マホウトコロ   作:西野圭吾

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第3話 大人になった

 

 

 蓮根奎星が日本魔法省魔法法執行局へ入ってから、二週間が経った。

 

 たった十四日。カレンダーの上では、四月の最初のページを半分ほど進んだだけである。けれど新人禍祓官たちにとって、その十四日は、それまで知っていた二週間とは少し意味が違っていた。

 

 朝六時半起床。七時四十五分集合。八時から基礎体力。九時から実戦訓練。昼を挟み、午後は魔法法規、捜査手順、拘束術、証拠保全、一般社会への秘匿対応、緊急時の魔法使用規則、報告書作成。その合間には再び実戦訓練が入り、一日の最後には、その日の失敗を本人の手で文章にさせられる。

 

 一日が終わる頃には、新人の半分が「昨日何を食べたか」を思い出せなくなっていた。

 

 原因は一人しかいない。

 

 斎賀玄弥。新人教育担当。元・禍祓官。元・犯罪者。そして現在、日本魔法省魔法法執行局において、新人たちが最も廊下で会いたくない人間だった。

 

「遅い」

 

「まだ三秒です!」

 

「三秒遅い」

 

「三秒くらい!」

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「外周」

 

「何周ですか」

 

「今ので五周」

 

「今の何!?」

 

「六」

 

「黙るわ!」

 

「敬語」

 

「黙ります!」

 

「七」

 

「何で!?」

 

 朝は、そんなところから始まった。

 

 実戦訓練では、さらに酷かった。

 

「桐生。周りを動かそうとしすぎだ」

 

「でも指示せな連携できへんやろ」

 

「全員がお前の言うことを聞く前提で動くな。現場にいる人間は駒じゃねえ」

 

「……はい」

 

「宮本」

 

「はい!」

 

「倒れてる奴を見たら突っ込む癖、まだ抜けてねえ」

 

「今日は周囲見ました!」

 

「二秒」

 

「見ました!」

 

「四秒見ろ」

 

「時間指定!?」

 

「蓮根」

 

「はい!」

 

「お前はその逆だ」

 

「何がですか」

 

「倒れてる奴を見ても犯人を追う」

 

「状況によるじゃん」

 

「その状況を見ろって、二週間言ってんだよ」

 

「見てます!」

 

「見てねえ」

 

「見てる!」

 

「報告」

 

「対象者を確保しました!」

 

「その前」

 

「追跡しました!」

 

「その前」

 

「逃走されました!」

 

「その前」

 

「交戦しました!」

 

「その前」

 

「……」

 

 奎星の顔が固まった。斎賀は腕を組んだまま、何も言わずに彼を見ている。

 

「ほらな」

 

「待って」

 

「待たねえ」

 

「今出ます」

 

「何が」

 

「記憶が」

 

「出すな。思い出せ」

 

「えーっと……」

 

 奎星が必死に記憶を辿っていると、桐生蒼真が横から小さく口を挟んだ。

 

「一般人」

 

「あ!」

 

「言うな、桐生」

 

「すんません」

 

「一般人がいました!」

 

「やっと戻ったな」

 

「思い出した!」

 

「桐生が言っただろ」

 

「ヒント!」

 

「答えだ」

 

「細かい!」

 

「現場じゃ、その細かいので人が死ぬ」

 

 その一言で、奎星の口が閉じた。斎賀は、そういうところだけはふざけなかった。

 

 戦う力だけなら、奎星は新人の中でも抜けている。相手の杖を見て、肩を見て、重心を見て、次に撃たれる魔法を読む。一度見た術式なら、二度目にはもう何かを掴み、三度目には本人なりの対処を作る。魔力量は言うまでもなく、反応も速い。何より、戦うことそのものを怖がらない。

 

 だが、斎賀がこの二週間ずっと奎星へ教えているのは、その外側だった。

 

 敵だけを見るな。倒れた人間を見ろ。建物を見ろ。逃走経路を見ろ。味方の位置を見ろ。二次災害を考えろ。自分ができることと、自分がやるべきことを混同するな。

 

 敵を倒すことだけが、禍祓官の仕事ではない。

 

「お前な」

 

 ある日の訓練のあと、斎賀は疲れ切った新人たちを前にして言った。

 

「禍祓官は決闘屋じゃねえぞ」

 

「分かってます」

 

「分かってねえから言ってんだよ」

 

「昨日よりは分かってます」

 

「昨日がゼロだったからな」

 

「今日は?」

 

「一」

 

「増えた!」

 

「喜ぶな」

 

「百日やったら百じゃん」

 

「そういう足し算じゃねえ」

 

 そして十四日目。

 

