最初に戻ってきたのは、痛みだった。
「……っ」
背中が熱い。胸の奥まで鈍く響く痛みに眉を寄せながら、蓮根奎星は重い瞼を開いた。頬には冷たい石畳の感触があり、鼻先には埃の匂いが漂っている。遠くでは、誰かが咳き込んでいた。
「……なんだ、これ……」
ぼやけた視界に、ひび割れた石畳が映る。倒れた看板、切れた拘束縄、あちこちに転がった杖。その光景を見た瞬間、奎星の意識が一気に引き戻された。
救済者。
あの男。
最後に神代榊を飛ばされ、手を伸ばした。けれど、届かなかった。
「神代榊……!」
奎星は痛みをこらえて顔を上げた。数メートル先に、見慣れた杖が落ちている。立ち上がるより先に四つん這いでそこまで進み、神代榊を掴んだ。
「……よし」
握った瞬間、ようやく少しだけ息が戻った。
周囲を見回す。模擬市街は、まるで死んだように静まり返っていた。さっきまで何十もの魔法が飛び交っていた道路には誰も立っておらず、偽物の空には変わらず青空が広がり、雲だけがゆっくりと流れている。それなのに、模擬市民の声も警報も聞こえない。
聞こえるのは、天井のどこかを抜けていく風の音と、衣擦れ、咳、呻き声、それから人が身体を起こす物音だけだった。
「……蓮根」
声に振り向くと、少し離れた壁際で桐生蒼真が立ち上がっていた。片手で腹を押さえ、もう片方の手をこちらへ伸ばしている。
「蒼真……」
「立てるか」
「余裕」
「ほな立てや」
「今立つとこだったんだよ」
「四つん這いやったやろ」
「杖拾ってたの」
「はいはい」
奎星は蒼真の手を掴んだ。ぐっと引かれた拍子に身体が傾く。
「うおっ」
「重っ」
「失礼だな!」
どうにか立ち上がる。膝が一度笑ったが、奎星は踏ん張った。
「……アイツは?」
笑いが消えた。蒼真も周囲を見回す。
「……分からん」
男が最後に歩いていった道の先には、誰もいない。奎星は記憶を辿った。倒れた瞬間、ぼやけた視界の向こうで男の足を見た。そのあとは何も覚えていない。
「地下……」
「何や?」
「いや」
何かを見たような気もする。けれど、はっきりとは思い出せなかった。
「奎星……」
別の声がして、二人が振り向く。宮本侑李が横向きのまま呻き、ゆっくりと身体を起こしていた。
「侑李!」
「……頭痛い」
「大丈夫か!」
「多分……」
「立てる?」
「ちょっと待って」
侑李は額を押さえながら周囲を見回した。倒れている受験者たち、壊れた模擬市街、その中央に立つ奎星と蒼真。しばらく黙ったあと、ぽつりと呟く。
「……これ、試験だったのかな……?」
「こんな馬鹿な試験あるかよ……」
奎星が即答した。
「でも禍祓官の試験だし」
「受験生全員ぶっ倒して監督消える試験ないだろ」
「最終試験《自力で帰宅せよ》とか」
「嫌すぎるだろ」
「それはもう試験やなくて遭難や」
蒼真が真顔で言った。
「……そっか」
「納得すんな!」
そんなやり取りをしている間にも、一人、また一人と受験者たちが目を覚ましていく。
「痛っ……」
「ここは……?」
「何が起きた?」
「監督官は?」
「アイツはどこだ!?」
声が次第に増えていく。気絶呪文を受けただけの者がほとんどだったため、重傷者はいなかった。壁へ叩きつけられたり転倒したりした者には怪我があるものの、少なくとも命に関わるような傷は見当たらない。
やはり、あの男は殺していない。
それが奎星には、少しも安心できなかった。
*
「一回、集まって!」
奎星の声が模擬市街へ響いた。
「動ける奴はこっち! 怪我がひどいやつは無理すんな!」
「救護できる人は負傷者を見てください!」
