マホウトコロ   作:西野圭吾

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エピローグ
第1話 下の名前で呼んで


 

 三月下旬。暦の上では、春はもう東京へ届いているはずだったが、朝の空気にはまだ冬の名残があった。陽の当たる場所だけがわずかに暖かく、ビルの影へ入れば風は冷たい。上野の山の桜も、すべてが咲き揃うには少し早く、枝先に薄桃色の気配を抱えたまま、来る季節をじっと待っていた。

 

 JR上野駅の公園口は、春休みの人波で朝から賑わっていた。公園改札からは、小さな子供の手を引く家族やリュックを背負った学生、地図を広げる外国人観光客、上野動物園へ向かうらしい親子連れが次々と吐き出されている。改札を背にして正面へ進めば、左手には東京文化会館、右手には公園の案内所があり、その先には美術館や博物館、動物園へ続く広い道が伸びていた。

 

 その人波の中で、蓮根奎星は一人だけを見つけた。

 

 濃紺の薄手のコートに淡い灰色のニット、黒いパンツと低い革靴。顎のあたりで真っ直ぐに切り揃えられた黒髪は、学校にいた頃と何一つ変わっていない。彼女はスマートフォンを片手に、駅前を行き交う人々を静かに眺めていた。

 

「あ」

 

 奎星の顔が明るくなる。

 

「スズメちゃあああん!」

 

 走った。

 

 人間が恋人を見つけたときの速度ではなかった。散歩へ連れていってもらえると理解した大型犬が、飼い主のもとへ駆け寄るときの勢いだった。

 

「いたいたいた!」

 

「蓮根君」

 

 スズメが顔を上げる。

 

「おはよう!」

 

「走らないでください」

 

「卒業したから校則効かない!」

 

「校則の話ではありません。人が多いです」

 

「久しぶり!」

 

「四日前に会いました」

 

「四日ぶり!」

 

「落ち着いてください」

 

 奎星は彼女の前で急停止した。危うくそのまま抱きつきそうになり、直前で思い留まる。勢いを殺しきれず、靴底が舗装路を擦った。

 

「……おはようございます」

 

「急にどうしたのです」

 

「落ち着いた」

 

「雑ですね」

 

 スズメは小さく息を吐いた。それでも、口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいる。その程度の変化を、奎星はいまでは見逃さなかった。

 

 学校にいた頃なら、朝に会うことなど当たり前だった。大食堂へ行けばどこかにいて、授業へ行けば教壇に立ち、研究室の扉を開けば大抵そこにいた。会うために約束をする必要などなかった。だから卒業して初めて、待ち合わせという行為が妙に新鮮に感じられた。

 

 前までずっとそこにあったものが、これからは自分で時間を決め、自分で会いに行かなければならない。その不自由さは、思っていたよりも悪くない。会えない時間が生まれたことで、会えた瞬間が少しだけ特別になっていた。

 

「じゃ、行こうぜ」

 

「はい」

 

 二人は並んで歩き始めた。

 

 上野公園へ続く道は広く、春休みの人波が途切れずに流れている。奎星はスズメの歩幅に合わせて少し速度を落とし、三歩ほど進んだところで、隣にある右手へ視線を落とした。

 

 自分の右手。

 

 その少し向こうに、スズメの左手。

 

 近い。十センチくらい。いや、十五センチほどだろうか。手を伸ばせば届く距離だった。

 

 卒業式の日には繋いだ。好きだとも言った。向こうからも好きだと言われた。抱き締めたし、大好きとも言われた。つまりこれは、一般的にはかなり手を繋いでいい状況なのではないだろうか。

 

 奎星の右手が三センチほど動き、すぐに戻った。今度は二センチ動き、また戻る。

 

「何をしているのです?」

 

「えっ」

 

 奎星の全身が跳ねた。

 

 スズメがこちらを見る。

 

「何でもない!」

 

「そうですか」

 

 スズメは前を向いた。どうやら気づいていないらしい。奎星は胸を撫で下ろしたが、同時に、ひどく情けない気分にもなった。

 

 嫌だったらどうする。

 

 卒業式は卒業式である。春の海、鐘の音、泣いている教師や友人、告白。あの日なら許されても、普通の日の普通の上野公園で急に手を握ったら、もしかすると「何をしているのです」と本気で言われるかもしれない。

 

 そう考えた瞬間、急に怖くなった。

 

 黒曜の環へ突っ込んだ。死の呪文へ手を出した。百五十年以上前へ飛ばされ、神代冥司とも戦った。禍祓官の採用試験にも受かった。

 

 しかし、恋人の左手は怖かった。

 

 人間には、それぞれ戦える相手と戦えない相手がある。

 

「で、今日はどちらへ?」

 

 スズメが訊いた。

 

「ふふふ」

 

「帰りますよ」

 

「早い!」

 

「その笑い方をするとき、大抵ろくなことがありません」

 

「今日はちゃんと考えた!」

 

「それが一番怖いです」

 

「東京国立博物館!」

 

 奎星は両腕を広げた。

 

 スズメが瞬きをする。

 

「どうよ!」

 

「どう、とは」

 

「デートっぽいだろ!」

 

「自分で言うのですか」

 

「だってスズメちゃん歴史好きじゃん!」

 

 奎星は歩きながら、前日にスマートフォンへ詰め込んだ知識を一気に吐き出し始めた。

 

「しかも、ここから上野駅の公園口を出て歩いて十分くらい! 正門まで五百メートルくらい! 本館二階が日本美術の流れってやつで、縄文から江戸まで順番に見られる! 本館自体も古くてカッコいい! あと、なんかいっぱい国宝がある!」

 

「最後が急に雑になりましたね」

 

「俺、考えたんだよ」

 

 奎星は妙に真面目な顔をした。

 

「俺、魔法史はスズメちゃんに結構教えてもらったじゃん」

 

