銀色の星が、机の上で淡く光っていた。
奎星は、その前から動けずにいた。窓から入る風が書きかけの資料を揺らし、紙の端が机を擦る音や、開いたままの本の頁が一枚だけめくれる音を立てている。湯呑みからは、もうほとんど湯気が立っていなかった。
いつもの魔法史研究室だった。いつもと違うのは、そこにいるはずの人がいないことだけだった。
奎星は星灯石へ手を伸ばしかけ、また止めた。
二日前、観測塔でスズメは同じ星を掌に載せていた。
──まだ持ってる。
──……はい。
二人の銀色の星が長椅子の上で並び、来年も、再来年も、その次も、ここへ来ればいい、会えばいいと約束した。
「……スズメちゃん」
返事はない。当たり前なのに、奎星はもう一度だけ扉の方を見た。扉は開かず、廊下から聞こえてくるのは、遠くを走る生徒の足音と、不安そうに誰かを呼ぶ声だけだった。
そのとき、扉の取っ手が動いた。
「!」
奎星が勢いよく振り返る。目が一瞬で明るくなり、「スズ――」と声を上げかけたが、言葉は途中で止まった。
そこに立っていたのは楓だった。その後ろには伊織、岳、日向がいる。四人とも、普段とは違う顔をしていた。
「……奎星」
楓が呼ぶ。
奎星は、まだほんの少しだけ扉の向こうを見ていた。誰かが続いて入ってくるのではないかと、そう思っているように。
「スズメちゃんは……?」
誰もすぐには答えなかった。岳が目を伏せ、それから悲しそうに首を横へ振る。
「消えた……」
「……消えたって?」
奎星の声が、妙に平坦になった。
伊織が眼鏡の奥から奎星を見る。
「……烏丸先生だけじゃない。高宮先生も、土御門先生も」
日向が続けた。
「御影先生もだ」
奎星の顔が止まった。
「……御影先生が?」
「ああ」
神代榊を握る手から力が抜けた。杖を落とすほどではない。ただ、指が緩んだ。
御影まで。
朝、転移門の前で腕を組んで立っていた。頑張れと言ってほしいと騒ぐ自分に面倒そうな顔をして、最後に一言だけ告げた。
──行け。
あれが最後だった。
スズメも、御影も、高宮も、九重院も、土御門も、自分たちを叱る声が一つもない。
奎星は机へ手をついた。身体が重かった。さっき救済者に撃ち抜かれた背中よりも、胸の奥の方が痛い。何も考えられなかった。
朝まであったものが、全部なくなっている。
試験へ行けば、帰ってこられると思っていた。戻れば高宮がうるさく結果を訊き、御影がどうだったと短く聞き、スズメが研究室にいて、いつも通りにそこにいると思っていた。
それが、ない。
学校はある。机もある。星灯石もある。友達もいる。それなのに、自分の周りだけを綺麗に切り取られてしまったような感覚があった。自分のものを、全部失ってしまったようだった。
「奎星」
楓が一歩、前へ出た。奎星は顔を上げない。
「私たち……」
そこで声が途切れた。
奎星がゆっくり顔を上げる。楓と目が合った。
「どうしたらいい……?」
奎星は少し目を見開いた。
水無瀬楓が、いつも誰かが暴走すれば止め、奎星や日向が馬鹿をすれば怒鳴り、何だかんだ最後まで面倒を見る楓が、不安そうな顔をしていた。その後ろの日向も、伊織も、岳も、誰も答えを持っていない。
先生たちがいない。大人がいない。だから、自分たちを見るしかない。
奎星の視線が星灯石から楓へ、日向へ、伊織へ、岳へ、そして研究室の外へ移った。
先生たちは消えた。怖い。スズメがどこにいるのか分からない。御影までいない。さっき自分は、あの男に勝てなかった。何一つ分からない。
でも、だからといって、ここで立ち止まっている場合ではなかった。
「伊織」
「何?」
「校内放送、使える?」
伊織が一瞬だけ奎星を見る。
「多分」
「全員、校庭に集めてくれ」
「…………」
「頼む」
伊織はすぐに頷いた。
「分かった」
「岳、楓」
二人を見る。
「下級生の方を見てきて。混乱してる奴がいたら、一緒に連れてきてくれ」
「分かった」
楓が答え、岳も頷いた。
「見る」
「日向」
「おう」
「俺と来て」
「分かった」
誰も、何をするのかとは訊かなかった。奎星自身、まだ全部は分かっていなかった。それでも、五人は一斉に動き出した。
*
『全生徒へ連絡します』
校内へ伊織の声が響いた。
