伊吹が杖を上げた。それだけだった。呪文は聞こえない。
「――っ!」
奎星は考えるより先に身体を投げた。直後、さっきまで頭があった場所を細い白光が通り抜け、背後の床が円柱状に抉り取られた。壊れた音も、爆発音もない。ただ、白い空間の一部だけが、最初から存在しなかったかのように消えている。
奎星は片膝をついたまま、その跡を見つめた。首筋の毛が逆立つ。今の一撃が当たっていたら、どうなっていたかを考える必要はなかった。
「……マジかよ」
伊吹は答えない。
模擬市街で戦ったときには、必ずほんの僅かな間があった。相手を壊さないための間。気絶させる、杖を落とさせる、動けなくする、必要なだけ押し飛ばす。あの男は何十人を相手にしながら、一度も目的を間違えなかった。止めるために戦っていた。
今は違う。
奎星の喉が鳴った。目の前の男は、自分を殺そうとしている。
怖い。
御影と戦ったときにも怖かった。神代冥司も、久我も、黒曜の狩人も、幕末で向き合った神代以蔵も恐ろしかった。けれど、それらとは違う。勝てなければどうなる、捕まったらどうなる、誰かを守れなかったらどうなる――そういう恐怖ではない。次の一発で、死ぬ。ただ、それだけだった。
心臓が速い。指先が冷たい。逃げろと身体のどこかが叫んでいる。
伊吹の杖先が僅かに動いた。奎星は立ち上がる。
「……来いよ」
自分でも声が震えているのが分かった。だから、もう一度叫ぶ。
「来い!!」
伊吹が消えた。正確には、見失った。白い服が横へ流れたと思った瞬間には、もう奎星の右側にいる。
杖、肩、足、指、呼吸。御影の声が頭の中を走った。
――杖だけを見るな。
奎星は伊吹の右肩を見た。
「プロテゴ!」
防壁を張った直後、衝撃がぶつかった。白銀の盾全体が内側へ歪み、腕が痺れる。重い。それでも壊れない。
「クソがッ!」
奎星は叫びながら盾を押し返した。伊吹の手首が返る。次が来る。奎星は盾を消して右へ跳び、二発目が床を切り裂いた隙に神代榊を振った。
「エクスペリアームス!」
赤い光を、伊吹は避けなかった。杖をほんの少し傾けるだけで、光は横へ逸れていく。
「ちっ」
奎星は間髪入れずに次を撃った。
「インカーセラス!」
銀の縄が左右から迫り、伊吹の足が一歩下がる。
「デパルソ!」
逃げ道へ衝撃を叩き込む。御影に何百回もやられた。一発で決めるな。次を作れ。相手が避ける場所を考えろ。魔法を撃った後を見ろ。
「そこだ!」
衝撃が伊吹へ向かう。伊吹は初めて防壁を張った。淡い透明な膜へデパルソがぶつかり、奎星は神代榊へさらに魔力を流し込む。床下を走る霊脈が共鳴するように青白く光り、爆風が伊吹の白い衣を大きく揺らした。
だが、伊吹の足は一歩も動いていなかった。
「……マジかよ」
伊吹が杖を振る。
「っ!」
盾を張るには間に合わない。奎星は神代榊を胸の前へ引き戻し、身体を捻った。熱が走り、左肩が裂ける。
「ぐあっ!」
制服が切れ、血が飛んだ。奎星はそのまま床を転がり、痛みに顔を歪めながらも立ち上がる。腕は動く。肩も完全にはやられていない。
伊吹がゆっくり近づいてくる。
「……外した?」
「避けたんだよ……!」
伊吹が初めて口元を動かした。
「そうだね。今ので首を落とすつもりだった」
奎星の顔が止まる。一瞬だけ、足が後ろへ動いた。伊吹はそれを見逃さない。
「怖いかい?」
「……うるせえ」
「怖いよね」
「うるせえ!」
奎星は神代榊を構え直した。血が指を伝う。
「だからって、逃げるかよ!!」
杖を振る。
「ステューピファイ!」
赤い光を伊吹が避ける。奎星も同時に走った。