「試験前だけ異常な速度で忘れていましたが」

 

「そこは今いいだろ」

 

「重要です」

 

「でさ。俺、一般社会で育ったのに、普通の歴史もあんま知らねえなって」

 

「それは知っています」

 

「即答すんなよ」

 

「徳川家康と徳川綱吉を同一人物だと思っていた人でしょう」

 

「名字一緒じゃん」

 

「全国の佐藤さんが同一人物になります」

 

「それは多いな」

 

「非常に」

 

「だから!」

 

 奎星は強引に話を戻した。

 

「今日は普通の歴史を勉強しようと思って。博物館ならスズメちゃんも楽しいだろうし、俺も勉強になるし。あとデートっぽい」

 

「最後の一つが大きいのでしょう」

 

「全部大きい!」

 

「そうですか」

 

 スズメは少しだけ目を伏せた。それから、歩調を変えないまま言った。

 

「良い場所だと思います」

 

「だろ!」

 

「私もよく来ますので」

 

「…………え?」

 

 奎星が足を止めた。

 

 スズメだけが二歩ほど先へ進み、振り返る。

 

「何です?」

 

「来んの?」

 

「来ます」

 

「よく?」

 

「比較的」

 

「初めて連れてきてあげる予定だったんだけど」

 

「残念でしたね」

 

「俺、昨日二時間調べたんだけど」

 

「復習になります」

 

「デート場所で復習って言うなよ!」

 

 スズメは小さく笑った。

 

「ですが、選んだ理由は嬉しいですよ」

 

「…………」

 

 それだけで、奎星は黙った。

 

「何です?」

 

「いや」

 

 口元が勝手に緩む。

 

「へへ」

 

「顔がうるさいです」

 

「顔は喋んないよ」

 

「うるさいです」

 

 二人はまた歩き出した。

 

 東京文化会館を左手に見ながら公園の中へ入ると、駅前にあった車の音が少し遠のいた。代わりに聞こえてくるのは、子供たちの声や靴底が舗装路を踏む音、どこかで鳴く鳥の声だった。早咲きの桜が数輪だけ開いており、その下では立ち止まって写真を撮る人々がいる。二人はその横を抜け、上野の山を北へ進んだ。

 

「でも」

 

 スズメが言った。

 

「一つ訂正があります」

 

「何?」

 

「普通の歴史と魔法史を、別々のものだと思わない方がいいです」

 

「え」

 

「一般社会の歴史と魔法社会の歴史は、最初から二本の線として存在しているわけではありません。同じ国の、同じ人間の歴史です。途中から互いを見えないようにしただけで」

 

 声が少し変わった。

 

 奎星はすぐに気づいた。

 

「あ」

 

「何です?」

 

「始まった」

 

「何がです」

 

「スズメちゃんの歴史モード」

 

「そんなものはありません」

 

「ある。めっちゃある」

 

「ありません」

 

「声ちょっと速くなった」

 

「気のせいです」

 

 否定しながら、歩く速度までわずかに上がっている。奎星は笑った。たぶん今日、一番楽しんでいるのは自分ではない。

 

     *

 

 正門を抜けると、本館は正面にあった。左右へ長く翼を広げたような大きな建物で、洋風の石造建築の上に日本の城郭を思わせる屋根が載っている。晴れた空を背負い、左右対称に伸びる灰褐色の壁は、学校の羊脂玉の校舎とも魔法省の地下庁舎とも違う、時間を積み重ねた建物だけが持つ重さを備えていた。

 

「おお……」

 

 奎星が見上げる。

 

「なんか強そう」

 

「建物への感想として初めて聞きました」

 

「ボスいる?」

 

「いません」

 

「絶対二階にいるって」

 

「展示があります」

 

「同じじゃん」

 

「違います」

 

 本館へ入り、広い階段を上がる。

 

 二階から、日本の時間が始まった。

 

 縄文、弥生、古墳。飛鳥、奈良。平安。鎌倉、室町。安土桃山。そして江戸。一つの建物の中を歩いているだけなのに、展示室を一つ抜けるたび、何百年もの時間が背後へ流れていく。土器の表面に残った指の跡も、仏像の穏やかな顔も、古い筆跡も、甲冑も、屏風も、茶器も、その時代には誰かの日常のすぐ近くにあったものだった。それが今では透明なケースの向こうに収められ、人々は小さな説明文を読みながら、遠い時間を覗き込んでいる。

 

「これ全部、魔法関係あんの?」

 

 縄文土器の前で奎星が訊いた。

 

「そういう見方をしないでください」

 

「違うの?」

 

「何でも魔法にすれば歴史研究が楽になると思ってますよね?」

 

「ちょっと」

 

「なりません」

 

 スズメは展示へ視線を戻した。

 

「魔力を持った人間は昔からいました。当然、祭祀や祈りの中に魔法が混ざった例もあります。ですが、儀礼的な用途のものを見つけるたびに『魔法使いの道具だ』と決めつけてはいけません。魔法を持たない人間も祈ります。呪います。願います。物語を作ります」

 

「じゃ、どうやって見分けんの?」

 

「そこが面白いのです」

 

 即答だった。

 

「あ」

 

「何です」

 

「やっぱ楽しんでる」

 

「説明しているだけです」

 

「はいはい」

 

「はいは一度です」

 

「そこ学校と変わんねえな」

 

 けれどスズメは、もう止まらなかった。

 

「同時代の記録を比較します。誰が書いたのか、後世に加筆された可能性はないか、出土品に魔力痕跡が残っていないか、魔法省記録局側に同じ土地や人物について別の記録が残っていないか。一般史だけでも駄目ですし、魔法史だけでも駄目です。片方だけを見ると、人は簡単に都合の良い物語を作ります」

 

「おお……」

 

