マホウトコロ   作:西野圭吾

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第4話 残された未来

 幕末にて……。

 

 蓮根奎星が消えたあと、小萱村はひどく静かになった。

 

 もともと、騒がしい村ではない。山に囲まれた小さな集落で、朝になれば鶏が鳴き、畑へ向かう者の足音がし、どこかで薪を割る乾いた音が聞こえてくる。昼には子供たちの声が響き、夕方になれば家々から炊煙が上がる。それだけの村だった。

 

 けれど、あの日からしばらくの間、清弦には何もかもが妙に静かに感じられた。

 

 家へ戻ると、土間には自分の草履しかない。数日前までは、その隣に見慣れない履物が乱雑に脱ぎ捨てられていた。あれは靴というらしい。妙に硬く、紐がついていて、奎星は毎朝それを履くたびに「面倒くさい」「紐ほどけた」「清弦の草履、楽そう」「交換しようぜ」と文句を言っていた。そのたびに清弦が「断る」と返していたことまで、今では妙に鮮明に思い出せる。

 

 囲炉裏の前へ座り、一人分の茶を淹れる。湯気を見つめているうち、清弦の手が止まった。無意識に、もう一つ湯呑みを出そうとしていたのだ。

 

「…………」

 

 自分の手を見下ろし、清弦は小さく息を吐いた。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 そう呟いて、湯呑みを一つだけ残す。茶を口に含むと、家の中には静けさだけが広がった。静かすぎて、家そのものが以前より広くなったように感じられる。

 

「清弦」

 

 外から声がした。

 

「いる?」

 

「いる」

 

 戸が開き、鈴が入ってくる。手には小さな包みを抱えていた。

 

「お婆ちゃんが、お芋を持っていけって」

 

「またか」

 

「清弦がちゃんと食べないから」

 

「食べている」

 

「昨日は?」

 

「食べた」

 

「何を?」

 

 清弦は黙った。鈴が目を細める。

 

「清弦」

 

「芋」

 

「いつ?」

 

「昼」

 

「夜は?」

 

「茶」

 

「それは食べたって言わないよ」

 

「腹は減っていなかった」

 

「そういうことじゃないでしょう」

 

 鈴は慣れた様子で家へ上がり、包みを開いた。中には蒸した芋が四つ入っている。

 

「食べて」

 

「今?」

 

「今」

 

「後でいい」

 

「今」

 

「…………」

 

「奎星さんがいたときは、あんなに食べてたじゃない」

 

 清弦の目が僅かに動いた。鈴も口にしてから気づいたのか、二人の間に短い沈黙が落ちる。

 

「……あいつが勝手に食っていただけだ」

 

「清弦の分まで?」

 

「私の家の米を、私より食っていた」

 

 鈴が小さく笑う。

 

「そうだったね」

 

「遠慮というものを知らん」

 

「未来では、そういうものなのかな」

 

「未来人すべてがあれなら、この国は百五十年後には滅びている」

 

「滅びてなかったでしょう?」

 

「ならあいつが特殊だったんだ」

 

 鈴がまた笑った。その声が、少しだけ家の中へ戻ってくる。清弦は芋を一つ取り、割った。

 

「……甘いな」

 

「うん」

 

「誰が作った」

 

「お春婆ちゃん」

 

「あとで礼を言う」

 

「そうして」

 

 少しだけ、いつもの村へ戻った気がした。けれど清弦の視線は、ときどき戸口へ向かう。鈴はそれに気づいていたが、何も言わなかった。

 

 もう、そこからあの青年が入ってくることはない。

 

 百五十年以上先。想像することすら難しい遠い未来へ、清弦が自ら返した。常世返しによって、本来あるべき場所へ、本来あるべき時へ。

 

 正しい。

 

 正しかった。

 

 それでも。

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「寂しい?」

 

 清弦は答えなかった。鈴は先に、自分の気持ちを口にする。

 

「私は少し寂しい」

 

 清弦は手の中の芋を見た。

 

「……静かすぎる」

 

「うん」

 

「あいつは、よく喋っていたからな」

 

「清弦も結構喋ってたよ」

 

「誰のせいだ」

 

「奎星さん」

 

「そうだ」

 

「じゃあ、寂しいんだ」

 

「鈴」

 

「何?」

 

「食え」

 

「私が持ってきたんだけど」

 

「なら一つ減らせ」

 

「はいはい」

 

 二人で芋を食べた。外では夕方の風が吹き、神代榊の葉が遠くで揺れている。その枝の間から、一羽の鬼火鳥が飛び立った。

 

     *

 

 翌朝、清弦は平坂の家を訪ねた。

 

 納屋の中は、以前と同じように木の匂いで満ちている。鉋や鋸、鑿、祭具、弓、古い術具が壁際に並び、作業台の中央には一本の杖が置かれていた。

 

 神代榊の枝を削り、芯には鬼火鳥の尾羽を使っている。奎星が未来から持ってきた杖を見本に、平坂が作ったものだった。清弦が巨大妖魔との戦いで使った杖でもある。

 

