八月十五日。
東京は、夕方になっても暑かった。
日が少し傾いた程度では昼間に道路へ溜め込まれた熱は抜けず、住宅街のアスファルトからはまだ陽炎の名残が立っている。蝉は朝から鳴き続けているはずなのに疲れる気配すらなく、遠くではどこかの家の風鈴が、熱気をまるで冷ませない涼しげな音だけを響かせていた。
蓮根家の二階。
奎星は姿見の前で、帯を弄っていた。
「……これ合ってんのか?」
紺地の甚平。
細い白の縞が入った、ごく普通のものだった。魔法使いらしい要素など一つもない。母親が数年前に買ったものだが、ろくに着る機会もないまま箪笥の奥へ眠っていた。
八咫祭の案内を改めて読んでみれば、集合区域は東京・明治神宮周辺。
祭りである。
せっかくだから、という母親の強い勧めによって甚平を着ることになった。
ただし。
一つだけ。
普通ではないものがある。
「……よし」
奎星は腰の内側へ細い革製の杖入れを固定した。
神代榊。
芯には鬼火鳥の尾羽。
甚平の上着を下ろせば、外からはほとんど見えない。
夏休み中、一般社会で好き勝手に魔法を使うことは当然禁止されている。それでも、魔法使いの祭りへ行く以上、杖は携行するよう『夏季休暇のしおり』に書かれていた。
一学期なら、そこだけ読んで喜んだだろう。
今では。
「使わねえのが一番なんだよな」
そう呟きながら確認する程度にはなった。
階下から母の声が飛んでくる。
「奎星ー! 写真撮らせてー!」
「嫌だ!」
「せっかく甚平着たのに!」
「祭り行くだけだろ!」
「お父さん、奎星逃げるわよ!」
「玄関押さえるか」
「やめろ!」
結局。
玄関先で三枚撮られた。
一枚目は露骨に嫌そうな顔。
二枚目は目を閉じた。
三枚目だけは諦めて普通に写った。
母は満足した。
「烏丸先生に見せよ」
「なんで!?」
「冗談よ」
「母さん最近マジで性格悪くなったぞ!」
笑う両親を背に、奎星は逃げるように家を出た。
約束の時間まで、あと四十分。
今日。
ようやく八咫祭だった。
*
原宿駅の改札を出た瞬間、人の多さに少し後悔した。
「多っ……」
夏休み。
盆休み。
夕方。
観光客。
若者。
家族連れ。
普通の東京だけでも十分すぎるほど人がいる。
ここからさらに、一般人には見えない魔法使いたちの祭りへ入るというのだから、いったいどうなるのか想像もつかなかった。
奎星はスマートフォンを見る。
集合時間の十分前。
辺りを見回す。
すぐに見つかった。
「伊織!」
駅前の少し人通りを避けた場所に、榊伊織が立っていた。
夏らしい薄手の黒いシャツに、灰色のパンツ。相変わらず眼鏡を掛け、何をするでもなく静かにスマートフォンを見ている。
奎星が駆け寄る。
「早くね?」
「君もね」
「俺、祭りの日は遅刻しないタイプだから」
伊織がスマートフォンから目を上げる。
「そういう人間は普段も遅刻しない」
「祭りは授業と違うだろ」
「教師が聞いたら泣くよ」
「スズメちゃんには言うなよ」
「自分から名前を出したね」
「何でその言い方なんだよ」
伊織は奎星の甚平を見る。
「似合ってる」
「マジ?」
「七五三みたいで」
「帰るぞ俺」
「褒めたのに」
「どこがだよ!」
伊織の口元が僅かに上がる。
二人でそんな話をしていると。
「だから、それはあんたが悪いでしょ!」
聞き覚えのある声が、人混みの向こうから飛んできた。
奎星と伊織が同時にそちらを見る。
「来たな」
