それから、一週間が経った。
夏休みというものは、もっと楽しいはずだった。
少なくとも去年までの蓮根奎星にとっては、朝起きる時間を気にせず、昼まで寝て、適当に飯を食い、友達と遊び、夜更かしをして、それを誰にも咎められない素晴らしい期間だった。
今年も最初の二日くらいは、そうだった。
昼近くまで寝た。
母親に「生きてる?」と確認された。
ゲームをした。
漫画を読んだ。
冷蔵庫の麦茶を飲み尽くして怒られた。
三日目には、さすがに暇になった。
四日目。
奎星は夏季課題を開いた。
本人としては、かなり重大な決断だった。
別に勉強が好きになったわけではない。
夏休み明けには学生寮へ入れる。
日向、岳、伊織と同じ部屋で暮らせる。
ここで課題を放置して、二学期早々に補習などという最悪の事態だけは避けたい。
それに。
机へ向かっている間は、余計なことを考えずに済んだ。
「……魔法使用における緊急避難の成立要件は、術者本人または第三者の生命、身体、財産に対する現在の危難が存在し……」
鉛筆が止まる。
「長えな」
教科書を見る。
問題を見る。
もう一度、教科書を見る。
分からない。
飛ばした。
次。
「十八世紀後半、日本魔法社会における地方自治組織の再編について――」
「これは分かる」
書く。
次。
魔法理論。
半分分かる。
書けるところだけ書く。
分からないところには付箋。
呪文学。
実技なら分かるのに、理論になった途端に急に文字数が増える。
付箋。
魔法薬学。
調合手順は覚えている。
ただし材料の保存規定で詰まる。
付箋。
魔法法規。
付箋。
付箋。
付箋。
「法規多くね?」
六十一点の男には当然の結果だった。
最初は分からない問題を単に飛ばしていた。
だが、それでは後で見返したときに、なぜ飛ばしたのか自分でも分からなくなる。
そこで奎星は、紙を一枚用意した。
《分からないところ》
一、緊急避難と緊急魔法使用許可の違い。
二、一般人の前で魔法を使っていい例外。
三、魔法事故を目撃された場合、本人が記憶修正していいのか。
四、魔法薬材料の保存期間。
五、十八世紀の術式分類のところ、教科書の説明が雑。
六、古代魔術のところもっと詳しく。
七、法規の三十二頁、何言ってるか分からん。
最後だけ、もはや質問ですらなかった。
それでも一週間後には、夏季課題のかなりの部分が埋まっていた。
分からないところを飛ばして、分かるところだけ先へ進む。
飛ばした場所は何が分からないのかだけ書いておく。
奎星なりに考えた結果だった。
そして。
七日目の朝。
机に向かっていた奎星は、魔法法規の教科書を閉じた。
「…………」
付箋だらけだった。
隣には、質問をまとめた紙が三枚。
その紙を見つめる。
教科書を見る。
また紙を見る。
「……聞きに行くか」
口から出た。
言ってから、少しだけ止まった。
誰に、とは言わなかった。
言う必要がなかった。
「課題だしな」
誰も何も訊いていない。
「分かんねえんだから仕方ねえし」
部屋には一人しかいない。
「別に暇だし」
東京から南硫黄島は、暇だからちょっと行く距離ではない。
奎星は立ち上がった。
「よし」
課題一式を鞄へ詰め始めた。
*
「学校行ってくる」
玄関で靴を履きながら言うと、母が台所から顔を出した。
「学校?」
「うん」
「夏休みよ?」
「知ってる」
父も新聞越しにこちらを見る。
「忘れ物か?」
「課題聞きに」
母と父が黙った。
奎星が振り返る。
「何?」
「課題を?」
「うん」
「自分から?」
「そうだけど」
また両親が顔を見合わせた。
奎星の眉間に皺が寄る。
「いい加減その反応やめろよ!」
母は笑いを堪えながら訊いた。
「誰に聞くの?」
「スズメちゃん」
今度は母の口元が別の意味で緩んだ。
奎星はすぐ気づいた。
「違うからな」
「何が?」
「その顔やめろ!」
「お母さん何も言ってないけど」
「言ってる! 顔が!」
父は新聞を開き直した。
「気をつけてな」
「父さんも笑ってんじゃん!」
