第1話 夏の余白
夏休みに入った。
その事実を、蓮根奎星がようやく実感したのは、東京の自宅の玄関を開けたときだった。
南硫黄島から巨大なウミツバメに乗せられ、本土へ戻り、そこから一般社会の交通機関を乗り継いだ末、見慣れた住宅街へ帰ってくる。島では海から吹き上げる風がいつもどこか塩気を含んでいたのに、東京の午後は熱を吸い込んだアスファルトの匂いと、遠くを走る車の音ばかりだった。
たった一か月半ほど留守にしていただけなのに、玄関の狭さも、靴箱の上に置かれた母親趣味の小さな猫の置物も、妙に懐かしい。
「ただいまー」
奥から、ばたばたと足音がした。
「奎星!」
母が顔を出す。
その後ろから父も現れた。
「お、帰ったか」
「帰った」
「ちゃんと生きてる?」
「第一声それ?」
「だって魔法学校でしょう?」
母は当然のように言った。
「爆発とかしてない?」
奎星は靴を脱ぎながら少し考えた。
「俺が?」
「学校が」
「両方した」
母の顔から笑みが消えた。
父も黙った。
奎星は玄関へ荷物を置きながら首を傾げる。
「何?」
「……とりあえず入れ」
父の声が少し低かった。
三十分後。
蓮根家の居間では、夏休み最初の家族会議が開かれていた。
もっとも、会議というには卓上の麦茶と煎餅があまりにも平和である。
奎星は畳へ胡座をかき、一か月半に起きたことを思いつくまま話していた。
魔力量を測ったら水晶が壊れたこと。
最初の二週間は危ないから一人だけ隔離されていたこと。
ようやく普通の授業へ入れたこと。
友達ができたこと。
決闘で日向を怪我させたこと。
杖を怖くなったこと。
御影に鍛えられたこと。
古い観測塔を見つけたこと。
そこで怪しい黒曜石を拾ったこと。
教師だった久我朔弥が、その黒曜石を使って古代魔術を研究していたこと。
第零書庫へ侵入したこと。
そこにスズメが捕まっていたこと。
「待って待って」
母が両手を上げた。
「ちょっと待って」
「何?」
「今、先生が捕まってたって言った?」
「うん。スズメちゃん」
「烏丸先生よね? うちに来た」
「そうそう」
奎星は麦茶を飲む。
「あの人、久我先生に捕まっててさ。俺が助けに行ったんだけど」
父が煎餅を置いた。
「教師を、生徒のお前が?」
「まあ結果的には」
「先生たちは?」
「御影先生とか来たよ、あとで」
「あとで?」
「うん」
両親が顔を見合わせた。
奎星は気にせず続ける。
「それで久我先生が死の呪文撃ってきて」
「死の?」
「呪文」
母が瞬きをした。
「名前からして死ぬやつ?」
「死ぬやつ」
「それを誰に?」
「俺とスズメちゃん」
今度こそ。
居間から音が消えた。
外では蝉が鳴いている。
遠くで宅配便のトラックが停まり、近所の犬が一度吠えた。
そんな、何でもない夏の午後だった。
だから余計に、奎星が話している内容だけが浮いていた。
父が恐る恐る尋ねる。
「……それで?」
「手で消した」
「何を?」
「死の呪文」
「誰が?」
「俺が」
父と母は同時に奎星の右手を見た。
奎星もつられて見る。
五本の指。
いつもの手である。
ポテトチップスを掴み、スマートフォンを落とし、宿題を書くのを嫌がってきた、何の変哲もない十七歳の右手。
母がその手を取った。
裏返す。
掌を見る。
「普通ね」
「普通だよ」
「本当に?」
「今は何も出てねえって」
「焦げたりしなかった?」
「しなかった」
「痛くなかった?」
「そのときはそれどころじゃなかったし」
母はもう一度掌を眺め、それから眉を寄せた。
「……本当に魔法学校なのよね?」
「今そこ疑う!?」
「だって、お母さんが思ってた魔法学校と違うんだもの。もっとこう、箒で飛んだり、キラキラしたもの作ったり」