「分かりやすいね」
人の流れを縫うように歩いてくる二人。
朝比奈日向。
水無瀬楓。
そして。
喧嘩していた。
「俺は聞いただけじゃん!」
「三回も訊いたでしょう!」
「だって答えなかったから!」
「答えなかった時点で察しなさいよ!」
「何を!?」
「何でもいいわよ!」
「よくねえだろ!」
奎星が手を上げる。
「おーい!」
日向が気づいた。
「奎星!」
楓もこちらを見る。
日向は薄い藍色の浴衣姿だった。
そして楓も、淡い生成り地に夏草の模様が入った浴衣を着ている。
奎星は二人を見る。
「何喧嘩してんの?」
「聞いてくれよ!」
日向がすぐに寄ってきた。
「あいつ浴衣着てきたからさ、『似合ってる』って言ったんだよ」
「いいじゃん」
「だろ!?」
楓が冷たい目を向ける。
「そこまではね」
「そのあと何言ったの?」
伊織が訊く。
日向の勢いが少し弱まった。
「……七歳のときより色気出たなって」
「お前が悪い」
奎星は即答した。
伊織も頷く。
「有罪」
「何でだよ!」
楓は腕を組んだ。
「ほら」
「褒めたんだぞ!?」
「女子への褒め方が十二年間成長してないのよ!」
「十二年前は褒めてねえよ!」
「覚えてないだけでしょ!」
奎星は二人を眺める。
口では喧嘩している。
だが日向は歩道側へ楓を寄せるよう自然に立ち位置を変えていたし、楓も文句を言いながら日向の少し乱れた浴衣の襟を直している。
「……なあ伊織」
「何?」
「これ喧嘩?」
「本人たちはそう思ってる」
「へえ」
日向が振り返る。
「何こそこそ話してんだよ!」
「別に」
「気持ち悪い」
楓が言う。
「俺!?」
日向が叫んだ。
そのとき。
「来た」
伊織が言った。
奎星が周囲を見る。
「岳?」
「うん」
「どこ?」
伊織は無言で向こうを指す。
人混みの中から。
岩戸岳が歩いてくる。
大柄な身体。
半袖。
太い腕。
そして右手。
串焼き。
左手。
紙袋。
口。
何か食べている。
奎星は目を細めた。
「……もう食ってる」
岳が近づく。
「おう」
日向が串を見る。
「祭りまだ入ってねえぞ!?」
「腹が減った」
「これから屋台だぞ!」
「準備運動」
楓が紙袋を見る。
「それ何?」
「肉巻きおにぎり」
「何個?」
「三」
「駅からここまで何分?」
「五分」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「一分あたり〇・六個」
「計算すんなよ」
岳は平然と最後の一口を飲み込んだ。
そして。
五人が揃った。
奎星。
日向。
楓。
伊織。
岳。
一学期の終わり。
教室で。
絶対行こうと約束した五人。
日向が両手を叩く。
「よし!」
楓が眉を寄せる。
「何よ」
「八咫祭行くぞ!」
奎星が笑う。
「おう!」
岳も頷いた。
「食うぞ」
「目的変わってる!」
*
しおりに記されていた案内は、妙だった。
《明治神宮前駅より徒歩七分。表参道側から神宮橋を渡らず、北参道へ向かう旧参道沿い。三脚烏の標を確認すること》
一般人が読めば。
意味が分からない。
奎星も分からなかった。
「八咫小路どこ?」
歩きながら訊く。
日向が笑った。
「初めてだもんな」
「普通の祭りみたいに道路封鎖して屋台出てんのかと思った」
「一般人に見えるわけないでしょ」
楓が呆れる。
「だよな」
「納得するの遅いよ」
伊織が前を指す。
「そろそろ」
