最後の一段を下りた瞬間、足元から階段の感触が消えた。
「……は?」
奎星が立ち止まる。先頭を歩いていた蒼真も同じように足を止めたが、二人の前に広がっていたのは、冷たい石壁に囲まれた魔法省の地下管理区画ではなかった。白く透き通る羊脂玉の壁、空へ反る屋根、開いた窓から差し込む柔らかな光。その向こうには、見慣れた南硫黄島の海まで見えている。
「……学校?」
潮の匂いまでした。けれど、伊織はすぐに首を横へ振った。
「違う。見て」
彼が指した右側では、マホウトコロの回廊が途中で途切れ、その先に巨大な吹き抜けが広がっていた。何層にも重なる回廊を折り鶴が飛び交い、青白い転移炎が壁を照らしている。
「魔法省中央広間や」
蒼真が目を見開いた。
マホウトコロの羊脂玉の床と、魔法省の石床は境目なく繋がっていた。さらに先の階段を一つ上がると、今度は別の学校の廊下が現れる。壁に刻まれた校章を見て、蒼真が息を呑んだ。
「愛宕や。ここ、愛宕の校舎や」
その横の階段を上がれば、白峰魔法学校の名が刻まれた壁が現れた。侑李が振り返ると、四人が降りてきたはずの階段はすでに消え、代わりに見知らぬ家の玄関がそこにあった。靴が並ぶ上がり框の奥からは、夕食の匂いが漂っている。ところが玄関を一歩横へずれると、そこは再び魔法省の回廊だった。
学校、魔法省、誰かの家、見知らぬ教室、見覚えのある廊下。曲がるたびに場所が変わり、窓の外に南硫黄島の海が見えたかと思えば、次の窓には知らない街の夕暮れが映る。昼間の教室と夜の庭が同じ壁を共有し、木造の廊下を進んだ先に魔法省の石床が続いている。距離も方角も、時間さえも意味を失っていた。
それでも、そこにあるのはどれも人が暮らしていた場所だった。
「……気持ち悪」
奎星が呟くと、伊織は周囲を警戒しながら杖を抜いた。
「空間が繋がっている、という感じでもない」
「じゃあ何だよ」
「分からない」
「またそれかよ」
「分からないものは分からない」
「今はその正論いらねえって!」
「静かに」
蒼真の低い声に、三人が口を閉じた。
足音ではない何かが聞こえた。どこからともなく、穏やかな声が響く。
『ようこそ』
四人の杖が同時に上がった。声は近くも遠くもなく、天井からでも床からでも壁からでもない。この奇妙な世界そのものが喋っているようだった。
奎星の顔が険しくなる。
「……救済者」
『ここは、常若の庭(とこわかのにわ)』
『僕が、君たちのために用意した世界だ』
「どこにいんだ!」
奎星が叫んでも、返事はなかった。代わりに、遠くの学校で鐘が鳴る。マホウトコロのものなのか、愛宕のものなのか、白峰のものなのかも分からない。
『ここなら、君たちはいつまでも子供でいられる』
どこかの教室の扉が開いた。
『学校へ行って』
知らない家の窓に灯りが点る。
『友達と笑って』
魔法省の折り鶴が頭上を横切る。
『好きなものを見つけて、失敗して、怒られて、また明日を迎える』
声はどこまでも優しかった。
『もう、その先へ行かなくていい。大人になる必要はない。ここから、いつまでも子供でいられる』
海の匂い、畳の匂い、古い本の匂い。学校で何度も嗅いできた匂いが混ざり合い、風となって通り過ぎていく。奎星は神代榊を握り締めた。
「先生たちは!?」
声が止まる。
「スズメちゃんは! 御影先生は!? 学校の先生も、魔法省の人も、どこにいる!」
しばらくして、救済者の声が返ってきた。
『大人は、彼らの役割を果たしている。安心するといい』
その瞬間、奎星の横を人影が通り過ぎた。見覚えのある長衣に気づき、奎星が振り返る。
「高宮先生!?」
高宮だった。いつもの服装で何冊かの資料を抱え、マホウトコロの廊下を歩いている。そのさらに向こうでは土御門が教室へ入り、別の階段から早瀬が下りてくる。魔法生物用の道具を持った鷹司が、廊下の角へ消えていった。
「……いた」
侑李が息を呑む。
「先生たち……」
「スズメちゃん」
奎星の目が変わった。
「スズメちゃん!」
「奎星!」
伊織が呼んだが、もう遅い。奎星は走り出していた。
