日常は、驚くほどしぶとかった。
常若の庭が消えてから数週間。一時は職員そのものが消え、霊脈が歪み、地下管理区画の術式まで破壊された日本魔法省も、転移門の復旧を皮切りに少しずつ元の姿を取り戻していた。止まっていた各局の業務が再開し、事情聴取や報告書の作成、被害状況の確認に追われた職員たちが、死んだ魚のような目をしながら廊下を行き交っている。
つまり、だいたいいつもの魔法省だった。
マホウトコロも同じである。授業があり、補習があり、御影には朝から地面へ転がされ、スズメの赤い羽根筆は容赦なく答案を赤く染める。食堂では日向が騒ぎ、楓が怒り、岳が食べ、伊織が呆れていた。
そんなある朝、奎星たちの人生を決める手紙が届いた。
*
大食堂の一角に、五通の封筒が並んでいた。焼き魚と味噌汁、炊きたての米を前にしながら、奎星、楓、岳、伊織、侑李の五人は、誰一人として箸を動かしていない。
「……開ける?」
楓が訊くと、奎星は封筒を前にしたまま首を振った。
「待って。心の準備」
「ここまで三分待ってる」
伊織が淡々と告げる。
「三分しか経ってねえの!?」
「長かったね」
侑李が笑った。
「俺もう一時間くらい経ったと思ってた」
「腹減った」
岳が言いながら、すでに自分の茶碗へ箸を伸ばしている。
「食ってんじゃん!」
「緊張すると減る」
「便利な身体だな!」
机の中央に並んでいるのは、日本魔法省魔法法執行局、禍祓官採用選考委員会の名が入った封筒だった。差出人を見ただけで胃が痛くなる。
「日向はいないの?」
侑李が周囲を見回す。
「なんか早瀬先生に呼ばれてた。朝から飛行場の方へ行ったわよ」
楓が答えると、伊織が眉を上げた。
「また何かやった?」
「日向だから可能性はある」
本人がいないため、反論は返ってこなかった。
奎星は自分の封筒を持ち上げた。手が少し震えている。一次試験の筆記には死ぬほど勉強して臨んだ。二次試験は実技だったが、その途中で候補者全員が篠宮伊吹に叩きのめされ、国家規模の事件へと変わってしまった。
「……これさ」
「何?」
「二次試験、ちゃんと試験扱いになってんの?」
「今さら?」
楓が眉を寄せる。
「だって途中から国家規模の事件だったじゃん!」
「受験案内には、試験中に国家規模の事件が発生した場合の採点規則までは書いてなかったね」
伊織が言う。
「そりゃそうだろ!」
「でも、評価資料は残ってるって聞いたよ」
侑李が自分の封筒を指で叩いた。
「試験前半の実技と、事件発生後の行動も含めて審査したって」
「事件後も!?」
「禍祓官の試験なら、むしろそっちの方が実地じゃない?」
「嫌な実地だな!」
奎星は封筒を見つめ、深く息を吸った。
「……よし」
「いく?」
「いく」
楓も封筒を持ち上げ、伊織、岳、侑李もそれぞれ指を掛ける。
「せーの!」
五つの封筒が、ほとんど同時に破られた。
紙を抜き、読み始める。食堂の喧騒が遠のいたように、五人はそれぞれの通知書へ目を落とした。やがて全員が顔を上げ、奎星が楓を見て、楓が伊織を見て、伊織が岳を見て、岳が侑李を見て、最後に侑李が奎星を見る。
「……ちょっと貸して」
楓が奎星の通知書を取り上げた。
「え?」
「私のも見て」
「はい」
五人は互いの通知書を回し合い、何度も内容を確かめた。誰も口を開かないまま、最後に伊織が静かに頷く。
「全員」
一拍置いて、奎星が椅子から跳ね上がった。
「受かったあああああああああああああああああ!!!」
「やったあああああ!!」
楓も立ち上がり、侑李は両手を上げ、岳は珍しく拳を握った。
「美味いもん食える」
「最初にそれ!?」
「給料」
「まだ採用前よ!」
伊織だけは通知書を静かに机へ置いた。
「当然だね」
「伊織!!」
楓が振り返る。
「何?」
「こういう時くらいは、はしゃぐのよ!」
「何で怒られてるの」
「受かったのよ!?」
「知ってる。読んだから」
「うおおおおって言いなさい!」
「嫌だよ」
「うおおおおおお!!」
