四月。
春という季節は、始まりという言葉とあまりにも長く結びつきすぎている。入学、進級、入社、入省、新生活、新年度。誰かが作った区切りに合わせるように、人は昨日までと違う服を着、昨日までと違う場所へ向かい、昨日まで知らなかった人間の隣へ座る。そして、まるでそれが当然であるかのように、新しい自分として振る舞うことを求められる。
けれど実際には、三月三十一日と四月一日の間に、人間を作り替えるような魔法は存在しない。
少なくとも、蓮根奎星はそうだった。
二〇二八年、春。十八歳。国立魔法学校マホウトコロを卒業した翌月、蓮根奎星は日本魔法省魔法法執行局の大講堂で、死ぬほど眠そうな顔をしていた。
「長ぇ……」
「声に出すなや」
隣から小さな声が飛んできた。
「出てた?」
「出てた。あと顔にも出てる」
「顔はしょうがなくね?」
「しょうがなくないやろ」
奎星は横目で隣を見た。墨色を基調とした新人用の法執行官服をきっちり着込み、背筋を伸ばして座っている男がいる。背が高く、整った顔立ちには、初日からすでに数年働いているような落ち着きがあった。
桐生蒼真。京都・愛宕魔法学院の卒業生で、昨年の星迎祭では奎星と決闘し、禍祓官採用試験では偶然同じ班になった。防御、制圧、結界。相手を真正面から叩き潰すより、逃げ道を塞ぎ、戦場そのものを小さくしていくことを得意とする男だった。
「蒼真」
「何や」
「今、何の話?」
「聞いとけや!」
蒼真の反対側から、肩を震わせる気配がした。
「ふっ……」
「笑うなよ」
「いや、初日から変わらないなと思って」
宮本侑李だった。こちらも同じ新人用制服を着ている。マホウトコロでは奎星と同じクラスだった。二年間。正確には、侑李本人によれば二年間。奎星がまともに存在を認識したのは、禍祓官試験の日だった。
「侑李」
「何?」
「俺らって何年同じクラスだったっけ」
「二年!」
「即答」
「忘れないでよ!」
「覚えてるって」
「今確認したじゃん!」
「念のため」
「何の念だよ!」
「静かにせえ」
蒼真が二人の膝を軽く叩いた。三人は揃って前を向く。
日本魔法省魔法法執行局、大講堂。マホウトコロの大講堂ほど古くはなく、天井も羊脂玉でできてはいない。地下庁舎の一角に設けられた空間は、灰白色の石壁と濃い木材で統一され、正面には日本魔法省の紋章と魔法法執行局の銀色の徽章が掲げられていた。
数百席ある椅子の大半が埋まっている。全国から集まった新人禍祓官たちだった。マホウトコロ、白峰、愛宕、その他の魔法教育機関。一般社会の大学を経て採用試験を受けた者もいれば、別の魔法行政機関から移ってきた者もいる。年齢も経歴も違う。ただ今日から、同じ局の新人だった。
壇上では、魔法法執行局長が演台へ両手を置き、厳かな声で話していた。
「――諸君が本日より担うことになる職務は、我が国の魔法社会における法秩序と安全、その双方を守るために不可欠なものです」
低く、よく通る声だった。
「魔法とは、人々の生活を豊かにする力であると同時に、その使い方を誤れば、多くの者を傷つける力にもなります。我々魔法法執行局は、その力によって生じる犯罪、事故、紛争、そして一般社会との間で生じる様々な問題に対処しなければなりません」
奎星は一応、聞いていた。一応。
「諸君には、魔法省職員としての自覚と誇りを持ち――」
「誇り」
奎星が小声で繰り返す。
「黙っとけ」
「真面目すぎ」
「初日やぞ」
「初日だから眠いんじゃん」
「関係ある?」
侑李が訊いた。
「ない」
「ないんかい」
局長の話はさらに続いた。責任、規律、公正、奉仕、信用。どれも大切な言葉だった。そして、どれも十八歳の奎星には、まだ少しだけ大きすぎる言葉に聞こえた。
ほんの二年前まで、自分は普通の高校生だった。進路希望の第一志望には海賊と書いた。将来のことなど何も考えていなかった。その少年が今、国の役人として、法秩序を守る側の椅子へ座っている。
