マホウトコロ   作:西野圭吾

155 / 156
第14話 殺意

 

 伊吹が杖を上げた。それだけだった。呪文は聞こえない。

 

「――っ!」

 

 奎星は考えるより先に身体を投げた。直後、さっきまで頭があった場所を細い白光が通り抜け、背後の床が円柱状に抉り取られた。壊れた音も、爆発音もない。ただ、白い空間の一部だけが、最初から存在しなかったかのように消えている。

 

 奎星は片膝をついたまま、その跡を見つめた。首筋の毛が逆立つ。今の一撃が当たっていたら、どうなっていたかを考える必要はなかった。

 

「……マジかよ」

 

 伊吹は答えない。

 

 模擬市街で戦ったときには、必ずほんの僅かな間があった。相手を壊さないための間。気絶させる、杖を落とさせる、動けなくする、必要なだけ押し飛ばす。あの男は何十人を相手にしながら、一度も目的を間違えなかった。止めるために戦っていた。

 

 今は違う。

 

 奎星の喉が鳴った。目の前の男は、自分を殺そうとしている。

 

 怖い。

 

 御影と戦ったときにも怖かった。神代冥司も、久我も、黒曜の狩人も、幕末で向き合った神代以蔵も恐ろしかった。けれど、それらとは違う。勝てなければどうなる、捕まったらどうなる、誰かを守れなかったらどうなる――そういう恐怖ではない。次の一発で、死ぬ。ただ、それだけだった。

 

 心臓が速い。指先が冷たい。逃げろと身体のどこかが叫んでいる。

 

 伊吹の杖先が僅かに動いた。奎星は立ち上がる。

 

「……来いよ」

 

 自分でも声が震えているのが分かった。だから、もう一度叫ぶ。

 

「来い!!」

 

 伊吹が消えた。正確には、見失った。白い服が横へ流れたと思った瞬間には、もう奎星の右側にいる。

 

 杖、肩、足、指、呼吸。御影の声が頭の中を走った。

 

 ――杖だけを見るな。

 

 奎星は伊吹の右肩を見た。

 

「プロテゴ!」

 

 防壁を張った直後、衝撃がぶつかった。白銀の盾全体が内側へ歪み、腕が痺れる。重い。それでも壊れない。

 

「クソがッ!」

 

 奎星は叫びながら盾を押し返した。伊吹の手首が返る。次が来る。奎星は盾を消して右へ跳び、二発目が床を切り裂いた隙に神代榊を振った。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光を、伊吹は避けなかった。杖をほんの少し傾けるだけで、光は横へ逸れていく。

 

「ちっ」

 

 奎星は間髪入れずに次を撃った。

 

「インカーセラス!」

 

 銀の縄が左右から迫り、伊吹の足が一歩下がる。

 

「デパルソ!」

 

 逃げ道へ衝撃を叩き込む。御影に何百回もやられた。一発で決めるな。次を作れ。相手が避ける場所を考えろ。魔法を撃った後を見ろ。

 

「そこだ!」

 

 衝撃が伊吹へ向かう。伊吹は初めて防壁を張った。淡い透明な膜へデパルソがぶつかり、奎星は神代榊へさらに魔力を流し込む。床下を走る霊脈が共鳴するように青白く光り、爆風が伊吹の白い衣を大きく揺らした。

 

 だが、伊吹の足は一歩も動いていなかった。

 

「……マジかよ」

 

 伊吹が杖を振る。

 

「っ!」

 

 盾を張るには間に合わない。奎星は神代榊を胸の前へ引き戻し、身体を捻った。熱が走り、左肩が裂ける。

 

「ぐあっ!」

 

 制服が切れ、血が飛んだ。奎星はそのまま床を転がり、痛みに顔を歪めながらも立ち上がる。腕は動く。肩も完全にはやられていない。

 

 伊吹がゆっくり近づいてくる。

 

「……外した?」

 

「避けたんだよ……!」

 

 伊吹が初めて口元を動かした。

 

