『恐ろしい精神力だ』
救済者の声が、常若の庭へ静かに落ちた。御影の目が鋭く細められる。
「……何だ、こいつ」
奎星はまだ御影の長衣を掴んだまま、周囲を見回した。
「さっきから偉そうに人ん家みたいに喋って――」
「蓮根」
「何?」
「退け」
「え?」
「重い」
「今それ!?」
御影が奎星の肩を押す。
「いつまで乗ってる」
「あ、いや、だって御影先生が戻ったから!」
「戻った。だから退け」
「もうちょい喜べよ!」
「何をだ」
「俺が勝ったこと!」
「調子に乗るな」
「勝ったじゃん!」
「杖を捨てて体当たりしただけだろうが」
「勝ちは勝ちだろ!」
「奎星!」
伊織の声に、奎星が振り返った。数メートル先では高宮が杖を上げ、その横に土御門、早瀬、鷹司、さらに愛宕の教師たちが並んでいる。さっきまで動きを止めていた大人たちは、今や一斉にこちらへ顔を向けていた。
「学生は授業へ戻ってください」
「戻りなさい」
「教室へ戻ってください」
同じ声、同じ目。その中で、御影だけが明らかに異質だった。
「……そうだった」
奎星は御影から飛び退いた。
「まだ全員いるんだった!」
「今さらか!」
蒼真の防壁へ赤い光が叩きつけられ、透明な壁が大きく揺れる。
「御影先生!」
奎星は神代榊を探して首を回した。少し離れた羊脂玉の床に黒い杖が転がっている。その手前で、からん、と乾いた音がした。御影が自分の杖を拾ったのだ。
御影は膝へ手をつき、一度だけ身体を揺らした。
「御影先生?」
「……問題ない」
「いや、どう見ても問題あるだろ!」
長衣は焼け、肩は裂け、頬には奎星との戦いでついた傷が残っている。息もまだ整っていない。何より、ほんの少し前まで奎星と本気で魔法を撃ち合っていたのだ。それでも御影は立ち上がった。いつものように、奎星の前ではなく、その後ろへ向かって。
「蓮根」
御影が高宮たちのほうへ歩き始める。
「教師たちは俺に任せろ」
「……え」
奎星の手が止まった。御影は杖を下げたまま、ぼろぼろの長衣を引きずりながらも、足取りだけは真っ直ぐに進んでいく。
「でも先生、その身体――」
「聞こえなかったか」
「聞こえたけど!」
「なら行け」
「えっ」
奎星は、神代榊が示していた先へ目を向けた。御影が立っていた、その向こうには霊脈の流れが続いている。救済者がいる。
「……アイツは……」
奎星が言いかけると、御影は足を止めずに答えた。
「奴はお前に任せた」
「…………」
奎星は御影を見つめた。けれど御影は、奎星の方を見ていなかった。目の前には、自分と同じように意思を奪われ、ただ役割だけを繰り返している教師たちがいる。御影はその教師たちへ杖を向けた。
「榊」
「はい!」
「宮本」
「はい!」
「桐生」
「お、おう!」
「下がってろ」
「いや、俺らも――」
「邪魔だ」
「言い方!」
蒼真が思わず叫んだ。
高宮が杖を振る。
「ステューピファイ」
御影の手首が僅かに動き、薄い盾が赤い光を逸らした。無駄のない、小さな防壁だった。奎星には分かる。さっきまでとは違う。壁を壊さず、床を抉らず、必要なところに必要なだけ魔法を使っている。それは、御影玄一郎の戦い方だった。
「……ああ!」
奎星は床へ転がっていた神代榊へ走り、拾い上げた。掌へ戻った瞬間、杖が強く脈打つ。
どくん。
まるで、進めと促すようだった。
「御影先生!」
奎星は一度だけ振り返った。
「絶対あとで来いよ!」
「さっさと行け!」
「はい!」
奎星は走り出した。
*
後ろで魔法の音が響いている。けれど、追ってくる足音はなかった。御影が止めているのだと分かっていたから、奎星は振り返らずに神代榊を握り締めたまま走った。