 未来から来た杖は、奎星と共に消えた。

 

 今、ここに残っているのは、この一本だけだった。

 

「また来たか」

 

 平坂が顔を上げる。

 

「ああ」

 

「壊したのか?」

 

「壊していない」

 

「なら何だ」

 

「作ってほしい」

 

「何を」

 

「版木を」

 

 平坂の手が止まった。

 

「……版木?」

 

「ああ」

 

「お前、今度は何を始める気だ」

 

 清弦はすぐには答えず、懐から紙の束を取り出した。まだ新しい紙には、墨でいくつもの文字が書かれている。

 

 常世返し。霊脈への接続。古い印。封印術。魔力を借りる術。鬼火鳥に関する記録。神代榊の性質。妖魔に関する観察。

 

 そして、その横には別の文字が並んでいた。

 

 プロテゴ。

 

 ステューピファイ。

 

 デパルソ。

 

 インカーセラス。

 

 エクスペリアームス。

 

 奎星や横浜の魔法使いたちが使っていた呪文だった。

 

「書いているのか」

 

「ああ」

 

「珍しい」

 

「何がだ」

 

「お前は昔から、覚えていれば十分という顔をしていた」

 

 清弦の眉が僅かに寄る。

 

「誰かに言われた」

 

 平坂が言った。

 

「残せと」

 

 清弦は黙った。老人が鼻で笑う。

 

「図星か」

 

「うるさい」

 

「未来の兄弟か」

 

「兄弟ではない」

 

「村中、そう思っているぞ」

 

「違う」

 

「顔が似ていた」

 

「違う」

 

「喧嘩も似ていた」

 

「何がだ」

 

「知らん」

 

「適当に言うな」

 

 平坂は笑った。清弦は紙を作業台へ置く。

 

「古い術は残す」

 

「ほう」

 

「常世返しも、霊脈を扱う術も、今までここに残ってきたものもだ」

 

「今までは、お前しか使わない術も多かったが」

 

「だから書く」

 

 清弦は淡々と言った。

 

「私が死ねば、無くなるものが多すぎる」

 

 平坂の顔から、少しだけ笑みが消えた。

 

「……そうか」

 

「ああ」

 

「未来で必要になるのか」

 

「知らん」

 

「知らんのか」

 

「あいつが残せと言った」

 

「では必要なのだろう」

 

「理由は、女のためらしい」

 

「女?」

 

「魔法史の教師だと」

 

「何の話だ」

 

「私にも分からん」

 

「未来は大変だな」

 

「そうらしい」

 

 平坂が紙を一枚取り上げる。そこには、プロテゴと書かれていた。

 

「こちらは?」

 

「新しい術だ」

 

「未来のものか」

 

「未来にもある」

 

「にも?」

 

「今すでに、横浜へ来ている外国の魔法使いたちが使っている」

 

 清弦は作業台の杖へ触れた。

 

「杖を通し、短い言葉で術を出す。印を結ぶ必要もない。道具と術式を決めておけば、同じ術を何度でも再現できる」

 

「便利だな」

 

「ああ」

 

「なら、古いものはいらんのではないか」

 

 清弦はすぐに首を横へ振った。

 

「違う」

 

「何が」

 

「新しい術でできることと、古い術でできることは同じではない」

 

 常世返し。奎星を未来へ返した術。あれは杖で呪文を唱えれば済むものではない。土地と繋がり、霊脈を読み、何が迷い込んだもので、どこが帰るべき場所なのかを見極める必要がある。

 

「捨てる必要はない」

 

 清弦は言った。

 

「使えるものは使う」

 

「新しいものも?」

 

「学ぶ」

 

「古いものも?」

 

「残す」

 

 平坂はしばらく清弦を見たあと、小さく笑った。

 

「欲張りになったな」

 

 清弦の眉が上がる。

 

「何だ」

 

「前なら、どちらかを選んだだろう」

 

「…………」

 

「未来人の影響か」

 

「知らん」

 

「そうか」

 

 平坂は紙の束を指先で叩いた。

 

「で、これを版木にするのか」

 

「ああ」

 

「全部か?」

 

「いや」

 

 清弦は紙を二つに分けた。

 

「こちらは残すだけだ」

 

 一方には、常世返しや霊脈への接続など、古代魔術の記録がまとめられている。

 

「誰でも扱っていい術ではない。必要な者が読めばいい」

 

「では、こちらは?」

 

「教える」

 

 もう一方の紙には、短い呪文と、その用途が書かれていた。

 

 さらに、呪文の横には、杖を持った手の絵がある。

 

「これは何だ」

 

「杖の動きだ」

 

「ほう」

 

「プロテゴなら、こう構える。デパルソなら、こう動かす。呪文と動き、それから魔力を流す順番を記した」

 

「お前が描いたのか」

 

「ああ」

 

 平坂は紙を持ち上げた。

 

「…………」

 

「何だ」

 

「手が六本あるぞ」

 

「動きを重ねて描いた」

 

「気味が悪い」

 

「そこは分かるだろう」

 