人生というものは、ときどき本人より先に話を進める。
「――以上をもって、諸君への訓示とします」
大きな拍手が起こった。奎星も慌てて手を叩く。
「終わった?」
「お前ほんまに殴られるぞ」
「誰に?」
その答えは、すぐに現れた。
「続いて、新人初任研修の担当教官をご紹介いたします」
司会の職員が資料へ視線を落とす。
「魔法法執行局、新人教育担当――斎賀玄弥教官」
奎星の拍手が止まった。
「…………」
「顔」
侑李が囁く。
「嫌そうな顔すんな」
「嫌なんだもん」
「来たで」
壇上の袖から、一人の男が歩いてきた。
斎賀玄弥。黒い法執行局の制服を着ている。上着の前はきちんと留め、髪も一応整えていた。卒業式で見たときと同じく、黙っていれば国の機関で新人を指導する人間に見えないこともない。
黙っていれば。
斎賀は演台の前まで来ると、新人たちを見渡した。一番前の席、中央、後方。最後に、なぜか奎星のところで一度視線を止める。
奎星はそっと目を逸らした。
斎賀が演台へ片肘をついた。
「今の局長のくだらねえ話は忘れろ」
大講堂が静まり返った。
「え」
奎星が声を漏らす。蒼真が片手で顔を覆い、小さく呟いた。
「初手から行ったな……」
最前列には、その局長本人がまだ座っていた。表情は変わらない。どうやら想定内らしい。
斎賀は続けた。
「誇りだの信用だの責任だの、別に間違っちゃいねえ。間違っちゃいねえが、それだけ覚えて現場へ出る馬鹿が一番面倒だ」
演台から肘を離す。
「魔法省だから正しいと思うな」
空気が変わった。奎星の顔から、少しだけ眠気が消える。
「上司だから正しいと思うな」
斎賀の声は大きくない。だが、広い講堂の奥まで不思議なくらいよく届いた。
「規則に書いてあるから正しいと思うな」
数人の新人が顔を上げる。
「ただし勝手に破ったら俺がぶん殴る」
「どっちだよ」
奎星が言った。
「蓮根」
「はい!」
反射だった。講堂中の視線が集まる。
「何か文句あるか」
「ない!」
一拍置いて、奎星は慌てて付け足した。
「……です!」
斎賀の眉が動く。
「後付けすんな」
「はい!」
「敬語」
「はいです!」
「お前、二年学校行って何習ってきた」
「魔法!」
「だろうな」
何人かが吹き出した。奎星は座り直す。
「笑われた」
「お前が悪い」
蒼真が即答する。
壇上では、斎賀が何事もなかったように話へ戻っていた。
「規則は覚えろ。法律も覚えろ。手順も覚えろ。報告書も書け。全部必要だ」
右手の指が演台を軽く叩く。
「その上で、自分の目で見ろ。何が起きてる。誰が困ってる。誰が嘘ついてる。誰が正しいこと言ってるような顔して、間違ったことをやらせようとしてる」
斎賀の目が僅かに細くなる。その言葉だけは、講堂の空気へ静かに沈んだ。
魔法省。斎賀玄弥。十二年前。黒曜の環。神代冥司。
奎星は、そのすべてを知っているわけではない。ただ、この男が何も知らずに魔法省を疑えと言っているのではないことくらいは分かった。
「看板で人間を見るな。省章付けてようが犯罪者は犯罪者だ。逆に、規則を破った人間が全員クズとも限らねえ」
斎賀は新人たちを見回した。
「考えろ」
短い言葉だった。
「お前らが杖を向ける相手も、守る相手も、人間だ」
誰も笑わなかった。奎星も、今度は何も言わなかった。
「以上」
斎賀が演台から離れ、二歩進んだところで振り返る。
「ああ、あと」
新人たちが見る。
「午前の実技。十分後に第三訓練場集合」
奎星は時計を見た。
「十分!?」
「遅れたら外周十周」
「着替えは!?」
「そのまま」
「説明短すぎません!?」
「蓮根は十二周」
「増えた!」
「十三」
「何で!?」
「十四」
「もう喋んな」
蒼真が奎星の口を塞いだ。
*
四十五分後、奎星は床に倒れていた。
「死ぬ」
「早いなぁ……」
その隣では侑李も倒れている。
「俺らまだ入局して二時間くらいやで」
少し離れたところでは、蒼真が壁へ背中を預けたまま座り込んでいた。三人とも、新人用の制服はすでに土埃にまみれている。
