久我朔弥による第零書庫侵入事件、魔法省での正式検査、そして自分を巡って大人たちが何やら難しい話をしていた数日間がようやく落ち着いた頃、蓮根奎星は人生最大級の危機がまだ残っていたことを知った。
夏休みまで、あと一週間。
浮ついた空気がマホウトコロ中に広がり始め、廊下では帰省の予定を話す生徒が増え、大食堂では「夏季特別献立」の文字が掲げられ、日向は授業中にもかかわらず楓へ「東京戻ったらどこ行く?」と小声で話しかけて教科書の角で頭を叩かれていた。
奎星自身も完全に夏休み気分だった。
一般社会へ帰ったら、まず家族へ一か月半分の話をするつもりだったし、友人たちとは海へ行こうという話も出ている。日向は「魔法なしで遊ぶゲーセンという施設」に妙な憧れを抱いており、岳は東京へ行く最大の目的を食べ歩きに設定し、伊織は「岩戸と一緒だと食費だけで旅行予算が消える」と真顔で警告していた。
そんな、夢と希望に満ちた放課後。
奎星はスズメから一枚の紙を渡された。
上部には、見慣れないほど仰々しい字体でこう書かれている。
特例編入生・第一学期修了認定試験実施要項
奎星はしばらく紙を眺め、それから顔を上げた。
「何これ?」
「読めば分かります」
「読んでも嫌な予感しかしないんだけど」
「正しい予感です」
スズメは丸机の向かいへ座ると、奎星の手元にある紙の一番下を指先で示した。
「あなたは五月末の編入ですから、一学期の大半を履修していません。実技については通常授業への参加を認められましたが、学年進行上、一学期分の最低限の知識が身についていることを正式に証明する必要があります」
「……つまり?」
「来週、試験です」
奎星の顔が引きつった。
「聞いてない」
「今言いました」
「そういう意味じゃない!」
「魔法史、呪文学、魔法薬学、高等魔法理論、闇の魔術に対する防衛術の基礎理論、魔法法規、それから一般科目の補完試験もあります」
科目名が増えるたびに、奎星の身体が少しずつ机へ沈んでいった。
「多くない?」
「一学期分ですから」
「俺、一か月半しかいないよ?」
「ですから特例試験なのです」
「落ちたら?」
その質問に対し、スズメは何でもないことのように答えた。
「夏季休暇中も学校へ残り、再試験まで補習です」
奎星の身体が完全に止まった。
頭の中を、海、ゲーセン、東京のラーメン、実家の自分のベッド、友人たちとの夏休みが順番に通り過ぎていく。
「……補習の先生は?」
「基本的には私です」
数秒。
奎星は真剣に考えた。
「それなら悪くないな」
スズメの目が細くなる。
「では、不合格でもよろしいのですね?」
「いや、やっぱ受かる」
「判断が早いですね」
「スズメちゃんと補習は嫌じゃないけど、夏休み全部二人きりは絶対途中で俺が監禁されてる気分になる」
「安心してください。私も一か月以上あなたの補習だけをする夏休みは避けたいです」
「そこは『寂しいです』とか言えよ」
「なぜですか」
「知らんけど」
こうして、死の呪文を素手で消し、暴走した古代魔術を止め、魔力一万七百二という非常識な数字を叩き出した少年は、最終的に「夏休みにゲーセンへ行きたい」という極めて庶民的な理由で猛烈に勉強することになった。
試験までの一週間、二年二組の放課後は半ば強制的な奎星対策本部と化した。
「違う。魔法機密保持法が現行制度へ整理された理由は、一般社会との接触が増えたことだけじゃないわ」
楓が奎星の解答用紙を赤ペンで指した。
「国際的な秘密保持体制との整合性も書くの」
「書いたじゃん。『海外と合わせるため』」
「雑すぎるのよ!」
「意味同じだろ!」
「試験答案でその言い方は駄目!」
向かいでは伊織が奎星の魔法理論ノートを見ていたが、数秒後、眉間へ皺を寄せた。
「奎星」
「何?」
「ここに『魔法は気合いだけでは説明できない』と書いてあるけど」
「うん」
「授業内容じゃなくて感想だよね」
「久我先生の授業で得た大切な学び」
「消そう」
「なんで!」
岳は参考書を開いているように見えて、実際にはその陰で煎餅を食べていた。
日向に至っては、奎星へ勉強を教えるはずが開始十五分で机へ突っ伏している。
