それが、鏡を抜けた奎星の最初の感想だった。
身体の周りにまとわりついていた硝子のような光が弾けたかと思えば、次の瞬間には視界いっぱいに青空が広がり、その下には同じ色をした海しかない。足場も地面も何もなく、八咫小路の古本屋から一瞬で数百メートル上空へ放り出されたのだと理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。
「…………え?」
隣にいたスズメも浮いている。
正確には、落ち始めている。
片手には箒。
奎星は箒を持っていない。
二人の間にあったのは、先ほどまでスズメが握っていた手だけだった。
しかし転移の衝撃で、それも離れた。
「うわああああああああああ!!」
奎星は落ちた。
「蓮根君!」
「飛ぶってこういう意味かよおおおおおお!!」
「箒に乗る時間がなかったのです!」
「先に言えええええ!」
スズメは落下しながら箒を身体の下へ引き寄せ、どうにか跨った。ぐらりと大きく傾いたものの、箒は空中で魔力を捉え、急降下していた身体が何とか水平へ戻る。
一方。
奎星はそのまま。
海へ。
「待っ――」
ざばあああん!
派手な水柱が上がった。
数秒後。
ぶくぶく。
海面から黒髪が出る。
「ぶはっ!」
奎星は大きく息を吸った。
「冷てえ!」
真夏とはいえ外洋の海水は思っていたより冷たく、何よりいきなり数十メートルを落下して叩きつけられた衝撃で全身が痛い。どうにか浮きながら頭上を見れば、スズメが箒に乗って旋回していた。
「蓮根君、大丈夫ですか!?」
「大丈夫じゃねえ! 助けて!」
「今行きます!」
スズメが箒の柄を倒す。
降りてくる。
奎星も両手を上げた。
「そのまま! そのまま来て!」
「分かっています!」
「ちょっと右!」
「分かっています!」
「右! 右だって!」
「こちらですね!」
「そっち左!」
「……!」
スズメが修正する。
今度は行き過ぎた。
奎星の頭上を、かなりの速度で通過する。
風圧で海面が揺れた。
「スズメちゃん!?」
「烏丸先生です!」
「今それどころじゃねえだろ!」
スズメは必死に旋回する。
奎星は海へ浮かびながら、その軌道を見つめた。
右。
左。
上。
下。
そして。
また奎星を通り過ぎた。
「……スズメちゃん」
「何ですか!」
「箒下手?」
「下手ではありません!」
「めっちゃ下手じゃん!」
「普段ほとんど乗らないだけです!」
「それを下手って言うんだよ!」
「黙って掴まってください!」
三度目。
ようやくスズメの箒が奎星の横まで来た。
奎星は伸ばされた手を掴み、どうにか箒の後ろへ身体を引き上げる。全身から海水を滴らせながら座った瞬間、箒がぐらりと沈んだ。
「うわ!」
「動かないでください!」
「俺のせい!?」
「二人乗りなのですから重心が変わるでしょう!」
「じゃちゃんと運転して!」
「しています!」
「今二回轢かれかけたけど!」
「轢いていません!」
何とか姿勢を立て直す。
奎星は前に座るスズメの腰へ手を回しかけて、一瞬だけ止まった。
「……どこ掴めばいい?」
「箒です!」
「届かねえよ!」
「では鞄でも!」
「絶対千切れるって!」
スズメも一瞬困った。
背後には広い海しかない。
もう一度落とすわけにはいかない。
「……腰で」
「え?」
「落ちるよりはいいでしょう!」
「はい!」
返事が速かった。
奎星は遠慮なくスズメの腰へ腕を回した。
スズメの肩が少しだけ強張る。
「強すぎます」
「落ちたくねえもん!」
「もう少し緩くても落ちません!」
「さっき海落ちた!」
「それは転移の問題です!」
こんなときでも。
二人は普段通りだった。
そして、そのことに少しだけ安心した直後。
奎星の背後で。
何かが鳴いた。
カァァァン――。
鳥の声に似ていた。
