マホウトコロ   作:西野圭吾

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第13話 もう一人の天才

 

『恐ろしい精神力だ』

 

 救済者の声が、常若の庭へ静かに落ちた。御影の目が鋭く細められる。

 

「……何だ、こいつ」

 

 奎星はまだ御影の長衣を掴んだまま、周囲を見回した。

 

「さっきから偉そうに人ん家みたいに喋って――」

 

「蓮根」

 

「何?」

 

「退け」

 

「え?」

 

「重い」

 

「今それ!?」

 

 御影が奎星の肩を押す。

 

「いつまで乗ってる」

 

「あ、いや、だって御影先生が戻ったから!」

 

「戻った。だから退け」

 

「もうちょい喜べよ!」

 

「何をだ」

 

「俺が勝ったこと!」

 

「調子に乗るな」

 

「勝ったじゃん!」

 

「杖を捨てて体当たりしただけだろうが」

 

「勝ちは勝ちだろ!」

 

「奎星!」

 

 伊織の声に、奎星が振り返った。数メートル先では高宮が杖を上げ、その横に土御門、早瀬、鷹司、さらに愛宕の教師たちが並んでいる。さっきまで動きを止めていた大人たちは、今や一斉にこちらへ顔を向けていた。

 

「学生は授業へ戻ってください」

 

「戻りなさい」

 

「教室へ戻ってください」

 

 同じ声、同じ目。その中で、御影だけが明らかに異質だった。

 

「……そうだった」

 

 奎星は御影から飛び退いた。

 

「まだ全員いるんだった!」

 

「今さらか!」

 

 蒼真の防壁へ赤い光が叩きつけられ、透明な壁が大きく揺れる。

 

「御影先生!」

 

 奎星は神代榊を探して首を回した。少し離れた羊脂玉の床に黒い杖が転がっている。その手前で、からん、と乾いた音がした。御影が自分の杖を拾ったのだ。

 

 御影は膝へ手をつき、一度だけ身体を揺らした。

 

「御影先生?」

 

「……問題ない」

 

「いや、どう見ても問題あるだろ!」

 

 長衣は焼け、肩は裂け、頬には奎星との戦いでついた傷が残っている。息もまだ整っていない。何より、ほんの少し前まで奎星と本気で魔法を撃ち合っていたのだ。それでも御影は立ち上がった。いつものように、奎星の前ではなく、その後ろへ向かって。

 

「蓮根」

 

 御影が高宮たちのほうへ歩き始める。

 

「教師たちは俺に任せろ」

 

「……え」

 

 奎星の手が止まった。御影は杖を下げたまま、ぼろぼろの長衣を引きずりながらも、足取りだけは真っ直ぐに進んでいく。

 

「でも先生、その身体――」

 

「聞こえなかったか」

 

「聞こえたけど!」

 

「なら行け」

 

「えっ」

 

 奎星は、神代榊が示していた先へ目を向けた。御影が立っていた、その向こうには霊脈の流れが続いている。救済者がいる。

 

「……アイツは……」

 

 奎星が言いかけると、御影は足を止めずに答えた。

 

「奴はお前に任せた」

 

「…………」

 

 奎星は御影を見つめた。けれど御影は、奎星の方を見ていなかった。目の前には、自分と同じように意思を奪われ、ただ役割だけを繰り返している教師たちがいる。御影はその教師たちへ杖を向けた。

 

「榊」

 

「はい!」

 

「宮本」

 

「はい!」

 

「桐生」

 

「お、おう!」

 

「下がってろ」

 

「いや、俺らも――」

 

「邪魔だ」

 

「言い方!」

 

 蒼真が思わず叫んだ。

 

 高宮が杖を振る。

 

「ステューピファイ」

 

 御影の手首が僅かに動き、薄い盾が赤い光を逸らした。無駄のない、小さな防壁だった。奎星には分かる。さっきまでとは違う。壁を壊さず、床を抉らず、必要なところに必要なだけ魔法を使っている。それは、御影玄一郎の戦い方だった。

 

「……ああ!」

 

 奎星は床へ転がっていた神代榊へ走り、拾い上げた。掌へ戻った瞬間、杖が強く脈打つ。

 

 どくん。

 

 まるで、進めと促すようだった。

 

「御影先生!」

 

 奎星は一度だけ振り返った。

 

「絶対あとで来いよ!」

 

「さっさと行け!」

 

「はい!」

 

 奎星は走り出した。

 

     *

 