「そうだね。今ので首を落とすつもりだった」

 

 奎星の顔が止まる。一瞬だけ、足が後ろへ動いた。伊吹はそれを見逃さない。

 

「怖いかい?」

 

「……うるせえ」

 

「怖いよね」

 

「うるせえ!」

 

 奎星は神代榊を構え直した。血が指を伝う。

 

「だからって、逃げるかよ!!」

 

 杖を振る。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い光を伊吹が避ける。奎星も同時に走った。

 

 一発、二発、三発。撃って、移動して、避けて、盾を張り、また撃つ。御影に教えられたすべてを使った。久我との戦いで知った魔法使い同士の速さ、黒曜の狩人との戦いで覚えた多人数戦の視野、神代冥司を相手に思い知った魔力だけでは埋まらない技術、幕末で学んだ未知の術式をその場で読む感覚、禍祓官試験で全国の候補生と戦い、自分とは異なる得意分野へ合わせてきた経験。そのすべてを、今この瞬間へ叩き込む。

 

「インペディメンタ!」

 

 伊吹の足元へ。

 

「エクスペリアームス!」

 

 手首へ。

 

「デパルソ!」

 

 退路へ。

 

「ステューピファイ!」

 

 最後の一撃へ。

 

 四つの光が重なり、伊吹の身体を一瞬完全に囲んだ。

 

「――取った!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 伊吹の杖先が円を描いた。

 

 それだけで、四つの魔法がすべて消えた。まるで最初から存在しなかったかのように、光が空中でほどけていく。

 

「……は?」

 

「何だよそれ!!」

 

 伊吹の杖が奎星へ向いた。

 

「プロテゴ!」

 

 衝撃で盾が砕ける。

 

「プロテゴ!」

 

 二枚目も砕ける。

 

「っ――」

 

 三発目を、奎星は横へ逃げた。だが、伊吹の魔法は先回りしていた。足元が爆ぜ、身体が宙へ浮く。さらに杖がこちらを向く。空中では避けられない。

 

「デパルソ!」

 

 奎星は伊吹ではなく床を撃った。衝撃で自分の身体を横へ飛ばし、直後に白い光が脇腹を掠める。

 

「うっ……!」

 

 空中で体勢を崩し、そのまま床を何度も転がった。息が出ない。脇腹が熱い。触れると血がついたが、傷は浅い。まだ動ける。

 

「……危な」

 

 伊吹がこちらを見ている。

 

 奎星は立ち上がった。膝が震える。止まるな。まだだ。神代榊を握る手は動く。

 

「……ほんと、強えな」

 

 一度息を吐く。

 

 奎星が走る。伊吹も動いた。赤と白、銀の光が二人の間で交差し、常若の庭の最深部が揺れ始める。床下の霊脈が波打ち、遠くの白い壁へ亀裂が走った。

 

 奎星は伊吹の魔法を避ける。避けきれないものは盾で受ける。盾が割れればまた避け、反撃する。だが防がれる。攻めれば返される。一度も優位には立てない。

 

 伊吹のほうが速い。正確で、余裕がある。奎星が二手先を考えれば、伊吹はその先にいる。フェイントを入れても読まれ、撃つふりをしても動かない。身体へ入ろうとすれば距離を切られる。

 

「くそっ!」

 

 それでも赤い光が伊吹の頬を掠めた。初めて、本当に僅かに、白い肌へ細い傷が走る。

 

「……!」

 

 奎星の目が光った。

 

「当たった!」

 

「掠っただけだよ」

 

 伊吹が杖を返す。奎星は肩を見た。右。違う。

 

「――っ!」

 

 左から来た衝撃が腹へ入り、身体が折れる。

 

「がっ……!」

 

 そこへ伊吹の膝が入った。息が潰れる。杖だけではない。伊吹が近い。近すぎる。

 

 痛みに顔を歪めながら、奎星は笑った。

 

「……それ、俺も教わった!」

 

 額から頭突きを叩き込む。初めて伊吹の顔が歪んだ。

 