侑李も声を上げ、壁際を空けて負傷者を寝かせる場所を作る。蒼真は杖を持っていない者へ自分の杖を探すよう指示し、数分後には、まだ座り込んでいる者を除くほとんどの受験者が道路の中央へ集まっていた。
数十人の視線が奎星たちへ向く。奎星は少し困ったように眉を寄せた。
「……何で俺を見るの?」
「一番騒いでたからじゃない?」
侑李が言う。
「それ関係ある!?」
「お前が最初からあいつと喋っとったやろ」
「蒼真も喋ってたじゃん!」
「肩掴んで吹っ飛ばされたけどな」
「あれは……」
蒼真の顔が険しくなる。
「めっちゃ腹立つな、思い出したら」
「蓮根!」
年上らしい受験者が声を上げた。
「何か知っているのか?」
「……いや」
奎星の顔から笑みが消える。
「でも、あいつ……斎賀さんは来ないって言ってた」
ざわ、と空気が動いた。
「何?」
「どういう意味だ?」
「斎賀玄弥に何かしたってことか?」
「分かんねえ」
奎星は首を振った。
「俺も訊いた。でも答えなかった」
「鷲尾監督官も来てない」
侑李が周囲を見回す。
「通信も非常信号も反応しなかったよね」
「ああ。今もだ」
別の受験者が通信術式を起動させる。淡い光が一度明滅しただけで、術式はすぐに消えた。
「……魔法省自体で何か起きとるかもしれんな」
蒼真が低く言った。
「じゃあ、どうすんだよ」
誰かが訊く。
奎星は答えるより先に、魔法省へ続く出口へ目を向けた。
「見に行こう」
「待て」
蒼真が止める。
「全員では行かん方がええ」
「何で?」
「あの男がまだどっかにおるかもしれへん。何が起きとるかも分からんのに、全員でぞろぞろ動くんは危ない」
「……確かに」
侑李が頷いた。
「怪我してる人もいるし」
蒼真は集まった受験者たちを見渡した。
「分からへん。せやから、一回戻って魔法省の様子を見に行く。ただ、なんかおかしい。警戒しながら行った方がええ」
「じゃあ」
奎星が周囲を見渡す。
「誰か、ついてきてくれる奴いるか?」
ほとんど全員の手が上がった。
「…………」
奎星が固まり、蒼真も黙り込む。侑李だけが少し笑った。
「すごいね」
「いや」
奎星は上がった手を数えようとして、すぐに諦めた。
「流石だな!」
少しだけ笑う。
目の前で正体不明の男に倒され、目を覚ましたばかりだ。それでも、何かが起きていると分かれば立ち上がる。禍祓官候補生には、そういう勇敢な者が多かった。
「でも、そんないても困る!」
「何やねん」
「お前と、お前と、お前!」
奎星は本当に適当に三人を指差した。
「俺?」
「私?」
「何で俺?」
「目が合ったから!」
「基準それ!?」
「じゃあ、この三人だけついてきて! あとはここで待っててくれ!」
奎星は続けた。
「負傷者は、治療できる奴が治してやってくれ! 何かあったら――」
そこで言葉が止まる。
「……連絡、できねえんだよな」
「魔法通信はな」
蒼真が言った。
「とにかく、すぐ戻る」
奎星は神代榊を握り直した。
*
模擬市街を出ると、扉の向こうには試験開始前に通った審査区画が広がっていた。
「斎賀さん!」
奎星が叫ぶ。
返事はない。
「鷲尾さん!」
やはり、何も返ってこなかった。
副監督用の椅子だけが残されている。斎賀があれほどだらしなく座っていた椅子の脇には、飲みかけらしい紙コップが置かれ、鷲尾が使っていた記録板も机の上に残されていた。
「……置いてった?」
侑李が近づく。
「いや」
奎星は首を振った。
「斎賀さんなら飲み物置いてくかもしれねえけど」
「偏見やろ」
「絶対置いてく」
「そこ確信すんのやめろ」
それでも、やはりおかしい。試験の最中に、監督官が二人とも何の説明もなく消える理由などない。
審査区画から廊下へ出る。誰もいなかった。受付も無人で、ついさっき奎星が受験票を出した受付台には、書類が開いたまま残され、羽根ペンが横へ転がっている。