逃げるように玄関を出た。
夏の日差しが容赦なく頭上から降ってくる。
蝉の声。
熱を持った道路。
一週間前には懐かしいと思った東京の夏も、今ではすっかり日常へ戻っていた。
奎星は鞄を肩へ掛け直す。
「課題だからな」
もう一度だけ言った。
もちろん。
聞いている者はいなかった。
*
夏休みのマホウトコロは、驚くほど静かだった。
普段なら着陸場へ降りた瞬間から、箒で飛び回る生徒や、巨大なウミツバメへ荷物を積み込む小妖、授業に遅れそうになって走る下級生の姿が目に入る。
今日は違った。
夏季便のウミツバメから降りても、聞こえるのは海から吹き上げてくる風と、軒先に吊られた銀の鈴の音くらいだった。
羊脂玉の校舎そのものは何も変わっていない。
白く透き通る壁。
空へ反った屋根。
長い回廊。
けれど人がいないだけで、巨大な学校は別の建物のように見えた。
「すっからかんだな……」
奎星は鞄を肩に掛け、校舎へ入った。
足音がやけに響く。
いつもなら二年二組の連中が騒いでいる廊下にも誰もいない。
教室を覗く。
空。
大食堂の前を通る。
閉まっている区画が多い。
中庭。
誰も飛んでいない。
「学校って、人いないと怖えな」
そのまま魔法史研究室へ向かっていると、廊下の向こうから一人の教師が歩いてきた。
奎星は顔を上げる。
「あ、高宮先生!」
教師も顔を上げた。
足が止まった。
「…………」
奎星を見る。
一度、目を擦る。
もう一度見る。
そして。
「蓮根!?」
校舎中へ響きそうな声が出た。
奎星が肩をすくめる。
「声でか」
「なぜいるのだ!?」
「何でそんな嫌そうなんすか」
「夏休みだぞ!?」
「知ってますよ」
「帰省したのではなかったのか!?」
「したっすよ」
「ではなぜ戻ってきた!?」
奎星は鞄を持ち上げた。
「課題分かんないから、スズメちゃんに聞きに来たんすよ」
高宮の顔が止まった。
「……課題?」
「はい」
「お前が?」
「今日みんなそれ言うな」
高宮はしばらく奎星を見つめていた。
疑っているというより、理解できない現象に遭遇した人間の顔だった。
「じゃ、俺行きますね」
「あ、ああ……」
奎星が横を通り過ぎる。
数歩進んだところで。
背後から小さな声が聞こえた。
「夏休みくらい……問題児から解放されるはずでは……」
奎星が振り返る。
「聞こえてますよ!」
高宮はびくっと肩を揺らした。
そしてなぜか。
逃げた。
「何で逃げんだよ!」
教師の背中が廊下の角へ消えた。
静寂。
奎星はぽつんと残される。
「……失礼だな」
なお、一学期の行動を振り返れば、高宮の反応のほうが正常だった。
*
魔法史研究室の前まで来る。
奎星は足を止めた。
見慣れた扉だった。
一学期。
何度ここへ来ただろう。
古代魔術について訊きに来た。
観測塔の資料を見せてもらった。
第零書庫のことで喧嘩のような言い合いもした。
何か分からなくなると、とりあえずここへ来ていた気がする。
一週間しか離れていない。
それなのに。
妙に久しぶりに感じた。
奎星は一度だけ髪を掻き、扉を叩いた。
こんこん。
中から声。
「どうぞ」
聞き慣れた声だった。
それだけで。
胸の奥にあった何かが、少しだけ収まりのいい場所へ戻った気がした。
奎星は扉を開ける。
研究室には夏の午後の日差しが差し込んでいた。
壁を埋める本棚。
積み上げられた史料。
窓辺には何枚もの古い拓本が吊るされている。
机の向こうで、スズメは何かを書いていた。
濃紺の教員衣。
顎で揃った黒髪。
机へ向かい、細い筆を動かしている。
誰が入ってきたのかすら確認しない。
「失礼します」と言えば、おそらくそのまま「はい」と返しただろう。
だから。
奎星はいつもの調子で言った。
「スズメちゃん!」
筆が止まった。
ぴたりと。
スズメが顔を上げる。
目が合う。
一秒。
二秒。
珍しく。
完全に驚いた顔をしていた。
「…………蓮根君?」
奎星は笑った。
「おう」
「……なぜ」
スズメは瞬きをした。
「なぜここにいるのですか?」
