先に動いたのは、御影だった。
「ステューピファイ」
「プロテゴ!」
赤い閃光と白銀の防壁が正面から衝突し、常若の庭を揺るがす轟音が響いた。奎星の腕は一撃で痺れ、防壁の中央には亀裂が走る。神代榊を握った右手だけでは支えきれず、左腕まで添えたが、それでも靴底は床を滑り、一歩、二歩、三歩と後退した。
「うそだろ……!」
防壁が砕ける。奎星は横へ飛び、直後に御影の杖から放たれた衝撃が身体のすぐ脇を通り抜けた。羊脂玉の壁が爆ぜ、白い破片が飛び散る。さっきまで学校だった廊下の一部が大きく抉れたが、御影はそれを気にする様子もなく、間髪入れずに次の呪文を放った。
「インペディメンタ」
「っ、プロテゴ!」
斜め下から迫った魔法を、奎星は咄嗟に盾で受け止める。だが、盾を出した瞬間、その上からさらに赤い閃光が重なった。
「ステューピファイ」
「ちょ――」
速い。というより、止まらない。
「奎星!」
背後で侑李が叫ぶ。奎星は盾を捨てるように解除し、床へ身体を投げ出した。頭上を赤い光が走り、転がった勢いのまま片膝をつく。そこへ、もう杖が向いていた。
「エクスペリアームス」
「くっ……!」
神代榊を両手で握り、飛んできた衝撃を受け止める。肩が抜けそうなほどの力に、奎星は歯を食いしばった。
「何だよそれ……! いつもより殺意高すぎんだろ!!」
御影は答えない。その顔には怒りも苛立ちもなく、朝練で奎星がくだらないことを言ったときに浮かぶ、あの眉間の皺さえなかった。ただ奎星を止めるためだけに、杖を上げている。
「戻りなさい」
「嫌だっつってんだろ!」
奎星が神代榊を振る。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が走った。御影は手首を僅かに返す。
「プロテゴ」
たったそれだけで、奎星の魔法は弾かれた。光が散るより早く、御影の杖が盾の横から覗く。
「やべ――」
「デパルソ」
衝撃が胸へ直撃した。奎星の視界が跳ね、背中から床へ叩きつけられる。肺の中の空気が一気に押し出された。
「奎星!」
「行くな、侑李!」
伊織の声が飛ぶ。侑李がこちらへ踏み出そうとしたが、その前へ土御門が立ちはだかった。
「学生は授業へ戻ってください」
「退いて!」
さらに後ろでは、蒼真の防壁へ高宮たちの魔法が立て続けにぶつかっている。
「こっちはええ! 蓮根、前見ろ!」
「分かっ……てる!」
奎星は床へ手をつき、痛む身体を起こした。御影の杖先がこちらを向いている。十メートル。いつもの距離だった。
違うのは、朝の海風がないことだけだった。
いや。
違う。
全部違う。
奎星は口元の血を袖で拭った。
強い。
そんなことは、誰よりも知っていた。御影玄一郎が強いことなど、今さら驚くようなことではない。星帰りを成功させても、神代冥司を倒しても、学校を取り戻しても、禍祓官試験まで辿り着いても、朝になれば奎星はこの男に地面へ転がされた。
ステューピファイは防がれる。エクスペリアームスは切られる。インカーセラスは避けられる。デパルソを撃てば、その前に自分が飛ぶ。一年間、何百回も、嫌になるほど繰り返してきた。
その強さを知っているのは、頭ではなかった。
腕が知っていた。脚が知っていた。肩が知っていた。背中が知っていた。御影玄一郎に叩きつけられた身体の全部が、この人がどれだけ強いかを知っている。
「ああ……」
奎星の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
本当に、この人は強いな。
御影先生。昔言ったけど、俺、あんたみたいになりたいんだよ。
魔法を知って、まだ二週間しか経っていなかった頃、スズメの研究室で、何も知らずにそう言った。それから時間が経ち、御影の過去も、失敗も、傷も、弱さも知った。それでも、まだ同じことを思っている。
