マホウトコロ   作:西野圭吾

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第15話 激闘の末に

 

 九重院紫苑は、校長室の机に向かったまま本を読んでいた。頁をめくる音だけが、静かな部屋に規則正しく響いている。御影が名前を呼んでも、机の横まで歩み寄っても、九重院の視線は文字の上を滑り続けていた。呼吸も脈も正常で、伊織が見つけた、常若の庭から教師たちへ伸びていた魔力の線もすでに消えている。それでも、九重院だけは戻ってこなかった。

 

 御影はしばらく彼女を見下ろしていたが、やがて腰へ手を伸ばし、杖を抜いた。その動きを見た瞬間、スズメの表情が変わる。

 

「御影先生」

 

「なんだ」

 

「校長先生ほどの術者に入るのは危険ですよ」

 

 御影の杖先が、九重院の額へ向く。スズメはその横顔を見つめた。何をしようとしているのか、訊く必要はなかった。

 

 ずっと以前、星迎祭の黒曜の門に呑まれ、自ら偽物の過去へ残ろうとしていた御影の精神へ、スズメも同じように入ったことがある。脈を確かめ、額へ杖を向け、レジリメンスでその奥へ踏み込んだ。御影玄一郎が失った家族、小夜、若い斎賀と真壁、誰も死なない世界。そこで十二歳へ戻っていた御影へ、スズメは手を伸ばした。

 

 あのときは、戻ってこられた。けれど、代償がなかったわけではない。他人の記憶へ深く入り込み、幻覚そのものとぶつかった直後、立っていることすら難しいほど精神を削られたのだ。まして相手は、九重院紫苑である。

 

 スズメがもう一度口を開こうとすると、御影が横目だけを向けた。

 

「誰が言ってる」

 

「…………」

 

 スズメの口が止まる。御影は小さく笑い、九重院へ杖先を向ける。

 

「レジリメンス」

 

 世界が落ちた。

 

     *

 

 最初に見えたのは、今より少し古いマホウトコロの校庭だった。羊脂玉の壁は同じだが、回廊の形も植えられている木々も僅かに違う。その中央に、一人の少年が立っていた。

 

『もう一度お願いします』

 

 細身で、癖のない黒髪をした少年だった。整った顔立ちの中で、目だけが妙にまっすぐだった。その前には、今より若い九重院紫苑が立っている。

 

『いいでしょう。ですが、今度は速さではなく精度を意識してください』

 

『はい』

 

 少年が杖を構える。魔法が走り、一度目の失敗を二度目には直し、二度目に残った僅かな癖を三度目には消した。九重院の目が僅かに大きくなる。

 

『……なるほど』

 

 少年が振り返る。

 

『駄目でしたか?』

 

『逆です』

 

 九重院は笑った。

 

『篠宮君。あなたには、とても大きな才能があります』

 

 少年の顔が明るくなり、世界が変わった。

 

     *

 

 教室では、少年の周囲に声が飛び交っていた。

 

『篠宮ならできるだろ』

 

『頼むよ』

 

『また一番?』

 

『やっぱ天才だな』

 

 少年は笑っている。

 

『うん』

 

 場面が廊下へ移る。九重院が少年を呼び止め、課題を示した。

 

『この課題も、もし余裕があるなら挑戦してみますか?』

 

『やります』

 

『無理をする必要はありませんよ』

 

『大丈夫です』

 

 訓練場では、別の生徒たちが口々に言った。

 

『伊吹ならできる』

 

『任せた』

 

『お前が一番得意だろ』

 

『分かった』

 

 図書室では、深夜になっても少年が一人で大量の本を読み続けていた。目の下には薄い隈がある。それでも頁をめくりながら、小さな声で呟く。

 

『もっとできるようにならないと』

 

 誰にも聞こえていないと思っていた。

 

『期待されてるから』

 

 その言葉は、九重院にも届いていなかった。

 

     *

 

 卒業の日、少し大人になった篠宮伊吹が禍祓官の制服を着て、九重院へ頭を下げていた。

 