羊脂玉の廊下を抜け、角を曲がると、魔法省の中央広間が現れた。折り鶴の群れが頭上を飛び、次の瞬間には消える。床が畳へ変わり、知らない家の居間が広がった。夕飯の匂い、湯気の立つ味噌汁、どこかで誰かが笑う声。奎星は襖を開け放つ。
「邪魔!」
その先には愛宕の階段があった。二段飛ばしで駆け上がり、扉を蹴るように開けば、今度は白峰の廊下へ出る。神代榊が再び脈打った。
「こっちだろ!」
右へ曲がる。景色が変わる。教室、知らない学校、玄関、庭、魔法省、マホウトコロ。常若の庭は奎星を迷わせるように何度も姿を変えたが、神代榊だけは迷わなかった。全国から集められた霊脈が、この先へ流れている。奎星はその流れを追い続けた。
やがて、激しく切り替わっていた景色が少しずつ静かになっていった。人の声が減り、食器の音が消え、鐘も鳴らなくなる。海の匂いさえ薄れていった。
「……何だよ」
奎星は走りながら眉を寄せた。壁から飾りが消え、教室の札が消え、窓の外の景色もなくなっていく。最後には、ただ白い回廊だけが残った。
羊脂玉にも似ている。けれど、マホウトコロではない。継ぎ目のない白い床と壁がどこまでも続き、その下を青白い光が無数に走っていた。霊脈だった。
「……うわ」
奎星の足が僅かに緩む。一本や二本ではない。幾筋もの霊脈が床下を走っている。太いもの、細いもの、強く光るもの、淡く明滅するもの。そのすべてが同じ方向へ吸い込まれていた。
日本中から。
マホウトコロから。
愛宕から。
白峰から。
どこかの山から、町から、森から。
ここへ。
神代榊が熱を帯びた。
「……もうちょいだな」
奎星は息を切らしながら笑った。
「待ってろよ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。スズメか、御影か、学校で待っている後輩たちか。あるいは。
「救済者」
奎星は前を睨んだ。
「今度こそ逃がさねえからな」
回廊の先に扉があった。何の飾りもなく、取っ手さえない。白い壁の中に、ただ一本の線だけが引かれている。奎星が神代榊を持った手を近づけると、杖がまた脈打った。
どくん。
扉が開いた。
*
風が吹いた。奎星は目を細める。その風には潮の匂いも土の匂いもなかった。
目の前には、広い場所が広がっていた。空なのか天井なのかも分からない淡い白の上に、薄い夕暮れのような光が広がっている。床は円形で、その下を無数の霊脈が光となって走り、すべての線が中央へ集まっていた。
その中心に、一人の男が立っている。
白い服。穏やかな顔。模擬市街で何十人もの候補生を一人で倒した男だった。
奎星の足が止まる。
「……見つけた」
男がゆっくり振り返った。その表情は、あの時と同じだった。
「やあ」
「やあ、じゃねえよ」
奎星が神代榊を構える。
「先生たち元に戻せ」
「御影玄一郎は、自分で戻ったよ」
「じゃあ全員戻せ!」
「それはできない」
「何でだよ!」
「必要だからだ」
「何に!」
奎星の声が広い空間へ反響する。男はすぐには答えず、奎星の杖、破れた制服、血のついた頬を一つずつ確かめるように見た。
「……君と少し話したくてね」
「……あぁ?」
「そんな顔をしないでくれ」
「するだろ! 学校の先生全員を変な人形みたいにして、日本中の霊脈を吸って、俺らを閉じ込めて、御影先生まで操ってた奴と何を仲良く話せってんだよ!」
「仲良くする必要はないよ」
「じゃあ何だよ」
「知ってほしい」
男は小さく笑った。
「なぜ僕が、ここを作ったのか」
「……興味ねえ」
「君には、あると思う」
「ねえよ」
「君は僕に似ているから」