「飛ぶよ。箒」
「じゃあそっちの話してよ!」
「話の順番あるだろ!」
「死の呪文より先に箒がいい!」
「母さんの優先順位どうなってんだよ!」
父が間へ入るように麦茶を飲んだ。
「まあ落ち着け」
「父さんは信じんの?」
「おばあちゃんも魔女だったんだろ?」
「そこはもう信じてるんだ」
「ただな」
父は奎星を見る。
「さすがに息子が一か月半学校へ行って、先生に殺されかけて、死ぬ魔法を素手で止めて帰ってきたと言われるとな」
「消した」
「そこはどっちでもいい」
「結構違うんだけど」
「現実味がない」
「俺もそう思う」
奎星は煎餅へ手を伸ばした。
学校では何度も事情を聞かれ、魔法省へまで連れていかれ、自分でも訳の分からない検査を受けた。それでも東京の実家で煎餅を食べながら話していると、第零書庫で見た緑の閃光も、青白い古代文字も、ひどく遠いもののように思える。
母がまだ納得できない顔で尋ねた。
「そのとき烏丸先生は大丈夫だったの?」
「大丈夫。手首とか怪我してたけど」
「怖かったでしょうねえ」
「スズメちゃん?」
「そうよ」
「たぶん」
奎星は少し考えた。
あのときの声を思い出す。
逃げて。
今すぐ逃げてください。
早く。
いつも落ち着いていて、自分がどれだけ馬鹿なことをしても呆れた顔で叱る女が、あんな声を出したのは初めてだった。
「めちゃくちゃ怒られたけど」
「何で?」
「俺が死の呪文の前に出たから」
「そりゃ怒られるわよ!」
「でもスズメちゃん後ろにいたし」
「だからって!」
「いや、あの場で避けたら当たるじゃん」
母が言葉に詰まった。
父も腕を組む。
奎星は煎餅を齧った。
「そのあとスズメちゃん、俺が気絶してる間ずっと病室にいたらしくてさ」
母の眉が少し動く。
「へえ」
「で、起きたら薬師寺先生の回復薬飲まされて」
「薬師寺先生?」
「おじいちゃん。百超えてから歳数えるのやめた人」
父が吹き出しかけた。
「そんな人がいるのか」
「いるいる。スズメちゃんが入学した頃からもうおじいちゃんだったらしい」
「へえ」
「で、その薬がまずくてさ。スズメちゃんは飲めって言うし、俺が嫌だって言ったら――」
「奎星」
母が遮った。
「何?」
「さっきからスズメちゃんってたくさん言ってるわね」
奎星が止まった。
父も頷く。
「俺も思ってた」
「…………」
奎星は煎餅を持ったまま二人を見る。
「んなことねえよ!」
声が少し大きかった。
「あるわよ」
「ない!」
「今の話だけで何回出た?」
母が指を折り始める。
奎星は立ち上がった。
「知らねえよ! 話に出てくるんだから仕方ねえだろ!」
「烏丸先生の話が多いのよ」
「担任みたいなもんだから!」
「魔法史の先生でしょう?」
「そうだけど!」
父が何となく面白そうな顔をしている。
奎星はその顔が気に食わなかった。
「もういい! 俺、部屋行く!」
立ち上がり、居間を出ようとする。
母が背中へ声を飛ばした。
「何するの?」
奎星は振り返った。
「課題!」
言い切った。
そのまま廊下を歩いていく。
階段を上がる音。
自室の扉。
ばたん。
居間に残された父と母は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
父が母を見る。
母も父を見る。
「……課題だって」
父が言った。
「課題ねえ」
「自主的に?」
「自主的に」
二人はもう一度顔を見合わせた。
魔法学校。
死の呪文。
古代魔術。
一万を超える魔力。
今日聞いたどの話よりも。
息子が自分から部屋へ行って課題を始めたことのほうが、ある意味では信じ難かった。