『行ってきます』

 

『はい』

 

 九重院は穏やかに笑う。

 

『あなたなら、きっと多くの人を助けられます』

 

 伊吹は一瞬だけ黙り、それから笑った。

 

『はい』

 

 景色が次々に変わる。任務、救助、倒壊、火災、呪い、負傷者。何人も、何十人も、伊吹はいつも前にいた。

 

『篠宮を呼べ!』

 

『篠宮なら間に合う!』

 

『伊吹なら何とかできる!』

 

『任せたぞ!』

 

 期待も信頼も称賛も、どれも善意だった。だからこそ、伊吹は断れなかった。

 

『はい。やります』

 

『分かりました』

 

『僕が行きます』

 

『任せてください』

 

 九重院は、その言葉を誇らしく聞いていた。自分の教え子が人を救っている。学生だった少年が立派な禍祓官になり、たくさんの命を守っている。だから、気づかなかった。

 

 いつから「できます」が「やらなければ」へ変わったのか。

 

     *

 

 赤い空の下で、建物が崩れていた。叫び声と粉塵が渦巻き、魔法の光があちこちで弾けている。御影はそれを知っていた。ついさっき、奎星の向こうで救済者が語っていた過去とは違う。今度は、九重院紫苑の記憶だった。

 

 九重院は魔法災害の報告書を読んでいた。負傷者数、被害範囲、救助者数。その中に、百人以上を篠宮伊吹が救ったという記録がある。その一文の横には、死者の名が一つだけ記されていた。伊吹の、学生時代からの親友だった。

 

 場面が病院の廊下へ移る。伊吹は煤と乾いた血で汚れた制服のまま、椅子に一人で座っていた。目の前を、救助された人々の家族が通り過ぎていく。

 

『ありがとうございました』

 

『あなたのおかげです』

 

『息子が助かりました』

 

『本当に、ありがとうございます』

 

 伊吹は一人一人へ頭を下げる。

 

『……いえ』

 

 そして、笑った。

 

『よかったです』

 

 その笑顔を、少し離れた場所から九重院が見ていた。声をかけようとして、やめる。忙しいだろう。疲れているだろう。今はそっとしておいたほうがいい。また後で話せばいい。時間はある。

 

 そう思った。

 

 世界が暗くなる。

 

『また後で』

 

 その日は来なかった。

 

     *

 

 次に見えた伊吹は、もう笑っていなかった。資料、研究、古い魔法、精神術、時間、生命、死、未来。九重院の記憶の中で、いつか伊吹は問いかけていた。

 

『人は、どうして先へ進まなければならないんでしょう』

 

 九重院は答えられなかった。あるいは、答えようとした頃には、伊吹はもう遠くへ行っていた。

 

 そこから先の記憶は、何度も同じ場所へ戻る。

 

『あなたには、とても大きな才能があります』

 

『あなたなら、きっと多くの人を助けられます』

 

『期待しています』

 

『あなたなら』

 

『あなたなら』

 

『あなたなら』

 

 言葉が重なっていく。その向こうで、少年の伊吹が笑う。

 

『はい』

 

 少し成長する。

 

『はい』

 

 禍祓官になる。

 

『はい』

 

 傷だらけになる。

 

『はい』

 

 親友の遺体の横へ座る。

 

『はい』

 

 最後には、真っ白な服を着た救済者が立っていた。

 

『分かりました』

 

 九重院の身体が震える。

 

「……違う」

 

 御影が声の方を見る。景色が変わった。

 

     *

 

 古い教室だった。窓の外には夕暮れが広がり、机と椅子、黒板だけが残されている。誰もいない教室の中央で、九重院紫苑が一人、膝の上に本を置いて座っていた。外の身体と同じ本だが、頁は開いているだけで、読まれてはいない。

 

「私が……あの子へ期待をかけた」

 

 誰も答えない。

 

「才能を認めることが、あの子のためだと思っていました。できることを褒めて、できるから任せて、できるからもっと先へ行けると」

 

 九重院の指が頁を掴む。

 

