「……校長……?」
伊吹の声は、ひどく小さかった。さっきまで校庭いっぱいに殺意を満たしていた男と、同じ人間の声には聞こえない。
九重院は何も言わず、ゆっくり歩き出した。一歩、また一歩と近づいていくのに、伊吹は動かなかった。いや、動けなかった。杖を持った腕だけが、かすかに震えている。
奎星も神代榊を下げなかった。伊吹が何をするか分からない。つい数分前まで、自分の首を落とそうとしていた男なのだ。それでも、もう先ほどまでの伊吹には見えなかった。
九重院が近づくにつれ、伊吹の喉が小さく動いた。
「……校長」
「はい」
「僕のこと……」
声が掠れる。
「覚えて……?」
九重院の足が止まった。泥と血で汚れた白い服、頬の傷、疲れ切った顔。その姿には何十年もの時間が積み重なっている。それでも九重院の目に浮かんだものは、奎星がよく知っているものだった。教師が、生徒を見る目。
「忘れるわけないでしょう」
伊吹の目が大きくなる。九重院は静かに笑った。
「私の可愛い生徒の、篠宮伊吹君です」
「…………」
伊吹の顔が崩れた。
最初は声にもならなかった。口を開いては閉じ、呼吸だけが何度も喉へ引っかかる。
「……こう、ちょう……」
「はい」
「僕……」
杖が手から落ちた。からん、と乾いた音を立てて芝生の上を転がる。伊吹はその場へ膝をつき、両手で顔を覆った。
「う……」
肩が震える。
「うぁ……っ」
「伊吹君」
「うあああああああああああああああっ!!」
泣いた。声を抑えることも、顔を隠すことも、呼吸を整えることもできず、ただ子供のように泣き続けた。
「校長……っ!」
地面へ手をつき、何度も九重院を呼ぶ。
「校長……校長っ……!」
「はい」
「僕っ……!」
何を言いたいのかさえ分からない。涙と呼吸で言葉は途切れ、さっきまでの無機質な声は、もうどこにもなかった。
奎星は、ただそれを見ていた。
驚いていた。篠宮伊吹という男を、ずっと何か壊れた機械のような人間だと思っていたのだ。笑っていても、その奥には何もない。人を救うと言いながら誰の言葉も聞かず、勝手に未来を決め、勝手に子供のままでいろと言う。拒めば殺す。もうどこか、人間から外れてしまった奴なのだと。
けれど、違った。
奎星は、ようやく気づいた。この人は子供のまま成長できなかったのではない。大人になるしかなかった子供だったのだ。できるから、強いから、任されたから、誰かが助けを求めたから。止まる方法を知らないまま、泣く暇もないまま、失ったものを失ったまま、ずっと大人をやらなければならなかった。
九重院が伊吹の前へ膝をついた。
「伊吹君」
伊吹が顔を上げる。九重院はその身体を抱き締めた。
「…………っ」
伊吹の目が見開かれる。九重院の腕が、昔の教え子の背中へ回った。
「ごめんなさい」
「…………」
「私のせいで」
九重院の声も、ほんの僅かに震えていた。
「本当に、ごめんなさい」
「違う!!」
伊吹が叫び、九重院の服を掴んだ。
「違う……! 僕が……!」
涙が落ちる。
「僕が弱かったから……!」
「伊吹君」
「僕が弱かったから!」
「もっと強ければ!」
伊吹は泣きながら叫んだ。
「あいつも助けられた! 僕が間違えなければ! 僕がもっと……もっとちゃんとしてれば……!」
声が潰れる。
「誰も……誰も死ななかったのに……!」
九重院は何も言わなかった。否定もしない。すぐに慰めることもしない。ただ抱き締めたまま、伊吹の言葉を聞いていた。
「僕……考えたんです……」
伊吹が九重院の肩へ額を押しつける。
「ずっと……ずっと考えたんです……」
「はい」
「どうしたら……もう誰もあんなことにならないか……」
「はい」
「どうしたら……失わなくて済むのか……」
「はい」
「だから……」
伊吹の身体が震える。
「みんな、子供のままならいいんだって思ったんです」
「…………」
「そっちの方が……みんないいって……」
九重院の腕に、少しだけ力が入った。
「学校にいて……友達がいて……先生がいて……明日も同じで……卒業しなければ……大人にならなければ……」