けれど。
生き物の声ではなかった。
金属を叩いたような、硬く濁った音だった。
スズメが振り返る。
顔色が変わった。
「……来ます」
奎星も後ろを見る。
遠く。
青空に。
黒い点。
最初は一つ。
次に二つ。
三つ。
こちらへ向かって急速に近づいてくる。
鳥だった。
翼を広げた形は鴉に似ているが、羽毛ではない。身体のすべてが磨かれた黒い石のようなもので出来ていて、翼が動くたび、その継ぎ目から赤黒い光が漏れていた。
奎星の表情が変わる。
「黒曜石……?」
スズメは速度を上げた。
箒が一度大きく揺れる。
「うおっ!」
「掴まっていてください!」
「いや待って、学校こっち?」
「いいえ」
「え?」
奎星は前を見る。
マホウトコロがあるはずの方向とは。
逆。
「反対じゃん!」
「だからです!」
スズメは風の中で叫ぶ。
「このまま学校へ向かえば位置を教えることになります。マホウトコロは強力な隠蔽結界で守られていますが、追跡術式を連れたまま近づく必要はありません!」
「なるほど!」
「しばらく反対方向へ飛びます!」
「なるほど!」
箒がまた傾いた。
「うわ!」
「騒がないでください!」
「運転もうちょい何とかして!」
「だから二人乗りが!」
「いや絶対それだけじゃねえ!」
海面すれすれまで高度が落ちる。
慌てて上げる。
今度は上がりすぎる。
奎星はスズメの腰へしがみつきながら、半分本気で思った。
黒曜の鳥より。
今は運転のほうが怖い。
「スズメちゃん、箒の授業ちゃんと受けた!?」
「卒業しています!」
「成績は!?」
「今関係ありますか!?」
「めちゃくちゃある!」
「普通でした!」
「嘘だ!」
「失礼ですね!」
その間にも。
黒曜の鳥は迫る。
一羽が翼を大きく開いた。
嘴の奥に。
赤黒い光。
奎星が気づく。
「来る!」
「伏せて!」
光が飛んだ。
スズメが箒を急に横へ倒す。
奎星の身体がほとんど水平になる。
「うわあっ!」
赤黒い光がすぐ横を通り抜け、海面へ突き刺さった。爆発とともに水柱が上がり、飛沫が二人へ降りかかる。
「攻撃してくんじゃん!」
「見れば分かります!」
「俺撃っていい!?」
「駄目です!」
「なんで!?」
「二人乗りの箒で後ろから魔法を撃つなんて危険です!」
「向こう撃ってきてんだけど!」
「それでも――」
二発目。
今度は二羽同時だった。
スズメが必死に避ける。
右へ。
左へ。
一発は外れた。
もう一発が近い。
奎星は反射的に杖を抜いた。
「プロテゴ!」
透明な盾が箒の後方へ広がり、赤黒い光がぶつかった。衝撃で箒が大きく前へ押され、スズメが必死に柄を立て直す。
「っ……!」
「やっぱ撃つしかねえって!」
「防御だけにしてください!」
「落としたほうが早い!」
「蓮根君!」
奎星は聞いていなかった。
身体を後ろへ捻る。
右手に神代榊。
左腕はまだスズメの腰へ回したまま。
「エクスペリアームス!」
赤い光が飛んだ。
高い。
速い。
御影に一学期散々叩き込まれた武装解除呪文。
ただし。
問題が一つ。
奎星自身が時速何十キロで飛んでいる。
相手も飛んでいる。
しかも上下左右へ動く。
外れた。
遥か後方の空へ消えた。
「…………」
奎星が言う。
「今のは試し撃ち」
「撃たないでと言いましたよね!?」
「でも惜しかった!」
「全然違う方向でした!」
「次当てる!」
「話を聞きなさい!」
黒曜の鳥が左右へ分かれた。
一羽が高く。
二羽が低く。
明らかに。
二人を囲もうとしている。
奎星の顔から少しだけふざけた色が消える。
「こいつら、ただ追ってるだけじゃねえな」
「ええ。術者からある程度指示を受けているか、追跡対象への攻撃まで組み込まれています」
「じゃ壊していい?」
「必要以上の威力は――」
「分かってる」
返事が。