奎星が代わりに叫ぶと、伊織はわずかに眉をひそめた。
「君はもう十分」
「足りねえ!」
侑李が奎星へ抱きつく。
「やった! 親友と一緒に仕事だ!」
「離せ!」
「これで卒業しても一緒だね!」
「配属別かもしれねえだろ!」
「希望、一緒にしよう」
「気持ちわりぃなぁ!」
その騒ぎは、すぐに周囲へ広がった。別の席でも上級生たちが封筒を開き、合格を喜ぶ声や、落胆する声、友人に背中を叩かれる音が次々に上がる。魔法省へ進む者、競技団体へ入る者、研究機関や教育管理局、魔法生物保護の道を選ぶ者。それぞれ違う未来へ向かう結果が、朝の大食堂のあちこちで開かれていた。
そのとき、大食堂の扉が勢いよく開いた。
「お前らぁぁぁぁぁ!!」
「日向ぁ!」
奎星が振り返る。
「俺らやったよ!」
「聞け! 見ろ、これを!」
日向は一通の封筒を手に走ってくると、机へ叩きつけた。
「読め!」
「自分で読めよ!」
「伊織!」
「僕?」
「読め!」
「何で僕が」
文句を言いながらも、伊織は封筒を取り上げた。表には、翼を広げた天狗を象った紋章が押されている。それを見た楓の顔色が変わった。
「これ……」
伊織は封筒から便箋を取り出し、全員が覗き込む中で文面へ目を走らせた。
「読むよ」
「おう!」
「『朝比奈日向選手。先般実施された選手選考ならびに、これまでの競技実績、身体能力、飛行技術および試合判断能力に関する総合評価の結果、貴殿をトヨハシテング所属選手として正式に迎えることを決定いたしました』」
日向が胸を張る。
伊織は続けた。
「『つきましては、国立魔法学校マホウトコロ卒業後の入団時より、当球団の一軍登録選手として選手名簿へ登載することを、ここに確約いたします。今後の契約条件および入団手続きにつきましては、別紙の案内をご確認ください。貴殿のさらなる活躍を期待しております。トヨハシテング球団運営部』」
伊織が読み終えると、奎星は首を傾げた。
「トヨハシテングって……?」
「はぁ!?」
楓が振り返る。
「知らないの!?」
「クィディッチ詳しくねえもん!」
「日本最強のクィディッチチームよ!」
「……え」
「国内リーグの最多優勝記録を持っている」
伊織が補足する。
「日本代表選手も何人も輩出しているね」
奎星は便箋を見直した。
「一軍登録!?」
「そうだ!」
日向が椅子へ片足を乗せかける。
「俺は日本を代表する選手だ!」
「まだ代表じゃねえ!」
「いずれだ!」
「うおおおおおおおおおおお!」
「うおおおおおおおおおおお!」
奎星と日向が抱き合って跳ねる。
「一軍!」
「禍祓官!」
「日本代表!」
「まだ!」
「世界一!」
「取る!」
「俺も世界一の禍祓官!」
「それ何基準!?」
「知らん!」
「うおおおおおおお!」
「朝からうるさぁぁぁぁい!」
高宮の怒声が大食堂へ響き、二人は同時に動きを止めた。
「蓮根! 朝比奈!」
「はい!」
「はい!」
「椅子に乗るな!!」
「まだ乗ってないです!」
「乗るつもりだっただろうが!」
「何で分かった!?」
「お前らを何年見ていると思っている!」
そこへ土御門が穏やかな声で割って入った。
「高宮先生、今日くらいはいいではありませんか。二人とも、とても大切な結果が出た日でしょう?」
「土御門先生……!」
奎星の目が輝く。
「ただし、椅子には乗らないでくださいね」
「はい」
「そこは駄目なんだ」
日向が呟くと、高宮は額を押さえた。
「……五分だ」
「え?」
「騒ぐなら五分で終われ!」
奎星と日向は顔を見合わせた。
「うおおおおおおおお!」
「音量を下げろ!」
*
スマートフォンも朝から鳴りっぱなしだった。
試験の日に作られた《禍祓官ズ》のグループには、全国から集まった候補者たちが次々に結果を報告している。あの日、全員まとめて伊吹に叩きのめされ、その後は教師たちが消えた世界を一緒に走り回った者たちだった。
『受かった!!』
『こっちも!』
『合格』
『俺も来た!』
『うおおおおお!!』
『朝からうるさい』
