マホウトコロ   作:西野圭吾

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第10話 地下へ

 

「魔法省の地下だと思う」

 

 伊織がそう言った瞬間、談話室の空気が張りつめた。夜もかなり更けており、奎星、伊織、楓、日向、岳、侑李の六人以外に人影はない。窓の外は真っ暗で、遠くから海の音だけが聞こえていた。机の上には、伊織が訓練場から持ち帰った計測結果が広げられている。何本もの細い線と、それぞれの流れを示す矢印。その一部が、本来の霊脈の流路からわずかに曲がっていた。隣には奎星のスマートフォンが置かれ、《禍祓官ズ》の画面に愛宕や白峰をはじめ、全国各地から届いた報告が並んでいる。

 

「順番に説明するね」

 

 伊織は眼鏡を押し上げ、紙の上へ指を置いた。

 

「まず、御影先生が訓練場へ残したと思われる傷。その真下で、霊脈の流れが変わっていた」

 

「御影先生が残したって、確定なの?」

 

 楓が訊くと、伊織は少しだけ首を振った。

 

「確定ではない」

 

「でも、多分御影先生だ」

 

 奎星が言葉を継いだ。「戦った跡じゃねえ。あの人なら、あんな無駄に石を抉る撃ち方はしない」

 

 日向が腕を組む。

 

「お前、それだけで分かるのか?」

 

「分かる」

 

 奎星は即答した。

 

「何回あの人に撃たれたと思ってんだよ」

 

「知らねえよ」

 

「数えたくねえよ、俺も!」

 

「でも石は数えられるんだろ」

 

 岳が淡々と言う。

 

「それは言葉のあや!」

 

「背中を知ってる石」

 

「そこ拾うな!」

 

 張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。伊織は構わず話を続ける。

 

「その霊脈が、本来の流路から何かに引かれている。それを確認した直後、愛宕と白峰からも同じ報告が来た」

 

「全国で?」

 

 楓の表情が変わる。

 

「ああ」

 

 奎星はスマートフォンを手に取った。

 

「で、俺、前にも似たのを見てんだよ」

 

「幕末でしょ」

 

「何で知ってんの?」

 

「さっき伊織から聞いた」

 

「俺の説明を先に取るなよ!」

 

「君の説明だと長くなるから」

 

「何でだよ!」

 

「途中で絶対清弦さんの話をするじゃん」

 

「するけど!」

 

「ほら」

 

 伊織は淡々と頷き、紙の上に描かれた線を見下ろした。

 

「神代以蔵は、関東の霊脈を少しずつ曲げて、一か所へ集めようとしていた。今回はそれと似ている。ただし、規模が全国だ」

 

 さっきまでの軽口が消えた。

 

「全国……」

 

 日向が小さく呟く。

 

 伊織は、奎星が以前魔法省で見たという古い資料についても説明した。日本各地の霊脈らしき線が、東京へ集まっていたという記憶だ。

 

「多分な!」

 

「そこは強調するんだ」

 

「だって間違ってたら嫌じゃん!」

 

「成長したな」

 

 岳が言う。

 

「何目線!?」

 

「昔のお前なら、絶対に『間違いねえ!』って言ってた」

 

 日向が笑った。

 

「俺だって、根拠がない時は多分って言えるようになったんだよ!」

 

「すごい成長ね」

 

 楓まで頷く。

 

「褒められてる気がしない!」

 

「それで」

 

 侑李が話を戻した。

 

「救済者が、試験のあと地下へ向かったんだよね?」

 

 奎星の顔から笑みが消えた。

 

「ああ」

 

 倒れる直前、石畳へ伏せたまま見た光景が蘇る。霞んだ視界の向こうで、男は自分たちから離れるように歩いていた。出口へ向かったのではない。模擬市街の奥へ進み、冷たい風の吹く通路へ消えていった。その先に、鉄の扉があった。

 

「俺らを倒したあと、あいつは外に出なかった」

 

 奎星は低い声で言った。

 

「試験会場の奥へ行った。多分、地下に」

 

 楓がゆっくり息を吐く。

 

