蓮根奎星が日本魔法省魔法法執行局へ入ってから、二週間が経った。
たった十四日。カレンダーの上では、四月の最初のページを半分ほど進んだだけである。けれど新人禍祓官たちにとって、その十四日は、それまで知っていた二週間とは少し意味が違っていた。
朝六時半起床。七時四十五分集合。八時から基礎体力。九時から実戦訓練。昼を挟み、午後は魔法法規、捜査手順、拘束術、証拠保全、一般社会への秘匿対応、緊急時の魔法使用規則、報告書作成。その合間には再び実戦訓練が入り、一日の最後には、その日の失敗を本人の手で文章にさせられる。
一日が終わる頃には、新人の半分が「昨日何を食べたか」を思い出せなくなっていた。
原因は一人しかいない。
斎賀玄弥。新人教育担当。元・禍祓官。元・犯罪者。そして現在、日本魔法省魔法法執行局において、新人たちが最も廊下で会いたくない人間だった。
「遅い」
「まだ三秒です!」
「三秒遅い」
「三秒くらい!」
「蓮根」
「はい」
「外周」
「何周ですか」
「今ので五周」
「今の何!?」
「六」
「黙るわ!」
「敬語」
「黙ります!」
「七」
「何で!?」
朝は、そんなところから始まった。
実戦訓練では、さらに酷かった。
「桐生。周りを動かそうとしすぎだ」
「でも指示せな連携できへんやろ」
「全員がお前の言うことを聞く前提で動くな。現場にいる人間は駒じゃねえ」
「……はい」
「宮本」
「はい!」
「倒れてる奴を見たら突っ込む癖、まだ抜けてねえ」
「今日は周囲見ました!」
「二秒」
「見ました!」
「四秒見ろ」
「時間指定!?」
「蓮根」
「はい!」
「お前はその逆だ」
「何がですか」
「倒れてる奴を見ても犯人を追う」
「状況によるじゃん」
「その状況を見ろって、二週間言ってんだよ」
「見てます!」
「見てねえ」
「見てる!」
「報告」
「対象者を確保しました!」
「その前」
「追跡しました!」
「その前」
「逃走されました!」
「その前」
「交戦しました!」
「その前」
「……」
奎星の顔が固まった。斎賀は腕を組んだまま、何も言わずに彼を見ている。
「ほらな」
「待って」
「待たねえ」
「今出ます」
「何が」
「記憶が」
「出すな。思い出せ」
「えーっと……」
奎星が必死に記憶を辿っていると、桐生蒼真が横から小さく口を挟んだ。
「一般人」
「あ!」
「言うな、桐生」
「すんません」
「一般人がいました!」
「やっと戻ったな」
「思い出した!」
「桐生が言っただろ」
「ヒント!」
「答えだ」
「細かい!」
「現場じゃ、その細かいので人が死ぬ」
その一言で、奎星の口が閉じた。斎賀は、そういうところだけはふざけなかった。
戦う力だけなら、奎星は新人の中でも抜けている。相手の杖を見て、肩を見て、重心を見て、次に撃たれる魔法を読む。一度見た術式なら、二度目にはもう何かを掴み、三度目には本人なりの対処を作る。魔力量は言うまでもなく、反応も速い。何より、戦うことそのものを怖がらない。
だが、斎賀がこの二週間ずっと奎星へ教えているのは、その外側だった。
敵だけを見るな。倒れた人間を見ろ。建物を見ろ。逃走経路を見ろ。味方の位置を見ろ。二次災害を考えろ。自分ができることと、自分がやるべきことを混同するな。
敵を倒すことだけが、禍祓官の仕事ではない。
「お前な」
ある日の訓練のあと、斎賀は疲れ切った新人たちを前にして言った。
「禍祓官は決闘屋じゃねえぞ」
「分かってます」
「分かってねえから言ってんだよ」
「昨日よりは分かってます」
「昨日がゼロだったからな」