俺、まだ御影先生みたいになりたいよ。
だから。
「……負けてらんねえよな」
奎星が立ち上がる。御影が杖を向けた。
「戻りなさい」
「戻らねえ」
「戻りなさい」
「しつけえ!」
御影の肩が動いた。奎星の目がそこへ向く。杖ではない。肩、足、指、呼吸。以前なら光が出てから避けていたが、今は違う。御影に何百回も叩き込まれた。
相手の杖だけを見るな。
「そこ!」
御影の呪文より先に、奎星が横へ跳ぶ。赤い光が横を通過し、奎星は床を蹴った。
「エクスペリアームス!」
御影の杖が下がる。防ぐ。分かっていた。
「インカーセラス!」
二発目の銀色の縄が横から走る。御影が半歩下がって避ける。そこも分かっていた。
「デパルソ!」
「プロテゴ」
衝撃が盾へぶつかり、御影の身体が初めて後ろへ滑った。
「……!」
伊織が目を見開く。
「押した……」
「まだ!」
奎星は走った。御影が盾を解除する。その瞬間へ向けて、杖を振る。
「ステューピファイ!」
赤い光が走った。御影は首を傾け、頬のすぐ横を光が抜ける。
外した。
いや、奎星の杖はもう次へ動いていた。
「エクスペリアームス!」
御影の杖は弾かれなかった。手首だけで耐えた。
「嘘だろ!?」
「遅い」
「……っ」
奎星の目が見開かれる。だが、御影は今、何も言っていなかった。聞こえたのは、奎星の頭の中に蘇った声だった。
遅い。立て。走れ。相手を見ろ。考えろ。
朝の訓練場で積み重ねてきた言葉が、身体の中から勝手に蘇ってくる。
「分かってるよ!」
奎星が叫ぶ。御影が杖を振った。
「ステューピファイ」
「遅え!」
今度は完全に避けた。御影の眉が、ほんの僅かに動く。
「……え」
奎星の足が止まりかけた。その一瞬を、御影は逃さなかった。
「デパルソ」
「うおっ!」
咄嗟に盾を張る。衝撃で奎星は吹き飛びながら身体を捻り、どうにか足から着地した。靴底が長く床を擦る。
「危なっ……!」
「奎星!」
「大丈夫!」
叫び返しながら、奎星は御影を睨んだ。さっきの眉の動きは気のせいかもしれない。だが、考えている暇はなかった。
御影が前へ出た。
「……え?」
奎星の顔が変わる。御影が距離を詰めてくる。今までとは違う。一歩、二歩と進みながら、杖を撃ってくる。
「インペディメンタ」
「っ!」
避ける。
「ステューピファイ」
「プロテゴ!」
盾が砕ける。
「エクスペリアームス」
「ぐっ……!」
神代榊が手の中で暴れた。奎星は必死に握り込む。
「離すかよ!」
御影がさらに踏み込む。
「デパルソ」
「うおおおっ!」
奎星は正面から盾をぶつけた。光と衝撃が爆ぜ、廊下の窓が一斉に割れる。その向こうにあったのは海ではなかった。見知らぬ家の夕食風景が一瞬だけ映り、次の瞬間には愛宕の校庭へ変わる。
常若の庭そのものが、二人の魔力に揺さぶられるように景色を切り替えていた。
「何やねんあれ……!」
蒼真が盾越しに叫ぶ。
「御影先生、あんな戦い方するん!?」
「しない!」
奎星は即座に答えた。その声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
「……しない」
御影の杖が上がる。奎星はその手を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
やっと、はっきりした。
訓練場に残っていた傷。深すぎた傷。御影なら、あんな撃ち方はしない。人を止めるなら、人を止めるだけ。杖を飛ばすなら、杖が飛ぶだけ。壊す必要のない壁は壊さない。魔法が強いからこそ、必要な分しか使わない。
なのに、今の御影の周囲はどうだ。床は割れ、壁は抉れ、柱には焦げ跡が残り、外れた魔法がいくつもの景色を破壊している。
「……違う」
奎星が呟く。
御影がこちらを見る。
「何だよ」