「お前ら俺の勉強会だよな?」
奎星が呆れると、日向は顔だけを横へ向けた。
「俺は精神的支援担当だから」
「お前さっきから何も支援してねえよ」
「頑張れ奎星」
「今言えばいいと思ってんだろ」
「あと五日だぞ」
「急に現実突きつけるな!」
楓が日向の頭を教科書で叩き、伊織が「むしろ妨害担当だね」と呟き、岳が笑った拍子に煎餅の欠片をノートへ落としたため、今度は奎星が岳へ怒鳴る。
放課後の二年二組は毎日騒がしく、勉強が進んでいるのかいないのか分からなかったが、それでも一人で教科書へ向かうより遥かに楽しかった。
もちろん、友人たちとの勉強会が終わればスズメとの補習が待っている。
「魔法史だけやたら点いいな俺」
ある夕方、過去問題の採点結果を見ながら奎星が言うと、スズメは答案をめくりながら頷いた。
「古代魔術関連だけ異様に詳しいですね」
「好きだから」
「一方で近代魔法行政史は酷いです」
「嫌いだから」
「好き嫌いで試験範囲は変わりません」
「世界って厳しいな」
窓の外には真夏に近づいた南の空が広がり、夕方になってもまだ青さが残っていた。海から吹き込む風が障子を僅かに揺らし、丸机の上には教科書とノート、過去問題、それから天ぷらが運んできた冷たい麦茶が並んでいる。
一か月半前には、ここでスズメと二人きりで食事をすることが学校生活のほとんどだった。
今では日中は友人たちと過ごし、放課後になればこうして補習へ戻ってくる。
同じ部屋なのに、ずいぶん違って見えた。
「そういやさ」
奎星は鉛筆を回しながら訊いた。
「スズメちゃん、夏休み何すんの?」
「研究をします」
予想通りすぎる返事だった。
奎星は哀れなものを見るような目になった。
「……それだけ?」
「なぜそのような顔をするのですか」
「二十一歳の夏休みが研究だけって」
「研究は楽しいですよ」
「スズメちゃんにとってはな」
奎星は頬杖をつき、少し考えてから尋ねる。
「海とか行かないの?」
「おそらく資料調査で本州へは行きます」
「そうじゃないんだよ」
「何がです?」
「遊び」
スズメは答案へ赤字を書き込みながら、ごく普通に答えた。
「友人とも会いますよ」
奎星の鉛筆が止まった。
「友達いたんだ」
赤ペンも止まった。
ゆっくり。
スズメが顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「いや、いるんだなって」
「いますよ」
「何人?」
「なぜ人数確認をされるのですか」
「二人?」
「教えません」
「一人?」
「蓮根君」
「もしかして天ぷら?」
「人間です!」
珍しく即座に言い返したスズメを見て、奎星は声を上げて笑った。
「よかったじゃん!」
「何がですか!」
「安心した。夏休みも一人で第零書庫に籠もって古文書と喋ってんのかと思ってた」
「私は古文書とは会話しません」
「でも話しかけてそう」
「あなたと一緒にしないでください」
スズメは呆れながらも、どこか楽しそうに答案を奎星へ返した。
「人の夏休みを心配する余裕があるのなら、こちらを直してください」
「何点?」
「五十八点」
「あと二点じゃん!」
「不合格です」
「二点くらい先生の愛で!」
「零点にしますよ」
「なんで減るんだよ!」
結局、その日の補習は夕食の鐘が鳴るまで続いた。
そして、試験当日。
奎星は朝から明らかに様子がおかしかった。
大食堂で味噌汁へ箸を入れ、白米をスプーンで食べようとし、岳から「今日の奎星変だぞ」と心配された。
「緊張してんだよ!」
「お前でも緊張するんだな」
日向が面白そうに笑う。
「当たり前だろ! これ落ちたら俺だけ夏休み消えるんだぞ!」
伊織が静かに茶を飲む。
「烏丸先生と二人きりだよ」
奎星が少し考える。
「……やっぱ悪くない」
楓が額を押さえた。
「だから勉強の手を抜くなって何回言わせるの」
「抜いてないって!」
そこへ教師用席を通りかかったスズメが、奎星の後頭部を軽く教科書で叩いた。
「痛っ!」
「試験前に余計なことを考えないでください」
「スズメちゃん聞いてたの!?」
「聞こえる声量で話すからです」
