マホウトコロ   作:西野圭吾

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最終話 第七番所

 

 蓮根奎星は、生きていた。

 

 正確に言えば、斎賀玄弥の新人研修を生き延びていた。

 

「終わったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「うるせえ!」

 

 日本魔法省魔法法執行局本局、新人研修棟の廊下に奎星の声が響き渡った。扉から出てきた職員が一瞬こちらを振り返り、別の部屋にいた新人たちまで顔を覗かせる。それでも奎星は構わず、両腕を天井へ突き上げた。

 

「自由だ!!」

 

「まだ勤務時間中だ」

 

「自由じゃなかった!」

 

「最終日に始末書を書かせるぞ」

 

「終わったあとに!?」

 

「明日提出」

 

「配属初日に!?」

 

「向こうの上司へ送っとく」

 

「やめろ!」

 

 その横を、桐生蒼真が疲れ切った顔で歩いていく。

 

「……ほんまに終わったんか?」

 

「終わった!」

 

「また明日、六時半集合とかないよな?」

 

「ない!」

 

「斎賀さん」

 

 蒼真が振り返る。

 

「ほんまに?」

 

「あ?」

 

「ほんまに明日、集合ないんすよね?」

 

「ねえよ」

 

「……よかった」

 

 心の底から絞り出したような声だった。

 

 宮本侑李も壁へ背中を預け、力なく息を吐いている。

 

「二か月前の僕なら、朝六時半って聞いても何とも思わなかったのに」

 

「何で?」

 

「今は怖い」

 

「分かる」

 

「お前ら、俺を何だと思ってんだ」

 

 斎賀が言うと、三人は顔を見合わせ、ほとんど同時に答えた。

 

「鬼」

 

「鬼やな」

 

「鬼ですね」

 

「よし、お前ら外周十周」

 

「終わったって言ったじゃん!」

 

「口答えしたから十五」

 

「増えた!」

 

「嘘だ」

 

 三人の動きがぴたりと止まる。斎賀はそんな彼らを見て、ようやく少しだけ笑った。

 

「最後くらい安心しろよ」

 

「笑えねえんだよ!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 それでも、斎賀の言った通りだった。新人研修は、今日で終わる。

 

 法規、捜査、拘束、記録、魔法犯罪現場への対応、一般社会との接触、秘匿措置、魔法生物、救助、そして報告書。報告書。報告書。そこへ斎賀の訓練が加わり、何度走らされたのか、何度魔法を撃たれたのか、何度「考えろ」と言われたのか、もう誰にも分からない。

 

 初日は敵しか見えていなかった。二週目には怪我人を見るようになり、三週目には逃げ道を見るようになった。四週目には、味方へ仕事を任せることを覚えた。それでも失敗はした。判断を間違え、報告を忘れ、一般人役を一人置き去りにし、犯人役の斎賀を追いかけすぎたこともあれば、慎重になりすぎて取り逃がしたこともある。

 

 そのたびに斎賀は言った。

 

 失敗しろ。今のうちに。本物の現場へ出る前に。

 

「明日から」

 

 斎賀が言うと、三人は顔を上げた。

 

「俺はもう、お前らの教官じゃねえ」

 

 ほんの少しだけ、廊下が静かになった。

 

「……マジ?」

 

 奎星が訊く。

 

「マジ」

 

「もう走らなくていい?」

 

「必要なら向こうで走らされる」

 

「反省文は?」

 

「必要なら向こうで書かされる」

 

「魔法撃たれない?」

 

「それは現場次第」

 

「何も安心できねえ」

 

「仕事だからな」

 

 斎賀は壁から背中を離し、奎星、蒼真、侑李の三人を順番に見た。

 

「ここでやったのは練習だ。明日から先は、お前らが判断しろ」

 

 誰もすぐには返事をしなかった。

 

「俺が後ろから止めてやれると思うな。分からなきゃ聞け。無理なら下がれ。仲間を使え。勝手に英雄になるな」

 

 奎星の目がわずかに動く。斎賀はそれを見逃さなかった。

 

「特にお前」

 

「俺?」

 

「他に誰がいる」

 

「蒼真とか」

 

「巻き込むなや」

 

「宮本」

 

「僕?」

 

「お前も自分から怪我人になりに行くな」

 

「はい」

 

「桐生」

 

「はい」

 

「全部背負うな」

 

「……はい」

 

 斎賀は三人を見渡した。

 

「以上」

 

「短っ」

 

「もう教えることねえからな」

 

「全部覚えたってこと?」

 

「違う」

 

「違うの?」

 

「ここから覚えろってことだ」

 

 斎賀はそう言って、ほんの少しだけ笑った。

 

「行ってこい、新人」

 

     *

 

 翌朝、新人たちは日本魔法省魔法法執行局本局の大講堂へ集められていた。入局式のときにも使った場所だったが、あの日と違うのは、全員の顔からほんの少しだけ緊張が抜け、その代わりに、ほんの少しだけ疲れが滲んでいることだった。

 

「蓮根」

 