「それで、魔法省の地下が怪しいってこと?」

 

「うん」

 

 伊織が頷いた。

 

「断定はできない。でも、今ある情報では一番繋がる」

 

「じゃあ」

 

 奎星は立ち上がった。

 

「今から行こう」

 

「駄目」

 

「早っ!」

 

 楓の返事は一秒もかからなかった。

 

「何で!?」

 

「あんた、本当に今の話を聞いてた!?」

 

「聞いてたから行くんだろ!」

 

「学校はどうするのよ!」

 

 奎星の口が止まった。

 

 窓の外から、見回りをしている上級生の足音が聞こえる。少し離れた廊下では、眠れないらしい下級生を誰かが宥めていた。

 

『大丈夫だから』

『蓮根先輩たちがいるから』

 

 昼間、校庭で聞いた声が脳裏へ戻ってくる。

 

 蓮根先輩がいる。

 先輩なら大丈夫だよ。

 

 奎星は立ったまま、わずかに俯いた。

 

 昔なら、何かを見つけた瞬間に走り出していた。スズメに止められようが、御影に怒鳴られようが、楓に頭を叩かれようが、とにかく先へ行った。誰かが後から追ってくることまで、どこかで当たり前だと思っていた。

 

 でも、今は違う。

 

 後ろに、自分を見る生徒たちがいる。今日、自分で言ったのだ。先生たちは俺らが探す。だから、お前らは普通にしてろ、と。

 

「……そうだな」

 

 奎星が言うと、楓が少し目を開いた。

 

「え?」

 

「学校、空にできねえ」

 

 奎星はもう一度椅子へ座った。

 

「全員では行かない」

 

「……奎星が普通の判断をした」

 

 伊織が呟く。

 

「おい」

 

「いや、本当に」

 

「お前ら、俺を何だと思ってんの!?」

 

「蓮根奎星」

 

 岳が答えた。

 

「答えになってねえよ!」

 

「割となってる」

 

 楓が言う。

 

「なるか!」

 

 奎星は頭を掻き、それから机の上の計測結果へ視線を戻した。

 

「地下なんだろ」

 

「恐らく」

 

「だったら、人数が多すぎても動きにくい。狭いかもしれねえし、何があるか分かんねえ。救済者がいる可能性もある」

 

「いるなら、人数が多い方がよくない?」

 

 日向が訊く。

 

「逆だ」

 

 奎星は首を振った。

 

「あいつ相手に人数だけ増やしても、多分意味ねえ」

 

 模擬市街での戦いが蘇る。全国から集まった候補生たちが、数十人がかりで立ち向かった。それでも男は、一人ずつ必要なだけの魔法を使い、淡々と倒していった。

 

「それに、学校にも戦える奴を残さなきゃ駄目だ」

 

 日向の表情が変わる。

 

「……俺も行くつもりだったんだけど」

 

「知ってる」

 

「じゃあ」

 

「残ってくれ」

 

 奎星は日向をまっすぐ見た。冗談のない目だった。

 

「楓と岳も」

 

「私も?」

 

 楓が訊く。

 

「ああ」

 

「理由は?」

 

「楓は学校全体を見られるだろ。下級生のことも分かってるし、何かあった時にみんなを動かせる」

 

 楓が黙る。

 

「日向は?」

 

「うるさい」

 

「喧嘩売ってんのか!?」

 

「違う!」

 

 奎星は慌てて手を振った。

 

「お前がいると、みんな暗くならねえから!」

 

「それ、褒めてる!?」

 

「めちゃくちゃ褒めてる!」

 

「言い方!」

 

「あと強い!」

 

「先にそっちを言え!」

 

「岳は」

 

「残る」

 

 岳が先に答えた。

 

「まだ何も言ってねえよ」

 

「楓と日向だけだと不安」

 

「何で私まで!?日向だけでいいでしょ!」

 

「お前ら酷くね!?」

 

 岳は少し考えてから、静かに続けた。

 

「それに、何か来た時、俺がいた方がいい」

 

 奎星は頷いた。

 

「頼む」

 

「分かった」

 

 それだけだった。

 

