マホウトコロ   作:西野圭吾

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第4話 鬼火鳥

 

「十一杯目」

 

「無料になるの、十杯までなんだろ?」

 

「そうだ」

 

「じゃあ、何で十一杯目を食ってんだよ!」

 

八咫祭の大通りへ戻ってきた奎星が最初に見たのは、屋台の前に陣取り、湯気の立つ大きな丼を抱えている岳だった。

 

花火はまだ夜空のあちこちで咲き続けている。青や金の光が提灯の並ぶ八咫小路を何度も明るく染め、そのたびに祭りの人波が歓声を上げた。さっきまでスズメと歩いていた通りとは少し離れた場所だったが、祭りの熱気は変わらない。人々の笑い声に笛や太鼓の音、屋台から上がる威勢のいい呼び声が重なり、通り全体が大きな生き物のようにざわめいていた。

 

その喧騒の中で、岳だけは屋台の丼に集中している。

 

日向が呆れた顔で、岳の前に積み上がった空の丼を覗き込んだ。

 

「十杯食ったら無料なんだろ? もう目標達成してんじゃん」

 

「まだ食える」

 

「大会じゃねえんだよ」

 

楓が額を押さえる。伊織は空の丼を一つずつ数え、冷静な声で言った。

 

「店側としては、十一杯目からようやく利益が出るね」

 

「岳、お前、店に飼われ始めてるぞ」

 

奎星が笑うと、岳は最後の一口を飲み込んで丼を置いた。

 

「うまかった」

 

「感想それだけ!?」

 

屋台の店主だけが、満足そうに頷いていた。

 

ようやく五人が揃い、次はどこへ行くかという話になった。ところが、岳が十二杯目を注文するかどうか真剣に悩み始めた、そのときだった。

 

「……ん?」

 

岳の表情がふいに変わった。

 

「どうした?」

 

日向が訊く。

 

岳は答えず、通りの向こうへ顔を向けた。耳を澄ますように目を細める。

 

ちょうど頭上で新しい花火が開いた。腹の底へ響くような破裂音とともに、金色の光が巨大な狐の形になって夜空を走っていく。

 

「今、鳴いた」

 

「誰が?」

 

「鳥」

 

日向は空を見上げた。

 

「花火だろ」

 

「違う」

 

岳は即答した。

 

「鳥だ」

 

「いや、今どう聞いてもドーンだったぞ」

 

「その前」

 

「俺には何も聞こえなかったけど」

 

楓も首を傾げ、伊織も祭りの音の向こうへ耳を澄ませた。しかし、それらしい鳴き声は聞こえてこない。周囲には何百人もの人間がいて、太鼓が鳴り、笛が鳴り、屋台では鉄板の上で肉が焼かれている。この騒音の中から鳥の声だけを拾うほうが無茶に思えた。

 

それでも岳は、もう祭りのほうを見ていなかった。

 

大通りの端、その向こうに広がる深い森へ視線を固定している。

 

八咫小路は明治神宮周辺に重なる隠された魔法区域だが、祭りに使われているのは古い商店街と参道を中心とした一帯だけだった。その外側には人の手がほとんど入っていない森が広がっている。祭りの明かりも奥までは届かず、提灯の列が途切れた先には、木々の隙間を埋める黒い闇しかなかった。

 

「こっちだ」

 

岳が歩き出す。

 

「おい、岳?」

 

返事はない。

 

「ちょ、待てって!」

 

奎星たちが追いかける間にも、岳は人混みを抜け、通りの端を越え、そのまま森へ続く細い道へ向かっていく。

 

入口には木製の立札があった。

 

《祭礼期間中 立入禁止》

 

《保護区域につき、許可なく森林内へ侵入しないこと》

 

奎星が岳を追おうと一歩踏み出したところで、楓が甚平の袖を掴んだ。

 

「待ちなさい」

 

「岳、行っちゃうぞ」

 

「見なさいよ。立入禁止って書いてあるでしょ!」

 

「あいつ読んでねえよ」

 

