マホウトコロ   作:西野圭吾

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第6話 杖職人と水羊羹

 

その夜、奎星たちは急遽マホウトコロに泊まることになった。

 

八咫小路の森で正体不明の二人組と戦闘になり、その二人が一学期の事件でも問題になった黒曜石を使って逃走した以上、何事もなかったかのように各自を帰宅させるわけにはいかなかったらしい。保護者には学校側から連絡が入り、楓は夏休み中で空きの多い教員寮の女性区画へ、男子四人は学生寮へ泊まることになった。

 

そして奎星にとっては、これが妙に嬉しかった。

 

「入寮前に泊まることになるなんて!」

 

寮の四人部屋へ入るなり、奎星は自分に割り当てられる予定の寝台へ鞄を放り出した。

 

夏休み中ということもあって部屋は普段より静かだったが、日向、岳、伊織がいつも使っている場所には、それぞれの生活の跡が残っている。日向の寝台脇には雑誌と箒の手入れ道具が雑に積まれ、伊織の机には本と筆記具が気味の悪いほど整然と並んでいた。岳の棚だけは、半分以上が菓子と保存食で埋まっている。

 

奎星は自分の机に触れ、椅子へ座り、寝台へ寝転がり、また起き上がって窓を開けた。

 

「ここ、俺の部屋になるんだよな?」

 

日向が呆れたように言う。

 

「さっきから五回くらい聞いてるぞ」

 

「だって二学期からだと思ってたじゃん。先に泊まれるとは思わねえだろ」

 

岳は鷹司から渡された鬼火鳥の状態記録を読みながら、顔も上げずに答えた。

 

「別に今日だけだ」

 

「夢ねえなあ」

 

伊織が眼鏡を外し、布で拭きながら奎星を見る。

 

「正式に住み始めたら、たぶん三日で感動しなくなるよ」

 

「いや、俺は毎朝『寮最高!』って起きるから」

 

「君が毎朝起きるという前提から怪しい」

 

「俺、最近は早起きできるから!」

 

「烏丸先生に勝つためにね」

 

「目的はどうでもいいだろ」

 

日向が寝台へ転がりながら笑った。

 

「でも、奎星がこの部屋にいると変な感じするな」

 

岳も記録から顔を上げる。

 

「分かる」

 

「何が変なんだよ」

 

「今までは遊びに来ても、そのうち帰ってたから」

 

伊織が眼鏡を掛け直した。

 

「二学期からは帰らない」

 

奎星は少しだけ黙ったあと、自分の寝台へもう一度倒れ込んだ。

 

「……いいじゃん」

 

天井を見上げる。

 

一学期の最初、奎星は森の端にある六畳の隔離室へ一人で押し込まれていた。朝になればスズメが起こしに来て、昼になれば窓の外を歩く同年代の生徒たちを眺めながら、早くあちらへ行きたいと思っていた。

 

それが今では、同じ部屋で日向が欠伸をし、岳が何かを食べ、伊織が本を開いている。

 

奎星は口元を少し緩めた。

 

「二学期、楽しみだな」

 

「僕は少し不安になってきた」

 

「何で!?」

 

そのとき、扉が叩かれた。

 

こんこん、と控えめな音が部屋に響く。

 

四人が同時にそちらを見る。

 

時間はかなり遅い。夏休み中の寮には人も少なく、廊下からもほとんど物音が聞こえなかった。

 

「誰だ?」

 

日向が身体を起こす。

 

奎星はすぐに立ち上がった。

 

「俺、出る!」

 

「何でそんな嬉しそうなんだよ」

 

「今出ますよ〜。寮生ですから〜」

 

まだ正式な寮生ではないくせに、自慢げに胸を張って扉へ向かう。

 

「一泊だけで何その貫禄」

 

伊織は笑わなかった。

 

森で襲われたばかりだったこともあり、自然な動きで腰の杖へ右手を添えている。奎星もそれに気づいたが、もう扉の前まで来ていた。

 

「はーい」

 

扉を開ける。

 

廊下に立っていたのは、小さな人影だった。

 

膝ほどの身長。

 

褐色の肌。

 

尖った耳。

 

藍染めの作務衣。

 

「……あ」

 

小妖が奎星を見上げる。

 

「レンコン」

 

奎星の顔が明るくなった。

 

「天ぷらじゃん!」

 

後ろから日向の声が飛ぶ。

 

「天ぷら?」

 

岳も反応した。

 

「天ぷら?」

 

伊織が本を閉じる。

 

「噂の?」

 

奎星が振り返った。

 

「そう! こいつが天ぷら」

 

日向は小妖をしばらく見つめ、それから真顔で奎星へ訊いた。

 

「なんなん、そのネーミングセンス」

 

「いい名前だろ」

 

「どこが?」

 

「本人も気に入ってる」

 

天ぷらが胸を張る。

 

「テンプラ」

 

「ほら」

 

「本人がいいならいいけどさ……」

 

天ぷらは手に持っていた小さな紙を確認し、一生懸命に読み上げた。

 

「レンコン、アシタ、ジュウジニ、ウミツバメ」

 

「明日十時?」

 

「ジュウジ」

 

「誰から?」

 

「トリマル、イッテタ」

 

奎星は条件反射で訂正した。

 

「烏丸先生な!」

 

一拍置いて、言葉の意味が頭へ入る。

 

「……マジぃ!?」

 

日向まで勢いよく起き上がった。

 

「なになに?」

 

奎星は天ぷらの両肩を掴みそうになり、相手が小さすぎることに気づいて途中で手を止めた。

 

「明日十時って言ったよな?」

 

「ジュウジ」

 

「ウミツバメの停留所?」

 