 市街地を模した訓練区画で、斎賀は凶悪犯役として逃走した。途中で訓練用建物の壁を一枚吹き飛ばし、崩れた瓦礫の下へ一般人役の人形を二体倒す。斎賀はそのまま走り、奎星も反射的に追った。

 

 一歩、二歩、三歩。

 

 そこで、奎星の足が止まった。

 

「……くそっ」

 

 振り返った彼は、すぐに声を張った。

 

「侑李!」

 

「分かってる!」

 

「怪我人!」

 

「任せて!」

 

「蒼真!」

 

「周囲封鎖やな!」

 

「頼む!」

 

 奎星は倒れた人形へ走った。斎賀は遠くから、その背中を見ていた。

 

 その日の訓練が終わったあと、奎星は斎賀のもとへやって来た。

 

「斎賀さん」

 

「何だ」

 

「今の、俺が追ったら捕まえられましたよね」

 

「たぶんな」

 

「絶対いけた」

 

「そうかもな」

 

「……悔しい」

 

「なら覚えとけ」

 

「何を」

 

「逃がすのも仕事だ」

 

 奎星は少し黙った。悔しさを飲み込むように唇を結び、それから顔を上げる。

 

「次は?」

 

「次は?」

 

「捕まえて助ける」

 

「欲張るな」

 

「できるようになります」

 

「じゃあ百回やれ」

 

「百回!?」

 

「九十九回でもいい」

 

「一回しか減ってねえ!」

 

 斎賀は笑った。

 

 その頃には、奎星も二週間前とは少し違っていた。本当に、少しだけ。けれど、その少しが現場では大きいことを、斎賀は知っていた。

 

     *

 

 金曜日の午後七時十三分、斎賀玄弥は、霞が関から少し歩いた場所にある居酒屋へ十三分遅れて現れた。

 

 暖簾を潜ると、焼き鳥と揚げ物、それに酒の匂いが混ざった熱気が押し寄せてくる。官庁街から流れてきた会社員や役人で店内は混み合っており、奥には喫煙可と書かれた小さな半個室がいくつか並んでいた。

 

「すんません。真壁って名前で」

 

「あ、三名様ですね。もうお二人いらしてます」

 

「ですよね」

 

 悪びれる様子もなく、斎賀は店員のあとをついて奥へ進んだ。

 

 半個室には、すでに二人の男がいた。一人は坊主頭に顎から口元へかけて髭を生やし、濃紺のシャツの袖を肘まで捲っている。目の前には、生ビールが半分ほど減ったジョッキが置かれていた。

 

 真壁征士郎。

 

 その向かいには、大柄な身体を椅子へ窮屈そうに収めた男が座っている。黒い短髪と、左頬を縦断する古い傷。御影玄一郎だった。

 

 二人とも斎賀を見る。

 

「よお、玄一郎。征士郎」

 

「遅い」

 

 御影が言った。

 

「十三分だ」

 

 真壁は腕時計を確認した。

 

「細かいな」

 

「十三分を細かいと言うな」

 

「来たからいいだろ」

 

「よくない」

 

「昔から変わんねえなあ」

 

「お前が変われ」

 

 斎賀は笑いながら二人の間の席へ腰を下ろした。上着を脱ぎ、ポケットから煙草の箱を取り出して一本を口へ咥える。机の端に置かれた灰皿へ煙草を向け、杖先に灯した小さな火を移すと、細い煙がゆっくりと立ち上った。

 

 斎賀は一度吸い込み、煙を横へ吐いてから、ふと二人を見た。

 

「……あれ」

 

「何だ」

 

「お前ら、吸わねえの?」

 

 真壁が自分の前にある灰皿へ視線を落とした。

 

「やめた」

 

「は?」

 

 斎賀の顔に、本気の驚きが浮かぶ。

 

「征士郎が?」

 

「そうだ」

 

「何で」

 

「健康診断だ」

 

「健康診断?」

 

「肺の数値で少し指摘された」

 

「病気?」

 

「そこまでではない」

 

「じゃ、いいじゃん」

 

「医者に、この機会にやめろと言われた」

 

「素直かよ」

 

「医者の忠告は聞く」

 

「お前、本当に昔からそういうところ真面目だな」

 

「悪いか」

 

「いや」

 

 斎賀は煙草を咥えたまま笑った。

 

「逆に安心した」

 

「意味が分からん」

 

 斎賀は今度は御影を見る。

 

「玄一郎は?」

 

「何が」

 

「お前も吸ってただろ」

 

「ああ」

 

「いつやめた」

 

「学校へ行ってからだ」

 

 斎賀の眉が上がる。

 

「教師になったから?」

 