「お前の説明が悪い」

 

「描き直す」

 

「そうしろ」

 

 清弦は紙を取り戻した。

 

「これを、魔法を学ぶ者へ渡したい」

 

「一人ずつか」

 

「ああ」

 

「何人いる」

 

「知らん」

 

「知らんのか」

 

「だから増やせるようにする」

 

 平坂が一度、紙を見た。

 

「なるほどな」

 

 一枚の手記なら、読めるのは一人だ。誰かへ渡せば、自分の手元からはなくなる。写しを作るにしても、何十枚、何百枚と手で書くには時間がかかる。

 

 だが、版木なら違う。

 

 一度彫れば、同じものを何枚でも刷れる。

 

「術を覚えた者が、別の土地で誰かへ教える。そのときに同じものを使えば、教え方も揃う」

 

「お前が全部教えるわけではないのか」

 

「無理だ」

 

「珍しく素直だな」

 

「私一人では限界がある」

 

 平坂が清弦を見る。

 

 その言葉を、この若者の口から聞く日が来るとは思わなかった。

 

「……変わったな、お前」

 

「最近そればかり言われる」

 

「で、肝心の杖はどうする」

 

 平坂は作業台の神代榊を見た。

 

「こいつを使う術なんだろう」

 

「杖を使う術だ」

 

「同じことではないのか」

 

「違う」

 

 清弦は神代榊を手に取った。

 

「これと同じ杖を作る必要はない」

 

「神代榊でなくてもいいのか」

 

「ああ」

 

「鬼火鳥の尾羽も?」

 

「必要ない」

 

 横浜で出会った外国人たちの杖は、それぞれ違っていた。木の種類も、長さも、芯も違う。けれど、同じ呪文を使っていた。

 

「この杖は特別だ」

 

 清弦は手元の神代榊を見つめた。

 

 炎を思わせる彫刻。

 

 黒に近い木肌。

 

 握ったときの、不思議な温かさ。

 

 自分が生まれるより遥か昔から立つ大樹と、そこへ帰ってくる鬼火鳥。その両方から生まれた、たった一本の杖だった。

 

「もう一本、作れとは言わんのか」

 

 平坂が訊いた。

 

「言わん」

 

「前は随分と急がせたがな」

 

「あのときは必要だった」

 

「今は?」

 

「必要ない」

 

 清弦は杖を作業台へ戻した。

 

「同じものを作らなくても、魔法は教えられる」

 

 平坂はしばらく黙っていた。

 

 それから、ふっと笑った。

 

「そうか」

 

「ああ」

 

「なら、俺の仕事は杖ではなく、版木だな」

 

「そうだ」

 

「何枚作る」

 

「まずは一枚」

 

「一枚?」

 

「ああ。うまくいったら増やす」

 

「珍しいな」

 

「何が」

 

「お前が、最初から全部やろうとしない」

 

「…………」

 

「未来人は随分と妙なものを残していったらしい」

 

 清弦は答えなかった。

 

 残す。書く。教える。

 

 そして、教えた者が、また別の誰かへ教える。

 

 あの巨大妖魔との戦いで、清弦は知った。一人でできることには限りがある。自分だけが知っている術、自分だけができること。それを誇ることと、抱え込むことは違う。

 

 自分がいなくなっても残るものを作る。

 

 その意味を、清弦はようやく少し理解し始めていた。

 

     *

 

 その日の夕方、清弦は鈴を神代榊の下へ呼び出した。

 

「急に呼ぶなんて珍しいね」

 

 鈴が近づいてくる。

 

「ああ」

 

「何かあった?」

 

「ある」

 

「何?」

 

 清弦は黙った。

 

「清弦?」

 

「少し待て」

 

「うん」

 

「…………」

 

「どれくらい?」

 

「黙っていろ」

 

「何で怒られるの」

 

「怒っていない」

 

 鈴は不思議そうに首を傾げた。清弦は困っていた。妖魔と向かい合う方が、まだ簡単だった。巨大な怪物なら倒せばいい。霊脈が乱れているなら原因を探せばいい。術なら考えればいい。

 

 だが今は、何をどう言えばいいのか分からない。

 

 あいつなら何と言う。

 

 清弦は一瞬だけ考えた。

 

 ――行け。言え。何か言え。

 

 思い出しただけで腹が立った。

 

「どうしたの?」

 

「何でもない」

 

「何でもない顔じゃないよ」

 

「鈴」

 

「うん」

 

「私は」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 鈴は急かさず、ただ待っていた。昔からそうだった。清弦が熱を出しても、怪我をしても、無茶をしても、怒りながら、呆れながら、それでも最後まで隣にいた。あの呪いを自分へ移そうとしたときも、清弦より先に死のうとした。

 

 清弦の手に力が入る。

 

「私は、お前と暮らしたい」

 

 鈴の目が止まった。

 

「これからも。同じ家で、飯を食って……」

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「続き」

 

「分かるだろう」

 

「ちゃんと言って」

 

「なぜ」

 

「言って」

 