伊吹の声が上擦る。
「誰も僕みたいにならないって……! それなら……!」
そこで、もう何も言えなくなった。伊吹はただ泣き続けた。九重院は何も急かさなかった。背中を撫でることさえせず、ただそこにいた。伊吹が自分の言葉をすべて吐き出すまで、黙って聞き続けていた。
*
どれくらい経ったのか、奎星には分からなかった。数分かもしれないし、もっと短かったのかもしれない。校庭には誰も大きな声を出す者はいなかった。下級生たちも、楓も、日向も、岳も、伊織も、侑李も、蒼真も、教師たちも、静かに二人を見守っていた。
やがて伊吹が九重院の腕の中からゆっくり顔を上げた。目は真っ赤で、頬は涙に濡れている。その顔が奎星を向いた。
「何だよ」
奎星はまだ神代榊を持っていたが、杖先はもう伊吹から外れていた。
「君は……」
「ん?」
「君は、なんで……なんでそんなに卒業したいんだ……」
声はまだ掠れていた。
「辛いことが待っているのに!!」
奎星はぽかんとした。伊吹は本気だった。
「失敗するかもしれない! 誰かを失うかもしれない! 今より苦しいことだって……!」
「そんなんお前……」
沈黙が一瞬走る。
「卒業しねえとスズメちゃんと結婚できねえだろうが!!」
しん、と静まり返った。海の音も、風の音も、星空の下の気配も、すべてが一瞬止まったようだった。
楓が両手で頭を抱える。
「……ほんっと……」
日向はすっと後ろを向いた。肩が震えている。
「日向」
岳が見る。
「笑ってない」
「震えてる」
「寒い」
「嘘」
御影は何とも言えない顔で空を見上げていた。知らない、俺は何も聞いていない、とでも言いたげな表情だった。
そしてスズメは、口を開けたまま完全に止まっていた。瞬きすらしない。
伊吹が呆然と奎星を見ていた。
「スズメちゃんが言ってた」
「……」
「消えちゃうから綺麗なんだぞ」
宵星。奎星はちゃんと覚えていた。
「そんな……」
「え?」
「そんなバカなことで……」
「バカなことじゃねえ!」
奎星は即答した。
「俺にとっては超大事だ!!」
「…………」
「それだけじゃねえし!」
奎星は神代榊を握り直した。
「俺は!」
声が校庭へ響く。
「禍祓官になって!」
御影の顔が奎星へ向いた。さっきまで気まずそうに空を見ていた表情が変わり、真剣な目で奎星を見る。
「御影先生みたいになりたい!」
「…………」
「最初に魔法を知ったときからそうだった! 強くなって、人を助けられるようになって、いつか!」
御影と目が合う。
「この人よりすげえ禍祓官になる!」
御影の眉が僅かに動いた。
「あと!」
声が一気に現実的になる。
「金稼いで、美味いもん食いたい!」
岳が深く頷いた。
「あと友達と旅行とか行きてえ!」
奎星が言った。
「東京とかじゃなくて!」
「東京は近いな」
日向がようやく前を向く。
「海外とか!」
「おお」
「京都とか!」
「急に国内!」
「沖縄とか!」
「お前、南硫黄島住みだろ!」
「観光地じゃねえんだよ、ここは!」
楓が呆れながら笑った。日向と目が合い、二人ともほんの少しだけ笑う。
「……旅行か」
「行きたいわね」
「卒業したら行こうぜ」
奎星が笑う。その横で侑李が、なぜか自分も当然含まれているような顔で頷いていた。
「うん」
伊織がなんだこいつという顔で侑李を見る。
「僕しおり作るね」
「やめて」
伊吹は、そんな彼らを見ていた。奎星がもう一度、自分を見る。
「怖いよ」
声が少しだけ静かになる。
「しんどいこともあると思う。多分、また失敗する。また誰かに怒られる」
後ろでスズメの眉が僅かに動いた。
「また御影先生にぶっ飛ばされる」
御影は当然だという顔。
「でもさ」
風が校庭を抜ける。
「俺には、やりてえことがあるから。だから行くんだよ」
「…………」
「怖くてしんどくても!」
奎星は胸を張った。
「俺にはやりてえことがあるから!!」
伊吹は何も言えなかった。長い沈黙のあと、肩から力が抜ける。
「……なんだ、それ」
「何が」
「僕は……」