「今日は?」
「一」
「増えた!」
「喜ぶな」
「百日やったら百じゃん」
「そういう足し算じゃねえ」
そして十四日目。
市街地を模した訓練区画で、斎賀は凶悪犯役として逃走した。途中で訓練用建物の壁を一枚吹き飛ばし、崩れた瓦礫の下へ一般人役の人形を二体倒す。斎賀はそのまま走り、奎星も反射的に追った。
一歩、二歩、三歩。
そこで、奎星の足が止まった。
「……くそっ」
振り返った彼は、すぐに声を張った。
「侑李!」
「分かってる!」
「怪我人!」
「任せて!」
「蒼真!」
「周囲封鎖やな!」
「頼む!」
奎星は倒れた人形へ走った。斎賀は遠くから、その背中を見ていた。
その日の訓練が終わったあと、奎星は斎賀のもとへやって来た。
「斎賀さん」
「何だ」
「今の、俺が追ったら捕まえられましたよね」
「たぶんな」
「絶対いけた」
「そうかもな」
「……悔しい」
「なら覚えとけ」
「何を」
「逃がすのも仕事だ」
奎星は少し黙った。悔しさを飲み込むように唇を結び、それから顔を上げる。
「次は?」
「次は?」
「捕まえて助ける」
「欲張るな」
「できるようになります」
「じゃあ百回やれ」
「百回!?」
「九十九回でもいい」
「一回しか減ってねえ!」
斎賀は笑った。
その頃には、奎星も二週間前とは少し違っていた。本当に、少しだけ。けれど、その少しが現場では大きいことを、斎賀は知っていた。
*
金曜日の午後七時十三分、斎賀玄弥は、霞が関から少し歩いた場所にある居酒屋へ十三分遅れて現れた。
暖簾を潜ると、焼き鳥と揚げ物、それに酒の匂いが混ざった熱気が押し寄せてくる。官庁街から流れてきた会社員や役人で店内は混み合っており、奥には喫煙可と書かれた小さな半個室がいくつか並んでいた。
「すんません。真壁って名前で」
「あ、三名様ですね。もうお二人いらしてます」
「ですよね」
悪びれる様子もなく、斎賀は店員のあとをついて奥へ進んだ。
半個室には、すでに二人の男がいた。一人は坊主頭に顎から口元へかけて髭を生やし、濃紺のシャツの袖を肘まで捲っている。目の前には、生ビールが半分ほど減ったジョッキが置かれていた。
真壁征士郎。
その向かいには、大柄な身体を椅子へ窮屈そうに収めた男が座っている。黒い短髪と、左頬を縦断する古い傷。御影玄一郎だった。
二人とも斎賀を見る。
「よお、玄一郎。征士郎」
「遅い」
御影が言った。
「十三分だ」
真壁は腕時計を確認した。
「細かいな」
「十三分を細かいと言うな」
「来たからいいだろ」
「よくない」
「昔から変わんねえなあ」
「お前が変われ」
斎賀は笑いながら二人の間の席へ腰を下ろした。上着を脱ぎ、ポケットから煙草の箱を取り出して一本を口へ咥える。机の端に置かれた灰皿へ煙草を向け、杖先に灯した小さな火を移すと、細い煙がゆっくりと立ち上った。
斎賀は一度吸い込み、煙を横へ吐いてから、ふと二人を見た。
「……あれ」
「何だ」
「お前ら、吸わねえの?」
真壁が自分の前にある灰皿へ視線を落とした。
「やめた」
「は?」
斎賀の顔に、本気の驚きが浮かぶ。
「征士郎が?」
「そうだ」
「何で」
「健康診断だ」
「健康診断?」
「肺の数値で少し指摘された」
「病気?」
「そこまでではない」
「じゃ、いいじゃん」
「医者に、この機会にやめろと言われた」
「素直かよ」
「医者の忠告は聞く」
「お前、本当に昔からそういうところ真面目だな」
「悪いか」
「いや」
斎賀は煙草を咥えたまま笑った。
「逆に安心した」
「意味が分からん」
斎賀は今度は御影を見る。
「玄一郎は?」