「さっき高宮先生にも同じこと言われた」
「夏休みですよ?」
「知ってるって」
「帰省したでしょう?」
「帰省したよ」
「ではなぜ戻ってきたのです?」
「それも高宮先生と同じ!」
スズメはまだ少し状況を飲み込めていないらしい。
奎星はそんな顔を見るのが珍しくて、少し面白くなった。
「何、来ちゃ駄目だった?」
「そういうことではありませんが……」
いつもの調子がようやく戻ってくる。
「何かありましたか?」
「ある」
その答えに、スズメの表情が変わった。
僅かに身体を起こす。
「何が?」
声まで少し真剣になる。
奎星は鞄を開いた。
どさっ。
机の上へ。
夏季課題。
教科書。
ノート。
付箋だらけの問題集。
質問を書いた紙。
大量に置いた。
「分かんねえ」
「…………」
スズメは課題を見る。
奎星を見る。
もう一度課題を見る。
「これ聞きに来た」
長い沈黙。
「何その顔」
「いえ」
スズメは一番上の問題集を手に取った。
ぱらぱらとめくる。
一頁。
二頁。
三頁。
さらにめくる。
書いてある。
普通に。
かなり。
「……蓮根君」
「ん?」
「誰がやったのですか?」
「俺だよ!」
「本当に?」
「何で先生まで疑うんだよ!」
「失礼しました。あまりに予想外だったので」
「教師が生徒の自主学習を信じろよ!」
スズメは別の紙を取った。
《分からないところ》
箇条書きになっている。
どの頁の。
どの問題の。
何が理解できていないのか。
奎星なりの言葉でまとめられている。
中には、
《法規三十二頁 似たようなこと二回書いてある。違い何》
など、かなり雑なものもあった。
それでも。
分からないまま投げたわけではない。
自分で分かるところまで進み、分からない理由を考え、それでも駄目だった部分だけを残している。
スズメの目が少しだけ丸くなった。
「……これも、自分で?」
「そう」
「一週間で?」
「そう」
「全部?」
「だからそうだって!」
奎星は少し得意げになる。
「俺だってやるときはやるんだよ」
「一学期にその精神があれば、魔法法規が六十一点ではなかったのでは?」
「それ今関係ないだろ!」
「あります」
スズメが別の紙を見る。
「法規が多いですね」
「苦手なんだよ!」
「知っています」
「三択で四番書いたのは反省してる」
「反省すべき場所はそこだけではありません」
「でもあれが一番怒られそうだから」
「実際、何で四なんですか?」
「いや……」
奎星は少し考えた。
「なんか四な気がして」
スズメが目を閉じた。
「……本当に言うんですね」
「何が?」
「いえ、何でもありません」
一週間前。
一人で答案を見ながら想像した答えと。
まったく同じだった。
スズメは口元を押さえ、ほんの僅かに笑いそうになるのを隠した。
奎星が覗き込む。
「今笑った?」
「笑っていません」
「笑ったろ」
「課題を教わりに来たのでしょう?」
「あ、はい」
「座ってください」
「はい」
奎星は素直に椅子を引いた。
そして。
一週間ぶりに。
二人の授業が始まった。
*
「まず、ここです」
スズメが奎星のノートへ線を引く。
「緊急避難と、魔法法上の緊急使用許可は同じものではありません」
「そこが分かんねえんだよ。どっちもヤバいとき魔法使っていいって書いてあるじゃん」
「随分ざっくり読みましたね」
「結果はそうだろ?」
「結果だけ見れば似ています。ですが、判断される条件が違います」
「条件」
「たとえば一般社会で、目の前にいる人が車に轢かれそうになっているとします」
「うん」
「魔法を使わなければ救助が間に合わない。周囲に一般人がいる。通常なら公衆の面前で魔法を使うことは禁じられていますが――」
「助けるなら使っていい」
「原則として、違法性が阻却される可能性があります」
「その言い方が難しい!」
「法律ですから」
「『助けるならセーフ』でよくない?」
「よくありません」
「何で法律って簡単に言えることを難しくするの?」
「簡単にしすぎると、あなたのような人が勝手な解釈をするからです」