天ぷらが頷く。

 

奎星は振り返った。

 

顔が完全に喜んでいる。

 

「明日、俺、スズメちゃんとデート!」

 

「マジぃ!?」

 

日向も同じ顔になった。

 

伊織が冷静に口を挟む。

 

「杖の調査でしょ」

 

「二人で出かけたらデートだろ!」

 

「その理屈だと、僕と岳が食堂へ行くのもデートになるけど」

 

岳が真顔で言う。

 

「よく行く」

 

「例えを補強しないで」

 

天ぷらが奎星の甚平の裾を引っ張った。

 

「レンコン」

 

「ん?」

 

「デートジャナイッテ、トリマル、イッテタ」

 

部屋が一瞬静かになった。

 

日向が吹き出す。

 

「先回りされてんじゃん!」

 

「何でわざわざ天ぷらに言わせんだよ!」

 

「デートジャナイ」

 

「いいか、天ぷら」

 

奎星は天ぷらの両肩へそっと手を乗せた。

 

「物事は捉えようなんだよ」

 

「デートジャナイ」

 

「分かった分かった! ありがとな、天ぷら!」

 

天ぷらはぺこりと頭を下げ、廊下を歩いていく。

 

「デートジャナイ、デートジャナイ……」

 

「呪いみたいに言うのやめろ!」

 

小さな背中が角を曲がって消えた。

 

奎星が扉を閉めると、日向がすぐに肩を叩いた。

 

「あちぃじゃん、奎星!」

 

「だろ!?」

 

「祭りでたまたま会って一緒に回った次の日に、二人で八咫小路!?」

 

「そういうこと!」

 

「来たな、夏!」

 

「来た!」

 

二人は意味もなく拳を合わせた。

 

伊織が机へ頬杖をつく。

 

「だから、杖を調べに行くことだけは忘れないでね」

 

奎星の動きが止まった。

 

「……忘れてねえよ」

 

「今、完全に忘れてた顔をした」

 

「してない」

 

岳が保存食の袋を開ける。

 

「浮かれすぎ」

 

「岳にだけは言われたくねえ!」

 

その夜、奎星はなかなか眠れなかった。

 

別に緊張しているわけではない。

 

本人はそう思っていた。

 

ただ、何を着ていくかを考えながら、何度も寝返りを打った。

 

 

翌朝、午前七時十二分。

 

伊織が目を覚ますと、部屋の中にはすでに一人だけ起きている人間がいた。

 

「…………」

 

伊織は枕元の時計を見る。

 

七時十二分。

 

もう一度、部屋の中央へ視線を向ける。

 

奎星がいた。

 

しかも起きているだけではない。顔まで洗い、寝癖をある程度直し、持ってきた数少ない私服を寝台の上へ広げて、真剣な顔で眺めている。

 

伊織は少し考えた。

 

「夢かな」

 

「失礼だな!」

 

日向と岳はまだ眠っていた。日向は布団を半分蹴り飛ばし、岳はなぜか枕元に菓子の袋を置いたまま熟睡している。

 

伊織は身体を起こした。

 

「何時に起きたの?」

 

「六時半」

 

「病院行く?」

 

「何でだよ!」

 

「君が自発的に六時半起床なんて、体調不良を疑うべきかと思って」

 

「今日十時だから!」

 

「三時間半あるよ」

 

「準備があるだろ」

 

伊織の視線が寝台の上へ移る。

 

白いTシャツ。

 

黒いシャツ。

 

薄い紺色の半袖シャツ。

 

何本かのパンツ。

 

奎星は腕を組んだ。

 

「どれがいいと思う?」

 

伊織は完全に目を覚ました。

 

「……本当にデートだと思ってるんだね」

 

「調査だよ」

 

「昨日と言ってること違うけど」

 

「調査だけど、ちゃんとした格好で行くのは大事だろ」

 

「なるほど」

 

「どれ?」

 

伊織は少し面白くなってきたらしく、寝台から降りた。

 

「黒はやめたら? 今日は暑いよ」

 

「じゃ、これ?」

 

「そっちの紺のほうがいいと思う。下はそれ」

 

「これ?」

 

「うん」

 

「靴は?」

 

「その白いスニーカー」

 

「髪どう?」

 

「いつもよりはマシ」

 

「マシじゃなくて、良くして」

 

「注文多いな」

 

十分後。

 

伊織は奎星の前髪を見ながら、少しだけ手直しをした。

 

「これでいいんじゃない?」

 

奎星は鏡を見る。

 

普段の適当な格好とは違い、薄い紺色の開襟シャツに白いインナー、暗めのパンツ。神代榊の杖は外から見えないよう腰の内側に収めている。髪もいつものように一方向だけ元気に跳ねておらず、それなりに整っていた。

 

「……いいじゃん」

 

「キメキメだね」

 

伊織が言った。

 

奎星はすぐに振り返り、眠っている二人を指差す。

 

「絶対こいつらには言うなよ」

 

「何を?」

 

「服選ぶの手伝ってもらったとか、髪ちゃんとやったとか」

 

「別にいいけど」

 

「マジでな!」

 

「うん」

 

「絶対だぞ!」

 

「分かったって」

 

伊織は笑いながら頷いた。

 

奎星が鞄を肩へ掛け、扉を開ける。

 

「じゃ、行ってくる」

 

「まだ八時半だけど」

 

「停留所で待つ」

 

「一時間半?」

 

「途中で飯食うかもしれないし!」

 

「朝食、もう食べたよね」

 

「……行ってくる!」

 

奎星は逃げるように部屋を出ていった。

 

伊織は閉じた扉を眺めたあと、静かに笑った。

 