「そうだ」

 

「別に教師だって吸うだろ」

 

「生徒の前では吸えん」

 

「前で吸わなきゃいいじゃん」

 

「匂いが残る」

 

 御影は短く答え、灰皿へ視線を落とした。

 

「子供は気づく」

 

 斎賀は煙草を持ったまま、少しだけ御影を見た。

 

「お前」

 

「何だ」

 

「教師だな」

 

「教師だ」

 

「そうじゃなくて」

 

「何がだ」

 

「いや」

 

 斎賀は笑い、煙を吐いた。

 

「何でもねえ」

 

「気持ち悪いな」

 

「ひどくね?」

 

 真壁がジョッキを置いた。

 

「玄弥」

 

「ん?」

 

「煙はそちらへ流せ」

 

「はいはい」

 

「灰を落とすな」

 

「お前、俺の母親?」

 

「十四年前も同じことを言った」

 

「覚えてんの?」

 

「覚えている」

 

「怖えな」

 

 店員が注文を取りに来る。

 

「ご注文は?」

 

「生」

 

 斎賀が即答した。

 

「お前も最初からビールか」

 

 御影が言う。

 

「金曜だぞ」

 

「だから何だ」

 

「教師になると金曜の価値も分からなくなるの?」

 

「明日も仕事だ」

 

「土曜だぞ」

 

「教師に土曜が休みだと思うな」

 

「かわいそう」

 

「お前も役人だろう」

 

「俺は明日休み」

 

「腹が立つな」

 

 やがてビールが運ばれてくる。斎賀は煙草を灰皿へ置き、ジョッキを持ち上げた。

 

「じゃ」

 

「何に」

 

 真壁が訊く。

 

「何でもいいだろ」

 

「お前が始めたんだろう」

 

「金曜に」

 

「雑だな」

 

 斎賀は少し考えたあと、真顔で言った。

 

「……生きてることに」

 

 二人の動きが止まった。

 

「重い」

 

 御影が言う。

 

「お前が何にって聞いたんだろ!」

 

「金曜でよかった」

 

「じゃあ金曜でいいじゃねえか!」

 

 真壁が僅かに笑った。

 

「両方でいいだろう」

 

 三人のジョッキが軽くぶつかる。

 

「乾杯」

 

 小さな音が鳴った。

 

 十四年前、三人はよくこうして飲んでいた。現場へ出て、帰って、誰かが怪我をし、誰かが始末書を書かされ、誰かが上司と喧嘩をする。それでも仕事が終われば、同じ店へ入り、同じように酒を飲んだ。

 

 斎賀は煙草を吸った。御影も吸った。真壁も吸った。

 

 三人とも若かった。

 

 そのうち一人が消え、二人が残った。探しても見つからず、十二年後、その一人は敵として帰ってきた。戦い、殴り、拘束し、それでもまた同じ側へ並ぶことになった。

 

 そして今、一人は健康診断で煙草をやめ、一人は教師になって煙草をやめ、一人だけがまだ吸っている。

 

「……歳取ったなあ」

 

 斎賀が言った。

 

「お前が言うな」

 

「今、全員に言った」

 

「自分を含めるな」

 

「玄一郎、自分だけ若いつもり?」

 

「そういう意味ではない」

 

 斎賀は笑った。

 

「昔、お前もっと吸ってたじゃん」

 

「昔の話だ」

 

「任務終わったら、すぐ火つけてた」

 

「お前もだ」

 

「俺は今も」

 

「だから何だ」

 

「変わらない男」

 

「変われ」

 

「征士郎にも言われた」

 

「二人から言われているなら聞け」

 

「多数決嫌いなんだよな」

 

「二対一は多数決ではなく事実確認だ」

 

「征士郎、酒入るとちょっと面白くなるよな」

 

「まだ一杯目だ」

 

 三人の間に笑いが落ちた。

 

 斎賀は唐揚げを取り、口へ運んでから、ふと思い出したように訊いた。

 

「で、何話してた?」

 

「学校の話だ」

 

 御影が答える。

 

「つまんなそう」

 

「帰れ」

 

「来たばっかだろ」

 

 真壁が苦笑した。

 

「玄一郎が、学校が静かになったと言っていた」

 

「ああ」

 

 斎賀はすぐに笑った。

 

「蓮根が卒業したからか」

 

「随分静かになった」

 

「廊下を走る奴は減った?」

 

「減った」

 

「教師に絡む奴」

 

「減った」

 

「勝手に訓練場を使う奴」

 

「減った」

 

「授業で爆発する奴」

 

「増えた」

 

 斎賀の手が止まった。

 

「何で?」

 

