マホウトコロ   作:西野圭吾

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第8話 能力と精神

 

 

訓練場へ入った五人に、御影はまず何の新しい呪文も教えなかった。

 

「水無瀬、朝比奈、榊、岩戸。お前たちは基礎からだ」

 

開口一番そう言われ、日向が露骨に肩を落とす。

 

「えー、せっかく特別訓練なのに?」

 

「特別訓練だから基礎をやる」

 

「もっとこう、黒曜の狩人を想定した必殺技とか……」

 

「そんなものはない」

 

「夢ねえなあ」

 

楓が横から日向の肩を叩いた。

 

「昨日、基礎呪文だけの相手に押されてたでしょうが」

 

「お前もな」

 

「私はちゃんと反省してるの!」

 

「俺もしてるって!」

 

いつもの調子で言い合いを始めた二人を無視し、御影は訓練場の端に並んでいた八体の人形へ杖を向けた。どれも人間とほぼ同じ大きさをした木製の訓練人形で、本来なら生徒が一方的に呪文を当てるだけの標的にすぎない。ところが御影が杖先で複雑な軌跡を描くと、その身体へ淡い銀色の文字が次々と刻まれ、一体目がゆっくり首を動かしたかと思えば、二体目は杖を構え、三体目は楓へ顔を向ける。

 

やがて八体すべてが、まるで中に人間でも入ったように歩き出した。

 

「うわ」

 

日向が一歩下がる。

 

伊織は人形の足運びをじっと見た。

 

「自律戦闘術式?」

 

「簡易版だ。攻撃、防御、回避、連携まで組んである。使用するのは気絶、武装解除、拘束系統だけだが、止まっている的よりは役に立つ」

 

説明が終わるより先に、一体の人形が日向へ杖を振った。

 

「ステューピファイ!」

 

「え、始まってんの!?」

 

日向が慌てて盾を張り、赤い光が透明な防壁へ弾ける。だが安心する暇もなく、別の人形が横からエクスペリアームスを撃ち込み、日向の杖が危うく手から抜けかけた。

 

「うおっ!」

 

「朝比奈、正面だけ見るな。水無瀬は撃ったあと足を止めるな。榊、お前は考える時間が長い。岩戸は相手の杖先を見ろ。身体の大きさで受けようとするな」

 

御影は四人を一度に見ながら、まるで別々の授業でもしているように次々と指摘を飛ばしていく。

 

「はい!」

 

四人の返事が重なり、岳だけ少し遅れて「……はい」と続いた。

 

人形たちは再び動き始めた。

 

御影はそれを一通り確認すると、今度は奎星へ顔を向ける。

 

「蓮根。お前はこっちだ」

 

奎星の顔がぱっと明るくなった。

 

「個人レッスン!」

 

一学期とまったく同じ言い方だった。

 

御影は眉一つ動かさない。

 

「嬉しそうに言うな」

 

「だって御影先生の個人レッスン、久しぶりじゃん」

 

「最後にやってから一か月も経っていない」

 

「夏休み挟むと昔に感じるんだよ」

 

「杖を出せ」

 

「はい!」

 

素直だった。

 

こういうときだけは。

 

 

訓練場の反対側には、奎星用に三体の人形が並べられた。

 

御影は腕を組み、まず一学期までに奎星が身につけたものを確認していく。

 

「エクスペリアームス」

 

奎星が神代榊を振った。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光が人形の右手を正確に射抜き、握られていた杖だけが弾き飛ばされる。人形そのものは、ほとんど揺れてすらいなかった。

 

一学期の最初、同じ訓練をしたときには「杖だけを飛ばせ」と言われているのに、人形ごと何度も吹き飛ばした。それを思えば、今の一撃はまるで別人のものだった。

 

「もう一度」

 

御影が今度は人形を走らせる。

 

奎星は動く標的へ杖を向けた。

 

「エクスペリアームス!」

 

ぱしん、と乾いた音がして、走っていた人形の手から杖だけが空へ舞う。

 

御影は間を置かず次へ移った。

 

「プロテゴ」

 

三体の人形が別方向から奎星を囲む。正面、右、斜め後方から時間差で三本の光が飛んだが、奎星は一枚の巨大な盾を力任せに広げることはせず、身体を動かしながら必要な方向だけへ盾を出した。

