幕末にて……。
蓮根奎星が消えたあと、小萱村はひどく静かになった。
もともと、騒がしい村ではない。山に囲まれた小さな集落で、朝になれば鶏が鳴き、畑へ向かう者の足音がし、どこかで薪を割る乾いた音が聞こえてくる。昼には子供たちの声が響き、夕方になれば家々から炊煙が上がる。それだけの村だった。
けれど、あの日からしばらくの間、清弦には何もかもが妙に静かに感じられた。
家へ戻ると、土間には自分の草履しかない。数日前までは、その隣に見慣れない履物が乱雑に脱ぎ捨てられていた。あれは靴というらしい。妙に硬く、紐がついていて、奎星は毎朝それを履くたびに「面倒くさい」「紐ほどけた」「清弦の草履、楽そう」「交換しようぜ」と文句を言っていた。そのたびに清弦が「断る」と返していたことまで、今では妙に鮮明に思い出せる。
囲炉裏の前へ座り、一人分の茶を淹れる。湯気を見つめているうち、清弦の手が止まった。無意識に、もう一つ湯呑みを出そうとしていたのだ。
「…………」
自分の手を見下ろし、清弦は小さく息を吐いた。
「馬鹿馬鹿しい」
そう呟いて、湯呑みを一つだけ残す。茶を口に含むと、家の中には静けさだけが広がった。静かすぎて、家そのものが以前より広くなったように感じられる。
「清弦」
外から声がした。
「いる?」
「いる」
戸が開き、鈴が入ってくる。手には小さな包みを抱えていた。
「お婆ちゃんが、お芋を持っていけって」
「またか」
「清弦がちゃんと食べないから」
「食べている」
「昨日は?」
「食べた」
「何を?」
清弦は黙った。鈴が目を細める。
「清弦」
「芋」
「いつ?」
「昼」
「夜は?」
「茶」
「それは食べたって言わないよ」
「腹は減っていなかった」
「そういうことじゃないでしょう」
鈴は慣れた様子で家へ上がり、包みを開いた。中には蒸した芋が四つ入っている。
「食べて」
「今?」
「今」
「後でいい」
「今」
「…………」
「奎星さんがいたときは、あんなに食べてたじゃない」
清弦の目が僅かに動いた。鈴も口にしてから気づいたのか、二人の間に短い沈黙が落ちる。
「……あいつが勝手に食っていただけだ」
「清弦の分まで?」
「私の家の米を、私より食っていた」
鈴が小さく笑う。
「そうだったね」
「遠慮というものを知らん」
「未来では、そういうものなのかな」
「未来人すべてがあれなら、この国は百五十年後には滅びている」
「滅びてなかったでしょう?」
「ならあいつが特殊だったんだ」
鈴がまた笑った。その声が、少しだけ家の中へ戻ってくる。清弦は芋を一つ取り、割った。
「……甘いな」
「うん」
「誰が作った」
「お春婆ちゃん」
「あとで礼を言う」
「そうして」
少しだけ、いつもの村へ戻った気がした。けれど清弦の視線は、ときどき戸口へ向かう。鈴はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
もう、そこからあの青年が入ってくることはない。
百五十年以上先。想像することすら難しい遠い未来へ、清弦が自ら返した。常世返しによって、本来あるべき場所へ、本来あるべき時へ。
正しい。
正しかった。
それでも。
「清弦」
「何だ」
「寂しい?」
清弦は答えなかった。鈴は先に、自分の気持ちを口にする。
「私は少し寂しい」
清弦は手の中の芋を見た。
「……静かすぎる」
「うん」
「あいつは、よく喋っていたからな」
「清弦も結構喋ってたよ」
「誰のせいだ」
「奎星さん」
「そうだ」
「じゃあ、寂しいんだ」
「鈴」
「何?」
「食え」
「私が持ってきたんだけど」
「なら一つ減らせ」
「はいはい」
二人で芋を食べた。外では夕方の風が吹き、神代榊の葉が遠くで揺れている。その枝の間から、一羽の鬼火鳥が飛び立った。
*
翌朝、清弦は平坂の家を訪ねた。
納屋の中は、以前と同じように木の匂いで満ちている。鉋や鋸、鑿、祭具、弓、古い術具が壁際に並び、作業台の中央には一本の杖が置かれていた。