「それを、あの子がどう受け取っていたのか……気づかなかった」

 

 期待を、伊吹が義務として背負い始めたことに。できるなら、やらなければならない。救えるなら、救わなければならない。強いなら、自分が前へ出なければならない。人より多く持っているなら、人より多く背負わなければならない。

 

「……教師なのに」

 

 九重院の声が震える。

 

「何も見えていなかった」

 

 そのとき、教室の向こうから声がした。

 

『そうですね』

 

 救済者の声だった。姿はない。ただ、この世界そのものから響いている。

 

『あなたは彼を育てた』

 

 九重院が目を閉じる。

 

『あなたが期待した』

 

『あなたが前へ進ませた』

 

『そして彼は壊れた』

 

「…………」

 

『あなたには、もう彼を救う資格はない』

 

 優しい声だった。だからこそ、九重院の肩から力が抜ける。

 

 御影の眉間に深い皺が寄った。

 

「……くだらん」

 

 九重院の顔が上がる。

 

「…………御影先生?」

 

 御影は教室の入口に立っていた。黒灰色の長衣も、左頬の傷も、さっき奎星に散々叩きのめされたままだった。

 

 御影は教室へ入り、机の横で足を止める。

 

「篠宮伊吹」

 

 九重院の顔から笑みが消えた。

 

「……見たのですね」

 

「ああ」

 

「全部」

 

「大体な」

 

「あなたは、私を責めないのですか」

 

「何でだ」

 

「私は――」

 

「お前があいつの親友を殺したのか」

 

「違います」

 

「災害を起こしたのか」

 

「違います」

 

「篠宮に常若の庭を作れと言ったか」

 

「……違います」

 

「なら、全部お前の責任にするな」

 

 九重院の目が僅かに開く。御影は腕を組んだ。

 

「責任と原因を混同するな」

 

 どこかで、同じ言葉を聞いたことがある。自分のせいで友人たちが巻き込まれたのではないかと、勝手に敵の責任まで背負おうとしていた馬鹿な生徒へ向けた言葉だった。

 

 九重院が小さく笑う。

 

「……あなたらしいですね」

 

「お前が俺を雇ったんだろ」

 

 夕陽が傾いていく。九重院は本へ目を落とした。

 

「ですが、私は気づけなかった。伊吹君が苦しんでいたことに。彼が期待を義務へ変えていたことに。友人を失ってから、壊れていったことにも」

 

 九重院の指が震える。

 

「私は教師でした」

 

「そうだな」

 

「なら――」

 

「今もだ」

 

 九重院が止まった。

 

 御影は、まっすぐ彼女を見る。

 

「蓮根に、一学期の修了認定証を渡したとき、何て言った」

 

「…………」

 

 九重院の目が僅かに動く。

 

 古い教室の景色が揺れた。

 

 夕暮れの光が薄れ、代わりに、別の校長室が浮かび上がる。

 

 一学期の終わり。

 

 まだ今より幼さの残る奎星が、九重院の机の前に座っている。横にはスズメがいて、少し離れた場所には御影もいた。

 

 九重院の手には、一枚の証書。

 

『この結果は、あなたの魔力量に対する評価ではありません。測定値が一万を超えているからでも、珍しい魔法を使ったからでもありません』

 

 奎星が、少しだけ目を見開く。

 

『あなたが、一人の生徒として学び続けたことへの評価です』

 

 証書を受け取った少年が、それまでの騒がしさを忘れたように黙っていた。

 

 景色が消える。

 

 再び、夕暮れの教室。

 

 九重院は何も言わなかった。

 

「篠宮のとき、お前はあいつの才能を見た」

 

「…………はい」

 

「できることを見た。できるから任せた。もっとできると思った」

 

 九重院の指が、閉じた本の表紙へ触れる。

 

「はい」

 

「蓮根も似たようなもんだろ」

 

 九重院が顔を上げる。

 

「馬鹿みたいな魔力量があって、古代魔術まで使えて、放っとけば勝手に前へ出る」

 

