「エクスペリアームス!!」
奎星の杖先から放たれた赤い光は、久我朔弥の身体ではなく、その右手に残っていた黒曜石だけを正確に射抜いた。
久我の指が大きく開き、赤黒い古代文字を吐き出し続けていた石が手の中から弾き飛ばされると、黒曜石は何度も床を跳ねながら転がり、最後には奎星の足元へぶつかって止まった。
その瞬間、それまで第零書庫全体を飲み込んでいた古代魔術の嵐が、まるで糸を切られた操り人形のように動きを止めた。
宙を乱舞していた古代文字が一つ、また一つと赤い光を失い、巨大な蛇のようにうねっていた黒い魔力は形を保てなくなって霧散していく。隆起していた石床も止まり、轟音に支配されていた地下空間へ、耳が痛くなるほど急激な静寂が戻ってきた。
久我自身も何が起きたのか理解できていないらしく、何もなくなった右手を呆然と見下ろしていた。
「……そんな」
奎星は杖を構えたまま、肩を上下させていた。
命中した。
人を吹き飛ばさず、殺さず、ただ危険なものだけを手放させた。
御影から何度も何度も叩き込まれた、あの地味だと思っていた魔法で。
「やった……」
声を出した途端、全身から力が抜けそうになったが、まだ終わっていないことを理解していた御影だけは一瞬たりとも動きを止めなかった。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が久我の胸へ突き刺さり、まともに受けた久我は短い呻き声を残して仰向けに倒れた。
御影はすぐさま距離を詰め、久我が意識を失っていることを確認してから杖を振る。
「インカーセラス」
太い魔法の縄が床から伸び、久我の両腕と両脚、さらに胴体まで幾重にも巻きついていった。御影は拘束が完全に固定されたことを確認すると、倒れた男から視線を外さないまま低く言った。
「終わりだ」
その言葉を聞いて。
奎星は、ようやく息を吐いた。
「……終わった?」
誰に尋ねたのか、自分でも分からなかった。
視界の端で御影が振り返り、岳が何か叫んでいる。楓と伊織もこちらを向き、スズメが岳の腕を振りほどこうとしていた。
全部、見えている。
けれど、音が遠い。
手に握っていた神代榊の感触が急に薄れ、膝から力が抜けると、奎星は自分が倒れていることにも数秒遅れて気づいた。
「奎星!」
誰かが呼んだ。
床が近づいてくる。
その途中で、黒髪が揺れた。
「蓮根君!」
スズメだった。
こちらへ手を伸ばしている。
奎星は、なぜか少しだけ笑った。
無事だった。
それだけ確認できれば、もうよかった。
薄れていく意識の中で、スズメが自分の名前を呼んでいたような気がした。
次に意識が戻ったとき、奎星が最初に感じたのは薬草の匂いだった。
鼻の奥に残る苦い香りと、洗い立ての布団の匂い。身体の下には柔らかなベッドがあり、窓の外からは鳥の鳴き声と、遠くで生徒たちが飛行訓練をしているらしい笛の音が聞こえている。
そして。
「だから勝手に起き上がらないでって言ってるでしょう!」
「昨日からずっと寝てんだから身体固まるって!」
「背骨を傷めた人が言う台詞じゃないわよ!」
「もう治ってるって!」
「藤森先生はまだ経過観察が必要だって――」
聞き覚えのある声。
というより、聞き慣れすぎた喧嘩だった。
奎星は目を閉じたまま眉を寄せる。
「……うるさ」
掠れた声が漏れた。
少し離れたところでは、さらに別の会話が続いている。
「岳、それ病人用の果物だよ」
「一個くらいいいだろ」
「その一個が三個目だから言ってるんだ」
「林檎は身体にいい」
「君が健康になってどうする」
「もっと健康になる」
「必要ないよ」
聞き覚えしかない。
奎星は重たい瞼をゆっくり開いた。
真っ白な天井。
視線を横へ動かすと、隣のベッドには日向が入院したまま上半身を起こしており、その横で楓が腰へ手を当てて睨みつけていた。少し離れた椅子には伊織が座り、その隣では岳が剥いた林檎を口へ運ぼうとしている。