思ったより落ち着いていた。
スズメが少しだけ横目で見る。
奎星は鳥を見ている。
杖先も。
無駄に力んでいない。
一学期。
御影に何度も言われたこと。
必要な力だけを使う。
壊すためではなく。
止めるために。
奎星は狙った。
「エクスペリアームス!」
二発目。
外れた。
「蓮根君!」
「今のは近かった!」
「海しか撃っていません!」
「いや鳥の下!」
「外れは外れです!」
三発目。
鳥が上へ逃げる。
また外れる。
奎星は眉を寄せた。
「ムズっ!」
「当たり前です! 箒から動く標的へ当てるのは上級課程でも――」
「もう一回!」
「聞いていますか!?」
四発目。
今度は撃つ直前に鳥の動きを見る。
右へ逃げる。
なら。
今いる場所ではない。
移動する先。
「エクスペリアームス!」
赤い閃光。
鳥の尾を。
僅かに掠めた。
黒い欠片が飛ぶ。
奎星の目が輝く。
「当たりかけた!」
スズメも驚いて振り返りそうになる。
「前見て!」
「あなたが言うのですか!?」
箒が下がる。
「うわああ!」
慌てて持ち直す。
五発目。
外れる。
六発目。
鳥が速度を落とした瞬間を狙う。
やはり外れる。
しかし。
少しずつ。
奎星の光は。
黒い鳥へ近づいていた。
スズメも気づいた。
「……修正している?」
「たぶん!」
「たぶんで撃たないでください!」
「でもさ!」
奎星は目を細める。
鳥が左。
次は右へ切り返す。
さっきから。
同じ動き。
一瞬だけ。
翼が水平になる。
そこ。
「今!」
杖を振る。
「エクスペリアームス!」
赤い光が。
空を走った。
黒曜の鳥が。
右へ切り返す。
その先。
ぴたり。
光が重なった。
ばしん!
黒い鳥の身体へ直撃した。
奎星の呪文は、元々の魔力量そのものが大きい。
鳥は横から巨大な拳で殴られたように吹き飛び、翼を大きく崩しながら回転する。
赤黒い光が。
一瞬。
消えた。
そして。
ばらばら。
黒曜石の欠片となって。
海へ落ちていく。
「…………」
スズメが。
一瞬。
完全に黙った。
奎星は。
目を見開く。
そして。
「当たった!!」
「……嘘でしょう」
「当たった! 見た!?」
「見ましたけど……」
「俺すごくね!?」
「今の距離で……?」
「すげえ!」
「自分で言わないでください!」
ただ。
スズメも。
本当に信じられない顔をしていた。
ほんの数分。
最初はまったく見当違いの方向へ飛ばしていた少年が、移動する箒の後部から、高速で飛ぶ魔法生物型の術式へ当てた。
偶然。
そう言いたかった。
だが。
四発目から明らかに軌道が変わっていた。
見て。
外して。
修正して。
また撃つ。
異常な速度で。
「もう一匹!」
奎星が杖を構える。
「蓮根君、調子に乗らない!」
「今なら当たる!」
「だから撃たないでください!」
残った二羽は。
仲間が破壊されたのを見た瞬間。
追跡をやめた。
翼を広げる。
赤黒い光が身体を包み。
そのまま。
煙のように。
空へ溶けた。
奎星が杖を下ろす。
「逃げた」
スズメは後ろを確認する。
何もいない。
念のためさらにしばらく反対方向へ飛び、追跡の魔力反応が完全に消えたところで大きく迂回した。
そこから。
マホウトコロへ向かう。
「帰れる?」
奎星が訊く。
「帰れます」
「道分かる?」
「分かります!」
「運転は?」
「降ろしますよ」
「海しかねえ!」
スズメの肩が。
少しだけ。
揺れた。
笑ったらしい。
奎星はその後ろで。
濡れた服を風にはためかせながら。
まだ嬉しそうだった。
「当たったなあ」
「一回だけです」
「でも当たった」
「その前に六回外しています」
「七回目で当てた!」
「本来、撃つ必要自体ありませんでした」
「でもスズメちゃん、ちょっとびっくりしただろ?」
返事がない。
「なあ」
「……少しだけです」