「……言い方がありますよ」

 

「事実だ」

 

 御影は眉一つ動かさない。

 

「でも、お前はあいつに同じことをしなかった」

 

「…………」

 

「力があるから偉いとも言わなかった。できるから全部やれとも言わなかった」

 

 九重院の目が揺れる。

 

「一人の生徒として見た」

 

 何も聞こえなくなった。

 

 夕暮れの教室も、本も、救済者の声も、一瞬だけ遠ざかる。

 

「それは――」

 

「何でだ」

 

 九重院は答えなかった。

 

 けれど、その沈黙の中で、自分自身の記憶が答えていた。

 

 篠宮伊吹。

 

 できる生徒だった。

 

 だから褒めた。

 

 だから任せた。

 

 だから、もっと先へ行けると言った。

 

 そして気づけなかった。

 

 できることと、やらなければならないことを、あの少年がいつから同じものとして抱え始めたのか。

 

 その後に出会った、もう一人の規格外の生徒。

 

 蓮根奎星。

 

 測定器を壊すほどの魔力。

 

 神代榊。

 

 古代魔術。

 

 幾度も学校を救った力。

 

 けれど、一学期の最後に自分が渡したものは、そのどれに対する賞でもなかった。

 

 一人の生徒として学び続けたことへの、認定証だった。

 

「……同じことを」

 

 九重院が小さく言った。

 

「繰り返したくなかったのかもしれません」

 

「かも、じゃないだろ」

 

 御影が言う。

 

 九重院が目を上げる。

 

「昔、間違えた」

 

「…………」

 

「だから次は、生徒を見るようにした」

 

 御影は腕を組んだまま、九重院を見ていた。

 

「それを何て言うんだ」

 

「…………」

 

「間違えなかった奴だけが教師なら、教師なんか一人も残らん」

 

 九重院の唇が僅かに震える。

 

「お前は篠宮に教え損ねた」

 

 御影は続ける。

 

「だから、次の生徒には同じことをしないようにした」

 

「…………」

 

「それでも足りなかったと思うなら」

 

 御影が手を差し出した。

 

「今度は本人に言え」

 

 九重院が、その手を見る。

 

「できるからって、全部背負わなくていいって」

 

 御影の声は低かった。

 

「止まってもいいって」

 

 一拍。

 

「今から教えろ」

 

 九重院の目に、僅かに光が戻る。

 

「……御影先生」

 

「だったら」

 

 差し出した手は動かさない。

 

「まだ教師だ」

 

 九重院は、その手を見つめた。

 

「私に……伊吹君を救う資格があるのでしょうか」

 

 御影の眉が寄る。

 

「知らん」

 

「…………」

 

「資格の話なんかしてない」

 

 九重院が瞬きをする。

 

「戻るか。ここに残るか。お前が選べ」

 

 長い沈黙のあと、九重院はゆっくり本を閉じた。

 

「……本当に、世話のかかる先生ですね、あなたは」

 

「誰が言ってる」

 

 九重院の指が、御影の手へ触れる。

 

「帰ります」

 

「ああ」

 

「伊吹君のところへ」

 

 御影が僅かに笑った。

 

「……世話のかかる校長だな」

 

 世界が割れた。

 

     *

 

「っ――!」

 

 御影の身体が大きく揺れた。スズメがすぐに腕を掴む。

 

「御影先生!」

 

 校長室へ戻っている。机も、本も、窓も元の位置にあった。

 

「はっ……」

 

 御影が荒く息を吐く。

 

「だから言ったでしょう!」

 

「うるさい……」

 

「顔色が酷いです!」

 

「知るか」

 

「座ってください!」

 

「後だ」

 

「御影先生!」

 

 そのとき、本の頁がさらりと動いた。全員が振り返る。

 

 九重院の指が止まり、ゆっくりと本が閉じられる。九重院紫苑が顔を上げ、その目が御影を捉えた。

 

「……無茶をしますね」

 

 御影が鼻で笑う。

 

「誰が言ってる」

 