第三訓練場は、魔法省地下庁舎のさらに下部に設けられた大型実戦訓練区画だった。石造りの広い床には衝撃吸収術式が刻まれ、壁や天井には何重もの防護結界が施されている。模擬建築物や障害物を展開すれば、市街地、山林、住宅、地下道など様々な環境を再現できる。
新人禍祓官たちは、そこで斎賀玄弥に一時間弱で自信を破壊された。
「立て」
斎賀が言った。
「無理です」
奎星が答える。
「敬語使えんじゃねえか」
「命かかってるんで……」
「まだ死なねえよ」
「まだ!?」
「そこ拾う元気あるなら立て」
奎星は呻きながら身体を起こした。斎賀が新人全員へ向き直る。
「お前ら、試験に受かったから自分は強いと思ってるだろ」
誰も答えない。
「思ってるやつ」
奎星が手を上げた。
「はい」
「お前は知ってる」
「何で!?」
「顔に書いてある」
蒼真が小さく笑った。
「でも強いっすよ、俺」
「おう」
斎賀が頷く。
「だから面倒なんだよ」
「褒められてる?」
「一ミリも」
「ですよね」
この一時間で、奎星の敬語らしきものは少しずつ形成され始めていた。形はまだ歪だった。
「桐生」
「はい」
「お前は周り見すぎ」
蒼真の眉が動く。
「悪いことなんですか」
「悪くねえ。だが味方全員を動かそうとしすぎだ。現場じゃお前の言うことを聞かねえ奴もいる」
斎賀の視線が横へ動き、奎星を見る。
「いるな」
「俺見て言うなよ……です」
「おるな」
蒼真が疲れた声で言った。
「宮本」
「はい!」
「人助けたいのは分かる」
「はい」
「負傷者を見つけるたび突っ込むな。二次被害でお前も倒れたら、二人分運ぶことになる」
「……はい」
「あと蓮根」
「また俺?」
「お前は逆」
「何が」
「負傷者がいても敵を追う」
「…………」
「図星かよ」
侑李が横を見る。
「いや、状況によるじゃん」
「その状況判断を教えてんだよ」
「はい……」
斎賀は三人を見た。
昨年の禍祓官試験。あの実技で、三人は偶然同じ班になった。奎星が危険源への初動を担い、蒼真が範囲を制御し、侑李が救護と拘束を担当した。初対面に近い三人が、短い時間で自分の役割を決め、事件の中を走った。
それは間違いではなかった。けれど、一度うまくいった連携が、そのまま職業になるわけではない。
「試験じゃ採点する奴が見てる」
斎賀が言う。
「現場じゃ誰もお前らの点数なんかつけねえ」
杖を抜く。
「失敗したら人が死ぬ」
新人たちの表情が変わった。
「だから失敗しろ」
「え?」
奎星が顔を上げる。
「今のうちにな」
斎賀は杖を肩へ乗せた。
「ここなら俺が止める」
少し笑う。
「何十回でも間違えろ。現場へ出る前に、自分がどういう間違い方をする人間なのか覚えとけ」
「……斎賀さん」
「何だ」
「今日ちょいちょいいいこと言いますね」
「デパルソ」
「うわあああああっ!」
奎星が吹き飛んだ。
「何でぇぇぇぇぇ!?」
「余計なこと言うからや!」
蒼真が叫ぶ。
「プロテゴ!」
侑李の盾へ奎星が激突し、二人まとめて転がった。
「痛っ!」
「俺まで!?」
「連携できたな」
斎賀が言った。
「こういう連携いらねえよ!」
*
正午の日本魔法省職員食堂は、地下にある施設としては異様なほど広かった。天井には擬似太陽光を放つ魔法灯が並び、時間に合わせて色温度まで変わるらしい。長い窓のように見える壁面には地上の空を模した映像が映り、春の青空と薄い雲がゆっくり流れている。
法執行局、教育管理局、機密保持局、記録局、魔法生物管理部門。様々な部署の職員が同じ場所へ集まり、制服や徽章の色を交ぜながら昼食を取っていた。
「文明……」
食堂へ入った瞬間、奎星が呟いた。
「飯やぞ」
「飯って文明だろ」
「午前だけで何があったら、そんな境地に行くんだよ」
侑李が言った。
奎星はトレーを持って進む。唐揚げ、白米大盛り、味噌汁、小鉢、さらにプリンまで載せている。
「食うなぁ」
蒼真が見る。
「午前で全部消費した」