神代榊の枝を削り、芯には鬼火鳥の尾羽を使っている。奎星が未来から持ってきた杖を見本に、平坂が作ったものだった。清弦が巨大妖魔との戦いで使った杖でもある。
未来から来た杖は、奎星と共に消えた。
今、ここに残っているのは、この一本だけだった。
「また来たか」
平坂が顔を上げる。
「ああ」
「壊したのか?」
「壊していない」
「なら何だ」
「作ってほしい」
「何を」
「版木を」
平坂の手が止まった。
「……版木?」
「ああ」
「お前、今度は何を始める気だ」
清弦はすぐには答えず、懐から紙の束を取り出した。まだ新しい紙には、墨でいくつもの文字が書かれている。
常世返し。霊脈への接続。古い印。封印術。魔力を借りる術。鬼火鳥に関する記録。神代榊の性質。妖魔に関する観察。
そして、その横には別の文字が並んでいた。
プロテゴ。
ステューピファイ。
デパルソ。
インカーセラス。
エクスペリアームス。
奎星や横浜の魔法使いたちが使っていた呪文だった。
「書いているのか」
「ああ」
「珍しい」
「何がだ」
「お前は昔から、覚えていれば十分という顔をしていた」
清弦の眉が僅かに寄る。
「誰かに言われた」
平坂が言った。
「残せと」
清弦は黙った。老人が鼻で笑う。
「図星か」
「うるさい」
「未来の兄弟か」
「兄弟ではない」
「村中、そう思っているぞ」
「違う」
「顔が似ていた」
「違う」
「喧嘩も似ていた」
「何がだ」
「知らん」
「適当に言うな」
平坂は笑った。清弦は紙を作業台へ置く。
「古い術は残す」
「ほう」
「常世返しも、霊脈を扱う術も、今までここに残ってきたものもだ」
「今までは、お前しか使わない術も多かったが」
「だから書く」
清弦は淡々と言った。
「私が死ねば、無くなるものが多すぎる」
平坂の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「……そうか」
「ああ」
「未来で必要になるのか」
「知らん」
「知らんのか」
「あいつが残せと言った」
「では必要なのだろう」
「理由は、女のためらしい」
「女?」
「魔法史の教師だと」
「何の話だ」
「私にも分からん」
「未来は大変だな」
「そうらしい」
平坂が紙を一枚取り上げる。そこには、プロテゴと書かれていた。
「こちらは?」
「新しい術だ」
「未来のものか」
「未来にもある」
「にも?」
「今すでに、横浜へ来ている外国の魔法使いたちが使っている」
清弦は作業台の杖へ触れた。
「杖を通し、短い言葉で術を出す。印を結ぶ必要もない。道具と術式を決めておけば、同じ術を何度でも再現できる」
「便利だな」
「ああ」
「なら、古いものはいらんのではないか」
清弦はすぐに首を横へ振った。
「違う」
「何が」
「新しい術でできることと、古い術でできることは同じではない」
常世返し。奎星を未来へ返した術。あれは杖で呪文を唱えれば済むものではない。土地と繋がり、霊脈を読み、何が迷い込んだもので、どこが帰るべき場所なのかを見極める必要がある。
「捨てる必要はない」
清弦は言った。
「使えるものは使う」
「新しいものも?」
「学ぶ」
「古いものも?」
「残す」
平坂はしばらく清弦を見たあと、小さく笑った。
「欲張りになったな」
清弦の眉が上がる。
「何だ」
「前なら、どちらかを選んだだろう」
「…………」
「未来人の影響か」
「知らん」
「そうか」
平坂は紙の束を指先で叩いた。
「で、これを版木にするのか」
「ああ」
「全部か?」
「いや」
清弦は紙を二つに分けた。
「こちらは残すだけだ」
一方には、常世返しや霊脈への接続など、古代魔術の記録がまとめられている。
「誰でも扱っていい術ではない。必要な者が読めばいい」
「では、こちらは?」
「教える」
もう一方の紙には、短い呪文と、その用途が書かれていた。
さらに、呪文の横には、杖を持った手の絵がある。
「これは何だ」
「杖の動きだ」
「ほう」
「プロテゴなら、こう構える。デパルソなら、こう動かす。呪文と動き、それから魔力を流す順番を記した」
「お前が描いたのか」
「ああ」