「俺対策!?」
「半分くらいは」
「絶対嘘だろ」
スズメは説明を続ける。
奎星は聞く。
分からなければ止める。
「待って、今のもう一回」
「どこからです?」
「違法性なんとかの前」
「阻却です」
「それ」
「言葉も覚えてください」
「テストでひらがなでもいい?」
「減点します」
「厳しい」
「六十一点だったことを忘れないでください」
「一生言う気?」
「少なくとも二学期までは」
「長えよ!」
研究室には二人の声だけが響いていた。
一週間前まで。
それが当たり前だった。
奎星が質問し。
スズメが答え。
途中で話が逸れ。
怒られ。
また戻る。
家で一人、教科書を見ているときには何十分考えても分からなかったものが、二、三度やり取りをするだけで急に形になる。
「……あー」
奎星が鉛筆を走らせる。
「分かった」
「本当ですか?」
「多分」
「では説明してください」
「先生に?」
「はい」
「今聞いたばっかだけど」
「自分の言葉で説明できれば、理解できている可能性が高いです」
「えーっと……」
奎星は天井を見る。
考える。
一度間違える。
スズメが直す。
もう一度。
今度は合う。
「そうです」
「よし」
奎星は答えを埋めた。
その顔は、少し嬉しそうだった。
スズメはそれを見た。
一学期にも。
何度も見た顔だった。
知らないことが分かる。
できなかったことができる。
その瞬間だけ。
この少年は、十七歳とは思えないほど素直に喜ぶ。
「次!」
「少し休みませんか?」
「まだいける」
「一時間半やっていますよ」
「マジ?」
時計を見る。
本当だった。
奎星は少し驚く。
スズメも。
少しだけ驚いていた。
結局。
休憩することになった。
奎星は椅子の背へ身体を預け、大きく伸びをする。
「疲れたー……」
「自分から来たのでしょう」
「来たけど勉強が疲れないとは言ってない」
スズメは机の上の紙をまとめる。
「それにしても」
「ん?」
「よくここまで進めましたね」
奎星がスズメを見る。
今度は、からかうような声ではなかった。
「分からないところを残して、分かるところだけ先に終わらせたのも良い判断です。質問も、以前より整理されています」
「…………」
「何です?」
「今、褒めてる?」
「褒めています」
奎星の顔が少し緩む。
「珍し」
「撤回しますよ」
「やめろ!」
「なら素直に受け取ってください」
「はいはい」
「はいは一度です」
「それ久しぶりに聞いた」
二人とも。
そこで。
ほんの一瞬だけ黙った。
久しぶり。
たった一週間なのに。
その言葉が妙にしっくりきてしまった。
奎星は窓の外を見る。
スズメも手元の紙へ目を落とす。
先に口を開いたのは奎星だった。
「……学校、静かだな」
「夏休みですから」
「先生はずっといんの?」
「ずっとではありません。必要に応じて戻っています」
「今日いてよかった」
何気なく。
奎星は言った。
スズメの手が止まる。
奎星は気づかない。
「いなかったら南硫黄島まで来て高宮先生にビビられただけで終わるとこだった」
「高宮先生に何をしたのですか?」
「何もしてねえよ! 俺見ただけで逃げたんだよ!」
「一学期に何をしたか思い出してください」
「スズメちゃんまでそっち側!?」
スズメは小さく笑った。
今度は。
奎星も指摘しなかった。
*
研究室を出た頃には、午後の日差しが少し傾いていた。
「次は魔法薬学の保存規定ですが、資料を一冊取ってきます」
「俺も行く」
「座っていて構いませんよ」
「ずっと座ってて腰痛え」
二人で廊下を歩く。
夏休みの校舎は、相変わらず静かだった。
窓の外では海が強い日差しを弾き、遠くで巨大なウミツバメが一羽、ゆっくり翼を広げている。
その途中。
奎星の足が止まった。
廊下の掲示板。
大きな紙が一枚貼られている。
紺青の夜空を背景に、無数の提灯。
中央には三本脚の黒い鳥を模した紋。
上部に大きな文字。
八咫祭。
八月十五日。
「お」
奎星が近づいた。
「もうすぐじゃん」