 後ろで魔法の音が響いている。けれど、追ってくる足音はなかった。御影が止めているのだと分かっていたから、奎星は振り返らずに神代榊を握り締めたまま走った。

 

 羊脂玉の廊下を抜け、角を曲がると、魔法省の中央広間が現れた。折り鶴の群れが頭上を飛び、次の瞬間には消える。床が畳へ変わり、知らない家の居間が広がった。夕飯の匂い、湯気の立つ味噌汁、どこかで誰かが笑う声。奎星は襖を開け放つ。

 

「邪魔!」

 

 その先には愛宕の階段があった。二段飛ばしで駆け上がり、扉を蹴るように開けば、今度は白峰の廊下へ出る。神代榊が再び脈打った。

 

「こっちだろ!」

 

 右へ曲がる。景色が変わる。教室、知らない学校、玄関、庭、魔法省、マホウトコロ。常若の庭は奎星を迷わせるように何度も姿を変えたが、神代榊だけは迷わなかった。全国から集められた霊脈が、この先へ流れている。奎星はその流れを追い続けた。

 

 やがて、激しく切り替わっていた景色が少しずつ静かになっていった。人の声が減り、食器の音が消え、鐘も鳴らなくなる。海の匂いさえ薄れていった。

 

「……何だよ」

 

 奎星は走りながら眉を寄せた。壁から飾りが消え、教室の札が消え、窓の外の景色もなくなっていく。最後には、ただ白い回廊だけが残った。

 

 羊脂玉にも似ている。けれど、マホウトコロではない。継ぎ目のない白い床と壁がどこまでも続き、その下を青白い光が無数に走っていた。霊脈だった。

 

「……うわ」

 

 奎星の足が僅かに緩む。一本や二本ではない。幾筋もの霊脈が床下を走っている。太いもの、細いもの、強く光るもの、淡く明滅するもの。そのすべてが同じ方向へ吸い込まれていた。

 

 日本中から。

 

 マホウトコロから。

 

 愛宕から。

 

 白峰から。

 

 どこかの山から、町から、森から。

 

 ここへ。

 

 神代榊が熱を帯びた。

 

「……もうちょいだな」

 

 奎星は息を切らしながら笑った。

 

「待ってろよ」

 

 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。スズメか、御影か、学校で待っている後輩たちか。あるいは。

 

「救済者」

 

 奎星は前を睨んだ。

 

「今度こそ逃がさねえからな」

 

 回廊の先に扉があった。何の飾りもなく、取っ手さえない。白い壁の中に、ただ一本の線だけが引かれている。奎星が神代榊を持った手を近づけると、杖がまた脈打った。

 

 どくん。

 

 扉が開いた。

 

     *

 

 風が吹いた。奎星は目を細める。その風には潮の匂いも土の匂いもなかった。

 

 目の前には、広い場所が広がっていた。空なのか天井なのかも分からない淡い白の上に、薄い夕暮れのような光が広がっている。床は円形で、その下を無数の霊脈が光となって走り、すべての線が中央へ集まっていた。

 

 その中心に、一人の男が立っている。

 

 白い服。穏やかな顔。模擬市街で何十人もの候補生を一人で倒した男だった。

 

 奎星の足が止まる。

 

「……見つけた」

 

 男がゆっくり振り返った。その表情は、あの時と同じだった。

 

「やあ」

 

「やあ、じゃねえよ」

 

 奎星が神代榊を構える。

 

「先生たち元に戻せ」

 

「御影玄一郎は、自分で戻ったよ」

 

「じゃあ全員戻せ!」

 

「それはできない」

 

「何でだよ!」

 

「必要だからだ」

 

「何に!」

 

 奎星の声が広い空間へ反響する。男はすぐには答えず、奎星の杖、破れた制服、血のついた頬を一つずつ確かめるように見た。

 

「……君と少し話したくてね」

 

「……あぁ?」

 

「そんな顔をしないでくれ」

 

「するだろ! 学校の先生全員を変な人形みたいにして、日本中の霊脈を吸って、俺らを閉じ込めて、御影先生まで操ってた奴と何を仲良く話せってんだよ!」

 

「仲良くする必要はないよ」

 

「じゃあ何だよ」

 

「知ってほしい」

 

 男は小さく笑った。

 

「なぜ僕が、ここを作ったのか」

 

「……興味ねえ」

 

「君には、あると思う」

 

「ねえよ」

 

「君は僕に似ているから」

 

 奎星の眉が動いた。

 

「は?」

 