奎星は頭を押さえながらも、少しだけ笑った。
不思議と緊張が軽くなった。
試験は午前八時半から始まり、昼食を挟んで夕方近くまで続いた。
魔法史では問題用紙を開いた瞬間に奎星の目が輝き、古代日本の魔術体系と近代呪文体系の相違についてだけは答案用紙の裏まで使って書いたため、監督役の薬師寺から「そこまで書かんでもよいぞい」と笑われた。
魔法薬学では、指定された鎮静薬を調合する途中で岳の「昼飯今日カツ丼らしいぞ」という囁きが隣室から聞こえ、危うく火鼠の毛を一束多く入れかけた。
「危なっ!」
寸前で手を止めた奎星を見て、薬師寺は白い髭を揺らした。
「集中力が食欲に敗北しかけたのう」
「成長して止めたからセーフ!」
「採点するのはわしじゃ」
「すみませんでした」
呪文学では土御門の前で指定された魔法を正確に成功させ、高等魔法理論の筆記ではかなり苦戦しながらも最低限は書き切った。
闇の魔術に対する防衛術の実技では御影が試験官を務め、最後の課題として三方向から飛んでくる訓練用呪文をプロテゴで防ぎ、その直後に動く人形の杖をエクスペリアームスで武装解除するよう求められた。
「御影先生」
「何だ」
「これ失敗したら夏休み消える?」
「そうだ」
「プレッシャーかけるなよ!」
「事実を言っただけだ」
「性格悪っ!」
御影の眉が僅かに動いた。
「始めるぞ」
「はい!」
結果として、三つの呪文はすべて防ぎ、人形の杖だけが綺麗に宙を舞った。
御影は記録板へ何かを書き込むと、何の感情も見せずに言った。
「悪くない」
奎星の顔が変わる。
真壁から聞いている。
御影玄一郎にとって。
悪くないは高評価。
「やった!」
「まだ結果は出ていない」
「でも今褒めたじゃん!」
「次へ行け」
「照れてんの?」
「黙れ」
「出た!」
実技室の外まで奎星の笑い声が響いた。
問題は。
筆記だった。
全試験が終わったあと、奎星は二年二組の教室で机に突っ伏し、魂が半分抜けたような顔をしていた。
「魔法法規終わった」
「終わったって、できた?」
日向が訊く。
「俺が終わった」
「ああ」
「納得すんな!」
楓は「だから言ったでしょう」と呆れ、伊織は「最後の五問どれにした?」と訊いた。
奎星は顔を上げる。
「三、二、四、四、二」
伊織が黙った。
「何その顔」
「いや」
「何」
「三問目の選択肢、三つしかなかったけど」
奎星の血の気が引いた。
「……四書いた」
教室が静かになる。
日向が机へ突っ伏して爆笑した。
「存在しない選択肢選んでる!」
「うるせえええ!!」
翌日。
結果発表の日。
奎星は午前中から落ち着かなかった。
廊下を行ったり来たりし、掲示板の前を五往復し、九重院の使いが教室へ近づいてくるのを見た瞬間には、なぜか楓の後ろへ隠れた。
「何で私の後ろに隠れるのよ」
「怖い」
「第零書庫に一人で入った人が?」
「テスト結果と闇の魔法使いは別ジャンルの恐怖なんだよ!」
やがて奎星は校長室へ呼ばれた。
室内には九重院、土御門、スズメ、御影、薬師寺が揃っていた。
「……これ落ちた時に囲んで説教する布陣じゃない?」
「早く座れ」
御影が言う。
「怖えって!」
奎星は中央の椅子へ座った。
九重院の前には、各科目の試験結果が並べられている。
彼女は一枚ずつ眺めながら、穏やかな声で結果を読み上げた。
魔法史、高得点。
実技科目、十分。
魔法薬学、合格。
一般科目、危ういながら合格。
高等魔法理論、合格。
そして。
「魔法法規」
奎星が息を止めた。
「六十一点です」
一瞬。
理解できなかった。
「……合格点は?」
「六十点」
九重院が微笑む。
奎星の口がゆっくり開く。
「一……点?」
「はい」
「一個間違えたら?」
「補習でしたね」
スズメが答える。
奎星は椅子から立ち上がった。
拳を握る。
身体中へ喜びが駆け上がる。
「っしゃああああああああああ!!」
校長室が震えた。
九重院が耳を押さえ、薬師寺が「ふぉっふぉっふぉ!」と笑い、土御門まで吹き出した。
「受かった!! 夏休みある!!」
「静かにしろ」
御影の低い声も今だけは耳に入らない。