「魔法ってあるんだな」
*
同じ日の午後。
東京の別の場所では、烏丸スズメが友人から半ば強制的に休暇を取らされていた。
「スズメ」
「何?」
「今日って遊びに来たんだよね?」
「そうだけど」
「確認していい?」
「何を」
「午前十一時に待ち合わせした」
「うん」
「最初に本屋へ入った」
「うん」
「出てきたの十二時十三分」
「そんなにいた?」
「いたよ」
「一時間くらいじゃない」
「一時間十三分は一時間くらいに含めていいんだ」
「誤差でしょ」
「待たされる側には誤差じゃないの」
向かいに座る美琴は、ストローでミルクティーを混ぜながら笑っていた。
学生時代から変わらない笑い方だった。楽しいと思えばよく笑い、面白いものを見つければ人の腕を引っ張ってでも連れていく。学生時代から静かな場所と古い本を好んだスズメとは、性格だけを並べればどうして友人になったのか不思議なくらい正反対である。
今は魔法省の事務員として働いており、休日らしい明るい色のブラウスに身を包んでいる。向かいのスズメも今日は教員衣ではなく、白い半袖のシャツに濃紺のスカートという簡素な服装だったが、顎で揃えた黒髪だけは学生時代からほとんど変わらない。
カフェの大きな窓の外では、真夏の日差しが東京の通りを白く焼いている。冷房の効いた店内にいても、外を歩く人々の肩にまとわりつく暑さが見えるようだった。
美琴は指を二本立てた。
「それから私が服見ようって言った」
「見たじゃない」
「見てないよ」
「見た」
「店の前を通っただけ」
「硝子越しに見えた」
「それは“服屋を見た”であって“服を見に行った”じゃないの」
「同じじゃない?」
「違う」
「気になるものなかったし」
「中に入ってないんだから分かんないでしょ!」
「入口から大体分かるよ」
「昔からそういうとこあるよね!」
美琴は机へ額をつけそうになり、スズメは何事もなかったようにアイスティーを一口飲んだ。
学校にいるときの彼女を知る生徒が見れば、少し驚いたかもしれない。
声の高さが僅かに違う。
言葉も短い。
「そうですね」ではなく「そうだね」と言い、「違います」ではなく「違う」と言う。
ほんの小さな差だったが、美琴の前にいるスズメはマホウトコロの教師ではなく、二十一歳の一人の女だった。
「で?」
美琴が顔を上げる。
「学校どうなの?」
「どうって?」
「先生二年目。問題児とかいる?」
スズメのストローが止まった。
「…………」
美琴の目が細くなる。
「いるんだ」
「いる」
「即答」
「問題児っていうか……」
スズメは少し考えた。
「変なのがいる」
「生徒?」
「生徒」
「どんな?」
「朝起きない」
「普通」
「人に起こされるのが嫌だからって、今度は私が来る前に起きる」
「偉いじゃん」
「違うの。生活習慣を直そうと思ったんじゃなくて、私に起こされるのを妨害するために早起きしてたの」
美琴が吹き出した。
「何それ!」
「意味分からないでしょ?」
「分かんない。でも面白い」
「面白くないよ。最初なんて毎朝アロホモラで部屋開けてたんだから」
「先生が?」
「だって起きないし」
「それもう母親じゃん」
「違う!」
スズメの返事が早かった。
美琴はにやにやしながらミルクティーを飲む。
「他には?」
「食べ物に弱い。人の話を最後まで聞かない。勝手に小妖に天ぷらって名前つける。魔法法規は六十一点。三つしかない選択肢に四番って書いた」
「最後すごいね」
「すごいでしょ」
「逆にどうやったの?」
「私も知りたいよ」
スズメは呆れたように言いながらも、口元が少しだけ緩んでいた。
美琴はそれを見逃さなかったが、まだ何も言わない。
「でも魔法は?」