 男が一歩こちらへ歩く。奎星は即座に神代榊を上げた。

 

「それ以上来んな」

 

 男は足を止めた。

 

「反応も似ている」

 

「何がだよ」

 

「僕も昔、マホウトコロの生徒だった」

 

 奎星の目が僅かに動く。男の背後で、白い空間へ色が滲んだ。羊脂玉の回廊、授業へ向かう生徒たち、教師の声、笑いながら走る少年たち。その中に、一人だけ立っている生徒がいた。

 

 顔は今より幼い。けれど、目の前の男だと分かる。

 

「僕は、伊吹」

 

 男が言った。

 

「昔、そう呼ばれていた」

 

「伊吹……」

 

「君と同じだよ」

 

 伊吹は、自分の過去を眺めるように景色を見た。

 

「魔法を覚えるのが早かった。失敗しても、次には直せた」

 

 少年が一つ呪文を成功させ、続けて別の魔法を使う。周囲の生徒たちが驚き、景色の中の少年へ誰かが肩を組んだ。

 

『天才』

 

 どこからともなく、その言葉が聞こえた。奎星の表情が僅かに曇る。何度も聞いた言葉だった。

 

「……それが何だよ」

 

「嬉しかったよ」

 

 伊吹は静かに言った。

 

「できることが増えるのは楽しかった。誰かに頼られるのも嫌いじゃなかった」

 

 景色が変わる。少年だった伊吹が少しずつ大人になり、制服が禍祓官の装いへ変わっていく。

 

「だから、禍祓官になった」

 

 火の中から子供を抱き上げ、崩れた建物の前へ防壁を張り、倒れた魔法使いを救い、暗い森で誰かを庇う。景色が次々と変わっていった。

 

「人を助けた」

 

 伊吹の声は穏やかだった。

 

「僕は強かったから」

 

 そこに自慢する響きはなく、ただ事実を読み上げているようだった。

 

「人よりできた。だから、人より多く任された」

 

 任務、報告、次の任務、また次の任務。知らない大人たちの声が重なる。

 

「君ならできる」

 

「伊吹なら大丈夫だ」

 

「頼む」

 

「君しかいない」

 

「任せた」

 

 一つ一つは信頼であり、期待だった。だから断れなかった。景色の中の伊吹は、いつも前にいた。

 

 奎星は黙って見ていた。胸の奥に、何かが引っかかっている。

 

「……それで?」

 

「ある日、大きな魔法災害が起きた」

 

 景色が暗転した。次の瞬間、轟音が響き、奎星の身体が反射的に強張る。空が赤い。巨大な魔法が崩れ、建物が砕け、人々が逃げている。場所も時代も分からない。ただ、あまりにも多くの人間がいた。

 

 悲鳴、火、崩落、魔法の光。その中央を、若い伊吹が走っている。

 

「百人以上いた」

 

 伊吹が言った。

 

「僕は、できる限り助けた」

 

 防壁を張り、人を運び、瓦礫を退け、また走る。一人、十人、何十人、百人。助けられた人々が、伊吹へ声をかける。

 

「助かったよ」

 

 伊吹は笑った。とても静かな笑みだった。

 

「百人以上」

 

「……じゃあ」

 

「でも」

 

 景色の中で、伊吹の足が止まる。崩れた場所に、一人の人影があった。顔は見えない。ただ、伊吹と同じくらいの年齢の男だった。

 

 伊吹はその人へ走り、手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 景色が消えた。

 

「一人だけ、助けられなかった」

 

 奎星は何も言わなかった。

 

「学生の頃からの親友だった」

 

 伊吹の声は変わらない。怒ってもいない。泣いてもいない。

 

「百人以上を救ったんだ」

 

 長い沈黙のあと、伊吹は続けた。

 

「皆、そう言った」

 

 ――よくやった。

 

 ――お前がいなければもっと死んでいた。

 

 ――仕方がなかった。

 

 ――一人で百人以上救った。

 

 声が幾重にも重なる。その中央で、若い伊吹だけが動かなかった。

 

「でも、僕には分からなかった」

 

 伊吹が奎星を見る。

 

「百人助ければ、一人を失ってもいいのか」

 

「…………」

 

「百人と一人を比べて、百人のほうが多いから成功だったと笑えばいいのか」

 

 奎星の指が神代榊の上で僅かに動く。

 

「俺は……そんなこと」

 

「分かっている」

 

 伊吹が遮った。

 

「君はそんなことを言わない」

 

