夏休みのマホウトコロに、妙な日課ができた。
朝は訓練場へ行き、昼まで御影にしごかれる。昼食を挟んだら午後も訓練し、その途中か終わったあとに全員で魔法生物飼育棟へ寄って鬼火鳥の様子を見る。夜になる頃には誰もが疲れ切っているはずなのに、次の日の朝になればまた同じように訓練場へ集まり、鬼火鳥の鳴き声を聞けば誰かしらが飼育棟へ顔を出した。
そんな日が、数日続いた。
「ステューピファイ!」
奎星の放った赤い光を自律人形が横へ避ける。その逃げ道へ楓の拘束縄が伸び、人形が反対方向へ跳んだ瞬間、今度は奎星が待っていた。
「デパルソ!」
空気が弾け、人形の身体が横へ押される。転倒させるほど強くはない。ただ、もう一体の人形との距離を強引に離すだけの威力だった。
そこへ日向が飛び込む。
「エクスペリアームス!」
一本目の杖が飛ぶ。
しかし二体目が日向の側面へ向けてステューピファイを放った。
「日向、右!」
楓の声に日向が気づくより早く、伊織が後方から盾を張る。
「プロテゴ」
赤い光が弾けた。
「助かった!」
「あとで一回十円ね」
「金取んの!?」
「集中!」
楓の怒声が飛ぶ。
岳は少し離れた位置に立ち、中央に置かれた青い布を守っていた。
この日の訓練では、その布を鬼火鳥に見立てている。御影から与えられた条件は単純で、八体の人形から十分間それを守り切ること。ただし全員で布の周囲を固めるのは禁止、敵を倒すことだけに集中するのも禁止だった。
岳が護衛。
奎星と楓が前衛。
日向が遊撃。
伊織が後方から全体を見る。
最初から決めたわけではない。
何度も負けているうちに、自然とそうなった。
「岩戸!」
御影の声が飛ぶ。
岳は後ろを見ない。
一体の人形が奎星たちの間を抜け、真っ直ぐ青い布へ向かってくる。
「分かってる」
杖先を見る。
気絶呪文。
岳は正面から盾で受けようとせず、半歩だけ横へ動いて軌道を外した。
「インカーセラス」
太い縄が人形の両脚へ絡まり、そのまま転倒させる。
奎星が振り向いた。
「岳ナイス!」
「前見ろ」
「え?」
人形のエクスペリアームスが奎星へ飛んだ。
「うおっ!」
ぎりぎりで神代榊を引き戻す。
日向が笑った。
「ダッサ!」
次の瞬間、日向の背後に人形が立つ。
伊織が言う。
「日向、後ろ」
「え?」
今度は日向の杖が飛んだ。
「お前早く言えよ!」
「十分早かったよ」
「もっと早く!」
「未来予知を要求しないで」
訓練場の端で御影が腕を組んでいた。
「朝比奈、敵を倒したあとに気を抜くな。蓮根もだ」
「はい!」
奎星と日向が同時に答える。
「水無瀬、蓮根の動きに合わせすぎるな。あいつが間違えたとき一緒に崩れる」
楓が少し嫌そうな顔をした。
「……はい」
「榊は声を出せ。お前だけ分かっていても意味がない。岩戸は今のでいい」
伊織が頷く横で、岳だけが少し誇らしそうだった。
訓練開始から四日。
まだ完成には程遠い。
それでも、初日に比べれば五人の動きは明らかに変わっていた。
特に奎星と楓は、互いに何をするかをいちいち確認することが減った。奎星が敵を押し出せば楓が逃げ道を潰し、楓が盾を張れば奎星がその横から撃つ。逆に日向は考えるより先に前へ出る性格をそのまま生かし、伊織が少し離れたところから危険な部分だけを補う。岳は派手に敵を倒すことより、守る対象の周囲から決して離れないことを覚えていった。
十分後。
最後の人形がステューピファイを受けて崩れる。
御影が時計を見る。
「九分四十七秒」
奎星が膝へ手をついた。
「あと十三秒!」
「昨日は八分二秒だった」