「うおおおっ!」

 

 奎星が肩からぶつかり、二人の身体がもつれた。杖を持つ右腕同士が絡み、伊吹が奎星の手首を押さえる。奎星も伊吹の杖腕を掴んだ。

 

「離せ!」

 

「嫌だよ」

 

「このっ……!」

 

 距離が近すぎて魔法を撃てない。互いの息がかかり、靴が床を擦る。肩と肩がぶつかり、血と汗で指が滑った。奎星は歯を食いしばるが、押し切れない。伊吹のほうが力もある。

 

「ぐっ……!」

 

「本当に、よく育ったね」

 

 伊吹の声は、さっきまでの穏やかなものではなかった。

 

「誰目線だよ……!」

 

「惜しいよ」

 

「何が!」

 

「君なら、きっと僕より先まで行ける」

 

「だったら――」

 

「だからこそ」

 

 伊吹の顔が奎星の耳元へ寄る。

 

「みんなに君の死に様を見せつけてあげようか……!」

 

「…………」

 

 奎星の目が見開かれた。

 

「なに!?」

 

 パンッ。

 

 乾いた音がした。

 

     *

 

 空が落ちてきた。

 

「うわああああっ!!」

 

 奎星の背中が地面へ叩きつけられる。芝、土、潮、冷たい夜風。白い空間ではない。星空だった。

 

 伊吹も数メートル先へ投げ出され、片膝をついている。奎星は咳き込みながら顔を上げた。見覚えのある羊脂玉の校舎、訓練場、大食堂へ続く回廊が視界に入る。

 

「ここっ……学校!?」

 

 マホウトコロの校庭だった。

 

「何で……!」

 

 伊吹がゆっくり立ち上がる。顔には、もう優しい笑みがなかった。

 

「言っただろう。見せてあげるって」

 

「何を――」

 

 そのとき、体育館の扉が開いた。

 

「今の音、何!?」

 

 誰かの声に続いて、生徒たちが外へ出てくる。一人、二人、五人、十人。教師たちがいない夜、不安から一か所へ集められていた下級生や、付き添っていた上級生、中級生たちだった。

 

「外に出るなって――」

 

「え?」

 

「誰かいる!」

 

「校庭!」

 

 ざわめきが広がる。奎星の顔から血の気が引いた。

 

「……くそ」

 

 伊吹は生徒たちを見た。

 

「蓮根先輩?」

 

 小さな声がする。

 

「え……」

 

「奎星先輩!?」

 

 その名前が広がり、体育館からさらに人が溢れてくる。

 

「奎星!?」

 

 楓だった。後ろから日向が飛び出し、岳も続く。

 

「奎星……」

 

「お前、何でここに――」

 

「魔法省に行ったんじゃ!?」

 

「来んな!!」

 

 奎星の怒声が校庭を震わせ、三人の足が止まった。

 

「奎星?」

 

「お前ら近寄るな!!」

 

 声が掠れている。その姿を見て、楓の表情が変わった。制服は裂け、左肩と脇腹から血が滲み、頬にも傷がある。息は上がり、神代榊を持つ右手は震えていた。

 

「……奎星?」

 

「いいから!」

 

 奎星は伊吹から目を離さない。

 

「全員、中入れ!」

 

「でも――」

 

「楓!!」

 

 楓が止まった。奎星がこんな声で自分の名前を呼ぶことは、ほとんどない。

 

「頼む。みんなのこと下げて」

 

 楓は奥歯を噛み、短く答えた。

 

「……分かった」

 

「楓!?」

 

「日向!」

 

「でも奎星が!」

 

「分かってる!」

 

 楓も叫んだ。

 

「だから下げるのよ!」

 

 日向が拳を握り、岳は黙ったまま伊吹を見る。

 

「……あいつか」

 

「ああ」

 

 奎星が答える。

 

「救済者」

 

 ざわめきが変わった。昼間、奎星たちを魔法省で倒した男。その情報は、上級生を中心に共有されている。

 