「じゃあ」

 

「だから怖いんだ」

 

 奎星の顔が止まる。

 

「君は背負う」

 

「……は?」

 

「できるから」

 

 伊吹の瞳が奎星を見ている。

 

「強いから。才能があるから。誰かを助けられるから」

 

 学校の校庭、黒曜の環、崩れたマホウトコロ、星迎祭、幕末、魔法省。奎星自身の記憶に似た景色が、一瞬ずつ白い空間へ浮かんでは消えていく。

 

「君ならできる」

 

 伊吹が言った。

 

「そう言われる」

 

 蓮根先輩がいるから。先輩なら大丈夫。今日聞いたばかりの声が、奎星の中で蘇った。

 

「そして君も、応える」

 

 奎星の眉が寄る。

 

「……違う」

 

「何が?」

 

「俺は――」

 

「何人守れば満足する?」

 

「は?」

 

「一人?」

 

 伊吹が一歩進む。

 

「十人?」

 

 また一歩。

 

「百人?」

 

「……何の話だよ」

 

「百人守ったあとで、一人を守れなかったら?」

 

 奎星の奥歯が噛み合う。

 

「次は?」

 

 伊吹の声は優しかった。

 

「もっと強くなる?」

 

「…………」

 

「もっと速くなる?」

 

「…………」

 

「もっと間違えないようにする?」

 

 奎星の顔が僅かに揺れた。

 

「そしてまた、できることが増える」

 

 伊吹は言う。

 

「そのぶん責任も増える」

 

 誰かに期待され、誰かに頼られ、誰かを守る。失敗し、傷つけ、失う。

 

「大人になるというのは、そういうことだ」

 

「……違うだろ」

 

「何が違う?」

 

「全部だよ」

 

 奎星の声が低くなる。伊吹は首を傾げた。

 

「僕にはいなかった」

 

「何が」

 

「止めてくれる人が」

 

 奎星が黙る。

 

「無茶をするなと言ってくれる人も」

 

 朝の訓練場で聞いた、御影の声が蘇る。

 

 ――走れ。

 

「責任と原因を混同するな、と教える人も」

 

 奎星の目が僅かに大きくなる。

 

「自分の力をどう使えばいいのか、何度でも身体へ叩き込んでくれる人も」

 

 御影。あの男の背中が浮かんだ。

 

「僕は一人で強くなった」

 

 伊吹は言った。

 

「強くなれてしまった」

 

 そこに、初めて小さな苦笑が混じる。

 

「だから、一人で背負った」

 

「…………」

 

「背負えてしまった」

 

 それが、この男をここまで連れてきたのだ。奎星はようやく理解した。救済者と名乗る理由を。

 

「最初は、死なせない方法を探した」

 

 伊吹が掌を開く。床下の霊脈が明るくなった。

 

「次は、失敗しない方法を」

 

 光が一本、また一本と中央へ集まる。

 

「別れない方法を」

 

 常若の庭のどこかで、学校の鐘が鳴った気がした。

 

「老いない方法を」

 

 知らない家、夕食、家族、ずっと同じ夜。

 

「死なない方法を」

 

 伊吹の目が奎星へ戻る。

 

「でも、違った」

 

「……何が」

 

「未来へ進むから、失うんだ」

 

 奎星の表情が消えた。

 

「大人になるから、責任を持つ」

 

「…………」

 

「責任を持つから、失敗する」

 

「…………」

 

「生き続けるから、別れる」

 

「…………」

 

「時間が進むから、老いる」

 

 伊吹は静かに笑った。

 

「そして最後には、死ぬ」

 

 常若の庭には、同じ学校、同じ教室、同じ先生、同じ友達がある。明日も、明後日も、来年も何も変わらない。失わない。卒業しない。大人にならない。

 

「だから止めればいい」

 

 伊吹の声が、広い空間へ溶けていく。

 

「未来を」

 

「…………」

 

「子供でいる時間を、永遠にすればいい」

 

「それが……」

 

 奎星は周囲を見た。床の下を流れる無数の霊脈が、淡い光を放っている。

 

「常若の庭……」

 

「そう」

 

 伊吹は頷いた。

 

「ここでは誰も、大人にならない」

 

「…………」

 

「責任を負う必要もない」

 

「…………」

 

「取り返せない失敗もしない」

 

「…………」

 

「好きな人と別れる必要もない」

 

 奎星の瞳が揺れる。研究室、黒い髪、机の向こうのスズメ。

 

『卒業する必要もない』

 