奎星の眉が動いた。
「は?」
男が一歩こちらへ歩く。奎星は即座に神代榊を上げた。
「それ以上来んな」
男は足を止めた。
「反応も似ている」
「何がだよ」
「僕も昔、マホウトコロの生徒だった」
奎星の目が僅かに動く。男の背後で、白い空間へ色が滲んだ。羊脂玉の回廊、授業へ向かう生徒たち、教師の声、笑いながら走る少年たち。その中に、一人だけ立っている生徒がいた。
顔は今より幼い。けれど、目の前の男だと分かる。
「僕は、伊吹」
男が言った。
「昔、そう呼ばれていた」
「伊吹……」
「君と同じだよ」
伊吹は、自分の過去を眺めるように景色を見た。
「魔法を覚えるのが早かった。失敗しても、次には直せた」
少年が一つ呪文を成功させ、続けて別の魔法を使う。周囲の生徒たちが驚き、景色の中の少年へ誰かが肩を組んだ。
『天才』
どこからともなく、その言葉が聞こえた。奎星の表情が僅かに曇る。何度も聞いた言葉だった。
「……それが何だよ」
「嬉しかったよ」
伊吹は静かに言った。
「できることが増えるのは楽しかった。誰かに頼られるのも嫌いじゃなかった」
景色が変わる。少年だった伊吹が少しずつ大人になり、制服が禍祓官の装いへ変わっていく。
「だから、禍祓官になった」
火の中から子供を抱き上げ、崩れた建物の前へ防壁を張り、倒れた魔法使いを救い、暗い森で誰かを庇う。景色が次々と変わっていった。
「人を助けた」
伊吹の声は穏やかだった。
「僕は強かったから」
そこに自慢する響きはなく、ただ事実を読み上げているようだった。
「人よりできた。だから、人より多く任された」
任務、報告、次の任務、また次の任務。知らない大人たちの声が重なる。
「君ならできる」
「伊吹なら大丈夫だ」
「頼む」
「君しかいない」
「任せた」
一つ一つは信頼であり、期待だった。だから断れなかった。景色の中の伊吹は、いつも前にいた。
奎星は黙って見ていた。胸の奥に、何かが引っかかっている。
「……それで?」
「ある日、大きな魔法災害が起きた」
景色が暗転した。次の瞬間、轟音が響き、奎星の身体が反射的に強張る。空が赤い。巨大な魔法が崩れ、建物が砕け、人々が逃げている。場所も時代も分からない。ただ、あまりにも多くの人間がいた。
悲鳴、火、崩落、魔法の光。その中央を、若い伊吹が走っている。
「百人以上いた」
伊吹が言った。
「僕は、できる限り助けた」
防壁を張り、人を運び、瓦礫を退け、また走る。一人、十人、何十人、百人。助けられた人々が、伊吹へ声をかける。
「助かったよ」
伊吹は笑った。とても静かな笑みだった。
「百人以上」
「……じゃあ」
「でも」
景色の中で、伊吹の足が止まる。崩れた場所に、一人の人影があった。顔は見えない。ただ、伊吹と同じくらいの年齢の男だった。
伊吹はその人へ走り、手を伸ばす。
届かない。
景色が消えた。
「一人だけ、助けられなかった」
奎星は何も言わなかった。
「学生の頃からの親友だった」
伊吹の声は変わらない。怒ってもいない。泣いてもいない。
「百人以上を救ったんだ」
長い沈黙のあと、伊吹は続けた。
「皆、そう言った」
――よくやった。
――お前がいなければもっと死んでいた。
――仕方がなかった。
――一人で百人以上救った。
声が幾重にも重なる。その中央で、若い伊吹だけが動かなかった。
「でも、僕には分からなかった」
伊吹が奎星を見る。
「百人助ければ、一人を失ってもいいのか」
「…………」
「百人と一人を比べて、百人のほうが多いから成功だったと笑えばいいのか」
奎星の指が神代榊の上で僅かに動く。
「俺は……そんなこと」
「分かっている」