「おい、蓮根!」
蒼真の声も聞かず、侑李が後を追う。
マホウトコロの廊下は知っている道だった。いや、知っているはずだった。さっきまで魔法省だった場所を曲がった先にいつもの階段があり、訓練場への分かれ道、大食堂へ続く回廊、教師区画が次々と現れる。身体が勝手に道を選んでいた。
「スズメちゃん!」
羊脂玉の床を蹴り、教室を一つ通り過ぎる。廊下の向こうに、魔法史研究室の扉が見えた。何百回も開けた、いつもと同じ扉だった。
奎星は取っ手へ飛びつき、勢いよく扉を開けた。
紙と古い本、乾いた墨の匂いがした。机の上には資料が積まれ、壁際の棚には本が隙間なく並んでいる。その机の向こうに、スズメがいた。
黒い髪。白い指。資料へ向けられた横顔。椅子の横に積まれた本。何度も見てきた、いつものスズメだった。
「……スズメちゃん」
奎星の声は小さかった。
スズメが顔を上げる。瞳が奎星を捉え、瞬きをし、胸が上下する。手も動いている。生きている。奎星が机まで駆け寄ると、スズメは彼を見て言った。
「授業に戻ってください」
奎星の足が止まった。
「……え?」
スズメはもう奎星を見ていない。資料へ視線を落とし、淡々と続けた。
「渡す書類なら、そこに置いておいてください」
「いや、違う! 俺! 奎星!」
「学生は授業に戻ってください」
奎星の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「スズメちゃん……?」
「学生は授業に戻ってください」
同じ声。同じ高さ。同じ速さ。表情は変わらない。
奎星はスズメの前へ回り込んだ。
「こっち見て」
瞳が動き、奎星を見る。確かにスズメの瞳だった。怒っているときも、呆れているときも、笑いを堪えているときも、心配しているのを隠そうとしているときも、奎星はその目を何度も見てきた。けれど、今そこにあるのは何もない。
「俺、今日試験行ってたんだよ」
「学生は授業に戻ってください」
「魔法省でさ」
「授業に戻ってください」
「また無茶した」
「授業に戻ってください」
「怒んねえの?」
「授業に戻ってください」
奎星の指が机の縁を強く掴んだ。
違う。絶対に違う。こんなとき、スズメならまず顔を見て怪我を探し、勝手なことをしたのかと問い詰めるはずだった。奎星が「スズメちゃん」と呼べば、いつものように「烏丸先生です」と訂正するはずなのに、それすらない。蓮根君、と呼ぶこともなかった。
顔は同じだった。瞳も、頬も、髪も同じで、目の前へ手を伸ばせば指先には体温があった。呼吸もしている。脈もある。どこからどう見ても烏丸スズメだった。
それなのに、そこから発せられるものだけが、一つ残らず彼女のものではない。
まるで、精巧に作られた人形だった。
『蓮根奎星』
救済者の声が響く。
『君の好きな先生とも、ずっと一緒にいられる』
スズメは無表情のまま資料へ視線を落としている。
『卒業する必要もない』
机の上の資料。研究室。スズメ。毎日ここへ来て、授業を受け、補習をし、くだらないことで怒られる。夕食の鐘が鳴り、明日も来る。明後日も、来年も。何も変わらない。
ずっと。
「……ふざけんな」
低い声に、スズメが顔を上げる。
「学生は授業に戻ってください」
「それを」
奎星は顔を上げた。
「スズメちゃんに言わせんな」
扉の向こうから足音が聞こえた。侑李が駆け込んできて、その後ろから伊織と蒼真も研究室へ入ってくる。
「勝手に走るなって!」
「見つけた」
奎星が言うと、三人の表情が変わった。
「スズメちゃん、いる」
侑李がスズメを見る。
「……烏丸先生?」
「学生は授業に戻ってください」
侑李の顔が止まった。伊織は何も言わず、しばらくスズメを見つめている。
「……奎星」
「ああ」
「これ」
「分かってる」
奎星は机から手を離した。
「スズメちゃんじゃねえ」
スズメの瞳が奎星へ向く。奎星は一瞬だけ苦しそうな顔をしたが、すぐに言い直した。
「……いや」
目の前の身体を見つめる。
「スズメちゃんだ」
声が低くなる。
