黒曜石が完全に砕けた瞬間、第零書庫の空気そのものが引き裂かれた。
久我朔弥の周囲を旋回していた古代文字が一斉に赤黒い光を放ち、床や壁の内部で眠っていた魔力まで強引に引きずり出すように脈動する。地下深くに築かれた巨大な書庫は、数百年ものあいだ動かなかった建物とは思えないほど激しく軋み、並んだ書架や石柱までが小刻みに震え始めた。
「全員、下がれ!」
御影が叫んだ直後、久我の身体から暴風のような魔力が噴き出した。
それは、もはや一つの呪文と呼べるものではなかった。赤黒い炎のような光、刃を思わせる透明な衝撃波、床を這って伸びる黒い蔓、空中で勝手に形を変える無数の古代文字。それらすべてが一つの嵐となり、書架も瓦礫も区別なく巻き込みながら御影たちへ殺到してくる。
御影は迷わず生徒たちの前へ踏み出した。
「プロテゴ!」
杖を大きく振り抜くと、普段の授業で見せていたものとは比較にならない巨大な防壁が半球状に広がった。御影を中心に、楓、岳、伊織、そしてそのさらに奥にいる奎星とスズメまでを完全に包み込む。
次の瞬間、古代魔術の嵐が防壁へ真正面から激突した。
轟音とともに白い盾の表面へ無数の亀裂のような光が走り、その衝撃だけで周囲の床石が次々と浮き上がる。御影は両足を大きく開いて踏ん張り、杖を握る腕へ力を込めた。それでも身体は数十センチ後方へ押し込まれ、靴底が石床を削って二本の跡を残した。
「くっ……!」
防壁の内側にいても、立っていることすら難しかった。爆風に煽られた奎星がよろめくと、同じように傷ついたスズメが咄嗟に腕を回して支えた。しかし彼女自身にも満足に力が入らず、そのまま二人揃って倒れそうになる。
「スズメちゃん!」
「蓮根君、動かないでください!」
「それ、こっちの台詞だろ!」
互いに相手を支えようとしたせいで、どちらがどちらを抱えているのか分からない状態になり、二人は御影の張った防壁の内側へ転がり込んだ。
「何やってんだ、二人とも!」
横から大きな腕が伸びてきた。岳だった。
彼は二人をまとめて抱え込むように支えると、ほとんど力任せに安全な位置まで引きずっていく。
「岳……助かった」
「軽いな、お前ら!」
「今それ言う?」
「二人合わせても俺より軽いぞ!」
「それは岩戸君が大きいんです」
スズメが息を切らしながら返すと、こんな状況にもかかわらず岳は少し傷ついた顔をした。
「烏丸先生まで……」
「岳、喋ってないで二人を寝かせて!」
楓が駆け寄ってくる。伊織もすぐ隣へ膝をつき、それぞれ杖を抜いた。
「先生は私が見ます。伊織、奎星をお願い」
「分かった」
「いや、俺よりスズメちゃんを先に――」
「黙って寝てろ」
伊織が珍しく強い口調で言い切り、奎星の肩へ手を置いた。
「君、さっきから血まみれだからね」
「でもスズメちゃんも――」
「だから楓が見てる」
奎星が横を見ると、楓はすでにスズメの手首へ杖をかざしていた。
「動かさないでください、先生」
「水無瀬さん、私は――」
「先生も黙ってください」
「…………はい」
奎星が思わずスズメを見る。
「怒られてんじゃん」
「あなたのせいでしょう」
「なんで俺!?」
いつものやり取りに戻りかけた、その直後だった。
御影の防壁へ再び巨大な衝撃が叩きつけられ、白い光の膜が大きく撓んだ。
全員の顔から笑みが消える。
防壁の向こうでは、久我が両腕を広げるように立っていた。
もはや、人間一人が放つ魔力には見えなかった。砕けた黒曜石から流れ込んだ古代魔術が、久我の身体を媒介として暴れ続けている。赤黒い文字が皮膚の上を這い回り、両目の周囲にまで墨を流したような紋様が浮かんでいた。
「はは……!」
久我は笑っていた。
苦しそうに身体を震わせながら、それでも目の前に広がる破壊を見て歓喜している。
「素晴らしい……これが、失われた魔術……!」
「制御できていないだけでしょう!」
スズメが叫んだ。
「複数の術式が互いに干渉しています! このまま続ければ、あなた自身も――」
「黙れ!」
久我が腕を振る。
空中に浮かんでいた古代文字が一斉に御影へ向きを変え、赤黒い光線となって防壁へ突き刺さった。
御影の肩が沈む。
「御影先生!」
楓が振り向く。
「こっちを見るな、水無瀬!」
御影は防壁から目を逸らさず怒鳴った。
「治療を続けろ!」
「でも――」
「俺の仕事はお前たちを守ることだ! お前の仕事をしろ!」