伊吹が目元を拭う。
「何十年も……」
小さく笑った。
「何十年も考えたのに……未来がどうとか、責任がどうとか、死ぬことがどうとか……」
奎星を見る。笑いながら、また涙が落ちた。
「君は……結婚して、美味しいものを食べて、旅行したいからって……」
「禍祓官も!」
「……そうだったね」
「そこ一番大事だから!」
「最初は結婚だっただろ」
御影が言った。
「先生、聞いてたの!?」
「当たり前だ全員聞いてる」
「うわあああああ!」
奎星が頭を抱える。伊吹はとうとう声を漏らして笑った。
「……なんてバカなんだ……」
「あぁ!?」
「本当に……」
涙を拭いながら、伊吹は言った。
「バカだよ、君……」
「お前に言われたくねえ!」
「はは……」
その笑いは、奎星が初めて聞く篠宮伊吹の笑い声だった。
*
やがて九重院が立ち上がり、伊吹もゆっくりと立った。伊吹はもう杖を拾わなかった。杖は芝生の上へ転がったままだ。周囲を包んでいた透明な壁も、いつの間にか消えている。
子供たちは教師たちのもとへ集まり始め、魔力の流れも落ち着きつつあった。神代榊の中で暴れていた脈動が、少しずつ静かになっていく。
「……終わった?」
日向が言った。
蒼真が周囲を見る。
「たぶんな」
「それ、奎星の『多分』とどっちくらい信用できる?」
「失礼やな!」
「どっちも嫌」
伊織が即答する。
「ひどない?」
奎星が大きく息を吐き、その場へ座り込みそうになったとき、スズメの声が飛んだ。
「蓮根君」
「はい」
反射的に返事をする。
「こちらへ」
「え」
「怪我を見ます」
「あ、うん」
「左肩と脇腹、それから頬。歩けますか?」
「歩ける歩ける」
「本当に?」
「はい」
「では、こちらへ」
「はい」
さっきまでスズメの前で結婚と言い放った男とは思えない従順さだった。
「……急に弱くなった」
楓が呟く。
「烏丸先生の前だけな」
日向が笑った。
「聞こえてるぞ!」
奎星が振り返った、そのときだった。肩へ大きな手が置かれる。
「蓮根」
「ん?」
御影だった。
「ちょっと来い」
「何?」
「いいから」
「怖」
「来い」
「はい」
御影は奎星を数歩離れた場所へ連れていくと、耳を貸すよう促した。
「何だよ」
「耳を貸せ」
「え?」
奎星が顔を寄せる。御影は低い声で何かを耳打ちした。
「…………」
奎星の目が少しずつ大きくなる。
「え」
御影が続ける。
「…………」
「マジ?」
「ああ」
「言っていいの?」
「言え」
奎星の口元が、にやりと上がった。
「……それ、ずっと言いたかったやつ」
奎星は神代榊を握り直した。伊吹がこちらを見る。
「……何?」
「篠宮伊吹!」
奎星が杖を向ける。伊吹は、もう抵抗しなかった。御影がすぐ横に立つ。奎星は一度だけ御影を見た。御影が頷いたので、前へ向き直る。
「魔法省地下管理区画への不法侵入および術式侵害!」
伊吹の目が僅かに動く。
「全国規模での霊脈への不正干渉!」
御影に教えられた言葉を、一つずつ奎星自身の声で告げていく。
「魔法省職員及び複数の魔法教育機関教職員に対する違法な精神干渉、並びに長時間の意思拘束!」
伊吹が九重院を見る。九重院は静かに立っていた。
「禍祓官試験候補者への襲撃!」
「国立魔法学校マホウトコロ生徒に対する違法拘束!」
校庭を囲んでいた透明な壁。逃げられなかった子供たち。
「及び!」
奎星の声が、一瞬だけ低くなる。
「蓮根奎星に対する殺人未遂の現行犯!」
「自分だけフルネーム」
日向が呟いた。
「重要だろ!」
「集中しろ」
「御影先生まで!」
それでも奎星は笑っていた。本当に嬉しそうだった。何度も御影の背中を追ってきた。第零書庫で闇の魔法使いへ杖を向ける姿を見た。奪われた学校で、神代冥司へ同じ言葉を告げる声を聞いた。怖くて、強くて、格好よかった。追いつきたいと、ずっと思っていた。
奎星は神代榊を真っ直ぐ向ける。
「日本魔法法・精神干渉魔術規制条項、国立魔法教育機関保安法、その他一連の魔法犯罪に関する容疑に基づき――」