平坂は紙を持ち上げた。
「…………」
「何だ」
「手が六本あるぞ」
「動きを重ねて描いた」
「気味が悪い」
「そこは分かるだろう」
「お前の説明が悪い」
「描き直す」
「そうしろ」
清弦は紙を取り戻した。
「これを、魔法を学ぶ者へ渡したい」
「一人ずつか」
「ああ」
「何人いる」
「知らん」
「知らんのか」
「だから増やせるようにする」
平坂が一度、紙を見た。
「なるほどな」
一枚の手記なら、読めるのは一人だ。誰かへ渡せば、自分の手元からはなくなる。写しを作るにしても、何十枚、何百枚と手で書くには時間がかかる。
だが、版木なら違う。
一度彫れば、同じものを何枚でも刷れる。
「術を覚えた者が、別の土地で誰かへ教える。そのときに同じものを使えば、教え方も揃う」
「お前が全部教えるわけではないのか」
「無理だ」
「珍しく素直だな」
「私一人では限界がある」
平坂が清弦を見る。
その言葉を、この若者の口から聞く日が来るとは思わなかった。
「……変わったな、お前」
「最近そればかり言われる」
「で、肝心の杖はどうする」
平坂は作業台の神代榊を見た。
「こいつを使う術なんだろう」
「杖を使う術だ」
「同じことではないのか」
「違う」
清弦は神代榊を手に取った。
「これと同じ杖を作る必要はない」
「神代榊でなくてもいいのか」
「ああ」
「鬼火鳥の尾羽も?」
「必要ない」
横浜で出会った外国人たちの杖は、それぞれ違っていた。木の種類も、長さも、芯も違う。けれど、同じ呪文を使っていた。
「この杖は特別だ」
清弦は手元の神代榊を見つめた。
炎を思わせる彫刻。
黒に近い木肌。
握ったときの、不思議な温かさ。
自分が生まれるより遥か昔から立つ大樹と、そこへ帰ってくる鬼火鳥。その両方から生まれた、たった一本の杖だった。
「もう一本、作れとは言わんのか」
平坂が訊いた。
「言わん」
「前は随分と急がせたがな」
「あのときは必要だった」
「今は?」
「必要ない」
清弦は杖を作業台へ戻した。
「同じものを作らなくても、魔法は教えられる」
平坂はしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「そうか」
「ああ」
「なら、俺の仕事は杖ではなく、版木だな」
「そうだ」
「何枚作る」
「まずは一枚」
「一枚?」
「ああ。うまくいったら増やす」
「珍しいな」
「何が」
「お前が、最初から全部やろうとしない」
「…………」
「未来人は随分と妙なものを残していったらしい」
清弦は答えなかった。
残す。書く。教える。
そして、教えた者が、また別の誰かへ教える。
あの巨大妖魔との戦いで、清弦は知った。一人でできることには限りがある。自分だけが知っている術、自分だけができること。それを誇ることと、抱え込むことは違う。
自分がいなくなっても残るものを作る。
その意味を、清弦はようやく少し理解し始めていた。
*
その日の夕方、清弦は鈴を神代榊の下へ呼び出した。
「急に呼ぶなんて珍しいね」
鈴が近づいてくる。
「ああ」
「何かあった?」
「ある」
「何?」
清弦は黙った。
「清弦?」
「少し待て」
「うん」
「…………」
「どれくらい?」
「黙っていろ」
「何で怒られるの」
「怒っていない」
鈴は不思議そうに首を傾げた。清弦は困っていた。妖魔と向かい合う方が、まだ簡単だった。巨大な怪物なら倒せばいい。霊脈が乱れているなら原因を探せばいい。術なら考えればいい。
だが今は、何をどう言えばいいのか分からない。
あいつなら何と言う。
清弦は一瞬だけ考えた。
――行け。言え。何か言え。
思い出しただけで腹が立った。
「どうしたの?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃないよ」
「鈴」
「うん」
「私は」
そこで言葉が止まる。
鈴は急かさず、ただ待っていた。昔からそうだった。清弦が熱を出しても、怪我をしても、無茶をしても、怒りながら、呆れながら、それでも最後まで隣にいた。あの呪いを自分へ移そうとしたときも、清弦より先に死のうとした。
