を見る。
「通してくれるかな」
「通すわけねえだろ」
奎星の声が低くなる。
「ステューピファイ!」
神代榊から赤い閃光が走った。男の身体へ届く直前、杖先が数センチだけ動く。
「プロテゴ」
必要最低限の大きさしかない透明な盾へ赤い光がぶつかり、弾けた。男はすでに奎星から視線を外している。
「っ!」
「伏せて!」
侑李の声に反応して身体を沈めると、頭上を赤い光が通り過ぎた。
「いつ撃った!?」
男の杖は、もう下りていた。
「くそっ!」
「何だ!?」
別の通りから声が上がり、複数の足音が近づいてくる。角から受験生たちが次々と現れた。一班、もう一班、さらに向こうからも試験区域を進んでいた受験者たちが集まってくる。マホウトコロの制服だけではない。別の魔法学校の制服や魔法省指定の受験衣、すでに学校を卒業しているらしい若い魔法使いの姿もあった。
「何だあいつ!」
「敵役か!?」
「識別印がない!」
「試験か!?」
「違う!」
奎星が叫ぶ。
「こいつ、試験関係ねえ!」
「え!?」
壁際では、侑李が蒼真の状態を確認していた。
「蒼真!」
「……っ、うるさい」
蒼真は咳き込みながら身体を起こした。
「生きてる!」
「見たら分かるやろ……!」
「立てる?」
「誰に訊いとんねん」
蒼真は壁へ手をついて立ち上がり、杖を拾った。顔には怒りが浮かんでいる。
「……あいつ、腹立つなぁ」
「怖い怖い」
「奎星に言われとうないわ」
受験生の一人が周囲を見回した。
「監督官は!?」
「通信術式、反応しない!」
「非常信号は!?」
「さっきから送ってる!」
奎星は何かを思い出したように顔を上げた。
「斎賀さん!」
叫んでも返事はない。
「鷲尾さん!」
返ってきたのは、模擬市街の不気味な静寂だけだった。
「クソ、なんだよ!」
神代榊を握り直し、男を睨む。
「斎賀さんは!?」
男は淡々と答えた。
「彼なら来ないよ」
奎星の顔が止まった。
「……何?」
「彼なら来ない」
「てめぇ……」
声から、完全にふざけた色が消えた。
「何した」
男は答えない。
「斎賀さんに何したって訊いてんだよ!」
「心配しなくていい」
「答えろ!」
「君たちは、本当に大人の心配ばかりするね」
男は少し悲しそうに笑った。
「だから救わなければならないんだ」
「……頭おかしいんちゃうか」
蒼真が奎星の横へ戻ってくる。
「蒼真、大丈夫?」
「痛いわ」
「大丈夫じゃないじゃん!」
「動ける。ほな大丈夫や」
蒼真は男を睨みつけた。
「よう分からん理屈で人を吹っ飛ばしといて、何が救いや。ええ加減にせえよ」
男が首を傾ける。
「怪我はする。でも、殺さない」
「そういう話ちゃうねん」
「死ななければ、やり直せる」
「余計腹立つなぁ……」
道路に並んだ受験者たちが一斉に杖を上げた。
「全員で拘束するぞ!」
「待て!」
奎星が止めようとしたが、間に合わなかった。
「ステューピファイ!」
「エクスペリアームス!」
「インカーセラス!」
十を超える杖が一斉に光り、赤、白、銀の魔法が道路を埋め尽くすように男へ殺到した。普通なら避ける場所などない。
男は一歩だけ下がった。
「プロテゴ」
盾が現れる。大きくはない。むしろ、あまりにも小さかった。
最初の呪文が盾へ当たり、盾がわずかに傾く。弾かれた赤い光が別の気絶呪文と衝突し、二本、三本と魔法同士が空中でぶつかり合いながら軌道を逸らしていく。銀色の拘束縄だけが盾の下を抜け、男の足首へ届く直前に、杖先から放たれた一言で切断された。
「ディフィンド」
「嘘だろ……」
誰かが呟く。
男の杖が上がった。
「伏せろ!」
奎星が叫ぶ。
「ステューピファイ」
赤い閃光が一人を倒し、男の杖が横へ流れる。
「エクスペリアームス」
二人目の杖が飛ぶ。
「デパルソ」
三人目が路地へ吹き飛ぶ。
「インカーセラス」
四人目の両腕が縛られる。
「ステューピファイ」
五人目が倒れ、六人目が声を上げるより早く、男の杖が次の標的へ向いた。
「プロテゴ!」
盾が間に合った。だが男は、その盾へ気絶呪文を撃たなかった。
「デパルソ」
