マホウトコロ   作:西野圭吾

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第9話 帰る方角

 

夏休みのマホウトコロには、いつの間にか妙な日課ができていた。

 

朝は訓練場へ集まり、昼まで御影にしごかれる。昼食を挟んだあとは午後の訓練へ戻り、その途中か終わりに全員で魔法生物飼育棟へ寄って、鬼火鳥の様子を確認する。夜になる頃には誰もが疲れ切っているはずなのに、翌朝になればまた同じように訓練場へ集まり、飼育棟から鳴き声が聞こえれば、誰かしらが様子を見に向かった。

 

そんな日が、もう数日続いていた。

 

「ステューピファイ!」

 

奎星の杖から放たれた赤い光を、自律人形が横へ跳んでかわす。だが、その逃げ道には楓の拘束縄が伸びていた。人形は反対方向へ跳ねる。

 

「インカーセラス!」

 

楓の呪文が空を裂く。

 

人形がさらに身を翻した瞬間、奎星が待ち構えていた。

 

「デパルソ!」

 

空気が弾け、人形の身体が横へ押し流される。転倒させるほどの威力ではない。ただ、もう一体の人形から距離を引き離すための、正確な一撃だった。

 

そこへ日向が飛び込む。

 

「エクスペリアームス!」

 

人形の杖が弾き飛ばされた。

 

しかし、もう一体の人形が日向の側面へ杖を向ける。

 

「日向、右!」

 

楓の声に日向が反応するより早く、後方から伊織の盾が展開した。

 

「プロテゴ!」

 

赤い光が弾け、気絶呪文を受け止める。

 

「助かった!」

 

「あとで一回十円ね」

 

「金取んの!?」

 

「集中!」

 

楓の怒声が訓練場に響いた。

 

その少し後ろでは、岳が中央に置かれた青い布を守っていた。

 

この日の訓練では、その布を鬼火鳥に見立てている。御影から与えられた条件は単純だった。八体の人形から十分間、布を守り切ること。ただし、全員で布の周囲を固めるのは禁止。敵を倒すことだけに集中するのも禁止だった。

 

岳が護衛。

 

奎星と楓が前衛。

 

日向が遊撃。

 

伊織が後方から全体を見渡す。

 

最初から決めていたわけではない。何度も失敗し、何度も布を奪われるうちに、自然とそういう役割へ落ち着いていった。

 

「岩戸!」

 

御影の声が飛ぶ。

 

岳は振り返らなかった。

 

奎星たちの間を抜けた一体の人形が、真っ直ぐ青い布へ向かってくる。岳は杖先を見つめ、気絶呪文を正面から受けるのではなく、半歩だけ横へ動いて軌道を外した。

 

「インカーセラス!」

 

太い縄が人形の両脚へ絡みつき、そのまま地面へ引き倒す。

 

奎星が振り向いた。

 

「岳、ナイス!」

 

「前見ろ」

 

「え?」

 

奎星の背後から、別の人形が杖を向けていた。

 

「エクスペリアームス!」

 

「うおっ!」

 

奎星はぎりぎりで神代榊を引き戻し、飛んできた呪文をかわした。

 

日向が笑う。

 

「ダッサ!」

 

その直後、日向の背後に人形が立った。

 

伊織が淡々と告げる。

 

「日向、後ろ」

 

「え?」

 

今度は日向の杖が飛んだ。

 

「お前、早く言えよ!」

 

「十分早かったよ」

 

「もっと早く!」

 

「未来予知を要求しないで」

 

訓練場の端で腕を組んでいた御影が、低い声で言った。

 

「朝比奈、敵を倒したあとに気を抜くな。蓮根もだ」

 

「はい!」

 

奎星と日向が同時に返事をする。

 

「水無瀬、蓮根の動きに合わせすぎるな。あいつが間違えたとき、一緒に崩れる」

 

楓が少し嫌そうに顔をしかめた。

 

「……はい」

 

「榊は声を出せ。お前だけ分かっていても意味がない。岩戸は今のでいい」

 

伊織が頷く横で、岳だけが少し誇らしそうに胸を張った。

 

訓練を始めて四日。

 

まだ完成には程遠い。それでも、初日に比べれば五人の動きは明らかに変わっていた。

 

特に奎星と楓は、互いに何をするのかをいちいち確認しなくなっていた。奎星が敵を押し出せば楓が逃げ道を塞ぎ、楓が盾を張れば奎星がその横から呪文を撃つ。

 

日向は考えるより先に前へ出る性格を、そのまま遊撃として生かしていた。伊織は少し離れた場所から全体を見渡し、危険な部分だけを補う。岳は派手に敵を倒すことよりも、守る対象の周囲から決して離れないことを覚えつつあった。