「私はもう少し慎重でした」

 

「嘘をつけ」

 

「…………」

 

 スズメが二人を交互に見る。

 

「校長先生?」

 

 九重院はスズメへ目を向けた。

 

「烏丸先生」

 

「……はい」

 

「ご心配をおかけしました」

 

 スズメの肩から、はっきりと力が抜ける。

 

「……戻られたんですね」

 

「はい」

 

 その瞬間、遠くで常若の庭全体が震えた。九重院の顔が変わる。

 

「……伊吹君」

 

     *

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い光が校庭を走り、伊吹が身体を傾けて避けた。奎星は間髪を入れずにデパルソを放ち、伊吹がそれを防ぐ隙へ踏み込む。

 

「うおおおおおっ!」

 

 今度は伊吹の魔法が奎星の肩を掠めた。血が飛ぶ。それでも奎星は止まらない。

 

 もう、綺麗な戦いではなかった。互いに制服は破れ、顔は血と土で汚れ、息は上がっている。奎星の左肩はまともに上がらず、脇腹の傷も開いていた。伊吹も無傷ではない。頬に赤い線が走り、白い服は泥に汚れ、左袖は裂けている。

 

 それでも、まだ伊吹の方が強かった。正面から撃ち合えば押される。速度も、精度も、技術も、奎星一人では届かない。

 

「くっそ……!」

 

 奎星が神代榊を振る。伊吹が弾き、返ってきた魔法を奎星が避けた、そのときだった。

 

 伊吹の身体が僅かに止まった。

 

「……?」

 

 杖先がぶれる。伊吹自身も自分の手を見た。ほんの一瞬、常若の庭で一人の教師の意識が戻ったのだ。伊吹の魔法が揺らぐ。

 

 奎星の口元が上がった。

 

「どうしたぁ! 調子わりぃか!?」

 

「っ――!」

 

 奎星が体ごと突っ込んだ。伊吹が杖を上げるより先に、奎星の肩が胸へ入る。押す。一歩、二歩、三歩。伊吹の背中が羊脂玉の外壁へ叩きつけられた。

 

 奎星は伊吹の胸元を掴んだまま、神代榊を持つ右手を捻る。杖先が伊吹の胸へ触れた。

 

「ステューピファイ!!」

 

 赤い光が爆ぜる。伊吹は身体ごと横へ倒れ、ほんの数センチの差で閃光を避けた。赤い光が白い服を焦がし、背後の羊脂玉が爆ぜる。

 

「くそっ」

 

 伊吹の肘が奎星の顎へ入り、続けて腹へ叩き込まれる。

 

「がっ!」

 

 奎星は顔を歪めながらも離れず、伊吹の服を掴んだまま額を叩き込んだ。

 

 拳、肘、杖、魔法。もう何でもよかった。距離を取れば伊吹が有利になる。だから奎星は離れず、伊吹が押し返せば食らいついた。二人はもつれたまま芝生へ倒れ、すぐに立ち上がる。

 

 奎星の杖が上がる。伊吹が手首を掴む。奎星が蹴り、伊吹が肩で受ける。

 

「ステュ――」

 

 呪文を唱える前に伊吹の手が杖を逸らし、赤い光が夜空へ飛んだ。その流れ弾が体育館の方角へ向かう。

 

「楓!」

 

「分かってる!」

 

 楓が前へ出てプロテゴを唱え、白銀の盾を生徒たちの前へ広げた。赤い光が盾へぶつかり、楓の靴が芝を滑る。

 

「日向!」

 

「おう!」

 

 日向が隣へ入り、二枚目の盾を重ねる。岳も無言で前へ出て杖を構えた。散った魔法が盾の表面を走り、夜空へ弾ける。

 

「全員下がれ!」

 

 日向が生徒たちへ怒鳴った。

 

「壁から離れろ!」

 

 岳も短く指示する。

 

「固まるな」

 

「走って!」

 

 楓が叫ぶ。

 

「奎星の後ろには絶対行かないで!」

 

 伊吹の拳が奎星の頬へ入った。

 