清弦の手に力が入る。
「私は、お前と暮らしたい」
鈴の目が止まった。
「これからも。同じ家で、飯を食って……」
「清弦」
「何だ」
「続き」
「分かるだろう」
「ちゃんと言って」
「なぜ」
「言って」
逃げられない。巨大妖魔より厄介だった。
清弦は一度目を閉じ、それから覚悟を決めた。
「私の妻になってくれ」
鈴は何も言わなかった。清弦の顔が少しずつ険しくなる。
「……鈴」
「待って」
「嫌なら」
「違う」
「なら」
「今」
鈴が顔を覆った。
「ちょっと待って」
「何だ」
「顔を見ないで」
「なぜだ」
「清弦。こういうときくらい分かって」
「分からん」
「もう」
声が震えていた。泣いているのかと思ったが、違った。笑っている。
鈴が手を下ろす。頬が真っ赤だった。
「……はい」
清弦は動かなかった。
「清弦?」
「今、何と言った」
「聞こえなかった?」
「聞こえた」
「なら訊かないで」
「いや」
清弦の口元が、少しだけ上がる。
「もう一度言え」
「嫌」
「なぜだ」
「恥ずかしいから」
「私には言わせた」
「それはそれ」
「何が違う」
「違うの」
「分からん」
「分からなくていい」
「よくない」
「じゃあ」
鈴は笑った。
「一生かけて分かって」
清弦が黙る。
「何?」
「いや」
「何か言って」
「分かった」
「それだけ?」
「何がだ」
「清弦らしいけど」
鈴は笑った。
その顔を見て、清弦はふと、百五十年先へ消えた青年を思い出した。余計なことばかり言う。うるさい。無茶をする。何度も腹が立った。最後まで腹が立った。
それでも。
「……奎星」
清弦が小さく呟く。
「何?」
「何でもない」
「また?」
「ああ」
空の高いところを、鬼火鳥が飛んでいた。未来へ帰ったあの男がこれを見たら、きっと馬鹿みたいに騒ぐ。清弦はそう思った。
*
数か月が過ぎ、季節が変わった。小萱村の山々は濃い緑から少しずつ色を変え、朝晩の空気にも冷たさが混じるようになっている。村そのものは変わらない。畑があり、薪を割り、子供が走り、鬼火鳥が神代榊へ戻る。
ただ、清弦の家には以前より物が増えていた。
「また増えた」
鈴が机の上を見て言う。
「必要だ」
「昨日も同じこと言ってた」
「昨日より増えたからな」
「だから言ってるの」
机の上には、清弦の手記が積み上がっている。古代魔術、霊脈、常世返し、封印、鬼火鳥、妖魔、神代榊、そして新しい魔法。
その横には、刷り上がったばかりの紙が何十枚も重ねられていた。
「これ、また刷ったの?」
「ああ」
「昨日も刷ってたでしょう」
「間違いがあった」
「どこ?」
「呪文の横だ」
鈴が紙を一枚取る。
そこには杖を持った手の絵があり、横に細い線と矢印が描かれていた。
「……これ、何?」
「杖の動きだ」
「前も聞いたけど、手が増えてるよ」
「動きを重ねている」
「怖い」
「平坂にも言われた」
「じゃあ直した方がいいんじゃない?」
「今度は二本に減らした」
「まだ多いよ」
清弦は黙った。
平坂の家では、版木を使った手引き作りが続いていた。
最初は文字だけだった。だが、それでは術を知らない者には分かりにくい。次に杖の動きを描いた。しかし、絵だけでは力を入れる順番が伝わらなかった。呪文の発音も、文字へ置き換えると人によって違う音になる。
分からないことばかりだった。
しかも、刷れば何でも広めていいわけではない。
危険な術は分けて記録し、初歩の呪文だけを手引きに載せる。魔法を使える者へ教えるための資料であって、村中へ無闇に配るものでもない。
それでも、一枚ずつ形になっていた。
「これ、誰が読むの?」
鈴が訊く。
「知らん」
「知らないの?」
「今はな」
「奎星さんの未来では読まれてるのかな」
清弦の筆が止まった。
「……かもしれん」
「だったら字、綺麗に書いた方がいいよ」
「読める」
「私は清弦の字に慣れてるから」
「十分だ」
「未来の人が困る」
「困ればいい」
「何で」
「少しは苦労しろ」
「誰に怒ってるの」