「……誰もおらへんな」
蒼真の声が静かな廊下へ響いた。
魔法省は、もぬけの殻だった。本当に、一人もいない。
広い廊下も、会議室も、受付も、執務区画も、魔法灯だけが変わらず青白く灯っている。壁際の術式も生きており、自動で動く時計も止まっていない。途中の机では、一枚の書類が宙に浮いたまま、届け先を失ったように同じ場所をゆっくり回っていた。
「……これ」
一緒についてきた受験者の一人が机を指差した。そこには湯気の消えかけた茶がある。
「まだ温かい」
侑李が湯呑みへ手を近づけた。
「ほんの少し前までいたってこと?」
「そうみたいやな」
さらに進んだ先の中央広間で、奎星は足を止めた。
いつ来ても、ここには人がいた。巨大な吹き抜けを囲む回廊、青白い炎を灯した無数の転移扉、嘴に書類を咥えて飛び交う折り鶴、忙しそうに行き交う職員たち。以前ここへ来たときは、奎星へ頭を下げる職員を見つけるたびに調子へ乗っていた。
今日は、誰もいない。
折り鶴だけが飛んでいる。一羽の折り鶴が誰もいない受付机へ書類を置き、しばらく待ったあと、また別の一羽が書類を運んでくる。誰も取らない紙だけが、静かな机の上へ積み重なっていった。
「……気味悪いな」
奎星が呟いた。
誰も返さなかった。
*
一行は一般社会側へ続く地下通路を上り、認識阻害の境界を越えて霞が関へ出た。
奎星は目を細める。
「……いる」
スーツ姿の会社員が歩き、信号を渡る人々が行き交い、スマートフォンを見ながら歩く若者の横を車が走っている。少し離れたところでは、昼休みなのか、紙袋を提げた人たちが話しながら歩いていた。
何も変わっていない。東京は、いつも通りに動いている。
その中で、制服姿の奎星たちだけが立ち尽くしていた。
「普通やな……」
蒼真が小さく言う。
「こっちは何も起きてへんように見える」
「ってことは」
侑李が魔法省へ続く入口を見る。
「魔法省の人間だけ消えた……?」
その言葉に、奎星の呼吸が止まった。
「……スズメちゃん……」
「は?」
蒼真が振り向く。奎星の顔色が変わっていた。
「どうした?」
「蒼真」
「何や」
「みんなのところに戻ろう」
「お、おい!」
奎星はもう歩き出していた。
「蓮根!」
「早いって!」
「急ぐ!」
「一人で行くな言うたやろ!」
「一人じゃねえじゃん!」
「置いていったら一緒や!」
早足は、ほとんど走る勢いになっていた。
「蓮根!」
「分かってる!」
「絶対分かってへん!」
*
模擬市街へ戻った瞬間、待っていた受験者たちが一斉にこちらを見た。
「どうだった!?」
「監督官は?」
「何があった?」
「魔法省には――」
奎星は息を整える間もなく答えた。
「一人もいなかった」
ざわめきが消える。
「……一人も?」
「うん」
「法執行局だけ?」
「見た範囲じゃ、他のところにもいねえ。中央広間も空だった」
「でも」
侑李が続ける。
「少し前まで人がいた痕跡は残ってた。書類も、飲み物も、そのまま」
「地上は?」
「普通や」
蒼真が答えた。
「霞が関は何事もなかったみたいに動いとる」
「じゃあ、魔法使いだけ?」
「まだ分からへん」
「学校は!?」
誰かが叫んだ。
その一言で、空気が一気に変わった。
「俺の学校!」
「先生たちは!?」
「家は!?」
「お、俺も戻る!」
「私も友達が心配……!」
「家族が魔法省勤務なんだ!」
声が重なり、奎星も神代榊を握り直した。
「俺は学校が心配だから、今すぐ戻る」
「俺も!」
「私も戻る!」
「転移門は動いてるのか!?」
「待てや、みんな落ち着け!」
蒼真の怒声が響き、全員が口を閉じた。蒼真は大きく息を吐き、額を押さえる。