「何が」
「お前も吸ってただろ」
「ああ」
「いつやめた」
「学校へ行ってからだ」
斎賀の眉が上がる。
「教師になったから?」
「そうだ」
「別に教師だって吸うだろ」
「生徒の前では吸えん」
「前で吸わなきゃいいじゃん」
「匂いが残る」
御影は短く答え、灰皿へ視線を落とした。
「子供は気づく」
斎賀は煙草を持ったまま、少しだけ御影を見た。
「お前」
「何だ」
「教師だな」
「教師だ」
「そうじゃなくて」
「何がだ」
「いや」
斎賀は笑い、煙を吐いた。
「何でもねえ」
「気持ち悪いな」
「ひどくね?」
真壁がジョッキを置いた。
「玄弥」
「ん?」
「煙はそちらへ流せ」
「はいはい」
「灰を落とすな」
「お前、俺の母親?」
「十四年前も同じことを言った」
「覚えてんの?」
「覚えている」
「怖えな」
店員が注文を取りに来る。
「ご注文は?」
「生」
斎賀が即答した。
「お前も最初からビールか」
御影が言う。
「金曜だぞ」
「だから何だ」
「教師になると金曜の価値も分からなくなるの?」
「明日も仕事だ」
「土曜だぞ」
「教師に土曜が休みだと思うな」
「かわいそう」
「お前も役人だろう」
「俺は明日休み」
「腹が立つな」
やがてビールが運ばれてくる。斎賀は煙草を灰皿へ置き、ジョッキを持ち上げた。
「じゃ」
「何に」
真壁が訊く。
「何でもいいだろ」
「お前が始めたんだろう」
「金曜に」
「雑だな」
斎賀は少し考えたあと、真顔で言った。
「……生きてることに」
二人の動きが止まった。
「重い」
御影が言う。
「お前が何にって聞いたんだろ!」
「金曜でよかった」
「じゃあ金曜でいいじゃねえか!」
真壁が僅かに笑った。
「両方でいいだろう」
三人のジョッキが軽くぶつかる。
「乾杯」
小さな音が鳴った。
十四年前、三人はよくこうして飲んでいた。現場へ出て、帰って、誰かが怪我をし、誰かが始末書を書かされ、誰かが上司と喧嘩をする。それでも仕事が終われば、同じ店へ入り、同じように酒を飲んだ。
斎賀は煙草を吸った。御影も吸った。真壁も吸った。
三人とも若かった。
そのうち一人が消え、二人が残った。探しても見つからず、十二年後、その一人は敵として帰ってきた。戦い、殴り、拘束し、それでもまた同じ側へ並ぶことになった。
そして今、一人は健康診断で煙草をやめ、一人は教師になって煙草をやめ、一人だけがまだ吸っている。
「……歳取ったなあ」
斎賀が言った。
「お前が言うな」
「今、全員に言った」
「自分を含めるな」
「玄一郎、自分だけ若いつもり?」
「そういう意味ではない」
斎賀は笑った。
「昔、お前もっと吸ってたじゃん」
「昔の話だ」
「任務終わったら、すぐ火つけてた」
「お前もだ」
「俺は今も」
「だから何だ」
「変わらない男」
「変われ」
「征士郎にも言われた」
「二人から言われているなら聞け」
「多数決嫌いなんだよな」
「二対一は多数決ではなく事実確認だ」
「征士郎、酒入るとちょっと面白くなるよな」
「まだ一杯目だ」
三人の間に笑いが落ちた。
斎賀は唐揚げを取り、口へ運んでから、ふと思い出したように訊いた。
「で、何話してた?」
「学校の話だ」
御影が答える。
「つまんなそう」
「帰れ」
「来たばっかだろ」
真壁が苦笑した。
「玄一郎が、学校が静かになったと言っていた」
「ああ」
斎賀はすぐに笑った。
「蓮根が卒業したからか」
「随分静かになった」
「廊下を走る奴は減った?」
「減った」
「教師に絡む奴」
「減った」
「勝手に訓練場を使う奴」
「減った」