「何」

 

「寝癖」

 

 侑李が言う。

 

「ない」

 

「ある」

 

「どこ」

 

「右」

 

 奎星が頭へ手をやるが、自分では分からない。侑李が手を伸ばしかけると、奎星はすぐに身を引いた。

 

「直そうか?」

 

「何でお前が」

 

「親友だから」

 

「違う」

 

「研修を共に乗り越えた仲じゃん」

 

「同期」

 

「親友でもある」

 

「ない」

 

「照れなくていいよ」

 

「照れてねえ!」

 

「静かにせえ」

 

 前に座っていた蒼真が振り返った。

 

「局長来るで」

 

「あ」

 

 大講堂の空気が変わった。前方の扉が開き、魔法法執行局長が数人の幹部職員とともに入ってくる。全員が立ち上がり、奎星も慌てて姿勢を正した。

 

 壇上へ上がった局長は、新人たちを見回した。

 

「着席」

 

 椅子が一斉に鳴る。局長の手元には、一冊の分厚い名簿があった。

 

「初任研修、ご苦労だった。本日をもって、諸君らの本局における初任研修を終了する」

 

 奎星の口元が少し上がる。

 

「長かった」

 

「声出てるで」

 

「小声」

 

「聞こえとる」

 

 局長は構わず続けた。

 

「これより、各員の配属を申し渡す」

 

 空気が変わった。奎星も前を向く。

 

 これまでは全員が同じ場所にいた。同じ本局、同じ研修棟、同じ教官、同じ新人。しかし、ここからは違う。

 

「呼名された者は起立」

 

「はい」

 

 最初の名前が呼ばれる。北海道、九州、東北、大阪、名古屋、出雲。全国各地の地域法執行所へ、一人ずつ新人たちの行き先が決まっていく。さっきまで隣にいた人間が、来週には何百キロも離れた土地で働くことになる。

 

「桐生蒼真」

 

「はい」

 

 蒼真が立つ。

 

「京都第三地域法執行所」

 

「はい!」

 

 奎星が小さく拳を上げた。

 

「京都じゃん」

 

「せやな」

 

「地元?」

 

「近いっちゃ近いな」

 

「よかったじゃん」

 

「お前、まだ呼ばれてへんやろ。前向け」

 

「はい」

 

 蒼真が座る。奎星は少し笑った。

 

 京都。防御、指揮、周囲を見る力。蒼真には似合っている気がした。きっと向こうでも、面倒くさいくらい人の動きを気にするのだろう。

 

「宮本侑李」

 

「はい!」

 

 侑李が立つ。

 

「東京第七地域法執行所」

 

「はい!」

 

 奎星が顔を上げた。

 

「東京?」

 

 侑李が座る。

 

「東京だ」

 

「そうだね」

 

「俺も東京がいい」

 

「一緒だといいね」

 

「何で?」

 

「親友だから」

 

「それは関係ねえ」

 

「蓮根奎星」

 

「はい!」

 

 奎星が勢いよく立つ。局長が名簿へ視線を落とした。

 

「東京第七地域法執行所」

 

「…………」

 

 一秒ほど遅れて、奎星が首を傾げる。

 

「え?」

 

「蓮根」

 

「あ、はい!」

 

「東京第七地域法執行所」

 

「はい!」

 

 奎星が座ると、すぐに隣を見た。侑李もこちらを見ている。

 

「一緒じゃん」

 

「一緒だね」

 

「マジ?」

 

「マジ」

 

 侑李の顔が明るくなる。

 

「ワクワクするね、奎星!」

 

「何でお前が一番嬉しそうなんだよ」

 

「親友と同じ職場!」

 

「だから違うって!」

 

「静粛に」

 

 局長の声が飛ぶ。

 

「すみません!」

 

 奎星が前を向く。数秒後、また隣へ顔を向けた。

 

「第七って何?」

 

「知らない」

 

「七個あんの?」

 

「東京ならそれくらいあるんじゃない?」

 

「多くね?」

 

「人口多いし」

 

「魔法使いも?」

 

「そこは知らない」

 

 前の列から蒼真が小声で言った。

 

「お前ら、もう怒られとるぞ」

 

「配属前から」

 

「縁起悪いね」

 

「お前楽しそうだな」

 

「うん」

 

 配属発表が終わると、局長は名簿を閉じた。

 

「以上」

 

 新人たちが前を向く。

 

「地域法執行所は、本局とは違う。大規模な事件だけを追う場所ではない。地域住民からの相談、魔法生物の出没、違法魔法具、小規模な結界事故、一般社会への魔法露見、迷子、喧嘩、盗難」

 

 奎星の眉が少し上がる。

 

「事件と呼べるか分からないような仕事もある」

 

「……ほんとに交番じゃん」

 

「蓮根」

 

「はい!」

 

 局長が奎星を見る。

 

「聞こえている」

 

「すみません!」

 

 周囲から笑いが漏れた。局長もわずかに息を吐く。

 

「だが、間違ってはいない」

 

「え」

 