 逃げられない。巨大妖魔より厄介だった。

 

 清弦は一度目を閉じ、それから覚悟を決めた。

 

「私の妻になってくれ」

 

 鈴は何も言わなかった。清弦の顔が少しずつ険しくなる。

 

「……鈴」

 

「待って」

 

「嫌なら」

 

「違う」

 

「なら」

 

「今」

 

 鈴が顔を覆った。

 

「ちょっと待って」

 

「何だ」

 

「顔を見ないで」

 

「なぜだ」

 

「清弦。こういうときくらい分かって」

 

「分からん」

 

「もう」

 

 声が震えていた。泣いているのかと思ったが、違った。笑っている。

 

 鈴が手を下ろす。頬が真っ赤だった。

 

「……はい」

 

 清弦は動かなかった。

 

「清弦?」

 

「今、何と言った」

 

「聞こえなかった?」

 

「聞こえた」

 

「なら訊かないで」

 

「いや」

 

 清弦の口元が、少しだけ上がる。

 

「もう一度言え」

 

「嫌」

 

「なぜだ」

 

「恥ずかしいから」

 

「私には言わせた」

 

「それはそれ」

 

「何が違う」

 

「違うの」

 

「分からん」

 

「分からなくていい」

 

「よくない」

 

「じゃあ」

 

 鈴は笑った。

 

「一生かけて分かって」

 

 清弦が黙る。

 

「何?」

 

「いや」

 

「何か言って」

 

「分かった」

 

「それだけ?」

 

「何がだ」

 

「清弦らしいけど」

 

 鈴は笑った。

 

 その顔を見て、清弦はふと、百五十年先へ消えた青年を思い出した。余計なことばかり言う。うるさい。無茶をする。何度も腹が立った。最後まで腹が立った。

 

 それでも。

 

「……奎星」

 

 清弦が小さく呟く。

 

「何?」

 

「何でもない」

 

「また?」

 

「ああ」

 

 空の高いところを、鬼火鳥が飛んでいた。未来へ帰ったあの男がこれを見たら、きっと馬鹿みたいに騒ぐ。清弦はそう思った。

 

     *

 

 数か月が過ぎ、季節が変わった。小萱村の山々は濃い緑から少しずつ色を変え、朝晩の空気にも冷たさが混じるようになっている。村そのものは変わらない。畑があり、薪を割り、子供が走り、鬼火鳥が神代榊へ戻る。

 

 ただ、清弦の家には以前より物が増えていた。

 

「また増えた」

 

 鈴が机の上を見て言う。

 

「必要だ」

 

「昨日も同じこと言ってた」

 

「昨日より増えたからな」

 

「だから言ってるの」

 

 机の上には、清弦の手記が積み上がっている。古代魔術、霊脈、常世返し、封印、鬼火鳥、妖魔、神代榊、そして新しい魔法。

 

 その横には、刷り上がったばかりの紙が何十枚も重ねられていた。

 

「これ、また刷ったの?」

 

「ああ」

 

「昨日も刷ってたでしょう」

 

「間違いがあった」

 

「どこ?」

 

「呪文の横だ」

 

 鈴が紙を一枚取る。

 

 そこには杖を持った手の絵があり、横に細い線と矢印が描かれていた。

 

「……これ、何?」

 

「杖の動きだ」

 

「前も聞いたけど、手が増えてるよ」

 

「動きを重ねている」

 

「怖い」

 

「平坂にも言われた」

 

「じゃあ直した方がいいんじゃない?」

 

「今度は二本に減らした」

 

「まだ多いよ」

 

 清弦は黙った。

 

 平坂の家では、版木を使った手引き作りが続いていた。

 

 最初は文字だけだった。だが、それでは術を知らない者には分かりにくい。次に杖の動きを描いた。しかし、絵だけでは力を入れる順番が伝わらなかった。呪文の発音も、文字へ置き換えると人によって違う音になる。

 

 分からないことばかりだった。

 

 しかも、刷れば何でも広めていいわけではない。

 

 危険な術は分けて記録し、初歩の呪文だけを手引きに載せる。魔法を使える者へ教えるための資料であって、村中へ無闇に配るものでもない。

 

 それでも、一枚ずつ形になっていた。

 

「これ、誰が読むの?」

 

 鈴が訊く。

 

「知らん」

 

「知らないの?」

 

「今はな」

 

「奎星さんの未来では読まれてるのかな」

 

 清弦の筆が止まった。

 

「……かもしれん」

 

「だったら字、綺麗に書いた方がいいよ」

 

「読める」

 

「私は清弦の字に慣れてるから」

 

「十分だ」

 

「未来の人が困る」

 

「困ればいい」

 

「何で」

 

「少しは苦労しろ」

 

「誰に怒ってるの」

 

「未来」

 

「大きいね」

 

 鈴が笑った。

 

 そのとき、外で馬の声がした。清弦が顔を上げると、続いて人の声が聞こえてくる。

 

「清弦!」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 家を出ると、村の入口に数頭の馬が止まっていた。先頭にいた男が手を上げる。