『現在、校内にいる全生徒は、落ち着いて校庭へ集合してください。繰り返します。全生徒、校庭へ集合してください』
いつもなら教師が使う校内放送だった。廊下に同級生の声が響いていることが、奎星には妙な感じに思えた。
日向と並んで校庭へ向かう。窓の外には、すでに校舎から何人もの生徒が出始めていた。
「なあ」
日向が隣から言う。
「何?」
「どうするつもりだ」
「…………」
「全員集めて」
奎星が日向を見る。
「分かんねえよ!」
「は!?」
「だから、お前と考えようとしてた!」
「バカトップツーで何考えんだよ!」
「バカ言うな!とりあえず明るいお前なら、何か喋れるかと思って!」
「雑すぎるだろ!」
「じゃあ誰を呼べばよかったんだよ!」
「伊織!」
「放送してる!」
「楓!」
「下級生を見に行ってる!」
「岳!」
「楓と一緒!」
「じゃあ俺しか残ってねえじゃねえか!」
「だから呼んだんだよ!」
「消去法じゃねえか!」
日向が頭を抱えた。
「俺、さっきお前が指示を出してるとき、ちょっとかっこいいなって思ったのに!」
「マジ?」
「今ので全部なくなった!」
「何でだよ!」
「そんな感じだったのかよ!」
「どういう感じだよ!」
「ノープラン!」
「これから考えるんだって!」
「全校生徒を待たせながら!?」
「時間はある!」
「ねえよ!」
「奎星!」
廊下の向こうから声が飛んできた。二人が振り向くと、宮本侑李が走ってくる。
「侑李!」
「あ、侑李じゃん」
日向が普通に言うと、侑李は日向を見て眉を寄せた。
「どけ!」
「は?」
「奎星の隣は僕のポジションだ!」
「んだよ……」
侑李は本当に日向と奎星の間へ入り込んだ。
奎星が侑李を指差した。
「俺の親友らしい」
「らしいって何?」
日向が眉を寄せる。
「ついさっきまで本人も認めてなかったんだ」
「認めたじゃん!」
「戦ってる時に」
日向の顔が変わった。
「……戦った?」
「そうそう」
「誰と?」
「救済者」
「誰だよ!?」
校庭までの道すがら、奎星と侑李は魔法省で起きたことを話した。実技試験、蒼真、模擬市街、突然現れた男、未来から救うと言ったこと。そして、全国から集まっていた受験生がほぼ全員倒されたこと。
「……は?」
日向の足が止まりかける。
「俺も」
「お前も!?」
「負けた」
日向の顔から冗談が消えた。
「マジかよ」
「マジ」
「どんくらい強えんだ」
「……めちゃくちゃ」
奎星は短く答えた。
「御影先生みたいだった?」
「違う」
それだけはすぐに答えられた。
「強いけど、違う」
日向はそれ以上訊かなかった。
三人が校庭へ出る頃には、校舎から次々と生徒たちが集まり始めていた。
*
「蓮根先輩!」
「奎星先輩!」
「あ……戻ってた!」
下級生たちの声が聞こえる。
奎星がそちらを見ると、何人もの幼い生徒がこちらを見ていた。さっきまで泣きそうだった子、友達同士で不安そうに手を握っていた子、何が起きているのか分からずきょろきょろしていた子たちが、奎星を見つけた途端、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「蓮根先輩いる」
「よかった……」
「先輩なら大丈夫だよ」
奎星は、その声を聞いてしまった。
「マジかよ……」
小さく呟く。
自分だって、今朝まで御影を見れば大丈夫だと思っていた。スズメがいれば、どこか安心していた。それと同じような目で、後輩たちは自分を見ている。
少し離れたところでは、中級生たちも奎星を見ていた。
星帰り。黒曜の環。マホウトコロ奪還。守護霊。星迎祭の決闘大会。
いつの間にか、下級生たちにとって蓮根奎星は、ただ騒がしい上級生ではなくなっていた。困ったとき、前に立つ人間になっていた。
「……重っ」
奎星が呟く。
「何が?」
侑李が訊いた。
「何でもねえ」
校舎側から楓と岳が戻ってきた。
「奎星!」
「おう!」
「下級生、全員来たと思う」
「中級も確認した」
岳が言う。少し遅れて伊織も校舎から出てきた。
「校内に残ってる生徒はいないはず」
「よし……」
奎星は校庭を見渡した。下級生、中級生、上級生。見慣れた制服が校庭を埋めている。
けれど、教師席はない。九重院も、高宮も、御影も、スズメも、誰もいない。