「プリンは?」
「心」
「心を消費したんやな」
「めっちゃした」
三人で席を探していた奎星の足が、不意に止まった。
「あ」
食堂の端にある四人掛けのテーブルに、一人で座っている少女がいた。
「楓」
水無瀬楓だった。
教育管理局の新人職員用の濃紺の服を着て、胸元にはまだ真新しい職員証をつけている。髪は学校にいた頃より少しだけきちんとまとめられており、見た目だけなら入局初日とは思えないほど馴染んでいた。
ただし、テーブルの上だけは明らかにおかしい。昼食の横に分厚い冊子が三冊並び、教育関連法規、魔法教育機関施設管理規程、一般社会出身魔力覚醒者就学支援要綱という題名が見えている。ページの端には黄色、青、桃、緑の付箋が大量に貼られ、冊子そのものが色に埋もれていた。
「飯食えよ」
奎星が言った。
楓が顔を上げる。
「何よ」
「勉強してんじゃん」
「読んでるだけよ」
「付箋すげえ」
「必要なところに貼ってるだけ」
「本、見えなくなってるぞ」
「うるさい」
奎星は勝手に正面へ座った。
「ここ座る」
「もう座ってるでしょ」
「紹介する」
奎星が後ろを指差す。
「こっち蒼真」
「雑すぎるやろ」
蒼真がトレーを置きながら眉を寄せた。
「桐生蒼真です。愛宕出身」
「あ」
楓が少し目を見開く。
「常若の庭のときに」
「会うてるな」
「ちゃんと話したことは、ほとんどなかったけど」
「せやな」
蒼真が軽く頭を下げる。
「改めて、よろしく」
「水無瀬楓です。よろしく」
「こっちは侑李」
「知ってる!」
侑李が即座に言った。
「同じクラスだっただろ!」
「侑李、お前そのくだり好きだな」
「君のせいだよ!」
楓が少し笑った。
「宮本君、久しぶり」
「ほら! 水無瀬さんは覚えてる!」
「普通は覚えてるのよ」
「だよな!?」
「俺も覚えてるって」
「試験の日に名前忘れてたじゃん!」
「昔の話じゃん」
「最近だよ!」
四人のテーブルに、学校にいた頃のような騒がしさが少しだけ戻った。ただ、場所は違う。制服も違う。教師はいない。食堂の向こうを歩いているのは、これから同僚と呼ぶ人々だった。
奎星は唐揚げを一つ口へ入れた。
「で」
楓を見る。
「一人?」
「見れば分かるでしょ」
「友達は?」
「初日にその訊き方する?」
「俺、もうできたよ」
「は?」
楓が顔を上げる。
ちょうどそのとき、少し離れた席から声が飛んできた。
「蓮根ー!」
「おー!」
奎星が普通に手を振る。午前の訓練で同じ組になった新人が二人、向こうから手を振り返した。
「午後死ぬなよー!」
「そっちもなー!」
「斎賀教官、怖すぎ!」
「分かるー!」
楓が黙って奎星を見る。
「…………」
「何」
「いつ知り合ったの?」
「朝」
「今日?」
「今日」
「何時?」
「九時くらい?」
「まだ三時間しか経ってないじゃない」
「そうだっけ」
「何で?」
「何でって何が?」
「何で三時間であんな感じになるのよ」
奎星は首を傾げた。
「喋ったから?」
「それができたら苦労しないのよ」
少しだけ、楓の声が小さくなった。奎星が箸を止める。
「うまくいってない?」
「別に」
「その別には、うまくいってないやつじゃん」
「仕事は大丈夫」
楓は付箋だらけの資料へ目を落とした。
「今日説明されたことも大体分かるし、法規も学校制度も、思っていたより知っている内容が多かったから」
「じゃ余裕じゃん」
「仕事はね」
「人?」
「…………」
楓は答えなかった。それで十分だった。
楓は昔から、人と話せないわけではない。むしろ必要なことなら誰よりはっきり言う。学級委員を任されれば仕事をするし、誰かが困っていれば放っておけない。奎星と日向が馬鹿をすれば怒鳴るし、教師相手でも必要なら意見を言う。
けれど、理由のない会話や、まだ名前しか知らない相手への一言、昼休みに自然とできた輪へあとから「一緒に食べてもいい?」と入っていくことは、教科書にも法規集にも書かれていない。