「一学期終わったあああ!!」
「蓮根君、まだ終わっていません」
スズメに袖を引かれた。
「何!? まだ何かあんの!?」
「座ってください」
奎星は慌てて座り直した。
九重院が椅子から立ち上がる。
手には、細長い一枚の証書があった。
先ほどまで騒いでいた奎星も、その瞬間だけは自然と姿勢を正した。
「蓮根奎星君」
「はい」
九重院は証書を両手で持ち、目の前にいる少年へ穏やかな眼差しを向けた。
「あなたがこの一学期で学んだものは、ほかの生徒たちと同じではありません。遅れていた知識を学び、自分の力を知り、失敗し、傷つき、それでももう一度、自分の意思で杖を握りました」
奎星は何も言わずに聞いていた。
一か月半。
たったそれだけしか経っていない。
けれど思い出すものは多すぎた。
東京の自室。
夜中に現れた鴉。
初めて見たマホウトコロ。
壊れた測定水晶。
一人で食べるはずだった夕食。
スズメとの補習。
窓の外にいた生徒たち。
初めてできた友達。
御影の言葉。
日向の怪我。
古い観測塔。
第零書庫。
死の呪文。
そして、自分の手に戻ってきた神代榊の杖。
九重院は続ける。
「この結果は、あなたの魔力量に対する評価ではありません。測定値が一万を超えているからでも、珍しい魔法を使ったからでもありません」
証書が差し出される。
「あなたが、一人の生徒として学び続けたことへの評価です」
奎星は少しだけ目を見開いた。
それから。
両手で。
証書を受け取った。
中央には。
第一学期修了認定証 蓮根奎星
そう書かれている。
奎星はしばらく文字を眺めてから、顔を上げた。
「……ありがとうございます」
冗談もなかった。
ふざけもしなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
スズメの表情が僅かに柔らかくなり、御影は腕を組んだまま一度だけ頷いた。
奎星はもう一度、証書を見る。
ポケットの中に入っている祖母の木札が、ふと指先へ触れた。
――奎星も、やりたいこと見つけな。
一か月半前なら、何も答えられなかった。
今だって、将来の仕事を一つに決められたわけではない。
禍祓官になりたいのか。
古代魔術を研究したいのか。
それとも全く別の道へ進むのか。
まだ分からない。
でも。
「……ばあちゃん」
誰にも聞こえないほど小さな声で、奎星は呟いた。
「ちょっとずつなら、見つかってるかも」
そしてすぐに顔を上げた。
「で、これ親に見せたら褒められるよな?」
「その前に六十一点も見せてください」
スズメが言った。
「それ隠そうと思ってたのに!」
校長室に笑い声が広がった。
その日の午後。
二年二組では、夏休み前最後のホームルームが行われた。
土御門芽衣子が教壇に立ち、分厚い『夏季休暇のしおり』を一人ずつへ配っていく。
「皆さん、一学期お疲れさまでした。夏休みだからといって生活を乱しすぎないこと、宿題は最終日にまとめてやらないこと、それから一般社会へ帰省する人は秘密保持規則を必ず守ってくださいね」
日向が小声で奎星へ囁く。
「宿題最終日にやるなって、毎年言われるけど無理じゃね?」
「俺らまだ始まってないんだから可能性を捨てんなよ」
伊織が前を向いたまま言う。
「その会話をしている時点で、二人とも最終日にやると思う」
「伊織、お前ん家泊まり行っていい?」
「宿題目的なら入れない」
「冷たい!」
土御門が微笑みながら続ける。
「それから、八月十五日には恒例の八咫祭があります。帰省している生徒も参加できますが、毎年必ず羽目を外す人が出ますので、今年はくれぐれも――朝比奈君?」
「俺まだ何もしてませんよ!?」
「去年を思い出しただけです」
教室が笑いに包まれる。
奎星が日向へ顔を近づけた。
「何したの?」
「ちょっと箒で祭りの提灯の間飛んだだけ」
楓が即座に振り返る。
「校舎三周したでしょう」
「楽しかったじゃん」
「私は追いかけて止めた側よ!」
「今年もやろうぜ奎星」
「やる!」
「やりません!」
楓の声が二人まとめて叩き落とした。
岳がしおりの祭り案内を眺めながら尋ねる。
「屋台ある?」