「上級課程一年だ」

 

「もう次がいるじゃん」

 

「違う」

 

「何が」

 

「魔法薬の材料を勝手に足した」

 

「理由」

 

「色が綺麗だったから」

 

 斎賀は煙草を持ったまま固まった。

 

「……いいな」

 

「よくない」

 

「爆発?」

 

「爆発した」

 

「いいじゃん」

 

「よくない」

 

 真壁がジョッキを傾けながら言った。

 

「蓮根より危険ではないか」

 

「蓮根とは違う」

 

 御影が即答する。

 

「そこは庇うんだ」

 

「庇っていない」

 

「違いは?」

 

「蓮根は爆発させる前に訊く」

 

「評価低くない?」

 

「最初は訊かなかった」

 

「ああ」

 

 斎賀が頷く。

 

「じゃ、成長してんじゃん」

 

「そこはな」

 

「玄一郎、蓮根に甘いよな」

 

「甘くない」

 

「卒業式で泣きそうだったし」

 

「なっていない」

 

「俺も見た」

 

 真壁が言うと、御影の目が動いた。

 

「征士郎」

 

「事実だ」

 

「二人とも、まだ言うのか」

 

「二週間しか経ってないぞ」

 

「忘れろ」

 

「無理」

 

「玄弥」

 

「何」

 

「煙草消すぞ」

 

「話、関係なくね?」

 

「目の前にある」

 

「怖っ」

 

 斎賀は笑いながら灰を落とした。

 

「でもよ」

 

 少しして、真壁が言った。

 

「玄一郎も新人の頃は相当だった」

 

「何の話だ」

 

「覚えていないとは言わせない」

 

「問題は起こしていない」

 

「起こしてた」

 

 斎賀が即答した。

 

「お前に言われたくない」

 

「俺も起こしてたよ」

 

「認めるのか」

 

「今さらだろ」

 

 斎賀は二本目の煙草を取り出しかけたが、御影の視線に気づいて手を止めた。御影は何も言わず、真壁も何も言わない。ただ二人の視線が、斎賀の手元へ集まっている。

 

「何だよ」

 

「何も言っていない」

 

「顔がやめろって言ってる」

 

「気づけるようになったか」

 

「教師やめろ」

 

「嫌だ」

 

 斎賀は煙草を箱へ戻した。

 

「玄一郎って新人の頃、真面目な顔して命令無視してたからな」

 

「必要な判断だった」

 

「ほら」

 

 真壁が言った。

 

「何だ」

 

「その言葉だ」

 

「人質がいた」

 

「北海道の件か」

 

 斎賀が笑う。

 

「あれな」

 

「お前は先に入っていただろう」

 

「近道」

 

「命令違反だ」

 

「近道」

 

「言い換えるな」

 

「玄一郎も来たじゃん」

 

「人質がいた」

 

「俺もいた」

 

「お前は関係ない」

 

「助けに来たのに」

 

「勝手に先行しただけだ」

 

 真壁が淡々と言った。

 

「そして私が二人分の報告書を手伝った」

 

「優しい」

 

「手伝わなければ帰れなかった」

 

「征士郎って、本当に昔から征士郎だよな」

 

「何だ、それは」

 

「変わってない」

 

「お前たちが変わらなさすぎた」

 

「失礼な」

 

「事実だ」

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「征士郎、酔ってる?」

 

「まだ二杯目だ」

 

 御影が答えた。

 

「本人に聞けよ」

 

「聞いている」

 

「俺を見るな」

 

 また笑いが起きた。

 

 そんな会話ができるようになるまでに、十四年かかった。それを誰も口にはしない。言葉にした瞬間、急に重くなりすぎることを、三人とも知っていた。

 

 だから唐揚げを食べ、ビールを飲み、昔の失敗を笑う。時々、斎賀が煙草を吸う。今はそれで十分だった。

 

「そういや」

 

 斎賀が言った。

 

「蓮根はどうなんだ」

 

 御影がすぐに顔を上げる。

 

「何が」

 

「研修」

 

「聞く側だろ、お前が」

 

「俺が教えてんだから知ってるよ」

 

「なら聞くな」

 

「玄一郎が気になってそうだから」

 

「気になっていない」

 

「嘘」

 

「玄弥」

 

「はいはい」

 

 真壁が笑う。

 

「どうなんだ、実際」

 

「ああ」

 

 斎賀は少し考えた。

 

「敬語は壊滅的」

 

「知っている」

 

「最初、『はいです』って言ったぞ」

 

 御影が額へ手を当てる。

 

「何を二年間教わった」

 

「魔法だって」

 

「本人が言ったのか」

 