日向がその場へ倒れ込む。
「進歩してる……!」
楓も息を切らしながら青い布を見る。
一度も奪われていない。
伊織が眼鏡を直した。
「今日は日向が三回死んだけどね」
「死んでねえよ!」
「本番なら三回死んでる動きだった」
「縁起でもねえ!」
岳が布を拾う。
「明日は二回にしろ」
「減らす前提!?」
御影は五人を眺めたあと、短く言った。
「休憩。午後はもう一度やる」
五人全員の顔が引きつった。
「また!?」
「何のために来てる」
「鬼火鳥を守るためです!」
奎星だけは返事が速かった。
御影が見る。
「なら動け」
「はい!」
言ってから、奎星は日向の隣へ倒れた。
「五分だけ……」
「お前も死んでんじゃん」
「訓練だからいいんだよ……」
*
鬼火鳥は、そのあいだにも目に見えて元気になっていた。
最初の頃は止まり木へ立っているだけでも辛そうだったのに、五日目になると診療室の中を短い距離なら飛べるまでに回復し、翼を広げるたび周囲にまとった青白い炎も以前よりずっと鮮やかになった。
ただし。
一つだけ。
あまりにも分かりやすい変化があった。
「岳来たぞ」
鷹司が言った。
次の瞬間。
「キィ!」
鬼火鳥が鳴く。
奎星が振り返った。
「まだ岳見えてねえじゃん!」
廊下の向こうから大きな足音が近づく。
「キィ! キィ!」
鳥は止まり木の上で落ち着きをなくし、入口ばかり見ている。
岳が現れる。
「来た」
「キィィ!」
明らかに声が変わった。
日向が不満そうに鳥を見る。
「俺が来たとき鳴かなかったじゃん」
楓も少しだけむっとしている。
「私も」
岳は気にせず餌皿を持つ。
すると鬼火鳥は完全に岳だけを見た。
「キィ」
「腹減ったか」
「キィ」
「はい」
餌を差し出す。
食べる。
「会話してね?」
奎星が言う。
伊織が頷く。
「してるね」
日向が岳の横へ行った。
「俺にもやらせて」
「急に出すな。手の甲見せてから」
「もう覚えたって」
日向が慎重に餌を持つ。
鬼火鳥は一度見る。
食べない。
「……岳」
「何」
「お前から渡して」
「意味ないだろ」
楓が横から笑っている。
「嫌われてるんじゃない?」
「昨日撫でさせてくれたし!」
「三秒だけね」
「三秒も!」
すっかり。
二人とも。
デレデレだった。
日向が鬼火鳥を眺めながら、突然言った。
「名前つけようぜ」
楓が即座に振り向く。
「駄目」
「何で!?」
「野生に返すんだから。名前なんかつけたら余計離れづらくなるでしょ」
「でも毎回鬼火鳥って呼ぶの長くね?」
「鬼火鳥でいいじゃない」
「じゃ『オニ』」
「雑すぎる!」
「『ホタル』」
「鳥でしょうが!」
「『焼き鳥』」
岳が日向を見た。
ものすごく冷たい目だった。
日向が一歩下がる。
「冗談だよ」
「次言ったら殴る」
「岳が怒った!」
奎星は腹を抱えて笑った。
「天ぷらにしようぜ」
全員が奎星を見る。
「二匹目!?」
「じゃ天ぷら二号」
「絶対駄目!」
楓に怒られた。
その騒ぎの少し外側で、伊織だけはいつも冷静だった。
「名前はつけないほうがいいと思うよ。楓の言う通り、野生へ戻すなら人間に慣らしすぎるのもよくないし」
「伊織だけまとも!」
楓が喜ぶ。
日向が納得いかない顔をする。
「お前、可愛いと思わねえの?」
「思うけど」
「撫でたい?」
「別に」
「絶対嘘」
「僕は理性的だから」
その日の夕方。
奎星は訓練場に忘れたタオルを取りに戻った帰り、飼育棟の前を通った。
扉が少し開いている。
中に誰かいる。
岳かと思って覗いた。
「…………」
伊織だった。