明治神宮の深い緑が、都会の建物の間から見えている。
つい数分前まで原宿の喧騒の中にいたはずなのに、少し道を外れただけで空気が変わった。
高い木々。
蝉の声。
遠くを走る車の音。
一般の参拝客たちは、誰一人としてこちらの細い脇道へ目を向けない。
というより。
そこに道があると認識していないようだった。
奎星が足を止めた。
「ここ?」
目の前にあるのは。
行き止まりだった。
古い石垣。
左右には木々。
石垣の中央に、小さな真鍮の板が嵌め込まれている。
三本脚の烏。
それだけ。
「行き止まりじゃん」
日向がにやりと笑う。
「まあ見てろって」
「お前がやるの?」
「いや」
日向が伊織を見る。
「伊織」
「なぜ僕が」
「一番失敗しなさそう」
「君でもできるよ」
「でも俺がやると楓が去年の話するから」
「言うわよ」
楓が即答した。
「入口開けた瞬間、箒出そうとしたでしょう」
「祭りなんだからテンション上がるじゃん!」
「だから私が止めたの!」
「十二年間ずっと止めてんなお前」
奎星が笑う。
楓が頭を抱えた。
「誰のせいよ……」
結局。
伊織が前へ出た。
周囲を確認する。
普通の人々が数人、すぐ後ろを歩いている。
けれど。
誰も五人を見ていない。
伊織は服の内側から杖を抜いた。
真鍮の三脚烏へ、先端をそっと触れる。
一度。
二度。
三度。
こん。
こん。
こん。
三本脚に合わせるように。
最後に。
嘴へ一度。
こつ。
何も起きない。
「…………」
奎星が眉を上げる。
「失敗?」
「黙ってて」
次の瞬間。
石垣の向こうから。
しゃらん。
鈴の音がした。
奎星の目が大きくなる。
石垣に。
一本の光が走った。
縦に。
細い。
髪の毛ほどの隙間。
そこから光が漏れる。
光の筋は左右へ伸び。
上へ伸び。
石垣そのものに。
一枚の巨大な扉を描いた。
「おお……」
ごごご。
石が動く。
だが。
周囲の一般人は。
誰一人として振り返らない。
石垣が左右へ開く。
その先。
そこにあるはずのない道が現れた。
赤い鳥居。
長く続く石畳。
何百という提灯。
奥から響く。
笛。
太鼓。
人の声。
笑い声。
そして。
風に乗って。
焼き物の匂い。
甘い菓子の匂い。
祭りの匂い。
奎星は。
口を開けたまま固まっていた。
「…………」
日向が笑う。
「どうよ」
「…………」
「奎星?」
「すげえ……!」
一歩。
中へ入る。
背後には東京。
車。
ビル。
電車。
人混み。
目の前には。
そのすべてから完全に隠された。
魔法使いたちの町があった。
「マジかよ……!」
奎星は振り返った。
石垣の向こうを、一般人の若い男女が普通に通り過ぎる。
こちらを見ない。
気づかない。
数歩しか離れていないのに。
まったく違う世界にいる。
胸が。
妙に高鳴った。
初めてマホウトコロを見た日と。
少し似ていた。
「行こうぜ!」
奎星が先へ走る。
楓が声を上げる。
「ちょっと! 迷子になるわよ!」
「十七だぞ俺!」
伊織が淡々と言う。
「精神年齢の話じゃない?」
「伊織!」
岳だけは既に。
道の向こうの屋台を見ていた。
「……焼き鳥」
「まだ入って十秒だぞ!」
八咫小路。
その夜。
東京の中に。
東京ではない夏が広がっていた。
*
八咫祭は。
奎星の想像を。
軽く超えていた。
通りの両側には、古い木造の商家がどこまでも連なっている。