「うん」

 

「……そうか」

 

「納得すんなよ」

 

「否定できん」

 

「最近は少しマシだ。文句を言うときも、『それ、おかしくないですか』って、ちゃんと丁寧」

 

「文句は言うのか」

 

「言わなかったら蓮根じゃねえだろ」

 

「それはそうだな」

 

 真壁が頷く。

 

「征士郎まで」

 

 御影が言った。

 

「仕事は」

 

「まだまだ」

 

「戦闘は」

 

「強い」

 

 斎賀は即答した。

 

 御影は黙った。

 

「新人の強さじゃねえな。魔力量は当然として、見るのが早い。相手の癖も覚える。数回やりゃ、何となく次を読んでくる」

 

「観察している」

 

「ああ」

 

 斎賀は頷いた。

 

「敵はな」

 

 御影の目が少し細くなる。

 

「敵しか見えなくなるか」

 

「そう」

 

 斎賀はジョッキを置いた。

 

「戦闘が始まると、世界が小さくなる。相手、自分、近くの味方。そこまで」

 

「昔からだ」

 

「やっぱ?」

 

「あいつは目の前へ集中しすぎる」

 

「そうなんだよ」

 

「誰かが危険なら、自分から行く」

 

「そこ自体は嫌いじゃねえ」

 

「だろうな」

 

「ただ、禍祓官じゃ困る」

 

 斎賀は少しだけ真面目な顔になった。

 

「一人助けて、三人見落としましたじゃ駄目だ。犯人を捕まえて建物を崩しましたでも駄目。自分で全部やろうとするのも直さないとな」

 

 御影はしばらく黙っていたが、やがて短く答えた。

 

「……そうか」

 

「心配?」

 

「していない」

 

「即答」

 

「お前がいる」

 

 斎賀の目が僅かに動いた。

 

「へえ」

 

「何だ」

 

「いや」

 

「言え」

 

「信用してんじゃん」

 

「していなければ任せていない」

 

 斎賀は笑った。

 

「前も言ってたな、それ」

 

「何度言わせる」

 

「でもさ」

 

 斎賀は枝豆を一つ取った。

 

「この前、ちょっと変わったぞ」

 

 御影の視線が戻る。

 

「何があった」

 

「市街地訓練」

 

「続けろ」

 

「俺が犯人役」

 

「新人相手に加減しろ」

 

「してる」

 

「信用できん」

 

「話進まねえな」

 

 真壁が小さく笑った。

 

「続けろ」

 

「はいはい」

 

 斎賀は椅子へ深く座り直した。

 

「途中で建物の壁を壊した」

 

「加減していないだろう」

 

「訓練用だよ」

 

「ならいい」

 

「いいんだ」

 

「続けろ」

 

「瓦礫が落ちた。一般人役が二人倒れた。俺は逃げた」

 

「蓮根は」

 

「追った」

 

 御影の眉が僅かに寄る。

 

「三歩」

 

「三歩?」

 

「三歩走って、止まった」

 

 斎賀は指を三本立てた。

 

「俺を見た。倒れてる奴を見た。で、戻った」

 

 真壁が静かに笑う。

 

「そうか」

 

「めちゃくちゃ悔しそうだったけどな。絶対捕まえられたって」

 

「言うだろうな」

 

「宮本に負傷者を任せた。桐生に封鎖を頼んだ。自分は瓦礫の確認」

 

 御影は何も言わなかった。

 

「二週間前なら、たぶんそのまま俺を追ってた」

 

 しばらくして、御影の口元がほんの少しだけ緩んだ。本当に僅かな変化だったが、斎賀には分かった。

 

「……そうか」

 

 斎賀はそれを見た。今回はからかわず、代わりにビールを一口飲んだ。

 

「蓮根のやつも、まあ成長してるよ」

 

 御影はジョッキへ視線を落とした。

 

「……そうか」

 

 同じ言葉だった。けれど今度は、少し嬉しそうだった。

 

 斎賀はそれ以上何も言わなかった。真壁も黙って酒を飲んだ。三人の間を、居酒屋の騒がしさが埋めていく。どこかの席で笑い声が上がり、皿が重なり、店員が注文を復唱する。

 

 昔なら、こんな沈黙はなかった。斎賀が何かを言い、御影が止め、真壁が呆れていた。今は、黙っている時間も悪くなかった。

 

「しかし」

 

 真壁が言った。

 

「何だよ」

 

「玄弥が人を育てる話をしているのは、やはり妙だな」

 

「またそれ?」

 

「何度聞いても感慨深い」

 

「喧嘩売ってる?」

 

「売っていない」

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「征士郎、酒弱くなってない?」

 