 

一発目を弾き、半歩横へ。二発目を受け流し、その勢いのまま振り返る。

 

「プロテゴ!」

 

最後の一発も弾いた。

 

御影が僅かに頷く。

 

「インカーセラス」

 

奎星が杖を振ると、地面から伸びた縄が人形一体の両腕を巻き取り、そのまま身体を縛り上げた。これも一学期なら余計な力が入り、縄ごと標的を床へ叩きつけていただろう。

 

三つの呪文を確認し終えた御影は、ようやく口を開いた。

 

「エクスペリアームス、プロテゴ、インカーセラス。この三つは仕上がっている」

 

奎星が得意そうに胸を張る。

 

「だろ?」

 

「調子に乗るな」

 

「褒めた直後に落とすじゃん」

 

「事実を言っただけだ」

 

御影は三体の人形を元の位置へ戻しながら続けた。

 

「ただし、黒曜の狩人が昨日の二人だけだとは考えるな」

 

奎星の顔から少し笑みが消える。

 

「やっぱ集団?」

 

「黒曜石の加工、鬼火鳥の捕獲、八咫小路での捜索、それに今日の追跡術式。二人だけで全部やっていると考えるほうが不自然だ。今後、相手が五人、十人と増えれば、武装解除だけでは追いつかん」

 

「じゃ、何覚える?」

 

そう訊きながら、奎星の目はどこか楽しそうだった。

 

新しい魔法。

 

それだけで、やはり胸が躍るらしい。

 

御影はそんな顔をほんの一瞬だけ見つめたあと、人形へ杖を向けた。

 

「まず、これだ。ステューピファイ」

 

赤い閃光が人形の胸へ命中した。人形は派手に吹き飛ぶことも砕けることもなく、身体から急に力を失ったように、その場へ崩れ落ちる。

 

「気絶呪文だ。相手の意識を奪う。エクスペリアームスで杖を落とさせても、相手が複数なら拾われることがある。杖を二本持つ者もいるし、杖なしで使える術を持つ者もいる」

 

奎星が頷く。

 

「じゃ、これで寝かせる」

 

「簡単に言うな。頭部や心臓付近へ必要以上の魔力で当てれば危険だ。特にお前はな」

 

「また俺だけ注意事項多くない?」

 

「魔力一万七百二の人間と百の人間に、同じ注意をする意味があるか?」

 

「……ないっすね」

 

「分かったなら撃て」

 

倒れていた人形が起き上がる。

 

奎星は構えた。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が胸へ直撃した。

 

どん、と鈍い音が響き、人形はその場へ倒れるどころか十メートル近く吹っ飛び、訓練場の壁へ激突する。

 

御影の目が細くなった。

 

奎星も固まった。

 

「…………」

 

「蓮根」

 

「はい」

 

「気絶させろと言った」

 

「はい」

 

「砲弾にしろとは言っていない」

 

「……はい」

 

遠くで日向の笑い声が響く。

 

「奎星、人形吹っ飛ばさねえって言ってたじゃん!」

 

「うるせえ!」

 

御影は奎星を見た。

 

「よそを見るな。もう一度」

 

二発目。

 

今度は半分ほどに抑えたつもりだったが、それでも人形は三メートル飛んだ。

 

三発目はまだ少し強い。

 

四発目では逆に抑えすぎ、人形が何事もなかったように立っている。

 

五発目。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が当たり、人形がその場所へ崩れた。

 

奎星の目が輝く。

 

「これ!」

 

「感覚を覚えろ」

 

「なるほどな」

 

すぐに六発目を撃つ。

 

今度も。

 

ほぼ同じ。

 

御影の眉が、ごく僅かに動いた。

 

一度成功すると、次から急に安定する。

 

一学期から、ずっとそうだった。

 

「次」

 

御影は杖を横へ振り、今度は四体の人形を奎星の周囲へ配置した。

 

「デパルソ」

 

「聞いたことある」

 

「退去呪文だ。物や人間を術者から遠ざける。単純に一人を押し飛ばすこともできるが、実戦では複数に囲まれたときに間合いを作るのに有効だ」

 

御影が杖を軽く振る。

 

「デパルソ」

 