『文字なのにうるさいって何』
奎星の顔が明るくなる。
「蒼真も受かってる!」
「そりゃそうでしょ」
楓が画面を覗き込む。
「全員じゃない?」
伊織が流れていく報告を確認した。
「今のところ、グループ内は全員合格」
「マジ!?」
侑李がスマートフォンを高く掲げる。
「全員同期!」
「同期っていいな!」
奎星が笑い、続けて採用案内へ視線を戻した。
「で、これ。卒業したら、すぐ現場じゃねえんだ」
「当たり前だよ」
伊織が即答する。
「何で!?」
「君みたいなのを、そのまま現場へ出したら危ないから」
「俺基準!?」
案内には、卒業後の流れが記されていた。正式採用後、まずは日本魔法省魔法法執行局本局で初任研修を受ける。法規、捜査、拘束、魔法犯罪現場への対応、記録作成、一般社会との接触手順、緊急時の魔法使用など、禍祓官として必要な基礎を学び、一定期間を終えた後、本人の希望と適性、各地の人員状況を踏まえて全国の《地域法執行所》へ配属されるらしい。
地域法執行所は、各地の魔法社会で起きる小規模事件や相談、魔法生物に関する初動対応、一般社会における秘匿案件などを担当する現場拠点である。
「……交番?」
「ものすごく雑に言えば」
伊織が答える。
「マジで魔法交番あったんだ!」
「その言い方は怒られると思う」
「魔法パトカーは!?」
「ない」
「そこはねえのかよ!」
奎星は案内をさらに読み進め、ある項目で指を止めた。
「……新人教育担当」
「何?」
楓が覗き込む。
奎星の顔が、徐々に引きつっていった。
「斎賀玄弥」
「…………」
「…………」
「…………」
侑李だけが首を傾げる。
「誰?」
奎星は即座に言った。
「嫌だ」
「早い」
「絶対嫌だ」
「受かったばっかりよ!」
「何で初任研修の教官が斎賀さんなの!?」
「適任ではあるね」
伊織が言う。
「どこが!?」
「禍祓官として経験豊富。実戦、捜査、法規、現場判断にも長けている」
「性格!」
「それは研修要件に書いてない」
「書けよ!」
そのとき、グループへ新しいメッセージが届いた。
『新人研修、斎賀玄弥ってマジ?』
『嫌なんだけど』
『絶対厳しい』
『あの人を教える側に置いていいの?』
奎星は無言で『嫌だ』と送った。すぐに大量の賛同が返ってくる。
*
常若の庭事件の後始末は、それだけでは終わらなかった。
数週間後、日本魔法省中央大講堂では、事件の解決に大きく関わった者たちへの《日本魔法省特別功労表彰》が行われていた。全国規模の霊脈異常、魔法省機能の一時停止、複数の教育機関や省職員に対する精神干渉。その解決に尽力した者として、奎星、伊織、侑李、蒼真、御影、九重院をはじめ、各校や各局から多くの名前が呼ばれている。
「……でけえ」
奎星が講堂の天井を見上げると、隣に立つスズメが小声で注意した。
「前にも来たでしょう。前を向いてください」
「式典で来ると違うじゃん」
「前を」
「はい」
今日は制服もきちんと整え、神代榊も腰の正式な杖帯へ収めている。奎星は自分なりに真面目な顔を作り、壇上から名前を呼ばれるのを待っていた。
「国立魔法学校マホウトコロ、上級課程三年、蓮根奎星」
名前を呼ばれた奎星は、今度は走らずに壇上へ向かった。魔法省の幹部から厚い表彰状と銀色の章を受け取り、「あなたの勇気と行動に、深く感謝します」と告げられる。
「……はい」
奎星は珍しく真面目に頭を下げた。客席の楓が少しだけ笑い、日向が小声で「ちゃんとできるじゃん」と言う。御影も腕を組んだまま奎星を見つめ、スズメは静かにその姿を見守っていた。
奎星は表彰状を持ったまま壇上の中央へ進んだ。そこには記録用の魔法カメラが何台も並び、新聞社や広報担当者が撮影の準備をしている。
「では、こちらを向いて――」
職員が言いかけたとき、奎星はカメラを見た。
御影の眉間に皺が寄る。
「よせ」
遅かった。
奎星は表彰状を高く掲げた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