「健康診断で、煙草だけでなく酒も減らせと言われていた」

 

「おい!」

 

 真壁が御影を見る。

 

「余計なことを言うな」

 

「事実だ」

 

「お前も言うようになったな」

 

「昔から言っている」

 

「言ってねえよ」

 

「言っていた」

 

「十四年前の話、持ってくんな」

 

「お前が持ち出したんだろ」

 

 斎賀が笑う。

 

「やっぱ歳取ったなあ」

 

「だからお前が言うな」

 

     *

 

 午後九時半、三人は店を出た。

 

 斎賀は最後に店先の灰皿で煙草を一本吸い、火を消した。夜の空気は少し冷たく、店内で温まった頬へ心地よく当たる。

 

「二軒目」

 

「行かん」

 

 御影が即答する。

 

「早い」

 

「明日も学校だ」

 

「土曜」

 

「関係ない」

 

「教師大変だな」

 

「今さらか」

 

「征士郎は?」

 

「帰る」

 

「お前まで」

 

「明日、午前から仕事だ」

 

「役人って大変」

 

「お前も役人だ」

 

「まだ慣れねえんだよな、その肩書き」

 

「慣れろ」

 

 三人は夜道を歩いた。霞が関のビルにはまだ明かりが残っており、冷たい春の風が通りを抜けていく。

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「蓮根のこと、そんな心配しなくていいぞ」

 

「していない」

 

「してる」

 

「していない」

 

「今日、めっちゃ質問してたじゃん」

 

「教え子だった」

 

「だった」

 

 斎賀がそこだけ拾うと、御影の足が少し止まった。

 

「何だ」

 

「いや」

 

「言え」

 

「過去形なんだなと思って」

 

「卒業したからな」

 

「寂しい?」

 

「帰るぞ」

 

「答えろよ」

 

 真壁が横から口を挟んだ。

 

「玄弥」

 

「ん?」

 

「その辺にしておけ」

 

「征士郎が止める係」

 

「昔からだ」

 

「認めた」

 

 少し歩いてから、御影が言った。

 

「玄弥」

 

「何」

 

「厳しくするのは構わん」

 

「言われなくても」

 

「ただし」

 

「ん?」

 

「壊すな」

 

 斎賀は一瞬黙った。それから、いつものように笑った。

 

「誰に言ってんの」

 

「お前だ」

 

「信用ないな」

 

「ある」

 

 御影は前を向いたまま続けた。

 

「なければ任せていない」

 

 斎賀の笑いが少しだけ消える。真壁は何も言わなかった。

 

「ちゃんと返せ」

 

 御影が言った。

 

 短い言葉だった。斎賀も前を向く。

 

「分かってる」

 

 信号が青へ変わり、三人は歩き出した。それだけだった。それで十分だった。

 

「あれ?」

 

 声がした。

 

 三人の足が止まる。

 

 斎賀が振り向くと、少し離れた居酒屋の前に五人の若者がいた。岩戸岳は焼き鳥を食べ、榊伊織は疲れ切った顔で立ち、水無瀬楓は額へ片手を当てている。

 

 そして、その前で蓮根奎星と朝比奈日向が肩を組んでいた。

 

「うおおおおおお!」

 

「金曜ぉぉぉぉ!」

 

 二人とも顔が赤く、声が大きく、足取りが怪しい。どう見ても酔っていた。

 

 三人の大人が立ち止まる。

 

「……何だ、あれ」

 

 斎賀が言った。

 

 奎星がこちらを見る。

 

「ん〜?」

 

 目が合った瞬間、顔が明るくなった。

 

「御影先生じゃないっすか〜〜〜!」

 

「先生ぇぇぇ!」

 

 二人が走ってくる。

 

「待て」

 

 御影が低く言った。

 

「御影先生〜!」

 

「久しぶり!」

 

「二週間だ」

 

「二週間も!」

 

「近い」

 

 奎星が御影へ腕を回そうとした。御影はその腕を押し返し、顔をしかめる。

 

「……酒臭いな」

 

「はい!」

 

 御影の表情が止まった。

 

「何を飲んだ」

 

「ビール!」

 

「俺も!」

 

「他は」

 

「レモンサワー!」

 

「ハイボール!」

 

「あと甘いやつ!」

 

「何か分かんないやつ!」

 

 御影は二人を見た。二人の笑顔が、少しずつ消えていく。

 

 伊織が遠くから言った。

 

「始まったね」

 

 岳が焼き鳥を食べながら訊く。

 

「何が?」

 

「説教」

 

 御影は奎星へ視線を戻した。

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「何歳だ」

 

「十八です」

 

「朝比奈」

 