「平安時代などは特にそうです。陰陽寮にいた人間が全員魔法使いだったわけではありません。魔法を持つ者も、持たない者もいました。一般社会に残る記録で『術を使った』と書かれていても、それだけで魔法だったとは断定できません」

 

「安倍晴明は?」

 

 スズメが足を止めた。

 

「その話を始めると長くなります」

 

「どれくらい?」

 

「二時間ほど」

 

「デート終わるじゃん」

 

「ではやめましょう」

 

「ちょっと聞きたい!」

 

「どちらですか」

 

 展示室を進む。

 

 奎星は最初こそケースの中を熱心に見ていたが、やがて、その視線の半分ほどを隣へ向けるようになった。スズメは歴史の話をしているとき、普段よりよく喋る。学校の教壇でもそうだったはずなのに、授業中は自分が理解することに必死で気づかなかった。展示へ向けていた目がふいに明るくなり、指先が小さく動く。説明の途中で別の時代との繋がりを思い出すと、言葉が一つ増える。普段なら三行で済ませる話を、十行使って説明する。

 

 それを見ている方が面白かった。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「聞いていました?」

 

「聞いてた」

 

「では、今何の話を」

 

「スズメちゃんがめっちゃ楽しそう」

 

「聞いていませんね」

 

「見てた」

 

「何をです」

 

「スズメちゃん」

 

「展示を見てください」

 

「見てるって」

 

「私ではなく」

 

「両方」

 

「器用ですね」

 

 スズメは少し呆れた顔で前を向いた。耳が、ほんの僅かに赤くなっている。

 

 そのまま時代は江戸へ近づいた。華やかな屏風、人々の暮らし、芝居、衣装、浮世絵。展示ケースの中に並ぶものは、どれも一般社会の歴史として説明されている。

 

「この辺になると」

 

 スズメが言った。

 

「魔法社会は、一般社会の記録からかなり見えにくくなります」

 

「機密保持?」

 

「ええ。十七世紀の終わり頃から国際的に一般社会との分離が強まり、日本でも同じ方向へ進みました。江戸期には、魔法使いだけが利用する町や商家、医療施設、教育組織がすでに各地に形成されています」

 

「じゃあ、この絵の裏とかに魔法使いの店あった?」

 

「場所によっては」

 

「描かれてないの?」

 

「描かせないのです」

 

「怖っ」

 

「秘密保持です」

 

「歴史から消してんじゃん」

 

「そのため記録局には、一般史から抜け落ちた町並みの図面や商人の帳簿も保存されています」

 

 奎星は浮世絵へ視線を落とした。そこには商人や旅人、子供や役者など、多くの人々が描かれている。けれど、見えている人間だけが、その時代のすべてだったわけではない。

 

「不思議だな」

 

「何がです?」

 

「俺さ。魔法知らなかった頃、歴史ってもう全部決まってると思ってた」

 

「決まっている?」

 

「教科書に書いてあるのが全部っていうか」

 

 奎星はケースへ顔を近づけた。

 

「でも、書かれなかった方もあるんだな」

 

 スズメは少しだけ黙った。

 

「あります」

 

「いっぱい?」

 

「恐らく、私たちが思っているより」

 

 その答えだけは、教師の声ではなかった。歴史を好きな一人の人間の声だった。

 

     *

 

 本館を一通り見たあと、二人は建物を出た。春の光が眩しく、奎星は目を細めながら大きく背伸びをする。

 

「歴史、長ぇ〜」

 

「日本だけで千年以上歩きましたから」

 

「足より頭疲れた」

 

「珍しく使いましたからね」

 

「おい!」

 

 前庭を歩きながら、スズメが本館を振り返った。

 

「ですが、この場所自体が一番分かりやすい例かもしれません」

 

「何の?」

 

「一般史と魔法史が重なっている、という話です」

 

 奎星も振り返った。

 

「博物館が?」

 

「ここは、もともと寛永寺の本坊があった場所です」

 

「寛永寺……」

 

「上野戦争」

 

「あ、それ知ってる!」

 

 奎星が指を上げる。

 

「彰義隊!」

 

「珍しい」

 

「幕末行ったからな!」

 

「現地学習の規模がおかしいのです」

 

「清弦に言え」

 

「あなたが勝手に行ったのでしょう」

 

「時計が勝手に!」

 

「それもそうでした」

 

 二人は歩きながら話を続けた。

 

「慶応四年、西暦なら一八六八年。新政府軍と彰義隊の戦いで、寛永寺の伽藍の多くが焼けました。その後、この上野の山が公園となり、博物館が造られていきます」

 

「へえ……」

 

「東京国立博物館の収蔵品には、上野公園で採集された当時の砲丸もあります」

 

「それ魔法?」

 

「ただの砲丸です」

 

「そこは魔法であれよ」

 

「何でも魔法にしないでください」

 

 スズメは呆れたように言ったが、少し歩いたところで続けた。

 

「ただし」

 

「あるじゃん!」

 

「嬉しそうにしないでください」

 

 声がまた少し速くなる。

 

「上野戦争の記録には一件だけ、魔法社会側と一般社会側で原因の記述が違う被害があります」

 

「何それ」

 

 奎星がすぐに食いついた。

 

「寛永寺の北側にあった小さな保管庫です。一般社会側では、戦闘に伴う火災で焼失した施設の一つとして整理されています」

 

「魔法側は?」

 

「爆発事故」

 

「全然違うじゃん」

 

「当時、外国から入ってきた魔力測定器が保管されていました。真鍮製で、土地の魔力を数値化しようとした初期の器具です」

 

 奎星の足が止まった。

 

「……真鍮?」

 

「はい」

 

「以蔵が持ってたやつみたいな?」

 

 今度はスズメが奎星を見る。

 

「よく覚えていましたね」

 