「ものすごく雑に言えばな」

 

 今度は講堂全体に笑いが広がった。

 

「地域で最初に呼ばれる者になれ」

 

 笑いが止まる。

 

「事件が起きたとき。困った者が出たとき。何かがおかしいと感じたとき。住民が最初に思い浮かべる禍祓官になれ」

 

 奎星は黙って聞いていた。

 

「諸君らは今日から、研修員ではない」

 

 局長が新人たちを見渡す。

 

「一人の禍祓官だ」

 

 その言葉だけが、少し長く残った。

 

     *

 

 解散後、三人は本局の中央広間にいた。蒼真は配属関係の書類を何枚も抱えている。

 

「京都、来週からや」

 

「早」

 

「お前らもやろ」

 

「俺らも来週」

 

 侑李が自分の配属通知を見下ろす。

 

「東京第七地域法執行所」

 

「名前長え」

 

「通称あるみたいだよ」

 

「何?」

 

「第七番所」

 

 奎星が止まった。

 

「番所?」

 

「昔の呼び方が残ってるらしい」

 

「カッコいい!」

 

「そこ?」

 

「第七番所! めっちゃ現場っぽい!」

 

「単純やなあ」

 

 蒼真が呆れる。

 

「何か書いてない?」

 

 奎星が侑李の資料を覗き込む。

 

「職員数はそんなに多くないね」

 

「何人?」

 

「二十人前後」

 

「少な」

 

「地域所なら普通なんじゃない?」

 

「所長誰?」

 

「そこまでは」

 

「有名な人?」

 

「知らない」

 

「強い?」

 

「何で最初にそこなんだよ」

 

「大事だろ」

 

「大事ではあるけど」

 

 蒼真が別の紙を見つけた。

 

「あ」

 

「何?」

 

「第七番所」

 

「何か書いてる?」

 

「評判」

 

「何て?」

 

 蒼真が少し黙る。

 

「…………」

 

「何」

 

「くせ者揃い」

 

「は?」

 

 奎星が紙を取り上げる。

 

「どこ!?」

 

「正式資料ちゃう。研修生向けの引き継ぎメモ」

 

「誰が書いたんだよ」

 

「先輩やろ」

 

 奎星は紙面へ目を落とした。

 

《東京第七地域法執行所》

 

《通称・第七番所》

 

《管轄地域は広くないが、一般社会との境界案件が多い》

 

《職員の独立性が高く、現場判断を重視》

 

《所長以下、癖の強い職員が多いことで有名》

 

「…………」

 

 侑李が覗き込む。

 

「楽しそうだね」

 

「どこが」

 

「癖が強いんでしょ?」

 

 奎星は紙を見つめ、それから鼻で笑った。

 

「くせ者なんて」

 

 紙を閉じる。

 

「今までの人生で散々見てきてるぜ」

 

「せやな」

 

 蒼真が即答した。

 

「即答すんなよ」

 

「御影先生」

 

「うん」

 

「斎賀さん」

 

「うん」

 

「久我先生」

 

「まあ」

 

「九重院校長」

 

「校長入れんな」

 

「烏丸先生」

 

「スズメちゃんは違う!」

 

 蒼真と侑李が同時に奎星を見る。

 

「何だよ」

 

「何でもない」

 

「何でもないで」

 

「その顔やめろ!」

 

 侑李が笑う。

 

「でも、ワクワクするね、奎星!」

 

「だから何でお前、ずっと俺と一緒に行動する前提なんだよ」

 

「同じ配属だよ?」

 

「職場同じなだけ」

 

「毎日会うね」

 

「怖いこと言うな」

 

「同期で親友で同僚」

 

「二個目違う」

 

「いつ認めるの?」

 

「一生ない」

 

「一生付き合うつもりなんだ」

 

「そういう意味じゃねえ!」

 

 蒼真が笑った。奎星も笑う。

 

 けれど、ふと三人の間に妙な間が落ちた。

 

「……じゃ」

 

 蒼真が言う。

 

「次会うん、しばらく先かもな」

 

 奎星の顔から笑いが少し消えた。

 

「あ」

 

「研修終わったし」

 

「そうだな」

 

 同じ時間に起き、同じ場所へ集まり、斎賀に怒られ、走り、戦い、飯を食い、報告書を書いた日々が、明日からはなくなる。

 

「京都行ったら連絡しろよ」

 

「お前がせえ」

 

「俺、忙しいかも」

 

「こっちもや」

 

「じゃ侑李」

 

「任せて」

 

「何を?」

 

「三人の予定調整」

 

「お前、そういうの好きそうやな」

 

「親友だから」

 

「また言ってる」

 

「じゃあな」

 

 蒼真が手を上げる。奎星も手を上げた。

 

「おう」

 

「また」

 

 侑李も笑った。

 

 三人はそこで別れた。蒼真は京都へ、別の新人は北海道へ、また別の誰かは九州へ。同じ場所から始まった人間たちが、それぞれの土地へ散っていく。

 

 それは少しだけ、卒業式に似ていた。

 