「……すごい」
今度の答えには、少し間があった。
「それは認める」
「へえ。スズメが生徒をそんな素直に褒めるなんて珍し」
「本人には言わないけど」
「なんで?」
「調子に乗るから」
「先生っぽい」
美琴は笑った。
スズメも小さく笑う。
学生だった頃、二人で授業後の回廊を歩いていたときも、こんなふうに教師の話をした。
「あ、先生で思い出した」
美琴が身を乗り出す。
「御影先生まだ怖い?」
「怖いよ」
答えは意外なほど素直だった。
美琴が大笑いした。
「やっぱり!」
「だって怖いでしょ、あの人」
「今は同僚じゃん」
「同僚でも怖いものは怖いの」
「学生の頃、廊下の向こうに御影先生見えただけで急に姿勢よくしてたもんね」
「美琴もでしょ」
「私は逃げてた」
「もっと悪いじゃん」
「あの頃さ、課題忘れた日に御影先生の授業あると、本気で熱出ないかなって思ってた」
「私は忘れたことないけど」
「はいはい優等生」
美琴は手を振る。
「薬師寺先生は?」
「相変わらず」
「まだ元気?」
「すごく元気。百歳超えてから数えてないって今も言ってる」
「私たちが七歳の頃から同じこと言ってなかった?」
「言ってた」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
「絶対あの人だけ時間止まってるよ」
「薬の実験で何かしてても驚かない」
「先生が言っちゃ駄目でしょ」
「本人の前では言わないよ」
スズメはストローを指先で弄んだ。
「蓮根君も薬師寺先生の回復薬、ものすごく嫌がるし」
美琴の眉がぴくりと上がった。
「蓮根君?」
「うん」
「その変な生徒?」
「そう」
「へえ」
「何?」
「いや別に」
美琴はミルクティーを飲んだ。
「それで蓮根君は?」
「何が?」
「他に何したの」
「授業で友達を怪我させて落ち込んだり、杖を持つのが怖くなったり。それで御影先生に訓練頼んで、少しずつ戻って」
スズメは話す。
「古代魔術に興味持ったと思ったら勝手に観測塔調べ始めるし、怪しい黒曜石見つけるし、第零書庫に一人で入ってくるし」
「ちょっと待って」
美琴がストローを止めた。
「第零書庫?」
「……うん」
「もしかして」
美琴はスズメを見る。
「その蓮根君って、あの蓮根奎星?」
スズメが少し嫌そうな顔をした。
「どの蓮根奎星?」
「魔法省で最近めちゃくちゃ名前だけ歩いてる子」
「……やっぱりもう広まってるんだ」
「そりゃ広まるよ」
美琴は呆れたように笑った。
「おかしいのは有名だよ。だって死の呪文、手で止めたんでしょ?」
「消したの」
「そっちのほうがおかしいじゃん!」
「だから!」
スズメが珍しく机へ少し身を乗り出す。
「それもそうだけど、そういうとこじゃなくて!」
「そこ以上に何があるのよ」
「朝起きなかったり、私に起こされるのが嫌だからって逆に妨害するために早起きしたりしてるの! 意味分からないでしょ?」
「さっき聞いたけど、死の呪文よりそっちを優先するんだ」
「だって実際の蓮根君って、魔法省で言われてるような大層な子じゃないんだもん」
スズメの声には、なぜか少し意地になった響きがあった。
「魔力一万超えとか古代魔術とか、その話ばっかりするけど、普段はただのアホな高校生だからね。宿題出せば文句言うし、教科書読んで寝落ちするし、ご飯で機嫌直るし、変なこと思いついたらすぐやるし、校内で火柱上げて御影先生に追いかけられるし」
美琴は黙っていた。
「それに、何かあるとすぐ無茶するし」
スズメの声が少しだけ小さくなる。
「自分が危ないとか、そういうの後から考えるから」
第零書庫。
緑の光。
何も持っていない右手を、自分の前へ出した少年。