「俺だって覚えてるよ。横浜で買ったやつとか、腰にいっぱいぶら下げてたじゃん」

 

「系統としては近いです。ただし、神代以蔵本人の器具だったという記録はありません」

 

「違うのか」

 

「同じ時代、同じ思想の中で作られた道具です。土地を流れる魔力を測り、管理しようとする考え方そのものが広がっていた」

 

 スズメは本館の向こうに広がる上野の空を見た。

 

「戦闘の日、火災と大量の魔法使用、それに人の死が重なり、局地的に霊脈が乱れました。保管されていた測定器がそれを拾いすぎて暴走し、保管庫を吹き飛ばした」

 

「うわ」

 

「ですが、周囲では本当に砲撃も火災も起きている。一般社会側から見れば、建物が一つ余計に壊れていても不自然ではありません」

 

「で」

 

 奎星は嫌な予感を覚えた。

 

「魔法使いが?」

 

「戦災として処理しました」

 

「揉み消した!」

 

「秘密保持上の処理です」

 

「揉み消した!」

 

 スズメは少し考えた。

 

「言い換えても、そうですね」

 

「認めた!」

 

「当時は現在ほど手続きが整っていませんでしたから」

 

「楓が聞いたら怒りそう」

 

「教育管理局では管轄外です」

 

「でも怒る」

 

「それはそうでしょうね」

 

 二人で少し笑った。

 

「でさ」

 

 奎星が訊く。

 

「清弦が関東の霊脈直したのも、そのへんの時代だろ?」

 

「そうです」

 

「じゃ、やっぱ全部繋がってんじゃん」

 

「ええ」

 

 スズメが頷いた。

 

「一般社会では、幕府が終わり、新しい政府が生まれ、行政制度や軍制や教育制度が大きく組み替えられた。魔法社会でも同じです。地方や家ごとに管理されていたものをどう記録するか。危険な魔法を誰が監督するか。外国から流入する魔法技術をどう扱うか。秘密保持をどう制度化するか」

 

「魔法省ができてく感じ?」

 

「現在の形へ繋がっていきます」

 

「博物館も同じ時代にできたんだよな」

 

 スズメが一瞬、奎星を見る。

 

「……そうです」

 

「何?」

 

「いえ」

 

「今ちょっと感心した?」

 

「少しだけ」

 

「もっとしていいよ」

 

「では取り消します」

 

「早ぇよ!」

 

「一般社会では、国中に散らばっていた文物や資料を集め、分類し、保存し、公開する場所として近代的な博物館が作られていった。同じ頃、魔法社会では各地に散らばっていた記録や術式、魔法具を行政組織の中へ集め始めた」

 

 スズメはゆっくり本館を見る。

 

「片方は、見せるために集めた」

 

 少し間を置いてから、続ける。

 

「片方は、隠すために集めた」

 

 奎星は何も言わなかった。

 

「でも」

 

 スズメが続ける。

 

「どちらも、残そうとしたのだと思います」

 

 春の空の下で、本館は静かに立っていた。戦争で焼けた寺の跡に、過去を保存する建物がある。その地下に魔法の記録があるわけではない。秘密の扉もない。杖を振れば別の展示室が現れるわけでもない。ただ、人が壊し、人が失い、そのあとで人が残そうとした場所だった。

 

 奎星は、なぜスズメが歴史を好きなのか、少しだけ分かった気がした。

 

「スズメちゃん」

 

「何です?」

 

「今日ここにしてよかった」

 

「はい」

 

 スズメも、少しだけ笑った。

 

「私もそう思います」

 

     *

 

「腹減った」

 

「余韻を壊すのが早いですね」

 

「歴史じゃ腹膨れねえもん」

 

「それはそうです」

 

 正門を出て、二人は左へ歩いた。少し進んだ先にある黒田記念館の別館へ入り、一階の上島珈琲店へ向かう。外の人波から一枚壁を隔てただけなのに、店内へ入ると音が急に柔らかくなった。コーヒーの香りと、焼かれたパンの匂いが混ざっている。

 

「ここも調べた」

 

 奎星は得意げだった。

 

「今日、準備が良いですね」

 

「デートだからな」

 

「声が大きいです」

 

「もう付き合ってんだからよくね?」

 

「それと公共空間で叫ぶことは別です」

 

「厳しい」

 

 席へ着くと、奎星はメニューを開いて十秒で決めた。

 

「俺これ。ビーエルティー ウィズ チーズエッグ!」

 

「予想通りです」

 

「何で?」

 

「一番量が多そうなものを選びましたから」

 

「あと黒糖ミルク珈琲」

 

「甘いですね」

 

「甘いのうまいじゃん」

 

 スズメは少し迷ってから、普通のB・L・Tサンドと温かいコーヒーを選んだ。

 

「スズメちゃん、チーズエッグいらないの?」

 

「普通ので十分です」

 

「一個食う?」

 

「まだ来ていません」

 

「来たら」

 

「あなたが全部食べるでしょう」

 

「よく分かってんじゃん」

 

「二年弱見てきましたので」

 

 やがて運ばれてきたサンドウィッチへ、奎星はすぐに齧りついた。

 

「うまっ」

 

「口に物を入れたまま喋らないでください」

 

「学校じゃないからいいだろ」

 

「学校でなくても駄目です」

 

「卒業の意味なくね?」

 

「人としての規則は残ります」

 

 奎星は黒糖ミルク珈琲を飲み、満足そうに息を吐いた。

 

「そうだ」

 

 片手でスマートフォンを取り出す。

 

「見てよ」

 

「何をです?」

 

「こいつら」

 

 画面に表示されたのは、卒業してなお一日も静かにならない五人組のグループだった。奎星、楓、日向、伊織、岳。制服を脱ぎ、寮を出て、住む場所さえ別々になったのに、画面を開けば数分前の続きのように会話が流れている。

 

【楓】

教育管理局の新人資料、三冊目終わった

 

【奎星】

まだ春休みだぞ

 

【楓】

だから何?