     *

 

 数日後、東京の蓮根家。

 

「奎星!」

 

「何!」

 

「起きてる!?」

 

「起きてる!」

 

「本当に!?」

 

「本当!」

 

「返事だけじゃない!?」

 

「今着替えてる!」

 

 午前六時四十二分。蓮根家の二階で、奎星は鏡の前に立ち、濃紺の制服の襟を直していた。

 

「……よし」

 

 魔法法執行局の正式制服。胸元には銀色の徽章、その下には職員証。腰には魔力拘束具。そして、神代榊の杖。

 

 鏡に映る自分を見つめると、妙な感じがした。

 

 二年前、この部屋で進路希望調査へ《第一志望 海賊》と書いた。その三日後、魔法使いになった。その数日後、この家を出て学校へ行った。

 

「奎星!」

 

「今行く!」

 

 階段を降りて居間へ入ると、奎星は思わず声を漏らした。

 

「うわ」

 

 食卓には、白飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、納豆、野菜、果物と、朝食にしては明らかに品数が多い。

 

「何これ」

 

「朝ご飯」

 

「旅立ち?」

 

「初出勤でしょう」

 

「毎日行くんだけど」

 

「最初は今日だけ」

 

「そりゃそうだけど」

 

 父が新聞を畳む。

 

「職員証」

 

「ある」

 

「財布」

 

「ある」

 

「スマホ」

 

「ある」

 

「杖」

 

「ある」

 

「拘束具」

 

「ある」

 

「配属通知」

 

「ある」

 

「ハンカチ」

 

「…………」

 

 奎星が止まった。

 

「ないな」

 

「いる?」

 

「持っていけ」

 

「禍祓官にハンカチ必要?」

 

「人間には必要だ」

 

「正論」

 

 母が奎星の鞄へハンカチを一枚入れる。

 

「お弁当」

 

「食堂あるって」

 

「初日、食べられるか分からないでしょう」

 

「あるって」

 

「持っていきなさい」

 

「はい」

 

 奎星が席へ着き、味噌汁を口に運ぶ。

 

「……うま」

 

「ちゃんと食べるのよ」

 

「食べてる」

 

「研修中、痩せたでしょう」

 

「走らされたから」

 

「斎賀さん?」

 

「そう」

 

「怖い人なんでしょう」

 

「めっちゃ怖い」

 

「でも、いい人なんでしょ?」

 

 奎星の箸が止まった。

 

「……まあ」

 

「へえ」

 

「何その顔」

 

「奎星が人を褒めた」

 

「褒めてねえ」

 

 父が新聞を置く。

 

「御影先生には?」

 

「何が」

 

「配属の連絡」

 

「あ」

 

「してないのか」

 

「あとでする」

 

「烏丸先生は?」

 

 母が訊く。

 

「スズメちゃんにはした」

 

 二人の視線が奎星へ集まる。

 

「何」

 

「何でもない」

 

「その反応やめろ」

 

「何て返ってきたの?」

 

「『遅刻しないように』」

 

「先生だな」

 

「彼女!」

 

「知ってる」

 

「じゃ言うなよ!」

 

 三人で朝食を囲み、くだらない話をしながら初日の持ち物を確認する。母は何度も時計を見て、父は「まだ早い」と言い続けた。それでも七時二十分になると、奎星は玄関に立った。

 

 靴を履く。あの日と同じ玄関だった。猫の置物も、靴箱も、表札も、何も変わっていない。

 

「じゃ」

 

 奎星が振り返る。父と母がいる。

 

「行ってくる」

 

 母が笑った。

 

「行ってらっしゃい」

 

 父も頷く。

 

「頑張れ」

 

「おう」

 

 奎星は玄関を開けた。

 

 二年前、ここを出たとき、自分がどこへ向かっているのか何も知らなかった。魔法学校というものがあることさえ知らなかった。

 

 今は違う。自分で選んだ。禍祓官という仕事と、その最初の職場、東京第七地域法執行所を。

 

 奎星は朝の住宅街へ出た。

 

     *

 

 同じ頃、東京のどこか。

 

 一般社会から見れば、そこは何の変哲もない古い雑居ビルだった。一階には小さな不動産屋が入り、二階には何を扱っているのかよく分からない会社の看板が掛かっている。通りを歩く人間のほとんどは、その建物の地下に、一般人には見えないもう一枚の扉があることを知らない。

 

 魔法による認証を通った先には、重い鉄製の扉があった。そこに掛けられた小さな札には、三つの名称が記されている。

 

《日本魔法省》

 

《魔法法執行局》

 

《東京第七地域法執行所》

 

 通称、第七番所。

 

 その奥にある会議室は、地味な部屋だった。古い木製の長机と背もたれの固い椅子、壁に貼られた東京の管轄区域を示す地図、年度ごとに分厚い事件記録を収めた棚。黒板には、その日の予定が几帳面な字で記されている。

 

 長机の一番奥には、一人の男が座っていた。

 