「だから、取り戻す」
*
研究室を出ると、同じ光景がいくらでも繰り返されていた。
「土御門先生!」
侑李が廊下で声をかける。土御門は振り返った。いつもの穏やかな顔だった。
「先生、僕が分かりますか?」
「学生は授業へ戻ってください」
「僕、宮本侑李です」
「学生は授業へ戻ってください」
侑李の笑顔が消えた。
少し離れた場所では、蒼真が愛宕の教師へ声をかけていた。教師は立ち止まり、何かを返す。蒼真がもう一度問いかけても、三度目に声をかけても、ほとんど同じ返事しか返ってこない。
「……あかんな」
蒼真が戻ってくる。
「何言うても、決まったことしか返さん」
伊織も高宮の前から戻ってきた。
「高宮先生も同じ」
「何て?」
「授業へ戻れって」
「高宮先生ならもっと怒るだろ」
「うん。君を見たら、多分最初に怒鳴る」
「だろ?」
「そこ嬉しそうにするところじゃないけど」
「今は怒鳴られたいんだよ!」
言ったあと、奎星の顔から笑みが消えた。
廊下を歩く教師たちは、教室へ入り、資料を運び、授業を続けている。誰も立ち止まらず、救済者の言葉通り、それぞれの役割を果たしていた。けれど、それだけだった。呼びかけても、触れても、名前を呼んでも、決められた答えしか返ってこない。
「……これで安心しろって?」
奎星が神代榊を握る。
「こんなの、先生じゃねえだろ」
その瞬間、神代榊が脈打った。
「……!」
奎星が杖を見る。もう一度、今度は先ほどより強く脈動した。
「反応した?」
伊織がすぐに近づく。
「ああ」
奎星は目を閉じ、周囲の景色を意識から外した。マホウトコロ、愛宕、白峰、魔法省、知らない家。そのすべてを無視し、神代榊が拾っているものだけへ意識を集中する。
地面など存在しないように見えるこの世界にも、流れはあった。いや、ここだからこそ、はっきり分かる。全国から集められた何本もの巨大な霊脈が、この奇妙な空間を満たしながら、さらに一つの場所へ向かっている。
「……分かる」
奎星が呟いた。
「何が?」
「場所」
伊織が顔を上げる。
「霊脈が向かってる先」
奎星が神代榊を持ち上げると、杖先が勝手に一つの方向へ引かれた。
「こっちだ」
「待って、奎星」
「行く」
「だから待って」
「待てねえ!」
奎星が走り出した。
「奎星!」
侑李の声が追い、伊織も走り出す。
「またそれか!」
「さっき成長した言うてたやろ!」
「今それ言うな!」
四人は複雑に入り組んだ世界を駆けた。マホウトコロの廊下を走っていたはずが、角を曲がれば魔法省になり、階段を下りれば愛宕、扉を開けば知らない家の居間、その奥の襖を開けばまたマホウトコロへ戻る。それでも奎星は迷わなかった。神代榊が進むべき方向を示している。脈動は、進むほど強くなっていった。
「そこ!」
廊下の先に人影が現れた。高宮だった。
「蓮根」
奎星の足が一瞬だけ緩む。
「止まりなさい」
「……その喋り方も違う!」
高宮が杖を上げる。奎星も神代榊を振り抜いた。赤い光が正面へ走り、高宮の杖だけを弾く。身体には当てない。必要な分だけ。御影から何度も叩き込まれた通りに。
「ごめん、高宮先生!」
奎星は横を抜けた。
次に現れたのは土御門だった。
「蓮根君。授業へ戻ってください」
「嫌だ!」
杖が動く。奎星は足を止めず、飛んできた魔法を防壁で逸らし、そのまま神代榊を振った。
「デパルソ!」
土御門の身体が傷つかない程度の力で、進路の横へ押し退けられる。
「マジでごめん!」
後ろでは侑李たちも教師たちを相手にしていた。早瀬、鷹司、さらに別の教師たちが、景色の変化に合わせて次々と現れる。
「学生は戻りなさい」
「教室へ戻ってください」
「授業時間です」
「戻りなさい」
同じような声。同じような表情。
「うるせえ!」
奎星が叫び、早瀬の魔法を低く潜る。神代榊を振り抜くと、鷹司が前へ出た。盾を避け、横へ抜ける。止まらない。
「奎星! 先行きすぎ!」
侑李の声が聞こえた。
「追いつけ!」
「無茶言わないでよ!」
「蓮根!」