誰もいないと思っているらしい。
鬼火鳥の前に立ち。
ゆっくり。
頭を撫でている。
しかも。
「……かわいいね」
かなり優しい声だった。
奎星は無言で扉の陰へ戻った。
一秒。
二秒。
もう一度覗く。
伊織はまだ撫でている。
「…………ぷっ」
笑いが漏れた。
伊織の動きが止まる。
ゆっくり振り返る。
奎星と目が合った。
「…………」
「…………」
奎星がにやにやする。
「理性的?」
伊織は眼鏡を押し上げた。
「いつからいたの?」
「『かわいいね』の前」
「全部じゃん」
「日向に言お」
「蓮根」
「急に名字!?」
「言ったら君が朝寝てる間に顔に落書きする」
「それは嫌だ!」
秘密になった。
少なくとも、その日のうちは。
*
奎星と鬼火鳥の関係だけは、他の四人とは少し違っていた。
岳には懐く。
日向と楓には少しずつ慣れる。
伊織には秘密で撫でられる。
奎星の場合。
近づくだけで。
二つの光が灯る。
六日目。
奎星が飼育棟へ入った瞬間、鬼火鳥の翼を包んでいた青白い炎が一段強くなり、ほとんど同時に奎星の腰へ差した神代榊も淡い光を放った。
「まただ」
奎星が杖を抜く。
鬼火鳥が首を上げる。
杖の握り手に彫られた炎の模様が青白く輝き、それに呼応するように鬼火鳥の長い尾羽にも光が走った。
鷹司は腕を組んで眺める。
「前より強いな」
「だよな?」
「鳥の魔力が戻ってるからだろう。同じ芯材との共鳴が強くなってる可能性はある」
奎星が神代榊を鬼火鳥へ近づける。
炎が少し強くなる。
離す。
弱まる。
日向が横から覗き込んだ。
「なんかお前らだけイベント起きててズルくね?」
「俺の杖だからな」
「俺の杖も光らねえかな」
楓が呆れる。
「あんたの杖、鬼火鳥関係ないでしょう」
「気合で」
「杖に気合を要求しないで」
奎星は笑いながらも、光る神代榊を何度も眺めていた。
鬼火鳥が元気になるほど。
杖も。
強く反応する。
それは分かる。
ただ。
何のための反応なのか。
そこだけが。
まだ分からなかった。
*
同じ頃。
魔法省では。
森から回収された足枷と、海上で破壊された黒曜の鳥の欠片が解析に回されていた。
数日後、真壁征士郎は分厚い封筒を片手にマホウトコロを訪れ、御影を人気のない会議室へ呼び出した。
机の上には、黒曜石の欠片と、鬼火鳥の脚についていた黒い足枷が置かれている。
どちらも透明な結界箱の中。
直接触れないよう厳重に封じられていた。
「結果が出た」
真壁が書類を開く。
御影は立ったまま読んだ。
「まず黒曜の鳥だが、久我の事件で回収した黒曜石とは加工法が違う」
御影の目が僅かに細くなる。
「違う?」
「ああ。久我のものは、黒曜石そのものに古代魔術を記録し、内部へ蓄積させる作りだった。今回の鳥は違う。石の一つ一つには単純な命令式しか入っていない。それを複数組み合わせ、一つの術式として動かしている」
「術者は別にいるということか」
「おそらくな。鳥そのものは道具だ。追跡、攻撃、帰還。その三つを遠隔で実行するための」
真壁は別の紙を出した。
「つまり、一つだけ確かなことがある」
御影が見る。
「今回の黒曜石は、久我が作ったものじゃない」
部屋が静かになった。
一学期。
久我朔弥は黒曜石を使った。
訓練場へ仕込み、魔力を増幅させ、第零書庫では古代魔術そのものを記録して自分の身体へ流し込んだ。
魔法省は。
ずっと。
久我から始まった技術だと考えていた。
あるいは。
久我が独自に発見したものだと。
しかし。
違う。
「もっと前から」
真壁が言う。
