夜になっても、マホウトコロは静かにならなかった。
教師のいない学校で過ごす、最初の夜だった。廊下を走る足音や、下級生を部屋へ戻そうとする上級生の声、遠くから聞こえる小妖たちの騒がしい声が、消灯時間を過ぎても途切れない。いつもなら少しずつ落ち着いていく学生寮は、今夜に限って、どこか浮き足立ったままだった。
奎星は四人部屋の自分のベッドに腰掛け、スマートフォンの画面を見つめていた。日向と岳はまだ下級生の様子を見に行っており、伊織も夕食のあとに「少し調べる」と言って、どこかへ消えている。部屋にいるのは奎星一人だった。
画面には、昼間作ったばかりのグループが開かれている。
《禍祓官ズ》
「……名前、そんな悪くねえと思うんだけどな」
奎星は小さく息を吐き、指を動かした。
《蓮根奎星:マホウトコロ、先生全員見つかってない》
《蓮根奎星:生徒は多分全員いる》
《蓮根奎星:今のところ他に変なことはなし》
送信すると、既読の数字が一気に増えた。すぐに通知が返ってくる。
《桐生蒼真:愛宕も同じや》
《桐生蒼真:生徒はおる。先生がおらん》
《桐生蒼真:職員室も空》
奎星の表情から、わずかに笑みが消えた。さらに別の受験者たちからも、次々と報告が届く。
《白峰:こっちも教師が見つからない》
《白峰:授業中だった教室にも残っていない》
《白峰:生徒は確認中》
《受験番号34:うちも教師不在》
《受験番号51:同じ》
《受験番号18:校長含め見つからない》
「……やっぱりか」
奎星はベッドに肘をついた。
マホウトコロだけではない。愛宕も、白峰も、今日魔法省に集まっていた候補生たちが戻った先で、同じことが起きている。
《蓮根奎星:家は?》
《蓮根奎星:家族とか、連絡ついた奴いる?》
しばらく間が空いたあと、いくつか返事が届いた。家族と連絡がついた者もいれば、つかない者もいる。魔法使いの家族とは連絡が取れないのに、一般社会で暮らす親とは繋がった者もいた。寮生で、そもそも家族の安否を確認できない者もいる。
報告はばらばらだった。
奎星は眉を寄せ、スマートフォンを膝の上へ置いた。
「分かんねえな……」
教師。魔法省。けれど、霞が関の一般社会は何事もなく動いていた。何が消えて、何が残っているのか。あの男は何をしたのか。そもそも、本当にあの男が原因なのか。
分からない。何も分からない。
昼間、校庭で何度も口にした言葉が、また頭の中へ戻ってくる。原因は分からない。敵が何者かも分からない。それなのに、自分は全校生徒の前で「絶対に先生たちは取り戻す」と言った。
奎星はスマートフォンを少し下げた。
スズメの研究室に残されていた、銀色の星が脳裏に浮かぶ。あのあとも、今も、きっと机の上にある。持ち主のいない部屋で、一人だけ待つように。
「……絶対、見つけるから」
誰に言うでもなく呟いた、そのときだった。
部屋の扉が開いた。
奎星が顔を上げる。
「伊織?」
扉の前に立っていた伊織は、眼鏡の奥の目をいつもより鋭くしていた。
「奎星」
「何?」
「来てくれ」
「どこ?」
伊織は短く答えた。
「御影先生の訓練場」
奎星の指が止まった。
*
「何かあった?」
「見てほしいものがある」
「何?」
「見た方が早い」
「お前、そういう言い方する時、大体ろくなもんじゃねえんだよ」
「安心して」
「何が?」
「今回もろくなものじゃない」
「安心できる要素どこ!?」
二人の足音が夜の廊下へ響いた。人気は少なく、下級生たちはすでに寮へ戻り、上級生たちも交代で見回りに出ている。教師とすれ違わないというだけで、いつもの廊下がやけに広く感じられた。
外へ出ると、海から吹き上がる夜風が制服を揺らした。昼間より冷えた空気に潮の匂いが混じり、奎星は伊織の隣を歩きながら、暗い先に見える訓練場へ目を向けた。
何度も通った道だった。
「……あそこか」
「うん」