 奎星の手へ力が入った。

 

「老いることもない。死ぬこともない」

 

 伊吹は奎星を見た。優しい目だった。本気で、心の底から、自分が正しいと信じている目だった。

 

「もう、僕のような人間を出さない」

 

 声が小さくなる。

 

「君たちは、ずっと子供でいいんだ」

 

 沈黙が落ちた。奎星は俯き、伊吹は待った。神代榊の光だけが、奎星の指の隙間から漏れている。

 

「蓮根奎星」

 

 伊吹が穏やかに呼ぶ。

 

「君は、もう十分頑張った」

 

 奎星の肩が僅かに動く。

 

「未来へ進まなくていい」

 

「…………」

 

「これ以上、強くならなくていい」

 

「…………」

 

「これ以上、誰かを背負わなくていい」

 

 御影、スズメ、楓、日向、岳、伊織、侑李、蒼真。学校で待っている後輩たち。笑っている顔も、怒っている顔も、泣いている顔も、すべてが奎星の中へ浮かんだ。

 

「怖いだろう?」

 

 伊吹が訊いた。奎星は答えなかった。

 

「いつか失うかもしれない」

 

「…………」

 

「君が間違えれば、誰かが死ぬかもしれない」

 

「…………」

 

「君自身が死ぬかもしれない」

 

「…………」

 

「それでも、行くのかい?」

 

 奎星の脳裏に、いつかの夜が蘇った。怖かった。布団の中で震えた。絶対などないと知った。また間違えると思った。後悔する。泣く。取り返せないこともある。

 

 それでも、奎星は顔を上げた。

 

「……ふざけんな」

 

 伊吹が瞬きをする。

 

「勝手に決めんな!!」

 

 声が常若の庭を震わせた。

 

「俺が誰かを背負ってるとか! 頑張りすぎてるとか! 未来へ行ったら壊れるとか!」

 

 奎星は神代榊を握り締めた。

 

「そんなの!」

 

 一歩、前へ出る。

 

「お前が勝手に決めんな!!」

 

「…………」

 

「俺は間違える!」

 

 伊吹の目が僅かに動く。

 

「これからも多分、いっぱい間違える!」

 

 日向を傷つけた。自分の魔法が怖くなった。何度も無茶をした。守れなかった。負けた。今日だって負けた。

 

「失敗もする!」

 

 さらに一歩、踏み出す。

 

「後悔もする!」

 

 もう一歩。

 

「誰かと別れることもある!」

 

 胸が痛む。それでも奎星は言葉を止めなかった。

 

「怖えよ!」

 

 声が掠れる。

 

「めちゃくちゃ怖えよ!!」

 

 伊吹は黙っている。

 

「だから何だよ!!」

 

 奎星は叫んだ。

 

「怖くなったら、そこで全部止めんのか!?」

 

 神代榊が強く光り、床下の霊脈が揺れた。

 

「苦しいかどうかも!」

 

 光が奎星の周囲へ集まる。

 

「失敗したくないかどうかも!」

 

「俺が決める!!」

 

 伊吹の顔から、少しずつ笑みが消えていく。

 

「俺の未来だ!!」

 

 奎星は息を吸い、胸の奥から言葉を叩きつけた。

 

「俺は!」

 

 神代榊を構える。

 

「大人になる!!」

 

 声が消えた。常若の庭が静まり返り、床の下を走る光さえ一瞬止まったように見える。

 

 伊吹は何も言わなかった。長い沈黙のあと、ようやく呟く。

 

「………わかった」

 

 奎星は神代榊を下げない。

 

「よくわかったよ」

 

 その声から、何かが消えた。悲しみでも、怒りでも、諦めとも違う。ただ、さっきまでそこにあった、人を救おうとする温度だけが消えていた。

 

「じゃあ」

 

 伊吹が奎星を見る。

 

「死ぬしかないね」

 

 奎星の身体が僅かに怯んだ。

 

 伊吹の目から、光が消えていた。模擬市街で戦ったときとは違う。あの男は恐ろしいほど強かったが、何十人を相手にしても必要以上には傷つけなかった。奎星にも、蒼真にも、侑李にも、誰にも。ずっと救うつもりだったからだ。

 

 けれど、今は違う。

 

 この男から初めて、明確に殺すための意思が向けられていた。

 

 奎星の背中を冷たいものが走り、神代榊を握る手へ汗が滲む。伊吹がゆっくり杖を上げる。その動きには、もう一切の優しさがなかった。

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