楓は一瞬唇を噛んだ。それから、スズメへ向き直る。
「……はい!」
御影の背中を、奎星は黙って見つめていた。
一人だけ前にいる。
誰より危険な場所に立ち、こちらへ飛んでくるものをすべて引き受けている。
あの日、授業で聞いた言葉を思い出した。
――殺さずに止めるほうが難しい。
今の御影は、まさにそれをやっていた。
久我を倒すだけなら、もっと違う魔法も使えるのかもしれない。それでも背後にいる生徒と負傷者を守ることを最優先にし、自分が一歩も退けない場所で盾を張り続けている。
「奎星」
伊織の声に顔を向ける。
彼の杖から淡い光が流れ、奎星の額や腕に刻まれていた細かな傷が少しずつ塞がっていた。クルーシオを受けた後の痺れも完全ではないものの薄れ、指先へ感覚が戻り始めている。
「動けそう?」
奎星は手を握り、開いた。もう一度握る。
「……さっきより全然」
「骨は大丈夫そうだ。ただ、無茶はしないで」
「善処する」
「信用できない返事だな」
その隣では、楓がスズメの手首へ治癒魔法をかけていた。
淡い光が赤紫色の痕を包み、皮膚に残った裂傷が少しずつ塞がっていく。しかし、黒い拘束が食い込んでいた部分だけは、いくら治癒魔法を重ねても黒ずんだ細い線が消えなかった。
楓の眉が寄る。
「……おかしい」
スズメが自分の手首を見る。
「やはり」
「何か分かるんですか?」
「久我先生が使っていた拘束には、黒曜の呪いが組み込まれていました。通常の治癒魔法だけでは完全に取り除けません」
奎星の顔が強張った。
「治らないの?」
「治らないとは言っていません」
スズメはすぐに訂正した。
「専門的な解呪が必要なだけです。今は身体への侵食を止めることを優先してください」
「……本当に?」
「こんな状況で嘘をついてどうするのですか」
「ならいいけど」
奎星はまだ不安そうだったが、スズメの顔色が先ほどより戻っているのを見て、ようやく小さく息を吐いた。
その瞬間、御影が防壁を一度解除した。
「え?」
奎星が目を見開く。
御影は盾を消した直後、久我の次の攻撃が来るまでのほんの僅かな間に杖を突き出した。
「コンフリンゴ!」
爆発の呪文が一直線に飛ぶ。
これまで御影が授業で使ってきた基礎魔法とは比較にならない速度と威力だった。久我の目前で爆発が起こり、赤い炎と黒煙が巨大な花のように広がる。
「うおっ……!」
奎星の目が丸くなる。
煙の中へ御影の杖が再び向いた。
「インセンディオ!」
噴き出した炎が書庫の床すれすれを走り、久我の周囲を取り囲むように立ち上がる。
「ステューピファイ!」
炎の隙間を縫って赤い閃光が突き刺さった。
一つではない。角度を変えながら、続けざまに三発。
奎星が以前から見たがっていたものだった。
派手で、速くて、大きな音がする。まさに魔法使い同士の戦いと聞いて想像していた光景そのものだ。
けれど、今の奎星は笑わなかった。
「……これが」
呟く。
「御影先生の本気……」
スズメが御影を見つめる。
「まだ本気とは限りません」
「マジ?」
奎星が一瞬だけ彼女を見る。
「どんだけ強いんだよ……」
しかし、御影が放った三つの魔法は、どれも久我へ届かなかった。
炎の中で、久我の周囲へ赤黒い古代文字が幾重にも重なり合い、歪な盾のような形を作っている。コンフリンゴの爆発も、インセンディオの炎も、ステューピファイの閃光も、その文字へ触れた瞬間に弾かれた。
「……何だと」
御影の目が細くなる。
弾かれた魔法が書架へ飛び、御影は慌てて杖を返した。
「プロテゴ!」
炎が古書を巻き込む寸前で防壁へぶつかり、霧散する。
だが、その間に久我の古代魔術が再び動いた。
「御影玄一郎!」
久我が腕を振り下ろすと、床に刻まれていた古代文字が赤く染まり、次の瞬間には石床そのものが海の波のように盛り上がった。
「全員、伏せろ!」
巨大な石の波が押し寄せる。
御影が杖を振る。
「デパルソ!」
衝撃。
石の波と現代魔法が正面からぶつかり、第零書庫全体へ凄まじい爆風が広がった。
古い巻物が宙へ吹き上がる。書架から古書が飛び出し、紙片が雪のように舞った。
その中で。
一本の杖が、瓦礫の隙間から浮き上がった。
「……ん?」
奎星が顔を上げる。
見覚えがある。
黒に近い神代榊。炎を思わせる彫刻。鬼火鳥の尾羽。
自分の杖だった。
久我へ蹴って渡し、爆発の際に遠くへ飛ばされていたはずの杖が、爆風に煽られながら宙を舞っている。