「授業で爆発する奴」
「増えた」
斎賀の手が止まった。
「何で?」
「上級課程一年だ」
「もう次がいるじゃん」
「違う」
「何が」
「魔法薬の材料を勝手に足した」
「理由」
「色が綺麗だったから」
斎賀は煙草を持ったまま固まった。
「……いいな」
「よくない」
「爆発?」
「爆発した」
「いいじゃん」
「よくない」
真壁がジョッキを傾けながら言った。
「蓮根より危険ではないか」
「蓮根とは違う」
御影が即答する。
「そこは庇うんだ」
「庇っていない」
「違いは?」
「蓮根は爆発させる前に訊く」
「評価低くない?」
「最初は訊かなかった」
「ああ」
斎賀が頷く。
「じゃ、成長してんじゃん」
「そこはな」
「玄一郎、蓮根に甘いよな」
「甘くない」
「卒業式で泣きそうだったし」
「なっていない」
「俺も見た」
真壁が言うと、御影の目が動いた。
「征士郎」
「事実だ」
「二人とも、まだ言うのか」
「二週間しか経ってないぞ」
「忘れろ」
「無理」
「玄弥」
「何」
「煙草消すぞ」
「話、関係なくね?」
「目の前にある」
「怖っ」
斎賀は笑いながら灰を落とした。
「でもよ」
少しして、真壁が言った。
「玄一郎も新人の頃は相当だった」
「何の話だ」
「覚えていないとは言わせない」
「問題は起こしていない」
「起こしてた」
斎賀が即答した。
「お前に言われたくない」
「俺も起こしてたよ」
「認めるのか」
「今さらだろ」
斎賀は二本目の煙草を取り出しかけたが、御影の視線に気づいて手を止めた。御影は何も言わず、真壁も何も言わない。ただ二人の視線が、斎賀の手元へ集まっている。
「何だよ」
「何も言っていない」
「顔がやめろって言ってる」
「気づけるようになったか」
「教師やめろ」
「嫌だ」
斎賀は煙草を箱へ戻した。
「玄一郎って新人の頃、真面目な顔して命令無視してたからな」
「必要な判断だった」
「ほら」
真壁が言った。
「何だ」
「その言葉だ」
「人質がいた」
「北海道の件か」
斎賀が笑う。
「あれな」
「お前は先に入っていただろう」
「近道」
「命令違反だ」
「近道」
「言い換えるな」
「玄一郎も来たじゃん」
「人質がいた」
「俺もいた」
「お前は関係ない」
「助けに来たのに」
「勝手に先行しただけだ」
真壁が淡々と言った。
「そして私が二人分の報告書を手伝った」
「優しい」
「手伝わなければ帰れなかった」
「征士郎って、本当に昔から征士郎だよな」
「何だ、それは」
「変わってない」
「お前たちが変わらなさすぎた」
「失礼な」
「事実だ」
「玄一郎」
「何だ」
「征士郎、酔ってる?」
「まだ二杯目だ」
御影が答えた。
「本人に聞けよ」
「聞いている」
「俺を見るな」
また笑いが起きた。
そんな会話ができるようになるまでに、十四年かかった。それを誰も口にはしない。言葉にした瞬間、急に重くなりすぎることを、三人とも知っていた。
だから唐揚げを食べ、ビールを飲み、昔の失敗を笑う。時々、斎賀が煙草を吸う。今はそれで十分だった。
「そういや」
斎賀が言った。
「蓮根はどうなんだ」
御影がすぐに顔を上げる。
「何が」
「研修」
「聞く側だろ、お前が」
「俺が教えてんだから知ってるよ」
「なら聞くな」
「玄一郎が気になってそうだから」
「気になっていない」
「嘘」
「玄弥」
「はいはい」
真壁が笑う。
「どうなんだ、実際」
「ああ」
斎賀は少し考えた。
「敬語は壊滅的」
「知っている」
「最初、『はいです』って言ったぞ」
御影が額へ手を当てる。
「何を二年間教わった」