 

【日向】

怖

 

【楓】

あなたは練習しなさい

 

【日向】

してるわ

 

【岳】

山

 

 その下に写真が一枚添えられていた。雪の残る長野の山々が、青い空の下に並んでいる。

 

【奎星】

説明少な

 

【岳】

綺麗

 

【伊織】

それは見れば分かる

 

【岳】

あと寒い

 

【奎星】

それも山見れば分かる

 

「岩戸君、長野なんですね」

 

「うん。魔法生物保護官。山の保護区の方」

 

 奎星が画面を送る。

 

「鬼火鳥のときから、ずっとそっちに興味あったじゃん。保護だけじゃなくて、調査とか生息域の管理とか、人里に降りてきたやつを移したり、密猟の対応もするらしい」

 

「合っていますね」

 

「だろ?」

 

「とても」

 

 スズメは岳が送ってきた山の写真を少し長く見た。

 

「一人暮らし?」

 

「全員」

 

「岩戸君も?」

 

「長野で。部屋の写真も来た」

 

 奎星が画面を遡ると、段ボール箱に囲まれた岳の姿が映った。机の上にはカップ麺、床には煎餅、その横には魔法生物保護規程の分厚い冊子が置かれている。

 

「生活できています?」

 

「たぶん」

 

「不安ですね」

 

「でも飯屋だけはもう十七軒見つけたらしい」

 

「それなら大丈夫そうですね」

 

「判断基準そこなの?」

 

「岩戸君ですから」

 

 さらに画面を送る。

 

【日向】

お前ら聞け

 

【日向】

新人だからって舐められがちだったから

 

【日向】

一発かましてきてやった

 

【楓】

何したの

 

【日向】

紅白戦

 

【日向】

初球で決めた

 

【奎星】

うおおおおおお!!

 

【日向】

うおおおおおおい!!

 

【伊織】

文字でうるさい

 

「日向は愛知!」

 

「豊橋ですね」

 

「トヨハシテングの選手寮に入った。なんか先輩に『学校じゃ得点王だったらしいな』とか言われて、ちょっと舐められてると思ったらしい」

 

「朝比奈君らしいですね」

 

「で、一発かました」

 

「競技上の意味で安心しました」

 

「何だと思ったんだよ」

 

「朝比奈君ですので」

 

「ひでえ」

 

「あなたの友人でしょう」

 

「うん」

 

 奎星は少し嬉しそうに答えた。

 

「伊織は茨城」

 

 今度は、整然とした部屋の写真が表示された。本棚、机、椅子。それだけで、生活感らしいものはほとんどない。

 

「生活感なさすぎんだろ」

 

「榊君らしいですが」

 

「術式解析官の研修施設がそっちなんだって。事件とか事故のあとに残った魔法を読んで、術式の構造とか、魔力がどこからどこへ流れたかとか調べるやつ」

 

「彼にも合っていますね」

 

「星帰りのときとか、ずっと計算してたもんな」

 

「あなたが計算しなかった分まで」

 

「言い方」

 

「事実です」

 

「楓は東京」

 

 また画面を戻すと、机いっぱいに広げられた書類の写真が出てきた。

 

【楓】

教育関連法規

学校施設管理

魔力覚醒者の就学支援

一般社会出身者への特例編入制度

 

【奎星】

最後俺じゃん

 

【楓】

あなたみたいなのがまた来た時困るでしょ

 

【奎星】

俺みたいなのはもう来ない

 

【伊織】

それはそう

 

【日向】

二人いたら学校終わる

 

【岳】

飯が減る

 

【奎星】

岳だけ理由違う

 

 スズメが口元を押さえた。

 

「笑った?」

 

「少し」

 

「楓、もう仕事の勉強してんだぜ。まだ働いてもねえのに」

 

「水無瀬さんですから」

 

「俺と楓、多分めっちゃ会うよな」

 

「そうでしょうね。少なくとも最初は二人とも本局でしょうし。その後も教育機関で事件や秘匿案件が起きれば、教育管理局と魔法法執行局が連携することはあります」

 

「仕事でも怒られんのかな」

 

「恐らく」

 

「嫌だなぁ」

 

「あなたが怒られることをしなければよいのでは?」

 

「それ無理じゃん」

 

「なぜ先に諦めるのです」

 

 スズメはコーヒーを一口飲んだ。

 

「蓮根君は、研修中はご実家から?」

 

「うん」

 

 奎星もスマートフォンを置いた。

 

「霞が関までなら通えるし。母さんも『せっかく帰ってきたのにまた出ていくの?』って言うし」

 

「お母様らしいですね」

 

「配属決まったら分かんねえけどな。全国の地域法執行所のどっかだろ?」

 

「希望は出したのですか?」

 

「一応」

 

「どちらを?」

 

「都内」

 

「やはり」

 

「第一志望、都内の地域法執行所」

 

「理由は?」

 

 奎星はサンドウィッチを持ったまま考えた。

 

「東京好きだし」

 

「はい」

 

「実家近いし」

 

「はい」

 

「友達も何人か東京いるし」

 

「はい」

 

「…………」

 

 奎星はスズメを見る。

 

「何です?」

 

「いや」

 

「続きは?」

 

「言わねえ」

 

「なぜです」

 

「分かってんだろ」

 

「分かりません」

 

「絶対分かってる顔じゃん」

 

「顔で決めつけないでください」

 

「スズメちゃんが学校いるからだよ」

 

 何でもないように言った。

 

 スズメの手が止まる。

 

「都内なら、休みの日とか会いやすいじゃん」

 

「…………」

 

「何」

 

「いえ」

 

「照れてる?」

 

「珈琲が熱いだけです」

 

「それ便利だな」

 