一度、大きく回転した。
そして、そのまま奎星の方へ飛んでくる。
「うわっ」
奎星が反射的に右手を出す。
ぱしっ。
杖が掌へ収まった。
「…………」
奎星は自分の手を見る。
それから杖を見る。
「戻ってきた……」
誰も呪文を唱えていない。アクシオでもない。自分で呼んだつもりもなかった。
それなのに、杖は持ち主を見つけたように奎星の手元へ戻ってきた。
神代榊の表面が、ほんの僅かに温かい。
「……お前」
奎星が小さく呟く。
「やっぱ俺のこと好きだろ」
「杖に話しかけないでください」
隣からスズメの声が飛ぶ。
「今そこ注意する!?」
スズメは呆れたように見ながらも、奎星の手へ戻った杖へ一瞬だけ鋭い視線を向けた。
偶然ではない。
そう思っている顔だった。
けれど、考える時間はなかった。
久我の古代魔術が再び御影の盾へ激突する。
御影の身体が後ろへ押される。
「御影先生!」
奎星が立ち上がろうとした。
スズメが腕を掴む。
「蓮根君、駄目です」
「でも!」
「まだ怪我が――」
奎星は御影を見る。
御影も、一瞬だけこちらを見た。
視線が合う。
ほんの数秒にも満たない時間だった。
御影は何も言わなかった。ただ、奎星の右手にある神代榊を見る。次に久我を見る。
そして、ほんの僅かに頷いた。
奎星の目が変わった。
「……先生」
御影はすぐ前へ向き直り、久我の攻撃を防ぐ。
その背中を見た瞬間、奎星の頭の中へ、この一か月が一気に蘇った。
初めて御影にエクスペリアームスを教わった日。
――基礎が最も重要だ。
人形ごと吹き飛ばした。
弱すぎて、杖が一ミリしか動かなかった。
何度も、何度も力を調整した。
――派手なことをやろうとするな。
あのとき、奎星は不満だった。
もっと強い魔法。もっと格好いい魔法。もっと大きな魔法。
そんなものを使えたら、自分は魔法使いらしくなれると思っていた。
そして今、目の前にはそれがある。
床を割る古代魔術。書庫全体を揺らす力。御影の強力な爆発魔法さえ弾く、圧倒的な破壊力。
一か月前の自分なら、きっと目を輝かせていた。
でも、違う。
「……そういうことか」
奎星は杖を握る。
スズメが彼を見る。
「蓮根君?」
「御影先生が言ってたこと」
必要なのは、派手な魔法ではない。
大きな音でも、建物を壊す力でも、相手を殺すことでもない。
止める。
必要なものだけを。
奪う。
雪山で、御影が仲間を救った魔法。
そして、この一か月、奎星が何百回も練習した魔法。
最初の対人魔法。
「岳」
奎星が言う。
「先生を支えてて」
「おう」
岳がすぐにスズメの背中へ腕を回す。
「蓮根君、待ってください」
スズメが奎星の袖を掴んだ。
「何をする気です?」
「大丈夫」
「あなたの大丈夫ほど信用できないものはありません」
「ひどいな」
奎星は少しだけ笑った。
けれど、顔は真剣だった。
「俺、御影先生に教わったから」
スズメが何か言おうとする。
その前に、奎星は立ち上がった。
脚が少し震える。身体中がまだ痛い。クルーシオを受け、爆発に巻き込まれ、治療も完全ではない。
それでも、杖を構えた。
久我を見る。
いや、久我そのものではない。
右手。
暴走する古代魔術の中心。
まだ僅かに形を残しながら、赤黒い光を吐き出し続けている黒曜石。
「……あれだ」
伊織が気づいた。
「久我先生本人じゃない。魔法を供給しているのは、あの石だ」
楓も息を呑む。
「じゃあ、石を手から離せば……」
奎星は頷いた。
久我を吹き飛ばす必要はない。
倒す必要も、殺す必要もない。
ただ、手に持っているものを離させる。
「蓮根!」
御影が叫んだ。
久我が新たな古代魔術を放つ。
御影が防壁を張る。
爆風が巻き起こり、奎星の髪が大きく揺れた。
その向こうに、ほんの一瞬だけ久我の右手が見える。
訓練人形。動く標的。距離。角度。魔力。
一か月の失敗。
一か月の練習。
御影の声。
――狙うのは杖だけだ。人形そのものを飛ばすな。
今は杖ではない。
黒曜石。
そこだけ。
奎星の表情から迷いが消えた。
御影がこちらを見る。
そして、もう一度、ほんの僅かに頷いた。
奎星は神代榊を真っ直ぐ黒曜石へ向けた。
この一か月で、何度も、何度も、何度も撃った魔法。
派手ではない。
人を殺さない。
ただ、相手の手から危険なものを取り上げるための魔法。
奎星は息を吸った。
杖先へ、必要なだけ魔力を流す。
「エクスペリアームス!!」