空気が一度だけ膨らんだ。

 

四体の人形が同時に後ろへ滑る。倒れない。たった三メートルほどだが、その一撃だけで御影の周囲には十分な空間が作られていた。

 

「おお」

 

奎星が感心する。

 

「これ便利じゃん」

 

「便利だからこそ気をつけろ」

 

御影は奎星へ杖先を向けた。

 

「お前が威力を間違えれば敵だけでは済まん。横にいる水無瀬も、後ろの朝比奈もまとめて吹き飛ばす」

 

奎星は少しだけ顔をしかめた。

 

脳裏に一学期の光景が戻ってくる。

 

日向が壁へ叩きつけられた。

 

目を閉じたまま。

 

動かなかった。

 

「……分かった」

 

返事は、さっきまでより静かだった。

 

御影も、それ以上は言わない。

 

「撃て」

 

奎星は杖を構えた。

 

 

それから御影が奎星へ教えた魔法は、驚くほど地味だった。

 

エクスペリアームス、ステューピファイ、インカーセラス、デパルソ、プロテゴ。

 

相手を焼くものはない。切り裂くものも、爆発させるものもない。倒す、止める、離す、縛る、守る――ほとんどそれだけだったが、奎星は以前ほど不満を言わなくなっていた。

 

ステューピファイの威力を少しずつ変えながら、人形がその場に倒れるぎりぎりの魔力量を探す。デパルソでは四体の人形を同じ距離だけ押し返すよう調整し、途中から御影が一体だけ重さを変えると、最初こそ一体だけ大きく遅れたものの、奎星はその違いを確かめるように何度か撃ったあと、それぞれへ流す魔力まで無意識に変え始めた。

 

「なあ御影先生」

 

「何だ」

 

「これ、全員同じ強さで撃つんじゃ駄目なの?」

 

「駄目だ」

 

「だよな」

 

奎星は少し考えたあと、もう一度杖を振る。

 

「デパルソ!」

 

四体の人形が、今度はほぼ同時に同じ線まで下がった。

 

御影が黙る。

 

奎星は嬉しそうに振り返った。

 

「できた!」

 

「もう一度」

 

「そこ褒めるとこだろ!」

 

「再現できてからだ」

 

「厳しっ」

 

もう一度。

 

できた。

 

三回目。

 

右端の一体だけ、僅かに下がりすぎる。

 

「あ、今右強かった」

 

御影が何か言うより先に自分で気づき、四回目にはもう修正されていた。

 

御影はその一連の動きを、何も言わず見ていた。

 

少し離れたところでは、日向たちも汗だくになっている。御影の自律人形は容赦がなく、日向が一体を気絶させればすぐ後ろから別の一体が杖を狙い、楓が盾で受ければ伊織がその陰から反撃し、岳が二人の間へ入り込んだ人形をインカーセラスでまとめて転ばせる。

 

「岳、左!」

 

「分かってる」

 

「日向、突っ込みすぎ!」

 

「行けるって!」

 

「だから行けるかどうかじゃなくて!」

 

「プロテゴ!」

 

伊織の盾が日向の背中を守った。

 

御影の声が遠くから飛ぶ。

 

「朝比奈、今のは榊がいなければ終わっている」

 

「はい!」

 

「返事だけはいいな」

 

「ありがとうございます!」

 

「褒めていない」

 

訓練場に笑い声が響いた。

 

ただ、御影だけは笑っていなかった。

 

 

一時間ほど経った頃、御影はようやく五人へ休憩を命じた。

 

奎星は床へ座り込み、汗を拭いながら日向と「ステューピファイ何発当てた」「人形何体倒した」と騒いでいる。楓は水を飲みながら二人の数字が途中から完全に嘘になっていることを指摘し、伊織は黙って訓練内容を記録していた。岳は休憩開始から十秒も経たずに何か食べ始めている。

 

御影は訓練場の端に置かれたベンチへ腰を下ろした。

 

そこへ、入口の柱へ肩を預けて訓練を見ていた真壁が歩いてくる。

 

「蓮根君には、ずいぶん目をかけているようだな」

 

御影は奎星たちを見たまま答えた。

 

「魔力量が一万を超えてるんだぞ」

 

「それは知っている。測ったのはうちだ」

 

