海には、道がない。
少なくとも蓮根奎星にはそう見えた。
どこまで飛んでも青だった。
頭上には空があり、足元には海がある。それだけである。
東京の街並みが地平の彼方へ消えてから、ずいぶん経った気がする。
巨大なウミツバメは、その広げた翼をほとんど動かさず、上昇気流に身体を預けるようにして南へ滑っていた。
奎星は最初こそ、
「うおおお、海すげえ!」
だの、
「船ちっさ!」
だの、
「雲触れるかな!」
だの騒いでいたが、三十分もするとやることがなくなった。
スマートフォンを取り出す。
圏外。
「…………」
しまう。
また取り出す。
圏外。
「…………」
しまう。
三度目。
「何度見ても圏外ですよ」
前に座るスズメが言った。
「ワンチャンあるだろ」
「ありません」
「魔法学校ってWi-Fiある?」
「あります」
「マジ?」
「ただし授業中の携帯端末の使用は禁止されています」
「終わってんな魔法界」
「入学前から校則に文句を言うのをやめてください」
風に黒髪を揺らしながら、スズメは前を向いている。
昨日の夜から見慣れてきた横顔だった。
年齢に似合わず落ち着き払っていて、喋り方にも妙な隙がない。
奎星はしばらくその後頭部を眺めた。
「ねえ、スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「学校の説明してよ」
「今まさにしようと思っていました」
「気が合うじゃん」
「合っていません」
スズメがわずかに身体を横へ向ける。
「国立魔法学校マホウトコロには、七歳から十八歳までの生徒が在籍しています」
「小学生もいるってこと?」
「一般社会に合わせて説明するなら、その理解で構いません。下級課程が六年間、中級課程が三年間、上級課程が三年間です」
スズメは指を一本ずつ立てた。
「下級課程では、読み書きや算術など一般的な基礎教育に加え、魔法社会の常識、初歩的な魔力制御を学びます」
「九九とかやんの?」
「やります」
「魔法使いでも?」
「魔法使いだからといって七の段を免除される理由がありますか?」
「魔法で答え出せばよくね?」
「あなたのような人間を生み出さないために教育があります」
「ひど」
「中級課程から本格的な杖による魔法教育が始まり、上級課程ではより専門的な魔法を学びます。あなたは十七歳ですから――」
「上級二年」
「よく覚えていましたね」
「昨日聞いたからな」
「褒めて損をしました」
「褒め続けていいよ?」
「結構です」
奎星はウミツバメの背中に寝そべるようにして空を見上げた。
魔法学校。
その言葉が、まだ妙に現実離れしている。
昨日まで彼にとって学校といえば、眠い一時間目、教師に没収されるスマートフォン、昼休みの購買、放課後のゲームセンターだった。
それが今日からは、魔法である。
「授業って何すんの?」
「様々です」
「たとえば?」
「呪文学、変身術、薬草学、天文学、魔法生物飼育学、飛行術。上級課程では選択科目も増えます」
「おお……」
「そして魔法薬学」
「あ、なんかそれ楽しそう」
「担当は薬師寺和政先生です」
「どんな人?」
「おじいちゃんです」
あまりにも簡潔だった。
「先生の紹介それでいいの?」
「適切です」
「何歳?」
「知りません」
「同僚だろ?」
「私が入学したときには、すでにおじいちゃんでした」
奎星が身体を起こした。
「スズメちゃんが入学したときって何年前?」
「烏丸先生です。十四年前です」
「え」
奎星は彼女の顔を見る。
「何歳なの?」
「二十一です」
「若っ!」
「声が大きいです」
「二十一で先生なの!?」
「資格は取得しています」
「俺と四つしか違わねえじゃん」
「その四年間に、とてつもなく深い知性の隔たりがあります」
「むかつくなあ」
スズメは無視した。
「魔法史は私が担当します」
「寝そう」
「単位を落としますよ」
「面白くしてよ」
「歴史というものは十分面白いものです」
「年号覚える?」
「覚えます」
「寝るわ」
「落とします」
「脅迫じゃん」
「予告です」
スズメの声は淡々としていた。
だが、少しだけ楽しんでいるようにも聞こえた。
「それから、闇の魔術に対する防衛術」
奎星の表情が変わった。
「闇の魔術?」
「はい」
「何それ。名前カッコよ」
「その感想を持つ時点で、あなたには特に必要な授業ですね」
「で、闇の魔術って何?」
スズメは少しだけ空を見る。
遠くの雲が、夏の入り口を告げるように白く膨らんでいた。
「魔法使いだからといって、善良な者ばかりではありません」
声音が、わずかに低くなった。
「魔法を他者を傷つけるために用いる者。自らの利益のために人を操る者。禁じられた術を追い求める者。そうした魔法使いは、一般に闇の魔法使いと呼ばれています」
「犯罪者ってこと?」
「平たく言えば」
奎星は少し考えた。
「じゃあ警察みたいなのもいんの?」
「います」
「魔法警察?」
「正式には禍祓官(まがばらいかん)と呼ばれています」