一発、二発、三発。撃って、移動して、避けて、盾を張り、また撃つ。御影に教えられたすべてを使った。久我との戦いで知った魔法使い同士の速さ、黒曜の狩人との戦いで覚えた多人数戦の視野、神代冥司を相手に思い知った魔力だけでは埋まらない技術、幕末で学んだ未知の術式をその場で読む感覚、禍祓官試験で全国の候補生と戦い、自分とは異なる得意分野へ合わせてきた経験。そのすべてを、今この瞬間へ叩き込む。
「インペディメンタ!」
伊吹の足元へ。
「エクスペリアームス!」
手首へ。
「デパルソ!」
退路へ。
「ステューピファイ!」
最後の一撃へ。
四つの光が重なり、伊吹の身体を一瞬完全に囲んだ。
「――取った!」
奎星が叫ぶ。
伊吹の杖先が円を描いた。
それだけで、四つの魔法がすべて消えた。まるで最初から存在しなかったかのように、光が空中でほどけていく。
「……は?」
「何だよそれ!!」
伊吹の杖が奎星へ向いた。
「プロテゴ!」
衝撃で盾が砕ける。
「プロテゴ!」
二枚目も砕ける。
「っ――」
三発目を、奎星は横へ逃げた。だが、伊吹の魔法は先回りしていた。足元が爆ぜ、身体が宙へ浮く。さらに杖がこちらを向く。空中では避けられない。
「デパルソ!」
奎星は伊吹ではなく床を撃った。衝撃で自分の身体を横へ飛ばし、直後に白い光が脇腹を掠める。
「うっ……!」
空中で体勢を崩し、そのまま床を何度も転がった。息が出ない。脇腹が熱い。触れると血がついたが、傷は浅い。まだ動ける。
「……危な」
伊吹がこちらを見ている。
奎星は立ち上がった。膝が震える。止まるな。まだだ。神代榊を握る手は動く。
「……ほんと、強えな」
一度息を吐く。
奎星が走る。伊吹も動いた。赤と白、銀の光が二人の間で交差し、常若の庭の最深部が揺れ始める。床下の霊脈が波打ち、遠くの白い壁へ亀裂が走った。
奎星は伊吹の魔法を避ける。避けきれないものは盾で受ける。盾が割れればまた避け、反撃する。だが防がれる。攻めれば返される。一度も優位には立てない。
伊吹のほうが速い。正確で、余裕がある。奎星が二手先を考えれば、伊吹はその先にいる。フェイントを入れても読まれ、撃つふりをしても動かない。身体へ入ろうとすれば距離を切られる。
「くそっ!」
それでも赤い光が伊吹の頬を掠めた。初めて、本当に僅かに、白い肌へ細い傷が走る。
「……!」
奎星の目が光った。
「当たった!」
「掠っただけだよ」
伊吹が杖を返す。奎星は肩を見た。右。違う。
「――っ!」
左から来た衝撃が腹へ入り、身体が折れる。
「がっ……!」
そこへ伊吹の膝が入った。息が潰れる。杖だけではない。伊吹が近い。近すぎる。
痛みに顔を歪めながら、奎星は笑った。
「……それ、俺も教わった!」
額から頭突きを叩き込む。初めて伊吹の顔が歪んだ。
「うおおおっ!」
奎星が肩からぶつかり、二人の身体がもつれた。杖を持つ右腕同士が絡み、伊吹が奎星の手首を押さえる。奎星も伊吹の杖腕を掴んだ。
「離せ!」
「嫌だよ」
「このっ……!」
距離が近すぎて魔法を撃てない。互いの息がかかり、靴が床を擦る。肩と肩がぶつかり、血と汗で指が滑った。奎星は歯を食いしばるが、押し切れない。伊吹のほうが力もある。
「ぐっ……!」
「本当に、よく育ったね」
伊吹の声は、さっきまでの穏やかなものではなかった。
「誰目線だよ……!」
「惜しいよ」
「何が!」
「君なら、きっと僕より先まで行ける」
「だったら――」
「だからこそ」
伊吹の顔が奎星の耳元へ寄る。
「みんなに君の死に様を見せつけてあげようか……!」
「…………」
奎星の目が見開かれた。
「なに!?」
パンッ。
乾いた音がした。
*
空が落ちてきた。
「うわああああっ!!」
奎星の背中が地面へ叩きつけられる。芝、土、潮、冷たい夜風。白い空間ではない。星空だった。
伊吹も数メートル先へ投げ出され、片膝をついている。奎星は咳き込みながら顔を上げた。見覚えのある羊脂玉の校舎、訓練場、大食堂へ続く回廊が視界に入る。