御影との朝練に使っている訓練場。奎星が、この一年でおそらく学校の誰よりも地面へ叩きつけられた場所だ。
「俺、あそこなら石の数まで覚えてるかもしれねえ」
「それはちょっと怖いな」
「この辺の石、全部一回は俺の背中を知ってるぞ」
「石側も迷惑だと思うよ」
「御影先生に言えよ!」
言ってから、二人とも少し黙った。
言える相手が、今はいない。
風だけが、二人の間を抜けていった。
*
訓練場には誰もいなかった。魔法灯だけが点き、白い光が広い石床や結界柱、壁際の訓練用人形を照らしている。朝になれば御影が腕を組んで立っている中央も、今は空っぽだった。
奎星は入口で一瞬だけ立ち止まった。
朝五時前の冷たい風。石床に残る露。御影の時計。
──四十八秒遅い。
──誤差じゃん。
──走れ。
それが、もうずっと前の出来事のように思えた。
「……御影先生」
呼びかけても、返事はない。
「こっち」
伊織が先へ進み、奎星も後を追った。訓練場の中央から少し外れた場所で、伊織が足を止める。
「これ」
「ん?」
伊織が石床を指差した。
そこには一本の傷があった。長さは一メートルにも満たない。石の表面が鋭く抉られ、灰色の破片が周囲へ散っている。
奎星はしゃがみ込んだ。
「……こんなの、あったっけ」
「今日できたものだと思う」
「何で?」
「破片の断面が新しい。まだ雨にも潮風にも晒されていない。それに、校内の記録術式を見た。昼まで、ここにはなかった」
伊織も隣へしゃがみ込む。
「先生たちが消える少し前にできた可能性が高い」
奎星の顔から表情が消えた。傷へ指を近づけるが、触れずにじっと見つめる。
「戦ったのかな」
「僕もそう思った」
「……いや」
奎星がすぐに否定したので、伊織が横目で見る。
「違う?」
「これ、戦った跡じゃねえ」
「どうして分かるの」
奎星は答えず、傷を見つめた。
何百回も、ここで戦った。御影のステューピファイを食らい、デパルソで転がされ、杖を飛ばされ、足を払われ、何度も投げられた。攻撃、防御、移動。御影の魔法を、嫌というほど身体で覚えている。
「……深すぎる」
「深い?」
「御影先生なら、こんな削り方はしない」
「戦闘だったなら、加減できなかった可能性は?」
「ない」
奎星は即答した。
「御影先生は、そういう戦い方をしねえから」
指先で傷の縁をなぞりながら、奎星は続けた。
「人を止めるなら、人を止めるだけ撃つ。杖を飛ばすなら、杖が飛ぶだけ撃つ。壁を壊す必要がなきゃ壊さねえ。前からずっとそうだ。魔法が強いからこそ、必要な分しか使わねえ」
遠い夜の記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
百五十年前。藁人形へ魔法を撃つ清弦に、自分が偉そうに言った言葉。
──コップに水をいっぱい入れても、全部ぶちまけるんじゃなくて、いる分だけ。
あれは、自分が御影から叩き込まれたものだった。
必要なときだけ撃つ。必要な分だけ使う。
「それなのに」
奎星は傷へ目を落とした。
「石をここまで抉ってる」
「……つまり」
「わざとだ」
伊織の目が細くなった。
奎星は立ち上がり、周囲を見回した。壁に傷はない。人形も壊れていない。結界柱にも異常はない。石床に刻まれた、この一本だけが不自然に残されている。
「御影先生が外したんじゃない」
奎星の声が低くなる。
「あの人が、ここに当てたんだ」
「何のために?」
「…………」
奎星は傷を見下ろした。
「分かんねえ」
「だと思った」
「お前、ちょっとは期待しろよ!」
「でも」
伊織は傷の端を指した。
「これがヒントなら?」
奎星の口が止まる。もう一度しゃがみ込み、傷を見つめた。
「……ヒント」
「消える直前、御影先生が何かに気づいていたとしたら、僕たちに残せるものがこれだったのかもしれない」
奎星は御影玄一郎のことを考えた。