 奎星は三人を見た。自分が行く代わりに、残ってくれと言う。以前の自分なら、そんな判断ができただろうか。分からない。それでも今は、言わなければならない。

 

「絶対、学校を守ってくれ」

 

「……あんたに言われなくても、そのつもりよ」

 

 楓が腕を組む。

 

 日向も頭の後ろで手を組んだ。

 

「帰ってきた時、学校がなくなってたら笑えねえしな」

 

「それ絶対やめて!」

 

「例えだよ!」

 

「縁起でもねえ!」

 

「お前が一番騒ぐな!」

 

「で」

 

 伊織が眼鏡を押し上げた。

 

「行くのは?」

 

「俺」

 

 奎星が自分を指す。

 

「当然だね」

 

「神代榊があるし、あいつが行った道を見てんのも俺だ」

 

「僕も行く」

 

 伊織が言った。

 

「調べる人間は必要でしょ」

 

「おう」

 

 奎星が頷いた。

 

 その瞬間、侑李が口を開いた。

 

「僕も」

 

「…………」

 

 奎星が侑李を見る。

 

「親友だからね」

 

 楓がギョッとした顔で見る

 

「親友なの?」

 

「親友らしい」

 

「らしいってなに?」

 

 変な空気になったが侑李が真面目な顔で話す。

 

「僕は救護ができる」

 

「今日みたいなことになった時、怪我人が出る可能性は高い。拘束もできる。奎星は怪我をしても動く」

 

「褒めてる?」

 

「褒めてない」

 

「即答!」

 

「むしろ欠点」

 

「じゃあ最後はいらなかっただろ!」

 

「だから僕が必要」

 

 侑李は胸を張った。

 

 伊織が静かに言った。

 

「侑李がいるのは助かると思う」

 

「伊織!」

 

「治療できる人間は必要」

 

「そっちか!」

 

「何を期待してたの?」

 

「してねえよ!」

 

 楓が額を押さえた。

 

「もう、その三人でいいんじゃない?」

 

「三人か」

 

 日向が数える。

 

「奎星、伊織、侑李」

 

「戦闘、調査、救護」

 

 岳が言った。

 

「バランスはいい」

 

「俺の役割だけもうちょいかっこよく言ってくんね?戦闘って……」

 

「他に何があるの」

 

「もっとこう……」

 

 奎星は考えた。

 

「主人公?」

 

「じゃあ気をつけてね」

 

 楓が真顔で言った。

 

「楓!」

 

     *

 

 話がまとまると、奎星は再び《禍祓官ズ》を開いた。

 

《蓮根奎星:魔法省の地下を調べに行く》

《蓮根奎星:マホウトコロの霊脈、多分東京方面に引っ張られてる》

《蓮根奎星:他の学校も方向分かる?》

 

 送信して数秒もしないうちに、既読が次々と増えた。

 

《桐生蒼真:遅い》

《蓮根奎星:は?》

《桐生蒼真:愛宕でも確認した》

《桐生蒼真:東京や》

《桐生蒼真:もう魔法省おる》

 

「は!?」

 

 奎星の声が談話室に響いた。

 

「何?」

 

 日向が画面を覗き込む。

 

「蒼真、もう魔法省にいる!」

 

「早っ!」

 

《蓮根奎星:お前一人で行くなって言ったじゃん!!》

《桐生蒼真:お前にだけは言われたないわ》

《蓮根奎星:俺は今ちゃんと相談してる!!》

《桐生蒼真:成長したな》

《蓮根奎星:何で今日みんなそれ言うの!?》

 

 伊織が奎星の手元から画面を覗き込み、続いて届いた報告を確認した。

 

《白峰:こっちも確認》

《白峰:流向は東寄り。東京方面でほぼ間違いない》

《受験番号34:こちらも同じ》

《受験番号18:観測地点二か所で確認。東京方向》

《受験番号51:同様》

 

 北から、西から、南から。離れた場所にいる生徒たちが、それぞれの足元を流れる霊脈を確かめていく。報告を受けた伊織は、近くにあった紙へ簡単な日本列島を描き、各地点から線を伸ばした。北海道、東北、中部、関西、中国、四国、九州。正確な測量図でも完全な観測でもない。それでも、線は一つの場所へ寄っていった。