「……お前ら」
声に反応したのは岳が最初だった。
林檎を持ったまま振り返り、数秒ほど目を見開いたあと、巨体からは想像できないほど素早く立ち上がる。
「奎星!」
「ん?」
「目覚めたのか!」
「お、おう――」
岳が飛んできた。
本当に飛んできた。
「うおおおお! 奎星ぃ!」
「待っ――」
大きな身体がベッドへ覆い被さる。
「いったああああああ!!」
奎星の悲鳴が病室中へ響いた。
「岳! 痛え! マジで痛え!」
「よかった! 生きてる!」
「殺す気か!」
「奎星!」
今度は楓だった。
「楓待て! 今俺が何て――いってえ!」
岳の横から抱きつかれる。
「心配したんだから!」
「分かった! 分かったから! 肋骨!」
さらに。
眼鏡を外した伊織まで近づいてきた。
奎星は嫌な予感を覚える。
「伊織、お前は冷静なやつだよな?」
「もちろん」
「だよな」
「だから、生きてることを確認する」
「方法が抱きつくことじゃな――いった!」
伊織も加わった。
三人に押し潰される。
「全員離れろ! 俺一応病人なんだけど!?」
隣のベッドから日向が腹を抱えて笑っている。
「人気者だなあ、奎星!」
「お前も笑ってないで助けろ!」
「俺も病人だから」
「こういうときだけ病人になるな!」
「じゃあ俺も行く?」
「来んな!!」
ようやく岳たちが離れると、奎星は枕へ沈み込み、全身を庇うように布団を胸元まで引き上げた。
「マジで痛え……何なんだよお前ら……」
言いながらも。
顔は。
少し笑っていた。
全員いる。
楓も。
岳も。
伊織も。
隣には日向までいる。
その事実を一つずつ確認するように奎星が見回していると、日向がベッドの上から右拳を差し出した。
「おかえり」
奎星は一瞬だけその拳を見た。
やがて笑うと、痛む身体を少し起こし、自分の拳を軽くぶつけた。
「ただいま」
拳と拳が、小さく音を立てた。
少し落ち着いてから、奎星はようやく自分がどれほど眠っていたのかを聞いた。
「丸一日とちょっと」
伊織が答えた。
「そんなに?」
「藤森先生によれば、外傷もそうだけど、魔力消耗とクルーシオの影響が大きかったらしい。身体が強制的に休もうとしたんじゃないかって」
奎星は自分の腕を見る。
包帯。
胸にも固定帯が巻かれ、額の傷には小さな治療布が貼られている。
身体を動かせばまだ鈍い痛みがあるが、意識を失う前と比較すれば信じられないほど軽かった。
「久我先生は?」
その名前が出た途端、病室の空気が少し変わった。
伊織が眼鏡を押し上げる。
「連れていかれたよ」
「魔法省?」
「うん。あの後、九重院校長が魔法省へ緊急連絡して、魔法法執行局の人間がかなりの人数で来たらしい。御影先生が久我先生を引き渡して、第零書庫は今、完全封鎖されてる」
楓が続けた。
「今も学校中で調査してるわ。訓練場に仕掛けられてた黒曜石とか、久我先生の研究室とか、教員寮も全部」
「黒曜石も?」
「回収された」
伊織が頷く。
「奎星が最後に飛ばしたものも含めて、魔法省が厳重に保管してる。ただ、中に記録されていた古代魔術については、かなり慎重に調べるらしい」
岳が言う。
「学校の授業も一部休みになった」
日向の顔が明るくなる。
「最高じゃん」
楓が即座に振り向く。
「何が最高なの?」
「いや、事件は最悪だよ? でも授業休みは――」
「日向」
「はい」
日向が黙った。
奎星は少し笑ったものの、すぐに何かを思い出した。
視線が病室を探す。
「……スズメちゃんは?」
四人が一瞬だけ顔を見合わせた。
その反応だけで、奎星の胸がざわつく。
「何?」
「いや」
楓が少し笑った。
「大丈夫よ」
「じゃあどこ?」
伊織が答えた。
「烏丸先生なら、奎星が運び込まれてからずっとここにいたよ」
奎星の目が丸くなる。
「ずっと?」
「昨日の夜も」
岳が言う。
「ベッドの横に椅子置いて座ってた」
「寝てた?」
「たぶんほぼ寝てない」
