薬師寺の回復薬をめぐる攻防がようやく終わり、奎星が「絶対あれ人間が飲む味じゃない」とまだ文句を言っているところへ、病室の扉が控えめに三度叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、見覚えのない男だった。
年齢は御影と同じ四十代後半ほどだろうか。身長は百八十センチ近く、肩幅の広い頑丈な体格を濃紺の魔法省制服で包み、短く揃えた坊主頭と顎から口元を覆う髭のせいで、第一印象だけなら御影とはまた別方向の威圧感がある。しかし、部屋へ入ってきた足取りは静かで、病人を驚かせまいとしているのか扉を閉める手つきも妙に丁寧だった。
胸元には銀色の証票があり、翼を広げた鳥と天秤、その下に小さく『魔法省監察局』の文字が刻まれている。
ちょうど病室へ戻ってきていた楓たちも会話を止め、伊織は男の胸元の証票へすぐに目を向けた。
男は室内を一度見渡したあと、ベッドにいる奎星へ視線を合わせた。
「蓮根、奎星君だね」
奎星はまだ薬の後味を消そうと水を飲んでいたため、コップを持ったまま少し身構えた。
「……うす」
「初めまして。魔法省監察局の真壁征士郎だ」
名乗りながらも、真壁は握手を求めたり一方的に距離を詰めたりせず、ベッドから数歩離れた位置で足を止めた。病院着の少年に対し、役人の肩書きを振りかざして威圧するつもりがないことが、その立ち方からも分かる。
スズメが少し表情を改めた。
「監察局の方が、蓮根君に?」
「事情聴取ではないですよ、烏丸先生。そちらは本人の回復を待って正式に行いますし、今日来たのは別件です」
真壁は近くにあった椅子を指してから、「借りても?」と奎星へ尋ねた。
「どうぞ」
「ありがとう」
奎星が頷いて初めて椅子を引き、真壁は大きな身体をそこへ落ち着けると、膝に両手を置いてしばらく奎星の顔を見た。髭と坊主頭の組み合わせだけを見れば怖いのに、目元には不思議と御影ほどの険しさがなく、何から話せば少年を余計に不安にさせずに済むのか考えているようだった。
「まず最初に伝えておきたい。君が久我朔弥による事件の解決に大きく貢献したことを、魔法省は把握している。黒曜石を武装解除しなければ、被害は第零書庫だけでは済まなかった可能性が高いそうだ」
奎星は少し居心地が悪そうに頬を掻いた。
「いや、御影先生がほとんどやったし、俺は最後にエクスペリアームス撃っただけなんで」
その返答に、真壁はほんの少し口元を緩めた。
「玄一郎から聞いた通りだな」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
真壁の表情が再び落ち着いたものへ戻る。
「その上で、あまり気持ちのいい話ではないが、君には知っておいてもらった方がいいことがある」
病室の空気が少しだけ張った。
奎星も真壁を見る。
「魔法省の中には、君を危険視している者がいる」
奎星の顔から笑みが消えた。
「……俺を?」
「そうだ」
真壁は誤魔化さなかった。
「十七歳で突然魔力が覚醒し、測定上限を超える魔力量を持ち、わずか一か月で通常課程の実技へ追いつきつつある。それだけなら非常に珍しい生徒で済むが、今回、君は第零書庫の入庫資格を正式に持っていないにもかかわらず封印を開き、さらに――」
真壁は一瞬だけ言葉を選んだ。
「死の呪文を消した」
奎星の右手が、布団の上で僅かに動いた。
あのとき掌に浮かんだ青白い紋様は、今は何も残っていない。
真壁はその手を見たものの、問い詰めることはせずに続けた。
「現代魔法の常識では説明できない現象だ。当然、慎重に調べるべきだと言う者はいるし、その中には『危険性が判明するまで隔離すべきではないか』という意見まである」
「ちょっと待ってください」
楓の声が飛んだ。