 

「……気持ち悪いな」

 

 日向が言う。

 

「うん」

 

 伊織も珍しく同意した。

 

 奎星は画面を見つめたまま、訓練場の傷を思い出していた。愛宕からの報告が一つにつながり、今、日本中から同じ情報が届いている。ばらばらだったものが、一本の線になっていく。

 

「東京」

 

 奎星が呟いた。

 

「魔法省」

 

 その時、スマートフォンが震えた。

 

《桐生蒼真:転移門まだ動いとる》

《桐生蒼真:来るなら早めに来い》

《桐生蒼真:いつ止まるか分からん》

 

 奎星は顔を上げた。

 

「行こう」

 

 今度は、楓も止めなかった。

 

     *

 

 転移区画へ向かう廊下には、人影がほとんどなかった。教師がいた頃の夜の学校は、ただ静かなだけだった。今は違う。角を曲がるたび、誰かが立っているはずの場所が空いている。職員室の前を通っても明かりはなく、教師寮へ続く道にも人の気配がない。

 

 それでも、完全な無人ではなかった。

 

「奎星先輩?」

 

 廊下の先から、小さな声がした。下級生が一人、上級生に連れられて寮へ戻るところだった。

 

「どこ行くんですか?」

 

「……ちょっとな」

 

 奎星は足を止めた。

 

「先生を探してくる」

 

 下級生の目が少し大きくなる。

 

「見つかりますか?」

 

 奎星は一瞬だけ黙った。見つかる、と言い切りかけたが、今度は言葉を選んだ。

 

「見つける」

 

 下級生は少しだけ安心したように頷いた。

 

「お願いします」

 

「任せろ」

 

 奎星は笑い、その子が廊下の向こうへ消えるまで見送った。それから、後ろにいる楓たちへ振り返る。

 

「……行くぞ」

 

 転移区画の前で、六人は足を止めた。青白い炎が夜の石壁を照らしている。魔法省へ続く門が、いつまで動いているのかは分からない。

 

「じゃ」

 

 日向が拳を出した。

 

「死ぬなよ」

 

「死なねえよ」

 

 奎星も拳をぶつける。岳は短く言った。

 

「連絡」

 

「取れる限り送る」

 

「無茶しないで」

 

 楓が言う。

 

「わかってるだろ」

 

「だから言ってるの」

 

「分かってるって」

 

 楓は奎星を睨んだ。そこにはいつもの怒りだけでなく、隠しきれない不安も混じっている。

 

「……ちゃんと帰ってきなさいよ」

 

 奎星は少しだけ笑った。

 

「おう」

 

 以前なら、余裕だ、大丈夫だ、絶対勝つ、と軽口を重ねていたかもしれない。今は、ただ頷いた。

 

「学校、頼む」

 

「任せなさい」

 

 楓が答える。

 

 奎星は伊織と侑李を見た。

 

「行くぞ」

 

「うん」

 

「もちろん」

 

 三人で、青白い炎へ足を踏み入れた。

 

     *

 

 最初に聞こえたのは、紙の羽音だった。ぱた、ぱた、と乾いた音が響き、光が消える。奎星が目を開くと、日本魔法省中央広間が広がっていた。昼間と何も変わっていない。何層にも重なる回廊、高い天井、壁一面に並んだ青白い転移炎、届け先のない書類を咥えて飛び続ける無数の折り鶴。職員も受付もなく、床に落ちた紙も昼間に見た位置からほとんど動いていない。

 

 それなのに、奎星には昼とはまるで違う場所に見えた。

 

 あの時は、人を探していた。斎賀、鷲尾、魔法省の職員。何が起きたのかも分からないまま、空っぽになった役所を歩いていただけだった。今は違う。行く場所がある。この下、さらに深いところへ向かうのだ。

 

「……やっぱ気味悪いね」

 

 侑李の声が吹き抜けへ小さく響く。

 

「昼より静かに感じる」

 

「人数が少ないからじゃない?」

 