背後から、布団の中にいる日向の声がした。

 

「全部聞こえてた」

 

伊織が振り返る。

 

日向は目を閉じたまま笑っていた。

 

岳も短く言う。

 

「俺も」

 

「お前ら、寝てろよ!」

 

廊下から奎星の声が戻ってきた。

 

 

午前九時三十分。

 

マホウトコロのウミツバメ停留所に、奎星はすでに到着していた。

 

待ち合わせは十時だった。

 

「早すぎたな……」

 

巨大なウミツバメが一羽、停留所の端で翼を畳みながら休んでいる。

 

奎星はしばらく時計を見ていたが、やがて暇になり、鳥の横へ移動した。

 

「なあ」

 

ウミツバメが大きな黒い目で奎星を見る。

 

「お前、こういうの詳しい?」

 

鳥は首を傾げた。

 

「俺さ、今日、先生と二人で八咫小路へ行くんだけど」

 

ウミツバメは何も言わない。

 

「一応、調査なんだよ。でも飯とか食うだろ? 昨日、祭りでベビーカステラ食ったし、甘いの結構好きだと思うんだよな」

 

ウミツバメが羽根を一度震わせた。

 

「甘味処へ行きたいんだけど、どう誘えばいいと思う?」

 

「何を相談しているのですか」

 

背後から声がした。

 

奎星の肩が跳ねる。

 

振り返る。

 

そして、動きを止めた。

 

スズメが立っていた。

 

いつもの濃紺の教員衣ではない。薄い白のブラウスに、足首近くまである深い藍色のスカート。肩には小さな革の鞄を掛け、黒髪は普段と同じように顎の辺りで綺麗に揃っている。

 

教師の格好をしていないだけで、いつもよりずっと年相応に見えた。

 

二十一歳。

 

たった四つ上。

 

頭では知っていたはずなのに、その姿を目の前にすると、急にそれが現実味を持った。

 

奎星は口を開いた。

 

「……か、可愛い……!」

 

完全に声へ出ていた。

 

スズメがたじろぐ。

 

「……は?」

 

自分でも言ってから気づいたらしい。奎星の目が少し大きくなる。

 

「あ」

 

「何を」

 

スズメの頬が僅かに強張った。

 

「何を急に言っているのですか」

 

「いや、だって」

 

奎星は上から下まで見てしまい、慌てて視線を戻した。

 

「いつもと全然違うから」

 

「今日は校外ですから、私服です」

 

「めっちゃいいじゃん!」

 

「声が大きいです」

 

「似合ってる」

 

「……ありがとうございます」

 

返事が少し遅れた。

 

スズメは露骨に話題を変えるように、隣のウミツバメへ顔を向ける。

 

「それで、この子に何を相談していたのですか?」

 

「別に」

 

「甘味処がどうとか聞こえましたが」

 

「聞こえてんじゃん」

 

「普通に聞こえる声でした」

 

奎星は笑った。

 

「行こうぜ!」

 

「何がです?」

 

「八咫小路」

 

「そのために来たのでしょう」

 

スズメはウミツバメの背へ荷物を固定し始めた。

 

奎星は、その横顔を見ながらまだ少し笑っていた。

 

機嫌が妙にいい。

 

自分でも理由は分かっているようで、よく分かっていなかった。

 

 

ウミツバメは北へ向けて飛んだ。

 

夏の海が遥か下で陽光を反射し、巨大な翼が風を切るたび、冷たい空気が火照った頬へぶつかってくる。往路と違って今度は事件の直後でもなく、夜でもない。そのため奎星の頭は、これからの予定でいっぱいだった。

 

「最初、どこ行く?」

 

前に座るスズメが答える。

 

「杖職人です」

 

「そのあと?」

 

「必要なら関連資料を調べます」

 

「古本屋は行くだろ?」

 

「なぜ決定事項なのです?」

 

「スズメちゃん、好きじゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「昼飯、何食う?」

 

「蓮根君」

 

「甘味処も行こうぜ!」

 

スズメが振り返った。

 

「杖の調査に行くだけです」

 

「お願いお願い!」

 

「行きません」

 

「まだ店を決めてないのに!」

 

「甘味処の話です」

 

「いいじゃん! 昨日、祭りでちゃんと食えなかっただろ?」

 

「ベビーカステラを食べました」

 

「もっとちゃんとした甘いやつ!」

 

「必要ありません」

 

「水羊羹あるよ!」

 

スズメの動きが、ほんの僅かに止まった。

 

奎星は見逃さなかった。

 

「……今、反応した」

 

「していません」

 

「した!」

 

「していません」

 

「水羊羹、好きじゃん!」

 

「蓮根君」

 

「八咫小路の甘味処なら、絶対いい水羊羹があるって! 普通の店じゃなくて魔法界の老舗だぞ? 水が違うかもしれないし、餡も違うかもしれない。もしかしたら、食べたら涼しくなる水羊羹とか――」

 

「どこからその情報を?」

 

「今考えた」

 

「嘘ではありませんか」

 

「でも、ありそうじゃん!」

 

奎星は前のめりになった。

 

「杖屋へ行って、昼飯食って、そのあと一軒だけ! 俺はあんみつ食うから、スズメちゃんは水羊羹!」

 

「調査があります」

 

「調査が終わったら!」

 

「時間が余る保証はありません」

 

「余らせよう!」

 

「目的が逆転しています」

 

「お願い!」

 

スズメはしばらく無視していた。

 

奎星も諦めなかった。

 

「水羊羹」

 

「……」

 

「冷たいやつ」

 

「……」

 

「夏限定」

 

「…………」

 

「つるってしたやつ」

 

スズメがため息をついた。

 