奎星は。
満足そうに笑った。
*
マホウトコロへ戻る頃には。
奎星の服は半分ほど乾いていた。
その代わり。
髪は完全に終わっていた。
朝。
伊織に手伝わせて。
わざわざ整えた髪。
見る影もない。
校舎へ降りた奎星を見て、高宮は最初にこう言った。
「何があった」
奎星は答えた。
「デート」
スズメが即座に言った。
「違います」
「海落ちたけど」
「だから違います!」
「調査デート」
「調査です!」
高宮は二人を見る。
ずぶ濡れの奎星。
少し乱れた髪のスズメ。
箒。
そして。
奎星の手に握られた黒曜石の小さな欠片。
「……報告を聞こう」
そこだけは。
すぐ真顔になった。
*
その日の夕方。
マホウトコロの会議室には、御影、スズメ、高宮、鷹司。
そして。
魔法省から急遽呼ばれた男がいた。
真壁征士郎。
濃紺の魔法省制服を着た大柄な男は、机の上に置かれた黒曜石の欠片をしばらく黙って見ていた。
奎星は正面に座っている。
その隣に日向、楓、伊織、岳。
「つまり」
真壁が静かに口を開く。
「昨日、八咫祭の保護区域内で君たち五人が二人組に襲われた。そして今日、蓮根君と烏丸先生が八咫小路で同じ女と思われる人物を確認し、逃走中に黒曜石で構成された鳥型の追跡術式に攻撃された」
「うん」
奎星が頷く。
スズメが横から小さく言う。
「はい、です」
「はい」
真壁は少しだけ笑った。
一学期。
病室で初めて会ったときと。
変わらない。
奎星を妙な力の持ち主としてではなく、普通の少年として扱う目だった。
ただ。
今は立場が違う。
顔には。
はっきりと。
仕事の緊張があった。
「生徒が二日続けて攻撃対象になった以上、魔法省としても無視はできない。ただし……」
真壁の視線が。
机の反対側。
御影へ向く。
「禍祓官を何人も回せる状況ではない」
奎星が眉を寄せる。
「何で?」
御影が腕を組んだまま答える。
「日本中で問題が起きているからだ」
真壁が続ける。
「呪物の密輸、禁制魔術、魔法生物の違法取引、地方の術師集団同士の抗争。それ以外にも表へ出せない案件はいくつもある。禍祓官の人数は無限じゃない」
「でも黒曜の環なんだろ?」
「その可能性が高い、という段階だ」
御影が訂正する。
「断定はまだできん」
真壁も頷いた。
「それに、冷たく聞こえるかもしれないが、鬼火鳥一羽、あるいは一つの群れを守るためだけに、他の地域から禍祓官を引き抜くわけにはいかない」
奎星は黙った。
理屈は。
分かる。
どこかを守るために。
別のどこかを空ける。
それで別の人間が襲われれば意味がない。
ただ。
納得できるかと言われれば。
別だった。
御影が机を指で一度叩いた。
「問題は学校に置き続けることも安全ではないという点だ」
鷹司が頷く。
「今日の連中が本当に鬼火鳥を探してるならな。まだマホウトコロの場所までは割れてないだろうが、あの鳥がここにいる限り、探し続ける可能性はある」
スズメが言う。
「ですが、今すぐ野生へ返すこともできません」
「まだ飛ばせん」
鷹司は即答した。
「昨日よりはずっといいが、長距離飛行なんざ論外だ。最低でもあと十日、できれば二週間」
「じゃ、その間守ればいいじゃん」
日向が言う。
御影が見る。
「簡単に言うな」
「でもここ、学校ですよね?」
「学校だからこそだ」
御影の声が低くなる。
「二学期になれば生徒が戻ってくる。敵が鬼火鳥を狙ってここへ来れば、巻き込まれるのはお前たちだけではない」
日向も黙った。
会議室の空気が重くなる。
そのとき。
飼育棟のほうから。
キィィ。
細い鳥の声が聞こえた。
奎星が顔を上げる。
*
会議が終わったあと。
全員で鬼火鳥を見に行った。
昨日。
森で見つけたときとは。
ずいぶん違っていた。