「あいつは間違えれば兵器になりかねない」

 

真壁はその言葉を聞き、横から御影の顔を見た。

 

御影の視線は奎星から動いていない。

 

遠くでは当の本人が、「ステューピファイ、俺もう完璧だわ」と自慢し、楓から「さっき日向の横通ったじゃん」と即座に突っ込まれている。

 

「日向に当ててないから完璧」

 

「そういう問題じゃないでしょ!」

 

奎星は笑っていた。

 

どこにでもいそうな、騒がしい十七歳の少年だった。

 

けれど、その右手には一般的な成人魔法使いの百倍を超える魔力がある。

 

真壁はしばらく訓練を眺めた。

 

「飲み込みは早いな」

 

御影は答えない。

 

「早いなんてもんじゃない。さっきまで初めて撃っていた気絶呪文を、もう実戦速度で使っている。外しても次で軌道を変えるし、威力調整も自分で修正する。応用も利く」

 

「だから教えてる」

 

「誰かに似てるな」

 

その一言で、御影の顔が止まった。

 

本当に僅かな変化だったが、真壁は見逃さなかった。二十年以上、一緒に戦ってきた。御影玄一郎という男が何を嫌がり、どこで黙るのかを、真壁はよく知っている。

 

御影は低く言った。

 

「……その話はしたくない」

 

真壁も、それ以上すぐには続けなかった。

 

訓練場の向こうで、奎星が日向の肩へ腕を回し、何か馬鹿なことを言って楓に頭を叩かれている。その姿を見ているうちに、真壁の脳裏へ十二年前の光景が一瞬だけ重なった。

 

二〇一四年。

 

御影も真壁も三十五歳で、禍祓官として最も多くの現場へ出ていた時代。

 

あの頃は、三人だった。

 

いつも三人で任務へ出て、三人で戻っていた。

 

訓練場では標的が壊れ、壁に人形が突き刺さり、その真ん中で一人だけ悪びれもせず笑っている男がいた。

 

――いやあ、ちょっと威力間違えたんだよ。

 

――ちょっとで壁がなくなるか。

 

――玄一郎、細けえって。

 

御影が怒り、真壁が止め、それでも本人は笑っていた。

 

攻撃魔法だけなら、三人の中で誰よりも強かった。軽く、騒がしく、思いついたら先に身体が動き、失敗すれば笑いながら次には修正している。

 

酷く。

 

似ている。

 

真壁は御影へ視線を戻した。

 

「非殺傷もいいが、高火力の呪文も蓮根君には教えるべきじゃないか?」

 

御影の目が細くなる。

 

「何をだ」

 

「ボンバーダ。コンフリンゴ。実戦で必要になる場面はあるだろう」

 

御影は即答しなかった。

 

訓練場の中央では、奎星が休憩中にもかかわらず杖を指先で回し、さっきのデパルソの感覚を確かめるように何度も小さく手首を動かしている。

 

「あいつなら、ボンバーダは今撃っているステューピファイより単純だ」

 

「そうだな」

 

「コンフリンゴも制御だけならすぐ覚える」

 

「おそらく」

 

「一日あれば、使えるようになるかもしれん」

 

そこで御影は、今度こそはっきりと嫌な顔をした。

 

「だから教えない」

 

真壁が黙る。

 

御影は奎星を見たまま、低い声で続けた。

 

「威力が高い術ほど、結果が目に見える。人間が吹き飛ぶ。焼ける。骨が折れる。あいつは今、自分の魔法で相手がそうなったのを見て平然としていられるほど、精神が大人じゃない」

 

真壁の脳裏に、一学期の報告書が蘇った。

 

日向を傷つけたあと。

 

奎星は、自分の杖を握れなくなった。

 

怖くなったからだ。

 

魔法がではない。

 

自分が。

 

御影は続ける。

 

「技能だけなら覚える。おそらく異常な速度でな。だが、スキルが精神を越えるのはまずい」

 

その言葉に、真壁の表情から少しずつ笑みが消えた。

 

今の話をしているはずなのに。

 

御影が見ているのは。

 

それだけではない。

 

「玄一郎」

 

「何だ」

 

「玄弥は――」

 

「その名前を出すな」

 

声は大きくなかった。

 