「……時間があれば、考えます」

 

奎星の顔が輝く。

 

「よっしゃ!」

 

「行くとは言っていません!」

 

「考えるって、ほぼ行くってことだろ!」

 

「違います!」

 

ウミツバメが一度だけ鳴いた。

 

奎星はその首筋を軽く叩く。

 

「な? こいつも行ったほうがいいって」

 

「巻き込まないでください」

 

巨大な鳥は何も言わなかった。

 

 

八咫祭の翌日、八咫小路は昨夜とはまるで別の顔をしていた。

 

何百と吊られていた祭り提灯の大半は片づけられ、空を泳いでいた紙の金魚も、逃げ回っていた射的の狸もいない。代わりに、古い木造の商家が連なる細い道へ穏やかな朝の光が差し込んでいる。

 

店先では小妖が箒で石畳を掃き、魔法薬店の軒先からは乾燥させた薬草が風に揺れていた。

 

祭りの騒がしさがなくなったぶん、一軒一軒の店がよく見える。

 

奎星の首が右へ向く。

 

「うわ、あれ魔法具屋?」

 

左。

 

「待って、本屋ある!」

 

右。

 

「見ろ、スズメちゃん。箒専門店!」

 

左。

 

「何、あの店!?」

 

スズメは前だけを見ていた。

 

「杖職人へ行きます」

 

「ちょっとだけ!」

 

「帰りです」

 

「帰り、寄る?」

 

「時間があれば」

 

「何でもそれじゃん!」

 

奎星が店先へ吸い寄せられそうになるたび、スズメが腕か鞄の紐を掴んで引き戻す。その繰り返しを五回ほど続けた頃、二人はようやく大通りから少し外れた細い路地へ入った。

 

そこに一軒の古い店があった。

 

看板には何も書かれていない。

 

ただ、軒先に細長い木片が一本吊るされており、その表面を金色の文字がゆっくりと這っていた。

 

「ここ?」

 

「はい」

 

引き戸を開けると、からん、と乾いた鈴の音が鳴った。

 

店内は薄暗かった。

 

壁一面に細長い箱が並び、天井からは削りかけの木材や羽根、糸、鉱石のようなものがいくつも吊るされている。木と香の匂いが混じった店の奥から、小さな音がした。

 

「にゃあ」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

棚の上に、灰色の猫がいた。

 

「猫!」

 

スズメが何か言う前に、奎星は猫へ近づいた。

 

「お前、ここに住んでんの?」

 

猫が目を細める。

 

「可愛いな〜。名前なんて言うんだ〜?」

 

「店主だ」

 

後ろから低い声がした。

 

奎星が猫を見る。

 

「店主?」

 

「俺だよ」

 

振り返ると、店の奥から一人の老人が出てきた。

 

背は高くないが肩幅が広く、袖を捲った腕には職人らしい筋が浮かんでいる。眉も髭も白くなっているのに、頭頂部には驚くほど潔く何もなく、左右に残った白髪だけが後ろへ流れていた。

 

奎星はまず頭を見た。

 

それから顔を見る。

 

そして、また頭を見た。

 

老人の目が細くなる。

 

「今、頭見ただろ」

 

「見てないっす」

 

「二回見た」

 

「気のせいです」

 

「烏丸の嬢ちゃん、妙なの連れてきたな」

 

奎星の顔がにやりとする。

 

スズメの眉が動いた。

 

「空木(うつぎ)さん、その呼び方はもうやめてください。私は教師です」

 

「俺からすりゃ、昔から嬢ちゃんだ」

 

「聞いた? スズメちゃん」

 

「あなたは黙ってください」

 

「嬢ちゃんだって」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

空木宗玄(うつぎそうげん)は二人を見比べ、喉の奥で笑った。

 

「で、何の用だ」

 

スズメが本題へ入る。

 

「杖を見ていただきたいんです」

 

奎星は神代榊の杖を取り出した。

 

その瞬間、空木の顔から笑みが消えた。

 

「……貸せ」

 

奎星が差し出す。

 

空木はまず柄を見た。次に木目へ爪を滑らせ、杖先を光へ透かし、細い銀製の器具を何本か使って内部を調べていく。

 

時間がかかった。

 

奎星もスズメも、途中から何も言わなくなった。

 

やがて空木が口を開く。

 

「神代榊だな」

 

「やっぱり?」

 

「間違いない。しかも普通の榊を魔力で加工したもんじゃねえ。本物の神代榊だ」

 

空木が別の器具を杖へ当てる。

 

青白い光が一筋、杖の内部を走った。

 

「芯は鬼火鳥の尾羽。かなり古い」

 

「誰が作ったか分かりますか?」

 

スズメが訊く。

 

空木は首を横に振った。

 

「分からん」

 

「記録は?」

 

「ない。この杖には製作者の刻印も工房印も残ってねえ。削ったんじゃなく、最初から入れていないように見える」

 

奎星が眉を寄せる。

 

「杖って普通、誰が作ったか分かるの?」

 

「まともな職人なら分かるようにする。修理も芯の交換もあるからな。ただ、こいつは違う」

 

空木は杖を掌の上でゆっくり転がした。

 

「少なく見ても百年は経ってる」

 

スズメの目が鋭くなる。

 

「百年……」

 

奎星は驚くより先に、少し呆れた。

 

「俺、そんな古い杖使ってんの?」

 

「古いから悪いとは限らん。むしろ、こいつは相当な特注品だ。神代榊と鬼火鳥の尾羽なんざ、材料を揃えるだけでも今じゃほとんど無理だし、組み合わせ方も普通じゃねえ」

 

「高い?」

 

「お前はそこなのか?」

 