「朝、話しかけようとはしたのよ」
楓が小さく言った。
「うん」
「もう何人かで話してたから」
「うん」
「別に無理して入る必要もないかなって」
「うん」
「それで資料を読んでたら昼になった」
「ぼっちじゃん」
「殴るわよ」
「学校と変わんねえ!」
奎星が笑う。楓は箸で卵焼きを切った。
「別に一人が嫌なわけじゃないし」
「でもちょっと羨ましい?」
「…………」
「俺が」
「…………少し」
「うお」
「何よ」
「楓が俺を羨ましがった」
「仕事面では一ミリも羨ましくないから」
「言い方!」
「午前どうだったの?」
楓が訊くと、奎星の顔から笑顔が消えた。
「斎賀」
「うん」
「マジ最悪」
「予想通りね」
「前科持ちのくせに偉そうなんだよ!」
蒼真が味噌汁を吹きそうになる。
「お前、それここで言うんか!?」
「本人いないじゃん」
「魔法省やぞ!」
「しかもつえぇし!」
「そこ関係ある?」
侑李が訊いた。
「あるよ! 教官が強いと新人が困るだろ!」
「教官が弱い方が困るでしょ」
楓が即答した。
「でも限度あんじゃん!」
「午前だけで何回飛ばされたの?」
「覚えてない」
「じゃあ必要だったんでしょ」
「何で!?」
「あんたは厳しくしないと調子に乗るから」
「もう乗ってるで」
蒼真が言った。
「朝から」
侑李も頷く。
「俺の味方どこ?」
「自業自得よ」
「あと敬語うるせえ」
「それは覚えなさい」
「使ってる!」
「何て言ったの?」
「はいです」
「使えてない」
「何でだよ!」
「日本語から研修した方がいいんじゃない?」
「禍祓官関係ねえじゃん!」
楓が少し笑った。さっきまで一人で資料を読んでいた人間の顔ではなかった。
「ねえ」
そのとき、知らない声がすぐ横からした。
「蓮根奎星君!?」
「……はい?」
奎星が振り向くと、女性が立っていた。奎星たちより少し年上で、二十代半ばくらいだろうか。肩より少し長い髪をゆるくまとめ、魔法省の職員服を着ている。胸元には教育管理局の徽章があり、片手に昼食のトレーを持ったまま、奎星の顔をまじまじと見ていた。
「やっぱり!」
「えっ」
女性の顔が一気に明るくなる。
「本物だ!」
「何の?」
「蓮根奎星君!」
「それはそうですけど」
「スズメの彼氏!」
「ぶっ」
奎星が味噌汁を噴きかけた。
「ゲホッ、ゲホッ!」
「え」
侑李が奎星を見る。
「スズメ?」
蒼真も見る。
「彼氏?」
楓だけが額を押さえた。
「ああ……」
「何で楓だけその反応!?」
「知ってるからよ」
「誰!?」
奎星が女性を見る。
女性は嬉しそうに空いている席へトレーを置いた。
「藤原美琴」
「…………」
「スズメの友達」
「…………」
奎星の目がゆっくり大きくなる。
「美琴さん!?」
「お、知ってる?」
「名前だけ!」
「私も名前だけ!」
「同じじゃん!」
「会いたかったー!」
「俺も!」
「何で?」
「スズメちゃんの友達だから!」
「ちゃん付けなんだ!」
美琴が机を叩いた。
「本当にちゃん付けなんだ!」
「そこ!?」
「だってスズメが!」
美琴の口が止まる。目だけが笑った。
「……何?」
奎星が身を乗り出す。
「何て言ってた?」
「いやぁ」
「何て言ってた!?」
「本人に聞けば?」
「絶対教えてくれない!」
「それはそう」
「友達なのに!」
「友達だから分かるの」
美琴は楽しそうに笑った。
「いやー、でも本当にいたんだね」
「何だと思ってたんすか」
「スズメの妄想」
「ひどくない!?」
「だって、あのスズメだよ?」
「どのスズメちゃん?」
「恋愛の話を振ったら三秒で話題を変えるスズメ」
「分かる」
「舞踏会の噂だけで面倒そうな顔をしていたスズメ」
「分かる」
「学生時代、誰が好きとか、そういう話をほとんどしなかったスズメ」
「分か……それは知らない!」
「でしょ?」
美琴が椅子へ座った。
「なのに最近、蓮根君の話だけ普通にするからさ」
「え」
奎星が止まる。
「…………普通に?」
「するよ」