 伊織が答えた。

 

「あと、目的があるから」

 

「同じ場所なのにな」

 

 奎星は中央広間の奥を見た。

 

「……蒼真、どこだ」

 

「ここや」

 

「うおっ!」

 

 真横から声がして、奎星が飛び上がった。柱の陰から蒼真が姿を現す。

 

「びっくりした!」

 

「そんな驚く?」

 

「無人の魔法省で急に出てくんなよ!」

 

「待っとっただけや!」

 

 蒼真は墨色の制服を着て、杖を腰に差し、片手にスマートフォンを持っていた。

 

「お前、マジで先に来てたのかよ」

 

「言うたやろ」

 

「一人で来んなって!」

 

「愛宕にも人を残してきたわ。俺かて全員連れてきてへん」

 

「誰を残したの?」

 

「上級生中心に何人か。学校のことを見てもろてる」

 

「……じゃあ一緒か」

 

「何が?」

 

「俺も」

 

 奎星は少しだけ胸を張った。

 

「ちゃんと残る奴を決めてきた」

 

 蒼真はしばらく奎星を見つめた。

 

「何その顔」

 

「いや」

 

 蒼真がしみじみと言う。

 

「成長したなぁ」

 

「お前まで言うな!!」

 

 声が巨大な吹き抜けへ反響した。

 

「静かに」

 

 伊織が言う。

 

「何がおるか分からへんぞ」

 

 蒼真も小声になった。

 

「ごめん……」

 

 奎星も声を落とす。

 

 その直後、遠くで一枚の紙が机から落ちた。

 

 ぱさ。

 

 四人が同時にそちらを振り向く。

 

「ただの紙だよ」

 

 侑李が言った。

 

「分かってる!」

 

「今、めっちゃびびったやん」

 

「お前も杖を抜きかけてたじゃん!」

 

「抜いてへん!」

 

「手、かかってた!」

 

「警戒や!」

 

「おい侑李!親友なら庇えよ!」

 

「ただの紙だから」

 

 そんな小声の言い争いをしながら、四人は中央広間を離れた。

 

     *

 

「こっち」

 

 奎星が先頭を歩く。

 

「覚えてんの?」

 

 侑李が訊いた。

 

「今日通ったんだぞ」

 

「昔の地図は曖昧だったのに?」

 

「道と資料を一緒にすんな!」

 

「どっちも記憶でしょ」

 

「身体で覚えてんの!」

 

「緊張感ないなぁ……」

 

 法執行局へ続く回廊を、四人分の靴音だけが進んでいく。昼間は職員の足音や話し声が絶えなかった道も、今は静まり返っていた。壁沿いの魔法灯が近づくたびに淡く明るくなり、通り過ぎるとまた光を落とす。その繰り返しが、かえって道の奥行きを強調していた。

 

「この先」

 

 奎星が言った。

 

 試験区画の受付は昼のままだった。書類が開かれ、羽根ペンが転がり、副監督用の椅子が置かれている。斎賀が座っていた場所も、鷲尾が記録を取っていた場所も、今は誰もいない。

 

 奎星は一瞬だけそちらへ目を向けたが、足を止めずに模擬市街へ続く扉を開いた。

 

 夜の魔法省の中に、昼間と同じ青空が広がる。白い雲がゆっくり流れ、人工の光が街並みを照らしていた。倒れた看板も壊れた壁もそのままで、受験者たちが倒れていた場所だけが不自然に空いている。

 

「ここか」

 

 伊織の声が低くなる。

 

「ああ」

 

 奎星は神代榊へ触れた。男と戦った場所。蒼真が吹き飛ばされた場所。侑李が倒れた場所。そして、自分が最後に手を伸ばした場所。石畳の上には、あの時の感覚がまだ残っているようだった。

 

「蓮根」

 

 蒼真が呼ぶ。

 

「大丈夫か?」

 

「……おう」

 

 奎星は神代榊を抜いた。

 

「行こう」

 

 偽物の街を進む間、誰も喋らなかった。奎星は倒れた時の記憶を辿る。頬が石へつき、視界が暗くなった。男の足が、自分たちから離れていく。

 