 日高隆一(ひだか りゅういち)。東京第七地域法執行所の所長である。四十代半ばの細身で、短く整えられた黒髪には僅かに白いものが混じっている。制服には皺一つなく、ネクタイの結び目も真っ直ぐだった。机の上に置かれた書類の角まで、きれいに揃えられている。

 

「今日から新人が二名、当所へ配属される」

 

 日高がそう告げると、長机の左側で椅子に深く腰掛けていた女が顔を上げた。竜胆冬華(りんどう とうか)。二十代半ばで、短い黒髪と鋭い目つきが印象的な女だ。制服の袖は肘まで捲られている。

 

「どんなやつ?」

 

「配属資料を読んでいないのか」

 

「読んでない」

 

「なぜ堂々と言える」

 

「どうせ来るんだから、会った方が早いじゃん」

 

「資料は事前に読め」

 

「はいはい」

 

「返事は一度」

 

「はい」

 

 日高の眉間が僅かに動いた。

 

 その向かいでは、若い女がすでに一冊の資料を開いていた。江藤沙季(えとう さき)である。背筋を伸ばして座り、紙面に視線を落としたまま、事務的な口調で読み上げ始めた。

 

「一人目は宮本侑李。十八歳。国立魔法学校マホウトコロ上級課程卒業。本局初任研修では救助、拘束、緊急対応の成績が特に優秀です。一方、負傷者を発見した際、自身の安全確認より救助を優先する傾向があるとの指摘が三件。模擬現場対応試験では――」

 

「長い」

 

 竜胆が言った。

 

 江藤の眉がぴくりと動く。

 

「まだ一人目です」

 

「要約して」

 

「優秀ですが、自己犠牲的な行動に注意が必要です」

 

「できるじゃん」

 

「最初から聞いていただければ、そうします」

 

「じゃ、もう一人」

 

 江藤は一枚頁を捲った。

 

「蓮根奎星。十八歳。同じく国立魔法学校マホウトコロ上級課程卒業」

 

「ああ」

 

 竜胆が少しだけ身体を起こした。

 

「そっちは知ってる」

 

「有名ですからね」

 

「学校を何回か救ったやつ」

 

「その表現は正確ではありません」

 

「じゃあ何回?」

 

「回数の話ではありません」

 

 江藤は資料へ視線を戻した。

 

「本局初任研修における実技成績は上位。特に状況判断、攻撃魔法、防御魔法、緊急時対応は非常に高い評価を受けています。一方で、指示を受ける前に行動する傾向があり、私語が多く、不要な発言も多い。敬語には改善の余地があります。報告書については、同音異義語の誤用が十一件、送り仮名の誤りが七件、句読点の位置が不適切な箇所が二十三件――」

 

 竜胆が笑った。

 

「面白いじゃん」

 

 江藤が顔を上げる。

 

「何がです?」

 

「あんたと違って」

 

「どういう意味ですか」

 

「そのまま」

 

「私が面白くないと言いたいんですか」

 

「言ってる」

 

 江藤は露骨にむっとした。

 

「勤務評価に面白さという項目はありません」

 

「ほら、そういうとこ」

 

「何ですか」

 

「やめろ」

 

 日高が低い声で割って入った。二人がそちらを見る。

 

「新人の経歴を娯楽にするな。蓮根が過去に何をしたのか、ここでは関係ない」

 

 日高は資料を閉じた。

 

「今日から二人とも、第七番所の新人禍祓官だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

 竜胆が肩を竦める。

 

「堅いねえ」

 

「職場だ」

 

 そのとき、部屋の後方から低く大きな声が響いた。

 

「しかし楽しみですねえ、所長!」

 

 高城丈(たかしろ じょう)。東京第七地域法執行所の副所長である。坊主頭に太い首、広い肩を持ち、公務員用に作られた制服が明らかに筋肉に負けている。

 

「若いのが二人も入ってくる! いやあ、いい! 実にいい!」

 

「高城」

 

「はい!」

 

「声量」

 

「すみません!」

 

「下がっていない」

 

「すみません」

 

「よろしい」

 

 高城は満面の笑顔のまま頷いた。

 

「新人はいいですよ。未来がありますから!」

 

「妙な重圧をかけるな」

 

「そんなつもりはありませんよ」

 

「去年、新人三人を午前五時から走らせただろう」

 

「あれは自主参加です」

 

「全員参加している」

 

「人気だったんですよ」

 

「断れない空気を作った結果だ」

 

「今年は六時にします」

 

「やるな」

 

「残念です」

 

「なぜ本気で残念そうなんだ」

 

 その会話の後ろで、何かを咀嚼する音がした。

 

 日高がゆっくりと視線を向けると、会議室の端に座った二人の男が目に入った。平賀と須藤。第七番所でも最古参に近い禍祓官で、二人とも五十代後半だった。そして二人とも、ハンバーガーを食べている。須藤の前にはポテトまで置かれていた。

 

「平賀」

 

「ん?」

 

「須藤」

 

「はい?」

 

「会議室での食事は禁止だと、前にも話したはずだが」

 