むしろ、普段より静かだった。

 

けれど、その一言だけで真壁は何も続けなかった。

 

訓練場には、五人の声と、人形が動く音と、呪文が盾へ弾ける音だけが響いている。

 

十二年前。

 

二〇一四年。

 

一人。

 

帰ってこなかった。

 

三人だったものは、二人になった。

 

それ以降、御影はその名前をほとんど口にしていない。

 

「……分かった」

 

真壁はそれだけ言った。

 

御影も何も返さなかった。

 

 

休憩が終わると、御影は奎星と楓を訓練場の中央へ呼んだ。

 

「え、決闘?」

 

奎星の顔が一気に明るくなる。

 

楓は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「何で嬉しそうなのよ」

 

「そりゃ嬉しいだろ。前回ちゃんと決着ついてねえし」

 

楓の表情も、ほんの少しだけ変わった。

 

一学期。

 

最初の決闘。

 

一戦目は楓が勝った。

 

二戦目は、勝敗がつかなかった。

 

奎星の魔法が訓練場に仕込まれていた黒曜石の影響で膨れ上がり、日向を傷つけたからだ。

 

二人とも、その日のことを忘れていない。

 

それでも今、もう一度同じ場所へ立つ。

 

御影が言った。

 

「今度は制限を少し変える。エクスペリアームス、ステューピファイ、インカーセラス、プロテゴ。今日教えたデパルソも許可する」

 

奎星が嬉しそうに杖を回した。

 

「勝ったな」

 

楓も杖を抜く。

 

「何で開始前から勝ったことになってるの?」

 

「今日、新しい呪文めっちゃ覚えたから」

 

「私も使えるけど」

 

「……あ」

 

「馬鹿」

 

御影は訓練場の外を杖で指した。

 

窓の向こうには校舎をぐるりと囲む広大な校庭がある。一般的な学校なら「一周走る」程度は罰にもならないだろうが、マホウトコロの校庭は宮殿本棟、訓練棟、運動区域の外周まで含めれば、走っている途中で景色が変わるほど広い。

 

「負けたほうは校庭一周」

 

奎星と楓が同時に御影を見た。

 

「は?」

 

「一周?」

 

日向が笑い始める。

 

「終わった! あれ一周したら夕方になるぞ!」

 

伊織が冷静に訂正した。

 

「そこまではかからない。でも全力なら相当きつい」

 

岳が奎星を見る。

 

「頑張れ」

 

「何で俺が負ける前提なんだよ!」

 

楓が髪を結び直した。

 

「やりましょう」

 

奎星が見る。

 

「自信あんじゃん」

 

「前も勝ったから」

 

「言ったな?」

 

「何度でも言うわよ」

 

奎星も笑った。

 

「今度は負けねえ」

 

二人が七メートルほど距離を取り、日向たちは訓練場の端へ下がった。

 

途中から見学に来ていたスズメも、少し離れた場所で腕を組んでいる。

 

「蓮根君」

 

奎星が振り返る。

 

「何?」

 

「無茶な威力は禁止ですよ」

 

「分かってるって!」

 

「本当に?」

 

「今日は人形も一回しか吹っ飛ばしてない!」

 

スズメの眉が上がる。

 

「一回は吹っ飛ばしたのですか?」

 

「もう始めよう!」

 

誤魔化した。

 

御影が手を上げる。

 

「始め」

 

今回は、二人ともすぐに撃った。

 

「エクスペリアームス!」

 

二本の赤い光が交差する。

 

奎星は横へ踏み出し、楓は身体を沈めて避ける。どちらも結果を確認するために足を止めることなく次の呪文へ移り、今度は互いの杖ではなく足元を狙った。

 

「インカーセラス!」

 

地面から伸びた縄を、奎星はデパルソで吹き飛ばし、楓はプロテゴで弾く。

 

「うわ、速っ」

 

日向が思わず口にした。

 

一学期とは明らかに違う。

 

特に、奎星。

 

以前なら呪文を撃つたび、ほんの一瞬だけ結果を見ていた。

 

今は撃った瞬間、もう次の位置へ動いている。

 

楓が盾を出した。

 

奎星はその盾を見て、すぐ正面を捨てる。

 

右。

 