奎星が振り返るより早く、楓はベッドの脇から一歩前へ出ていた。普段は先生や大人に対して礼儀を崩さない彼女だが、今は眉を強く寄せている。
「奎星を隔離するって、どういう意味ですか?」
「楓、別にまだそうなるって――」
「奎星は黙ってて」
「はい」
勢いに押されて奎星が引っ込む。
岳も立ち上がった。
「奎星は学校を助けたんだぞ」
「岩戸君」
スズメが止めようとしたが、岳は珍しく引かなかった。
「だってそうでしょう、烏丸先生。あそこで奎星が黒曜石飛ばしてなかったら、俺たち全員どうなってたか分かんないじゃないですか。それなのに終わったら今度は危険だから隔離って、そんなの変だろ」
伊織も椅子に座ったまま真壁へ視線を向けた。
「それ以前に、久我先生が学校へ入る段階で正体を見抜けなかったのは魔法省側でもありますよね。結果的に一か月以上教員として勤務し、第零書庫にまで侵入された。その失敗を棚に上げて、被害を止めた奎星のほうを危険人物として扱うのは、少なくとも筋が通っているようには聞こえません」
「伊織、お前今日めっちゃ言うじゃん……」
奎星が小声で呟く。
「今は黙ってて」
「お前も!?」
隣のベッドから日向まで身を乗り出した。
「ていうか俺、直接被害受けた側なんですけど」
楓がすぐ振り向く。
「起き上がらない!」
「今それいいだろ! 俺の魔法事故だと思われて奎星があんなに落ち込んだのも、元を辿れば久我先生が学校に入り込んで黒曜石仕掛けたからじゃないですか。なのに奎星が危険って、それはさすがに納得できないです」
「いや、お前ら」
奎星が困ったように四人を見回した。
自分のために怒ってくれているのは、もちろん嬉しい。
嬉しいのだが。
「そんな全員で詰めんでも……真壁さんまだ何もしてなくね?」
実際、真壁は一度も遮っていなかった。
反論もしない。
苛立ちも見せない。
楓が話しているときは楓を見て、岳が話せば岳へ顔を向け、伊織の指摘にも小さく頷き、日向が言い終わるまで黙って聞いていた。
全員の言葉が終わったところで、ようやく真壁はゆっくり息を吐いた。
怒るどころか、少しだけ嬉しそうだった。
「蓮根君」
「はい?」
「いい友を持ったな」
奎星は一瞬、何を言われたのか分からないように瞬きをした。
それから楓たちを見た。
楓はまだ少し怒っている。
岳は腕を組んでいる。
伊織は澄ました顔へ戻ろうとしている。
日向だけは「だろ?」とでも言いたげに笑っていた。
奎星は小さく笑った。
「……はい」
その返事だけは、照れも冗談もなかった。
真壁は頷く。
「君たちの言っていることはもっともだ。久我朔弥を事前に排除できなかったことについては、魔法省にも責任がある。現在、その経緯も含めて内部調査が始まっているし、蓮根君一人へ責任を押しつけるようなことを、少なくとも私は認めるつもりはない」
楓たちの表情が僅かに緩む。
真壁は改めて奎星へ向き直った。
「実は、玄一郎から君のことは聞いている」
「御影先生から?」
奎星の顔が明るくなる。
「あの人、俺の話すんの?」
「するとも。ただし、褒め方が非常に分かりにくい」
「分かる!」
奎星が思わず身を乗り出した。
「俺、あの人にまともに褒められたの事故の原因分かったときの『お前の魔法は完璧だった』くらいなんだけど!」
「それは玄一郎にしては相当だな」
「マジ!?」
「普通は『悪くない』で最高評価だ」
「うわ、もっと喜んどけばよかった!」
スズメが横から冷静に言った。
「十分喜んでいたと思いますよ」
真壁は髭の奥で笑った。
「玄一郎が君をどう評したか、聞きたいか?」
「聞きたい!」
即答だった。
「本人には絶対言わないでくださいよ」
「それは約束できんな」
「ええ!?」
真壁は少し考えるように顎髭へ触れた。