「ここっ……学校!?」
マホウトコロの校庭だった。
「何で……!」
伊吹がゆっくり立ち上がる。顔には、もう優しい笑みがなかった。
「言っただろう。見せてあげるって」
「何を――」
そのとき、体育館の扉が開いた。
「今の音、何!?」
誰かの声に続いて、生徒たちが外へ出てくる。一人、二人、五人、十人。教師たちがいない夜、不安から一か所へ集められていた下級生や、付き添っていた上級生、中級生たちだった。
「外に出るなって――」
「え?」
「誰かいる!」
「校庭!」
ざわめきが広がる。奎星の顔から血の気が引いた。
「……くそ」
伊吹は生徒たちを見た。
「蓮根先輩?」
小さな声がする。
「え……」
「奎星先輩!?」
その名前が広がり、体育館からさらに人が溢れてくる。
「奎星!?」
楓だった。後ろから日向が飛び出し、岳も続く。
「奎星……」
「お前、何でここに――」
「魔法省に行ったんじゃ!?」
「来んな!!」
奎星の怒声が校庭を震わせ、三人の足が止まった。
「奎星?」
「お前ら近寄るな!!」
声が掠れている。その姿を見て、楓の表情が変わった。制服は裂け、左肩と脇腹から血が滲み、頬にも傷がある。息は上がり、神代榊を持つ右手は震えていた。
「……奎星?」
「いいから!」
奎星は伊吹から目を離さない。
「全員、中入れ!」
「でも――」
「楓!!」
楓が止まった。奎星がこんな声で自分の名前を呼ぶことは、ほとんどない。
「頼む。みんなのこと下げて」
楓は奥歯を噛み、短く答えた。
「……分かった」
「楓!?」
「日向!」
「でも奎星が!」
「分かってる!」
楓も叫んだ。
「だから下げるのよ!」
日向が拳を握り、岳は黙ったまま伊吹を見る。
「……あいつか」
「ああ」
奎星が答える。
「救済者」
ざわめきが変わった。昼間、奎星たちを魔法省で倒した男。その情報は、上級生を中心に共有されている。
「全員、体育館へ!」
楓が振り返って叫ぶ。
「急いで!」
「でも蓮根先輩が――」
「いいから!」
生徒たちが動き始めた。だが、伊吹が杖を振ると、校庭の周囲へ薄い光が走り、体育館へ戻ろうとした生徒たちの前に透明な壁が現れた。
「何これ!?」
「開かない!」
「プロテゴ!」
楓が撃つが、魔法は弾かれる。
「くっ……!」
伊吹は静かに言った。
「行かなくていいよ」
奎星の顔が変わる。
「……てめえ」
「見ていてほしい」
「解除しろ」
「君たちが信じている彼が、どうなるのか」
「解除しろ!!」
「蓮根奎星は、特別じゃない」
下級生たちの顔が強張る。
「強くても、才能があっても、誰かを守ろうとしても――」
「やめろ」
伊吹が奎星へ杖を向ける。
「大人になれば、いつか失敗する」
「やめろ!!」
「傷つく。誰かを失う。そして最後には――」
「黙ってろ!!」
奎星が走った。
「ステューピファイ!」
赤い閃光を伊吹が弾き、二人の間で魔法が爆ぜる。生徒たちの悲鳴が上がった。
「奎星!!」
日向が透明な壁を殴る。
「くそっ! 開けろ!」
「蓮根先輩!」
「先輩!」
声が聞こえる。聞こえてしまう。奎星は歯を食いしばった。最悪だ。戦いにくい。後ろに全員いる。外せない。流れ弾を出せない。大きな魔法も使えない。
伊吹は、それを分かってここへ来た。
杖が動く。奎星は生徒たちの位置を一瞬確認した。その一瞬で遅れた。
「プロテゴ!」
衝撃で盾が割れ、身体が飛ぶ。
「奎星!」
楓の声が響く。奎星は地面を転がり、すぐに立ち上がった。
「見るな!!」
生徒たちへ叫ぶ。
「奎星……」
「見んじゃねえ!!」
それでも誰も目を逸らせなかった。校庭の中央で、蓮根奎星が一人で立っている。その向こうに、救済者がいる。
*