「だからって、全員で破ることないでしょう!」

 

森の奥へ入った岳の背中が、木々の間に消えていく。

 

「岳!」

 

日向が呼ぶが、返事はなかった。

 

楓は苛立ったように息を吐いた。どうするべきか迷っているらしい。祭りの見回りをしている教師に知らせるのが正しい。それは全員が分かっていた。

 

奎星はそんな楓の横顔をちらりと見た。

 

「まあ、仕方ねえか」

 

「何が?」

 

「優等生に暗い森は怖いもんな〜」

 

楓の眉がぴくりと動いた。

 

日向が「あ」と小さく声を漏らし、伊織は眼鏡の奥で目を閉じる。

 

「奎星、それは……」

 

「怖くねえよ、俺は。別に木しかないし。楓はここで待ってても――」

 

「ほんっとに嫌!」

 

楓が叫んだ。

 

祭りの音に掻き消される程度ではあったが、近くを歩いていた何人かが振り返った。

 

「あんたら全員馬鹿! 岳は勝手に入るし、日向は止めないし、奎星は煽るし!」

 

「俺、まだ何もしてなくね!?」

 

日向が抗議する。

 

「あんたはどうせ入るでしょ!」

 

「入るけど」

 

「ほら!」

 

伊織が静かに立札を見た。

 

「僕も行くよ」

 

楓が振り返る。

 

「伊織まで!?」

 

「岳一人にしておくほうが危ないし、何かあったら教師を呼ぶ人間も必要でしょ」

 

「……まともな理由なのが腹立つ」

 

結局、五人全員で森へ入ることになった。

 

楓だけは最後までぶつぶつ文句を言っていた。

 

 

祭りの明かりは、ほんの数十メートル森へ入っただけで驚くほど遠くなった。

 

さっきまで身体を包んでいた笛や太鼓の音は木々に吸われ、代わりに聞こえてくるのは、足元で枯れ枝が折れる音や、夏草の間を虫が動くかすかな気配ばかりだった。頭上を覆う枝葉の隙間から、ときおり花火の光だけが差し込む。そのたびに黒い幹が赤や青に染まり、次の瞬間にはまた夜の中へ沈んでいった。

 

先頭を歩く岳は、いつになく無口だった。

 

「岳ー」

 

奎星が声を抑えて呼ぶ。

 

「マジで鳥いたのか?」

 

「いる」

 

「自信すごいな」

 

「こっち」

 

岳は迷わず進んでいく。

 

後ろから日向が小声で言った。

 

「何であいつ分かんだよ」

 

伊織が足元の根を避けながら答える。

 

「岳、魔法生物飼育学はかなり成績いいからね」

 

奎星が振り返った。

 

「マジ?」

 

「上級課程でも上のほう。筆記は普通だけど、実習になると教師より先に生き物の機嫌に気づくことがある」

 

「初耳なんだけど」

 

日向が笑う。

 

「岳、飯以外の自慢はしねえからな」

 

前を歩く岳から声が返ってきた。

 

「飯も自慢してない」

 

「聞こえてんじゃん!」

 

楓は呆れながらも、いつでも杖を抜けるよう腰へ手を置いていた。

 

「でも、こんなところに何がいるっていうのよ。八咫祭の期間中なんだから、危険な魔法生物が近くへ来ないよう結界くらい張ってるはずでしょ」

 

その言葉が終わるか終わらないかというところで、森の奥から声がした。

 

――キィィ……。

 

今度は全員に聞こえた。

 

高い。

 

鳥の声だった。

 

ただし、空を自由に飛ぶ鳥の鳴き方には聞こえない。喉の奥から無理に絞り出したような、細く弱々しい声だった。

 

岳が走った。

 

「いた」

 

「おい!」

 

五人は枝を掻き分けながらその後を追い、少し傾斜のある地面を下っていく。木の根を跨ぎ、大きな岩の横を抜けると、前方の暗闇が不自然に明るくなっているのが見えた。

 

月明かりではない。

 

淡い青白い光が、木々の隙間から揺れている。

 