「未来」
「大きいね」
鈴が笑った。
そのとき、外で馬の声がした。清弦が顔を上げると、続いて人の声が聞こえてくる。
「清弦!」
聞き覚えのある声だった。
家を出ると、村の入口に数頭の馬が止まっていた。先頭にいた男が手を上げる。
「久しぶりだな」
「高瀬」
「ああ」
高瀬だった。以前より少し日焼けしている。その後ろには、さらに数人の外国人がいた。
「SEIGEN!」
大きな声が飛び、清弦の顔が僅かに引きつる。
「……ジェームズ」
「覚えてんじゃねえか」
高瀬が笑った。
ジェームズ、ウィリアム、トーマス。以前、巨大妖魔との戦いを共にした外国人の魔法使いたちだった。あの日より怪我は消え、服装も整っている。荷物も多い。
「何しに来た」
「いきなりそれか」
「用があるから来たんだろう」
「まあな」
高瀬は馬から降りた。
「お前に会いたいってさ」
「なぜ」
「それを今から訳す」
ジェームズが何か話す。清弦が高瀬を見る。
「何と言った」
「久しぶりだ。相変わらず愛想が悪いな」
「後半はいらんだろう」
「言った通り訳した」
「本当に言ったのか」
「本当」
ジェームズが笑っている。
「あと」
高瀬が続けた。
「魔法の話がしたいらしい」
清弦の表情が変わった。
「魔法?」
「ああ」
ウィリアムが荷物の一つを開く。中には数本の杖、紙、本、見たことのない図、術式、英字が入っていた。
「向こうも、お前の術が気になるんだと」
「私の?」
「霊脈を使った術。妖魔を封じたやり方。あと常世返し」
「常世返しは見せていない」
「奎星から聞いた」
「…………」
「未来人、よく喋るからな」
「百五十年先へ帰ってまで腹が立つな」
高瀬が笑う。
「で」
彼は持ってきた本を一冊取った。
「こっちも教えるって」
「何を」
「杖の使い方。呪文。魔法陣。魔力の通し方。向こうでどう教えているか」
清弦は本を見た。
表紙には知らない文字が並んでいた。中を開くと、杖を持った手の図、短い呪文、細かな説明が記されている。
自分が作ろうとしているものと、よく似ていた。
「……これは」
「向こうで使ってる魔法の手引きだとさ」
「誰が書いた」
「それを今から聞く」
高瀬が訊くと、ジェームズが何か答えた。
「一人じゃないらしい」
「何?」
「何人もの魔法使いが、少しずつ直してきたんだってさ。昔から使われてる呪文もあるし、新しく加えられたものもある」
清弦は頁をめくった。
同じ呪文に対して、いくつもの注意書きがある。初心者が間違えやすいところ。杖を振る角度。魔力を流す時機。失敗した場合に起こる現象。
ただ術式を記したものではない。
人へ教えるための本だった。
「……なるほど」
清弦が呟く。
高瀬が首を傾げた。
「何だ?」
「少し分かった」
「何が」
「私の手引きに足りないものだ」
「手引き?」
清弦は懐から紙を一枚取り出した。
「これだ」
高瀬が受け取る。
「…………」
「何だ」
「お前、何やってんの?」
「見れば分かるだろう」
「いや、だから」
高瀬は紙を裏返し、また表へ戻した。
「これ、全部お前が?」
「ああ」
「印刷したのか?」
「平坂が版木を作った」
「へえ……」
高瀬の表情が変わった。
ジェームズたちも興味を持ったらしい。紙を覗き込み、何かを話し始める。
「何と言っている」
「見たいって」
「何を」
「他の頁も」
清弦は一度だけ頷いた。
「家にある」
「本当に?」
「ああ」
「じゃ、見せてくれ」
「その代わり」
清弦は外国人たちの持ってきた本を見る。
「そちらも全部見せろ」
高瀬が笑った。
「欲張りだな」
「最近よく言われる」
「誰に」
「老人」
「誰だよ」
清弦は答えなかった。
*
平坂の納屋は、たちまち人でいっぱいになった。
清弦が手記を広げ、高瀬が訳し、ジェームズたちが自分たちの本を並べる。平坂は最初こそ邪魔そうにしていたが、外国の杖や印刷された図を見せられると、いつの間にか作業台の一番近くへ座っていた。
「この線は何だ」
平坂が訊く。
高瀬がジェームズへ訊く。
ジェームズが答える。