 須藤が口元を紙ナプキンで拭いた。

 

「すみません、所長。昼食の時間が来たもので」

 

 江藤が時計を見た。

 

「まだ十時よ!?」

 

「俺たちの昼は10時なんだよ」

 

 平賀が言った。

 

「どういう理屈ですか」

 

「年寄りを舐めるなよ」

 

「誰も舐めてません!」

 

 高城が声を上げた。

 

「二人とも! 新人の前で恥ずかしいことするなよ!」

 

「まだ来てないだろ」

 

「だから今のうちに食ってる」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「高城」

 

「はい!」

 

「声量」

 

「すみません!」

 

 須藤が平賀を見る。

 

「ポテト食う?」

 

「食う」

 

「没収しますよ」

 

 江藤が立ち上がると、二人は同時にポテトを身体の後ろへ隠した。

 

「子供ですか!」

 

「五十代だ」

 

「聞いてません!」

 

 竜胆は俯き、肩を震わせている。日高はこめかみに指を当てた。

 

「……新人が来る前からこれか」

 

「いつも通りです!」

 

 高城が答える。

 

「高城、それは何の慰めにもなっていない」

 

 そのとき、会議室の外、さらに廊下の向こうから若い男の声が響いた。

 

「だから問題児じゃないっつーの!」

 

 室内が静かになった。日高が顔を上げ、江藤が眉を寄せる。

 

「……なぜ彼は怒鳴っているんです?」

 

 竜胆が一秒ほど考えてから言った。

 

「今、受付やってんの誰?」

 

 高城が答える。

 

「郷原」

 

「ああ」

 

 竜胆が納得したように頷く。江藤もすぐに事情を察した。

 

「……気の毒に」

 

「どっちが?」

 

「新人です」

 

 再び廊下から声がする。

 

「だからそれ、研修記録の一部だけ切り取ってんだろ!」

 

 今度は女の声だった。

 

「『指示を受ける前に突入した回数、四回』」

 

「理由があんだよ!」

 

「『教官との口論、十三回』」

 

「斎賀さんが悪い!」

 

「『反省文、六回』」

 

「五回!」

 

「一回減った」

 

「ほら!」

 

「誇るところじゃないよ、奎星」

 

 別の若い男の声が混じった。宮本侑李だった。

 

「お前はどっちの味方だよ!」

 

「君の味方だよ」

 

「だったら助けろ!」

 

「でも問題児ではあると思う」

 

「侑李ぃ!」

 

 高城の顔がぱっと明るくなった。

 

「元気ですねえ!」

 

 日高は黙って腕時計を見た。九時五十八分。報告時刻は十時である。

 

「時間は守っている」

 

 竜胆が笑った。

 

「そこ評価するんだ」

 

「当然だ」

 

 廊下では、まだ騒ぎが続いている。

 

「ていうか、あんた誰だよ!」

 

「郷原蘭(ごうはら らん)。庶務」

 

「庶務!?」

 

「あなたの上司ではないけど、あなたより偉い」

 

「んだよそれ!」

 

「私がそう思ってるから」

 

「そんな職場あんの!?」

 

「ここ」

 

 竜胆がとうとう吹き出した。江藤は額を押さえる。

 

「初日から……」

 

 日高が椅子から立ち上がり、制服の裾を整えた。

 

「全員」

 

 室内の空気が少し変わった。高城が姿勢を正し、竜胆も座り直す。江藤は資料を閉じた。平賀と須藤だけが、慌てて最後の一口を口へ押し込んでいる。

 

「平賀。須藤」

 

「何も食べてません」

 

「まだ何も言っていない」

 

「じゃあ大丈夫だ」

 

「包み紙をしまえ」

 

「はい」

 

 二人が渋々と紙袋を片付けるのを見届けてから、日高は室内を見渡した。

 

「今日から二人は我々の同僚になる」

 

 誰も返事をしない。

 

「新人ではある。未熟でもある。だが現場へ出れば、第七番所の名前を背負う一人の禍祓官だ」

 

 竜胆の顔から笑みが少し消え、江藤も真っ直ぐ日高を見る。

 

「教えるべきことは教えろ。守るべきところは守れ。ただし、甘やかすな」

 

「はい!」

 

 高城が答えた。

 

「声量」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 日高が扉へ視線を向けた。ちょうどそのとき、こんこん、と二度、意外なほど普通のノックが響いた。

 

「どうぞ」

 

 日高が言うと、扉が開いた。

 

 まず一人、宮本侑李が入ってくる。濃紺の制服に新品の徽章をつけ、少し緊張した顔で室内を見渡してから、一礼した。

 

「本日付で配属となりました、宮本侑李です。よろしくお願いします」

 

「よろしく!」

 

 高城が即座に返す。

 

 その後ろから、もう一人が入ってきた。

 

 蓮根奎星。十八歳。濃紺の制服を着て、胸元には同じく新品の徽章をつけている。腰には神代榊があった。扉をくぐった瞬間、彼は室内を一周見渡した。日高、高城、竜胆、江藤、平賀、須藤。そして廊下では、受付から郷原蘭がこちらを覗いている。