「全員、体育館へ!」

 

 楓が振り返って叫ぶ。

 

「急いで!」

 

「でも蓮根先輩が――」

 

「いいから!」

 

 生徒たちが動き始めた。だが、伊吹が杖を振ると、校庭の周囲へ薄い光が走り、体育館へ戻ろうとした生徒たちの前に透明な壁が現れた。

 

「何これ!?」

 

「開かない!」

 

「プロテゴ!」

 

 楓が撃つが、魔法は弾かれる。

 

「くっ……!」

 

 伊吹は静かに言った。

 

「行かなくていいよ」

 

 奎星の顔が変わる。

 

「……てめえ」

 

「見ていてほしい」

 

「解除しろ」

 

「君たちが信じている彼が、どうなるのか」

 

「解除しろ!!」

 

「蓮根奎星は、特別じゃない」

 

 下級生たちの顔が強張る。

 

「強くても、才能があっても、誰かを守ろうとしても――」

 

「やめろ」

 

 伊吹が奎星へ杖を向ける。

 

「大人になれば、いつか失敗する」

 

「やめろ!!」

 

「傷つく。誰かを失う。そして最後には――」

 

「黙ってろ!!」

 

 奎星が走った。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い閃光を伊吹が弾き、二人の間で魔法が爆ぜる。生徒たちの悲鳴が上がった。

 

「奎星!!」

 

 日向が透明な壁を殴る。

 

「くそっ! 開けろ!」

 

「蓮根先輩!」

 

「先輩!」

 

 声が聞こえる。聞こえてしまう。奎星は歯を食いしばった。最悪だ。戦いにくい。後ろに全員いる。外せない。流れ弾を出せない。大きな魔法も使えない。

 

 伊吹は、それを分かってここへ来た。

 

 杖が動く。奎星は生徒たちの位置を一瞬確認した。その一瞬で遅れた。

 

「プロテゴ!」

 

 衝撃で盾が割れ、身体が飛ぶ。

 

「奎星!」

 

 楓の声が響く。奎星は地面を転がり、すぐに立ち上がった。

 

「見るな!!」

 

 生徒たちへ叫ぶ。

 

「奎星……」

 

「見んじゃねえ!!」

 

 それでも誰も目を逸らせなかった。校庭の中央で、蓮根奎星が一人で立っている。その向こうに、救済者がいる。

 

     *

 

 同じ頃、常若の庭では伊織の声が飛んでいた。

 

「右!」

 

 御影は振り返らない。

 

「分かってる」

 

 右側から早瀬の魔法が飛び、御影の杖が短く動く。

 

「プロテゴ」

 

 盾が光を弾く。同時に高宮が前へ出た。

 

「戻りなさい」

 

「断る」

 

「学生は――」

 

「俺は教師だ」

 

「……そこ!?」

 

 蒼真が思わず叫ぶ。

 

「突っ込んどる場合ちゃうやろ!」

 

「君だって突っ込んでる!」

 

 侑李が土御門の拘束を外しながら叫び返した。

 

 御影は前へ出る。

 

「エクスペリアームス」

 

 高宮の杖が飛ぶ。そのまま次の呪文を放った。

 

「インカーセラス」

 

 早瀬の足元だけを銀の縄で縛る。鷹司が横から魔法を放つと、御影は身体をずらし、壁ではなく床へデパルソを撃った。鷹司の足元だけが横へ滑り、進路から外れる。

 

「……すごい」

 

 侑李が呟く。

 

「今さら?」

 

 伊織は教師たちではなく、床を見ていた。御影が戻ってからずっと、教師一人一人の足元とその周囲、景色が切り替わる瞬間を観察している。

 

 何かがある。

 

「御影先生!」

 

「何だ!」

 

「もう少しそのまま!」

 

「何分だ!」

 

「分かりません!」

 

「役に立たんな!」

 

「今調べてる!」

 

 伊織が珍しく声を荒げた。蒼真が眉を上げる。

 