「十八です」

 

「そうか」

 

「はい」

 

「それで?」

 

 二人が止まる。

 

「え」

 

「十八になったから、飲んだのか」

 

「いや、その」

 

「成人したし」

 

 奎星が小さく言う。

 

「俺ら、もう社会人だし」

 

 日向も続けた。

 

 御影は黙った。数秒の沈黙が落ちる。その間に、奎星の背筋が少しずつ伸びていった。

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「成人したことと、法律を破っていいことは同じか」

 

「……違います」

 

「朝比奈」

 

「違います」

 

「学校を出たら、急に大人になるのか」

 

「……ならないです」

 

「そうか」

 

「はい」

 

「なら」

 

 御影の声は低かった。

 

「今のお前たちは何だ」

 

 二人が黙る。

 

「…………」

 

「…………」

 

「返事」

 

「馬鹿です」

 

 奎星が言った。

 

「酔っ払いです」

 

 日向が続ける。

 

「分かっているならいい」

 

「いいんだ」

 

 斎賀が横から言うと、御影が彼を見る。

 

「玄弥」

 

「はい」

 

「黙っていろ」

 

「怖」

 

 楓が近づいてきた。

 

「先生、聞いてくださいよ」

 

「何だ」

 

「私、止めたんです」

 

「知っている」

 

「一時間くらい止めました」

 

「ご苦労だった」

 

「本当に」

 

 伊織も続いた。

 

「僕も止めました」

 

「うん」

 

 岳も手を上げる。

 

「俺も」

 

 全員が岳を見る。

 

「何て?」

 

 斎賀が訊いた。

 

「唐揚げ食べるなって」

 

「酒の方を止めろよ」

 

「そっちは楓がやってた」

 

「役割分担おかしいだろ」

 

 奎星が御影を見る。

 

「でも先生も飲んでたじゃん」

 

「飲んだ」

 

「じゃ、同じ」

 

「違う」

 

「何が?」

 

「量と歳と判断力だ」

 

「全部負けた」

 

「勝負ではない」

 

 日向が言った。

 

「俺、結構強いですよ」

 

「何が」

 

「酒」

 

 言った直後、日向の身体がふらついた。伊織が慌てて肩を支える。

 

「弱いよ」

 

「地面が動いた」

 

「動いてない」

 

「魔法?」

 

「酒」

 

「酒すげえ」

 

 御影が日向を見る。

 

「朝比奈」

 

「はい」

 

「お前は身体で仕事をしているんじゃないのか」

 

「……はい」

 

「怪我をしたら」

 

「治す」

 

 御影が黙る。

 

「…………」

 

「……違います」

 

「そういうことだ」

 

「はい」

 

 斎賀が口元を押さえる。

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「完全に教師じゃん」

 

「教師だ」

 

「卒業したのに、まだ効くんだな」

 

「何が」

 

「『蓮根』だけで姿勢戻ってる」

 

「身体が勝手に!」

 

 奎星が言った。

 

「二年間の条件反射!」

 

「余計なことを言うな」

 

「はい」

 

「ほら」

 

 真壁まで僅かに笑った。

 

 奎星がそこで斎賀を見る。

 

「あ!」

 

「何だよ」

 

「斎賀さん!」

 

「声でけえ」

 

「今日休み!」

 

「仕事終わったからな」

 

「じゃ、友達!」

 

「違う」

 

「冷た!」

 

 奎星は再び御影へ向き直った。

 

「先生!」

 

「何だ」

 

「俺、二週間めっちゃ頑張ってるんすよ!」

 

「知っている」

 

 奎星が止まった。

 

「……え?」

 

「何だ」

 

「知ってる?」

 

「ああ」

 

「何で?」

 

 御影の目が一瞬だけ斎賀へ向く。奎星も斎賀を見るが、斎賀は露骨に目を逸らした。

 

「あ!」

 

「何」

 

「俺の話してた!?」

 

「してねえ」

 

「絶対してた!」

 

「してねえ」

 

「何話した!?」

 

「何も」

 

「嘘!」

 

「うるせえ」

 

「先生!」

 

「聞くな」

 

「褒めてた!?」

 

「知らん」

 

「強いって!?」

 

「知らん」

 

「成長したって!?」

 

 斎賀が止まった。

 

 真壁が斎賀を見る。御影も斎賀を見る。斎賀は嫌そうな顔をした。

 

「お前、酔ってんのに勘いいな」

 

「マジ!?」

 

「今のなし」

 

「やったぁ!」

 

 奎星が両手を上げる。

 

「俺、成長してる!」

 

「さっきの話を聞いていたか」

 

 御影が言う。

 