「まが……?」
「禍祓官。魔法犯罪の捜査、危険な魔法使いの拘束、呪物や禁術に関する事件への対処などを専門とする職です」
「へえ」
奎星は妙に感心した。
「カッコいいな」
「死亡率も低くありません」
「やっぱやめとこ」
「決断が早いですね」
「命大事」
「その精神だけは大切にしてください」
「学校にも元禍祓官とかいんの?」
「います」
スズメは答えた。
「闇の魔術に対する防衛術を担当されている、御影玄一郎先生です」
「何歳?」
「四十七歳です」
「強い?」
「強いです」
即答だった。
さっきまでの薬師寺の紹介とは違う。
奎星がそれに気づいた。
「どんくらい?」
「十年ほど前まで、禍祓官の第一線にいました。魔法界ではかなり名の知られた方です」
「へえー……」
「実戦経験で御影先生以上の教員は、校内でもそう多くありません」
奎星は少し身を乗り出した。
「スズメちゃんは?」
「烏丸先生です」
「強いの?」
「あなたよりは強いですよ」
「むかつく!」
「事実です」
「俺、昨日魔法に目覚めたばっかじゃん!」
「だから事実でしょう」
「比較対象が卑怯だろ!」
巨大な鳥の背で言い争う二人の声は、風の中へ流れていった。
*
やがて。
海の色が変わった。
濃紺だった水面に、黒い岩肌が現れる。
奎星が目を細めた。
「……島?」
スズメが前方を見る。
「到着します」
南硫黄島。
一般社会において、人の定住を拒む絶海の孤島。
険しい海食崖に囲まれた火山島。
けれども。
奎星が見ていたものは、彼が地理の教科書で見た南硫黄島とは、明らかに違っていた。
ウミツバメが雲を一枚抜ける。
その瞬間。
島を包んでいた何かが、水面へ落ちる薄布のように消えた。
奎星は息を呑んだ。
「…………うわ」
山があった。
その頂に、
宮殿があった。
白。
しかし、ただの白ではない。
青い海の光を含み、ところどころ淡い乳色や翡翠色に透き通る巨大な建築物。
石造りにも見える。
けれど石ほど鈍くない。
陶器のようでもあり、巨大な宝石を削り出したようでもあった。
羊脂玉。
長い年月を経た淡い玉の壁が山頂を覆い、いくつもの棟と回廊が崖の形に沿うように連なっている。
瓦屋根に似た曲線を持ちながら、屋根の端は鳥の翼のように空へ反り、軒先からは小さな銀色の鈴が何百と吊るされていた。
風が通る。
しゃらり。
遥か上空にいるはずなのに。
なぜか、その音だけは奎星の耳まで届いた。
「……城じゃん」
「学校です」
「学校っていう規模じゃねえだろ」
山頂から少し下った場所には、いくつもの建物が見えた。
大きな中庭。
弓なりの橋。
水を湛えた池。
石畳の道。
朱色の鳥居にも似た門。
そして空には、生徒たちがいた。
「飛んでる!」
箒に跨がった子どもたちが、空中を横切っていく。
その下では、淡い色のローブを着た生徒たちが歩いていた。
最も多いのは淡い桃色。
それより少し濃い桜色。
さらに深い赤みを帯びたもの。
中には、夕日に照らされると金色に近く見える衣をまとった生徒までいる。
「服の色、みんな違くね?」
「マホウトコロの制服は、魔法の習熟度に応じて色を変えます」
「へえ」
「最初は淡い桃色です。学び、成長するにつれて色が深くなっていきます」
「じゃあ金色は?」
「極めて優秀な生徒です」
奎星が金色のローブの生徒を目で追う。
「俺もすぐ金になるかもな」
「その自信はどこから湧いてくるのですか」
「才能?」
「まだ何も測っていません」
「俺、昨日リモコン飛ばしたよ」
「それを才能の根拠にする人は初めて見ました」
ウミツバメが高度を落とす。
風が強くなる。
奎星は思わずスズメの肩を掴んだ。
「ちょ、速い速い!」
「掴まないでください」
「落ちる!」
「落ちません」
「昨日たぶんって言ったじゃん!」
「冗談です」
「分かりづらいんだよ!」
山肌の一角に、広い着陸場があった。
何羽もの巨大なウミツバメが羽を休めている。
一羽が離陸するたび、突風が吹き荒れた。
生徒たちは慣れた様子で鳥を避けながら歩いている。
奎星たちのウミツバメが着地した。
ずしん。
足元が揺れた。
「おお……」
奎星は背中から降りる。
地面に足が着く。
海の匂い。
湿った土の匂い。
知らない花の甘い匂い。
空気そのものが、東京とは違う気がした。
呼吸をすると、胸の奥まで妙に冷たい。
奎星は周囲を見回す。
階段を駆け上がっていく小さな子ども。
杖を振りながら談笑する上級生。
籠から逃げたらしい青い蜥蜴を追いかけ回している教師。
箒を肩に担いだ少女。
木陰で、本が宙に浮いたままページだけが勝手にめくられている。
知らないものばかりだった。
そのくせ。
笑い声だけは、前の学校とあまり変わらなかった。
「…………」
奎星はその光景を眺めた。
胸の中のどこかが、ふっと軽くなる。
「友達できるかなぁ」
口から自然に出た。
スズメが横を見る。
「心配なのですか?」
「別に」
「今、ご自分で言ったでしょう」
「独り言」
「私に聞こえれば会話です」