足元の石畳が弾け、受験者の身体が浮き上がる。空中で杖を飛ばされ、地面へ落ちる前に男の視界から外れた。
「何だこいつ!」
「散れ!」
奎星が叫ぶ。
「固まんな!」
何人かが左右へ走ったが、もう遅かった。男は歩きながら杖を振る。走らない。叫ばない。派手な魔法も使わない。それなのに、受験者たちは一人ずつ倒れていった。
撃たれた魔法を避け、その死角から別の相手だけを狙う。武装解除した相手の杖を次の攻撃の射線へぶつけ、拘束縄を切らずに杖で巻き取って術者自身の足へ絡ませる。年上の受験者が至近距離まで詰めても、男は手首を返すだけで赤い光を紙一重に逸らし、胸元へ杖先を触れさせた。
「ステューピファイ」
受験者が崩れ落ちる。
「……やべえ」
奎星の口から声が漏れた。
強い。ただ魔力量が大きいのではない。ただ速いのでもない。無駄がない。相手が攻撃を考えた頃には、もう次の場所にいる。撃つ。動く。読む。最小限の魔法で、相手の選択肢だけを一つずつ消していく。
御影の戦いを初めて見たときにも、奎星は同じことを思った。だが、この男は御影とも違う。御影の動きには、長い実戦で削られた硬さがある。この男の動きは柔らかく、杖がまるで指先の続きのようだった。
「奎星!」
侑李の声で我に返る。赤い閃光が迫り、奎星は反射的に盾を張った。
「プロテゴ!」
魔法を受け止める。
「蒼真!」
「分かっとる!」
蒼真が右へ回り、杖を振った。
「壁作るで!」
男の左右へ二枚の防壁が立ち、移動方向を狭める。
「後ろ!」
「任せろ!」
別の受験者たちが背後を取った。
「今!」
四方向から魔法が飛ぶ。
「ステューピファイ!」
奎星も撃った。同時に三人が魔法を放ち、男の目が初めて周囲へ動く。
「いける!」
男は避けるのではなく、奎星の方へ踏み込んだ。
「え」
距離が一気に縮まり、男の杖が下から跳ね上がる。
「エクスペリアームス」
「っ!」
神代榊へ強烈な衝撃が走った。だが、奎星は杖を離さなかった。引かれる力へ逆らわず、手首を返して掌の中で神代榊を半回転させ、そのまま握り直す。
男の目が、ほんの少しだけ開いた。
「取れねえよ!」
奎星はすぐに次の魔法へ移った。
「デパルソ!」
至近距離からの衝撃に、男が初めて大きく身体をずらす。その先へ蒼真の拘束縄が走った。
「そこや!」
「インカーセラス!」
銀色の縄が男の右腕へ巻きつく。
「入った!」
「引け!」
蒼真が杖を引き、別の受験者も縄を重ねた。二本、三本と拘束が増える。
「奎星!」
「おう!」
奎星が神代榊を向けた。
「ステューピファイ!」
男が左手を上げる。右腕は縛られている。避けられないはずだった。
赤い光が胸へ迫った、その直前。
男の右手が消えた。
「……え?」
縄だけが落ち、杖が左手に握られている。
「持ち替え――」
「プロテゴ」
赤い光が弾けた。奎星が目を見開く間に、男は左手で杖を振る。
「デパルソ」
「っ!」
衝撃で奎星の身体が地面を転がった。
「奎星!」
侑李が飛び出す。
「来んな!」
奎星が叫んだが、侑李は止まらなかった。
「君だけにやらせるか!」
「お前親友だよ侑李!」
「ずっとそう言ってるだろ!」
侑李の杖先から拘束縄が飛ぶ。
「インカーセラス!」
男は半歩避けた。
「もう一本!」
二本目も避けられる。だが、侑李は最初から当てるつもりではなかった。縄は左右の街灯へ絡みつき、男の進路を塞ぐ。
「今だ!」
「お前やるじゃん!」
「同じクラスだったのに知らないんだ!」
「そこまだ怒ってんの!?」
「当たり前だ!」
受験生たちが再び杖を上げる。しかし男は侑李を見た。
「君は優しいね」
「……は?」
「倒れた人をずっと見ている」
侑李の顔がわずかに変わる。
「だから、君から休みなさい」
「侑李!」
「プロテゴ!」
侑李が盾を張る。男は盾へ撃たず、地面へ杖を向けた。
「デパルソ」
侑李の足元が弾け、身体が浮き上がる。空中で杖を向け直した。
「まだ!」
「ステューピファイ!」
赤い光を男は首を傾けて避ける。
「エクスペリアームス」
侑李の杖が飛んだ。それでも侑李は着地すると、落ちた杖へ走る。
「侑李、下がれ!」