「杖の動かし方だとさ」
「こっちは?」
「魔力を流し始めるところ」
「なるほどな」
平坂が清弦を見る。
「お前の絵より分かりやすいぞ」
「…………」
「手も二本しかない」
「もういい」
鈴が笑った。
高瀬は清弦の手引きを一枚めくった。
「でも、これ面白いな」
「何が」
「こっちは、呪文を覚える前に魔力の流れを説明してる」
「当然だろう」
「いや、向こうじゃ順番が違うらしい」
ジェームズが何か話し、高瀬が訳す。
「まず簡単な呪文で感覚を覚えさせて、それから理屈を教えることも多いんだと」
「理屈を知らずに使うのか」
「使いながら覚えるんだろ」
「危険だ」
「だから簡単な術から教えるんだよ」
清弦は黙った。
たしかに、奎星もそうだった。
あの男は術式の理屈をほとんど知らなかった。それでも杖を振り、プロテゴを使い、デパルソを使い、何度も清弦を驚かせた。
もっとも、あいつの場合は理屈以外にも問題があったが。
「……そうか」
清弦が呟く。
高瀬が顔を上げた。
「何?」
「いや」
「納得したのか?」
「ああ」
「珍しいな」
「何が」
「お前が人の話を素直に聞くなんて」
「帰れ」
「まだ来たばっかりだろ!」
ジェームズたちが笑った。
しばらくして、高瀬は清弦の手引きを机へ並べ直した。
「なあ、これ」
「何だ」
「横浜に持って帰っていいか?」
清弦の目が動く。
「なぜ」
「向こうにも、こういうの欲しがる奴がいると思うんだよ」
「……そうか」
「日本の術を学びたいって奴もいるし、逆に外国の魔法を教えようとしてる奴もいる。でも、言葉が違うから面倒でさ」
高瀬は手引きの一枚を指した。
「図があれば少しは分かるだろ。あと呪文の読み方を書いておけば、俺がいなくても多少は練習できる」
「多少か」
「全部できるわけないだろ」
「役に立たんな」
「お前なあ!」
清弦は少し考えた。
「高瀬」
「何だ」
「持っていけ」
「いいのか?」
「ああ」
「助かる」
「ただし」
高瀬が止まる。
「何だ」
「渡す相手は選べ。危険な術は入れていないが、魔法を知らん者にまで見せるものではない」
「分かってる」
「それから」
「まだあるのか」
「間違いを見つけたら知らせろ」
「間違い?」
「術の動きでも、言葉でも、教え方でもいい。直す」
高瀬は少しだけ驚いた顔をした。
「……お前が?」
「ああ」
「人に間違い指摘されるの、嫌いだろ」
「好きではない」
「じゃあ何で」
清弦は一度、紙の束へ視線を落とした。
「間違ったまま残す方が嫌だ」
高瀬が黙る。
清弦は続けた。
「私が知っていることだけでは足りん。あいつも、そうだった」
「あいつ?」
「奎星だ」
高瀬の表情が少し変わった。
「……ああ」
「あいつは、知らないことを知らないと言えた」
「それは結構言ってたな」
「言いすぎだったが」
「そうだな」
「だが、知らなければ訊いた。使えるものがあれば使った。間違えれば、次は違うやり方を試した」
清弦は紙を揃えた。
「残すものなら、そうあるべきだ」
高瀬はしばらく黙っていた。
それから、笑った。
「お前、本当に変わったな」
「最近そればかり言われる」
「誰のせいだろうな」
「知らん」
知っていた。
*
その日の午後、神代榊の下にいくつもの人影が並んだ。
清弦、高瀬、ジェームズ、ウィリアム、トーマス、平坂、鈴、そして興味を持った村人たちである。
地面には二種類の道具が置かれていた。
一つは紙札と古い術具。
もう一つは、外国人たちが持ってきた杖だった。
さらに、その横には清弦の手引きが並んでいる。
「まず」
高瀬が言う。
「ジェームズが簡単な盾の魔法を見せる」
「プロテゴか」
ジェームズが驚いた。
「PROTEGO?」
「ああ」
清弦が答える。
ジェームズが笑った。
「奎星から習った」
「訳したぞ」
「余計だ」
「必要だろ」
ジェームズが杖を上げる。
「PROTEGO」
薄い光の盾が現れ、村人たちからどよめきが上がった。
「速い」
清弦が言う。
「印がない」
「ああ」
高瀬が訳しながら答える。