あの瞬間だけは、今思い出しても胸の奥が冷える。
スズメはグラスの水滴へ目を落とした。
「……ほんと、困る」
美琴がミルクティーを一口飲んだ。
「ねえ」
「何?」
「さっきから蓮根君ってよく言うね」
スズメの顔が上がった。
美琴は笑っている。
「何回目?」
「知らない」
「私、途中から数えるの諦めた」
「話を聞いたの美琴でしょ」
「私は学校どうって聞いただけだよ」
「だから学校の話してるじゃない」
「八割くらい蓮根君だったけど」
「そんなことない!」
「あるって」
「御影先生の話もしたし」
「二分くらいね」
「薬師寺先生も」
「一分」
「本屋の話も」
「それ学校じゃない」
「……」
美琴は頬杖をついた。
楽しそうにスズメを見る。
「あんたが男の子の話するなんて珍しいね〜」
「男の子っていうか、生徒だから!」
「生徒は男の子じゃないの?」
「そういう意味じゃなくて!」
「四歳差でしょ?」
「教師と生徒!」
「はいはい」
「本当にそういうのじゃないから」
「私、まだ何も言ってないけど」
スズメが止まる。
美琴の笑みが深くなる。
「……美琴」
「はい」
「性格悪くなった?」
「昔からだよ」
「そうだったね」
スズメはアイスティーを飲んだ。
少しだけ勢いが強かった。
美琴は笑いを堪えながら窓の外を見る。
「でもさ」
「何?」
「楽しそうでよかった」
スズメが瞬きをした。
「何が?」
「先生」
その一言だけ、美琴はからかわなかった。
「魔法省いた頃のあんた、仕事の話するとき全然そんな顔しなかったから」
スズメは返事をしなかった。
一年だけいた記録局。
そこを辞めて、マホウトコロへ戻った。
教師になった。
歴史を教えることも、生徒に同じことを何度も説明することも、朝起きない少年を叩き起こすことも、最初は自分が選んだ仕事の一部でしかなかった。
いつからだろう。
今日覚えた魔法を嬉しそうに見せる顔を、明日も見たいと思うようになったのは。
馬鹿な答案を見つければ腹を立てるより先に、本人の顔が浮かぶようになったのは。
「……大変だけどね」
スズメはようやく言った。
美琴は優しく笑う。
「それ、楽しい人の言い方」
「うるさい」
今度の返事は、完全に二十一歳の女の子のものだった。
*
その頃。
蓮根家の二階では、奎星が机に向かっていた。
机そのものは一か月半前とほとんど変わっていない。漫画が積まれ、充電器のコードが絡まり、昔使っていた高校の教科書が隅へ追いやられている。
ただ、その中央に置かれているものだけが変わった。
マホウトコロから渡された夏季課題。
魔法史。
魔法理論。
魔法法規。
呪文学。
魔法薬学。
その他。
紙の束を見た瞬間は燃やそうかと本気で考えたが、夏休み明けからは念願の学生寮が待っている。
日向、岳、伊織と同じ四人部屋。
ここで補習など食らうわけにはいかなかった。
「……一般社会における魔法使用の例外規定……」
奎星は頬杖をつきながら問題文を読む。
「緊急避難、魔法災害、生命の危機……」
鉛筆が止まる。
似たような条文が多い。
第一項と第二項で何が違うのか分からない。
「これどっちだ?」
自然と口が動いた。
「ねえ、スズメちゃん、これって――」
そこで。
止まった。
部屋は静かだった。
当然である。
ここは東京の実家で。
南硫黄島でも。
森の端の小部屋でも。
魔法史の教室でもない。
向かいには誰も座っていない。
「…………」
奎星はしばらく空いた椅子を見た。
一か月半。
分からないことがあれば訊いた。
朝起きればいた。
飯を食えばいた。
馬鹿なことをすれば怒られた。
教科書を読めば、気づけば横から説明が飛んできた。