「うるせえなあ」
奎星は頭を掻いた。
「まあ俺、コミュ力高いし」
「昨夜、初対面の私を食べようとしましたが」
「友達にはそんなことしないよ」
「初対面にはするのですね」
「腹減ってたから」
スズメは何とも言えない顔をした。
そして歩き出す。
「では、まずこちらへ」
「寮?」
「違います」
「クラス?」
「違います」
「飯?」
「違います」
「じゃあ何」
スズメは立ち止まらなかった。
「検査です」
「…………帰っていい?」
「駄目です」
*
案内された場所は、奎星が想像していた魔法学校らしい建物とは少し違っていた。
校舎から離れた一角。
体育館ほどの大きさを持つ、四角い建造物。
羊脂玉の宮殿が優美な曲線と光をまとっているのに対し、こちらにはほとんど装飾がない。
灰色。
壁は分厚く、窓も少ない。
寺というより防空壕に近い。
奎星は見上げた。
「ここだけ刑務所じゃね?」
「魔力測定棟です」
「爆発とかするから?」
「します」
「マジで?」
「稀に」
奎星は入口で足を止めた。
「俺、外で待ってる」
「入りなさい」
背中を押された。
「先生、生徒に対して扱い雑じゃない?」
「あなたが進まないからです」
重い扉が開く。
中は広かった。
天井が高い。
床も壁も灰色の素材で覆われ、中央にぽつんと台が置かれている。
その上に、
巨大な水晶があった。
人の頭ほどの透明な球体。
内部には煙のようなものがゆっくり渦巻いている。
その向こう。
一本の長机。
三人の人物が座っていた。
真ん中にいる女が立ち上がる。
「お待ちしておりました」
声は柔らかかった。
年齢は五十代後半ほど。
小柄で、ふっくらとした体つき。
淡い薄紅色の着物に、藤色の羽織を合わせている。胸元には小さな真珠の飾り。髪は艶やかに整えられ、丸みのある輪郭には穏やかな微笑が浮かんでいた。
一見すれば、上品で優しそうな婦人だった。
ただし。
目だけが違った。
細く笑っているはずなのに、瞳の奥には冷たい光がある。
人の皮膚ではなく、その向こう側にある何かを見ようとしているような目。
「初めまして、蓮根奎星さん」
女は両手を前で揃えた。
「国立魔法学校マホウトコロ校長、九重院紫苑です」
「あ、どうも」
「手紙は読んでいただけましたか?」
「はい」
スズメが横から言う。
「捨てました」
「言わなくてよくない!?」
九重院は微笑んだまま。
「まあ」
と言った。
それだけだった。
怒っているのか怒っていないのか、まるで分からない。
奎星は別の二人を見る。
左側。
怖い。
まずそう思った。
黒い短髪。
太い眉。
四十代後半ほどの大柄な男。
左の頬を、耳の下から口元近くまで深い傷痕が走っている。
腕を組み、椅子に座っているだけなのに、そこだけ空気が重かった。
目が合った。
奎星は反射的に逸らした。
「あの人?」
小声でスズメに訊く。
「御影玄一郎先生です」
「禍祓官の?」
御影が低い声で言った。
「元だ」
聞こえていた。
「耳いいっすね」
「普通だ」
「怖っ」
「聞こえてるぞ」
「すみません」
もう一人。
白髪。
白い眉。
白い髭。
年齢を尋ねるのをためらうくらい見事なおじいちゃんだった。
茶色い和装の上に、薬草らしきものを大量に詰め込んだ羽織を着ている。
鼻の上には丸眼鏡。
そして、奎星と目が合うと。
「ふぉっふぉっふぉ」
本当に笑った。
奎星はスズメを見る。
「ほんとにふぉっふぉっふぉ系じゃん」
「でしょう?」
「聞こえとるぞい」
「すみません」
老人は楽しそうに髭を撫でる。
「薬師寺和政じゃ。魔法薬学を教えとる」
「何歳ですか?」
「さてのう」
「先生も知らないんすか」
「百を超えてから数えるのをやめたわい」
「マジ!?」
「ふぉっふぉっふぉ」
奎星はスズメを見る。
「この人すげえな」
「だから申し上げたでしょう。おじいちゃんです」
「分類が雑すぎる」
九重院が小さく手を叩いた。
ぱん。
「では、始めましょうか」
部屋の空気が締まった。
奎星は中央へ呼ばれる。
水晶の前に立つ。
「まずは魔力量を測定します」
九重院が説明する。
「魔力量?」
「体内に保持できる魔力の総量です」
「戦闘力みたいな?」
「表現は少々幼いですが、おおむね近いでしょう」
「どんくらいあれば強いの?」
九重院は水晶へ触れる。
「成人した魔法使いの平均値を、およそ百として考えます」
「百」
奎星は御影を見る。
「御影先生は?」
御影が嫌そうな顔をした。
九重院が微笑む。
「約五百です」
奎星の目が丸くなる。
「五倍!?」
「現役の禍祓官の中でも、かなり高い水準でした」
「すげえ……」
御影は何も言わない。
「じゃ、校長先生は?」
一瞬。
スズメが九重院を見た。
九重院は相変わらず微笑んでいる。
「最後に測定した際は、千を少し超えていました」
「千!?」
奎星の声が建物に響いた。
「十倍じゃん!」
「魔力量だけで魔法使いの力量が決まるわけではありませんよ」
「でもすげえ」
「ありがとうございます」