青白い炎はまだ小さいが、消えかけていた頃より明らかに力強く、羽根にも僅かな艶が戻っている。診療室の広い止まり木に立ち、鷹司が用意した小さな肉片を嘴で器用に摘んでいた。
「食ってる!」
日向が嬉しそうに言う。
「静かにしなさいよ」
楓が言いながら。
自分もかなり近い。
「もうちょっと近くで見ていい?」
鷹司が呆れる。
「さっきからお前が一番近いぞ」
「だって昨日より元気なんですよ!」
鬼火鳥が楓を見る。
楓の表情が。
一瞬で柔らかくなった。
「……かわいい」
日向が横を見る。
「お前そういう顔すんのな」
「何よ」
「いや別に」
「気持ち悪い」
「何でだよ!」
日向も止まり木の反対側から顔を覗き込む。
鬼火鳥が首を傾げる。
日向も首を傾げる。
鳥も。
反対へ。
日向も。
反対へ。
「……俺のこと好きじゃね?」
楓が即答する。
「多分遊ばれてる」
「何で!」
岳はその横で、鬼火鳥用の餌を小さく分けていた。
昨日から一番懐かれているせいか、岳が近づくと鬼火鳥は警戒するどころか自分から首を伸ばす。
「岳だけズルくね!?」
日向が言う。
「何が」
「めっちゃ懐いてんじゃん!」
「触り方が下手なんだろ」
「俺も触る!」
「急に行くな」
「分かった」
日向がものすごくゆっくり手を出す。
楓も横から。
「もっと下よ」
「こう?」
「速い!」
「難しいな!」
伊織は少し離れた位置から眺めていた。
「二人とも昨日までより明らかに声が高いね」
楓と日向が同時に振り返る。
「高くない!」
「高くねえ!」
伊織が笑った。
鬼火鳥は。
二日で。
すっかり五人の中心になっていた。
マホウトコロに突然現れた。
青白い炎をまとう。
傷ついた珍しい鳥。
日向も。
楓も。
伊織も。
岳も。
奎星も。
もう。
単なる保護対象とは思っていない。
奎星は神代榊を取り出した。
鬼火鳥が。
すぐに反応した。
首を上げる。
杖の表面にある炎の彫刻が。
淡い青白い光を帯びる。
真壁がそれを見る。
「昨日聞いた反応か」
「うん」
奎星は鬼火鳥へ少し近づける。
光が。
強くなる。
「空木って杖職人に聞いたんだけどさ」
奎星は今日の話を説明した。
鬼火鳥は霊脈を辿って移動するという伝承。
その先に。
神代榊があるという話。
昔。
鬼火鳥を管理していた一族がいたという話。
そして。
自分の神代榊の杖が。
鬼火鳥の群れに反応するかもしれないということ。
真壁は黙って聞いていた。
御影も。
スズメも。
もう一度聞くように。
最後まで口を挟まなかった。
「だから」
奎星は杖を見る。
「こいつを元の場所に返すなら、俺の杖がいると思う」
スズメが静かに言う。
「まだ可能性の話です」
「分かってる」
「杖が反応するだけで、必ず群れへ案内できるとは限りません」
「それも分かってる」
奎星は答えた。
昨日までなら。
ここで「でもやってみりゃいいじゃん」と続けたかもしれない。
今日は。
少し違った。
「でも、試せるの俺しかいないだろ?」
誰も否定しなかった。
奎星は鬼火鳥を見る。
「こいつが治ったら、仲間んとこ帰してやりたい」
日向が隣へ来る。
「俺も」
楓も。
「当然でしょ」
岳が頷く。
伊織も。
何も言わないまま眼鏡を押し上げた。
御影の目が。
五人を見る。
「帰す場所を見つけたとして」
低い声。
「そこまでの道中で、また昨日の連中が現れるかもしれん」
「うん」
「今日の追跡術式だけとは限らない」
「うん」
「昨日の二人より強い術者が来る可能性もある」
奎星は少しだけ黙った。
そして。
御影へ向き直った。
「だからさ」
「何だ」
「修行してくれ」
御影の眉が。
僅かに動いた。
奎星は続ける。
「俺ら」
日向たちを見る。
「もっと強くなりたい」
御影は黙っている。
「今日さ、箒からエクスペリアームス撃ったんだよ」
スズメが即座に言う。