「……こっち」

 

 交差点を曲がる。

 

「多分」

 

「多分なん?」

 

「倒れる直前だったんだよ!」

 

「静かに」

 

「ごめん」

 

 さらに奥へ進む。模擬市街の端まで来ると、それまで商店や住宅を模していた壁が途切れ、景色が灰色の通路へ変わった。装飾のない石壁は、明らかに受験者向けではない。

 

「ここ……」

 

 奎星の歩みが遅くなる。冷たい空気が頬へ触れた。昼間、意識が落ちる直前に感じたものと同じだった。

 

 通路の先に魔法灯が一つあり、その下に黒い鉄扉が立っていた。四人の足が止まる。厚い鉄板の表面には幾重もの術式が刻まれ、その上に二枚の表示板が取り付けられている。

 

《関係者以外立入禁止》

 

 その下には、こう記されていた。

 

《魔法法執行局・地下管理区画》

 

「……ここだ」

 

 奎星が呟く。

 

 霞んだ文字、冷たい風、遠ざかる足音。頭の奥で、ばらばらだった記憶がつながった。

 

「俺、これ見た」

 

 奎星は扉を見たまま言った。

 

「あいつ、ここに来た」

 

 蒼真が扉へ近づく。

 

「結界は?」

 

 伊織も杖を抜き、細い光を扉の周囲へ走らせた。

 

「……ある」

 

「開く?」

 

「待って」

 

「触んなよ、蓮根」

 

 蒼真が言う。

 

「触らねえよ!」

 

「今、もう手を伸ばしてたやん」

 

「伸ばしてねえ!」

 

「伸びてたよ」

 

 侑李も頷く。

 

「親友なら庇えよ!」

 

「親友だから止めるんだよ」

 

「正論や」

 

「蒼真は入ってくんな!」

 

 その時だった。

 

 とくん。

 

 奎星が動きを止めた。

 

「どうした?」

 

 伊織が振り向く。

 

 奎星は神代榊を見た。杖が、訓練場で感じたものとは比べものにならないほど強く脈打っている。とくん、とくん、とくん。脈動のたびに、握った掌へはっきりと振動が伝わった。

 

「神代榊……」

 

 蒼真の顔からも軽口が消える。

 

「それ、大丈夫なん?」

 

「分かんねえ」

 

 奎星は神代榊を強く握った。杖は細かく震えているのではない。脈打つたび、奎星の腕ごと扉へ引かれているようだった。

 

「……強い」

 

「霊脈?」

 

「ああ」

 

 奎星が一歩、扉へ近づく。

 

 どくん。

 

 今度は胸の奥まで響いた。地面、壁、その向こう。自分の足元より遥か深い場所で、巨大な何かが流れている。

 

 いや、違う。

 

「ここへ来てる」

 

 奎星はゆっくり神代榊を下げ、石床すれすれに構えた。目を閉じると、マホウトコロで感じたものとは比べものにならないほど大きな流れが伝わってくる。何本あるのか、どれほど遠くから来ているのかは分からない。ただ、すべてが地中を曲がり、何かに引かれ、この場所へ向かっていた。

 

「……やば」

 

 声が漏れる。

 

「何が見える?」

 

 侑李が訊いた。

 

「見えるっていうか……」

 

 奎星は目を開き、鉄扉を見た。

 

「吸われてる」

 

「どこに?」

 

「この向こう」

 

 四人の視線が、一斉に鉄扉へ向いた。

 

「全国から」

 

 奎星の声が低くなる。

 

「霊脈が、ここへ吸い込まれてる」

 

 誰も喋らなかった。魔法灯の淡い光だけが、鉄の表面を照らしている。

 

 蒼真がゆっくり息を吐いた。

 

「……当たりやったみたいやな」

 

「嬉しくねえな」

 

 奎星が返す。

 

 伊織は扉の術式を見つめていた。

 

「封鎖術式の一部が切れてる」

 

「切れてる?」

 

「解除された跡がある」

 

 伊織が杖先を動かすと、鉄扉の縁に青白い文字が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに消えた。

 