奎星は水晶を見る。
「俺、三十くらいだったらどうしよ」
「昨日の現象を見る限り、それはないと思います」
スズメが言った。
九重院は机の下から細長い箱を取り出した。
黒い漆塗り。
銀色の留め具。
蓋を開く。
一本の杖が入っていた。
奎星の目が吸い寄せられた。
全体は黒に近い焦茶。
表面は磨き上げられているが、完全に滑らかではなく、木そのものが持つ細い節や筋が残されている。
握り手の部分には、炎を思わせる細かな彫刻。
長さは三十数センチほど。
何の変哲もない木の棒。
そう言ってしまえば、それだけのものなのに。
奎星はなぜか目を離せなかった。
「こちらを」
九重院が差し出す。
奎星が受け取った。
その瞬間。
「…………」
指先から腕へ。
細い電流のようなものが走った。
痛くない。
むしろ逆だった。
気持ちがいい。
長いこと探していた自分の物が、ようやく手元へ戻ってきたような。
握り方すら知らないはずなのに。
手に馴染む。
「なんか……」
奎星が杖を眺める。
「これ、変な感じする」
九重院の笑みが、一瞬だけ消えた。
ほんの一瞬。
スズメにも気づかないほど短い変化だった。
「神代榊の木です」
九重院は言った。
「芯には鬼火鳥の尾羽が一本使われています」
「鬼火鳥?」
「日本列島にのみ生息する、非常に珍しい魔法動物です。成熟個体は青白い炎をまとって飛びます」
奎星は杖を振ってみた。
「高い?」
「値段のお話ですか?」
「うん」
「まずそこを気にするのですね」
スズメが呆れた。
だが奎星は杖から目を離さなかった。
「これ、俺の?」
「ええ」
九重院が答える。
「今日からあなたの杖です」
「新品?」
また一瞬。
九重院の目が細くなった。
「……いいえ」
奎星が顔を上げる。
「中古?」
「その表現はあまり好ましくありませんね」
「じゃあ誰か使ってたの?」
沈黙。
薬師寺が九重院を見る。
御影もわずかに視線を動かした。
スズメだけが、そのやり取りの意味を知らないらしい。
九重院はまた、柔らかな微笑を浮かべた。
「いずれ、お話しできる日が来るでしょう」
「何それ。気になる」
「今は検査を」
露骨に話を切られた。
奎星は口を尖らせる。
「大人ってすぐそれ言うよな」
「私は二十一ですが」
「スズメちゃんは黙ってて」
「烏丸先生です」
九重院が水晶を示す。
「杖先を向けてください」
奎星は言われるまま、水晶へ杖を向ける。
「どうやんの?」
スズメが隣へ来る。
「目を閉じても構いません。身体の中に流れているものを意識してください」
「血?」
「もう少し抽象的に」
「コーラ?」
「なぜあなたの体内をコーラが流れているのですか」
「昨日飲んだから」
スズメは目を閉じた。
怒りを鎮めているようだった。
「……液体を想像してください」
「はい」
「胸の奥から腕へ。それがゆっくり流れて、指先を通り、杖へ伝わっていく」
奎星は目を閉じた。
最初は分からなかった。
身体の中。
魔力。
そんなものを意識したことなど一度もない。
けれど。
静かに呼吸すると。
あった。
胸の奥。
心臓とは少し違う場所。
熱い。
そこに何かが溜まっている。
水ではない。
炎でもない。
両方に似ている。
奎星が意識を向けた瞬間、それが動いた。
「……あ」
腕へ流れる。
肩。
肘。
手首。
掌。
杖。
そして。
水晶。
ぱっ。
内部に光が灯った。
「おお」
奎星が目を開ける。
水晶の内部で、白い数字が浮かび上がっている。
十二。
それが上昇した。
二十。
五十。
百。
「お、平均!」
奎星が笑う。
だが数字は止まらない。
百五十。
二百。
三百。
御影が腕組みを解いた。
四百。
五百。
「え」
奎星が御影を見る。
御影は水晶だけを見ている。
六百。
七百。
八百。
薬師寺の笑みが消えた。
九百。
九百五十。
九百九十九。
千。
奎星が息を呑む。
九重院と同じ。
そこまでは、まだ理解できた。
次の瞬間。
一二〇〇。
「…………」
千五百。
千八百。
二千。
誰も喋らなくなった。
数字だけが、恐ろしい速度で駆け上がる。
二千五百。
三千。
「おい」
御影が初めて声を発した。
低い声だった。
「まだ上がるのか」
三千五百。
水晶内部の光が強くなる。
四千。
床に微かな振動が走った。
スズメが奎星を見る。
「蓮根君、無理は――」
「俺、何もしてない」
本当だった。
奎星はただ杖を向けているだけ。
むしろ今では、流すのを止めようとしていた。
だが。
止まらない。
四千三百。
四千五百。
水晶の表面に、
ぴし。
細い亀裂が入った。
「え」
四千七百。
ぴし。
亀裂が増える。
九重院が椅子から立ち上がった。
四千八百。
四千九百。
「蓮根君、杖を離してください!」
スズメが叫んだ。
「どうやって!?」
四千九百七十。
四千九百九十。
四千九百九十九。
数字が一瞬、
五〇〇〇
へ変わろうとした。
その瞬間。
ぱんっ。
水晶が爆ぜた。
「うわぁっ!」
奎星は腕で顔を庇り、後ろへ倒れ込んだ。