楓が呆れたように息を吐く。
「藤森先生が何度休めって言っても、『私は大丈夫です』の一点張り。今は魔法省の事情聴取に呼ばれてるだけ」
「……そっか」
奎星は枕へ頭を戻した。
胸の奥に、何とも言えないものが広がる。
嬉しい。
けれど。
少しだけ。
苦しい。
自分のために。
そんなに。
「でも、もうそろそろ戻ってくると思――」
伊織が言い終える前だった。
廊下の向こうから。
ぱたぱたぱたぱた。
かなり速い足音が聞こえた。
全員が扉を見る。
日向が眉を上げる。
「走ってね?」
楓も目を丸くする。
「まさか」
足音が近づく。
止まらない。
そして。
勢いよく扉が開いた。
「蓮根君!」
スズメが立っていた。
息を切らしている。
事情聴取から直接戻ってきたのか、濃紺の教員衣の上には魔法省の来訪者用証票がまだ留められたままで、普段なら乱れ一つない黒髪も少しだけ崩れていた。
奎星と。
スズメ。
二人の視線が。
真っ直ぐ重なる。
数秒。
誰も喋らなかった。
日向が楓を見る。
楓が日向を見る。
伊織は一度眼鏡を押し上げる。
岳だけが何も分かっていない顔をしている。
楓が岳の袖を引いた。
「行くわよ」
「どこ?」
「いいから」
「でも奎星起きたばっか――」
「空気読んで」
「空気?」
伊織も立ち上がる。
「僕も喉が渇いたな」
「じゃ俺もなんか食――」
「岳、行くよ」
三人が病室を出る。
日向も布団を退け、ゆっくり足を床へ下ろした。
楓が振り返る。
「あなたは安静」
「俺も空気読めるから」
「身体は?」
「リハビリしてこよ〜」
棒読みだった。
「今考えたでしょ」
「じゃあな奎星」
「お、おう」
日向は楓に睨まれながらも病室を出ていき、最後に扉を静かに閉めた。
広い部屋へ。
奎星とスズメだけが残る。
スズメはしばらく入口に立っていた。
本当に目を覚ましているのか。
確かめるように。
奎星の顔を見ている。
奎星のほうが先に口を開いた。
「スズメちゃん」
「……はい」
「怪我、大丈夫?」
スズメの表情が。
少しだけ崩れた。
自分が目を覚ました直後なのに。
最初に聞くのがそれなのか。
「はい。魔法省の医療術師の方々に解呪していただきました。黒曜の呪いも、完全に除去されています」
スズメは袖を少し上げた。
あれほど赤黒く傷ついていた手首は、まだ薄く痕が残っているものの、もう不自然な黒い線はない。
奎星はそれを見て。
明らかに安心した顔になった。
「よかった……」
「蓮根君」
「ん?」
スズメはベッドの横まで来ると、椅子ではなくベッドの端へ静かに腰を下ろした。
近い。
奎星は少しだけ身体を起こす。
「どうした?」
スズメは膝の上で両手を組み、何度か言葉を選ぶように黙っていた。
やがて。
「二度と」
奎星を見る。
「二度と、あのような真似はしないでください」
奎星が眉を寄せる。
「あのようなって?」
「全部です」
「広いな」
「一人で第零書庫へ入ったこと。久我先生へ杖を向けたこと。私を庇って爆発をまともに受けたこと。そして――」
一瞬。
スズメの声が止まる。
あの光景を。
思い出したのだろう。
緑色の閃光。
死の呪文。
その前へ。
何の迷いもなく手を出した少年。
「死の呪文の前へ立ったこと」
奎星は何も言わない。
スズメは続ける。
「あなたは生徒で、私は教師です。教師を守るために、生徒が命を危険に晒す必要などありません」
奎星の表情が変わった。
「あるよ」
「ありません」
「あるって!」
「なぜですか!」
スズメも声を上げた。
奎星は反射的に言い返そうとする。
「だって!」
そこで。
止まった。
口は開いている。
でも。
続きが出てこない。
なぜ。
スズメを置いて逃げられなかったのか。
なぜ。
緑の光を見た瞬間。
自分が前へ出たのか。
先生だから。
それだけではない。
魔法を教えてくれたから。
それだけでもない。
命の恩人だから。
たぶん。
それとも違う。
奎星の頭の中に。