「ステューピファイ!」

 

楓が身体を捻り、赤い光が袖を掠めた。

 

「……っ!」

 

日向が思わず立ち上がる。

 

「惜しい!」

 

奎星は追う。

 

「エクスペリアームス!」

 

楓が盾を出す。

 

だが奎星は、そこまで読んでいた。

 

盾へぶつける直前、杖先を下へ切り替える。

 

「デパルソ!」

 

空気が爆ぜた。

 

楓の身体が横へ押される。

 

「うわっ!」

 

倒れはしなかった。

 

けれど体勢が崩れた。

 

奎星の目が、その一瞬を捉える。

 

「もらった!」

 

エクスペリアームス。

 

楓の杖へ。

 

ほぼ完璧な一撃。

 

「奎星!」

 

日向が叫んだ。

 

楓の杖が大きく跳ねる。

 

奎星の顔が輝いた。

 

「よ――」

 

そこで伊織が言った。

 

「あ」

 

楓の杖は。

 

飛んでいなかった。

 

二本の指。

 

本当に、それだけ。

 

それだけがまだ柄へ掛かっていた。

 

完全には離れていない。

 

奎星は勝ったと思った。

 

そのほんの一瞬だけ。

 

足が止まった。

 

楓の目が、それを見る。

 

一学期。

 

奎星自身が分析した癖。

 

撃ったあと。

 

結果を見るために足が止まる。

 

今ではほとんど直っている。

 

だが。

 

勝ったと思った瞬間だけ。

 

まだ残っていた。

 

楓は二本の指だけで杖を引き戻し、一気に握り直した。

 

「甘い!」

 

「え」

 

「デパルソ!」

 

空気の塊が奎星の身体へぶつかった。

 

威力は弱い。

 

倒すためではない。

 

ただ、一歩。

 

体勢を崩すため。

 

奎星が慌てて足を踏ん張ったときには、もう楓の杖が真っ直ぐこちらへ向いていた。

 

「エクスペリアームス!」

 

ぱしん。

 

神代榊が、奎星の手から抜ける。

 

くるくると空中を回り。

 

床へ落ちた。

 

からん。

 

訓練場が静かになる。

 

奎星は空になった右手を見て、楓は肩で息をしながら杖を構えたまま動かなかった。

 

御影が言う。

 

「水無瀬の勝ち」

 

一秒。

 

二秒。

 

奎星の顔が絶望へ変わった。

 

「うっそだろおおおおおおお!!」

 

日向が爆笑する。

 

「また負けた!」

 

「勝ったと思ったのに!」

 

楓も息を整えながら笑った。

 

「だから甘いって言ったでしょ」

 

「指二本だったじゃん!」

 

「落としてないもの」

 

「ほぼ落ちてた!」

 

「ほぼは負けよ」

 

「くっそー!!」

 

奎星は床に落ちた神代榊を拾った。

 

御影が窓の向こうを指す。

 

「一周」

 

奎星の顔が固まる。

 

「……本当に?」

 

「走れ」

 

「御影先生」

 

「何だ」

 

「半周に――」

 

「二周にするか?」

 

「行ってきます!!」

 

訓練場の扉が勢いよく開いた。

 

奎星が全速力で飛び出していく。

 

「くそおおおおお!! 次絶対勝つからな楓ぇぇぇぇ!!」

 

声が校庭へ遠ざかっていった。

 

楓が呆れたように息を吐く。

 

「元気ね……」

 

日向はもう窓へ駆け寄っている。

 

「うわ、もうちっちゃくなった!」

 

岳も隣から眺めた。

 

「速い」

 

伊織が時計を見る。

 

「最初飛ばしすぎ。後半死ぬね」

 

スズメも窓の向こうへ視線を向け、どんどん小さくなっていく奎星を見ながら、ほんの少し口元を緩めた。

 

「自業自得です」

 

 

真壁も窓の外を見ていた。

 

御影は隣で腕を組んでいる。

 

奎星は遠く、校庭の外周を走っていた。負けて、叫んで、悔しがって、それでもおそらく明日にはまた楓へ勝負を挑むだろう。

 

「あの子は」

 

真壁がぽつりと言った。

 

御影は何も返さない。

 

「あの子は、私たちがいなくても強くなれる」

 