岳が足を止めた。

 

その向こうは、木々に囲まれた小さな空き地になっていた。

 

そして、そこに鳥がいた。

 

奎星は、最初にその大きさへ目を奪われた。

 

鴉より遥かに大きく、翼を広げれば人間の両腕ほどはありそうだった。身体を覆う羽毛は、夜の中では黒にも深い藍にも見える。首から背へかけて細い銀色の筋が走り、その身体の周囲には青白い炎がまとわりついていた。

 

ただ、その炎は薪を燃やすように勢いよく立ち上がってはいない。消えかかった蝋燭の火のように、弱々しく揺れていた。

 

長い尾羽が、地面へ落ちている。

 

奎星の視線がそこへ吸い寄せられた。

 

「……これ」

 

胸の奥で、何かが引っかかった。

 

聞いたことがある。

 

ずっと前、マホウトコロへ来た最初の日。九重院から渡された杖を手にしたときに聞いた言葉が、記憶の底から浮かび上がる。

 

――芯には鬼火鳥の尾羽が一本使われています。

 

――日本列島にのみ生息する、非常に珍しい魔法動物です。成熟個体は青白い炎をまとって飛びます。

 

奎星は無意識に、甚平の内側にある神代榊の杖へ触れていた。

 

「……鬼火鳥」

 

楓が先に、その名前を口にした。

 

奎星が見る。

 

「やっぱそうなの?」

 

「ええ」

 

楓は鳥から目を離さない。

 

「教科書でしか見たことないけど、間違いないと思う。本来は人里からかなり離れた山岳地帯に棲む鳥よ。生息数自体が少ないから、魔法省の保護対象にも指定されてる」

 

日向が眉を寄せた。

 

「じゃあ、何で原宿の森にいるんだよ」

 

誰も答えられなかった。

 

岳がゆっくり近づく。

 

鬼火鳥の頭が動いた。

 

黒い瞳が岳を捉えた瞬間、弱っていた翼がばっと開き、青白い火が一瞬だけ強くなる。

 

「岳、待って!」

 

楓が制止する。

 

しかし岳は止まらなかった。

 

ただし、それ以上近づきもしない。

 

鳥から二メートルほど離れたところでしゃがみ、大きな身体をできるだけ低くして、両手を見える位置へ置いた。

 

「大丈夫だ」

 

鬼火鳥が嘴を開く。

 

威嚇するような低い声が、空き地に響いた。

 

岳は動かない。

 

「触らない」

 

ゆっくり。

 

本当にゆっくりと、片方の手だけを地面へ置く。

 

「怖くない」

 

奎星は黙って見ていた。

 

大食堂で海老の天ぷらを巡って命懸けの顔をしている岳とは、まるで別人だった。普段は言葉数も少なく、何を考えているのか分かりにくい男が、今は鳥の呼吸や翼の角度を一つも見逃さないようにしている。

 

鬼火鳥はしばらく岳を警戒していた。

 

やがて青白い炎が少しずつ小さくなり、開いていた翼も地面へ落ちる。岳がさらに少しだけ距離を詰めると、今度は逃げなかった。

 

「すげえ……」

 

奎星が呟く。

 

伊織が小さく笑った。

 

「だから言ったでしょ。こういうのだけはエリート」

 

「だけは余計だ」

 

岳が返す。

 

「聞こえてんじゃん」

 

岳が鳥の足元へ視線を落とした。

 

そこで表情が変わる。

 

「……これ」

 

右脚に、何かがついていた。

 

鉄とも銀とも違う、鈍い黒色の輪。

 

足枷だった。

 

細い鎖がそこから伸びているが、先端は途中で千切れている。羽毛の下には擦れた傷があり、黒い輪の周囲には乾いた血までこびりついていた。

 

楓がすぐ横へ来る。

 

「見せて」

 

鬼火鳥が少しだけ身体を強張らせたため、楓は距離を保ったまま目を凝らした。

 

「……変ね」

 

「何が?」

 

日向が訊く。

 