スズメが横から言う。

 

「入学初日も同じことを訊いていました」

 

「気になるじゃん!」

 

空木は鼻で笑った。

 

「値段なんざつけられん。そもそも同じものは二つとねえよ」

 

奎星の表情が少し変わる。

 

この杖を初めて握った日、なぜか自分のものだと思った。

 

誰かが以前使っていたと知っても、その感覚だけは消えなかった。

 

「でさ」

 

奎星が言った。

 

「昨日、鬼火鳥がこの辺の森で弱って見つかってて」

 

空木の手が止まる。

 

「鬼火鳥?」

 

「うん。足枷をつけられてた。変な二人組に狙われてて、今はマホウトコロで治療してる」

 

奎星は杖を指した。

 

「こいつ、その鳥に近づけると反応するんだよ。熱くなって、光る。群れで動く鳥らしいから、できるなら仲間のところへ帰してやりたいんだけど」

 

空木はしばらく杖を見つめていた。

 

やがて、低い声で言う。

 

「……昔話がある」

 

「昔話?」

 

「杖職人の間でも、ほとんど信じる奴はいねえ話だ」

 

空木は店の奥にある椅子へ腰を下ろした。

 

「鬼火鳥はな、日本の地下を走る霊脈を感じ取ると言われてる。魔力が川みたいに流れる道だ。その流れがいくつも集まる場所には、ごく稀に神代榊が根を張る」

 

奎星は自分の杖を見る。

 

「これの木?」

 

「ああ。普通の榊が百年育ちゃ神代榊になるって話じゃねえぞ。生まれた場所から違う。強い霊脈の上で何百年、下手すりゃ千年以上魔力を吸い続けたものだけが、そう呼ばれる」

 

スズメが僅かに身を乗り出した。

 

研究者の顔だった。

 

「現存する神代榊の自生地について、正式な記録はほとんどありません」

 

「そりゃそうだ。場所が分かれば、切りに行く馬鹿が出る」

 

「では、鬼火鳥はそこへ向かって移動する?」

 

「そういう話だ。季節ごとに群れで霊脈を渡り、神代榊のある場所を中継地にする。それから昔は――」

 

空木が一度、言葉を切った。

 

「鬼火鳥の群れを管理していた一族がいたらしい」

 

スズメが眉を寄せる。

 

「一族?」

 

「山に棲み、群れの移動を見張り、傷ついた個体を助け、神代榊まで飛ぶ道を守った。鬼火鳥が人里へ降りないようにしていたとも、逆に鬼火鳥に案内されて霊脈を管理していたとも言う」

 

「氏族名は?」

 

「知らん」

 

「活動地域は?」

 

「知らん」

 

「いつ頃まで存在していたんです?」

 

「知らん」

 

「記録は?」

 

「だから昔話だって言ってるだろ」

 

スズメの顔が、目に見えて不満そうになった。

 

「根拠がほとんどないではありませんか」

 

「嬢ちゃんは相変わらずだな」

 

「何がです?」

 

「昔話に史料批判を始めるところだよ」

 

「当然です」

 

「気にするな、嬢ちゃん。俺も半分は信じちゃいねえ。爺さんの爺さんから聞いたような話だからな」

 

「そういう伝承ほど、出典を明確にするべきでしょう」

 

奎星が隣から小声で言った。

 

「スズメちゃん、むすっとしてる」

 

「していません」

 

「してる」

 

「烏丸先生です」

 

空木が笑った。

 

「ただし」

 

二人が空木を見る。

 

空木は杖を奎星へ返した。

 

「この杖が鬼火鳥に反応しているなら、話は少し違う。鬼火鳥の尾羽は、同じ種族の魔力へ共鳴することがある。神代榊まで案内できるかは知らんが、近くにまとまった群れがいるなら、この杖が何らかの反応を示す可能性はある」

 

奎星は杖を握った。

 

「じゃ、群れに辿り着けるかも?」

 

「かも、だ。そこを間違えるな」

 

「十分」

 

スズメがすぐに横を見る。

 

「勝手に探しに行くという意味ではありませんね?」

 

「分かってるって」

 

「昨日、森へ入った人の『分かってる』は信用できません」

 

「今日の俺は違う」

 

「一日で人格は変わりません」

 

空木は二人を眺めながら、楽しそうに笑っていた。

 

 

店を出ると、奎星の腹が鳴った。

 

ぐううう、と、かなり大きな音だった。

 

スズメが横を見る。

 

「……」

 

「今のは俺じゃない」

 

「では誰です?」

 

「八咫小路」

 

「町は腹を鳴らしません」

 

「腹減った」

 

時刻は昼を少し回っていた。

 

空木の話が思った以上に長く、店へ入ってから二時間近く経っている。

 

奎星はすぐに周囲を見回した。

 

「飯!」

 

「そうなると思っていました」

 

「何食う?」

 

「近くに定食屋があります」

 

「行こう!」

 

「迷わないでくださいね」

 

「子供扱いすんなって!」

 

十分後。

 

奎星は定食屋の卓上で、山盛りの唐揚げ定食を前に満足そうな顔をしていた。

 

スズメは焼き魚の定食を食べている。

 

店内は古い食堂のような造りで、壁には動く品書きが並び、今日のおすすめだけ文字が自分で大きくなったり小さくなったりしていた。

 

「うま」

 

「そうですか」

 

「スズメちゃん、それ一口ちょうだい」

 

「嫌です」

 

「即答!」

 

「自分の唐揚げを食べてください」

 

「じゃ、俺の一個いる?」

 

「結構です」

 

「遠慮すんなよ」

 

「していません」

 

奎星は唐揚げを頬張りながら、しばらくスズメを見ていた。

 