 

 奎星は一歩前へ出ると胸を張り、大きく息を吸った。

 

「日本魔法省、魔法法執行局! 本日付で――」

 

「蓮根」

 

「はい!」

 

「声量」

 

「え?」

 

「室内だ。適切な声量で話せ」

 

「……はい」

 

 奎星の勢いが一瞬でしぼんだ。竜胆が口元を押さえ、江藤が小さく息を吐く。高城は嬉しそうに頷いていた。

 

 平賀が須藤へ小声で言う。

 

「面白そうだな」

 

「だな」

 

「聞こえている」

 

 日高が言うと、二人は黙った。

 

 奎星は少しだけ顔を引きつらせながら、もう一度姿勢を正した。

 

「蓮根奎星です。よろしくお願いします」

 

「日高隆一だ。当所の所長を務めている」

 

「はい」

 

 日高は奎星と侑李を順番に見た。

 

「最初に言っておく」

 

 二人の表情が僅かに引き締まる。

 

「君たちが学校で何をしてきたか。本局でどんな成績を残したか。誰に評価されたか。ここでは、それだけで扱いを変えるつもりはない」

 

 奎星が瞬きをする。

 

「今日から君たちは、東京第七地域法執行所所属の禍祓官だ」

 

 日高の声は平坦だった。けれど、軽くはなかった。

 

「分からないことは聞け。失敗は報告しろ。勝手な判断はするな」

 

「はい」

 

「ただし」

 

 日高が続ける。

 

「指示を待つだけにもなるな」

 

 奎星が顔を上げた。

 

「現場では、自分で見ろ。考えろ。その上で動け。そして、自分の行動には責任を持て」

 

「……はい」

 

 今度の返事は、少しだけ静かだった。

 

 日高は頷く。

 

「以上だ」

 

 一秒、二秒と沈黙が続いたあと、高城が待ちきれなくなったように声を張り上げた。

 

「ようこそ第七番所へ!!」

 

 大きな拍手が会議室に響く。

 

「高城!」

 

「今日くらいいいでしょう!」

 

「声量だ!」

 

「歓迎ですよ!」

 

「うるさい!」

 

 江藤が言った。

 

「若いなあ」

 

 平賀が笑う。

 

「腹減ったな」

 

 須藤が言った。

 

「さっき食べたでしょう!」

 

「また減った」

 

「知りません!」

 

 竜胆が奎星を見る。

 

「よろしく、英雄くん」

 

「英雄じゃないっす」

 

「じゃあ問題児」

 

「それも違う!」

 

 廊下から蘭が顔を出した。

 

「問題児くーん。入庁書類、一枚署名抜けてるよ」

 

「ほら!」

 

 江藤が即座に言う。

 

「何がほらだよ!」

 

「書類不備です」

 

「一枚じゃん!」

 

「一枚も不備です」

 

「細けえ!」

 

「蓮根」

 

 日高の声に、奎星がぴたりと止まった。

 

「声量、それから敬語を覚えろ」

 

「…………はい」

 

 笑い声が起こった。

 

 初日、午前十時三分。蓮根奎星の社会人生活は、始まって三分ですでに前途多難だった。

 

 けれど、このときの彼はまだ知らない。ここで出会った癖の強い人間たちと、これからいくつもの現場へ向かうことを。くだらないことで笑い、何度も怒鳴られ、何度も失敗し、ときには命を預け合うことを。そしていつか、この地味な地下の一室を、自分の帰る場所の一つだと思うようになることを。

 

 

 そのとき、机の上で一台の電話が鳴った。

 

 誰より早く、奎星が振り返る。

 

「事件!?」

 

「まず書類だ」

 

「ええ!?」

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「声量」

 

「……はい」

 

 また笑い声が起こった。

 

 江藤が受話器を取り、高城が平賀と須藤の隠していたポテトを発見し、竜胆が腹を抱えて笑っている。日高は額を押さえ、廊下からは郷原の呆れた声が飛んできた。

 

 侑李が奎星の肩を軽く叩く。

 

「楽しそうな職場だね」

 

「……そうか?」

 

「うん」

 

 奎星は会議室を見回した。

 

 まだ何も知らない職場だった。目の前の人間たちがどんな禍祓官なのかも、これから自分がどんな仕事を任されるのかも、明日何が起きるのかさえ分からない。

 

 それでも、不思議と悪い気はしなかった。

 

「まあ」

 

 奎星が笑う。

 

「面白そうではあるな!」

 

「蓮根、書類」

 

「分かってるって!」

 

「敬語」

 

「分かってます!」

 

「声量」

 

「もう!!」

 

 初日、午前十時三分。

 

 蓮根奎星の社会人生活は、始まってわずか三分で、すでに前途多難だった。

 

 おそらく、これからもそうなのだろう。

 