うるさいくらい。
毎日。
いた。
「……何やってんだ俺」
奎星は頭を掻いた。
少し恥ずかしくなり、誰もいないのに周囲を見る。
もちろん、誰も聞いていない。
それなのに。
妙に。
部屋が広く感じた。
一か月半前まで、この部屋で一人なのは当たり前だった。
むしろ誰かが勝手に入ってくれば怒っただろう。
なのに今は、静かなことが少し落ち着かない。
窓の外では蝉が騒がしく鳴いている。
階下から母親が食器を片づける音が聞こえる。
テレビでは野球中継が始まったらしく、父の「あー!」という声まで響いた。
何も静かではない。
それでも。
何か一つ。
いつも聞こえていた音だけがない。
「……寂しいとかじゃねえからな」
誰に言うでもなく呟く。
当然。
返事はない。
奎星は少しむっとして、課題へ向き直った。
「自分でやるし」
鉛筆を走らせる。
三分後。
「…………分かんねえ」
机へ突っ伏した。
*
夜。
スズメは一日の終わりに、机の上へ積んであった一学期の指導資料を整理していた。
夏休みに入ったからといって、教師の仕事が完全になくなるわけではない。二学期の授業計画、教材の確認、第零書庫に関する報告書、魔法省へ提出する資料。やることはいくらでもあった。
紙を一枚。
次。
さらに一枚。
几帳面な字で分類していく。
その途中。
見覚えのある答案が出てきた。
特例編入生・第一学期修了認定試験。
蓮根奎星。
魔法法規。
六十一点。
「…………」
スズメの手が止まる。
ぎりぎりだった。
本当に。
あと一問間違えていれば補習だった。
答案をめくる。
記述問題。
必要な要素は一応書かれているが、文章がやたら短い。
余白には消し跡。
さらに進む。
選択問題。
第一問。
正解。
第二問。
正解。
第三問。
スズメは止まった。
選択肢は。
一。
二。
三。
三つしかない。
蓮根奎星の答え。
四。
「……何で四なんですか」
思わず声が出た。
本人はいない。
もちろん返事もない。
けれど頭の中では、あの声が妙に鮮明に聞こえた。
――いや、なんか四な気がした。
言いそうだった。
あまりにも。
言いそうだった。
スズメの口元が、ほんの少し緩む。
「本当に……馬鹿ですね」
答案を閉じようとする。
けれど。
もう一度開いた。
六十一点。
あれほど勉強が嫌いだった少年が。
夏休みに帰るため。
友人と遊ぶため。
そして、自分が学んだものをきちんと終わらせるため。
必死になって取った六十一点。
高得点ではない。
教師として褒められる点でもない。
それでも。
スズメは。
少しだけ。
嬉しそうに笑った。
やがて自分が何をしているかに気づき、表情を戻す。
答案を資料の束へ戻した。
「……寝ましょう」
誰もいない部屋で言う。
立ち上がる。
二歩進む。
止まる。
振り返る。
答案を見る。
「…………」
また戻った。
答案を一枚だけ取り出す。
もう一度。
第三問を見る。
四。
今度は。
さっきより少し長く。
笑った。
*
東京の夜は、遅くまで明るかった。
奎星は自室のベッドに転がりながら、途中まで終えた課題を机の上へ置いたまま眠りに落ちていた。
スズメの机には、六十一点の答案が残っていた。
二人とも。
相手がいないことを。
わざわざ寂しいとは呼ばなかった。
まだ。
そういう言葉を使うほど。
自分の気持ちを考えてはいなかった。
ただ。
いることに慣れてしまった人間が。
急にいなくなった。
夏休みとは。
案外。
そういう空白を目立たせる季節なのかもしれない。
そして。
二人の知らない場所。
人里から遠く離れた、深い山のどこかで。
夜更け。
鳥の鳴き声が、一度だけ響いた。
聞く者は。
誰もいなかった。