「この加工方法を知っていた人間がいる」
御影は何も答えなかった。
真壁は今度、足枷のほうへ視線を向ける。
「それから、こっちだ」
結界箱の中。
黒い輪。
見た目だけなら何の変哲もない拘束具だが、魔力を通すと表面へ細い術式が浮かび上がる。
真壁が杖を一度振った。
白い光が足枷へ触れる。
すると。
黒い金属の上へ。
幾何学的な線が走った。
細い。
複雑な。
何重にも折れ曲がる術式。
御影の目が。
止まった。
ほんの一瞬。
真壁は。
それを見ていた。
「見覚えがあるのか」
御影はすぐ目を離した。
「……ない」
真壁が御影を見る。
「玄一郎」
「ないと言っている」
「なら、なぜ今――」
「征士郎」
御影の声が低くなる。
それ以上。
訊くな。
そういう声だった。
真壁は黙った。
二十年以上の付き合いだった。
御影が嘘をつくのが上手くないことも知っている。
そして。
無理に口を割らせようとしても。
絶対に話さないことも。
知っている。
真壁は足枷へ視線を戻す。
「分かった。今は聞かない」
御影は答えなかった。
しかし。
結界箱の中に浮かぶ術式から。
視線だけは。
離れなかった。
*
七日目。
訓練場。
「右二!」
伊織の声。
奎星と楓が同時に動いた。
奎星は一体目の人形へステューピファイを撃つ。盾を出された瞬間に追撃をやめ、楓へ視線を送ることさえなく横へ走った。
「インカーセラス!」
楓の拘束縄が二体目を止める。
一体目が楓を狙う。
そこへ奎星。
「デパルソ!」
押し出す。
空いた場所へ日向が突っ込む。
「エクスペリアームス!」
人形の杖が飛んだ。
反対側から三体目が日向へ向く。
「日向、そのまま!」
伊織が叫ぶ。
「プロテゴ!」
日向は振り返らない。
伊織の盾を信じて、そのまま前の敵を追う。
岳は後方。
今日の「鬼火鳥役」である青い布を守りながら、近づく人形だけを拘束していた。
「奎星、戻って!」
楓の声。
奎星が即座に引く。
「分かった!」
「ステューピファイ!」
二人の呪文が。
ほぼ同時に。
別々の標的へ命中する。
人形が倒れた。
最後の一体。
岳の前。
「俺がやる」
岳が杖を向ける。
「インカーセラス」
拘束。
終了。
御影が時計を見る。
「十分」
誰も。
すぐには声を出さなかった。
昨日までなら。
途中で一度は布を取られていた。
今日は。
一度も。
敵を近づけていない。
日向が先に笑った。
「いけた!」
楓も息を吐く。
「やっとね」
奎星が岳のところへ走る。
「布無事?」
岳が青い布を持ち上げる。
「無傷」
「鬼火鳥生還!」
「布だけどな」
伊織が言った。
奎星は構わず拳を上げる。
「よっしゃ!」
日向も拳を上げる。
岳まで少しだけ笑った。
御影はそんな五人を眺め、僅かに頷いた。
「明日から条件を上げる」
「ええ!?」
喜びは十秒で終わった。
*
その夜。
奎星は眠れなかった。
正確には。
一度眠った。
だが。
夜中に目が覚めた。
正式入寮前なのに何日も泊まっている四人部屋では、日向が布団を蹴り飛ばして寝ており、岳は微動だにせず、伊織だけが眼鏡を外すと意外に普通の寝顔をしている。
窓の向こう。
月が明るい。
奎星はしばらく天井を見ていた。
それから。
身体を起こした。
理由は。
特にない。
喉が渇いた。
少し暑い。
そういうことにして。
部屋を出た。
廊下を歩き。
階段を降り。
気づけば。
魔法生物飼育棟へ向かっていた。
「……何してんだ俺」
言いながら。
戻らない。
飼育棟は夜になると静かだった。