「魔法だって」
「本人が言ったのか」
「うん」
「……そうか」
「納得すんなよ」
「否定できん」
「最近は少しマシだ。文句を言うときも、『それ、おかしくないですか』って、ちゃんと丁寧」
「文句は言うのか」
「言わなかったら蓮根じゃねえだろ」
「それはそうだな」
真壁が頷く。
「征士郎まで」
御影が言った。
「仕事は」
「まだまだ」
「戦闘は」
「強い」
斎賀は即答した。
御影は黙った。
「新人の強さじゃねえな。魔力量は当然として、見るのが早い。相手の癖も覚える。数回やりゃ、何となく次を読んでくる」
「観察している」
「ああ」
斎賀は頷いた。
「敵はな」
御影の目が少し細くなる。
「敵しか見えなくなるか」
「そう」
斎賀はジョッキを置いた。
「戦闘が始まると、世界が小さくなる。相手、自分、近くの味方。そこまで」
「昔からだ」
「やっぱ?」
「あいつは目の前へ集中しすぎる」
「そうなんだよ」
「誰かが危険なら、自分から行く」
「そこ自体は嫌いじゃねえ」
「だろうな」
「ただ、禍祓官じゃ困る」
斎賀は少しだけ真面目な顔になった。
「一人助けて、三人見落としましたじゃ駄目だ。犯人を捕まえて建物を崩しましたでも駄目。自分で全部やろうとするのも直さないとな」
御影はしばらく黙っていたが、やがて短く答えた。
「……そうか」
「心配?」
「していない」
「即答」
「お前がいる」
斎賀の目が僅かに動いた。
「へえ」
「何だ」
「いや」
「言え」
「信用してんじゃん」
「していなければ任せていない」
斎賀は笑った。
「前も言ってたな、それ」
「何度言わせる」
「でもさ」
斎賀は枝豆を一つ取った。
「この前、ちょっと変わったぞ」
御影の視線が戻る。
「何があった」
「市街地訓練」
「続けろ」
「俺が犯人役」
「新人相手に加減しろ」
「してる」
「信用できん」
「話進まねえな」
真壁が小さく笑った。
「続けろ」
「はいはい」
斎賀は椅子へ深く座り直した。
「途中で建物の壁を壊した」
「加減していないだろう」
「訓練用だよ」
「ならいい」
「いいんだ」
「続けろ」
「瓦礫が落ちた。一般人役が二人倒れた。俺は逃げた」
「蓮根は」
「追った」
御影の眉が僅かに寄る。
「三歩」
「三歩?」
「三歩走って、止まった」
斎賀は指を三本立てた。
「俺を見た。倒れてる奴を見た。で、戻った」
真壁が静かに笑う。
「そうか」
「めちゃくちゃ悔しそうだったけどな。絶対捕まえられたって」
「言うだろうな」
「宮本に負傷者を任せた。桐生に封鎖を頼んだ。自分は瓦礫の確認」
御影は何も言わなかった。
「二週間前なら、たぶんそのまま俺を追ってた」
しばらくして、御影の口元がほんの少しだけ緩んだ。本当に僅かな変化だったが、斎賀には分かった。
「……そうか」
斎賀はそれを見た。今回はからかわず、代わりにビールを一口飲んだ。
「蓮根のやつも、まあ成長してるよ」
御影はジョッキへ視線を落とした。
「……そうか」
同じ言葉だった。けれど今度は、少し嬉しそうだった。
斎賀はそれ以上何も言わなかった。真壁も黙って酒を飲んだ。三人の間を、居酒屋の騒がしさが埋めていく。どこかの席で笑い声が上がり、皿が重なり、店員が注文を復唱する。
昔なら、こんな沈黙はなかった。斎賀が何かを言い、御影が止め、真壁が呆れていた。今は、黙っている時間も悪くなかった。
「しかし」
真壁が言った。
「何だよ」
「玄弥が人を育てる話をしているのは、やはり妙だな」
「またそれ?」
「何度聞いても感慨深い」
「喧嘩売ってる?」