奎星は笑った。
「やっぱ違うじゃん」
「戻りなさい」
「御影先生は、こんな戦い方しねえよ」
返事はない。
「そりゃ強えよ。めちゃくちゃ強え。身体も魔法も、多分ほとんど御影先生そのままだ」
奎星は神代榊を構えた。
「でも、お前」
御影の向こう、この世界のどこかで聞いている救済者へ向けて言う。
「御影先生が強いってことしか知らねえだろ」
空間が静まった。背後ではまだ魔法が飛び交っている。それでも奎星には、目の前の御影しか見えていなかった。
「強くて、怖くて、俺を何回でもぶっ飛ばせる先生。多分、そういう御影先生を作ったんだろ」
「戻りなさい」
「でも知らねえ」
奎星が一歩前へ出る。
「俺にどうやって魔法を教えたか」
御影の杖先が上がる。
「俺が何回倒れて、何回立たされて、何を見ろって教えられて、どう戦えって言われたか」
奎星はさらに一歩進んだ。
「お前は知らねえ」
御影が撃つ。
「ステューピファイ」
奎星はもうそこにいなかった。身体を低く沈め、左へ抜ける。
「本物の御影先生はな!」
神代榊を振る。
「俺に!」
御影が防ぐ。
「自分と戦う方法まで!」
もう一撃。
「全部教えてんだよ!!」
赤い光が白銀の盾を砕いた。御影が一歩下がり、奎星も反動で二歩下がる。二人の間へ、細かな光が雨のように落ちた。
御影が杖を構え、奎星も構える。ほぼ同時だった。
「ステューピファイ!」
「ステューピファイ」
二本の赤い閃光がぶつかり、爆発した。風が吹き荒れ、奎星は思わず目を細める。御影の口からも、珍しく息が漏れた。
奎星の目が大きくなる。
押せている。
ほんの少しだけ。
「うおおおおおお!!」
神代榊を握り締める。赤い光が太くなり、反対側から御影の魔力が押し返してくる。重い。まるで山を押しているようだった。腕が震え、肩が焼け、掌が痛む。それでも退かない。
御影も退かなかった。
二つの魔法が中央で弾け、二人は同時に後ろへ吹き飛んだ。奎星は転がり、片手をつく。御影も数歩よろめいた。
「……はっ……」
奎星が荒く息を吐く。御影の肩も上下していた。
初めてだった。朝練で、訓練で、何度も向き合ってきた。それでも、ここまで御影を消耗させたことはなかった。
「……やっと」
奎星は立ち上がる。
「同じくらい疲れてんじゃん」
御影も杖を上げた。
「戻りなさい」
「まだそれ言うのかよ……」
二人の制服はぼろぼろだった。奎星の頬には血が滲み、御影の長衣にも何か所か焦げ跡がある。距離は再び十メートル。最初と同じだったが、二人ともすでに息が上がっていた。
御影が撃つ。奎星が避ける。奎星が返し、御影が防ぐ。一発、二発、三発。攻撃、防御、武装解除、拘束、押し出し。どちらも決定打を入れられない。
奎星は御影を知っている。御影の身体には、それを上回るだけの技術が染みついている。だが、救済者の作った御影は奎星を知らない。その僅かな差だけで、奎星は食らいついていた。
「くっそ……!」
魔法が交差する。御影の頬の横を奎星の光が抜け、奎星の袖を御影の呪文が裂いた。もう一度、また防がれる。また避ける。終わらない。
「……これ」
伊織が息を切らしながら呟いた。高宮の攻撃を防ぎつつ、二人を見る。
「決まらない……」
「どっちも相手の動き読んどる!」
蒼真が叫ぶ。
その通りだった。このままでは、ずっと続く。奎星にも分かっていた。神代榊を握る手が痛み、指が痺れている。御影も同じはずなのに、杖先はまだ下がらない。
どうする。どうやって、この人を。
そのとき、奎星の頭の中へ声が蘇った。
――相手の杖だけを見るな。
奎星の目が、ゆっくり神代榊へ落ちる。
杖。魔法。ずっと、そればかりだった。御影と戦うなら、杖で勝つ。魔法で勝つ。いつかこの人を魔法で倒す。そう思っていた。
「……いや」
奎星が小さく笑う。
「別にいいじゃん」