「何ですか?」

 

「いや」

 

「見すぎです」

 

「スズメちゃんのこと、俺あんま知らねえなと思って」

 

スズメの箸が止まる。

 

「急に何です?」

 

「だって、先生としてのことは結構知ってるじゃん。二十一で、元魔法省で、歴史好きで、第零書庫に入れて、鴉になれて、朝厳しくて、羊羹好き」

 

「最後の二つは経歴ではありません」

 

「でも、昔どんな子だったとか知らない」

 

スズメは魚を一口食べる。

 

「今と大して変わりませんよ」

 

「絶対嘘だ」

 

「なぜです?」

 

「七歳のスズメちゃんが『烏丸先生です』って言ってたわけないじゃん」

 

「屁理屈ですね」

 

「学校ではどんな感じだった?」

 

スズメは少し考えた。

 

「本を読んでいることが多かったです」

 

「今と変わんねえ!」

 

「だから言ったでしょう」

 

「友達は?」

 

「いましたよ」

 

「この前会ってた美琴さん?」

 

スズメの目が少し上がる。

 

「なぜ知っているのです?」

 

「前に名前が出てた気がする」

 

「……そうでしたか」

 

「兄弟いる?」

 

「いません。一人っ子です」

 

「へえ。なんか分かる」

 

「どういう意味ですか」

 

「一人で本読んでそう」

 

「偏見です」

 

「両親どんな人?」

 

スズメは今度こそ少し考えた。

 

「母は落ち着いた人です。父は……」

 

そこで小さく息を吐く。

 

「騒がしい人です」

 

奎星が笑った。

 

「騒がしい?」

 

「ええ。人の話を最後まで聞かない、何でも面白がる、出先ではすぐ寄り道する、食べ物を見ると予定を変える」

 

奎星の笑いが少しずつ消えた。

 

「…………」

 

スズメは続ける。

 

「思いついたことをすぐ口にして、母によく怒られていました」

 

奎星は箸を置いた。

 

「……俺じゃん」

 

「似ている部分はありますね」

 

「俺、スズメちゃんの父親だった?」

 

「違います」

 

「前世?」

 

「やめてください」

 

「会ってみてえな」

 

「父とあなたを同じ空間に置くのは、少し不安ですね」

 

「絶対仲良くなるじゃん」

 

「それが嫌なのです」

 

奎星は笑いながら、また唐揚げを食べた。

 

そして、何でもない調子で訊く。

 

「彼氏いた?」

 

スズメの箸がぴたりと止まった。

 

「……」

 

奎星は待った。

 

「スズメちゃん?」

 

「その質問に答える必要がありますか?」

 

「ないけど、気になる」

 

「では答えません」

 

「いた?」

 

「答えません」

 

「いなかった?」

 

「答えません」

 

「今の感じ、いなかったな」

 

「勝手に結論を出さないでください」

 

「いたなら『いました』で終わるじゃん」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「食べてください」

 

「図星?」

 

「食べなさい」

 

「はい」

 

言葉は少し強かったが、耳がほんの僅かに赤かった。

 

奎星はそれを見て、多分いなかったのだろうと勝手に結論づけた。

 

 

昼食を終えた。

 

普通なら、ここで調査へ戻るはずだった。

 

しかし、奎星は忘れていなかった。

 

「水羊羹!」

 

スズメは忘れたふりをしようとした。

 

けれど、失敗した。

 

結局、二人は八咫小路の奥にある古い甘味処へ入った。

 

畳敷きの店内には小さな庭があり、竹筒から落ちる水の音が夏の暑さを少しだけ遠ざけている。軒先には透明な風鈴がいくつも吊られ、鳴るたびに風鈴の中で小さな雪の結晶が舞った。

 

奎星はあんみつを頼み、スズメは当然のように水羊羹を選んだ。

 

「やっぱりじゃん」

 

「何がです?」

 

「水羊羹」

 

「朝からあなたが何度も言うから、食べたくなっただけです」

 

「好きなんだろ?」

 

「嫌いではありません」

 

「好きって言えよ」

 

「なぜあなたに強要されるのですか」

 

奎星は自分のあんみつへ匙を入れた。

 

寒天、餡、蜜、白玉、果物。

 

一口食べる。

 

「うまっ」

 

「よかったですね」

 

「スズメちゃんのも食わせて」

 

「嫌です」

 

「なんで!」

 

「自分のものがあります」

 

「味違うじゃん」

 

「水羊羹の味です」

 

「だから食いたいんだって」

 

奎星は口を開けた。

 

「あー」

 

「…………」

 

スズメが奎星を見る。

 

「何ですか?」

 

「食わせろ」

 

「ご自分で匙を使ってください」

 

「そっちから取るの悪いじゃん」

 

「今さら礼儀を気にするのですか?」

 

「あー」

 

「やめなさい」

 

「あー」

 

スズメは深くため息をついた。

 

水羊羹を匙で小さく掬い、奎星の口元へ運びかける。

 

本当に、あと少しだった。

 

そこで、ぴたりと止まる。

 

スズメの目が僅かに大きくなった。

 

奎星は口を開けたまま待っている。

 

「…………」

 

何をしているのだ。

 

自分は。

 

次の瞬間、匙の方向が直角に変わった。

 

奎星の取り皿へ、ぽとりと水羊羹が置かれる。

 

「あれ?」

 

「どうぞ」

 

「今、食わせようとしただろ」

 

「していません」

 

「した!」

 

「していません」

 

「ここまで来てたじゃん!」

 

「気のせいです」

 

奎星は不満そうだったが、すぐに水羊羹を食べた。

 

「うま」

 

「そうですか」

 