「保護対象の魔法生物を研究や治療で拘束する場合、使用器具には管理者の登録印が入るはずよ。少なくとも魔法省の許可番号か、施設の識別紋がある」

 

楓は杖先に小さな光を灯し、足枷を照らした。

 

何もない。

 

模様も、文字も、番号も刻まれていない。

 

ただ黒い輪だけが、鬼火鳥の脚を締めつけていた。

 

「登録されてない」

 

楓の声が低くなる。

 

奎星の顔から、さっきまでの祭り気分が消えた。

 

「じゃあこれ、誰かが勝手につけたってこと?」

 

そのときだった。

 

「そこまでにしときな」

 

女の声がした。

 

五人が一斉に振り返る。

 

空き地の向こう、木々の間に二人の人影が立っていた。

 

いつからそこにいたのか、まったく分からなかった。

 

一人は女。

 

もう一人は男。

 

どちらも頭から深くフードを被り、顔の上半分を影の中へ隠している。祭り客の装いではなく、身体に沿った暗色の長衣の上から革製の帯や小さな鞄をいくつも身につけていた。泥に汚れた長靴は、森や山を歩き慣れている者のものだった。

 

そして二人とも、既に杖を持っている。

 

女が岳を見る。

 

「坊や、その鳥を離しな」

 

岳は動かなかった。

 

鬼火鳥の身体が震える。

 

それまで岳には警戒を解き始めていた鳥が、二人の姿を見た瞬間、首を低くして翼を広げた。青白い炎が一気に強くなり、足枷を引きずりながらでも後ろへ逃げようとする。

 

その反応だけで、十分だった。

 

岳が鳥を見る。

 

次に、二人を見る。

 

「嫌だってさ」

 

女の口元が僅かに歪んだ。

 

「聞き分けの悪い子は嫌いだよ」

 

杖が岳へ向く。

 

ほとんど同時だった。

 

甚平の裾が翻る。

 

奎星が岳の前へ滑り込み、内側から神代榊を抜き放って相手へ向けた。

 

さっきまでベビーカステラを買い、金魚すくいで負け、友人と大食いを眺めていた少年の顔ではなかった。

 

「聞こえなかったか?」

 

奎星は女の杖先を見たまま言う。

 

「帰れよ」

 

その横で、男も杖を抜く。

 

日向の顔から笑みが消えた。

 

伊織も静かに杖へ手を伸ばす。

 

奎星は二人を順番に見た。

 

「大体、あんたら誰だ?」

 

女が鼻で笑う。

 

「名乗る筋合いはないね」

 

「だったら、こっちも渡す筋合いはねえよ」

 

楓が前へ出た。

 

奎星の隣へ並び、ぴたりと杖を構える。

 

「あなたたちが正式な管理者なら、その証拠を見せなさい」

 

女の視線が楓へ移る。

 

「この鳥は魔法省の保護対象よ。拘束器具には登録情報が必要なのに、その足枷には何もない。所属も、管理番号も、許可印もない」

 

「へえ」

 

女の声に、少しだけ面白がる響きが混じった。

 

「ずいぶん勉強熱心みたいだねぇ」

 

楓の表情は変わらない。

 

「当然のことを言っているだけです」

 

「じゃあ、これも習ったかい?」

 

女の杖が僅かに持ち上がった。

 

予備動作は、ほとんどなかった。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い閃光が一直線に飛ぶ。

 

岳へ。

 

しかし、その間には既に奎星がいた。

 

「プロテゴ!」

 

透明な盾が広がり、赤い光が正面から激突する。

 

森の中へ硬い破裂音が響き、奎星の甚平の袖が衝撃で大きく揺れた。それでも盾は割れなかった。

 

光が弾ける。

 

奎星は杖を構えたまま、口元だけ少し笑った。

 

「いきなり撃ってくるやつが飼育員なわけねえな」

 

女の目が細くなる。

 

「ガキにしちゃ、いい盾だ」

 

「師匠が厳しいもんでな」

 

御影の顔が一瞬、頭を過ぎる。

 

必要な力だけを使う。

 