「便利です」

 

「顔赤いよ」

 

「珈琲です」

 

「耳も」

 

「珈琲です」

 

「万能じゃん」

 

「黙って食べてください」

 

「はい」

 

 奎星は嬉しそうにサンドウィッチへ齧りついた。

 

     *

 

「スズメちゃんは?」

 

 食事も半分ほど終わった頃、奎星が訊いた。

 

「何がです?」

 

「春休み」

 

「忙しいですよ」

 

「休みなのに?」

 

「教師にとって、春休みは次の年度の準備期間でもあります」

 

「夢がない」

 

「時間割、教材、授業計画、新入生の資料確認。魔法史の展示教材も入れ替えますし、今年度の研究記録も整理しなければなりません」

 

「春休みじゃないじゃん」

 

「生徒が休みなのです」

 

「詐欺じゃん」

 

「誰も教師が休みだとは言っていません」

 

「四月から何年目?」

 

「四年目です」

 

 奎星が止まった。

 

「もう?」

 

「もう、とは」

 

「俺会ったとき二年目だろ?」

 

「そうですね」

 

「じゃ俺、先生人生の半分くらいいるじゃん」

 

「非常に濃い二年間でした」

 

「いい意味?」

 

「…………」

 

「何で黙るんだよ」

 

「考えていました」

 

「悪い意味もあんの?」

 

「二年目の最初など、ほとんどあなたにつきっきりでしたから」

 

「言い方!」

 

「事実です」

 

「俺、赤ちゃんみたいじゃん」

 

「一般社会から十七歳で突然編入し、魔法社会の常識をほとんど知らず、初日に校則へ文句を言い、授業で爆発にだけ異常な興味を示し、寮生活も初めてで、魔力量は測定不能」

 

 スズメが指を折る。

 

「補習対象」

 

「待って」

 

「無断行動多数」

 

「もういい」

 

「危険区域への侵入」

 

「先生」

 

「死の呪文へ素手で接触」

 

「やめて」

 

「古代魔術暴走」

 

「俺だけじゃない!」

 

「つまり」

 

 スズメは折った指を下ろした。

 

「つきっきりになる理由しかありませんでした」

 

「介護じゃん」

 

「近いですね」

 

「近いの!?」

 

 スズメが吹き出した。

 

 奎星も笑う。周囲の静かな店内で、二人は声を少し抑えながら笑い合った。

 

 学校では、いつも誰かがいた。日向が割り込み、楓が怒り、岳が食べ、伊織が訂正し、御影が遠くから怒鳴った。二人きりになっても、教師と生徒だった。授業か、補習か、事件か、相談か。どこかに必ず名前のついた理由があった。

 

 今日にはない。

 

 会いたかったから会った。

 

 一緒に歩きたかったから歩いた。

 

 歴史が好きな人に、博物館を選んだ。

 

 たったそれだけの一日だった。

 

 それが奎星には、黒曜の門より不思議だった。

 

「でも」

 

 スズメがコーヒーカップを置く。

 

「四年目は、かなり楽になると思います」

 

「何で?」

 

「あなたがいませんので」

 

「ひどくない!?」

 

「事実です」

 

「寂しくないの?」

 

「…………」

 

「スズメちゃん?」

 

「その質問は卑怯です」

 

「何で?」

 

「分かって訊いているでしょう」

 

「へへ」

 

「顔がうるさいです」

 

     *

 

 午後、二人は再び上野公園を歩いていた。来たときより人が増え、春の陽は少し傾き、木々の影が長く舗装路へ落ちている。遠くで子供が笑い、自転車のベルが鳴り、どこかの大道芸へ集まった人々から拍手が起こった。一般社会の休日だった。魔法の気配など、どこにもない。

 

 それでも奎星には、朝とは少し違って見えた。

 

 この道の下にも時間がある。寺があり、戦があり、焼け跡があり、公園になり、博物館ができた。その隣で、誰にも知られないまま魔法使いたちも生きていた。歴史は一枚の紙ではなく、何枚もの薄い紙が重なってできている。表から見える字もあれば、その下へ隠れた字もある。

 

 そして、人の人生も、たぶん似ている。

 

 魔法を知らなかった十七年。マホウトコロで過ごした二年弱。これから始まる仕事。そのどれか一つだけで、蓮根奎星という人間ができているわけではない。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

「また来ようぜ」

 

「博物館へ?」

 

「うん」

 

「今日かなり疲れたと言っていたでしょう」

 

「でも面白かった」

 

「そうですか」

 

「次、安倍晴明二時間な」

 

「本気だったのですか」

 

「あと明治」

 

「範囲が広い」

 

「あと戦国」

 

「一日では無理です」

 

「じゃ何回来ればいい?」

 

 スズメは少しだけ笑った。

 

「何度でも」

 

「よし」

 

 奎星も笑った。

 

 二人の距離が、少し近づく。

 

 奎星は右手へ視線を落とした。隣にはスズメの左手がある。朝と同じ距離だった。

 

 行け。今だ。恋人だぞ。卒業式でも繋いだ。いける。

 

 右手が一センチ、二センチと動く。

 

 しかし、結局また戻った。

 

「何です?」

 

「何でもない!」

 

「今日はそれが多いですね」

 

「気のせい!」

 

 情けない。自分でも分かっている。けれど、嫌がられたら嫌だった。

 

 好きになった人ほど、怖くなることがある。魔法なら失敗しても直せるものが多い。壊れた物は直せる。怪我なら治せる。術式なら読み解ける。けれど人間の気持ちは、失敗したあとに呪文一つで元へ戻すことができない。

 

 だから、奎星は朝から一度も手を伸ばせなかった。

 

 上野駅の公園口が少しずつ近づいてくる。今日が終わる。そのことを思った瞬間、指先に何かが触れた。

 

「ん?」

 