「スズメちゃん、好きな食べ物何?」

 

「急ですね」

 

「水羊羹以外で」

 

スズメは少し考える。

 

「魚料理は好きですよ」

 

「焼き魚?」

 

「煮魚も」

 

「渋いな」

 

「何歳だと思っているのですか」

 

「二十一」

 

「なら普通でしょう」

 

「もっとこう、パフェとか」

 

「食べますよ」

 

「食うの!?」

 

「なぜ驚くのです?」

 

「想像できねえ」

 

「失礼ですね」

 

「苺パフェ食う?」

 

「食べます」

 

「可愛いじゃん」

 

「…………」

 

「また黙った」

 

「あなたは今日、妙にそういうことを言いますね」

 

「そういうこと?」

 

「何でもありません」

 

スズメは水羊羹へ視線を戻した。

 

奎星はあんみつを食べながら、さらに質問を続けた。

 

好きな季節。

 

秋。

 

理由は、本を読みやすいから。

 

嫌いなもの。

 

騒がしい場所。

 

「祭りにいたじゃん」

 

「仕事です」

 

「俺と結構回ってたじゃん」

 

「見回りの範囲です」

 

「金魚すくいやったじゃん」

 

「あなたが挑発するからです」

 

好きな一般社会の食べ物。

 

「カレー」

 

「普通!」

 

「悪いですか?」

 

「もっと知的なの言うかと思った」

 

「知的な食べ物とは何です?」

 

好きな動物。

 

少し考えてから、スズメは答えた。

 

「鳥」

 

奎星が吹き出した。

 

「そこ、鴉じゃねえの?」

 

「鳥全般です」

 

「スズメも?」

 

「もちろん」

 

「名前と姿がやっと一致した」

 

「うるさいです」

 

そんな本筋とは関係のない話を、二人はずいぶん長く続けた。

 

学校では教師と生徒だった。授業なら魔法史の話をする。研究室なら課題の話をする。事件が起これば、魔法の話になる。

 

けれど今は、好きな食べ物や家族、子どもの頃のことを話している。

 

どうでもいい話だった。

 

だからこそ、奎星はそういう話をしているスズメを見るのが、思っていた以上に楽しかった。

 

スズメのほうも、最初こそ質問が多いと呆れていたはずなのに、気がつけばかなり答えていた。

 

「スズメちゃん」

 

「何です?」

 

「俺のことも聞いていいよ」

 

「特にありません」

 

「冷た!」

 

「大体聞いていますから」

 

「何を?」

 

「ご家族のことも。昔の学校のことも。お祖母様のことも」

 

一拍置いて、スズメは続けた。

 

「あなたは、自分のことをよく喋りますし」

 

「……確かに」

 

二人とも笑った。

 

 

甘味処を出たあと、奎星は腹を撫でた。

 

「次、葛切り食いたい」

 

「今、食べたでしょう」

 

「甘味は別腹」

 

「二つ目も同じ腹です」

 

「葛切りは液体みたいなもんだから」

 

「違います」

 

「じゃ、帰りに」

 

「はいはい」

 

「お、行けそう」

 

「聞き流しただけです」

 

奎星は気にしなかった。

 

通りを歩きながら、今度は右側の店を指す。

 

「魔法具屋さん行こう!」

 

「行きません」

 

「即答!」

 

「杖の話について調べる必要があります」

 

「じゃ、古本屋!」

 

スズメは少し黙った。

 

「……そこは行きましょう」

 

奎星が足を止める。

 

「え?」

 

「空木さんの話した伝承について、古い資料がないか確認します」

 

「魔法具屋は駄目なのに?」

 

「調査に必要ありません」

 

「意外と自己中だよね」

 

スズメが振り返った。

 

「何か言いましたか?」

 

「古本屋、楽しみだなって!」

 

「そうですか」

 

「怖っ」

 

二人はまた歩き出した。

 

八咫小路は昼を過ぎ、人通りが少し増えていた。祭りの翌日ということもあって片づけをしている店も多く、通りの端には畳まれた屋台の骨組みや、魔法で小さくされた山車が積まれている。

 

そのときだった。

 

スズメの足が止まった。

 

奎星は二歩進んでから気づく。

 

「どうした?」

 

返事はなかった。

 

スズメは通りの向こうを見ている。

 

五人ほどの男女が混じった集団だった。

 

昨日の二人のような狩人じみた服装ではない。一般社会の旅行客にも見えなくはないが、全員が歩きやすい暗色の服を選び、腰や脇に杖を隠していることは魔法使いなら分かった。

 

集団の中央にいる女が、地図のような紙を広げている。

 

その女が何かを言った。

 

遠くて内容までは聞こえない。

 

しかし、スズメの表情が変わった。

 

「蓮根君」

 

小さな声だった。

 

「はい?」

 

次の瞬間、腕を掴まれた。

 

「え」

 

強く引かれる。

 

建物と建物の間、人一人がやっと通れるほどの細い隙間へ押し込まれた。

 

「ちょ、スズメちゃん?」

 

「静かに」

 

背中が壁へ当たる。

 

目の前にスズメがいる。

 

近い。

 

非常に近い。

 

通りから見えないよう、二人で建物の陰へ身体を寄せているせいだった。スズメの手はまだ奎星の腕を掴んでおり、奎星が少し身体を動かせば肩が触れるほどしか間がない。

 

「…………」

 

「蓮根君」

 

「は、はい」

 

「声が大きいです」

 

「はい」

 

妙に心臓が速かった。

 

戦っているわけではない。

 

呪文を向けられているわけでもない。

 

それなのに、昨日の森より変な意味で落ち着かなかった。

 