怒っていても、怖くても、仲間が狙われていても。

 

奎星は杖先を女へ向けたまま、声だけを僅かに落とした。

 

「楓」

 

「何?」

 

「合わせろ」

 

楓は一度も奎星を見なかった。

 

ただ相手を見たまま答える。

 

「分かった」

 

男の杖が上がる。

 

その瞬間、奎星と楓が同時に動いた。

 

「エクスペリアームス!」

 

「ステューピファイ!」

 

赤い二本の光が森を切り裂く。

 

女と男は左右へ分かれた。男が盾を張って楓の呪文を弾き、女は身体を沈めて奎星の一撃を避ける。

 

奎星は外した光を目で追わず、そのまま半歩右へ移動した。

 

撃ったあとに止まるな。

 

相手の盾だけを見るな。

 

一学期、楓との決闘で自分がやられたことを思い出す。

 

「右!」

 

楓が即座に叫んだ。

 

女の杖が動く。

 

「ディフィンド!」

 

白い刃のような魔法が飛んだ。

 

「プロテゴ!」

 

楓が盾を出したところへ、今度は男の赤い光が横から重なる。

 

盾が大きく軋んだ。

 

「っ……!」

 

奎星が男へ杖を振る。

 

「エクスペリアームス!」

 

男は攻撃を中断して防ぐしかない。

 

その一瞬で楓が後ろへ下がり、二人は背中が触れそうな距離で位置を入れ替えた。

 

「上手いねえ」

 

女が笑う。

 

「学校のお遊びにしちゃ」

 

「そっちは大人の割に大したことないな」

 

奎星が返す。

 

「奎星、煽らない!」

 

「向こうから言ったんじゃん!」

 

「だからって返さなくていい!」

 

会話をしている間にも、四本の杖先は一度も下がらなかった。

 

男が先に仕掛ける。

 

「インカーセラス!」

 

地面から伸びた縄が、奎星の足首へ絡みつこうとした。

 

奎星が跳ぶ。

 

その着地点を、女は読んでいた。

 

「ステューピファイ!」

 

「奎星!」

 

楓の声が飛ぶ。

 

空中では避けられない。

 

奎星は身体を捻りながら杖を振った。

 

「プロテゴ!」

 

赤い光が盾へ当たり、身体ごと後ろへ弾かれる。地面へ転がった奎星はすぐに起き上がったものの、立ち上がるより早く男の杖が向けられた。

 

「遅い」

 

「プロ――」

 

楓の光が横から男を襲う。

 

「エクスペリアームス!」

 

男が防ぐ。

 

奎星はその隙に身体を起こした。

 

「助かった!」

 

「お礼はあと!」

 

楓の声には余裕がない。

 

相手は強かった。

 

一人ひとりの呪文が特別派手なわけではない。だが、撃つ場所と順番がいやらしい。奎星が女を押せば男が楓を狙い、楓が男の動きを止めれば女がすぐ横から割って入る。

 

二人とも互いの動きをほとんど確認せずに補い合っていた。長く組んで戦ってきたことが、嫌でも分かる。

 

奎星と楓も合わせられる。

 

けれど、経験が違った。

 

少しずつ押されていく。

 

「プロテゴ!」

 

奎星の盾へ二発、三発と連続して光がぶつかる。

 

盾そのものは耐えられる。

 

魔力量なら、いくらでもある。

 

問題はそこではなかった。

 

四方から飛ぶ攻撃をすべて見ながら、岳と鬼火鳥を守らなければならない。

 

後ろには、逃げられない生き物がいる。

 

「奎星!」

 

楓が叫んだ。

 

男が側面へ回っている。

 

奎星が振り向く。

 

間に合わない。

 

「ステューピ――」

 

「エクスペリアームス!」

 

別方向から赤い光が飛び、男の腕へ直撃した。

 

杖が大きく跳ねる。

 

「何!?」

 

その隙に、金茶色の髪が奎星の横を走り抜けた。

 

「二人だけで楽しんでんじゃねえよ!」

 

日向だった。

 