伊吹が遮った。
「君はそんなことを言わない」
「じゃあ」
「だから怖いんだ」
奎星の顔が止まる。
「君は背負う」
「……は?」
「できるから」
伊吹の瞳が奎星を見ている。
「強いから。才能があるから。誰かを助けられるから」
学校の校庭、黒曜の環、崩れたマホウトコロ、星迎祭、幕末、魔法省。奎星自身の記憶に似た景色が、一瞬ずつ白い空間へ浮かんでは消えていく。
「君ならできる」
伊吹が言った。
「そう言われる」
蓮根先輩がいるから。先輩なら大丈夫。今日聞いたばかりの声が、奎星の中で蘇った。
「そして君も、応える」
奎星の眉が寄る。
「……違う」
「何が?」
「俺は――」
「何人守れば満足する?」
「は?」
「一人?」
伊吹が一歩進む。
「十人?」
また一歩。
「百人?」
「……何の話だよ」
「百人守ったあとで、一人を守れなかったら?」
奎星の奥歯が噛み合う。
「次は?」
伊吹の声は優しかった。
「もっと強くなる?」
「…………」
「もっと速くなる?」
「…………」
「もっと間違えないようにする?」
奎星の顔が僅かに揺れた。
「そしてまた、できることが増える」
伊吹は言う。
「そのぶん責任も増える」
誰かに期待され、誰かに頼られ、誰かを守る。失敗し、傷つけ、失う。
「大人になるというのは、そういうことだ」
「……違うだろ」
「何が違う?」
「全部だよ」
奎星の声が低くなる。伊吹は首を傾げた。
「僕にはいなかった」
「何が」
「止めてくれる人が」
奎星が黙る。
「無茶をするなと言ってくれる人も」
朝の訓練場で聞いた、御影の声が蘇る。
――走れ。
「責任と原因を混同するな、と教える人も」
奎星の目が僅かに大きくなる。
「自分の力をどう使えばいいのか、何度でも身体へ叩き込んでくれる人も」
御影。あの男の背中が浮かんだ。
「僕は一人で強くなった」
伊吹は言った。
「強くなれてしまった」
そこに、初めて小さな苦笑が混じる。
「だから、一人で背負った」
「…………」
「背負えてしまった」
それが、この男をここまで連れてきたのだ。奎星はようやく理解した。救済者と名乗る理由を。
「最初は、死なせない方法を探した」
伊吹が掌を開く。床下の霊脈が明るくなった。
「次は、失敗しない方法を」
光が一本、また一本と中央へ集まる。
「別れない方法を」
常若の庭のどこかで、学校の鐘が鳴った気がした。
「老いない方法を」
知らない家、夕食、家族、ずっと同じ夜。
「死なない方法を」
伊吹の目が奎星へ戻る。
「でも、違った」
「……何が」
「未来へ進むから、失うんだ」
奎星の表情が消えた。
「大人になるから、責任を持つ」
「…………」
「責任を持つから、失敗する」
「…………」
「生き続けるから、別れる」
「…………」
「時間が進むから、老いる」
伊吹は静かに笑った。
「そして最後には、死ぬ」
常若の庭には、同じ学校、同じ教室、同じ先生、同じ友達がある。明日も、明後日も、来年も何も変わらない。失わない。卒業しない。大人にならない。
「だから止めればいい」
伊吹の声が、広い空間へ溶けていく。
「未来を」
「…………」
「子供でいる時間を、永遠にすればいい」
「それが……」
奎星は周囲を見た。床の下を流れる無数の霊脈が、淡い光を放っている。
「常若の庭……」
「そう」
伊吹は頷いた。
「ここでは誰も、大人にならない」
「…………」
「責任を負う必要もない」
「…………」
「取り返せない失敗もしない」
「…………」
「好きな人と別れる必要もない」
奎星の瞳が揺れる。研究室、黒い髪、机の向こうのスズメ。
『卒業する必要もない』
奎星の手へ力が入った。