「全員一気に喋っても、何も分からんやろ」
「でも!」
「分かっとる!」
蒼真は声を強めた。
「俺かて学校が心配や」
少し間を置いて、全員を見渡す。
「せやからこそ、バラバラになったあとでも連絡取れるようにしとかなあかん」
「連絡?」
蒼真は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「みんなスマホ持ってるやろ。もしもの時のために、連絡先交換しとこ」
「あ……」
何人かが顔を見合わせる。魔法通信が使えないせいで、そちらばかりに気を取られていたのだ。
「一般社会の通信は動いとった」
蒼真が続ける。
「少なくとも地上では普通にスマホ使っとった。魔法通信が駄目でも、こっちは使えるかもしれへん」
「なるほど!」
奎星がスマートフォンを取り出した。
「グループ作ろうぜ!」
「誰か作って」
「俺やる!」
「奎星に任せて大丈夫?」
侑李が言う。
「何で!?」
「僕のこと忘れてたから」
「連絡先は忘れねえよ!」
「そもそも交換してなかったよね?」
「…………」
「親友なのに?」
「ごめんって!」
「まだ根に持ってるやん」
蒼真が呆れた顔をする。
数分後、数十人のスマートフォンへ一斉に通知が飛んだ。
《グループに招待されました》
奎星が画面を確認する。
「できた!」
「名前は?」
「え?」
「グループ名」
「あ」
奎星の指が止まった。数秒考えたあと、入力する。
「禍祓官ズ」
「名前ダサ」
即座に誰かが言った。
「関係ないだろ今!!」
奎星が怒鳴る。
「分かりやすいだろ!」
「候補生や、まだ!」
「細けえな!」
「試験終わってへんねんぞ!」
そこで全員が黙った。
「……試験」
「どうなるんだろ」
「今それ考える?」
「いや、大事ではあるだろ」
奎星が真顔になる。
「俺、ここまで来て不合格とか嫌なんだけど」
「魔法省消えとる時に合否気にすんな!」
「俺めっちゃ勉強したんだぞ!」
「知っとるわ! さっき聞いた!」
「グループ説明欄に《合否情報も共有》って入れとく?」
「お前まで乗んな!」
少しだけ笑いが起きた。ほんのわずかなものだったが、それだけでも張り詰めていた空気は緩んだ。
蒼真は画面を確認してから顔を上げる。
「とにかく、まだ転移門は動いとる。それぞれ学校なり家なり、戻れる場所へ戻るんや」
「うん」
「戻ったら、現状をこのグループへ送る。先生がおるか、大人がおるか、変なことが起きてへんか」
「何か見つけたら?」
「すぐ共有」
「一人で調べるのは?」
奎星が訊く。
蒼真は奎星だけを見た。
「特にお前は禁止」
「何で俺だけ!?」
「今までの行動見て決めた」
「俺、一番強いんだけど!」
「それとこれとは別や!」
「スズメちゃんにも同じこと言われる!」
「ほな言うこと聞け!」
「……努力する」
「一番信用できん返事やな」
*
青白い炎が静かに揺れていた。
魔法交通管理局の職員は一人もいない。それでも、転移門そのものは動いている。愛宕魔法学院、白峰魔法学校、マホウトコロ。各地へ続く炎が、それぞれ変わらず燃えていた。
「じゃ」
蒼真が自分の学校へ繋がる門の前で足を止める。
「向こう着いたら送るわ」
「おう!」
「勝手に突っ走んなよ」
「蒼真まで!?」
「また会おう、蒼真!」
侑李が手を振る。
「お前はもう普通に名前呼ぶんやな」
「友達だから」
「いつなったん」
「今」
「軽いなぁ」
「俺は?」
奎星が訊く。
「親友」
「だよな」
即答だった。
侑李が一瞬止まり、それから笑う。
「やっと認めた!」
「うるさい」
「戦ってる最中にも言ってたけどね」
「覚えてんの?」