昼間は様々な魔法生物の声が聞こえる場所も、今はほとんど眠っている。小さな灯りだけが廊下を照らし、開けた窓から夏の夜風が入ってくる。
鬼火鳥の診療室。
扉を開ける。
青白い光が。
暗い部屋の中で。
静かに揺れていた。
鬼火鳥は起きていた。
大きな止まり木の上。
奎星を見る。
「起きてんじゃん」
小さく扉を閉める。
「俺もなんか起きた」
鬼火鳥は何も言わない。
奎星は止まり木の前にある椅子を引っ張り、逆向きに座って背もたれへ腕を置いた。
「元気になったな」
鬼火鳥が一度。
小さく鳴いた。
「最初やばかったもんな。岳なんかあの日からずっとお前のことしか見てねえし」
また。
鳴く。
「日向と楓もだいぶキモいぞ。知ってる?」
鬼火鳥は首を傾げた。
「伊織なんか隠れて撫でてるからな。あいつ絶対他のやつには言うなって言うと思う」
言ってから。
少し笑う。
夜中。
鳥に何を話しているのか。
自分でも分からない。
ただ。
黙っているより。
話したかった。
奎星は神代榊を取り出した。
すぐに。
青白い光。
以前より。
ずっと強い。
鬼火鳥の炎も。
同じように明るくなる。
「お前さ」
奎星は杖を眺めながら言った。
「治ったら帰るんだよな」
鬼火鳥が。
奎星を見る。
「岳、絶対寂しがるぞ」
少し考える。
「日向も楓も。伊織も多分」
そして。
自分も。
とは。
言わなかった。
代わりに。
神代榊の杖先を。
鬼火鳥へ少し近づける。
「でも」
奎星は笑った。
「お前も帰りてえよな」
鬼火鳥が。
ゆっくり。
首を伸ばした。
嘴が。
神代榊へ近づく。
一度。
こつ。
杖先へ触れた。
その瞬間だった。
光が。
強くなった。
「うわっ」
奎星が目を細める。
青白い光が。
部屋の壁まで照らす。
そして。
神代榊が。
動いた。
奎星は何もしていない。
右手の中で。
杖そのものが。
ゆっくり。
横へ。
向きを変える。
「……え?」
握り直す。
また。
動く。
今度は。
はっきりと。
引っ張られるように。
一方向へ。
奎星が立ち上がる。
「何だ?」
腕を下ろす。
もう一度。
自由にする。
神代榊は。
同じ方角へ。
向く。
鬼火鳥が。
低く鳴いた。
奎星は杖を見る。
次に。
窓の向こうを見る。
夜の海。
その先。
もっと遠く。
見えない場所。
「……あっち?」
鬼火鳥が。
もう一度。
鳴いた。
奎星の表情が変わる。
今まで。
ずっと。
勘違いしていた。
この杖は。
鬼火鳥に反応している。
それだけだと思っていた。
けれど。
違う。
何かを。
示している。
「まさか」
奎星は窓の前まで行く。
神代榊を水平にする。
右。
光が少し弱い。
左。
弱い。
さっきの方向。
強くなる。
「……お前の仲間?」
鬼火鳥が翼を少し開いた。
青白い炎が。
ふわりと揺れる。
奎星の胸が高鳴った。
「マジかよ」
そのとき。
後ろから声がした。
「何をしているのですか」
「うわっ!」
奎星が振り返る。
入口。
スズメが立っていた。
薄い寝間着の上から濃紺の羽織を肩へ掛けている。黒髪はいつものように整っておらず、片側だけ少し跳ねていた。
奎星が目を丸くする。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
声が。
少し眠そうだった。
奎星が思わず笑う。
「寝起き?」
「あなたのほうこそ、こんな時間に何をしているのです?」
「こいつに相談してた」
スズメが鬼火鳥を見る。
「……相談?」
「うん」
「返事をするのですか?」
「しない」
「では相談になっていないのでは?」