 

「久しぶりだな」

 

「高瀬」

 

「ああ」

 

 高瀬だった。以前より少し日焼けしている。その後ろには、さらに数人の外国人がいた。

 

「SEIGEN!」

 

 大きな声が飛び、清弦の顔が僅かに引きつる。

 

「……ジェームズ」

 

「覚えてんじゃねえか」

 

 高瀬が笑った。

 

 ジェームズ、ウィリアム、トーマス。以前、巨大妖魔との戦いを共にした外国人の魔法使いたちだった。あの日より怪我は消え、服装も整っている。荷物も多い。

 

「何しに来た」

 

「いきなりそれか」

 

「用があるから来たんだろう」

 

「まあな」

 

 高瀬は馬から降りた。

 

「お前に会いたいってさ」

 

「なぜ」

 

「それを今から訳す」

 

 ジェームズが何か話す。清弦が高瀬を見る。

 

「何と言った」

 

「久しぶりだ。相変わらず愛想が悪いな」

 

「後半はいらんだろう」

 

「言った通り訳した」

 

「本当に言ったのか」

 

「本当」

 

 ジェームズが笑っている。

 

「あと」

 

 高瀬が続けた。

 

「魔法の話がしたいらしい」

 

 清弦の表情が変わった。

 

「魔法?」

 

「ああ」

 

 ウィリアムが荷物の一つを開く。中には数本の杖、紙、本、見たことのない図、術式、英字が入っていた。

 

「向こうも、お前の術が気になるんだと」

 

「私の?」

 

「霊脈を使った術。妖魔を封じたやり方。あと常世返し」

 

「常世返しは見せていない」

 

「奎星から聞いた」

 

「…………」

 

「未来人、よく喋るからな」

 

「百五十年先へ帰ってまで腹が立つな」

 

 高瀬が笑う。

 

「で」

 

 彼は持ってきた本を一冊取った。

 

「こっちも教えるって」

 

「何を」

 

「杖の使い方。呪文。魔法陣。魔力の通し方。向こうでどう教えているか」

 

 清弦は本を見た。

 

 表紙には知らない文字が並んでいた。中を開くと、杖を持った手の図、短い呪文、細かな説明が記されている。

 

 自分が作ろうとしているものと、よく似ていた。

 

「……これは」

 

「向こうで使ってる魔法の手引きだとさ」

 

「誰が書いた」

 

「それを今から聞く」

 

 高瀬が訊くと、ジェームズが何か答えた。

 

「一人じゃないらしい」

 

「何?」

 

「何人もの魔法使いが、少しずつ直してきたんだってさ。昔から使われてる呪文もあるし、新しく加えられたものもある」

 

 清弦は頁をめくった。

 

 同じ呪文に対して、いくつもの注意書きがある。初心者が間違えやすいところ。杖を振る角度。魔力を流す時機。失敗した場合に起こる現象。

 

 ただ術式を記したものではない。

 

 人へ教えるための本だった。

 

「……なるほど」

 

 清弦が呟く。

 

 高瀬が首を傾げた。

 

「何だ?」

 

「少し分かった」

 

「何が」

 

「私の手引きに足りないものだ」

 

「手引き?」

 

 清弦は懐から紙を一枚取り出した。

 

「これだ」

 

 高瀬が受け取る。

 

「…………」

 

「何だ」

 

「お前、何やってんの?」

 

「見れば分かるだろう」

 

「いや、だから」

 

 高瀬は紙を裏返し、また表へ戻した。

 

「これ、全部お前が?」

 

「ああ」

 

「印刷したのか?」

 

「平坂が版木を作った」

 

「へえ……」

 

 高瀬の表情が変わった。

 

 ジェームズたちも興味を持ったらしい。紙を覗き込み、何かを話し始める。

 

「何と言っている」

 

「見たいって」

 

「何を」

 

「他の頁も」

 

 清弦は一度だけ頷いた。

 

「家にある」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「じゃ、見せてくれ」

 

「その代わり」

 

 清弦は外国人たちの持ってきた本を見る。

 

「そちらも全部見せろ」

 

 高瀬が笑った。

 

「欲張りだな」

 

「最近よく言われる」

 

「誰に」

 

「老人」

 

「誰だよ」

 

 清弦は答えなかった。

 

     *

 

 平坂の納屋は、たちまち人でいっぱいになった。

 

 清弦が手記を広げ、高瀬が訳し、ジェームズたちが自分たちの本を並べる。平坂は最初こそ邪魔そうにしていたが、外国の杖や印刷された図を見せられると、いつの間にか作業台の一番近くへ座っていた。

 

「この線は何だ」

 

 平坂が訊く。

 

 高瀬がジェームズへ訊く。

 

 ジェームズが答える。

 

「杖の動かし方だとさ」

 

「こっちは?」

 

「魔力を流し始めるところ」

 

「なるほどな」

 

 平坂が清弦を見る。

 

「お前の絵より分かりやすいぞ」

 

「…………」

 

「手も二本しかない」

 

「もういい」

 