一拍置いて、御影を見る。御影の顔に笑みはなかった。ただ、目だけがほんの僅かに柔らかかった。
奎星は、にっと笑う。
「禍祓官の名において!」
声がマホウトコロの校庭へ響いた。
「貴様を拘束する!!」
沈黙のあと、伊吹は奎星を見て、小さく笑った。
「君、まだ禍祓官じゃないよね」
「…………」
奎星の顔が止まる。日向が吹き出した。
「っぶははははははは!!」
「うるせえ!!」
「俺も思っていたが」
楓まで顔を押さえる。
「じゃあ何で言わせたんですか」
「本人が言いたそうだったからな」
御影が平然と言う。
「御影先生ぇ!?」
「最後の拘束は俺がやる」
「ずるくね!?」
「現役ですらないでしょう、あなたも」
スズメが真顔で言った。
「…………」
御影が止まる。
「ほら!」
「うるさい」
「元禍祓官二人!」
「俺はまだ元ですらねえよ!」
「ややこしい!」
蒼真が笑った。九重院まで口元へ手を当てている。
伊吹は、泣いたあとの赤い目のまま、その光景を見ていた。教師、生徒、友人。くだらない言い合い。泥だらけで、怪我だらけで、それでも未来の話をしている。結婚、飯、旅行。そんなもののために、彼らは明日へ行く。
伊吹は静かに両手を差し出した。
「……拘束してください」
御影の表情が戻る。
「ああ」
杖を振る。
「インカーセラス」
銀色の縄が、伊吹の両手を包んだ。
*
常若の庭は、その後ゆっくりと消えていった。全国から吸い上げられていた霊脈は、それぞれ本来の流れへ戻っていく。魔法省、愛宕、白峰、各地の家々。閉じ込められていた大人たちは意識を取り戻し、魔法省の職員たちは混乱しながらも持ち場へ戻っていった。
翌朝、マホウトコロには久しぶりに教師の怒鳴り声が響いた。
「走るな!!」
「急いでんだよ!」
「廊下を走るなと言っている!」
「高宮先生、戻ったばっかじゃん! もうちょい優しくして!」
「戻ったから言っているんだ!」
「理不尽!」
奎星が廊下を走り、後ろから楓の声が飛ぶ。
「奎星!」
「何!」
「烏丸先生から逃げてんでしょ!」
「逃げてねえ! 戦略的撤退!」
「昨日あんなこと言っといて!?」
「言うなああああああ!!」
日向は廊下の壁へ手をついて笑い、岳は朝食のパンを食べ、伊織はいつもの顔で本を持っていた。侑李まで、なぜか自然にその輪へ混じっている。
「何でお前まだいんの!?」
「親友だから」
「理由になってねえ!」
「朝ご飯、美味しかったよ」
「岳みたいになってんじゃねえ!」
「それは褒め言葉」
岳が頷く。
その先でスズメが立っていた。
「蓮根君」
「…………」
奎星がぴたりと止まる。
「お怪我の確認がまだ終わっていません」
「……はい」
「それから」
「はい」
「昨日の発言について」
「…………」
奎星の耳が一気に赤くなる。後ろで全員が止まった。
「聞くな!!」
振り返って叫ぶ。
「誰も聞いてないよ」
伊織が言う。
「全員耳こっち向いてんだろ!」
「耳の向きは変えられない」
「そういう話じゃねえ!」
スズメが小さく息を吐いた。
「蓮根君」
「はい!」
「まず治療です」
「……はい」
「話は」
一拍置いて、スズメは言った。
「卒業してからにしましょう」
「…………」
奎星が完全に止まった。楓の目が大きくなり、日向の口が開く。伊織が珍しく瞬きをし、岳はパンを噛むのを止めた。
奎星の顔が、ゆっくり明るくなっていく。
「……え」
「治療室へ行きますよ」
スズメはそれ以上何も言わず、先に歩き出した。
奎星は数秒、固まったままだった。そして。
「っしゃあああああああああああああああ!!」
「うるさいです!!」
マホウトコロ中へ、怒鳴り声が響いた。
教師がいて、生徒がいて、友達がいて、怒られて、笑って、明日の予定を考える。失敗するかもしれない。泣くかもしれない。誰かと別れる日も、いつかは来る。
それでも、朝は来る。授業が始まり、卒業の日もいつか来る。そして、その先にも、きっとやりたいことがある。
南硫黄島の海の向こうから差し込む朝の光が、羊脂玉の校舎を静かに照らし始めていた。