「どんな?」
「知りたい?」
「知りたい!」
「めちゃくちゃ食いつくやん」
蒼真が呟く。
「知りたい!」
「二回言った」
侑李が笑う。
美琴は頬杖をついた。
「この前なんか――」
「待って!」
奎星が手を上げる。
「何?」
「その前に一個」
「うん」
「スズメちゃん、俺のこと何て呼んでた?」
楓が嫌な予感を察した顔になる。
「そこ?」
「大事!」
美琴が首を傾げた。
「蓮根君」
「くっ……!」
奎星が胸を押さえた。
「何でダメージ受けてんの?」
「この前やっと奎星君って呼んでくれたのに!」
「えっ」
美琴の目が見開かれた。
「下の名前!?」
「一回だけ!」
「スズメが!?」
「一回だけ!」
「君付け!?」
「そこはまだ!」
「まだって何」
楓が呆れる。
美琴は数秒固まっていたが、やがて両手で口元を押さえた。
「うわぁ……」
「何?」
「スズメ、頑張ったねえ……」
「俺じゃなくてそっち褒めるの!?」
「だってスズメだもん」
「美琴さん」
楓が静かに声を挟んだ。
「はい?」
「水無瀬楓です。烏丸先生には学校でお世話になりました」
「あ!」
美琴が楓の職員証を見る。
「教育管理局?」
「今日からです」
「新人!?」
「はい」
「同じじゃん!」
「え」
「私も教育管理局」
楓の顔が少し変わる。
「そうなんですか」
「うん。部署は違うけどね」
美琴が食堂を見回した。
「あれ? 同期と食べないの?」
「…………」
楓が一瞬だけ詰まった。
奎星が口を開く。
「楓ぼっ――」
「殴るわよ」
「まだ言ってねえ!」
「言う顔してた」
「顔で決めつけんなよ!」
「あなたの場合は分かるの」
美琴は二人を交互に見た。すぐに何かを察したらしい。
「あー」
それ以上は訊かなかった。代わりに、少し離れたテーブルへ顔を向ける。
「あ、いた」
手を振った。
「おーい! 教育管理局の新人組ー!」
楓が固まる。
「え」
三人ほどが振り返った。
「あ、美琴さん!」
「こっち席あるよ! 一緒に食べよ!」
「ちょ」
楓が美琴を見る。
「美琴さん」
「何?」
「いや、その」
「同期でしょ?」
「そうですけど」
「じゃ、ちょうどいいじゃん」
「心の準備が」
「昼休みに準備いる?」
「いる人もいます!」
美琴は笑った。その言い方は妙に明るく、それでいて押しつけがましくなかった。
「水無瀬さんだよね?」
やってきた新人の一人が言う。
「朝、同じ説明会にいたよね」
「あ」
楓が顔を上げる。
「はい。いました」
「資料すごいね」
別の一人が付箋だらけの冊子を見る。
「それ、もう全部読んだの?」
「一応」
「早っ!」
「ここの規則、意味分かんなくなかった?」
「どこ?」
「七十三条の例外」
「あれは、その前の就学支援規程と一緒に読むと――」
楓の声が変わった。
奎星はその変化に気づいた。学校で何度も見てきた顔だった。分かることを訊かれたとき。誰かが困っているとき。自分の知っていることが、誰かの役に立つと分かったとき。
「え、そういう意味なの?」
「多分。午前の説明だと省略されてたけど」
「水無瀬さん詳しい!」
「学校制度は昔から興味があったので」
「じゃあ、これも聞いていい?」
「いいけど」
気づけば、楓の横には人が増えていた。ほんの十分前まで、一人で資料を読みながら昼食を取っていたテーブルだった。
奎星は唐揚げを口に入れたまま、その様子を眺めた。
「何や」
蒼真が訊く。
「いや」
奎星は少し笑った。
「友達できたじゃん」
楓に聞こえた。
「まだ同期!」
「俺のとき友達って言ったじゃん!」
「あなたが勝手に言ったの!」
「でも良かったな」
「…………」
楓は少しだけ黙った。それから、付箋だらけの資料を閉じる。
「まあ、悪くはないかも」
美琴が笑った。
「でしょ?」
そして突然、奎星を見る。
「じゃ、こっちはスズメの話の続きね」
「はい!」
「返事良っ」
「そこだけ敬語完璧やな」
蒼真が呆れる。
「斎賀さん相手にも、それくらいできたらいいのに」