奎星は一度だけ息を吐き、それから一歩前へ出た。
「みんな聞いてくれ!」
ざわついていた校庭が、少しずつ静かになった。最後には、風と波の音だけが残った。
「みんな分かってると思うけど、先生たちがいなくなった!」
何人かの下級生が俯いた。
「原因は分かんねえ!」
ざわめきが戻りかける。
「でも!」
奎星は声を上げた。
「俺が約束する!」
全員の目が奎星へ集まる。
「絶対に先生たちは取り戻す!」
楓の目が少し開き、伊織も黙って奎星を見た。
「だから、それまでみんなは今まで通り過ごすんだ!」
沈黙の中から、小さな手が上がった。
「……今まで通りって?」
奎星が止まる。
「えーと」
日向が横で口元を押さえた。
「笑うな!」
「笑ってねえ!」
「顔!」
「続けろよ!」
「分かってる!」
奎星は下級生たちを見る。
「まあ、朝起きたら顔洗って!」
下級生たちが瞬きをする。
「歯ぁ磨いて!」
「そこから?」
伊織が小さく言った。
「大事だろ!」
「生活指導から入ると思わなかった」
「で、飯食って! 下級生は体育館に集まって、みんなで授業だ!」
「授業?」
「誰がやるんですか?」
「楓!」
「え!?」
楓が自分を指差した。
「私!?」
「教育管理局だろ?」
「管理局って別に教師じゃないんだけど!」
「教育って入ってんじゃん!」
「行政よ!」
「似たようなもんだろ!」
「全然違うわよ!」
「知るかよ! とにかく頼むぞ!」
「あんたっていっつも!」
下級生たちから、少しだけ笑いが起きた。奎星はそれを聞いて、一瞬だけ口元を緩める。
「中級生は上級生が交代で見る!」
「今決めた?」
伊織が訊く。
「今!」
「誰が何を教えるの」
「あとで決める!」
「奎星は?」
「魔法!」
「それ以外は?」
「…………」
「黙ったね」
「魔法担当!」
「分かった」
「それから飯は……」
奎星が周囲を見回す。大食堂の方、校舎、厨房へ視線を巡らせたとき、校庭の端で小さな影が何匹も集まっているのが見えた。
藍染めの作務衣に小さな名札。その先頭に立っているのは、天ぷらだった。
「天ぷら!」
「レンコン!」
天ぷらが片手を上げる。
「飯、任せていい!?」
天ぷらは一秒も迷わなかった。
「マカセロ!」
「おお!」
奎星が拳を上げる。
「頼りになる!」
「テンプラ!」
「知ってる!」
天ぷらの後ろでは、モンジャやチクワたちも何やら胸を張っている。
「よーし!」
奎星はもう一度、生徒たちを見る。
「分かったら、下級生と中級生は戻ってよし!」
「え?」
「もう?」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫!」
奎星は即答した。
「先生たちは俺らが探す!」
その言葉に、何人かの下級生が顔を上げた。
「だから、お前らは普通にしてろ!」
少し雑で、何の根拠もない言葉だった。それでも、一人の下級生が返事をした。
「……はい!」
次にもう一人が続く。
「はい!」
「分かりました!」
「蓮根先輩、お願いします!」
「任せろ!」
楓が下級生たちの方へ歩いていく。
「ほら、行くわよ。走らない!」
「楓先輩、何の授業するんですか?」
「私が聞きたいわよ!」
「算術」
岳が言った。
「何で勝手に決めるの!?」
「得意そう」
「得意だけど!」
少しずつ、校庭に笑い声が戻っていく。楓と岳を中心に、下級生と中級生たちが校舎へ戻っていった。
奎星はその背中を見送った。最後の一人が校舎へ入った頃、校庭には上級生だけが残っていた。
*
空気が変わった。
さっきまで下級生へ向けて笑っていた奎星の顔から、表情が消える。上級生たちも、それを感じ取っていた。
「……ここからは、ちゃんと聞いてくれ」
奎星は神代榊を抜かなかった。ただ右手で、その柄に触れた。
「俺は今日、禍祓官の実技試験に行った」
誰も喋らない。
「そこで、とある男に会った。そいつは、全国から集まった禍祓官候補生を、みんな倒しちまった」
「え!?」
「全員!?」
「禍祓官の候補生だろ!?」
ざわめきが一気に広がる。
「待って」
誰かが言った。
「蓮根も?」
奎星は、その声の方を見た。
「ああ。俺もやられた」
校庭が静まり返った。
「……嘘だろ」