二階の欄干には何百もの提灯が吊るされているが、中に蝋燭はない。淡い青、桃、金、紫。魔法の光が、呼吸するようにゆっくり色を変えていた。
頭上には紙でできた金魚が泳いでいる。
水もない空中を。
尾鰭を揺らしながら。
子どもたちが杖で追いかけていた。
「金魚浮いてる!」
「毎年いるよ」
日向は慣れたものだった。
「取れんの?」
「取れる」
「どうやって?」
「魔法禁止」
「え?」
「紙の網で」
「そこ普通なんだ!?」
少し進めば。
射的屋。
ただし標的が逃げる。
「動くなって!」
奎星の撃ったコルク弾を。
小さな木製の狸が、横へ飛んで避けた。
隣で日向が爆笑する。
「下手!」
「こいつ動くんだよ!」
「言い訳!」
楓が銃を取った。
一発。
ぱん。
狸の眉間。
「おお!」
奎星が叫ぶ。
日向が得意げに言う。
「楓、こういうの昔からうまいんだよ」
「何であんたが自慢するの」
「俺が教えたから」
「教わってない」
「七歳のとき」
「記憶を捏造しないで」
別の店では。
綿飴が雲の形になった。
岳が巨大な入道雲を受け取った。
「岳、それ食い切れんの?」
岳が一口。
三分の一が消えた。
「聞いた俺が馬鹿だった」
伊織は古道具の露店で妙な魔法具を手に取っている。
奎星が覗く。
「何それ」
「嘘をつくと鼻が赤くなる眼鏡」
「伊織いらねえじゃん」
「どういう意味?」
「普段から真顔で嘘つくから」
「僕は正直だよ」
眼鏡が赤く光った。
奎星は腹を抱えた。
「ほら!」
「不良品だね」
「往生際悪っ!」
通りの奥から太鼓の音が響く。
魔法使いたちが踊る。
浴衣。
甚平。
魔法衣。
一般社会の服。
様々な人々が混じり合っている。
屋根の上では狐のような小さな魔法生物が提灯の紐を渡り歩き、通りの端では小妖たちが小さな団扇を配っている。
奎星は、その一つ一つに足を止めた。
「あれ何!?」
「祭り灯籠」
「あっちは!?」
「魔法独楽」
「鳥飛んでる!」
「式紙」
「あの飴光ってる!」
「舐めると舌が光るやつ」
「買う!」
「小学生か」
楓が呆れる。
十分後。
奎星と日向の舌が青く光っていた。
「見ろ楓!」
「近寄らないで」
「伊織もやろうぜ!」
「僕にはまだ羞恥心があるから」
「岳!」
岳は。
光る飴を舐めながらたこ焼きを食べていた。
「もうやってる!」
祭りは。
楽しかった。
ただ。
それだけだった。
事件もない。
危険もない。
誰かに追われることも。
死の呪文が飛んでくることも。
古代魔術が暴走することもない。
友達と笑って。
食べて。
くだらないものを買って。
また笑う。
一学期。
奎星が欲しかったものは。
もしかすると。
こういう時間だったのかもしれない。
*
問題は。
八咫祭が。
あまりにも混んでいたことだった。
「日向! そっち何ある!?」
「聞こえねえ!」
「岳どこ!?」
「食い物の方!」
「全部だろ!」
祭りの中心へ近づくほど、人の数が増えていった。
通りが少し細くなる。
左右の屋台。
立ち止まる客。
走り回る子ども。
空中を飛ぶ紙細工。
さらに向こうから大きな山車まで来る。
「端寄って!」
楓の声。
奎星は一度、横へ避けた。
その瞬間。
間へ。
十数人の集団が流れ込んだ。
「あ」
日向の頭が見える。
楓の髪。
伊織。
岳は。
見えないが多分食べている。
「おーい!」
手を上げる。
だが。
山車の太鼓が鳴った。
ドン!
「日向ー!」
ドン!
「伊織ー!」
ドドン!