「杖の動きと呪文で、ある程度決まった形の術をすぐ出せる」
「誰でも?」
「そこは力量次第」
「術式を知らなくても?」
「練習はいる」
「だが、同じ言葉を使う」
「そう」
清弦は光の盾を見つめた。
「人へ教えやすい」
高瀬が清弦を見る。
「そこか」
「ああ」
違う杖を持つ者でも、同じ呪文を学べる。同じ基本動作を練習できる。魔力の強さや適性によって結果は変わるが、少なくとも教えるための共通の手順がある。
誰か一人しか知らない秘術ではない。
習えば次へ渡せる。
広げられる。
「今度は?」
高瀬が訊く。
清弦は前へ出て、紙札を一枚置いた。両手で印を結ぶ。
「簡単なものだ」
「それ、奎星も言ってたけど、お前らの簡単は信用できねえんだよな」
「黙って見ろ」
指先から青白い光が落ち、土の上へ線が走った。円が描かれ、その内側へ細い文字が浮かび上がる。
村人たちが息を呑み、外国人たちも表情を変えた。
「これは、土地に残る魔力を読む」
清弦が言う。
高瀬が訳す。
「今いる場所で、どちらへ力が流れているか。どこに溜まっているか。どこが弱っているか」
ジェームズが質問する。
「何だ」
「杖ではできないのかって」
清弦は少し考えた。
「できるかもしれん」
「…………」
「何だ」
「いや」
「訳せ」
高瀬が笑った。
「それを一緒に試すんだろ」
清弦は黙った。それから、口元をほんの少しだけ上げる。
「ああ」
新しい魔法と古い魔法。
どちらか一つではない。
杖を使えば、術を早く出せる。古い術を使えば、土地や霊脈そのものへ触れられる。ならば、組み合わせればいい。
もっとも、すべてを同じ方法で扱えるわけではない。常世返しのように、土地や術者の知識へ深く依存するものもある。逆に、短い呪文と決まった動きで十分な術もある。
大切なのは、何を使うかではない。
何ができて、何ができないのかを知ることだった。
「高瀬」
「何だ」
「さっきの紙を持ってこい」
「どれ?」
「プロテゴの手引きだ」
高瀬が紙を一枚取ってきた。
清弦はそれをジェームズへ見せる。
「これで、もう一度やってくれ」
高瀬が訳した。
ジェームズは紙を覗き込んだあと、頷いた。
「PROTEGO」
再び盾が現れる。
清弦は紙を指差した。
「ここだ」
「何が」
「杖を動かすところが違う」
「絵が?」
「ああ」
清弦は墨を取り、手引きに描かれた線を一本消した。
別の角度へ描き直す。
「これならどうだ」
ジェームズがもう一度紙を見た。
何かを言う。
「合ってるって」
高瀬が訳した。
「そうか」
清弦は頷いた。
「平坂」
「何だ」
「版木を直してくれ」
「またか」
「ああ」
「昨日も直したぞ」
「今日も頼む」
「明日もか」
「必要なら」
平坂は大きく息を吐いた。
「……本当に手のかかる奴だ」
村人たちが笑った。
清弦は気にしなかった。
たった一本の線。
それを直すだけで、次に学ぶ者は同じ間違いをしなくて済む。
十人に教えれば、十人が同じ説明を聞く。
その十人がまた別の十人へ教えれば、百人になる。
百人がそれぞれ別の土地へ帰れば、その場所にも魔法を学ぶ者が生まれる。
清弦は紙を見つめた。
自分がすべての土地へ行く必要はない。
自分がすべての人間へ教える必要もない。
教えたものが残ればいい。
そして、いつか自分の知らない誰かが、それをさらに良くしてくれればいい。
「……なるほどな」
清弦が呟いた。
「何が?」
高瀬が訊く。
「いや」
「また一人で納得してる」
「少し分かった」
「何を」
「教えるということだ」
高瀬は一度、清弦を見た。
それから、笑った。
「お前が先生か」
「何だ」
「いや、似合わねえなって」
「貴様」
「絶対怖いだろ」
「何が」
「間違えたら怒るだろうし」
「当然だ」
「ほら」
「間違えたままでは危険だ」
「そうだけどさ」
ジェームズが何か言った。
「何だ」
「『俺が教えるから大丈夫だ』って」
「誰が」
「ジェームズが」
清弦は少しだけ眉を寄せた。
「なら最初からそうしろ」
「言い方!」
笑いが起きた。