「そこ?」
伊織が訊く。
「重要だろ」
「去年は焼きそば、たこ焼き、焼き鳥、団子、かき氷」
日向が指を折りながら数える。
岳の目が本気になった。
「行く」
「今までで一番決断早いな」
奎星は笑いながら、四人の顔を順番に見た。
「じゃあ絶対行こうぜ」
楓も今度は止めなかった。
「もちろん」
「浴衣で来る?」
日向が訊く。
「何であなたが私に訊くの」
「いや普通に」
「顔が普通じゃない」
「どういう顔だよ!」
「気持ち悪い顔」
「伊織まで!?」
その騒ぎを眺めながら、奎星はしおりをぱらぱらとめくった。
宿題一覧。
帰省時の注意。
一般社会で使用してはならない魔法。
箒の持ち出し規定。
八咫祭の案内。
夏休み明けの予定。
最後の頁までめくったところで。
一枚だけ。
他の生徒のしおりにはない紙が挟まっていた。
「ん?」
奎星は紙を引き抜く。
上部には校長印。
その下。
数行の文章。
最初は何となく読んでいた。
しかし。
途中で。
目が止まった。
「…………」
日向が気づく。
「奎星?」
奎星は返事をしない。
「どうした?」
岳も覗き込む。
伊織が席から身体を寄せる。
楓も見る。
紙には。
こう書かれていた。
上級課程二年 蓮根奎星について、魔力制御能力および生活適応状況を審査した結果、第二学期より学生寮への入寮を許可する。
奎星の手が。
僅かに震える。
その続き。
居室は、榊伊織、岩戸岳、朝比奈日向と同室とする。
沈黙。
最初に声を出したのは日向だった。
「……マジ?」
岳が奎星の肩越しに紙を見る。
「同じ部屋?」
伊織が眼鏡を上げる。
「四人部屋になるってことか」
奎星は。
まだ。
紙を見ていた。
入学した頃。
夜間の魔力が安定していなかったため、自分だけ寮へ移ることができなかった。
昼間はみんなと授業を受けられるようになっても。
夕方になれば。
一人で森の端の小部屋へ帰った。
寮の話をする友人たちを見て。
いいな。
と。
何度も思った。
それが。
終わる。
「……俺」
奎星が顔を上げる。
声が少し震えていた。
「寮入れんの?」
楓が笑った。
「そう書いてあるでしょう」
日向が口角を上げる。
「ようこそ、地獄の四人部屋へ」
「お前が一番うるさそう」
伊織が言う。
岳は既に真剣な顔になっていた。
「奎星」
「何?」
「夜食は持ち込み可だ」
奎星の目が輝く。
「マジ!?」
「そこから!?」
楓が呆れる。
日向は笑いながら奎星の肩へ腕を回した。
「これで夜も遊べるな!」
「いやっほおおおおおお!!」
「宿題してくださいね」
土御門の声が飛ぶ。
奎星は机から立ち上がった。
「先生!」
「はい?」
「俺、寮入っていいの!?」
土御門は少しだけ驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「ええ。おめでとう、蓮根君」
その言葉を聞いた瞬間。
奎星は。
教室を飛び出した。
「え、奎星!?」
楓が叫ぶ。
「どこ行くんだよ!」
日向が笑いながら追う。
「知らん! でも楽しそうだから行く!」
岳も走り、伊織は一度だけ溜息をついてから、結局その後を追った。
奎星は廊下を駆け抜けた。
一階へ。
階段を二段飛ばしで下り。
肖像画の紀伊先生から「廊下を走るな!」と怒鳴られ。
「今日だけ許して!」
と叫び返し。
そのまま。
中庭へ飛び出した。
夏の日差し。
青い空。
白く輝く羊脂玉の校舎。
海から吹く風。
昼休み前の中庭には下級課程、中級課程、上級課程の生徒たちがそれぞれ夏休み前の開放感を持て余しながら歩いていた。
奎星は中庭の真ん中まで走ると。
神代榊の杖を抜いた。
周囲の生徒が。
何事かと見る。
二階の回廊には。
資料を抱えたスズメがいた。
奎星と。
目が合う。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です!」
もう。
反射だった。
奎星は紙を頭上へ掲げた。
「入寮決まった!!」
スズメが一瞬、目を見開く。
そして。
あの日。
奎星が初めて二年二組へ入った日のように。
少しだけ周囲を確認してから。