この一か月が。
ゆっくり浮かんだ。
夜中。
鴉から人間へ戻ったスズメを。
間違えて抱きかかえた。
初めて会った日。
「スズメちゃん」と呼ぶたび。
「烏丸先生です」と訂正された。
南硫黄島へ飛んだ。
水晶を壊した。
羽根を天井へ刺した。
一緒にご飯を食べた。
天ぷらを買収した。
朝。
毎日。
起こされた。
魔法史を教えてもらった。
古代魔術の話になると。
いつもより。
少しだけ楽しそうに喋った。
窓の外を見ながら。
友達が欲しいと言った。
試験に合格したとき。
褒めてもらった。
初めてクラスへ入る日。
あなたなら大丈夫です。
そう言ってもらった。
廊下で。
親指を立て返してくれた。
日向を傷つけたと思い込み。
魔法を怖がった夜。
誰にも見つからない場所へ隠れていた自分を。
息を切らしながら。
探しに来た。
そして。
初めて自分の失敗を話してくれた。
――一緒に探します。
そう言った。
奎星は。
唇を噛んだ。
スズメは。
先生だ。
間違いなく。
先生なのに。
もう。
それだけではなかった。
家族でもない。
昔からの友達でもない。
姉でもない。
それより。
もっと。
大切な。
何か。
でも。
奎星はまだ。
それに名前をつける言葉を持っていなかった。
「……俺さ」
声が。
少しだけ。
小さくなった。
スズメが黙って聞く。
「スズメちゃんと出会うまで、人生とか結構どうでもいいと思ってた」
スズメの目が僅かに揺れる。
奎星は窓の外を見る。
昼の海。
遠くに箒で飛ぶ生徒がいる。
「やりたいこともなかったし、高校も別に好きじゃなかった。進路とか訊かれても面倒だったし、将来なんてどうにかなるって思ってた」
笑おうとして。
少し失敗する。
「海賊って書いてたくらいだし」
「それは本当にどうかと思います」
「そこ今突っ込む?」
「重要です」
少しだけ。
二人の間に。
いつもの空気が戻る。
けれど。
奎星は続けた。
「でも、スズメちゃんが来て」
視線を戻す。
「魔法があるって知って、マホウトコロ来て、友達できて、御影先生みたいになりたいって思って、古代魔術も知りたくなって……なんかさ」
言葉を探す。
「ちょっとだけ」
それから。
笑った。
今度は。
ちゃんと。
「先が見えてきたんだ」
スズメは。
何も言わなかった。
「だから」
奎星は。
真っ直ぐ。
彼女を見る。
「助けたかった」
単純な。
答えだった。
「スズメちゃんいなくなったら困るんだよ」
スズメの唇が。
少しだけ開く。
「それだけ」
奎星はそう言って。
照れくさくなったのか。
視線を逸らした。
「……まあ、死ぬつもりはなかったけど」
スズメは俯いた。
肩が。
僅かに動く。
奎星が不安そうに覗き込む。
「スズメちゃん?」
「私は」
スズメが顔を上げた。
瞳が。
ほんの少し。
濡れているように見えた。
けれど。
涙は落ちなかった。
「私は、あなたに生きていてほしいのです」
奎星の目が。
静かに見開かれる。
スズメは。
自分の右手を。
奎星の手へ重ねた。
小さい手だった。
一か月。
何度も杖の持ち方を直された。
教科書を指差された。
頭を叩かれそうになった。
その手が。
今は。
奎星の手を。
包むように。
触れている。
「誰かを守ることは、悪いことではありません」
スズメの声は。
静かだった。
「助けたいと思うことも、とても大切です。でも」
重ねた手に。
少しだけ。
力が入る。
「周りが助かれば、自分はどれだけ傷ついても構わないという考え方は、やめてください」
奎星は。
何も言えなかった。
「あなたが誰かを置いていけないように」
スズメの目が。
真っ直ぐ。
奎星を見る。
「あなたに置いていかれる側の気持ちも、考えてください」
その言葉が。
胸の奥へ。
静かに。
入ってきた。
日向が。
楓を庇った。
自分は。
日向が目を覚まさない姿を見た。
昨日。
自分が意識を失った。
スズメは。
その横に。