「そうですね」
スズメも隣で立ち止まる。
「日向たちと行くんだよ」
「聞いています」
「聞いてんの?」
「終業式前、教室であれだけ騒いでいれば聞こえます」
「そういや日向、去年提灯の間を箒で飛んだんだって」
「今年やれば、見回りの教員が止めます」
「俺もやろうと思ってた」
「今ここで止めてもいいですよ」
「まだ何もしてないだろ!」
奎星は笑いながらポスターを見る。
終業前にも『夏季休暇のしおり』で案内は見ていた。
八月十五日。
八咫祭。
屋台がある。
日向は去年やらかした。
五人で絶対行く。
そこまでは覚えている。
ただ。
よく考えると。
「……そういや俺、場所ちゃんと見てなかったな」
「何をです?」
「八咫祭ってどこでやんの?」
スズメはポスターの下部を指した。
そこには奎星が完全に読み飛ばしていた文字がある。
八咫小路。
「八咫小路です」
「なにそれ」
スズメが奎星を見る。
「本当に案内を読んでいなかったのですね」
「祭りがあるってとこは読んだ」
「場所も案内の一部です」
「日向たちについてけば着くだろ」
「人生をその方式で乗り切ろうとしないでください」
奎星は笑う。
「で、八咫小路って何?」
「魔法使いたちが利用する商店街のような場所です」
「商店街?」
「一般社会からは隠されていますが、魔法具、魔法薬の材料、書籍、衣類、菓子、日用品など、魔法社会で必要なものを扱う店が集まっています」
奎星の目が少しずつ輝く。
「魔法の商店街じゃん」
「今そう説明しました」
「店いっぱいあんの?」
「ありますよ」
「飯は?」
「あります」
「甘いもん?」
「あります」
「魔法道具?」
「あります」
「古本屋?」
スズメが一瞬止まる。
「……あります」
奎星の顔が完全に明るくなった。
「何で今まで教えてくれなかったの!?」
「訊かれませんでしたから」
「絶対面白いじゃん!」
「八咫祭の時期は特に混雑します」
「祭りじゃなくても行けんの?」
「通常時も利用できます」
「行きてえ!」
奎星はもうポスターへ顔を近づけている。
露店。
催し物。
夜間特別営業。
知らない単語を見つけるたびに目が動く。
スズメは横からその様子を眺めていた。
「朝比奈君たちと行くのでしょう?」
「行く!」
即答だった。
「楓と岳と伊織も」
「なら、詳しい人に案内してもらえばいいでしょう」
「そうする」
一度頷いて。
奎星はまたポスターを見た。
それから。
ふと思い出したように横を向く。
「スズメちゃんは祭り行くの?」
「烏丸先生です」
「祭り行く?」
「行きますよ」
奎星の目が丸くなった。
「マジで!?」
予想以上に大きな反応だった。
スズメの眉が少し上がる。
「はい」
「じゃあ――」
「見回りです」
奎星の顔から喜びが少し引いた。
「なーんだ」
「なーんだ、とは何ですか」
「仕事じゃん」
「教師ですから」
「普通に祭り回んないの?」
「見回りながら歩くことにはなります」
「じゃ同じじゃん」
「違います」
「屋台も見るだろ?」
「必要であれば」
「焼きそば食う?」
「勤務中です」
「かき氷」
「勤務中です」
「りんご飴」
「なぜ食べさせようとするのですか」
奎星は少し考える。
「祭りだから?」
「理由になっていません」
「じゃあさ」
奎星はポスターへ向き直りながら言った。
「俺、日向たちと回ってるから。会ったら一緒に回ろうよ」
スズメが黙った。
「ちょっとくらいいいだろ」
「私は見回りです」
「見回りしながらでいいじゃん」
「生徒と遊びに行くわけではありません」
「分かってるって」
奎星は何でもないことのように笑う。
「でも祭りなんだから、会ったら一個くらい何か食おうぜ」
「……」
スズメはポスターを見る。
八月十五日。
八咫祭。
夏休み中でも、毎年多くの生徒が集まる。
教員には担当区域が割り振られ、問題を起こす生徒がいないか見回る。
仕事だ。
間違いなく。
「スズメちゃん、甘いの好きそう」
「どういう偏見ですか?」
「羊羹食ってたし」