「まだ――」
「ステューピファイ」
胸へ赤い光が入った。侑李の身体から力が抜け、崩れ落ちる。男は、その身体が石畳へ頭から落ちる直前、杖をわずかに動かした。落下速度が緩み、侑李は静かに地面へ横たわる。
奎星は、その動きを見てしまった。
殺すつもりはない。本当に、誰一人として殺すつもりはない。だからこそ、余計に気味が悪かった。
「……何なんだよ、お前」
「言ったでしょう。救いに来たんだ」
「こんなことして!?」
「君たちが先へ進まないために」
「勝手に決めんな!!」
奎星が立ち上がる。男の向こうでは、もう十人以上が倒れていた。呻き声、散らばった杖、切れた拘束縄、割れた模擬建物の窓。それでも血の匂いはほとんどない。非殺傷呪文だけで、ここまで一方的に制圧されている。
殺す必要すらないのだ。
「蓮根!」
蒼真が叫ぶ。
「合わせるで!」
「おう!」
二人が同時に動いた。蒼真が防壁を出し、男の視界を遮る。奎星は撃たずに盾の右へ回り、さらに左へ出た。男の足が左へ向く。
「見えた!」
「ステューピファイ!」
男が杖を上げる。
「プロテゴ」
予想通り、盾が出た。
「今や!」
蒼真の声とともに、盾の反対側から拘束縄が走る。男がそれを避けた先へ、奎星の姿が消えた。
ぱちん。
男の背後へ現れる。
「エクスペリアームス!」
赤い光が迫り、男の顔から初めて笑みが消えた。
「プロテゴ」
振り向きざまに盾が出る。赤い光と盾がぶつかり、火花が散った。
「……防いだ」
奎星が笑う。
「今、防いだよな。避けるだけじゃ無理だったんだろ!」
「蓮根、調子乗んな!」
「分かってる!」
蒼真が横へ走る。
「もう一回!」
「おう!」
男の視線が初めて二人を追った。奎星は笑っていた。怖くないわけではない。圧倒的に強い。斎賀も鷲尾も来ない。周囲の受験者たちは次々と倒れている。それでも、まだ立っている。
「君は、ずいぶん先へ行きたがるんだね」
「あ?」
「そんなに急がなくていい。卒業して、働いて、大人になって……怖くないのかい?」
奎星の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
怖い。卒業するのも、友達と別れるのも、試験に落ちるのも、禍祓官になるのも、誰かを守れないかもしれない未来も、ずっと怖い。昔は、怖がっている自分は弱いと思っていた。大人になれば、怖くなくなると思っていた。
けれど。
「……怖えよ」
男の目がわずかに動く。
「めちゃくちゃ怖えよ!」
奎星は神代榊を構えた。
「だから何だよ!」
一歩踏み出す。
「怖くなったら立ち止まんのか!?」
「そうすれば苦しまない」
「いらねえよ!」
赤い光が走る。
「ステューピファイ!」
男が避ける。奎星は撃った結果を見ず、すぐに次の魔法へ移った。
「苦しいかどうか!」
もう一発。
「俺が決める!」
男が盾を出す。
「蒼真!」
「分かっとる!」
蒼真が横から魔法を撃った。
「デパルソ!」
盾が揺れる。奎星が前へ出た。
「俺の未来だ!」
男の表情が初めて少しだけ変わった。悲しそうだった。
「そうか」
杖が動く。
「なら」
奎星は肩を見る。動かない。足も動かない。指も――いや、右手の薬指がわずかに動いた。
「下!」
奎星が跳ぶ。足元へ衝撃が走った。
「読んだ!」
空中で神代榊を向ける。
「エクスペリアームス!」
男が避ける。
「蒼真!」
返事がない。
「……蒼真?」
振り向くと、蒼真が膝をついていた。胸元から赤い光の残滓が消えていく。いつ撃たれたのか、奎星には分からなかった。
「蒼真!」
「前……見ぃ……」
蒼真が倒れる。
奎星が前を向くと、男はもう目の前にいた。
「しまっ――」
「エクスペリアームス」
衝撃で神代榊が手を離れかける。奎星は力を流し、手首を返して掴み直した。
「取れねえって!」
「そうみたいだ」
男の杖が再び動く。
「ステューピファイ」
「プロテゴ!」
盾で弾く。
「デパルソ」
「っ!」
身体が後ろへ飛ぶ。空中で奎星は笑った。
「それ!」
ぱちん。
姿が消える。
男の左側へ現れた。
「ステューピファイ!」