「聞いてました!」

 

「なら静かにしろ」

 

「はい!」

 

 日向が御影の前へ出た。

 

「先生!」

 

「何だ」

 

「俺も頑張ってる!」

 

「そうか」

 

「クィディッチ!」

 

「知っている」

 

「一軍!」

 

「まだだ」

 

「ぐっ」

 

「事実だ」

 

「酔ってると刺さる」

 

「酒のせいにするな」

 

「先生冷たい!」

 

「普通だ」

 

「楓〜!」

 

「私に来ないで!」

 

 奎星はまた御影へ近づいた。

 

「先生〜!」

 

「近い」

 

「久しぶり!」

 

「二週間だ」

 

「会いたかった!」

 

「そうか」

 

「反応薄い!」

 

「十分だろう」

 

「先生も俺に会いたかった?」

 

「帰れ」

 

「答えて!」

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「近い」

 

「はい」

 

 一歩下がる。日向が横から入った。

 

「俺は?」

 

「お前は卒業式以来だな」

 

「ほら!」

 

「何が」

 

「俺の方が久しぶり!」

 

「ずるい!」

 

「何がずるいんだ」

 

 二人がまた騒ぎ始める。御影は、ただ二人を見た。それだけで、少しずつ声が小さくなった。

 

「お前たち」

 

「はい」

 

「はい」

 

「友人に迷惑をかけるな」

 

「はい」

 

「外で騒ぐな」

 

「はい」

 

「自分の限度を覚えろ」

 

「はい」

 

「大人だと言うなら、そのくらい自分で考えろ」

 

 二人が黙る。

 

「……はい」

 

「はい」

 

 御影はそれ以上言わなかった。怒鳴らず、長々と説教もしない。ただ、自分たちが何をしたのかを自分で考えさせる。それが御影玄一郎の怒り方だった。

 

 奎星も、それをよく知っていた。二年間、何度も怒られ、何度も「蓮根」と呼ばれ、そのたびに、叱られた理由をあとから考えた。卒業したからといって、全部が消えるわけではない。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「送って」

 

「断る」

 

「冷たい」

 

「自分で帰れ」

 

「酔ってる」

 

「自分で飲んだ」

 

「正論」

 

「何で驚く」

 

 楓がため息を吐いた。

 

「駅まで連れていきます」

 

「頼む」

 

「はい」

 

「楓、優しい〜」

 

「黙って歩いて」

 

「はい……」

 

 斎賀が笑う。

 

「敬語できてんじゃん」

 

「命かかってるんで……」

 

「どこで覚えた、その返し」

 

「斎賀さん」

 

「俺かよ」

 

 真壁は五人を見た。岳はまだ焼き鳥を食べ、伊織は帰りたそうにしており、楓は奎星と日向を左右から監視している。奎星も日向も、ついさっきまで自分たちは大人だと言い張っていた。

 

 真壁は隣にいる斎賀へ視線を向けた。

 

「玄弥」

 

「何」

 

「さっき、何と言っていた」

 

「何が」

 

「蓮根のことだ」

 

 斎賀の顔が嫌そうに歪む。真壁は少し笑った。

 

「誰が成長したって?」

 

 斎賀は答えず、奎星を見た。

 

「御影先生〜!」

 

「静かにしろ」

 

「はい!」

 

 日向を見る。

 

「もう一軒!」

 

「行かないわよ!」

 

 楓を見る。

 

「本当に最悪……」

 

 伊織を見る。

 

「タクシー呼ぼうか」

 

 岳を見る。

 

「うまい」

 

 最後に、御影を見る。

 

 御影は何も言わず、ただ斎賀を見ていた。斎賀は小さく息を吐く。

 

「忘れてくれ」

 

 真壁が笑った。

 

 御影も、ほんの少しだけ口元を上げた。

 

 十四年前、三人は同じように失敗して、怒られて、無茶をして、それでも自分たちなりに前へ進んだ。そして今、その目の前には、同じように失敗しながら先へ進む若者たちがいる。

 

 人は、ある日突然、大人になるわけではない。学校を卒業したからでも、職員証を持ったからでも、十八歳になったからでもない。一つ覚えて、一つ間違えて、怒られて、少し考えて、また間違える。そういう日々を重ねて、気づけば昨日より少しだけ先へ進んでいる。

 

 たぶん、大人になるというのは、その程度のことなのだ。

 

「岳」

 

 伊織が訊いた。

 

「何?」

 

「それ何本目?」

 

「七本」

 

「まだ食べるの?」

 

「うん」

 

「お前だけ本当に変わらないな」

 

「うまい」

 

 その答えに、全員が笑った。

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