同じ頃、常若の庭では伊織の声が飛んでいた。
「右!」
御影は振り返らない。
「分かってる」
右側から早瀬の魔法が飛び、御影の杖が短く動く。
「プロテゴ」
盾が光を弾く。同時に高宮が前へ出た。
「戻りなさい」
「断る」
「学生は――」
「俺は教師だ」
「……そこ!?」
蒼真が思わず叫ぶ。
「突っ込んどる場合ちゃうやろ!」
「君だって突っ込んでる!」
侑李が土御門の拘束を外しながら叫び返した。
御影は前へ出る。
「エクスペリアームス」
高宮の杖が飛ぶ。そのまま次の呪文を放った。
「インカーセラス」
早瀬の足元だけを銀の縄で縛る。鷹司が横から魔法を放つと、御影は身体をずらし、壁ではなく床へデパルソを撃った。鷹司の足元だけが横へ滑り、進路から外れる。
「……すごい」
侑李が呟く。
「今さら?」
伊織は教師たちではなく、床を見ていた。御影が戻ってからずっと、教師一人一人の足元とその周囲、景色が切り替わる瞬間を観察している。
何かがある。
「御影先生!」
「何だ!」
「もう少しそのまま!」
「何分だ!」
「分かりません!」
「役に立たんな!」
「今調べてる!」
伊織が珍しく声を荒げた。蒼真が眉を上げる。
「榊が怒鳴った」
「後で言って!」
伊織はしゃがみ込み、杖先を床へ近づけた。教師たちの足元には何もない。少なくとも、目には見えない。だが、御影だけが違っていた。
「……やっぱり」
「何か分かったん?」
蒼真が防壁を支えながら訊く。
「御影先生の周りだけ、ない」
「何が?」
「線」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「先生たち全員から、同じ場所へ細い魔力が伸びてる」
「線?」
「常若の庭そのものに繋がってる。でも御影先生だけ切れてる」
侑李が土御門を見る。
「それが操ってる原因?」
「多分」
「多分かい」
蒼真が言う。
「奎星みたいなこと言わないで」
「俺そこまで言うてへんやろ!」
伊織は杖を動かし、薄い光を広く床へ這わせた。
「個別に切るんじゃない」
「何で?」
「数が多すぎる。それに、多分繋ぎ直される」
「じゃあ?」
伊織の視線が廊下の先へ向く。教師たちの足元から伸びる、見えないほど細い魔力は別々に走っているが、途中で一つにまとまっていた。
「……あそこ」
伊織が立ち上がる。廊下の壁は何の変哲もない羊脂玉に見えたが、その奥には術式が隠れている。
「蒼真」
「何や」
「盾、三秒だけ右に寄せられる?」
「三秒?」
「うん」
「何するん」
「壊す」
蒼真が一瞬笑った。
「ええやん」
御影が教師たちの攻撃を受け流しながら叫ぶ。
「さっさとしろ!」
「今やります!」
伊織が走る。高宮の杖がこちらを向いた。
「学生は――」
「御影先生!」
「分かってる!」
赤い光が走り、伊織の横を御影の魔法が抜けた。
「エクスペリアームス」
高宮の杖が再び弾かれる。土御門が横へ出ると、侑李が身体を入れた。
「先生、ごめん!」
「インカーセラス!」
銀の縄が土御門の腕を縛る。
「今!」
蒼真の盾が右へ広がった。教師たちの魔法が防壁へ集中する。一秒、二秒。伊織が壁へ杖を当てる。
羊脂玉の奥、何もないはずの場所へ細い術式が浮かんだ。一本、二本、十本。数えきれない線が束ねられ、結び目のようになっている。
「……見つけた」
三秒。
「壊せ!!」
御影が叫ぶ。
「レダクト!」
光が結び目へ直撃した。
ぱき。
あまりにも小さな音だった。次の瞬間、常若の庭全体が大きく揺れた。
「うわっ!」
侑李が壁へ手をつく。景色が乱れ、マホウトコロ、愛宕、魔法省、知らない家、白峰が一瞬ずつ重なっては剥がれていく。
そして、教師たちが一斉に止まった。
高宮の腕が下がり、早瀬の目が閉じ、鷹司がよろめく。土御門の身体から力が抜け、侑李が慌てて支えた。