あの男なら、自分が消えると分かったとき、叫ぶだろうか。助けを呼ぶだろうか。
多分、違う。
残す。次に立つ人間が使えるものを。
「……あの人、そういうことしそうで腹立つな」
「何で腹立つの」
「普通にメモ書けよ」
「時間がなかったんじゃない?」
「じゃあ壁に《霊脈》とか!」
伊織が黙った。
奎星も黙った。
「……え?」
夜風が吹き抜ける。
「今」
伊織がゆっくり言った。
「何て言った?」
「……霊脈」
奎星の手が腰へ伸びた。
神代榊の柄へ触れた、その瞬間だった。
とくん。
「……っ」
奎星の指が止まる。
「どうした?」
「待って」
神代榊を抜く。木肌に刻まれた炎のような模様が、魔法灯の下でわずかに光った。
もう一度、杖が脈打つ。
とくん。
まるで、遠いところで心臓が鳴ったような感覚だった。
「……これ」
「反応してる?」
「ああ」
奎星は神代榊を傷へ近づけた。途端に、脈動が速くなる。
とくん。とくん。
「伊織」
「分かってる」
伊織も杖を抜き、傷の両側へ小さな光点を置いて計測術式を組み始めた。細い文字が石床の上へ浮かび、魔力量、深度、流向を示す数字が高速で切り替わっていく。
「……変だ」
「何が?」
「流れが速すぎる」
「霊脈?」
「多分……いや、違う」
「どっちだよ!」
「流れてる。でも、普通に流れてるんじゃない」
奎星は神代榊を石床すれすれまで下げ、杖から伝わってくるものへ意識を向けた。
昔、鬼火鳥を追ったとき。霊脈の流れを辿ったとき。清弦と山へ入り、何度も土へ触れたとき。神代榊は、地面の下にある魔力へ反応した。強くなり、弱くなり、流れていく。まるで川のようなものだった。
けれど、今は違う。
「……引っ張られてる」
奎星が呟いた。
「え?」
「これ」
目を閉じる。
地面の遥か下で、本来なら島を通り抜けていくはずの魔力が、途中でわずかに向きを変えている。一つではない。細いものも太いものも、何本もの流れが同じ方向へ引かれていた。
「流れてるんじゃねえ」
神代榊を握る手へ力が入る。
「どっかに吸われてる」
伊織の顔が変わった。
「どこへ?」
「分かんねえ」
奎星は目を開いた。
「でも、方向は分かる」
そのとき、奎星のポケットが震えた。
「うおっ」
「なに?」
「びっくりした!」
「電話?」
「LINE」
スマートフォンを取り出すと、桐生蒼真からメッセージが届いていた。
《桐生蒼真:蓮根》
《桐生蒼真:愛宕、なんかおかしい》
奎星の目が止まる。
《蓮根奎星:何が》
すぐに返信が来た。
《桐生蒼真:地脈観測盤》
《桐生蒼真:先生おらんから俺らで見た》
《桐生蒼真:流れがずれとる》
「……伊織」
「見せて」
スマートフォンを渡すと、伊織が画面を確認している間にも通知が届いた。
《白峰:こっちも霊脈がおかしい》
《白峰:観測術式が通常値から外れてる》
《受験番号34:うちも》
《受験番号18:今確認した。流量が落ちてる》
伊織の指が止まった。
「……全国で?」
「待って」
奎星はスマートフォンを取り返し、文字を打ち込んだ。
《蓮根奎星:流れの向き見れる奴》
《蓮根奎星:本来と違う方向に引っ張られてない?》
既読がつく。
一分も経たないうちに、返事が届いた。
《桐生蒼真:引っ張られとる》
《桐生蒼真:何やこれ》
続いて、白峰からも届く。
《白峰:同じ》
《受験番号51:同様》
《受験番号34:こっちもだ》
奎星と伊織は、しばらく画面を見つめていた。通知音だけが夜の訓練場に響き、一件、また一件と、遠く離れた学校から同じ報告が届いてくる。
「……全部」
奎星の口から声が漏れた。
伊織が見る。
「何?」
「全部、同じだ」
その言葉を口にした瞬間、奎星の背中を冷たいものが走った。
*
山。土。真鍮の測定器。百五十年前、木陰に広げた雑な地図。
北。北東。北西。
ばらばらだった線を、自分の指で伸ばした。
──全部、同じとこ向いてね?