「聞いてくれるからいいんだよ」
奎星は神代榊を持ち上げた。
「それより見て」
スズメが近づく。
奎星は杖を自由に持つ。
神代榊が。
ゆっくり。
動く。
同じ方向。
スズメの眠気が。
一瞬で消えた。
「もう一度」
奎星が向きを変える。
戻る。
また。
同じ方向へ。
鬼火鳥が嘴を杖へ寄せると。
青白い光が強くなる。
「これさ」
奎星が窓の向こうを見る。
「ただこいつに反応してるんじゃないと思う」
スズメも窓を見る。
「方角を……示している?」
「たぶん」
「何の?」
奎星は鬼火鳥を見た。
「仲間」
しばらく。
二人とも。
何も言わなかった。
夜の飼育棟。
窓の外から。
波の音が。
小さく聞こえている。
スズメは奎星の杖へ手を伸ばしかけ。
触れずに止めた。
「空木さんの話」
「うん」
「鬼火鳥は霊脈を辿り、神代榊のある場所へ向かう」
「うん」
「もし、この杖に使われている神代榊と尾羽が、その経路に反応しているのなら……」
奎星が笑う。
「帰れるじゃん」
スズメはすぐには答えなかった。
「まだ断定はできません」
「分かってる」
「方向だけでは距離も分かりませんし、その先に群れがいるという保証もありません」
「それも分かってる」
「途中で黒曜の狩人に見つかる可能性もあります」
「うん」
そこまで言われても。
奎星の笑顔は。
消えなかった。
「でも」
神代榊を見る。
「初めて分かった」
スズメが見る。
「あっちに何かある」
奎星の声は。
静かだった。
いつものように。
今すぐ行こうとも。
明日行こうとも。
言わなかった。
少し前までなら。
確実に言っていた。
スズメは。
それに気づいた。
「明日」
彼女のほうから言う。
奎星が見る。
「鷹司先生と御影先生に報告しましょう。方角を記録して、既存の霊脈図とも照合します」
奎星の顔が明るくなる。
「おう!」
「ただし、勝手に出発してはいけませんよ」
「しないよ」
「本当に?」
「俺もう結構成長したぞ」
「今日も訓練中に朝比奈君と競争して怒られていましたが」
「それはそれ」
「成長とは」
スズメがため息をつく。
奎星は笑った。
鬼火鳥も。
小さく。
鳴いた。
奎星が振り返る。
「聞いた? 帰れるかもだって」
「そう決まったわけではありません」
「スズメちゃん空気読んで」
「事実です」
「お前もこの先生真面目すぎると思うだろ?」
鬼火鳥へ訊く。
「キィ」
奎星が笑う。
「ほら」
「何がです?」
「真面目すぎるって」
「都合よく翻訳しないでください」
夜中の飼育棟に。
小さな笑い声が響いた。
*
翌朝。
マホウトコロの地図の上に。
一本の線が引かれた。
奎星の神代榊が指した方向。
南西。
海の向こう。
正確な距離は。
まだ分からない。
その先に鬼火鳥の群れがいるのか。
神代榊があるのか。
あるいは。
もっと別の何かがあるのか。
誰にも分からなかった。
ただ。
一つだけ。
変わった。
昨日まで。
奎星たちは。
傷ついた鬼火鳥を。
守っていた。
今日からは。
違う。
帰す場所を。
探せるかもしれない。
岳が鬼火鳥へ餌をやる。
日向と楓が、その横でどちらが先に撫でるか揉めている。
伊織は少し離れて呆れた顔をしている。
奎星は。
青白く光る神代榊を握っていた。
そして。
その少し離れた場所では。
御影玄一郎が。
真壁から渡された足枷の術式写しを。
誰にも見られないよう。
一人で見つめていた。
杖が示した先に。
何が待っているのか。
まだ。
誰も知らない。
ただ一人。
御影だけは。
別の何かを。
既に知っているようだった。