「老いることもない。死ぬこともない」
伊吹は奎星を見た。優しい目だった。本気で、心の底から、自分が正しいと信じている目だった。
「もう、僕のような人間を出さない」
声が小さくなる。
「君たちは、ずっと子供でいいんだ」
沈黙が落ちた。奎星は俯き、伊吹は待った。神代榊の光だけが、奎星の指の隙間から漏れている。
「蓮根奎星」
伊吹が穏やかに呼ぶ。
「君は、もう十分頑張った」
奎星の肩が僅かに動く。
「未来へ進まなくていい」
「…………」
「これ以上、強くならなくていい」
「…………」
「これ以上、誰かを背負わなくていい」
御影、スズメ、楓、日向、岳、伊織、侑李、蒼真。学校で待っている後輩たち。笑っている顔も、怒っている顔も、泣いている顔も、すべてが奎星の中へ浮かんだ。
「怖いだろう?」
伊吹が訊いた。奎星は答えなかった。
「いつか失うかもしれない」
「…………」
「君が間違えれば、誰かが死ぬかもしれない」
「…………」
「君自身が死ぬかもしれない」
「…………」
「それでも、行くのかい?」
奎星の脳裏に、いつかの夜が蘇った。怖かった。布団の中で震えた。絶対などないと知った。また間違えると思った。後悔する。泣く。取り返せないこともある。
それでも、奎星は顔を上げた。
「……ふざけんな」
伊吹が瞬きをする。
「勝手に決めんな!!」
声が常若の庭を震わせた。
「俺が誰かを背負ってるとか! 頑張りすぎてるとか! 未来へ行ったら壊れるとか!」
奎星は神代榊を握り締めた。
「そんなの!」
一歩、前へ出る。
「お前が勝手に決めんな!!」
「…………」
「俺は間違える!」
伊吹の目が僅かに動く。
「これからも多分、いっぱい間違える!」
日向を傷つけた。自分の魔法が怖くなった。何度も無茶をした。守れなかった。負けた。今日だって負けた。
「失敗もする!」
さらに一歩、踏み出す。
「後悔もする!」
もう一歩。
「誰かと別れることもある!」
胸が痛む。それでも奎星は言葉を止めなかった。
「怖えよ!」
声が掠れる。
「めちゃくちゃ怖えよ!!」
伊吹は黙っている。
「だから何だよ!!」
奎星は叫んだ。
「怖くなったら、そこで全部止めんのか!?」
神代榊が強く光り、床下の霊脈が揺れた。
「苦しいかどうかも!」
光が奎星の周囲へ集まる。
「失敗したくないかどうかも!」
「俺が決める!!」
伊吹の顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「俺の未来だ!!」
奎星は息を吸い、胸の奥から言葉を叩きつけた。
「俺は!」
神代榊を構える。
「大人になる!!」
声が消えた。常若の庭が静まり返り、床の下を走る光さえ一瞬止まったように見える。
伊吹は何も言わなかった。長い沈黙のあと、ようやく呟く。
「………わかった」
奎星は神代榊を下げない。
「よくわかったよ」
その声から、何かが消えた。悲しみでも、怒りでも、諦めとも違う。ただ、さっきまでそこにあった、人を救おうとする温度だけが消えていた。
「じゃあ」
伊吹が奎星を見る。
「死ぬしかないね」
奎星の身体が僅かに怯んだ。
伊吹の目から、光が消えていた。模擬市街で戦ったときとは違う。あの男は恐ろしいほど強かったが、何十人を相手にしても必要以上には傷つけなかった。奎星にも、蒼真にも、侑李にも、誰にも。ずっと救うつもりだったからだ。
けれど、今は違う。
この男から初めて、明確に殺すための意思が向けられていた。
奎星の背中を冷たいものが走り、神代榊を握る手へ汗が滲む。伊吹がゆっくり杖を上げる。その動きには、もう一切の優しさがなかった。