透明な破片が四方へ飛ぶ。
はずだった。
空中で、
すべて止まっていた。
数百もの水晶片が、奎星を囲むように宙に浮いている。
九重院が杖を向けていた。
先ほどまでの柔らかな婦人の顔ではない。
鋭い眼差し。
ほんの一瞬だけ。
そこにいたのは、巨大な魔力を完全に掌握する、一人の魔女だった。
九重院が杖を軽く振る。
破片が床へ。
さらさら。
砂のように落ちた。
沈黙。
奎星は尻餅をついたまま、水晶があった場所を見る。
台の上には、もう何もない。
「…………壊した」
「そこですか?」
スズメの声が震えていた。
奎星が振り向く。
彼女は目を見開いている。
昨日から、一度も見たことのない顔だった。
御影も。
薬師寺も。
九重院も。
三者三様。
だが全員が奎星を見ている。
薬師寺がゆっくり眼鏡を外した。
布で拭く。
もう一度かけた。
「ふぉ……」
笑おうとして。
笑えなかった。
「こりゃあ……」
御影が割れた水晶を見る。
「測定上限はいくつだ」
九重院が答える。
「五千です」
「つまり」
「測定不能です」
静かな言葉だった。
奎星だけが、その意味をまだよく分かっていない。
「えっと」
手を挙げた。
「俺、怒られる?」
誰も答えなかった。
「これ高いやつ?」
「蓮根君」
スズメが呟いた。
「はい」
「……あなたを連れてきて、本当によかった」
奎星が少し考える。
そして。
にやり。
「俺ってもしかして天才?」
「調子に乗らないでください」
即答だった。
「なんで!?」
「魔力量が多いことと魔法が上手いことは別問題です」
「でも五千だよ?」
「測定不能です」
「もっとすごいじゃん!」
「九重院先生」
スズメが校長を見る。
「次の検査をお願いします」
「無視!?」
九重院が静かに頷いた。
ただ。
その目だけは。
先ほど奎星へ渡した杖と、
奎星自身を、
交互に見ていた。
*
「次は魔力制御の試験です」
新しい台が置かれた。
その上に一本の羽根。
白い。
軽い。
奎星は杖を構える。
「簡単じゃん」
スズメが隣に立つ。
「昨日、私があなたに使用した魔法を覚えていますか」
「俺が浮いたやつ?」
「はい」
「ウィン……ガーデン?」
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
「長いな」
「覚えてください」
スズメは杖を持つ。
「杖の動きはこうです」
手首を柔らかく。
小さく振る。
「力を込めすぎない」
「はいはい」
「呪文も明瞭に」
「了解」
「特にあなたの場合、魔力を流しすぎないこと」
奎星は杖を構えた。
「任せろ」
「その自信が不安です」
「いくぞ」
羽根へ向ける。
深呼吸。
少しだけ。
さっきの水晶とは違う。
本当に少しだけ魔力を流す。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
ぼっ。
羽根が消えた。
「…………」
奎星が瞬きをする。
次の瞬間。
ドンッ!!
頭上から鈍い音が響いた。
全員が天井を見る。
羽根が。
天井に刺さっていた。
正確には。
羽根の軸が、頑丈な天井材へ深々とめり込んでいる。
奎星は口を開けた。
「…………羽根だよね?」
スズメが額に手を当てた。
御影は手元の帳面へ何か書く。
カリカリカリ。
九重院も書く。
カリカリカリカリ。
奎星が不安そうに二人を見る。
「何書いてんの?」
返事はない。
さらに書く。
「ねえ」
カリカリ。
奎星はスズメを見る。
「天才だって?」
「おそらく評価は悪いですよ」
「え、ええ……」
「対象物を十五センチ浮遊させる試験で、天井へ打ち込んだのですから」
「でも浮いたじゃん」
「銃弾も空中を移動しますが浮遊とは言いません」
「厳しいな魔法界」
「物理界でも同じです」
次はコップを十センチ移動させる試験。
奎星が杖を振る。
コップが三メートル飛んだ。
御影が避ける。
壁に激突。
割れた。
次。
蝋燭へ火を灯す試験。
炎が一メートル上がった。
「熱っ!」
次。
小さな紙を机の端から端へ移動させる試験。
机ごと動いた。
「待て待て待て!」
次。
発光魔法。
部屋中が真昼のように白くなった。
「目がぁ!」
奎星だけが叫んでいた。
御影の筆だけが、
カリカリカリカリカリ。
止まらない。
やがて。
九重院が帳面を閉じた。
「以上です」
奎星は汗だくだった。
「……終わり?」
「ええ」
「結果は?」
「魔力量については、現時点では測定不能」
奎星の胸が少し膨らむ。
「制御力は?」
九重院が微笑んだ。
「極めて未熟です」
胸がしぼんだ。
「そんなハッキリ言う?」
「事実ですから」
奎星が肩を落とす。
スズメが横を通る。
「行きますよ」
「どこ」
「あなたの部屋です」
奎星が少し元気になった。
「寮?」
スズメは答えなかった。
*
夕方。
マホウトコロの空が、薄紫に染まり始めていた。
羊脂玉の校舎は西日を受けて淡い金色に光っている。
一日の授業を終えた生徒たちが、いくつもの道へ分かれて歩いていた。