スズメはそれに気づかず、通りの集団を隙間から確認している。

 

「あそこの集団」

 

囁く。

 

「見覚えのある人はいますか?」

 

「え、え?」

 

「昨日、森にいた二人です」

 

「あ、ああ……」

 

奎星もようやく通りを覗いた。

 

顔はよく見えない。

 

昨日はフードが深く、ほとんど見えていなかった。

 

「うーん……顔は分かんねえ」

 

「声は?」

 

ちょうどそのとき、女が仲間へ何か言った。

 

「だから急ぎな。まだ遠くへは行っちゃいないよ」

 

奎星の目が細くなる。

 

あの、少し間延びした、相手を子供扱いするような声音。

 

「……女の喋り方、一緒だ」

 

スズメが奎星を見る。

 

「確かですか?」

 

「うん。あんな話し方だった」

 

スズメはすぐに通りへ視線を戻した。

 

集団の一人が手にしている紙には、森の形と八咫小路周辺の地図が描かれているようだった。

 

何かを探している。

 

鬼火鳥。

 

おそらく、それ以外には考えにくい。

 

「ここを離れます」

 

「御影先生たち呼ぶ?」

 

「先に安全な場所へ移動します。私たちがいると気づかれれば、また戦闘になる可能性があります」

 

スズメは隙間から出た。

 

奎星も続く。

 

二人とも自然に見せようとはしたものの、歩く速度は明らかに速かった。

 

「ウミツバメのところまで戻る?」

 

「駄目です。ウミツバメは目立ちます」

 

「じゃ、どうすんの?」

 

「こちらです」

 

向かった先は、古本屋だった。

 

奎星が目を丸くする。

 

「今?」

 

「裏口があります」

 

「詳しいな!」

 

「通っていますから」

 

こんな状況なのに、少しだけ嬉しそうに聞こえた。

 

 

古本屋へ入る。

 

表の店内には客が二人ほどいた。

 

スズメは店主へまっすぐ近づく。

 

「転移鏡をお願いします」

 

店主は顔を上げた。

 

七十近い男だった。

 

一度スズメを見る。

 

その後ろの奎星を見る。

 

そして外を見る。

 

何かを察したらしい。

 

「どこまでだ」

 

「マホウトコロへ」

 

「直接は無理だぞ」

 

「分かっています」

 

「海の上だからな」

 

店主は奥へ消えた。

 

奎星だけが、何一つ分かっていない。

 

「何?」

 

スズメが店の奥へ進む。

 

「来てください」

 

「転移鏡って?」

 

「説明はあとです」

 

裏の倉庫には、本棚や木箱、巻物が所狭しと並んでいた。

 

その奥に、大きな布を被せられたものがある。

 

店主が布を掴み、一気に落とした。

 

現れたのは、等身大の鏡だった。

 

古い木枠に囲まれ、人一人なら余裕で入れるほど大きい。

 

「……鏡?」

 

店主はその横から一本の箒を取り出した。

 

「ほら、嬢ちゃん」

 

スズメが受け取る。

 

奎星は鏡、箒、スズメの順番に見る。

 

「待って」

 

誰も待たなかった。

 

スズメは鏡の枠へ杖を触れ、小さく呪文を唱える。

 

鏡面が揺れた。

 

水のように波打ち、映っていた倉庫の景色が崩れていく。

 

代わりに現れたのは、青い空と、その下にどこまでも続く海だった。

 

奎星の顔が引きつる。

 

「……待って待って待って」

 

スズメが振り返る。

 

「このままマホウトコロへ戻ります」

 

「この鏡で?」

 

「はい」

 

「海、映ってるけど」

 

「直接学校の敷地内へ転移することはできません。防護結界がありますから、近海に設定しました」

 

スズメは箒を持つ。

 

奎星は嫌な予感しかしなかった。

 

「近海に?」

 

「はい」

 

「そこから?」

 

「飛びます」

 

「飛びますって何!?」

 

「箒で学校まで」

 

「いや、俺、一人で箒に乗れねえんだけど!」

 

「私の後ろに乗ってください」

 

「そういう問題じゃなくて! 鏡の向こう、海じゃん!?」

 

「落ちなければ問題ありません」

 

「落ちたら!?」

 

「泳いでください」

 

「雑!」

 

店主が鏡を見る。

 

「急げ。座標は長く保たんぞ」

 

そのとき、表の店からからん、と鈴が鳴った。

 

誰かが入ってきた。

 

スズメの表情が変わる。

 

奎星も振り向いた。

 

足音が、ゆっくりと近づいてくる。

 

店主が杖を抜いた。

 

そして倉庫の入口から、声がした。

 

「見つけたよ」

 

奎星の顔から、さっきまでの騒ぎが消える。

 

女が立っていた。

 

昨日とは違う服で、フードも被っていない。

 

それでも声は同じだった。

 

「坊や……」

 

女の杖が上がる。

 

スズメが奎星の手を掴んだ。

 

「行きます!」

 

「え!?」

 

考える時間はなかった。

 

スズメが箒を片手に持ったまま鏡へ走る。

 

奎星も引かれる。

 

目の前いっぱいに、海と空が広がった。

 

「うわ、待っ――!」

 

二人の身体が鏡面へ沈む。

 

冷たい感触が一瞬、全身を包んだ。

 

その直後、背後で女の呪文が放たれる。

 

光が鏡へ直撃した。

 

ばきん、と鋭い音が響く。

 

無数の亀裂が鏡面を走った。

 

海。

 

空。

 

スズメの手。

 

奎星の視界。

 

そのすべてが、砕けた硝子の破片の中へばらばらに分かれていく。

 

そして、転移鏡は完全に砕け散った。

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