「遅え!」

 

「お前らが勝手に始めたんだろ!」

 

日向は止まらない。

 

男が落としかけた杖を掴み直すより先に、二撃目を放つ。

 

「ステューピファイ!」

 

「プロテゴ!」

 

男が盾を出す。

 

しかし、その間に女は一人になった。

 

楓が気づく。

 

奎星も同時だった。

 

「今!」

 

「分かってる!」

 

二人の杖が動く。

 

女は奎星を見る。

 

奎星が先だと判断したのだろう。女は正面へ盾を張った。

 

だが、奎星は撃たなかった。

 

杖を上げただけだった。

 

女の視線が一瞬、そちらへ釣られる。

 

本命は横。

 

「エクスペリアームス!」

 

楓の赤い光が女の手首を掠め、杖が大きく跳ねた。

 

「くっ……!」

 

奎星が踏み込む。

 

「インカーセラス!」

 

縄が地面から伸びる。

 

女は後ろへ跳んだ。

 

男が助けようとするが、日向が邪魔をする。

 

「どこ見てんだよ!」

 

「邪魔だ!」

 

「そりゃこっちの台詞!」

 

三人になった瞬間、流れが変わった。

 

奎星と楓が女を押し、日向が男を引き受ける。一人では押されていた攻防が、少しずつ逆転していく。

 

「伊織!」

 

楓が叫んだ。

 

戦いの外側で、伊織は既に動いていた。

 

岳の横へ位置を移し、鬼火鳥を庇える場所を取りながら杖を真上へ向ける。

 

「分かってる」

 

短く答える。

 

杖先に白い光が集まった。

 

「何してる!」

 

男が気づく。

 

伊織は構わない。

 

空へ杖を振り抜く。

 

「ペリキュラム!」

 

白い光が森の天井を突き抜けた。

 

枝葉の間を抜け、夜空へ一気に昇っていく。

 

八咫祭の花火より遥かに小さい。

 

けれど、魔法使いには意味が分かる。

 

上空で光が翼を広げた。

 

マホウトコロの校章。

 

教師への緊急救援信号。

 

「これで」

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「時間の問題」

 

女の顔から笑みが消えた。

 

男も一瞬、空を見る。

 

その瞬間を日向が見逃さない。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光が杖を弾く。

 

男がどうにか手放さず耐えた。

 

「ガキが……!」

 

再び杖を向ける。

 

しかし、そのとき森が震えた。

 

風ではない。

 

魔力だった。

 

遠くから一度だけ、重い波が木々の間を抜けてくる。葉がざわめき、空気が張り詰めた。

 

奎星は、その感覚を知っていた。

 

何度も教室で感じた。

 

訓練場で感じた。

 

自分へ向けられたときには、背筋まで伸びた。

 

強く、鋭く、無駄のない魔力。

 

奎星の口元が少し上がる。

 

「……来た」

 

女と男の反応は逆だった。

 

二人の顔が強張る。

 

男が森の奥を見る。

 

「この魔力……」

 

女が低く呟いた。

 

「御影玄一郎」

 

奎星の目が僅かに細くなる。

 

――知ってる?

 

そう思った。

 

しかし、訊く暇はなかった。

 

女が長衣の内側へ手を入れる。

 

取り出したものを見た瞬間、奎星の表情から完全に笑みが消えた。

 

黒い石。

 

掌に収まるほどの黒曜石。

 

その内部を、赤黒い何かが一瞬だけ走った。

 

「……それ」

 

知っている。

 

忘れるわけがない。

 

訓練場。

 

第零書庫。

 

久我朔弥。

 

「黒曜石……!」

 

「遅いよ」

 

女が笑った。

 

奎星が杖を向ける。

 

「エクスペリアームス!」

 

撃つ。

 

だが、その直前、女は黒曜石を地面へ叩きつけた。

 

ぱきん。

 

小さな音だった。

 

なのに次の瞬間、地面から真っ黒な煙が噴き上がった。

 

「っ!」

 

奎星が腕で顔を庇う。

 