下級生らしい小さな子どもたちは列になっている。
中級生は友人同士で騒いでいる。
上級生になると、どこか気怠そうに鞄を肩へ掛けている者もいる。
奎星は彼らを目で追った。
みな同じ方向。
いくつかの大きな建物へ向かっている。
「あれ寮?」
「はい」
「俺もあっち?」
「いいえ」
スズメは反対方向へ歩いている。
「…………え」
「こちらです」
「いや待って。みんなあっちじゃん」
「そうですね」
「俺、あっちじゃないの?」
「まだ蓮根君を、他の生徒と同じ場所へ置くことはできません」
奎星の足が止まる。
「なんで」
スズメも止まった。
夕日に照らされた彼女の顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
「十七歳での魔力覚醒は非常に珍しいことです」
「そうなの?」
「通常はもっと幼い段階で兆候が現れます。あなたの場合、十七年間蓄積され続けていた魔力が、一度に表面化している可能性があります」
奎星が自分の手を見る。
「それがさっきの五千?」
「関係はあるでしょう」
「でも別に俺、誰か殴ったりしないよ」
「先ほどの羽根が」
スズメが言う。
「人間だったと想像してみてください」
奎星は黙った。
天井。
めり込んだ羽根。
もし。
あそこに友達の頭があったら。
「…………」
「理解しましたか?」
「……わかったよ」
ふざけた声ではなかった。
スズメもそれ以上何も言わなかった。
二人はさらに校舎から離れる。
道は細くなる。
木々が増える。
鳥の声。
海の音。
十分ほど歩いた場所。
森の端に、小さな建物があった。
木造。
平屋。
古い茶室のようにも見える。
「ここ?」
「はい」
「俺だけ?」
「当面は」
「…………隔離じゃん」
スズメは一瞬黙った。
「そう呼びたければ」
否定しなかった。
扉を開く。
中は六畳ほどの和室だった。
畳。
低い丸机。
座布団。
壁際には小さな棚。
押し入れ。
一組の布団。
窓の外には木々が見える。
奎星は中へ入った。
「せま」
「一人なら十分でしょう」
「テレビは?」
「ありません」
「終わった」
「本ならあります」
「もっと終わった」
スズメが壁を軽く叩く。
「この建物全体に、特殊な結界が張られています」
「結界?」
「外へ向かう魔力を吸収し、分散させます。多少暴走しても、外部への被害を抑えられる」
「刑務所じゃん」
「あなたのためでもあります」
「俺の?」
「暴走して他人を傷つければ、最も後悔するのはあなたでしょう」
奎星は黙った。
スズメは続ける。
「魔力が安定するまで、ここで私が基礎学習と魔法制御を教えます」
「…………え?」
「何です?」
「ここで?」
「はい」
「学校来たのに?」
「学校の敷地内です」
「クラスは?」
「まだ参加できません」
「友達は?」
「まだです」
「大食堂は?」
「まだです」
奎星の顔色が変わった。
「待って」
「はい」
「昨日言ったよな?」
「何をです?」
「朝昼晩、大食堂でみんなと飯食うって!」
「通常の寄宿生は」
「詐欺じゃん!」
「あなたが通常ではありません」
「一番傷つく言い方!」
スズメは時計を見る。
「では夕食を持ってきますので、お待ちください」
「ここで一人で食うの!?」
「はい」
「俺、三食に釣られて来たんだけど!」
「三食は出ます」
「契約の穴を突くな!」
「では」
スズメは去った。
扉が閉まる。
しん。
急に静かになる。
奎星は部屋を見回した。
「…………」
低い机。
座布団。
布団。
棚。
「マジかよ」
畳に倒れ込む。
天井を眺める。
「魔法学校来て初日に隔離て」
五秒。
十秒。
奎星がむくりと起きた。
部屋の隅にクッションがある。
見る。
杖を見る。
「…………」
周囲を確認する。
誰もいない。
「ちょっとだけなら」
杖を構える。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
ぼんっ。
クッションが天井へ吹っ飛んだ。
ばふっ。
そのまま張り付いた。
「…………」
奎星は上を見る。
「またか」
杖を振る。
「降りろ」
何も起きない。
「来い」
何も起きない。
「下!」
何も起きない。
「……まあいいか」
扉が開いた。
スズメが立っていた。
「…………」
奎星。
スズメ。
天井のクッション。
三者の間に沈黙。
「何をしているのですか」
「自主練」
「私がいない間は魔法を使わないでください」
「言われてない」
「今言いました」
スズメが杖を振る。
クッションがふわりと天井から離れ、
ぽす。
元の位置へ戻る。
奎星が目を輝かせる。
「うま」
「教師ですから」
スズメは大きなお盆を机へ置いた。
炊きたての白米。
味噌汁。
焼いた魚。
出汁巻き卵。
煮物。
漬物。
湯気。
奎星の表情が一変した。
「うまそ!」
「先ほどまで文句を言っていた人とは思えませんね」
「飯に罪はない」
座布団に座る。