 見ると、スズメの小指だった。

 

 偶然かと思った。けれど次の瞬間、その指は離れず、今度は掌が重なった。小さな手が奎星の手を探るように触れ、やがて指が彼の指の間へ入る。

 

 奎星が足を止めた。スズメも止まる。

 

「何です?」

 

「手」

 

「はい」

 

「手、繋いでる」

 

「見れば分かります」

 

「スズメちゃんから?」

 

「何か問題でも?」

 

「いや!」

 

 奎星の顔が一気に明るくなる。

 

「全然!」

 

「なら歩いてください」

 

「うん!」

 

 二人はまた歩き出した。

 

 数歩進んだところで、奎星が訊く。

 

「なあ」

 

「何です?」

 

「嫌じゃない?」

 

 スズメが横を見る。ほんの一瞬、何を訊かれたのか分からない顔をした。それから、卒業式の日と同じように答えた。

 

「嫌とは言っていません」

 

 奎星はしばらく何も言わなかった。

 

「何です?」

 

「へへ」

 

「だから、顔がうるさいです」

 

 春の駅へ向かう人の流れの中を、二人は歩いていく。

 

 しばらくして、奎星が繋いだ手を見たまま、ふと思い出したように口を開いた。

 

「……なあ」

 

「何です?」

 

「一個、気になってたんだけど」

 

「何でしょう」

 

 奎星は少しだけ唇を尖らせた。

 

「……いつまで蓮根君って呼ぶの?」

 

 スズメが瞬きをする。

 

「蓮根君は蓮根君です」

 

「俺はもう先生って呼んでない!」

 

「それはずっとでしょう」

 

「俺、スズメちゃんって呼んでんじゃん」

 

「勝手に」

 

「もう許されてるだろ!」

 

「諦めています」

 

「ひどくない?」

 

「事実です」

 

 奎星は納得のいかない顔で数歩歩いた。

 

 けれど、手は離さない。

 

「……スズメちゃん」

 

「はい」

 

「奎星って呼んでよ」

 

 スズメの歩幅が、一瞬だけ乱れた。

 

 奎星は見逃さなかった。

 

「あ!」

 

「何です」

 

「今動揺した!」

 

「していません」

 

「したって!」

 

「していません」

 

「じゃ呼べるじゃん。ほら」

 

「なぜ今」

 

「付き合ってるから」

 

「理由が雑です」

 

「雑じゃねえよ!」

 

「蓮根君で困っていません」

 

「俺が困ってんの!」

 

「何にです?」

 

「距離!」

 

 奎星は繋いだ手を少し持ち上げた。

 

「こんなんなってんのに蓮根君って、なんか距離あるじゃん!」

 

「手を繋いでいる人間へ距離があると言われても」

 

「呼び方の話!」

 

「では、蓮根さん」

 

「遠くなった!」

 

「蓮根」

 

「先生に戻った!」

 

「元生徒です」

 

「彼氏!」

 

「声が大きいです」

 

 近くを歩いていた人が一人、ちらりと二人を見た。

 

 奎星が慌てて声を落とす。

 

「……彼氏」

 

「小さくすればいいという話でもありません」

 

「スズメちゃん」

 

「どうしました?」

 

「奎星」

 

「?」

 

「奎星って呼んで」

 

「今、自分で呼んだでしょう」

 

「俺じゃねえよ!」

 

「難しいですね」

 

「難しくない!」

 

 スズメの口元が、ほんの僅かに上がった。

 

「あ、絶対遊んでるだろ」

 

「何のことです?」

 

「顔!」

 

「顔で決めつけないでください」

 

 奎星はぶつぶつ言いながらも、少し嬉しそうだった。

 

 そのまま上野駅へ入り、二人は電車へ乗った。

 

     *

 

 夕方。

 

 地上では普通の官庁街にしか見えない霞が関の地下深く、日本魔法省の庁舎が広がっている。

 

 一般職員の行き交う中央区画からさらに奥へ進んだ先に、長距離転移用の区画があった。床へ刻まれた複雑な術式。壁際に並ぶ転移標。各地の魔法関連施設へ繋がる門の一つには、マホウトコロの紋章が刻まれている。

 

 奎星は、その入り口までスズメを送ることにした。

 

「ここまでで大丈夫ですよ」

 

「いいじゃん、最後まで」

 

「最後まで来ています」

 

「門入るとこまで」

 

「それを最後までと言います」

 

「じゃ、ちゃんと最後まで」

 

「あなたも四月からここへ通うのでしょう」

 

「うん」

 

「そのうち嫌というほど来ますよ」

 

「今日の話だよ」

 

 奎星は当然のように答えた。

 

 スズメが少しだけ黙る。

 

「……そうですか」

 

「そうですよ!」

 

 二人は転移門へ続く通路をゆっくり歩いた。

 

 さすがに人目の多い魔法省内へ入ったところで手は離していた。それでも奎星は、先ほどまでそこにあった温度が右手へ残っているような気がして、何度か指を握ったり開いたりしている。

 

「何をしているのです?」

 

「何でもない」

 

「今日は本当にそれが多いですね」

 

「今度はホントに何でもない」

 

「そうですか」

 

「……なあ」

 

「まだ何か?」

 

「奎星」

 

「はい?」

 

「はいじゃなくて!」

 

 スズメが小さく笑った。

 

「まだ諦めていなかったのですか」

 

「諦めるわけないじゃん!」

 

「蓮根君」

 

「ほら!」

 

「何がです?」

 

「今の!」

 

「いつも通りですが」

 

「奎星って呼ぶだけだろ!」

 

「そんなに重要ですか?」

 

「重要!」

 

 即答だった。

 

 スズメは少し意外そうに奎星を見る。

 

「……なぜです?」

 

「だって」

 

 奎星は一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 さっきまであれだけ騒いでいたくせに、理由を訊かれると少し恥ずかしい。