 

十分後。

 

最後の人形がステューピファイを受けて崩れ落ちる。

 

御影が時計を確認した。

 

「九分四十七秒」

 

奎星が膝へ手をつく。

 

「あと十三秒!」

 

「昨日は八分二秒だった」

 

日向がその場へ倒れ込んだ。

 

「進歩してる……!」

 

楓も息を切らしながら、青い布へ目を向ける。

 

一度も奪われていない。

 

伊織が眼鏡を直した。

 

「今日は日向が三回死んだけどね」

 

「死んでねえよ!」

 

「本番なら三回死んでる動きだった」

 

「縁起でもねえ!」

 

岳が青い布を拾い上げる。

 

「明日は二回にしろ」

 

「減らす前提!?」

 

御影は五人を見渡した。

 

「休憩。午後はもう一度やる」

 

五人全員の顔が引きつった。

 

「また!?」

 

「何のために来ている」

 

「鬼火鳥を守るためです!」

 

奎星だけは反射的に答えた。

 

御影が見る。

 

「なら動け」

 

「はい!」

 

威勢よく返事をした直後、奎星は日向の隣へ倒れ込んだ。

 

「五分だけ……」

 

「お前も死んでんじゃん」

 

「訓練だからいいんだよ……」

 

 

鬼火鳥は、そのあいだにも目に見えて元気になっていた。

 

最初の頃は止まり木へ立っているだけでも辛そうだったのに、五日目になると診療室の中を短い距離なら飛べるまでに回復していた。翼を広げるたび、身体を包む青白い炎も以前よりずっと鮮やかになっている。

 

ただし、一つだけ、あまりにも分かりやすい変化があった。

 

「岳、来たぞ」

 

鷹司が言った。

 

次の瞬間、鬼火鳥が鳴いた。

 

「キィ!」

 

奎星が振り返る。

 

「まだ岳、見えてねえじゃん!」

 

廊下の向こうから、大きな足音が近づいてくる。

 

「キィ! キィ!」

 

鬼火鳥は止まり木の上で落ち着きをなくし、入口ばかりを見つめていた。

 

やがて岳が姿を現す。

 

「来た」

 

「キィィ!」

 

明らかに声の調子が変わった。

 

日向が不満そうに鬼火鳥を見る。

 

「俺が来たとき、鳴かなかったじゃん」

 

楓も少しだけむっとしている。

 

「私も」

 

岳は二人の反応を気にする様子もなく、餌皿を持って鬼火鳥の前へ進んだ。

 

すると鬼火鳥は、完全に岳だけを見た。

 

「キィ」

 

「腹減ったか」

 

「キィ」

 

「はい」

 

岳が餌を差し出すと、鬼火鳥は素直に食べ始めた。

 

奎星が目を丸くする。

 

「会話してね?」

 

伊織が頷いた。

 

「してるね」

 

日向が岳の横へ歩み寄る。

 

「俺にもやらせて」

 

「急に出すな。手の甲を見せてから」

 

「もう覚えたって」

 

日向が慎重に餌を持つ。

 

鬼火鳥は一度だけ日向の手を見た。

 

それから、食べずに岳へ視線を戻した。

 

「……岳」

 

「何」

 

「お前から渡して」

 

「意味ないだろ」

 

楓が横から笑う。

 

「嫌われてるんじゃない?」

 

「昨日、撫でさせてくれたし!」

 

「三秒だけね」

 

「三秒も!」

 

すっかり二人とも、鬼火鳥に夢中だった。

 

日向が鬼火鳥を眺めながら、ふと思いついたように言う。

 

「名前つけようぜ」

 

楓が即座に振り向いた。

 

「駄目」

 

「何で!?」

 

「野生に返すんだから。名前なんかつけたら、余計に離れづらくなるでしょ」

 

「でも毎回『鬼火鳥』って呼ぶの、長くね?」

 

「鬼火鳥でいいじゃない」

 

「じゃあ『オニ』」

 

「雑すぎる!」

 

「『ホタル』」

 

「鳥でしょうが!」

 

「『焼き鳥』」

 

岳が日向を見た。

 

ものすごく冷たい目だった。

 

日向が一歩下がる。

 

「冗談だよ」

 

「次言ったら殴る」

 

「岳が怒った!」

 

奎星は腹を抱えて笑った。

 

「じゃあ天ぷらにしようぜ」

 

全員が奎星を見る。

 

「二匹目!?」

 

「天ぷら二号」

 

「絶対駄目!」

 

楓に怒鳴られ、奎星は肩をすくめた。

 