小さく。
親指を立てた。
奎星も。
笑顔で。
親指を返した。
そのまま。
杖を空へ向ける。
「よっしゃああああ!!」
杖先から。
大きな炎が。
真昼の空へ吹き上がった。
赤と金の火花が高く上がり。
上空で。
巨大な花のように弾ける。
「入寮が決まったぞおおおおおおお!!!」
中庭が。
静かになった。
何も事情を知らない下級課程の子供が。
一人。
手を上げた。
「おめでとー!」
奎星が即座に指を差す。
「ありがとおおお!!」
すると。
隣の子も。
「おめでとう!」
「おめでとー!」
何が何だか分からないまま。
下級生たちが騒ぎ始めた。
中級課程の生徒が面白がって杖から紙吹雪を出し。
誰かが鐘を鳴らし。
上級課程では。
「あ、あいつ第零書庫の蓮根じゃん」
「寮入れたらしいぞ!」
「よく分かんないけどおめでとー!」
と声が上がる。
数秒後には。
中庭全体が。
祭りのようになっていた。
「おめでとおおお!!」
「蓮根ー!」
「寮生活頑張れー!」
「誰か知らんけどおめでとう!」
「俺も知らんけどありがとー!!」
奎星は笑いながら両手を上げた。
そこへ。
日向たちが追いつく。
「何で学校中巻き込んでんだよ!」
日向が爆笑する。
「知らん! なんかこうなった!」
「奎星らしいわ……」
楓は頭を抱えているのに、顔は笑っていた。
岳は下級生からなぜか祝いの饅頭を一個もらっている。
伊織は空から降ってくる紙吹雪を肩から払いながら呟いた。
「入寮だけでここまで騒げる人、初めて見た」
「記念日だからな!」
「何の?」
「俺が孤独な一人暮らしを卒業する日!」
「一人暮らしじゃなくて隔離棟だろ」
「言い方!」
二階の回廊で。
スズメは。
騒ぎの中心にいる奎星を見つめていた。
一か月半前。
あの少年は。
一人だった。
自分の力さえ知らず。
将来も。
やりたいことも。
特になく。
ただ。
三食出るから。
そんな理由で。
マホウトコロへ来た。
今は。
友人に囲まれて。
学校中を巻き込み。
自分の居場所ができたことを。
全身で喜んでいる。
スズメは。
少しだけ。
目を細めた。
「本当に……騒がしい人ですね」
その声は。
少し。
嬉しそうだった。
だが。
当然ながら。
無許可で中庭に火柱を上げた生徒が。
無事に済むはずもなかった。
回廊の向こうから。
地響きのような声が飛んできた。
「蓮根ぇぇぇぇぇぇ!!!」
奎星の身体が。
びくりと止まる。
全校生徒の視線が。
声の方向へ向く。
御影玄一郎が。
鬼のような顔で立っていた。
「校内で無許可の火炎呪文を使うな!!」
奎星は。
しばらく考え。
笑った。
「夏休みだからセーフ!!」
「まだ始まってない!」
「今始まった!!」
「待て蓮根!」
「逃げろおおおおお!!」
奎星が走る。
日向が。
即座についていく。
「おっしゃ!」
「何であなたまで逃げるのよ!」
楓も追う。
岳も。
饅頭を口へ入れてから走る。
伊織も。
「結局こうなるんだね」
と呆れながら。
四人の後を追った。
御影の怒鳴り声。
生徒たちの笑い声。
夏の空へ響く鐘。
白い校舎の向こうには。
どこまでも青い海が広がっていた。
やりたいことは。
まだ一つには決まっていない。
自分が何者なのかも。
神代榊の杖がなぜ自分を選んだのかも。
あの青白い古代魔術が何なのかも。
分からないことばかりだった。
それでも。
蓮根奎星は。
もう。
「なんとかなる」だけで。
未来を見てはいなかった。
会いたい人がいる。
追いつきたい背中がある。
知りたい魔法がある。
一緒に笑いたい友達がいる。
そして。
帰ってきたい場所がある。
それだけでも。
今は。
十分だった。
「蓮根! 止まれ!!」
「夏休みの俺は誰にも止められねええええ!!」
「まだ授業日だと言ってるだろうが!!」
笑い声を残しながら。
五人は。
夏の校舎を駆け抜けていった。
こうして。
蓮根奎星の。
長くて。
騒がしくて。
少し危険な。
マホウトコロでの最初の一学期は終わった。
そして。
もっと騒がしい。
彼らの夏休みが。
始まる。
マホウトコロ シーズン1「天才と古代魔術」 完