「初対面の日の話をまだ覚えているのですか」
「そりゃ覚えてるよ。夜中に鴉食おうとしたら女になったんだから」
「人聞きの悪い言い方をしないでください」
「事実じゃん」
「あなたが全面的に悪い事実です」
「じゃ、会ったらな」
勝手に話を進める。
スズメは小さく息を吐いた。
そして。
「会えばですよ」
奎星が振り返る。
「おう!」
その返事だけ。
妙に嬉しそうだった。
スズメは一瞬だけ目を逸らす。
「それより、資料を取りに来たのでしょう」
「あ、忘れてた」
「あなたは本当に……」
「スズメちゃんも忘れてたじゃん」
「私は忘れていません」
「じゃ何でずっとポスター見てたの?」
「あなたが話を続けるからです」
「言い訳だ」
「課題を増やしますよ」
「すみませんでした!」
二人は再び廊下を歩き始めた。
静かな夏の校舎。
普段なら何百人もの声が混じる場所に。
今日は二人分の足音しかない。
けれど。
奎星には。
来たときほど。
その静けさが気にならなくなっていた。
*
夕方。
質問用紙の最後の一枚まで終わる頃には、奎星の頭は完全に限界を迎えていた。
「もう無理」
机へ突っ伏す。
「あと二問です」
「明日の俺に託す」
「明日のあなたは東京でしょう」
「じゃあ未来の俺」
「同一人物です」
「未来の俺は賢くなってるかもしれない」
「二十四時間では難しいでしょうね」
「ひど」
スズメは採点した紙を揃える。
赤字がかなり入っている。
ただし。
空白だった場所はほとんどなくなっていた。
「残りは自分で考えてください」
「教えてくれないの?」
「今日説明した内容で解けます」
「えー」
「分からなければ」
そこでスズメは言葉を切った。
奎星が顔を上げる。
「ん?」
スズメは少しだけ視線を逸らした。
「……また質問をまとめておいてください」
奎星は数秒黙った。
それから。
「また来ていいの?」
「課題の質問であれば」
「課題じゃなくても?」
「内容によります」
「飯食いに」
「大食堂はほとんど閉まっています」
「古代魔術の話」
「それなら……まあ」
「遊びに」
「帰ってください」
「厳し!」
奎星は笑いながら紙を鞄へ入れていく。
来たときより。
鞄は少し軽い気がした。
もちろん紙の枚数は変わっていない。
分からなかったことが、分かるようになっただけだ。
「じゃ、帰るわ」
「気をつけて」
「おう」
扉まで行く。
開ける。
そのまま出ようとして。
奎星は振り返った。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「八咫祭」
スズメが顔を上げる。
「会ったらだからな」
「はいはい」
「はいは一度」
スズメの眉が動いた。
奎星は笑う。
一学期。
何度も自分が言われた言葉だった。
「……覚えていたのですね」
「俺、意外と頭いいから」
「六十一点」
「それ禁止!」
「では、八咫祭までに法規の残りを終わらせてください」
「祭りに宿題持ち込むなよ!」
「終わらせれば持ち込みません」
「分かったよ!」
奎星は手を振った。
「またな!」
「気をつけて帰ってください」
扉が閉じる。
足音が遠ざかっていく。
スズメはしばらく書類へ目を落としていた。
やがて。
静かになった研究室で。
筆を取る。
一行。
書く。
止まる。
「…………」
さっきまでなら何とも思わなかったはずの静けさが。
今度は。
少しだけ。
静かすぎる気がした。
スズメは小さく息を吐き、筆を置いた。
窓の外。
夏の夕暮れ。
遠く、着陸場のほうから巨大な鳥が翼を打つ音が聞こえた。
一方。
帰りのウミツバメの背中で。
奎星は鞄の中から課題を一枚取り出した。
赤字だらけだった。
「書きすぎだろ……」
文句を言いながら。
少し笑った。
一週間。
分からないところを集め続けて。
海を越えて。
わざわざ学校まで来た。
分からなかった問題は。
だいたい分かった。
なぜそこまでして聞きに来たのかだけは。
まだ。
本人にも。
よく分かっていなかった。