「覚えてるよ。僕は人のこと覚えるから」
「根に持つなお前」
「ほなな」
蒼真が少し笑う。
「ああ!」
奎星も手を上げた。
「また!」
蒼真が墨色の制服を翻し、青白い炎の中へ消えていく。他の受験者たちも次々と自分の帰る場所へ向かい、最後に奎星はマホウトコロへ繋がる門を見た。
胸の奥が、嫌な音を立てている。
「行こう」
侑李が隣へ立った。
「……おう」
マホウトコロから来ていた他の受験生たちと一緒に、奎星は炎へ踏み込んだ。
*
光が消えると、潮の匂いがした。
いつもの転移区画。海から来る風。石造りの回廊。奎星は炎を抜けた瞬間、周囲を見回した。
朝、ここには九重院がいた。高宮がいた。土御門がいた。御影がいた。スズメがいた。みんなで自分を送り出してくれた場所だ。
「……校長先生?」
誰かが呟く。
いない。
転移門の前には、いつもなら来訪者を確認する職員や教師がいるはずだった。しかし、そこにいるのは不安そうに集まった何人かの生徒だけだった。
「あ!」
「先輩!」
「魔法省から戻ってきた!」
「先生たち知りませんか!?」
声が飛んでくる。
「先生たちがいないんです!」
「朝まではいたのに!」
「急に!」
奎星の顔が変わった。
「……全員?」
「分かりません!」
「校長先生も?」
「見つからない!」
「御影先生は!?」
「いません!」
奎星は、もうそれ以上聞いていなかった。
「奎星!」
背後から侑李の声が飛ぶ。
奎星は走り出した。転移区画を抜けて回廊へ出る。石床を靴が叩き、何人もの生徒とすれ違った。
「蓮根先輩!」
「何が起きてるんですか!?」
「先生知りませんか!?」
みんな不安そうな顔をしている。いつもなら廊下の端で立ち話をしている教師も、授業へ向かう生徒たちの足音も、職員室から聞こえる声もない。大人の影が、一つも見えなかった。
それでも奎星は止まらない。向かう場所は、最初から一つしかなかった。
階段を上がり、角を曲がる。何百回も通った廊下だった。授業を抜け出して来たことも、補習で呼ばれたこともある。用もないのに訪れたことの方が多く、もう場所を考える必要すらなかった。
「スズメちゃん!!」
扉を開ける。
魔法史研究室から返事はなかった。
「……スズメちゃん?」
誰もいない。
窓から入る風が、机の上の紙を一枚だけ揺らしていた。書きかけの資料、途中で置かれた羽根ペン、開いたままの本。棚にはいつものように、古代魔法史や魔法行政史、何に使うのか分からない分厚い資料が隙間なく詰め込まれている。
机の端には湯呑みがあった。
奎星は近づき、指先で触れる。
「……まだ、あったかい」
少し前まで、ここにいた。間違いなく、ほんの少し前までスズメはこの椅子に座り、資料を書き、お茶を飲みながら、いつも通りの顔で何かを調べていたはずだった。
奎星は研究室を見回した。
「スズメちゃん」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
机も、椅子も、窓辺も、奥の棚も、何度見ても空だった。
「……どこ行ったんだよ」
声が少しだけ掠れた。
そのとき、風が吹いた。机の上の紙が持ち上がり、その下に隠れていた小さなものが、かすかな音を立てる。
ちりん。
奎星の目が止まった。
銀色の星。星灯石のキーホルダー。
二日前の観測塔で、花火の下、二人並んで見たもの。去年の星迎祭で、互いに同じものを買った。記憶を失ったときも、取り戻したあとも、ずっとスズメが持っていたもの。
それが、机の上に置かれている。
奎星はゆっくり手を伸ばした。触れる直前で指が止まる。
「……スズメちゃん……」
星灯石は、持ち主のいない研究室で、ただ静かに淡い光を灯していた。