「岳は何か食うのやめろー!」
届かない。
人の流れに押される。
奎星は右へ。
四人は左へ。
一分後。
「…………」
一人になっていた。
奎星は辺りを見る。
「マジかよ」
スマートフォンを出す。
圏外。
「魔法界ぃ……!」
こういうときだけ。
不便だった。
仕方なく、人の少なそうな横道へ入る。
「まあ、祭り終わるまでには会えるだろ」
十八歳でもないのに、本人の危機感は薄かった。
十七歳。
方向音痴ではない。
杖もある。
金もある。
屋台もある。
「先なんか食っとくか」
岳の思考へ近づき始めていた。
角を曲がる。
その瞬間。
「わっ」
小さな何かとぶつかった。
「きゃっ」
奎星は反射的に身体を引く。
相手は小柄だった。
かなり。
人混みに隠れて、まったく見えなかった。
「ごめんごめん、大丈夫? お兄ちゃん前見てなくて――」
そこで。
止まる。
顎の辺りで揃えられた黒髪。
見覚えのある二重の目。
今日は濃紺の教員衣ではなく、夏祭りの見回り用らしい薄手の羽織を着ている。腰には当然のように杖。
そして。
その目が。
ゆっくり細くなった。
「…………」
奎星の口が開く。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です」
条件反射だった。
続いて。
「それより」
スズメは奎星を睨む。
「何ですか、今の態度は」
「え?」
「『大丈夫? お兄ちゃん前見てなくて』」
声を真似された。
奎星は固まった。
スズメの眉が上がる。
「誰に話しているつもりだったのですか?」
「いや」
奎星は。
危うく。
子供かと思った。
と言いかけた。
喉元まで出た。
けれど。
一学期。
この教師との付き合いで。
彼も少しだけ。
危機察知能力を身につけていた。
「…………」
飲み込む。
「ごめん」
「今、何か言いかけましたね」
「何も」
「私の目を見て言ってください」
「何も言ってないです烏丸先生」
「急に呼び方を直すと余計怪しいですよ」
「気のせいだよスズメちゃん」
「烏丸先生です」
戻った。
奎星は笑う。
「でも、マジでびっくりした」
「こちらの台詞です。なぜ一人なのです?」
「みんなとはぐれちゃって」
「……そうですか」
スズメは周囲を見る。
人の流れ。
祭りの喧騒。
「朝比奈君たちは?」
「多分あっち」
「多分?」
「山車来て、人ごちゃってなって、気づいたらいなかった」
スズメが額を押さえた。
「水無瀬さんがあれほど迷子になると言っていたでしょう」
「十七歳だから迷子じゃねえよ」
「では何です?」
「単独行動」
「ものは言いようですね」
「スズメちゃんは?」
「見回りです」
「やっぱり?」
「前にも言ったでしょう」
「うん」
一拍。
奎星の顔が。
ぱっと明るくなる。
「でも、スズメちゃんに会えてよかった!」
スズメが瞬きをした。
あまりにも。
何の含みもない言い方だった。
「…………」
「何?」
「いえ」
スズメは小さく息を吐いた。
困ったように。
呆れたように。
それでも。
口元には。
ほんの少しだけ。
笑みがあった。
「本当に、あなたは……」
「俺?」
「何でもありません」
「今日それ多くね?」
「いつものことです」
二人は横道から再び祭りの通りへ戻る。
奎星はスズメの隣を歩きながら、周囲を見る。
ふと思い出した。
「なんか食べた?」
「いえ」
「マジ?」
「見回り中ですから」
「祭り来て何も食ってないの!?」
「仕事で来ています」
「もったいねえ!」
「あなたは何をしに祭りへ来たのです?」
「食って遊ぶ」
「でしょうね」
奎星は屋台を見回す。
焼きそば。
団子。
かき氷。
りんご飴。
綿菓子。
そして。
「あ!」
指を差す。
「ベビーカステラ!」
「ありますね」
「スズメちゃん絶対好きでしょ!」
「どういう偏見ですか?」
「好きそう」
「だから何を根拠に」
「小さいし」
スズメの足が止まった。
「…………」
奎星も止まった。
今のは。
まずい。
「袋が!」
「何ですか?」