小さな声が漏れる。
「蓮根が?」
「星迎祭で御影先生とあそこまでやったのに……?」
「星帰りだって……」
奎星は否定しなかった。
「負けた」
はっきりと言った。怖がらせたくないからと、嘘をつくつもりはなかった。
「そいつが先生たちを消したの?」
「分かんねえ」
「どこにいる?」
「分かんねえ」
「何者なんだ?」
「それも、まだ分かんねえ」
何も分からない。それが、今の事実だった。
「ただ」
奎星の目が鋭くなる。
「敵の姿は見た」
全員が黙った。
「顔も知ってる。声も知ってる。戦い方も見た」
あの柔らかな杖の動き。薬指。必要最低限の盾。消えたように錯覚する死角への移動。
「今どこにいるかは分かんねえけど、絶対に見つける」
一拍置いて、奎星は伊織を指差した。
「伊織が!」
「なんで僕なの」
即座に返ってきた。
上級生の何人かが思わず伊織を見る。
「そういうのはお前の仕事だろ」
「どういう仕事?」
「調べるやつ!」
「雑だなあ」
「俺、調べ物苦手なんだよ!」
「知ってるよ」
「だから頼む!」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「……やれやれ」
言いながらも、もう断る顔ではなかった。
「分かった。魔法省、学校、消えた人の共通点。それから今日の時刻」
「頼んだ!」
「あと、君が見た男の特徴を全部聞くから」
「覚えてる!」
「本当に?」
「戦った相手は覚えてる!」
「宮本君は忘れてたのに?」
「それ今関係ないだろ!」
「あるよ!」
少し離れた場所から侑李の声が飛んできた。
「何でお前そこにいんの!?」
「上級生だよ!」
「あ、そうだった!」
「ほら忘れてる!」
小さな笑いが起きたが、すぐに奎星は真剣な顔へ戻った。
「それと、みんなは万が一に備えて戦えるように準備しててくれ」
その言葉に、笑いが消えた。
「戦う……」
「俺たちだけで?」
「でも……」
一人の生徒が俯く。
「先生たちがいないんだろ」
別の声が続いた。
「御影先生もいない」
「九重院校長も」
「それに……」
誰かが奎星を見る。
「蓮根まで負けたんだろ……?」
返す言葉がなくなる。
「俺たちだけで、勝てんのかよ……」
その言葉は、誰か一人だけのものではなかった。校庭にいる全員の顔に、同じ不安が浮かんでいる。
大人がいない。強い先生たちがいない。いつも前に立っていた人たちがいない。そして、その次に強いと思っていた奎星さえ負けた。
勝てるのか。自分たちだけで。
奎星は、生徒たちを見渡した。
一年前、星迎祭の終わった学校で、黒曜の門を通じて神代冥司にマホウトコロを奪われた。自分たちは一度、完全に負けた。校長を奪われ、先生たちも捕まり、学校まで取られた。
あのとき、海を見ながら御影は言った。
今日、俺たちは負けた。奪われた。それを認めて、それでも。
──一度負けたくらいで諦めるような生徒に、育てた覚えはない。
「……俺たちだけじゃない」
奎星が言うと、誰かが顔を上げた。
「全国には、他の学生も残ってるはずだ」
愛宕、白峰、そして今日、魔法省で出会った受験者たち。あの妙な名前のグループには、もう何十人もの学生がいる。
「魔法省で会った奴らとも連絡取れる。みんな、自分の学校に戻った」
奎星は一歩、前へ出た。
「だから、俺たちだけじゃない!」
声が校庭へ響く。
「それに!」
奎星は神代榊を強く握った。
御影はいない。今ここにはいない。
でも、言われたことは残っている。朝五時に叩き起こされたことも、何度も地面に転がされたことも、杖を飛ばされたことも、怒鳴られたことも、全部、自分たちの中に残っている。
「俺たちゃ!」
奎星が叫ぶ。
「一回負けたくらいで諦めるような生徒に育てられてねえ!」
風が吹いた。校庭を抜け、制服を揺らし、海へ抜けていく。
誰も、すぐには声を出さなかった。けれど、一人が顔を上げ、次にもう一人が続いた。俯いていた生徒の手が杖へ触れる。
日向が笑い、伊織が眼鏡を押し上げる。侑李も奎星の隣へ並んだ。
先生たちはいない。何が起きているのかも分からない。敵は強く、自分たちは一度負けた。
それでも、マホウトコロには、御影玄一郎に育てられた生徒たちがまだ残っていた。