避けられる。奎星は結果を見ずに移動し、続けて杖を振った。
「エクスペリアームス!」
男が盾を張る。奎星はそこへ撃たず、足元へ狙いを変えた。
「デパルソ!」
石畳が爆ぜ、男の足がわずかに浮く。
「よし!」
着地点を読む。
「インカーセラス!」
拘束縄が走る。男は空中で杖を振った。
「ディフィンド」
縄が切れる。
だが、その先にはすでに奎星がいた。
「そこ!」
「エクスペリアームス!」
赤い光が男の右手へ迫る。男の瞳が細くなり、杖が滑った。紙一重で光が袖を掠め、黒い魔法衣が数センチ裂ける。
「……!」
奎星の目が輝いた。男が裂けた袖へ視線を落とす。
「……すごいね」
「だろ!」
「本当に。だからこそ、残念だ」
「何が――」
男の姿が消えた。ぱちん、という音はない。姿くらましではなく、奎星の視線から外れる瞬間だけを選んで前へ出たのだ。
死角。右。
「っ!」
奎星が振り向く。
「遅い」
初めて、男の声から微笑みが消えた。
「ステューピファイ」
「プロテゴ!」
盾が間に合う。だが男は盾へ杖を向けていなかった。
「デパルソ」
左足元が弾け、奎星の身体が傾く。盾がずれた。
「エクスペリアームス」
今度こそ、神代榊が手を離れた。
「っ――!」
杖が宙を回り、石畳へ落ちる。
からん。
乾いた音が響いた。
奎星の目が大きく開く。何度も聞いた音だった。御影に飛ばされたときも、楓に飛ばされたときも、斎賀に飛ばされたときも、同じ音を聞いた。
それでも、今日は。
「まだ!」
奎星は回し蹴りで相手との距離を作り一気に杖へと走った。
倒れた侑李がかすかに声を出す。
神代榊まで五メートル。四メートル。三メートル。男の杖が上がる。
二メートル。
「届――」
「ステューピファイ」
赤い光が奎星の背中へ直撃した。
「――っ」
足から力が抜け、身体が前へ落ちる。それでも手だけは伸ばした。指先が神代榊へ届くまで、あと少しだった。
「……くそ」
石畳が近づく。その向こうに、倒れた受験者たちが見えた。侑李、蒼真、名前も知らない受験生たち。誰も死んではいない。けれど、誰も立っていない。
「……斎賀、さん……」
声になったかは分からない。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、届かなかった神代榊と、その向こうを歩いていく男の足だった。
*
静かになった。
ほんの十分前まで何十もの呪文が飛び交っていた道路には、今は呻き声だけが残っている。赤い光も、盾が弾ける音も、怒鳴り声もない。
男は一人、立っていた。
足元には十数人の受験者が倒れている。制服、杖、拘束縄、割れた看板、崩れた石畳。その中央に、奎星の神代榊が落ちていた。
男は足を止め、杖を見た。その少し先では、奎星が倒れている。
「……君は、随分頑張ってしまったんだね」
返事はない。
男は神代榊を拾わず、そのまま跨いで歩いていく。途中、壁際で気を失っている受験者の身体が不自然な姿勢になっているのを見つけると、杖を一度振った。身体がわずかに浮き、呼吸しやすい姿勢へ直される。
「もう頑張らなくていい」
誰に言ったのか、男自身にも分からないような声だった。
そして、再び歩き出す。
模擬市街の奥、試験区域の終端。通常なら受験者が近づく必要のない場所に、厚い鉄扉があった。
《関係者以外立入禁止》
その下には、こう記されている。
《魔法法執行局・地下管理区画》
男は扉の前へ立ち、杖を向けた。薄い光が走り、複雑に重ねられていた施錠術式が一つ、また一つと消えていく。やがて重い音とともに扉が開いた。
その先には、さらに地下へ続く階段があった。模擬市街より深く、光の届かない場所まで続く狭い石造りの階段から、冷たい空気が吹き上がってくる。
男は振り返らなかった。
そのまま階段へ足を踏み入れる。足音が地下へ沈み、やがて男の背中は暗闇へ溶けていった。開いたままの扉の向こうから、規則正しい足音だけが遠ざかっていく。
誰も追う者はいなかった。
奎星たちは、全員倒れていた。
そして救済者と名乗った男は一人、魔法省のさらに深い地下へ降りていった。