「魔力は馬鹿みたいに多い。覚えるのも気味が悪いほど速い。調子に乗る。口が軽い。教師に対する敬意が足りない。考える前に動く。危険な場所に一人で入る。あと、飯の話になると集中力が落ちる」
奎星の顔がだんだん引きつっていった。
「ボロカスじゃん!」
日向が噴き出す。
伊織も口元を隠した。
真壁は平然と続ける。
「そのあとに『だが、人が本当に嫌がることはしない。誰かが困っていれば放っておけないし、自分が失敗したと思えば逃げずに悩む。馬鹿だが、悪い奴じゃない』と言っていた」
奎星が黙った。
真壁の話し方は何気なかったが、御影が自分をそんなふうに見ていたことが意外だったのか、奎星はしばらく何も言えず、やがて少しだけ視線を下げた。
「……馬鹿は二回言われてない?」
「私の要約も入っている」
「真壁さん!?」
病室に笑いが戻る。
真壁も笑ったあと、膝の上で組んでいた手を解いた。
「ただし、蓮根君」
声の調子が少しだけ真剣になる。
「人間性が信頼できるというだけでは、君を守りきれない」
奎星も笑うのをやめた。
「どういうこと?」
「魔法省は大きい。全員が同じ意見ではないし、君の力を恐れる者もいれば、利用できないかと考える者だって今後出てくるだろう。今回の件で君の存在は、それまでより多くの人間に知られることになった」
スズメの表情も引き締まった。
奎星は自分の右手を見る。
死の呪文を消した力。
第零書庫を開いた杖。
自分自身にも、まだ分からないものが多すぎる。
「だから私はここへ来た」
真壁が言った。
「君を調べ上げて拘束するためではない。少なくとも、理由もなく君を危険人物として扱わせないために来た」
「……俺を守るため?」
「ああ」
奎星が不思議そうな顔になる。
「なんで真壁さんが?」
「玄一郎に頼まれてね」
「御影先生が?」
今度こそ奎星は目を丸くした。
真壁はその反応が面白かったらしく、わずかに口角を上げる。
「昨夜遅くに連絡が来た。『省内で変な動きが出る前に、お前が蓮根を見ておけ』とな」
「玄一郎って……」
奎星の眉が上がる。
「真壁さん、御影先生のこと玄一郎って呼ぶの?」
「ああ」
「知り合いなの?」
真壁は少し遠い目をした。
「まあ……腐れ縁というか」
「腐れ縁?」
「私も十年ほど前までは、禍祓官をしていた」
奎星の身体が勢いよく起きた。
「そうなの!?」
「痛っ!」
起きた拍子に脇腹を押さえる。
スズメが即座に眉を寄せた。
「蓮根君、急に動かないでください」
「いやだって禍祓官!」
真壁が笑う。
「玄一郎とは十年以上組んでいたよ」
「そうなの!?」
今度は痛みを忘れてさらに身を乗り出そうとし、スズメに肩を押し戻された。
「寝てください」
「待ってスズメちゃん、これめっちゃ大事な話!」
「怪我より大事な話はありません」
「御影先生の昔話だぞ!?」
「それで治療が早まるのですか?」
「心が元気になる!」
真壁はとうとう声を上げて笑った。
「本当に聞いた通りだな」
「どんな話聞いてんの俺……」
奎星は渋々枕へ背を戻したものの、目だけは完全に輝いていた。
「真壁さん、御影先生って昔からあんな感じ?」
「あんな感じとは?」
「怖い。無愛想。『黙れ』だけで会話終わらせる」
「若い頃のほうが酷かった」
「マジで!?」
日向まで反応する。
「俺も聞きたい!」
楓が呆れる。
「あなた痛いんでしょう」
「御影先生の若い頃は別!」
真壁は顎髭を撫でながら、懐かしそうに目を細めた。
「二十代の頃は今より口数が少なくてな。初めて組まされた日に、私が『真壁征士郎だ、よろしく』と挨拶したら、『知ってる』の一言で終わった」
奎星が吹き出した。
「御影先生すぎる!」
「三日目には私が話しかけても無視するようになった」
「嫌われてたんじゃない?」
「本人は『必要なことだけ喋れ』と言っていた」
「やっぱ御影先生じゃん!」