煙は普通ではなかった。

 

風が吹いても流れず、まるで意思を持っているように女と男の身体へ絡みついていく。その表面には赤黒い文字が一瞬だけ浮かんでは消えた。

 

「日向!」

 

「分かってる!」

 

二人が同時に魔法を放つ。

 

しかし光は煙を抜けた。

 

その先には、もう誰もいなかった。

 

黒い霧だけが木々の間へ溶けるように消えていく。

 

突然、何もかもが終わった。

 

奎星は杖を下ろさず、二人が消えた場所を睨んでいた。

 

「……逃げた?」

 

日向が息を切らしながら言う。

 

楓も杖を構えたまま、黒い霧の残滓を見つめていた。

 

「今の……何?」

 

伊織が地面を見る。

 

そこには砕けた黒曜石の欠片が落ちていた。

 

奎星は、それを知っている。

 

「触んな」

 

低い声が出た。

 

四人が奎星を見る。

 

奎星は黒曜石から目を離さない。

 

「それ、触らないほうがいい」

 

一学期。

 

あれがどれだけのことを起こしたか、知っている。

 

そのとき、森の奥から足音がした。

 

速い。

 

迷いがない。

 

一つ。

 

二つ。

 

複数。

 

奎星たちが振り返る。

 

木々の間から、最初に現れたのは御影玄一郎だった。

 

夏祭りの見回り用らしい濃紺の長衣を着ているが、右手には既に杖が握られている。普段から険しい目が、空き地の状況を見た瞬間、さらに鋭くなった。

 

奎星。

 

楓。

 

日向。

 

伊織。

 

岳。

 

弱った鬼火鳥。

 

足枷。

 

そして、地面に散った黒曜石。

 

御影の足が止まった。

 

「……全員、そこから動くな」

 

その声だけで、さっきまで戦っていた五人が反射的に動きを止めた。

 

続いて、聞き慣れた声が森の奥から響く。

 

「蓮根君!」

 

スズメが木々の間から走ってきた。

 

祭りで別れたときには整っていた黒髪が少し乱れ、息も上がっている。奎星の姿を見つけた瞬間、一度だけ明らかに安堵した表情を浮かべたが、その直後、周囲の焼けた地面と折れた枝を見て顔色が変わった。

 

「何を……」

 

さらに後ろから高宮も現れる。

 

「救援信号はここか――」

 

言葉が止まった。

 

奎星たちを見る。

 

鬼火鳥を見る。

 

黒曜石を見る。

 

そして、頭を抱えた。

 

「……なぜ蓮根がいる」

 

奎星が振り返る。

 

「俺だけ!?」

 

「お前がいる場所では毎回何か起きるだろう!」

 

「今回、俺は何もしてないっすよ!」

 

楓が即座に言った。

 

「森に入ろうって煽ったでしょ」

 

「楓!?」

 

日向も頷く。

 

「それはやった」

 

「日向!?」

 

伊織が淡々と付け加える。

 

「証人三人」

 

「お前ら、今味方じゃないの!?」

 

岳だけは、鬼火鳥の横から静かに言った。

 

「鳥が先だ」

 

全員の表情が変わった。

 

そうだった。

 

岳の足元では、鬼火鳥がもう警戒する力さえ残っていないらしく、青白い炎を弱々しく揺らしながら地面へ身体を伏せている。

 

スズメが息を呑んだ。

 

「……鬼火鳥?」

 

奎星は御影を見た。

 

御影は鳥を見ていなかった。

 

地面に散った黒曜石。

 

そこだけを見ている。

 

さっきまでとは違う顔だった。

 

やがて御影玄一郎は、ゆっくりとその場へ膝をついた。

 

黒曜石には触れない。

 

ただ、すぐ近くまで顔を寄せる。

 

欠片の奥で、赤黒い文字の残滓が一度だけ光った。

 

御影の目が細くなる。

 

「……誰が持っていた」

 

森の向こうから、祭りの花火が遠く聞こえた。

 

今度は誰も、空を見上げなかった。

 

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