「袋が小さいから食べやすそうって意味!」
「まだ何も訊いていませんが」
「買ってくる!」
「蓮根君」
「待ってて!」
逃げた。
「蓮根君!」
人混みへ消える。
スズメはその背中を見つめる。
「……まったく」
数分後。
戻ってきた。
紙袋を二つ持って。
「はい」
「いりません」
「もう買った」
「勝手に買わないでください」
「じゃ俺二袋食うけど」
「…………」
「岳化するぞ俺」
「それは健康上よろしくありませんね」
「じゃ一個」
「理屈がおかしいです」
言いながら。
スズメは受け取った。
まだ温かい。
一つ摘む。
食べる。
「どう?」
奎星が訊く。
「普通です」
「絶対好きじゃん」
「普通です」
もう一つ食べる。
「二個目いってんじゃん!」
「見回りで歩いているので糖分が必要なのです」
「そういうことにしとく?」
「何ですか、その顔は」
奎星は笑った。
結局。
一緒に歩いた。
最初は。
少しだけだった。
スズメが担当する見回り区域を抜けるまで。
そのはずだった。
けれど奎星は。
「あれ何!?」
と立ち止まる。
「鬼灯飴です」
「食える?」
「食べられます」
「買う?」
「私はいりません」
五分後。
「スズメちゃん、これ見て!」
「見回り中です」
「この面つけると声変わる!」
狐面を被る。
「スズメちゃーん」
妙に低い声。
スズメが吹き出しかける。
「くだらない……」
「今笑った!」
「笑っていません」
「笑ったって!」
さらに五分後。
魔法金魚すくい。
「取れねえ!」
「下手ですね」
「じゃやってみろよ!」
「私は見回り――」
「逃げる?」
スズメの眉が動いた。
一分後。
三匹。
奎星。
零匹。
「…………」
「簡単ですよ」
「先生ってこういうとこ大人気ないよな」
「あなたが挑発したのでしょう」
「もう一回!」
「やりません」
「頼む!」
「見回りです!」
なんやかんや。
という言葉でしか説明できない時間だった。
スズメは仕事中だった。
奎星は友人とはぐれただけだった。
二人とも。
別に。
一緒に祭りへ来たわけではない。
なのに。
気づけば。
かなりの時間。
隣を歩いていた。
*
夜が深くなる。
八咫小路を覆っていた空の色が、濃い藍へ変わっていく。
提灯の光が一段と鮮やかになり、店先の魔法灯が星のように点り始める。
やがて。
通りのあちこちで。
人々が空を見上げ始めた。
奎星が気づく。
「何?」
スズメが時計を見る。
「そろそろですね」
「何が?」
言い終わる前。
八咫小路の灯りが。
一斉に。
少しだけ暗くなった。
「お?」
太鼓も止まる。
笛も。
人の声も。
完全に消えるわけではない。
ただ。
町全体が。
何かを待つように静かになる。
奎星も。
つられて空を見た。
次の瞬間。
ひゅるるるる――。
細い音が。
夜空へ昇った。
そして。
ぱんっ。
大きな花が咲いた。
「うわ……!」
青。
次に。
金。
赤。
紫。
魔法使いたちの花火は。
普通の花火とは少し違った。
光が消えない。
最初に咲いた金色の火花が空へ残ったまま。
三本脚の鳥になる。
鳥が翼を広げ。
八咫小路の上を大きく一周する。
歓声。
次の花火。
今度は青い龍。
空を泳ぐ。
その身体が無数の星へほどける。
「すげえ……!」
奎星は。
完全に夢中だった。
口を少し開けたまま。
次々に上がる花火を目で追っている。
頬には。
青。
赤。
金。
空の色が。
次々映る。
スズメは。
一度。
空を見た。
そして。
隣を見る。
奎星。
楽しそうだった。
本当に。
それだけで。
少しだけ。
胸の奥が軽くなる。
「スズメちゃん!」
「何です?」
「見た!? 今の鳥!」
「見ています」
「すっげえな!」
「毎年上がりますよ」
「毎年!?」
「はい」
「来年も見よ!」
あまりにも自然に言った。
スズメの視線が。
一瞬だけ止まる。
奎星はもう。
次の花火を見ている。
おそらく。
何も考えていない。
友達にも。
同じように言うのだろう。
来年も。
また行こう。