魔法カメラの閃光が一斉に弾けた。
「蓮根ぇぇぇぇ!」
高宮の怒声が飛び、楓は頭を抱える。
「何で!?」
「表彰されたから!」
「理由になってない!」
魔法省側の席では、真壁征士郎が両手で顔を覆っていた。その隣で、機密保持局・一般社会事案課の戸倉雅臣も額へ手を当てている。
「……彼は本当に禍祓官になるんですか」
「言うな」
真壁が低く返す。
「以前、事情聴取した時から不安だったんですが」
「言うな」
「むしろ不安が増していませんか」
「頼むから言うな」
そのさらに隣では、斎賀玄弥が腹を抱えて大笑いしていた。
「ぶっはははははは! 最高だな、あいつ!」
「笑うな、斎賀」
「新人研修が楽しみになってきた!」
「最悪だ……」
真壁は本気で頭を抱えた。来年の法執行局は果たして大丈夫なのだろうか。
*
事件が終わったからといって、急に何も起こらなくなるわけではない。時間はいつも通りに流れ、季節は少しずつ進んでいった。
十一月、奎星はまた補習を受けていた。
「何で禍祓官に受かったのに、古代魔法行政史をやらなきゃいけねえの!?」
「卒業するためです」
「もう採用決まってんじゃん!」
「卒業できなければ、採用時期も延びます」
「やります」
「最初からそうしてください」
十二月になると、日向は卒業後の入団へ向けて、以前より頻繁に学校と外部練習場を往復するようになった。
「行ってくる!」
「一軍落ちんなよ!」
「落ちねえ!」
「日本代表!」
「なる!」
「世界一!」
「取る!」
「朝から騒ぐな!」
早瀬の怒声が響き、日向は笑いながら飛行場へ駆けていった。
年が明け、南硫黄島にも冬が来た。奎星は実家へ帰り、友人たちもそれぞれの家へ戻ったが、侑李からはなぜか毎日のように連絡が届いた。
『親友、今日何してる?』
『家』
『僕も』
『知るか』
三学期が始まると、卒業後の住所や配属希望、研修希望、魔法省の人事票、緊急連絡先など、進路に関する書類が一気に増えた。
「多すぎる!」
「禍祓官は書類仕事も多いと言われたでしょう」
「受かってから言われると逃げられねえ!」
「受ける前から言っていました」
「聞こえなかった!」
「聞いてください!」
二月になると、校庭を吹く風が少しだけ変わった。下級生たちが奎星のもとへ魔法の使い方を訊きに来るようになり、奎星は杖を取りながら説明を始めた。
「そこ、力を入れすぎ。もう少し手首を柔らかくして、魔力を先端へ流す感じだ」
「こうですか?」
「そう。もう一回」
下級生が杖を振ると、今度は小さな光がきれいに弾けた。
「あ!」
「ほら、できたじゃん」
奎星が笑う。その様子を少し離れた場所から御影が見ていた。目が合うと、奎星はすぐに声をかける。
「何?」
「別に」
「今ちょっと褒めようとした?」
「してない」
「絶対したじゃん!」
「走れ」
「何で!?」
三月、卒業生用の荷物箱が学生寮へ運び込まれた。奎星は自分の部屋の前に置かれた箱を見つめ、隣に立つ日向と顔を見合わせる。
「……来たな」
「……おう」
最初にこの部屋へ入った日、ここは知らない学校の、知らない島にある、知らない魔法の部屋だった。けれど今、壁には祭りでもらった写真や友人から押しつけられたどうでもいい品が飾られ、机の上には教科書や赤点の答案、合格通知、禍祓官の採用案内が積まれている。窓の外には、いつもの海が広がっていた。
「卒業すんのか」
奎星が言う。
「するだろ」
「分かってるけど」
「お前が一番したがってたじゃん」
「……まあな」
日向がにやりと笑った。
「結婚するために」
「殺すぞ」
「卒業前に犯罪やめろ!」
枕が飛び、日向が笑い、奎星もつられて笑った。
窓の外では、春へ向かう風が海の上を渡っている。時間は止まらず、同じ日は二度と戻らない。それでも次の日は来る。授業が始まり、友人と笑い、失敗すれば怒られ、いつかは別々の場所へ進んでいく。
国立魔法学校マホウトコロ。
蓮根奎星たちの卒業式まで、あと少しだった。