 泥と血と汗にまみれ、赤い光と白い光が校庭を飛び交う。綺麗なものなど、もう何も残っていなかった。

 

 奎星は転がって立ち、伊吹も膝をついて起き上がる。撃つ、防ぐ、外す、避ける、殴る、押す。また撃つ。どちらも倒れない。倒れきれない。

 

 そのたびに、伊吹の動きが少しずつ止まり始めていた。常若の庭で、もう一人、また一人と、奪われていた意識が戻っていく。

 

「何を……した……!」

 

 伊吹が歯を食いしばる。

 

「知るかよ!」

 

 奎星が笑った。

 

「俺、ずっとここにいるじゃん!」

 

「なら……誰が――!」

 

「知らねえけど!」

 

 奎星が身を低くする。

 

「多分、あのクソ教師だろ!!」

 

 至近距離からデパルソを叩き込む。伊吹の身体が吹き飛び、芝生を削った。

 

「っ……!」

 

「どうだ!!」

 

「奎星!」

 

 楓の怒声が飛ぶ。

 

「何!?」

 

「前!」

 

「分かって――」

 

 伊吹はもう起きていた。

 

「早っ!」

 

 白い光が走る。

 

「プロテゴ!」

 

 盾が砕け、奎星の身体が飛んだ。背中から芝へ叩きつけられ、空気が抜ける。

 

「……っ、は……」

 

 伊吹も、もう追撃できなかった。膝へ手をつき、荒く呼吸している。二人とも限界が近い。それでも互いに杖を離さない。

 

 奎星が立ち、伊吹も立つ。十メートルほどの距離は、御影との朝練と同じだった。けれど、足元は泥だらけで、二人の身体は傷だらけだった。

 

「……まだやんの?」

 

 奎星が息を切らす。

 

「君が……諦めれば……終わるよ」

 

「無理」

 

「そう……」

 

「お前が諦めて」

 

「無理だね」

 

 二人が杖を上げた、その瞬間、地面の下で何かが鳴った。低い音が腹の奥へ響き、奎星は足元を見た。神代榊が、これまでとは逆方向へ強く引かれている。

 

「何だ……?」

 

 伊吹の顔が変わる。

 

 次の瞬間、轟音が響いた。

 

 マホウトコロ全体が揺れ、校舎も回廊も体育館も、羊脂玉の屋根も、地震のように大きく軋んだ。

 

「うわっ!」

 

「きゃああっ!」

 

 生徒たちが悲鳴を上げる。

 

「全員伏せろ!」

 

 岳が叫ぶ。

 

「壁から離れて!」

 

 楓が生徒たちを押す。

 

「何だこれ!?」

 

 日向が周囲を見回す。

 

 奎星は神代榊を地面へ向けた。流れが変わっている。今まで東京へ、魔法省へ、常若の庭へ吸われ続けていた巨大な霊脈が、本来の道へ戻っていた。

 

「……戻ってる」

 

「何が!?」

 

「霊脈!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「先生たち……やったんだ!」

 

 伊吹の目が大きくなる。

 

「そんな……」

 

 さらに地面が揺れた。今度は大きい。羊脂玉の校舎から、嫌な音が響く。

 

 ばき、と。

 

 楓が上を見た。屋根の一部、巨大な装飾梁が割れている。何十人分もの重さがある羊脂玉の塊が、下級生たちのいる場所へ落ち始めた。

 

「離れて!!」

 

 楓が叫ぶ。

 

「うわあああ!!」

 

「逃げろ!!」

 

 日向が杖を上げる。

 

「デパルソ!!」

 

 衝撃が瓦礫へぶつかるが、動かない。楓が盾を広げ、岳も杖を向けた。三人分の魔法が重なっても、落下してくる巨大な塊は止まらない。盾へ触れた瞬間、表面に亀裂が走った。

 

「っ……!」

 

 楓の膝が沈む。

 

「重っ……!」

 

「押せ!!」

 

 日向が叫ぶ。

 

「やってる!!」

 