 考えるより先に身体が動き、余計なことを口にして、誰かに怒られる。正しいと思って選んだことが、必ずしも正しい結果に繋がるとは限らない。どれほど強くなっても、救えないものがあると知る日も来るかもしれない。

 

 きっと奎星は、これからもたくさん間違える。

 

 判断を誤ることもあるだろう。自分の力を過信することも、誰かの気持ちに気づけないこともあるだろう。立ち止まり、迷い、どうすればよかったのか分からなくなる夜だって、きっとある。

 

 魔法が使えるからといって、何でもできるわけではない。

 

 誰より強くなったからといって、誰より正しくなれるわけでもない。

 

 そんなことは、この二年間で嫌というほど思い知らされた。

 

 けれど、奎星はもう知っている。

 

 間違えたなら、認めればいい。

 

 分からないなら、誰かに聞けばいい。

 

 一人で背負えないものがあるなら、隣にいる誰かを頼ればいい。

 

 そして、転んでしまったなら。

 

 もう一度、立ち上がればいい。

 

 マホウトコロで過ごした二年間。

 

 何も知らずに飛び込んだ魔法の世界で、奎星は数え切れないほどの人間と出会った。

 

 喧嘩した相手もいる。競い合った相手もいる。何度も怒られた先生もいれば、何も言わずに信じてくれた人もいる。

 

 一緒に笑った。

 

 一緒に泣いた。

 

 傷つけたことも、傷つけられたこともあった。

 

 守られたことも、守ったこともあった。

 

 そして、そのすべてが今の蓮根奎星を作っている。

 

 二年前、進路希望調査に《第一志望 海賊》と書いた少年は、自分の未来について何も考えていなかった。

 

 何になりたいのかも、何をしたいのかも、よく分かっていなかった。

 

 ただ、面白そうなことがしたかった。

 

 退屈な毎日が、少しでも変わればいいと思っていた。

 

 それが、どうだろう。

 

 今では自分の意思で進む道を選び、その道の先に、守りたいと思える人たちがいる。

 

 帰りたい場所がある。

 

 会いたい人がいる。

 

 明日が楽しみだと思える。

 

 それは、どんな強力な魔法を覚えたことよりも、ずっと大きな変化だったのかもしれない。

 

 もちろん、本人にそんな自覚はない。

 

 今も書類の署名欄を間違え、江藤に叱られ、侑李に笑われ、日高から早くも二度目の注意を受けている。

 

 相変わらず、手のかかる男だった。

 

 けれど、それでいいのだろう。

 

 最初から何も間違えない人間になる必要なんてない。

 

 大切なのは、間違えたあとにどうするかだ。

 

 立ち止まることを覚えた。

 

 人を頼ることを覚えた。

 

 自分の力だけでは届かない場所があることも、誰かと一緒なら届く場所があることも知った。

 

 何より、どれほど傷ついても、どれほど遠回りをしても、自分の足で前へ進むことを諦めなかった。

 

 だから、きっと大丈夫だ。

 

 この先、どんな困難が待っていても。

 

 どれほど大きな失敗をしても。

 

 また誰かに怒鳴られ、呆れられ、助けられながら、それでも最後には、あのどうしようもなく明るい顔で笑うのだろう。

 

 そういう男なのだ。

 

 蓮根奎星という人間は。

 

「よっしゃ!」

 

 突然、奎星が声を上げた。

 

「今度は何だ」

 

 日高が顔を上げる。

 

「書類終わりました!」

 

「確認したのか?」

 

「完璧っす!」

 

「江藤」

 

「はい」

 

 江藤が書類へ目を落とす。

 

「……蓮根さん」

 

「何?」

 

「日付、昨日になっています」

 

「…………」

 

「書き直しです」

 

「うっそだろおおおおおおおお!!」

 

「蓮根!!」

 

「声量!!」

 

 今度は日高だけでなく、会議室の全員から声が飛んだ。

 

 奎星が笑う。

 

 侑李も笑う。

 

 誰かが呆れ、誰かが怒鳴り、誰かがまた笑った。

 

 東京第七地域法執行所。

 

 通称、第七番所。

 

 新人禍祓官、蓮根奎星。

 

 勤務初日。

 

 彼の新しい毎日が、ここから始まる。

 

 もう、魔法を知らなかった頃には戻れない。

 

 マホウトコロの生徒だった日々にも戻れない。

 

 けれど、あの学校で出会った人たちも、交わした約束も、笑い合った時間も、決して消えてなくなったわけではない。

 

 すべてを連れて、彼はここにいる。

 

 そしてこれからも、きっとそうだ。

 

 間違えて、叱られて、笑って、泣いて。

 

 ときには誰かを助け、ときには誰かに助けられながら。

 

 自分で選んだ道を、自分の足で歩いていく。

 

 心配はいらない。

 

 だって、彼ならきっと大丈夫だろう。

 

 あの日、何も知らずに魔法の世界へ飛び込んだ、あの少年なら。

 

 何度間違えても、何度転んでも、きっとまた立ち上がる。

 

 そうして、明日も、その次の日も。

 

 蓮根奎星は、生きていく。

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