そのくらいの意味。
「…………」
スズメは。
再び空を見上げた。
花火が上がる。
赤い光が。
横顔を照らす。
考えてみれば。
異性と並んで花火を見るのは。
初めてだった。
二十一年。
祭りへ来たことはある。
学生時代には美琴たちとも来た。
家族とも。
けれど。
男の子と二人で。
並んで。
こんなふうに見るのは。
なかった。
そして。
おそらく。
隣の少年も。
同じだった。
その事実が頭へ浮かんだ瞬間。
スズメは。
なぜそんなことを考えたのか分からなくなった。
違う。
教師と生徒。
見回り中。
偶然会った。
朝比奈たちとはぐれた生徒を。
少し一緒に歩いているだけ。
それだけ。
「…………」
ぱんっ。
空に大輪が咲く。
奎星が。
子どものような顔で笑った。
「これヤバ!」
スズメは思わず。
少し笑った。
「語彙がないですね」
「だってヤバいだろ!」
「もう少しありませんか?」
「めっちゃ綺麗!」
「小学生になりましたね」
「感想厳しすぎ!」
そのとき。
遠くから。
声がした。
「おーーーーい!!」
奎星が振り返る。
「ん?」
人混みの向こう。
手を大きく振っている。
日向だった。
「奎星ーーーー!」
「日向!」
「いたぁぁぁ!」
日向が走ってくる。
途中で人へぶつかりかけ。
楓に後ろから襟を掴まれる。
「前見なさい!」
「ぐえっ!」
その後ろに。
伊織。
そして。
岳。
岳は。
まだ何か食っていた。
奎星が笑う。
「見つかった!」
日向はかなり焦っていたらしい。
人を避けながら叫ぶ。
「早く来てくれ〜!」
「何!?」
「岳が大食いの屋台見つけた!」
「そっち!?」
「十杯食うと無料らしい!」
遠くで岳が親指を立てる。
伊織が横で首を振っている。
おそらく。
また何かやっている。
奎星はスズメを見る。
「じゃ、俺戻るね!」
「はい」
「またなんかやってるみてえだから!」
「あなたも加わらないでくださいね」
「え?」
「危ないことはしないでください」
スズメの声は。
いつもの教師のものだった。
少しだけ。
心配が混じっている。
奎星は笑う。
「しないよ!」
「本当ですか?」
「多分!」
「今の一言で信用がなくなりました」
「大丈夫だって!」
後ろから。
日向の声。
「奎星早く来てくれ〜! 楓が俺まで止めようとしてる!」
「止めるわよ!」
「俺食わねえって!」
「煽るでしょう!」
「するけど!」
「ほら!」
奎星が吹き出す。
「やっぱ行くわ!」
一歩。
走り出す。
けれど。
二歩目で。
止まった。
振り返る。
スズメは。
そこにいた。
提灯の明かり。
夜空。
花火の残光。
人混みの中。
小柄な教師が。
奎星を見ている。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です」
奎星は。
満面の笑みを浮かべた。
「会えてよかった!」
スズメの目が。
僅かに大きくなる。
返事を待たず。
奎星は手を上げた。
「じゃあな!」
「蓮根君!」
走り出した背中へ。
スズメが声をかける。
奎星が走りながら振り返る。
「何ー!?」
「本当に、危ないことはしないでくださいね!」
「しないって!」
手を振る。
そして。
日向たちのところへ戻っていく。
すぐに。
四人の声へ混じった。
「遅え!」
「迷子になったくせに!」
「迷子じゃねえ!」
「蓮根、これ食え」
「岳もう始めてんじゃん!」
「十一杯目」
「無料ライン超えてるだろ!」
笑い声。
いつもの五人。
スズメは。
少し離れたところから。
その姿を見つめていた。
「…………」
夜空に。
また。
花火が上がる。
ぱんっ。
金色の光が。
八咫小路へ降り注ぐ。
スズメの口元には。
まだ。
小さな笑みが残っていた。
会えてよかった。
ただそれだけの言葉。
ただそれだけの。
十七歳の少年の。
何の裏もない笑顔。
それを見た瞬間。
胸の奥に溜まっていた疲れが。
ほんの少しだけ。
消えたことに。
烏丸スズメは。
まだ。
気づいていなかった。