箸を取ろうとして。
奎星が止まった。
スズメは立っている。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「スズメちゃんもここで食ってってよ」
「烏丸先生です。私は研究室で食事をします」
「いいじゃん」
「駄目です」
「なんで」
「仕事があります」
奎星は急に神妙な顔になった。
「いや俺さ」
「はい」
「今日一日で色々ありすぎて」
「そうですね」
「聞きたいことが山ほどあるんだよ」
「明日聞いてください」
「考えすぎて夜中に魔力暴走するかもしれない」
スズメが止まった。
奎星は真剣な顔をしている。
「精神的な安定って大事だと思う」
「…………」
「俺が不安で眠れなくて、五千超えの魔力がドカーンって」
「言い方が腹立たしいですね」
「安全のため」
「あなた、ただ一人で食事をしたくないだけでしょう」
「…………」
「…………」
「それもある」
スズメは深く。
深く。
ため息をついた。
「分かりました」
「よっしゃ」
「一度だけです」
「さすがスズメちゃん」
「烏丸先生です」
彼女は袖から小さな折り鶴を取り出した。
赤い和紙。
掌へ乗せる。
杖先で軽く触れる。
折り鶴が動いた。
ぱたぱた。
紙の翼を広げて宙へ浮く。
「おお」
「研究室にある夕食を、こちらへ運ぶよう伝えてください」
折り鶴は一度頭を下げる。
そして扉の隙間から飛び去った。
奎星が目を輝かせる。
「LINEじゃん」
「式紙です」
「既読つく?」
「つきません」
「不便」
「そこだけで判断しないでください」
数分後。
廊下から、
ぺた。
ぺた。
妙な足音がした。
奎星が振り返る。
扉が少しだけ開く。
何かが入ってきた。
「…………え?」
小さい。
膝くらいの高さしかない。
人の形に近い。
しかし人ではない。
大きな頭。
小さな身体。
褐色の肌。
耳は横へ尖り、鼻は小さい。
古びた藍染めの作務衣のような服を着ている。
両手で、自分の身体ほどもあるお盆を持っていた。
その上に夕食。
小さな妖怪はスズメを見る。
「トリマル」
スズメの眉が動いた。
「烏丸です」
「トリマル、ゴハン」
「烏丸です」
「ゴハン」
「そこではありません」
奎星が吹き出す。
「お前も間違えんじゃん!」
小妖が奎星を見る。
大きな黒い目。
首を傾げる。
「コレガ、レンコン?」
「蓮根だよ」
奎星が笑う。
「よろしくな」
「レンコン」
「蓮根」
「レンコン」
「まあいいか」
「よくありません」
なぜかスズメが訂正した。
奎星はリュックを漁った。
持ってきた菓子の袋。
小さなチョコレート菓子を一つ取り出す。
「これ食う?」
小妖の目が丸くなる。
「タベル」
「ほら」
「勝手にあげないでください」
「いいじゃん一個くらい」
小妖は両手で受け取った。
大事そうに胸へ抱える。
「レンコン」
「ん?」
「アリガト」
奎星が少し笑った。
「おう」
「蓮根です」
スズメが言った。
「スズメちゃんが突っ込むんだ」
小妖はぺこりと頭を下げる。
「トリマル、オヤスミ」
「烏丸です」
ぺたぺたと帰っていった。
奎星は扉の向こうを眺める。
「何あれ」
「小妖です」
「妖怪?」
「大きく分類するなら」
「学校に住んでんの?」
「多くの小妖が校内で働いています。料理や掃除、荷物運びなどを手伝っています」
「給料あんの?」
スズメが少し驚いたように奎星を見る。
「ありますよ」
「そりゃそうか」
奎星は箸を持った。
「いただきます」
「いただきます」
二人で食べ始める。
しばらくは静かだった。
奎星は魚を口へ運ぶ。
目を見開く。
「うま」
「そうですか」
「これ誰作ってんの?」
「調理担当の小妖と料理人です」
「毎日これ?」
「献立は変わります」
「入学してよかったかも」
「判断基準が一貫していますね」
奎星は米を頬張る。
そして。
「なあスズメちゃん」
「烏丸先生です」
「魔法使いって何人くらいいんの?」
「正確な人数は一般生徒には公開されていません」
「なんで?」
「国によって把握方法が異なるからです」
「日本には?」
「それも後ほど授業で」
「ケチ」
一口。
「箒ってマジで飛べんの?」
「飛べます」
「俺も?」
「基礎訓練の後です」
「いつ?」
「制御が安定してから」
「明日?」
「そんなわけがありません」
一口。
「透明になれる?」
「方法はいくつか」
「え、マジで!?」
「悪用する顔をしないでください」
「してねえよ」
「しています」
一口。
「人の心読める?」
スズメの箸が止まる。
「高度な技術ですが、存在します」
「じゃあ今俺が何考えてるか分かる?」
「分かりません」
「よかった」
「ろくでもないことですね」
「読めてんじゃん」
「推測です」
一口。
「死んだ人、生き返らせられる?」
奎星は何気なく聞いた。
スズメの箸が止まった。
ほんの少し。
部屋の空気が変わる。
「……できません」
それだけだった。
奎星は茶碗を見る。
白い米。
湯気。