 鈴が笑った。

 

 高瀬は清弦の手引きを一枚めくった。

 

「でも、これ面白いな」

 

「何が」

 

「こっちは、呪文を覚える前に魔力の流れを説明してる」

 

「当然だろう」

 

「いや、向こうじゃ順番が違うらしい」

 

 ジェームズが何か話し、高瀬が訳す。

 

「まず簡単な呪文で感覚を覚えさせて、それから理屈を教えることも多いんだと」

 

「理屈を知らずに使うのか」

 

「使いながら覚えるんだろ」

 

「危険だ」

 

「だから簡単な術から教えるんだよ」

 

 清弦は黙った。

 

 たしかに、奎星もそうだった。

 

 あの男は術式の理屈をほとんど知らなかった。それでも杖を振り、プロテゴを使い、デパルソを使い、何度も清弦を驚かせた。

 

 もっとも、あいつの場合は理屈以外にも問題があったが。

 

「……そうか」

 

 清弦が呟く。

 

 高瀬が顔を上げた。

 

「何?」

 

「いや」

 

「納得したのか?」

 

「ああ」

 

「珍しいな」

 

「何が」

 

「お前が人の話を素直に聞くなんて」

 

「帰れ」

 

「まだ来たばっかりだろ!」

 

 ジェームズたちが笑った。

 

 しばらくして、高瀬は清弦の手引きを机へ並べ直した。

 

「なあ、これ」

 

「何だ」

 

「横浜に持って帰っていいか?」

 

 清弦の目が動く。

 

「なぜ」

 

「向こうにも、こういうの欲しがる奴がいると思うんだよ」

 

「……そうか」

 

「日本の術を学びたいって奴もいるし、逆に外国の魔法を教えようとしてる奴もいる。でも、言葉が違うから面倒でさ」

 

 高瀬は手引きの一枚を指した。

 

「図があれば少しは分かるだろ。あと呪文の読み方を書いておけば、俺がいなくても多少は練習できる」

 

「多少か」

 

「全部できるわけないだろ」

 

「役に立たんな」

 

「お前なあ!」

 

 清弦は少し考えた。

 

「高瀬」

 

「何だ」

 

「持っていけ」

 

「いいのか?」

 

「ああ」

 

「助かる」

 

「ただし」

 

 高瀬が止まる。

 

「何だ」

 

「渡す相手は選べ。危険な術は入れていないが、魔法を知らん者にまで見せるものではない」

 

「分かってる」

 

「それから」

 

「まだあるのか」

 

「間違いを見つけたら知らせろ」

 

「間違い?」

 

「術の動きでも、言葉でも、教え方でもいい。直す」

 

 高瀬は少しだけ驚いた顔をした。

 

「……お前が?」

 

「ああ」

 

「人に間違い指摘されるの、嫌いだろ」

 

「好きではない」

 

「じゃあ何で」

 

 清弦は一度、紙の束へ視線を落とした。

 

「間違ったまま残す方が嫌だ」

 

 高瀬が黙る。

 

 清弦は続けた。

 

「私が知っていることだけでは足りん。あいつも、そうだった」

 

「あいつ?」

 

「奎星だ」

 

 高瀬の表情が少し変わった。

 

「……ああ」

 

「あいつは、知らないことを知らないと言えた」

 

「それは結構言ってたな」

 

「言いすぎだったが」

 

「そうだな」

 

「だが、知らなければ訊いた。使えるものがあれば使った。間違えれば、次は違うやり方を試した」

 

 清弦は紙を揃えた。

 

「残すものなら、そうあるべきだ」

 

 高瀬はしばらく黙っていた。

 

 それから、笑った。

 

「お前、本当に変わったな」

 

「最近そればかり言われる」

 

「誰のせいだろうな」

 

「知らん」

 

 知っていた。

 

     *

 

 その日の午後、神代榊の下にいくつもの人影が並んだ。

 

 清弦、高瀬、ジェームズ、ウィリアム、トーマス、平坂、鈴、そして興味を持った村人たちである。

 

 地面には二種類の道具が置かれていた。

 

 一つは紙札と古い術具。

 

 もう一つは、外国人たちが持ってきた杖だった。

 

 さらに、その横には清弦の手引きが並んでいる。

 

「まず」

 

 高瀬が言う。

 

「ジェームズが簡単な盾の魔法を見せる」

 

「プロテゴか」

 

 ジェームズが驚いた。

 

「PROTEGO?」

 

「ああ」

 

 清弦が答える。

 

 ジェームズが笑った。

 

「奎星から習った」

 

「訳したぞ」

 

「余計だ」

 

「必要だろ」

 

 ジェームズが杖を上げる。

 

「PROTEGO」

 

 薄い光の盾が現れ、村人たちからどよめきが上がった。

 

「速い」

 

 清弦が言う。

 

「印がない」

 

「ああ」

 

 高瀬が訳しながら答える。

 

「杖の動きと呪文で、ある程度決まった形の術をすぐ出せる」

 

「誰でも?」

 

「そこは力量次第」

 