ジェームズが持っていた紙を地面へ広げ、清弦の手記もその横へ置く。高瀬が二人の間に座った。
「じゃ」
「何だ」
「まず言葉からだな」
「言葉?」
「お互い何言ってるか分からん」
「お前がいる」
「俺、ずっといる前提?」
「違うのか」
「仕事あるんだけど」
「なら覚えろ」
「誰が」
「私が」
「英語を?」
「ああ」
高瀬が清弦を見る。
「本気?」
「必要だろう」
「…………」
「何だ」
「いや」
高瀬は少し笑った。
「お前、本当に変わったな」
清弦の眉が寄る。
「最近、そればかり言われる」
「誰のせいだろうな」
「知らん」
知っていた。
うるさい男だった。百五十年先から来て、勝手に村へ入り込み、勝手に自分の家へ泊まり、勝手に戦い、勝手に友人を増やし、勝手に未来へ帰った。
だが、その男が持ってきたものは、未来の道具だけではなかった。
一人でやらなくていいという考え。知らないものを使ってもいいという考え。古いものを捨てなくてもいいという考え。人へ残すという考え。そして、違う者同士でも一緒に戦えるという事実。
「清弦」
鈴が呼ぶ。
「何だ」
「また難しい顔してる」
「考えている」
「何を」
清弦は目の前を見た。
外国人たち、高瀬、平坂、村の子供たち。杖、古い札、新しい呪文、刷り上がった手引き。
そして、巨大な神代榊。
その枝の上では、鬼火鳥が青白い炎を揺らしている。
「先のことだ」
「未来?」
「……まあな」
百五十年後、自分の名が残っていることを清弦は知らない。
蓮根清弦という人間が、やがて近代魔法史の重要人物と呼ばれることも、外国から入ってきた杖と呪文による魔法を学び、それを日本各地へ伝える一人になることも。
古代魔術を捨てずに記録へ残したことが、百五十年以上先で一人の魔法史教師を喜ばせることも、自分が書いた手記をあの少年が読む日が来ることも。
そして、自分が今手にしている神代榊の杖が、長い年月を経て、再びあの少年の手へ渡ることも。
何も知らない。
知らなくてよかった。
未来とは、本来そういうものだった。見えない。分からない。保証もない。それでも、自分が今できることを残していく。
「高瀬」
「ん?」
「これは何と言う」
清弦が英字を指差す。
「STUPEFY」
「……すちゅう……」
「違う」
「まだ言っていない」
「絶対違う」
「貴様」
ジェームズが笑う。
「STUPEFY」
「すてゅ……ぺふぁい」
「STUPEFY」
「同じだろう」
「全然違う」
「面倒だな」
「諦めるの早い!」
鈴が口元を押さえて笑っている。清弦はもう一度紙を見る。
「……すてゅーぺふぁい」
作業台の上に置いていた神代榊の杖を手に取ると、高瀬の顔が変わった。
「待て」
「何だ」
「誰に撃つ気だ」
「お前」
「何で!?」
「動く人間の方が分かりやすい」
「藁人形使え!」
「逃げるな」
「逃げるわ!」
高瀬が走り、清弦が追う。外国人たちが笑い、村人も笑い、鈴も笑った。
神代榊の上から、鬼火鳥たちが一斉に飛び立つ。青白い炎が、夕方の空へ散っていった。
小さな村だった。
名も知られない山間の村。
そこで作られた一枚の手引きが、やがて横浜へ渡る。新しい呪文の訳し方が加えられ、間違った図が直され、別の土地の魔法使いが自分の知識を書き足していく。
それを読んだ者が誰かへ教え、教わった者がまた別の誰かへ教える。
やがて、その積み重ねが国中へ広がっていくことを、このときはまだ誰も知らない。
古い術と、新しい魔法。
日本と、海の向こう。
過去と、未来。
違う場所から来たものが、少しずつ同じ道へ繋がっていく。
百五十年後、魔法学校の教室で、ごく当たり前のように杖を振る子供たちがいる。教師が呪文を教え、生徒が失敗し、何度もやり直し、いつかできるようになる。
その当たり前を作った者たちの中に、蓮根清弦という一人の頑固な魔法使いがいた。
彼は、特別な杖を何本も残したわけではない。
たった一本の杖と、いくつもの術と、誰かへ教えようとした記録を残した。
そして、その背中を一度だけ、未来から来た少年が押していた。