「榊が怒鳴った」

 

「後で言って!」

 

 伊織はしゃがみ込み、杖先を床へ近づけた。教師たちの足元には何もない。少なくとも、目には見えない。だが、御影だけが違っていた。

 

「……やっぱり」

 

「何か分かったん?」

 

 蒼真が防壁を支えながら訊く。

 

「御影先生の周りだけ、ない」

 

「何が?」

 

「線」

 

 伊織は眼鏡を押し上げた。

 

「先生たち全員から、同じ場所へ細い魔力が伸びてる」

 

「線?」

 

「常若の庭そのものに繋がってる。でも御影先生だけ切れてる」

 

 侑李が土御門を見る。

 

「それが操ってる原因?」

 

「多分」

 

「多分かい」

 

 蒼真が言う。

 

「奎星みたいなこと言わないで」

 

「俺そこまで言うてへんやろ!」

 

 伊織は杖を動かし、薄い光を広く床へ這わせた。

 

「個別に切るんじゃない」

 

「何で?」

 

「数が多すぎる。それに、多分繋ぎ直される」

 

「じゃあ?」

 

 伊織の視線が廊下の先へ向く。教師たちの足元から伸びる、見えないほど細い魔力は別々に走っているが、途中で一つにまとまっていた。

 

「……あそこ」

 

 伊織が立ち上がる。廊下の壁は何の変哲もない羊脂玉に見えたが、その奥には術式が隠れている。

 

「蒼真」

 

「何や」

 

「盾、三秒だけ右に寄せられる?」

 

「三秒?」

 

「うん」

 

「何するん」

 

「壊す」

 

 蒼真が一瞬笑った。

 

「ええやん」

 

 御影が教師たちの攻撃を受け流しながら叫ぶ。

 

「さっさとしろ!」

 

「今やります!」

 

 伊織が走る。高宮の杖がこちらを向いた。

 

「学生は――」

 

「御影先生!」

 

「分かってる!」

 

 赤い光が走り、伊織の横を御影の魔法が抜けた。

 

「エクスペリアームス」

 

 高宮の杖が再び弾かれる。土御門が横へ出ると、侑李が身体を入れた。

 

「先生、ごめん!」

 

「インカーセラス!」

 

 銀の縄が土御門の腕を縛る。

 

「今!」

 

 蒼真の盾が右へ広がった。教師たちの魔法が防壁へ集中する。一秒、二秒。伊織が壁へ杖を当てる。

 

 羊脂玉の奥、何もないはずの場所へ細い術式が浮かんだ。一本、二本、十本。数えきれない線が束ねられ、結び目のようになっている。

 

「……見つけた」

 

 三秒。

 

「壊せ!!」

 

 御影が叫ぶ。

 

「レダクト!」

 

 光が結び目へ直撃した。

 

 ぱき。

 

 あまりにも小さな音だった。次の瞬間、常若の庭全体が大きく揺れた。

 

「うわっ!」

 

 侑李が壁へ手をつく。景色が乱れ、マホウトコロ、愛宕、魔法省、知らない家、白峰が一瞬ずつ重なっては剥がれていく。

 

 そして、教師たちが一斉に止まった。

 

 高宮の腕が下がり、早瀬の目が閉じ、鷹司がよろめく。土御門の身体から力が抜け、侑李が慌てて支えた。

 

「先生!」

 

 御影は杖を構えたまま様子を見ていた。やがて高宮がゆっくり瞬きをする。

 

「……何だ」

 

 声が違う。

 

「ここ……」

 

 高宮は眉間に皺を寄せ、周囲を見回した。そして御影を見る。

 

「……御影?」

 

「高宮」

 

「何でお前そんなボロボロなんだ!?」

 

「お前らのせいだ」

 

「何意味のわからんことを言っている!?」

 

 御影が小さく息を吐く。

 

「本物だな」

 

「何だそれ!」

 

 侑李の腕の中で、土御門が目を開いた。

 