「売っていない」
「玄一郎」
「何だ」
「征士郎、酒弱くなってない?」
「健康診断で、煙草だけでなく酒も減らせと言われていた」
「おい!」
真壁が御影を見る。
「余計なことを言うな」
「事実だ」
「お前も言うようになったな」
「昔から言っている」
「言ってねえよ」
「言っていた」
「十四年前の話、持ってくんな」
「お前が持ち出したんだろ」
斎賀が笑う。
「やっぱ歳取ったなあ」
「だからお前が言うな」
*
午後九時半、三人は店を出た。
斎賀は最後に店先の灰皿で煙草を一本吸い、火を消した。夜の空気は少し冷たく、店内で温まった頬へ心地よく当たる。
「二軒目」
「行かん」
御影が即答する。
「早い」
「明日も学校だ」
「土曜」
「関係ない」
「教師大変だな」
「今さらか」
「征士郎は?」
「帰る」
「お前まで」
「明日、午前から仕事だ」
「役人って大変」
「お前も役人だ」
「まだ慣れねえんだよな、その肩書き」
「慣れろ」
三人は夜道を歩いた。霞が関のビルにはまだ明かりが残っており、冷たい春の風が通りを抜けていく。
「玄一郎」
「何だ」
「蓮根のこと、そんな心配しなくていいぞ」
「していない」
「してる」
「していない」
「今日、めっちゃ質問してたじゃん」
「教え子だった」
「だった」
斎賀がそこだけ拾うと、御影の足が少し止まった。
「何だ」
「いや」
「言え」
「過去形なんだなと思って」
「卒業したからな」
「寂しい?」
「帰るぞ」
「答えろよ」
真壁が横から口を挟んだ。
「玄弥」
「ん?」
「その辺にしておけ」
「征士郎が止める係」
「昔からだ」
「認めた」
少し歩いてから、御影が言った。
「玄弥」
「何」
「厳しくするのは構わん」
「言われなくても」
「ただし」
「ん?」
「壊すな」
斎賀は一瞬黙った。それから、いつものように笑った。
「誰に言ってんの」
「お前だ」
「信用ないな」
「ある」
御影は前を向いたまま続けた。
「なければ任せていない」
斎賀の笑いが少しだけ消える。真壁は何も言わなかった。
「ちゃんと返せ」
御影が言った。
短い言葉だった。斎賀も前を向く。
「分かってる」
信号が青へ変わり、三人は歩き出した。それだけだった。それで十分だった。
「あれ?」
声がした。
三人の足が止まる。
斎賀が振り向くと、少し離れた居酒屋の前に五人の若者がいた。岩戸岳は焼き鳥を食べ、榊伊織は疲れ切った顔で立ち、水無瀬楓は額へ片手を当てている。
そして、その前で蓮根奎星と朝比奈日向が肩を組んでいた。
「うおおおおおお!」
「金曜ぉぉぉぉ!」
二人とも顔が赤く、声が大きく、足取りが怪しい。どう見ても酔っていた。
三人の大人が立ち止まる。
「……何だ、あれ」
斎賀が言った。
奎星がこちらを見る。
「ん〜?」
目が合った瞬間、顔が明るくなった。
「御影先生じゃないっすか〜〜〜!」
「先生ぇぇぇ!」
二人が走ってくる。
「待て」
御影が低く言った。
「御影先生〜!」
「久しぶり!」
「二週間だ」
「二週間も!」
「近い」
奎星が御影へ腕を回そうとした。御影はその腕を押し返し、顔をしかめる。
「……酒臭いな」
「はい!」
御影の表情が止まった。
「何を飲んだ」
「ビール!」
「俺も!」
「他は」
「レモンサワー!」
「ハイボール!」
「あと甘いやつ!」
「何か分かんないやつ!」
御影は二人を見た。二人の笑顔が、少しずつ消えていく。
伊織が遠くから言った。
「始まったね」
岳が焼き鳥を食べながら訊く。
「何が?」
「説教」
御影は奎星へ視線を戻した。
「蓮根」