「先生!」
御影は杖を構えたまま様子を見ていた。やがて高宮がゆっくり瞬きをする。
「……何だ」
声が違う。
「ここ……」
高宮は眉間に皺を寄せ、周囲を見回した。そして御影を見る。
「……御影?」
「高宮」
「何でお前そんなボロボロなんだ!?」
「お前らのせいだ」
「何意味のわからんことを言っている!?」
御影が小さく息を吐く。
「本物だな」
「何だそれ!」
侑李の腕の中で、土御門が目を開いた。
「……宮本君?」
「先生!」
「あら……」
自分が拘束されていることに気づき、土御門は首を傾げる。
「これは……?」
「ごめんなさい! 僕です!」
「そうですか」
「軽っ!?」
少し離れたところでは、早瀬が頭を押さえながら起き上がり、鷹司も壁へ手をついた。
「……最悪だ」
「何が起きた」
「戻った……」
蒼真が呟く。
「戻った!」
伊織は壁に残る壊れた術式を見た。
「やっぱりこれだった」
「榊」
御影が呼ぶ。
「はい」
「全員か」
伊織は周囲を見回した。マホウトコロ、愛宕、白峰、魔法省。少しずつ、止まっていた大人たちが動き始めている。顔を上げ、戸惑いながら隣の人間へ声をかける。同じ言葉しか話せなかった人々が、それぞれ違う声を発し始めていた。
「……多分。今見える範囲では」
御影はすぐに歩き出した。
「確認するぞ」
「どこへ?」
「マホウトコロ」
「奎星は!?」
侑李の声に、御影の足が一瞬だけ止まった。だが、振り返らない。
「先に大人を全部戻す」
御影は歩き続ける。
「蓮根が戻る場所を作る」
その声に、誰も反対しなかった。
*
常若の庭の中に再現されたマホウトコロは、先ほどまでとはまるで違っていた。教師たちは自分の意思で歩き、高宮は状況を聞きながら怒鳴り、土御門は混乱した人間を落ち着かせ、早瀬は周囲の安全を確認している。鷹司はすでに空間の異常を調べ始めていた。
スズメも戻っているはずだった。
「烏丸先生!」
侑李が研究室の扉を開ける。机の向こうで黒い髪が揺れ、スズメが顔を上げた。
「……宮本君?」
侑李の表情が明るくなる。
「戻った!」
「何がですか?」
「奎星ならここにはいません!」
「まだ何も聞いていません」
「あ」
スズメの目が細くなる。
「蓮根君がどうしました?」
「…………」
侑李が口を閉じた。
「宮本君」
「いや、その……」
その時廊下の向こうから高宮の怒声が飛ぶ。確かに、戻っている。完全に。
それを一人ずつ確認していき、最後に校長室へ向かった。御影が扉の前で足を止める。
「九重院」
返事はない。御影の眉が僅かに寄った。
「校長?」
スズメも後ろから声をかけるが、何も聞こえない。
御影が扉へ手をかけ、開く。
校長室はいつも通りだった。本棚、机、窓、柔らかな光。その机の向こうに、九重院紫苑が座っている。
「……校長」
スズメの声が小さくなる。
九重院は手に一冊の本を持ち、開いた頁へ目を落としたまま静かに読んでいた。
「九重院」
御影が呼ぶ。
返事はない。
「校長先生?」
侑李も呼ぶ。
頁が一枚めくられた。さらり、と紙の音だけが響く。
伊織の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「……おかしい」
「何が?」
蒼真が訊く。
伊織は壊した術式の方向を振り返った。
「切れてる」
「何がや」
「もう、繋がってない」
九重院へ近づき、杖を向ける。薄い光で確認すると、他の教師たちと同じ線はどこにもなかった。
「じゃあ何で戻らないの?」
侑李が九重院を見る。
誰も答えられなかった。
九重院紫苑は、ただ本を読んでいる。呼びかけても顔を上げず、まるで最初からこの場所に自分の意思で座っているかのように。