「術式を知らなくても?」

 

「練習はいる」

 

「だが、同じ言葉を使う」

 

「そう」

 

 清弦は光の盾を見つめた。

 

「人へ教えやすい」

 

 高瀬が清弦を見る。

 

「そこか」

 

「ああ」

 

 違う杖を持つ者でも、同じ呪文を学べる。同じ基本動作を練習できる。魔力の強さや適性によって結果は変わるが、少なくとも教えるための共通の手順がある。

 

 誰か一人しか知らない秘術ではない。

 

 習えば次へ渡せる。

 

 広げられる。

 

「今度は?」

 

 高瀬が訊く。

 

 清弦は前へ出て、紙札を一枚置いた。両手で印を結ぶ。

 

「簡単なものだ」

 

「それ、奎星も言ってたけど、お前らの簡単は信用できねえんだよな」

 

「黙って見ろ」

 

 指先から青白い光が落ち、土の上へ線が走った。円が描かれ、その内側へ細い文字が浮かび上がる。

 

 村人たちが息を呑み、外国人たちも表情を変えた。

 

「これは、土地に残る魔力を読む」

 

 清弦が言う。

 

 高瀬が訳す。

 

「今いる場所で、どちらへ力が流れているか。どこに溜まっているか。どこが弱っているか」

 

 ジェームズが質問する。

 

「何だ」

 

「杖ではできないのかって」

 

 清弦は少し考えた。

 

「できるかもしれん」

 

「…………」

 

「何だ」

 

「いや」

 

「訳せ」

 

 高瀬が笑った。

 

「それを一緒に試すんだろ」

 

 清弦は黙った。それから、口元をほんの少しだけ上げる。

 

「ああ」

 

 新しい魔法と古い魔法。

 

 どちらか一つではない。

 

 杖を使えば、術を早く出せる。古い術を使えば、土地や霊脈そのものへ触れられる。ならば、組み合わせればいい。

 

 もっとも、すべてを同じ方法で扱えるわけではない。常世返しのように、土地や術者の知識へ深く依存するものもある。逆に、短い呪文と決まった動きで十分な術もある。

 

 大切なのは、何を使うかではない。

 

 何ができて、何ができないのかを知ることだった。

 

「高瀬」

 

「何だ」

 

「さっきの紙を持ってこい」

 

「どれ?」

 

「プロテゴの手引きだ」

 

 高瀬が紙を一枚取ってきた。

 

 清弦はそれをジェームズへ見せる。

 

「これで、もう一度やってくれ」

 

 高瀬が訳した。

 

 ジェームズは紙を覗き込んだあと、頷いた。

 

「PROTEGO」

 

 再び盾が現れる。

 

 清弦は紙を指差した。

 

「ここだ」

 

「何が」

 

「杖を動かすところが違う」

 

「絵が?」

 

「ああ」

 

 清弦は墨を取り、手引きに描かれた線を一本消した。

 

 別の角度へ描き直す。

 

「これならどうだ」

 

 ジェームズがもう一度紙を見た。

 

 何かを言う。

 

「合ってるって」

 

 高瀬が訳した。

 

「そうか」

 

 清弦は頷いた。

 

「平坂」

 

「何だ」

 

「版木を直してくれ」

 

「またか」

 

「ああ」

 

「昨日も直したぞ」

 

「今日も頼む」

 

「明日もか」

 

「必要なら」

 

 平坂は大きく息を吐いた。

 

「……本当に手のかかる奴だ」

 

 村人たちが笑った。

 

 清弦は気にしなかった。

 

 たった一本の線。

 

 それを直すだけで、次に学ぶ者は同じ間違いをしなくて済む。

 

 十人に教えれば、十人が同じ説明を聞く。

 

 その十人がまた別の十人へ教えれば、百人になる。

 

 百人がそれぞれ別の土地へ帰れば、その場所にも魔法を学ぶ者が生まれる。

 

 清弦は紙を見つめた。

 

 自分がすべての土地へ行く必要はない。

 

 自分がすべての人間へ教える必要もない。

 

 教えたものが残ればいい。

 

 そして、いつか自分の知らない誰かが、それをさらに良くしてくれればいい。

 

「……なるほどな」

 

 清弦が呟いた。

 

「何が?」

 

 高瀬が訊く。

 

「いや」

 

「また一人で納得してる」

 

「少し分かった」

 

「何を」

 

「教えるということだ」

 

 高瀬は一度、清弦を見た。

 

 それから、笑った。

 

「お前が先生か」

 

「何だ」

 

「いや、似合わねえなって」

 

「貴様」

 

「絶対怖いだろ」

 

「何が」

 

「間違えたら怒るだろうし」

 

「当然だ」

 

「ほら」

 

「間違えたままでは危険だ」

 

「そうだけどさ」

 

 ジェームズが何か言った。

 

「何だ」

 

「『俺が教えるから大丈夫だ』って」

 

「誰が」

 

「ジェームズが」

 

 清弦は少しだけ眉を寄せた。

 

「なら最初からそうしろ」

 