「はい」
「何歳だ」
「十八です」
「朝比奈」
「十八です」
「そうか」
「はい」
「それで?」
二人が止まる。
「え」
「十八になったから、飲んだのか」
「いや、その」
「成人したし」
奎星が小さく言う。
「俺ら、もう社会人だし」
日向も続けた。
御影は黙った。数秒の沈黙が落ちる。その間に、奎星の背筋が少しずつ伸びていった。
「蓮根」
「はい」
「成人したことと、法律を破っていいことは同じか」
「……違います」
「朝比奈」
「違います」
「学校を出たら、急に大人になるのか」
「……ならないです」
「そうか」
「はい」
「なら」
御影の声は低かった。
「今のお前たちは何だ」
二人が黙る。
「…………」
「…………」
「返事」
「馬鹿です」
奎星が言った。
「酔っ払いです」
日向が続ける。
「分かっているならいい」
「いいんだ」
斎賀が横から言うと、御影が彼を見る。
「玄弥」
「はい」
「黙っていろ」
「怖」
楓が近づいてきた。
「先生、聞いてくださいよ」
「何だ」
「私、止めたんです」
「知っている」
「一時間くらい止めました」
「ご苦労だった」
「本当に」
伊織も続いた。
「僕も止めました」
「うん」
岳も手を上げる。
「俺も」
全員が岳を見る。
「何て?」
斎賀が訊いた。
「唐揚げ食べるなって」
「酒の方を止めろよ」
「そっちは楓がやってた」
「役割分担おかしいだろ」
奎星が御影を見る。
「でも先生も飲んでたじゃん」
「飲んだ」
「じゃ、同じ」
「違う」
「何が?」
「量と歳と判断力だ」
「全部負けた」
「勝負ではない」
日向が言った。
「俺、結構強いですよ」
「何が」
「酒」
言った直後、日向の身体がふらついた。伊織が慌てて肩を支える。
「弱いよ」
「地面が動いた」
「動いてない」
「魔法?」
「酒」
「酒すげえ」
御影が日向を見る。
「朝比奈」
「はい」
「お前は身体で仕事をしているんじゃないのか」
「……はい」
「怪我をしたら」
「治す」
御影が黙る。
「…………」
「……違います」
「そういうことだ」
「はい」
斎賀が口元を押さえる。
「玄一郎」
「何だ」
「完全に教師じゃん」
「教師だ」
「卒業したのに、まだ効くんだな」
「何が」
「『蓮根』だけで姿勢戻ってる」
「身体が勝手に!」
奎星が言った。
「二年間の条件反射!」
「余計なことを言うな」
「はい」
「ほら」
真壁まで僅かに笑った。
奎星がそこで斎賀を見る。
「あ!」
「何だよ」
「斎賀さん!」
「声でけえ」
「今日休み!」
「仕事終わったからな」
「じゃ、友達!」
「違う」
「冷た!」
奎星は再び御影へ向き直った。
「先生!」
「何だ」
「俺、二週間めっちゃ頑張ってるんすよ!」
「知っている」
奎星が止まった。
「……え?」
「何だ」
「知ってる?」
「ああ」
「何で?」
御影の目が一瞬だけ斎賀へ向く。奎星も斎賀を見るが、斎賀は露骨に目を逸らした。
「あ!」
「何」
「俺の話してた!?」
「してねえ」
「絶対してた!」
「してねえ」
「何話した!?」
「何も」
「嘘!」
「うるせえ」
「先生!」
「聞くな」
「褒めてた!?」
「知らん」
「強いって!?」
「知らん」
「成長したって!?」
斎賀が止まった。
真壁が斎賀を見る。御影も斎賀を見る。斎賀は嫌そうな顔をした。
「お前、酔ってんのに勘いいな」
「マジ!?」
「今のなし」
「やったぁ!」
奎星が両手を上げる。
「俺、成長してる!」
「さっきの話を聞いていたか」
御影が言う。
「聞いてました!」
「なら静かにしろ」