御影が動いた。
「ステューピファイ」
「っ!」
奎星は避けた。そして、神代榊を投げ捨てた。
「――は?」
侑李が固まる。
神代榊が宙を回った。黒い木肌と炎の彫刻を淡い光が包み、杖は御影の右側へ飛んでいく。御影の目がほんの一瞬だけ動き、杖を追った。
奎星はそれを見逃さなかった。
「――そこだ!!」
床を蹴る。全力だった。
御影の目が戻る。遅い。十メートルは魔法使い同士なら長いが、走れば短い。
「蓮根――」
御影の杖が奎星へ向く。けれど、もう懐へ入っていた。
「うおおおおおお!!」
肩からぶつかる。御影の身体が浮き、二人まとめて床へ転がった。羊脂玉、魔法省の天井、知らない家、愛宕の空、また羊脂玉。景色が何度も回る。
奎星は御影の長衣を掴み、逃がさないように体勢を入れ替えた。御影の腕を押さえ、胸の上へ跨る。
「捕まえた……!」
「……っ」
「はぁ……っ、はぁ……!」
御影も荒く息をしている。二人とも動けなかった。魔法の音が遠くなり、奎星の耳には自分と御影の呼吸だけが残る。肺へ入る空気が痛く、額から落ちた汗が御影の長衣へ染みを作った。
「……勝った」
奎星が息の間から言う。
「俺……勝ったぞ……」
御影は答えない。
「見たか……御影先生……」
「奎星!」
伊織の声だけが鋭く響いた。奎星が振り返る。
「何――」
「杖!」
伊織が指差していた。
奎星の顔から血の気が引く。倒れた御影の右手には、まだ杖が握られていた。押さえ込まれたまま肘だけを曲げ、杖先が奎星の胸へ向いている。
「奎星!!」
避けられない。距離はなく、盾もない。神代榊は投げ捨てたままだった。
御影の指が動く。
奎星の身体が固まった。
だが、何も起きなかった。
「……え?」
杖先は奎星へ向いたまま、御影の腕が震えている。ほんの僅かに、その手がゆっくりと開いた。
からん。
杖が床へ落ちた。乾いた音が、常若の庭へ響く。
奎星は動けなかった。御影が目を閉じ、長く、深く息を吐く。
「……重い」
「…………」
奎星の目が大きくなる。
「うるせえ……!」
「離れろ……」
「黙ってろ……!」
御影の眉間に皺が寄った。
「それが教師に対する口の聞き方か」
奎星の呼吸が止まった。
その言葉、その声、その顔。ぶっきらぼうで、短くて、不機嫌そうで、説明が足りない。それなのに、死ぬほど知っている。
奎星はゆっくり上体を起こし、御影と目を合わせた。さっきまで何も映していなかった瞳が、今は明らかに奎星を見ている。
「……御影先生?」
御影は数秒、何も言わなかった。荒い呼吸を整えながら、奎星の顔を見ている。口元の血、破れた制服、焦げた袖、それから少し離れた床に転がっている神代榊。御影の眉間の皺が深くなった。
「……世話かけたな」
「…………」
奎星の顔が崩れた。
「御影先生!!」
「うおっ――」
奎星はそのまま御影へ抱きついた。
「おい!」
「御影先生!!」
「分かった! 離れろ!」
「マジで御影先生!?」
「うるさい!」
「御影先生だ!!」
「だから離れろ!」
奎星は離れなかった。御影の長衣を両手で掴み、ほとんどしがみつくように抱き締めている。
「重いと言っている!」
「うるせえ!!」
「さっきから何だその口は!」
「戻ったぁぁぁ!!」
「聞け!」
侑李が呆然と二人を見つめる。伊織は杖を構えたまま、ゆっくり息を吐いた。蒼真は防壁の向こうで笑う。
「……戻ったな」
その瞬間、常若の庭から音が消えた。
風も、鐘も、どこかの家から聞こえていた食器の音も、一瞬だけすべてが止まる。
『…………』
救済者の声が響いた。今までと同じ静かな声だったが、初めて、そこに僅かな驚きが混じっていた。
『御影玄一郎……』
御影が顔を上げる。奎星も振り返った。
常若の庭そのものが、二人を見ている。
『恐ろしい精神力だ』
御影の目が、鋭く細められた。