蒼真の声も重なる。その直後、後ろで魔法の音がいくつも響いた。
奎星が振り返ると、侑李の腕へ拘束の光が絡みついていた。
「侑李!」
「大丈夫! 行って!」
伊織の進路にも二人の教師が立ちはだかり、蒼真は防壁を張ったまま、さらに別の教師たちに囲まれている。
「先行け、蓮根!」
「でも!」
「ええから行け!」
蒼真が盾を一段広げた。
「こっちは何とかする!」
奎星は歯を食いしばり、前を向いた。神代榊が強く脈打つ。もう近い。
「絶対追いつけよ!」
「誰に言うてんねん!」
奎星は再び走った。後ろで魔法の音が続き、教師たちの声や侑李、蒼真、伊織の声が少しずつ遠ざかっていく。
廊下の先で光が薄くなり、人影が一つ浮かび上がった。
奎星の足が止まる。
大きな身体。黒灰色の長衣。広い肩。左頬の傷。見間違えるはずがなかった。
道の中央に、御影玄一郎が立っていた。
「……御影先生」
御影は答えない。
二人の間には十メートルほどの距離がある。何百回も向かい合った距離だった。まだ日も昇りきらない朝の訓練場、冷たい石床、四十八秒遅い時計、誤差じゃん、走れ――その記憶が、身体の奥から蘇る。
「御影先生」
もう一度呼ぶ。
御影が口を開いた。
「戻りなさい」
奎星の顔が止まった。
後ろから足音が聞こえる。伊織たちがどうにか教師たちを抜けてきたらしい。
「奎星!」
侑李が呼んだ直後、さらに後ろから教師たちが追いついた。侑李の腕へ拘束が絡み、伊織の進路を高宮が塞ぐ。蒼真が盾を張るが、その外側を別の教師たちが囲んだ。
「くそ……数、多すぎやろ……!」
「奎星!」
伊織が叫ぶ。
「前!」
奎星が振り返ると、御影はまだ同じ場所に立っていた。
「戻りなさい」
奎星の眉が震える。
「どけよ……!」
「戻りなさい」
「……戻りなさいだぁ?」
奎星はゆっくり後ろへ下がった。一歩、二歩と距離を取り、御影を見つめる。御影は追ってこない。ただ奎星を見ている。その目も、立ち方も、肩の位置も、全部知っている。あまりにも御影玄一郎だった。
だからこそ、奎星の声は怒りで震えた。
「御影先生はなぁ、そんな話し方はしねえんだよ!」
御影の表情は動かない。
御影なら、戻れ、それで終わる。あるいは黙れ、走れ、行け。短くて、ぶっきらぼうで、説明が足りなくても、必要なことだけは絶対に言う。
「早く戻りなさい」
「戻らねえ!」
奎星は神代榊を握り締めた。
「先生たちを取り戻す!!」
「戻りなさい」
同じ返事が返る。一切、揺れない。
御影の右手が腰へ動いた。
奎星の身体が、頭で考えるより先に反応する。自分の右手も腰へ走った。御影が杖を抜く。見慣れた動作だった。何度も、何百回も、その杖が上がる瞬間を見てきた。だからこそ、相手がどれほど強いのかを誰よりも知っている。
「奎星!」
侑李の声が飛ぶ。
奎星は神代榊の柄へ手をかけたまま、まだ抜かなかった。
「……あんたとは戦いたくない」
御影は杖を下げない。
「ならば戻りなさい」
奎星は目を閉じた。一度、大きく息を吸い、ゆっくり吐く。朝の訓練場で何度も繰り返した呼吸だった。焦るな。相手を見ろ。杖だけを見るな。足、肩、手首、撃つ前を見る。
全部、この人に教えられた。
奎星は目を開いた。
そこにいるのは御影玄一郎だった。身体も、顔も、杖も、恐らく魔法も同じだ。けれど、先生ではない。
「……じゃあ」
神代榊を抜く。木肌の炎模様が淡く光った。
「戻してやるよ」
奎星は杖を構え、御影も静かに杖先を上げた。
二人の距離は十メートル。いつもの距離だった。けれど、今までとは何もかもが違う。
背後では侑李たちが教師に取り押さえられている。その向こうでは、マホウトコロと愛宕と白峰と魔法省が一つに重なり、さらにその隙間から誰かの家の灯りが覗いていた。授業の鐘が鳴り、どこかで食器の音がする。折り鶴が飛び、海風が吹く。
すべてが穏やかだった。
子供たちが、いつまでも同じ明日を迎えるために作られた世界。その中心で、蓮根奎星と御影玄一郎が互いへ杖を向けていた。
常若の庭には、いまだかつてないほどの緊張が漂っていた。