本心だった。

 

誰かが手取り足取り教えなくても、見る。試す。失敗する。なぜ失敗したか考え、修正し、もう一度やる。普通なら一年かけて身につけるものを数週間で追い越し、教師が次を用意している間にも勝手に先へ進んでしまう。

 

御影はそんな奎星を見ながら、静かに答えた。

 

「だから俺たちが教えるんだ」

 

言葉だけを聞けば、教師として当然のことだった。

 

才能があるから教える。

 

伸びるから導く。

 

だが、真壁には分かった。

 

御影は奎星が強くならないことを心配しているのではない。

 

強くなりすぎることを恐れている。

 

本人の心が追いつけない速度で、技術だけが、力だけが、先へ行ってしまうことを。

 

魔法を知って、まだ三か月も経っていない。

 

それなのに奎星はエクスペリアームスを覚え、プロテゴを覚え、拘束術を覚えた。死の呪文を素手で消し、暴走した古代魔術を止め、今日初めて教わった気絶呪文を数十分で実戦に使えるところまで持っていき、そして今、上級課程で長く魔法を学んできた楓を、あと指二本のところまで追い詰めた。

 

十七歳。

 

あの騒がしい少年の中には、まだ力に似合うだけの時間が積み重なっていない。

 

真壁は御影の横顔を見た。

 

「怖いか」

 

御影の目が僅かに動く。

 

「何がだ」

 

「あの子が」

 

「馬鹿を言うな」

 

答えは速かった。

 

だから、真壁には分かった。

 

長い付き合いだった。

 

御影が本当にどうでもいいことを否定するとき、こんなに速く答えたりはしない。

 

真壁はそれ以上追及しなかった。御影も何も言わず、ただ校庭を走る奎星から視線だけは外さなかった。

 

遠くでは、最初の勢いを完全に失った奎星が、もう明らかに苦しそうな走り方になっている。膝に手をつきそうになっては何とか踏みとどまり、また走り出す姿を見れば、何を叫んでいるのか聞こえなくても大体想像はついた。

 

やがて本当に、かすかな声が風に乗った。

 

「うおおお……広すぎだろこの学校ぉ……!」

 

日向が窓際で腹を抱えて笑った。

 

楓も呆れながら、それでも少し楽しそうに見ている。伊織は「予想より三分早く失速した」と時計を確認し、岳はいつの間にか何かを食べながら観戦していた。少し離れたところではスズメも、困ったような、それでいて柔らかな顔で奎星を見ている。

 

誰も知らない。

 

御影玄一郎が、その少年に抱いているものの中に、期待だけではなく恐れも混じっていることを。

 

強くなるなと思っているわけではない。

 

むしろ逆だった。

 

あれほどの才能を持つなら、奎星はこれから嫌でも強くなる。御影が何も教えなくても、いつか攻撃魔法を覚えるだろう。誰かを一撃で倒せる術を知り、今より遥かに強い魔法を使えるようになる。

 

だからこそ、その前に。

 

止める魔法を教える。

 

倒す方法より、守る方法を。

 

勝つ方法より、自分自身が戻ってこられる方法を。

 

スキルだけが先へ行き、心を置き去りにしないように。

 

一度、それを見たことがあるから。

 

一人の才能が、本人よりも早く前へ進んでいくのを。

 

そして。

 

その先で。

 

帰ってこなくなるのを。

 

奎星自身は、そんなことを何も知らなかった。

 

今の彼にあるのは、楓に二度目の敗北を喫した悔しさと、信じられないほど広い校庭への怒りだけだった。

 

「くそー!! 次は絶対勝つからなー!!」

 

今度ははっきりと声が届いた。

 

日向がさらに笑う。

 

「まだ言ってる!」

 

楓が窓を開け、遠くへ向かって叫び返した。

 

「まず一周走り切りなさいよ!」

 

「うるせええええ!!」

 

訓練場に笑い声が広がった。

 

御影も真壁も笑わなかった。

 

ただ一人、かつて三人で戦っていた男だけが、隣に立つ親友の横顔を見ていた。

 

十二年前と同じ失敗だけは、二度と繰り返すまいとしているその顔を。

 

そして御影は、何も言わずに奎星を見続けていた。

 

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