 

「なんか……」

 

「はい」

 

「スズメちゃんに名前で呼ばれたい」

 

「…………」

 

「それだけ」

 

 スズメは何も言わなかった。

 

 奎星の方が耐えられなくなる。

 

「何だよ!」

 

「いえ」

 

「変?」

 

「別に」

 

「じゃ呼んで」

 

「それとこれは別です」

 

「何で!?」

 

 転移区画の職員がこちらを見た。

 

 奎星はまた声を落とした。

 

「……何で」

 

「急に変えるのは落ち着きません」

 

「じゃ練習しようぜ」

 

「何の練習です」

 

「呼ぶ練習」

 

「しません」

 

「一回!」

 

「嫌です」

 

「ケチ!」

 

「名前を呼ばないだけでその評価になるのですか」

 

「なる!」

 

「なりません」

 

 そんなやり取りをしているうちに、転移門の前へ着いた。

 

 白い石造りの門の内側には、淡い青色の光が水面のように揺れている。その向こうは見えない。ここを抜ければ、次に足をつくのはマホウトコロだ。

 

 スズメが立ち止まる。

 

「では」

 

「うん」

 

「今日はありがとうございました」

 

「こっちこそ」

 

「博物館、楽しかったです」

 

「マジ?」

 

「はい」

 

 奎星の顔がすぐ明るくなる。

 

「じゃまた行こうな!」

 

「ええ」

 

「安倍晴明二時間」

 

「それは忘れていなかったのですね」

 

「あと次どこ行く?」

 

「もう決めるのですか」

 

「水族館」

 

「歴史は?」

 

「動物園」

 

「今日の学びを捨てるのが早いですね」

 

「映画」

 

「聞いてください」

 

「旅行でもいいな!」

 

「いきなり規模を広げないでください」

 

「幕末は?」

 

「絶対に行きません」

 

「清弦に会いてえじゃん」

 

「時間旅行をデート候補へ入れないでください」

 

「じゃ普通に京都!」

 

「まず四月から働いてください」

 

「現実ぅ!」

 

「現実です」

 

 二人で笑った。

 

 けれど、笑いが収まると、少しだけ静かになった。

 

 たった一枚の門の向こう。

 

 けれど、ここで別れれば、次に会うにはまた約束がいる。

 

 学校にいた頃には、そんなことを考えたこともなかった。

 

「じゃ」

 

 スズメが門の方へ一歩進む。

 

「あ」

 

 奎星が呼び止めた。

 

 スズメが振り返る。

 

「何です?」

 

「最後に」

 

「はい」

 

「奎星」

 

「…………」

 

「一回だけ!」

 

「嫌です」

 

「何でだよ!」

 

「次までの宿題にしておきます」

 

「教師だろ!」

 

「元教師です」

 

「ずる!」

 

「では」

 

 スズメがもう一度、門へ向き直る。

 

「待って待って!」

 

「今度は何です?」

 

「じゃ次会ったとき絶対な!」

 

「覚えていれば」

 

「忘れんなよ!」

 

「努力します」

 

「絶対覚えてないやつじゃん!」

 

 スズメは少し笑った。

 

 そして今度こそ、転移門の前へ立つ。

 

 奎星も諦めたように息を吐いた。

 

「……じゃあな、スズメちゃん」

 

「はい」

 

 一歩。

 

 スズメの足が淡い光の中へ入る。

 

 その直前。

 

 ほんの少しだけ顔を横へ向けた。

 

「さよなら、奎星君」

 

「…………え?」

 

 奎星が固まった。

 

 スズメはそのまま、何事もなかったように転移門へ踏み込む。

 

 青い光が揺れた。

 

「え」

 

 姿が消える。

 

「えっ」

 

 門の向こうには、もう誰もいない。

 

「スズメちゃん!!」

 

 奎星が門へ駆け寄った。

 

「今!!」

 

 返事はない。

 

「今言ったよな!?」

 

 当然、返事はない。

 

「スズメちゃーーーん!!」

 

 転移門は静かに揺れているだけだった。

 

 奎星はその前で立ち尽くした。

 

「…………」

 

 数秒。

 

「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」

 

 頭を抱えた。

 

 嬉しい。

 

 めちゃくちゃ嬉しい。

 

 けれど、言った本人はもういない。

 

「ずるいだろそれぇ……!」

 

 追いかけたい。

 

 でもこのまま転移門へ入ったら、ただマホウトコロまで追いかけていく変な卒業生である。

 

「うわぁぁぁ……!」

 

 しゃがみ込む。

 

 顔が勝手に緩む。

 

 しかし同時に、完全に逃げ切られたことが悔しい。

 

「もう一回言わせたかった……!」

 

「何やってんだおめえ」

 

「うわっ!」

 

 奎星が飛び上がった。

 

 振り返る。

 

 少し離れた通路に、斎賀玄弥が立っていた。

 

 書類らしきものを片手に持ち、心底意味が分からないものを見る目でこちらを見ている。

 

「さっきから門の前で唸ったりしゃがんだり」

 

「…………」

 

「気持ち悪りぃ……」

 

「…………なんでもないす」

 

「そうかよ」

 

 斎賀はそれ以上聞かなかった。

 

 そのまま横を通り過ぎていく。

 

 奎星は再び転移門を見る。

 

 もう当然、スズメの姿はない。

 

 それでも。

 

「……奎星君、だって」

 

 小さく呟く。

 

 また顔が緩んだ。

 

「う〜〜〜〜〜〜!」

 

「うるせえぞ!」

 

 通路の向こうから斎賀の怒鳴り声が飛んできた。

 

「すんません!!」

 

 魔法省の地下に、奎星の声が響いた。

 

 魔法のない、ごく普通の午後だった。

 

 ――とは、さすがにもう言えなかった。

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