「誰かが先に通ってる」

 

 奎星は何も言わなかった。誰かなど、考えるまでもない。

 

「開けるよ」

 

「待って」

 

 蒼真が前へ出た。

 

「俺がやる」

 

「何で?」

 

「盾を張れるから」

 

「俺も張れる!」

 

「お前は神代榊を持っとけ」

 

「……はい」

 

「素直やな」

 

「今それ言う!?」

 

 蒼真が杖を上げる。

 

「何か来たら下がれ」

 

「おう」

 

「特に蓮根」

 

「分かってる!」

 

「ほんまか?」

 

「今日、成長したって言っただろ!」

 

「一日で戻る可能性あるやん」

 

「ねえよ!」

 

 蒼真の前に薄い透明な防壁が立ち上がり、伊織と侑李も杖を構えた。奎星は神代榊を握り直す。

 

 蒼真が鉄扉の取っ手へ手をかけ、力を込める。がちり、と重い音が響き、扉がゆっくり開いた。

 

 その瞬間、冷たい風が吹き上がった。四人の制服が大きく揺れ、奎星は思わず目を細める。

 

 扉の向こうには、石造りの階段が続いていた。壁には一定間隔で小さな魔法灯が灯っているが、その光は十数段先までしか届かず、さらに下は黒く沈んでいる。

 

 どくん。

 

 神代榊が大きく脈打った。

 

「うわっ……!」

 

 奎星の腕が前へ引かれ、侑李が咄嗟に肩を掴む。

 

「奎星!」

 

「大丈夫!」

 

「今、持っていかれそうだったよ!」

 

「分かってる!」

 

 神代榊の模様が淡く光っている。訓練場では心臓のようだった脈動が、ここではもっと速く、もっと強くなっていた。まるで杖そのものが地下へ行こうとしているようだった。

 

 伊織が階段の先を見つめる。

 

「……下だね」

 

「ああ」

 

 奎星は暗闇を見た。救済者、全国から集められていた候補生、消えた大人たち、曲げられた霊脈、御影が残した傷。そのすべてが、この先へ続いている。

 

 怖くないわけではなかった。昼間、自分たちをまとめて倒した男が、この先にいるかもしれない。何が起きているのかも分からず、先生たちがいる保証もない。それでも、後ろには待っている人間がいる。

 

「行こう」

 

 奎星が言った。

 

 蒼真が横へ並ぶ。

 

「先頭、俺」

 

「何でだよ」

 

「盾」

 

「じゃあ俺、その横」

 

「狭いやろ」

 

「まだ階段の幅見てねえじゃん!」

 

「見たら分かるわ!」

 

「僕、真ん中」

 

 侑李が言った。

 

「怪我人が出た時に動けるから」

 

「じゃあ、僕が最後」

 

 伊織も続ける。

 

「後ろも確認する」

 

 奎星は三人を見た。

 

「……なんか、ちゃんとしてるな」

 

「何が?」

 

「パーティーっぽい」

 

「ゲームじゃないよ」

 

「分かってるよ!」

 

 小さな声が階段へ落ちていく。返事はない。暗闇だけが続いている。

 

 奎星は一度だけ振り返った。開いた鉄扉の向こうには無人の模擬市街があり、そのさらに先には空っぽになった魔法省がある。遠く、転移門の向こうにはマホウトコロがあり、楓、日向、岳、そして後輩たちが待っている。

 

 奎星は前を向いた。

 

「行くぞ」

 

 先頭の蒼真が一段目へ足をかけ、続いて奎星、侑李、伊織が階段を下りていく。四人分の足音が重なり、石壁の奥へ吸い込まれていった。

 

 階段を下りるほど、空気は冷たくなっていく。それとは逆に、神代榊は熱を帯びていった。日本中の地面の下を流れていた魔力が、一つの場所へ引かれている。その音を聞くことはできず、その姿を見ることもできない。

 

 けれど奎星の掌の中で、神代榊だけが確かにそれを告げ続けていた。

 

 もっと下へ。

 

 もっと深く。

 

 魔法省のさらに底へ。

 

 四人は、地下へ降りていった。

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