「私が止めたのに七回も」
「七回目当たったじゃん!」
「六回外しています!」
「でも当てた!」
御影が額を押さえた。
「何をやっている」
「だから!」
奎星が少し身を乗り出す。
「当てられたけど、偶然みてえなもんじゃん。昨日だって楓と二人じゃ押されて、日向が来てやっとだった」
楓が奎星を見る。
本人の口から。
それが出るとは。
思っていなかったらしい。
「俺、魔力は多いけど、それだけじゃ駄目なんだろ?」
御影の目が。
少し細くなった。
一学期。
最初の訓練。
ただ派手な魔法を撃ちたがった少年。
訓練人形ごと吹き飛ばし。
威力が強ければ強いほどいいと思っていた。
その少年が。
今。
自分から。
足りないと言っている。
「またあいつらと戦うかもしれない」
奎星は言う。
「そんとき、鬼火鳥も守って、みんなも守って、それでちゃんと止めるには、今のままじゃ足んねえ」
日向も前へ出る。
「俺もお願いします」
楓が続く。
「私も」
岳は短く。
「頼む」
伊織も。
「僕も参加する」
御影は五人を見た。
「夏休みだぞ」
日向が笑う。
「補習みたいなもんでしょ」
楓が横から睨む。
「一緒にしないで」
「でも夏休みに学校で授業受けるって意味じゃ」
「違う!」
奎星も笑う。
「俺、補習じゃないからな!」
伊織が言う。
「法規六十一点」
「今関係ねえだろ!」
スズメの口元が。
僅かに緩む。
「三択で四番を書いた人ですからね」
「スズメちゃん!」
御影は。
その騒がしい五人を。
しばらく黙って眺めていた。
やがて。
背を向ける。
「来い」
奎星が止まる。
「え?」
御影は歩き出す。
「訓練場だ」
五人の表情が変わった。
日向が笑う。
「マジ!?」
「返事は一度だ」
「はい!」
「声がでかい」
奎星が一番に走り出す。
「御影先生!」
御影は振り返らない。
「何だ」
「俺、今日は人形吹っ飛ばさねえから!」
「当たり前だ」
「成長見せる!」
「口より先に動け」
「はい!」
その背中を。
奎星は追った。
一学期にも。
何度も追った背中。
ただ。
あの頃とは。
少し違う。
強い魔法を覚えたいからではない。
御影みたいになりたいと。
ただ憧れているだけでもない。
今度は。
守りたいものがある。
そのために。
自分に足りないものも。
少しずつ分かり始めている。
日向。
楓。
伊織。
岳も続く。
スズメはその後ろ姿を見送りながら、少しだけ困ったように息を吐いた。
「夏休みなのですが……」
真壁が隣で笑った。
「元気でいいじゃないですか」
「真壁さんは毎日見ていないからそう言えるのです」
「そうかもしれませんね」
鷹司は鬼火鳥へ餌をやりながら言った。
「こいつが飛べる頃には、少しは使い物になってるといいな」
スズメは訓練場へ消えていく奎星の背中を見る。
朝。
私服を褒めて。
甘味処ではくだらない質問を山ほどして。
海へ落ち。
箒の上から七発も魔法を撃ち。
そして今。
自分から修行を頼んでいる。
本当に。
忙しい少年だった。
「……少しは、ですか」
スズメが小さく言う。
その声は。
誰にも届かなかった。
訓練場の扉が開く。
夏休みの誰もいなかった広い空間へ、五人の足音が響いた。
御影玄一郎は中央まで歩き。
振り返る。
「杖を抜け」
五人が。
同時に構えた。
「まず確認する」
御影の声が。
訓練場へ響く。
「お前たちは、強くなる意味を勘違いするな」
奎星が。
神代榊を握り直した。
御影の目が。
真っ直ぐ。
その少年へ向く。
「敵を倒すためではない」
そして。
一学期にも教えた言葉を。
もう一度。
口にした。
「殺さずに止めるためだ」
奎星は。
笑わなかった。
今度は。
その意味を知っていた。
「はい」
夏休みのマホウトコロで。
五人だけの。
特別訓練が始まった。