「はい!」
日向が御影の前へ出た。
「先生!」
「何だ」
「俺も頑張ってる!」
「そうか」
「クィディッチ!」
「知っている」
「一軍!」
「まだだ」
「ぐっ」
「事実だ」
「酔ってると刺さる」
「酒のせいにするな」
「先生冷たい!」
「普通だ」
「楓〜!」
「私に来ないで!」
奎星はまた御影へ近づいた。
「先生〜!」
「近い」
「久しぶり!」
「二週間だ」
「会いたかった!」
「そうか」
「反応薄い!」
「十分だろう」
「先生も俺に会いたかった?」
「帰れ」
「答えて!」
「蓮根」
「はい」
「近い」
「はい」
一歩下がる。日向が横から入った。
「俺は?」
「お前は卒業式以来だな」
「ほら!」
「何が」
「俺の方が久しぶり!」
「ずるい!」
「何がずるいんだ」
二人がまた騒ぎ始める。御影は、ただ二人を見た。それだけで、少しずつ声が小さくなった。
「お前たち」
「はい」
「はい」
「友人に迷惑をかけるな」
「はい」
「外で騒ぐな」
「はい」
「自分の限度を覚えろ」
「はい」
「大人だと言うなら、そのくらい自分で考えろ」
二人が黙る。
「……はい」
「はい」
御影はそれ以上言わなかった。怒鳴らず、長々と説教もしない。ただ、自分たちが何をしたのかを自分で考えさせる。それが御影玄一郎の怒り方だった。
奎星も、それをよく知っていた。二年間、何度も怒られ、何度も「蓮根」と呼ばれ、そのたびに、叱られた理由をあとから考えた。卒業したからといって、全部が消えるわけではない。
「先生」
「何だ」
「送って」
「断る」
「冷たい」
「自分で帰れ」
「酔ってる」
「自分で飲んだ」
「正論」
「何で驚く」
楓がため息を吐いた。
「駅まで連れていきます」
「頼む」
「はい」
「楓、優しい〜」
「黙って歩いて」
「はい……」
斎賀が笑う。
「敬語できてんじゃん」
「命かかってるんで……」
「どこで覚えた、その返し」
「斎賀さん」
「俺かよ」
真壁は五人を見た。岳はまだ焼き鳥を食べ、伊織は帰りたそうにしており、楓は奎星と日向を左右から監視している。奎星も日向も、ついさっきまで自分たちは大人だと言い張っていた。
真壁は隣にいる斎賀へ視線を向けた。
「玄弥」
「何」
「さっき、何と言っていた」
「何が」
「蓮根のことだ」
斎賀の顔が嫌そうに歪む。真壁は少し笑った。
「誰が成長したって?」
斎賀は答えず、奎星を見た。
「御影先生〜!」
「静かにしろ」
「はい!」
日向を見る。
「もう一軒!」
「行かないわよ!」
楓を見る。
「本当に最悪……」
伊織を見る。
「タクシー呼ぼうか」
岳を見る。
「うまい」
最後に、御影を見る。
御影は何も言わず、ただ斎賀を見ていた。斎賀は小さく息を吐く。
「忘れてくれ」
真壁が笑った。
御影も、ほんの少しだけ口元を上げた。
十四年前、三人は同じように失敗して、怒られて、無茶をして、それでも自分たちなりに前へ進んだ。そして今、その目の前には、同じように失敗しながら先へ進む若者たちがいる。
人は、ある日突然、大人になるわけではない。学校を卒業したからでも、職員証を持ったからでも、十八歳になったからでもない。一つ覚えて、一つ間違えて、怒られて、少し考えて、また間違える。そういう日々を重ねて、気づけば昨日より少しだけ先へ進んでいる。
たぶん、大人になるというのは、その程度のことなのだ。
「岳」
伊織が訊いた。
「何?」
「それ何本目?」
「七本」
「まだ食べるの?」
「うん」
「お前だけ本当に変わらないな」
「うまい」
その答えに、全員が笑った。