「言い方!」

 

 笑いが起きた。

 

 ジェームズが持っていた紙を地面へ広げ、清弦の手記もその横へ置く。高瀬が二人の間に座った。

 

「じゃ」

 

「何だ」

 

「まず言葉からだな」

 

「言葉?」

 

「お互い何言ってるか分からん」

 

「お前がいる」

 

「俺、ずっといる前提?」

 

「違うのか」

 

「仕事あるんだけど」

 

「なら覚えろ」

 

「誰が」

 

「私が」

 

「英語を?」

 

「ああ」

 

 高瀬が清弦を見る。

 

「本気?」

 

「必要だろう」

 

「…………」

 

「何だ」

 

「いや」

 

 高瀬は少し笑った。

 

「お前、本当に変わったな」

 

 清弦の眉が寄る。

 

「最近、そればかり言われる」

 

「誰のせいだろうな」

 

「知らん」

 

 知っていた。

 

 うるさい男だった。百五十年先から来て、勝手に村へ入り込み、勝手に自分の家へ泊まり、勝手に戦い、勝手に友人を増やし、勝手に未来へ帰った。

 

 だが、その男が持ってきたものは、未来の道具だけではなかった。

 

 一人でやらなくていいという考え。知らないものを使ってもいいという考え。古いものを捨てなくてもいいという考え。人へ残すという考え。そして、違う者同士でも一緒に戦えるという事実。

 

「清弦」

 

 鈴が呼ぶ。

 

「何だ」

 

「また難しい顔してる」

 

「考えている」

 

「何を」

 

 清弦は目の前を見た。

 

 外国人たち、高瀬、平坂、村の子供たち。杖、古い札、新しい呪文、刷り上がった手引き。

 

 そして、巨大な神代榊。

 

 その枝の上では、鬼火鳥が青白い炎を揺らしている。

 

「先のことだ」

 

「未来?」

 

「……まあな」

 

 百五十年後、自分の名が残っていることを清弦は知らない。

 

 蓮根清弦という人間が、やがて近代魔法史の重要人物と呼ばれることも、外国から入ってきた杖と呪文による魔法を学び、それを日本各地へ伝える一人になることも。

 

 古代魔術を捨てずに記録へ残したことが、百五十年以上先で一人の魔法史教師を喜ばせることも、自分が書いた手記をあの少年が読む日が来ることも。

 

 そして、自分が今手にしている神代榊の杖が、長い年月を経て、再びあの少年の手へ渡ることも。

 

 何も知らない。

 

 知らなくてよかった。

 

 未来とは、本来そういうものだった。見えない。分からない。保証もない。それでも、自分が今できることを残していく。

 

「高瀬」

 

「ん?」

 

「これは何と言う」

 

 清弦が英字を指差す。

 

「STUPEFY」

 

「……すちゅう……」

 

「違う」

 

「まだ言っていない」

 

「絶対違う」

 

「貴様」

 

 ジェームズが笑う。

 

「STUPEFY」

 

「すてゅ……ぺふぁい」

 

「STUPEFY」

 

「同じだろう」

 

「全然違う」

 

「面倒だな」

 

「諦めるの早い!」

 

 鈴が口元を押さえて笑っている。清弦はもう一度紙を見る。

 

「……すてゅーぺふぁい」

 

 作業台の上に置いていた神代榊の杖を手に取ると、高瀬の顔が変わった。

 

「待て」

 

「何だ」

 

「誰に撃つ気だ」

 

「お前」

 

「何で!?」

 

「動く人間の方が分かりやすい」

 

「藁人形使え!」

 

「逃げるな」

 

「逃げるわ!」

 

 高瀬が走り、清弦が追う。外国人たちが笑い、村人も笑い、鈴も笑った。

 

 神代榊の上から、鬼火鳥たちが一斉に飛び立つ。青白い炎が、夕方の空へ散っていった。

 

 小さな村だった。

 

 名も知られない山間の村。

 

 そこで作られた一枚の手引きが、やがて横浜へ渡る。新しい呪文の訳し方が加えられ、間違った図が直され、別の土地の魔法使いが自分の知識を書き足していく。

 

 それを読んだ者が誰かへ教え、教わった者がまた別の誰かへ教える。

 

 やがて、その積み重ねが国中へ広がっていくことを、このときはまだ誰も知らない。

 

 古い術と、新しい魔法。

 

 日本と、海の向こう。

 

 過去と、未来。

 

 違う場所から来たものが、少しずつ同じ道へ繋がっていく。

 

 百五十年後、魔法学校の教室で、ごく当たり前のように杖を振る子供たちがいる。教師が呪文を教え、生徒が失敗し、何度もやり直し、いつかできるようになる。

 

 その当たり前を作った者たちの中に、蓮根清弦という一人の頑固な魔法使いがいた。

 

 彼は、特別な杖を何本も残したわけではない。

 

 たった一本の杖と、いくつもの術と、誰かへ教えようとした記録を残した。

 

 そして、その背中を一度だけ、未来から来た少年が押していた。

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