「……宮本君?」

 

「先生!」

 

「あら……」

 

 自分が拘束されていることに気づき、土御門は首を傾げる。

 

「これは……?」

 

「ごめんなさい! 僕です!」

 

「そうですか」

 

「軽っ!?」

 

 少し離れたところでは、早瀬が頭を押さえながら起き上がり、鷹司も壁へ手をついた。

 

「……最悪だ」

 

「何が起きた」

 

「戻った……」

 

 蒼真が呟く。

 

「戻った!」

 

 伊織は壁に残る壊れた術式を見た。

 

「やっぱりこれだった」

 

「榊」

 

 御影が呼ぶ。

 

「はい」

 

「全員か」

 

 伊織は周囲を見回した。マホウトコロ、愛宕、白峰、魔法省。少しずつ、止まっていた大人たちが動き始めている。顔を上げ、戸惑いながら隣の人間へ声をかける。同じ言葉しか話せなかった人々が、それぞれ違う声を発し始めていた。

 

「……多分。今見える範囲では」

 

 御影はすぐに歩き出した。

 

「確認するぞ」

 

「どこへ?」

 

「マホウトコロ」

 

「奎星は!?」

 

 侑李の声に、御影の足が一瞬だけ止まった。だが、振り返らない。

 

「先に大人を全部戻す」

 

 御影は歩き続ける。

 

「蓮根が戻る場所を作る」

 

 その声に、誰も反対しなかった。

 

     *

 

 常若の庭の中に再現されたマホウトコロは、先ほどまでとはまるで違っていた。教師たちは自分の意思で歩き、高宮は状況を聞きながら怒鳴り、土御門は混乱した人間を落ち着かせ、早瀬は周囲の安全を確認している。鷹司はすでに空間の異常を調べ始めていた。

 

 スズメも戻っているはずだった。

 

「烏丸先生!」

 

 侑李が研究室の扉を開ける。机の向こうで黒い髪が揺れ、スズメが顔を上げた。

 

「……宮本君?」

 

 侑李の表情が明るくなる。

 

「戻った!」

 

「何がですか?」

 

「奎星ならここにはいません!」

 

「まだ何も聞いていません」

 

「あ」

 

 スズメの目が細くなる。

 

「蓮根君がどうしました?」

 

「…………」

 

 侑李が口を閉じた。

 

「宮本君」

 

「いや、その……」

 

 その時廊下の向こうから高宮の怒声が飛ぶ。確かに、戻っている。完全に。

 

 それを一人ずつ確認していき、最後に校長室へ向かった。御影が扉の前で足を止める。

 

「九重院」

 

 返事はない。御影の眉が僅かに寄った。

 

「校長?」

 

 スズメも後ろから声をかけるが、何も聞こえない。

 

 御影が扉へ手をかけ、開く。

 

 校長室はいつも通りだった。本棚、机、窓、柔らかな光。その机の向こうに、九重院紫苑が座っている。

 

「……校長」

 

 スズメの声が小さくなる。

 

 九重院は手に一冊の本を持ち、開いた頁へ目を落としたまま静かに読んでいた。

 

「九重院」

 

 御影が呼ぶ。

 

 返事はない。

 

「校長先生?」

 

 侑李も呼ぶ。

 

 頁が一枚めくられた。さらり、と紙の音だけが響く。

 

 伊織の顔から、少しずつ表情が消えていった。

 

「……おかしい」

 

「何が?」

 

 蒼真が訊く。

 

 伊織は壊した術式の方向を振り返った。

 

「切れてる」

 

「何がや」

 

「もう、繋がってない」

 

 九重院へ近づき、杖を向ける。薄い光で確認すると、他の教師たちと同じ線はどこにもなかった。

 

「じゃあ何で戻らないの?」

 

 侑李が九重院を見る。

 

 誰も答えられなかった。

 

 九重院紫苑は、ただ本を読んでいる。呼びかけても顔を上げず、まるで最初からこの場所に自分の意思で座っているかのように。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。