 盾が割れる。

 

 その下には、逃げ遅れた子供たちがいた。

 

「――っ!」

 

 奎星が走ろうとした。だが、もっと近くにいた人間がいた。

 

 白い服の伊吹だった。

 

 伊吹は考える間もなく杖を上げた。

 

「アレストモメンタム」

 

 魔力が弾け、落下していた瓦礫が空中で止まった。

 

「…………え?」

 

 奎星の足が止まる。楓も、日向も、岳も、生徒たちも、全員が伊吹を見た。伊吹自身も驚いたような顔をしている。自分が何をしたのか、今になって気づいたようだった。

 

「お前……」

 

 奎星が呟く。

 

 伊吹の腕が震える。

 

「ぐっ……!」

 

 巨大な瓦礫は重く、今までの戦いで魔力も体力も削られている伊吹には、完全に支えきれない。少しずつ、瓦礫が下がっていく。

 

「伊吹!」

 

「……っ!」

 

「持たせろ!!」

 

 奎星が隣へ走った。

 

「何を――」

 

「黙ってろ!」

 

 神代榊を上げる。

 

「うおおおおおおお!!」

 

 魔力を全力で流し込む。今度は誰かを倒すためではない。二人の魔法が、同じ瓦礫を支えた。

 

「楓!!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「今!!」

 

 楓が我に返る。

 

「全員走って!!」

 

「急げ!!」

 

 日向が子供たちを押し、岳が最後尾につく。

 

「止まるな!」

 

「体育館から離れて!」

 

 小さな足音が一斉に校庭を走る。最後の下級生が瓦礫の下から抜けた。

 

「全員出た!!」

 

 楓の声が響く。

 

「奎星!」

 

「おう!」

 

 奎星が伊吹を見る。

 

「離すぞ!」

 

「……君に指示されるとはね……」

 

「今それ言う!?」

 

「三」

 

「合わせろよ!」

 

「二」

 

「お前が数えるの!?」

 

「一」

 

「落とせ!!」

 

 二人が同時に杖を下げた。轟音とともに巨大な瓦礫が校庭へ落ち、土と芝、白い破片、粉塵が一気に舞い上がる。

 

「……っは……!」

 

 奎星が膝へ手をつく。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 少し離れた場所で、伊吹も同じように息を吐いていた。白い服はもう白くない。泥、血、煤、破れた袖。奎星も同じだった。

 

 二人とも、ぼろぼろだった。さっきまで本気で殺し合っていたとは思えないほど、互いの姿は崩れている。

 

 奎星は黙って伊吹を見る。伊吹は瓦礫の向こう、逃げ切った子供たちを見ていた。全員、無事だった。その事実を確かめるように、伊吹の肩がほんの僅かに下がる。

 

「……お前」

 

 奎星が声をかける。伊吹が振り返り、二人の目が合った。何かを言おうとした、その瞬間だった。

 

「篠宮くん……?」

 

 後ろから声がした。

 

 伊吹の身体が完全に止まる。

 

 奎星も振り返った。

 

 校庭の端、さっきまで誰もいなかった場所に人が立っている。九重院紫苑。その横には御影、スズメ、伊織、侑李、蒼真。常若の庭にいた人間たちが、九重院の姿くらましによってまとめて現れていた。

 

 御影は相変わらずぼろぼろの長衣をまとい、スズメはすぐに奎星の怪我へ目を向けている。伊織は周囲の崩落を確認し、侑李は救護へ走り出しかけ、蒼真は大きく息を吐いた。

 

 けれど、九重院だけは誰も見ていなかった。ただ一人、何十年ぶりに見る教え子だけを見つめている。

 

「……篠宮くん」

 

 もう一度、九重院が呼ぶ。

 

 救済者と名乗った男の手から、杖先が僅かに下がった。

 

 伊吹の唇が動く。その顔から、一瞬だけ殺意も、救済者の笑みも、何もかもが消えた。

 

「……校長……?」

 

 その声だけが、昔の少年のようにひどく小さかった。

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