「ただ、現場では誰より頼りになったよ」
真壁の表情が少しだけ変わった。
懐かしさの中に、長い年月をともに過ごした者だけが持つ信頼が浮かぶ。
「十年以上、背中を預けた。一緒に闇の魔法使いを追い、呪われた屋敷へ入り、雪山で三日遭難し、魔法生物に追い回されたこともある。あいつが『任せろ』と言ったときに、それを疑ったことは一度もない」
奎星は静かに聞いていた。
自分が憧れた御影にも。
知らない時間がある。
それを知っている人間が、今。
目の前にいる。
「雪山って」
奎星が訊く。
「もしかしてエクスペリアームスで犯人捕まえたやつ?」
真壁が驚いたように眉を上げた。
「玄一郎がその話をしたのか?」
「うん」
「……そうか」
真壁は短く笑った。
「ずいぶん気に入られているらしいな、君」
奎星の頬が少し緩む。
「そうかな」
「本人に聞けば否定するだろうがね」
「絶対する」
スズメまで頷いた。
病室にはしばらく、御影の昔話で笑い声が続いた。
奎星が質問をするたび真壁は面倒がらずに答え、そのうち日向まで話へ混ざり、岳は「御影先生って昔からあんな強かったんですか」と訊き、伊織は「何件くらい始末書を書いたんですか」と妙に現実的な部分へ食いついた。
やがて一通り話したところで、真壁が時計を確認して立ち上がった。
「長居しすぎたな。病人を休ませないと藤森先生に私まで怒られそうだ」
「また御影先生の話してよ」
「本人の許可を取ってからにしよう」
「絶対許可出ないじゃん!」
「では諦めることだ」
「真壁さん結構意地悪だな!」
真壁は楽しそうに笑いながら椅子を元の場所へ戻した。
奎星はその姿を見ていたが、ふと表情を真面目なものへ変えた。
「真壁さん」
「ん?」
「さっきの話」
「魔法省のことか」
「うん」
奎星は少し考えてから右手を差し出した。
包帯が巻かれ、まだ細かな傷の残る手だった。
「俺、魔法省のこととかよく分かんないし、正直ちょっと怖いけどさ」
真壁はその手を見る。
奎星は真っ直ぐ彼を見た。
「御影先生の友達なら、あんたを信じるよ。真壁さん」
真壁の目が僅かに見開かれた。
たった今、魔法省には自分を危険視する人間もいると知らされたばかりなのに、この少年は目の前の人間を肩書きだけで一括りにしなかった。
御影が信じる人間だから。
そして。
実際に話してみたから。
それだけで。
自分も信じてみようと言う。
真壁は、少しだけ困ったように笑った。
「随分簡単に人を信用するんだな」
「そう?」
「もう少し疑う癖はつけたほうがいい。今回の事件で学んだだろう」
「それ言われると何も言えねえ」
奎星が苦笑する。
「でも、信じるって決めたら信じたいじゃん」
真壁はしばらく黙っていた。
やがて。
大きな手を差し出す。
奎星の手を、傷へ触れないよう慎重に握った。
「私も、君を信じるよ」
力強い手だった。
けれど握り方は優しかった。
「君が何者なのか、まだ誰にも分からない。あの力が何なのかも、第零書庫がなぜ君の杖へ反応したのかも、これから調べることになるだろう」
真壁は奎星から目を逸らさなかった。
「だが、分からないことと、危険だと決めつけることは別だ。少なくとも私は、君がこれまで何を選び、誰を守ろうとしたのかを見て判断する」
奎星もその手を握り返した。
「よろしく、真壁さん」
「ああ。よろしく、蓮根君」
その横でスズメは、二人の握手を静かに見つめていた。
魔法省という巨大な組織の中で、これから奎星を巡ってどんな議論が起きるのかは分からない。
彼の魔力量。
異常な成長速度。
神代榊の杖。
第零書庫。
そして。
死の呪文さえ消した、正体不明の青白い光。
問題は、何一つ終わっていなかった。
それでも。
奎星には。
また一人。
自分を危険な力ではなく。
一人の人間として見てくれる大人が増えた。