侑李が言った。
「無理」
「何でだよ」
美琴が楽しそうに頬杖をついた。
「で、どこまで聞きたい?」
「全部」
「迷いないね」
「全部」
「じゃあ、スズメが学生の頃――」
その瞬間、奎星のポケットの中でスマートフォンが震えた。
「ん?」
取り出す。
新人禍祓官用の連絡網に、斎賀からのメッセージが表示されていた。
【斎賀玄弥】
午後訓練 十二時五十分集合
奎星が時計を見る。十二時四十八分。
「…………」
「どうしたん?」
蒼真も画面を覗き込む。
「…………あと二分」
「は?」
「嘘だろ」
侑李が立ち上がる。
続けて、新しいメッセージが届いた。
【斎賀玄弥】
遅刻一分につき外周十周
「うわああああああ!」
三人が同時に立ち上がった。
「何!?」
楓が驚く。
「午後!」
「走るで!」
「トレー!」
「返してから!」
「美琴さん!」
奎星が振り返る。
「何!?」
「スズメちゃんの話、絶対続き聞かせてください!」
「そこ!?」
「約束!」
「分かったから行きな!」
「ありがとうございます!」
奎星はトレーを持って走りかけたが、すぐに足を止めた。
「食堂で走らない!」
楓の声が飛ぶ。
「学校じゃない!」
「学校じゃなくても駄目!」
「スズメちゃんと同じこと言うなよ!」
「いいから早く行け!」
「はい!」
三人が早足で食堂を出ていく。その背中へ、美琴が声を上げた。
「奎星君!」
「はい!?」
奎星が振り返る。美琴はにやりと笑った。
「スズメ泣かせたら、私が殴るからね!」
「何で周りに殴る人しかいねえんだよ!」
食堂に笑い声が広がった。
扉が閉じると、少しだけ静かになったテーブルで、美琴は隣を見る。楓は、さっきまで一人で読んでいた資料をもう開いていなかった。
「水無瀬さん」
同期の一人が言う。
「午後終わったら、研修資料一緒に見ない?」
「え」
「さっきの七十三条、もうちょい教えてほしくて」
「……いいけど」
「やった」
「私もいい?」
「どうぞ」
楓は少しだけ笑った。
「その代わり、私も分からないところがあるから」
「もちろん」
新しい場所で人間関係が始まる瞬間に、特別な音は鳴らない。鐘も鳴らなければ、魔法の光も出ない。歴史の教科書へ載ることもない。
昨日まで名前しか知らなかった人間と、同じ机で昼を食べる。分からないことを一つ訊く。次の休憩の約束をする。たぶん大人になってからの人間関係というものは、そういう小さな出来事の積み重ねでできている。
一方、魔法省の廊下では、走らないぎりぎりの速度で三人の新人禍祓官が進んでいた。
「あと三十秒!」
「無理やって!」
「いける!」
「蓮根!」
「何!?」
「お前のせいやからな!」
「何で!?」
「美琴さんの話聞こうとしたからや!」
「蒼真も聞いてただろ!」
「聞いてへん!」
「顔めっちゃ聞いてた!」
「走るな!」
廊下の向こうから職員の怒声が飛んだ。
「走ってません!」
「早歩きです!」
「めっちゃ早いだけです!」
三人は速度を落とさない。
十八歳の春。学校を卒業した。教師に怒られる生活も終わった。これからは、自分で考え、自分で決め、自分の仕事に責任を持って生きていく。大人として、社会人として、禍祓官として。
そして、その日の午後。
三人は集合時刻に十一秒遅れた。
「一周」
斎賀が言った。
「一分じゃないんですか!?」
「気が変わった」
「横暴!」
「二周」
「魔法省だから正しいと思うなって朝言ってたじゃん!」
「いいこと覚えてんじゃねえか」
「じゃあ!」
「三周」
「何で!?」
斎賀は笑った。
「上司だから正しいと思うな」
「言った!」
「ただし」
杖で訓練場の外周を指す。
「逆らったら俺がぶん殴る」
「そこまでセットなの!?」
「走れ、新人」
「くそおおおおおお!」
奎星が走り出し、蒼真が続き、侑李もその後を追った。
魔法法執行局、新人禍祓官。蓮根奎星、入局初日。
社会人生活は、まだ半日しか経っていなかった。