「そっか」
「はい」
祖母の顔が一瞬浮かんだ。
病室。
細くなった腕。
最後の声。
――やりたいこと見つけな。
奎星は味噌汁を飲む。
「じゃあさ」
いつもの調子へ戻す。
「動物にはなれる?」
スズメも何も聞かなかった。
「なれます」
「スズメちゃんみたいに?」
「烏丸先生です」
「鴉だけに」
「しつこいですね」
「何でもなれるの?」
「いいえ。動物変身術には様々な制約があります」
「俺、龍がいい」
「無理でしょうね」
「なんで!」
「あなたの人格から推測して、せいぜい狸では」
「悪口じゃん!」
「親しみやすいという意味です」
「絶対違う!」
スズメが少し笑った。
ほんの一瞬だった。
奎星は見逃さなかった。
「あ」
スズメの顔が戻る。
「何です?」
「笑った?」
「笑っていません」
「笑ったよな今」
「気のせいです」
「いや絶対――」
「食べてください」
「照れてんの?」
「食べてください」
「スズメちゃ――」
「次に呼んだら明日の朝食は一人です」
「烏丸先生」
即座だった。
スズメはため息をつく。
「本当に現金ですね」
夕食は思っていたより長くなった。
奎星は質問し続けた。
魔法使いはスマートフォンを使うのか。
使う。
ゲームはあるのか。
ある。
魔法界にも芸能人はいるのか。
いる。
スポーツは。
ある。
恋愛は。
普通にする。
「先生、彼氏いる?」
「質問の趣旨が変わっています」
「気になるじゃん」
「答える必要はありません」
「いるんだ」
「いません」
「いないんだ」
「…………」
スズメの箸が止まった。
奎星は笑う。
「二十一だもんな」
「あなたを今から外へ放り出してもいいのですよ」
「魔法暴走するよ?」
「便利に使わないでください」
食器が空になる頃。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
島の夜は深い。
東京のように街灯の光で空が白くならない。
木々の向こうに、星が見える。
ひどく多い。
奎星は窓の外を眺めた。
「すげえな」
「何がです?」
「星」
スズメも少しだけ見る。
「この島には、一般社会の明かりがありませんから」
「東京と全然違うな」
「ええ」
短い沈黙。
奎星は畳へ手をついた。
「……本当に来たんだな、俺」
スズメは答えなかった。
その代わり、食器を盆へ戻した。
「明日の朝、朝食を持ってきます」
「何時?」
「七時です」
「寝坊したら?」
「起こします」
「優しいじゃん」
「魔法で」
「怖いな」
スズメは立ち上がった。
扉へ向かう。
奎星が呼ぶ。
「スズメちゃん」
彼女が振り返る。
「烏丸先生です」
今日だけで何度目だろう。
奎星は少し笑った。
「……今日はありがと」
スズメが一瞬だけ黙る。
「教師ですから」
「また明日な」
「はい」
扉が閉じた。
足音が遠ざかっていく。
一人。
静かになった。
奎星は布団を敷いた。
横になる。
天井を見る。
朝。
東京の家を出た。
空を飛んだ。
魔法学校へ来た。
魔力量を測った。
五千を超えた。
水晶を壊した。
羽根を天井へ刺した。
妖怪と会った。
二十一歳のおかっぱ教師と夕飯を食べた。
一日で起きたこととは思えない。
枕元に杖を置く。
神代榊。
鬼火鳥の羽根。
誰かが以前使っていた杖。
握った瞬間から。
なぜか自分の物だと思えた。
「…………誰のだったんだろ」
九重院紫苑の目が頭に浮かぶ。
あの人は知っている。
間違いなく。
奎星は杖を見つめた。
それから。
自分の掌を見る。
五千。
御影が五百。
校長が千。
自分は五千で、水晶が壊れた。
「……俺、やっぱ天才なんじゃね?」
誰もいないので、否定する者はいない。
少し気分がよくなる。
しかし。
天井に刺さった羽根を思い出す。
「…………」
気分がしぼむ。
布団を頭まで被った。
眠れない。
友達はできるだろうか。
授業についていけるだろうか。
魔法は使えるようになるのか。
あの杖は何なのか。
ばあちゃんは、この学校で何をしていたのか。
闇の魔法使い。
禍祓官。
箒。
小妖。
巨大なウミツバメ。
魔法。
魔法。
魔法。
頭の中に、知らない言葉ばかりが浮かんでは消える。
昨日まで。
進路希望の第一志望に「海賊」と書いていた。
何がしたいかなんて分からなかった。
明日のことすら、真面目に考えたことがなかった。
なのに今は。
明日が。
少しだけ気になった。
奎星は目を閉じる。
森の向こうから。
遠く、鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
夜のマホウトコロが、静かに眠りへ落ちていく。
その地下。
羊脂玉の宮殿よりも遥かに古い場所。
誰も使っていない石の回廊の奥で。
壁一面を覆う古びた文字のうち、
一文字だけが。
淡く。
青白く。
光った。
そして消えた。
奎星は知らない。
今日。
測定水晶を砕いたあの魔力が。
学校のずっと深い場所に眠る何かへ、
確かに届いていたことを。