ずっといた。
奎星は。
ようやく。
少しだけ。
理解した。
「……怖かった?」
訊く。
スズメが。
数秒。
黙る。
「はい」
珍しく。
誤魔化さなかった。
「とても」
奎星の胸が。
きゅっと。
締まる。
「……ごめん」
スズメの表情が。
少し柔らかくなる。
「次から気をつけてください」
「うん」
「一人で危険な場所へ行かない」
「善処します」
「蓮根君」
「はい。絶対しません」
「死の呪文へ素手を出さない」
「それは普通しない」
「あなたはしました」
「……はい」
「爆発が起きたら教師を庇わず逃げる」
奎星は眉を寄せた。
「それは状況による」
「蓮根君」
「だって!」
「では」
スズメが。
急に話を切った。
「まず、これを飲んでください」
「何?」
スズメは。
ベッド横の小さな机から。
一本の瓶を取り出した。
中には。
どろりとした。
緑褐色の液体。
奎星の顔が。
一瞬で嫌そうになる。
「……何これ」
「薬師寺先生が調合した回復薬です」
「色やばくない?」
「味も悪いそうです」
「先に言わないでよ!」
「でも非常によく効きます」
「飲みたくねえ」
「飲んでください」
「魔法で治せない?」
「クルーシオによる神経への負担と魔力枯渇は、これを飲んだほうが早いです」
奎星は。
瓶を見る。
スズメを見る。
また瓶を見る。
「……死なない?」
「死の呪文を素手で止めた人が、薬を怖がるのですか?」
「それとこれとは別だろ!」
「飲んでください」
「嫌だ」
「飲んで」
「スズメちゃんも一口飲むなら」
「なぜです?」
「毒味」
「薬師寺先生を何だと思っているのですか」
「百歳超えの怪しい爺さん」
「本人に言っておきます」
「待って待って!」
最終的に。
スズメが瓶を奎星の手へ押しつけた。
「一気に」
「マジ?」
「一気に」
「俺まだ死にたくないんだけど」
「さっきまでの話は何だったのですか」
奎星は覚悟を決めた。
蓋を開ける。
匂いを嗅ぐ。
すぐに顔を背ける。
「くっさ!」
「飲んでください」
「これ絶対腐って――」
「蓮根君」
「はい!」
鼻を摘まむ。
瓶を傾ける。
ごく。
ごく。
ごく。
数秒後。
奎星の顔が。
完全に歪んだ。
「――まっず!!」
病室中へ。
声が響く。
「なにこれ! 土と草と魚の内臓混ぜた!?」
「そんなものは入っていません」
「口の中終わった!」
「水はこちらです」
奎星は水を一気に飲んだ。
それでも。
苦味が消えない。
舌を出す。
「最悪……」
文句を言いながら。
奎星は。
ふと。
自分の身体へ触れた。
胸。
腕。
背中。
「……あれ?」
身体を起こす。
先ほどまで動くたびに痛んでいた肋骨や背中の痛みが。
かなり。
引いている。
「効いた?」
「薬師寺先生の薬ですから」
「すげえ……」
奎星は。
瓶の底に残った一滴を見る。
そして。
スズメを見る。
にやり。
「スズメちゃん」
「何です?」
「飲んでみろよ」
「嫌です」
「美味しいよ」
「今『まっず』と叫びましたね」
「人生経験だって」
「私はもう治りました」
「いいから一口!」
「絶対に嫌です」
奎星が空の瓶を持ったまま。
スズメへ近づける。
スズメが身体を引く。
「蓮根君、やめてください」
「匂いだけ!」
「嫌です」
「先生、生徒の痛み分かんないと!」
「飲ませようとしないでください!」
「一滴!」
「烏丸先生です!」
「関係ねえ!」
病室の外。
扉へ耳を当てていた四人がいた。
岳が首を傾げる。
「入っていい?」
楓が笑う。
「もう少し待ちましょう」
日向が口元を緩める。
「戻ったな、奎星」
伊織は眼鏡を押し上げながら、扉の向こうから聞こえてくる騒ぎへ小さく笑った。
病室の中では。
一か月前と同じように。
奎星が騒ぎ。
スズメが叱っている。
けれど。
二人の間には。
一か月前にはなかったものが。
確かに。
増えていた。
まだ。
どちらも。
それに名前をつけてはいなかった。