「……同じだ」
「奎星?」
「前にもあった」
「何が?」
「霊脈」
奎星は伊織を見る。
「流れをちょっとずつ曲げて、一か所に集めてた奴がいた」
伊織の表情が変わった。
「いつ?」
「幕末」
「…………」
「俺が行った時」
「ああ」
伊織はすぐに納得した。
「そういう意味では、君の昔話は面倒だな」
「俺も今説明しててそう思ったよ!」
「それで?」
「神代以蔵って奴が、関東中の霊脈を一つにまとめようとしてた」
「一つに?」
「支流を少しずつ曲げるんだ。一本なら分かりにくい。でも、それを何十、何百ってやれば」
奎星は足元へ目を落とした。
「最後は全部、一か所に集まる」
伊織も石床へ視線を落とす。
「今回も同じだと?」
「規模が違う」
奎星の声が低くなる。
「今回は、全国だ」
風が止まったように感じられた。
日本中。愛宕。白峰。マホウトコロ。各地から返ってくる報告。本来あるはずの流れが、別の方向へ引かれている。
「全国の霊脈を」
伊織がゆっくり言った。
「一か所へ集めようとしている?」
「多分」
「どこへ?」
奎星は答えようとした。しかし、言葉が出てこない。
どこ。全国。一か所。霊脈。
その言葉が頭の中で何度も回る。
何かを見た。前に。
「……待って」
「何?」
「俺、見たことある」
「何を?」
「地図」
奎星の目が遠くなる。
「日本の地図」
*
魔法省。古い資料。後藤。机の上に広げられた、何枚もの紙。
蓮根清弦。幕末。神代冥司の拠点から押収された資料。
──スズメちゃんが好きそう。
自分は、そんなことを言った。
そして、一枚の紙がめくられた。
墨で描かれた古い地図。北海道から本州、四国、九州まで、日本列島の上を何本もの線が走っていた。
「……あれ」
奎星の呼吸が浅くなる。
「何?」
「魔法省で見た」
「地図を?」
「昔の霊脈の資料だ」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「覚えてる?」
「細かいところまでは」
「君だからね」
「今それ言う!?」
「大事なところ」
「覚えてる!」
奎星は頭を押さえた。
思い出せ。紙。墨。線。何本も。日本中から伸びる流れ。
「……線が」
奎星の声が止まった。
線。集まる。どこへ。
「東京」
伊織が顔を上げる。
「え?」
「東京だ」
奎星は神代榊を握り直した。
「線が集まってた」
「本当に?」
「多分」
「多分?」
「待て、今出てくる!」
「頑張って」
「他人事みたいに言うな!」
奎星は目を閉じた。
地図だけではない。
今日の魔法省。試験。あの男。救済者。必要最低限の盾。何十人もの受験者を倒し、神代榊を飛ばされ、届かなかった。地面へ倒れ、視界が暗くなった。
そのとき、何かを聞いた。
足音。自分から遠ざかる音。
こつ、こつ。
出口とは逆。模擬市街の奥へ。ぼやけた視界の向こうに見えた男の足。それから、冷たい風。
「地下……」
奎星が呟いた。
伊織の目が動く。
「何?」
奎星は返事をしなかった。記憶の底へ手を伸ばす。
気絶する直前、ほんの一瞬だけ、男は自分たちから離れていった。帰るためではない。魔法省の外へ出るためでもない。試験区域の奥、関係者しか使わない場所へ向かっていた。
暗い通路。鉄の扉。霞んだ文字。
《地下》
「……あいつ」
「奎星?」
「あいつ、地下に行った」
「誰が?」
「救済者」
伊織の顔から、完全に表情が消えた。
「確か?」
「倒れる前に見た」
奎星はこめかみを押さえた。
「いや……見たっていうか、ほとんど意識なかった。でも、だから俺、起きたときも言ったんだ」
──地下……。
蒼真に訊き返されても、自分でも何のことか分からなかった。
あれだ。
「思い出した」
奎星の声が掠れる。
「あいつ、試験会場の奥へ行った」
「試験会場の奥に何がある?」
奎星の目が大きく開いた。
今日の光景。模擬市街。その外。魔法法執行局。地下。全国から集められた禍祓官候補生。
なぜ、あの男はあそこへ現れたのか。なぜ、わざわざ試験会場を通ったのか。なぜ、候補生たちを全員倒したのか。
救うため。
違う。
少なくとも、それだけではない。
「……俺らじゃねえ」
伊織が眉を寄せる。
「何が?」
「あいつの目的」
奎星は伊織を見る。
「俺らを倒しに来たんじゃない」
「…………」
「俺らが、そこにいただけだ」
言葉にするたび、頭の中でばらばらだったものが繋がっていく。
全国の霊脈。教師たちの消失。空になった魔法省。試験会場。男が向かった地下。古い日本地図。
「……禍祓官試験の会場に来たのも、偶然じゃねえ」
奎星は神代榊を見た。杖はまだ、弱く脈打っている。地中の魔力に引かれるように、とくん、とくんと。
「魔法省の地下だ」
伊織が息を呑む。
「そこに」
「全国の霊脈へ繋がってる場所がある」
夜の訓練場を海風が吹き抜けた。
御影が残した一本の傷。その下で、本来なら島を通り抜けていくはずの魔力が、遠い一か所へ吸い寄せられている。
そして、その先にいるかもしれない男を、奎星は知っていた。
「アイツ」
神代榊を握る指へ力が入る。
「最初から、それが目的だったんだ」
日本中の地面の下で、誰にも見えない巨大な流れが、今も静かに向きを変え続けている。
すべてが、一つの場所へ。
魔法省の、さらに深い地下へ。