その騒ぎから少し離れた場所で、伊織だけはいつも通り冷静な顔をしていた。

 

「名前はつけないほうがいいと思うよ。楓の言う通り、野生へ戻すなら人間に慣らしすぎるのもよくないし」

 

「伊織だけまとも!」

 

楓が嬉しそうに言う。

 

日向は納得いかない顔をした。

 

「お前、可愛いと思わねえの?」

 

「思うけど」

 

「撫でたい?」

 

「別に」

 

「絶対嘘」

 

「僕は理性的だから」

 

その日の夕方。

 

奎星は訓練場に忘れたタオルを取りに戻った帰り、飼育棟の前を通りかかった。

 

扉が少しだけ開いている。

 

中に誰かいるらしい。

 

岳かと思って覗き込んだ奎星は、すぐに声を失った。

 

伊織だった。

 

誰もいないと思っているらしく、鬼火鳥の前に立って、ゆっくりと頭を撫でている。

 

しかも。

 

「……かわいいね」

 

かなり優しい声だった。

 

奎星は無言で扉の陰へ戻った。

 

一秒。

 

二秒。

 

それから、もう一度だけ覗く。

 

伊織はまだ撫でていた。

 

「…………ぷっ」

 

笑いが漏れる。

 

伊織の手が止まった。

 

ゆっくり振り返り、奎星と目が合う。

 

「…………」

 

「…………」

 

奎星がにやにやする。

 

「理性的?」

 

伊織は眼鏡を押し上げた。

 

「いつからいたの?」

 

「『かわいいね』の前」

 

「全部じゃん」

 

「日向に言お」

 

「蓮根」

 

「急に名字!?」

 

「言ったら、君が朝寝ている間に顔へ落書きする」

 

「それは嫌だ!」

 

その日、伊織が鬼火鳥を撫でていたことは、二人だけの秘密になった。

 

少なくとも、その日のうちは。

 

 

奎星と鬼火鳥の関係だけは、他の四人とは少し違っていた。

 

岳には懐く。

 

日向と楓には少しずつ慣れていく。

 

伊織には秘密で撫でられる。

 

そして奎星の場合は、近づくだけで二つの光が灯った。

 

六日目。

 

奎星が飼育棟へ入った瞬間、鬼火鳥の翼を包んでいた青白い炎が一段強くなった。ほとんど同時に、奎星の腰へ差した神代榊も淡い光を放つ。

 

「まただ」

 

奎星が杖を抜く。

 

鬼火鳥が首を上げた。

 

杖の握り手に彫られた炎の模様が青白く輝き、それに呼応するように、鬼火鳥の長い尾羽にも光が走る。

 

鷹司は腕を組んで眺めていた。

 

「前より強いな」

 

「だよな?」

 

「鳥の魔力が戻っているからだろう。同じ芯材との共鳴が強くなっている可能性はある」

 

奎星が神代榊を鬼火鳥へ近づける。

 

炎が少し強くなる。

 

離す。

 

弱まる。

 

日向が横から覗き込んだ。

 

「なんか、お前らだけイベント起きててズルくね?」

 

「俺の杖だからな」

 

「俺の杖も光らねえかな」

 

楓が呆れた顔をする。

 

「あんたの杖、鬼火鳥とは関係ないでしょう」

 

「気合で」

 

「杖に気合を要求しないで」

 

奎星は笑いながらも、光る神代榊を何度も眺めていた。

 

鬼火鳥が元気になるほど、杖の反応も強くなる。

 

それは分かる。

 

ただ、何のために反応しているのかだけが、まだ分からなかった。

 

 

同じ頃、魔法省では森から回収された足枷と、海上で破壊された黒曜の鳥の欠片が解析に回されていた。

 

数日後。

 

真壁征士郎は分厚い封筒を片手にマホウトコロを訪れ、御影を人気のない会議室へ呼び出した。

 

机の上には、黒曜石の欠片と、鬼火鳥の脚についていた黒い足枷が置かれている。どちらも透明な結界箱の中へ収められ、直接触れられないよう厳重に封じられていた。

 

「結果が出た」

 

真壁が書類を開く。

 

御影は立ったまま、紙面へ目を落とした。

 

「まず黒曜の鳥だが、久我の事件で回収した黒曜石とは加工法が違う」

 

御影の目が僅かに細くなる。

 

「違う?」

 

「ああ。久我のものは、黒曜石そのものに古代魔術を記録し、内部へ蓄積させる作りだった。今回の鳥は違う。石の一つ一つには単純な命令式しか入っていない。それを複数組み合わせ、一つの術式として動かしている」

 

「術者は別にいるということか」

 

「おそらくな。鳥そのものは道具だ。追跡、攻撃、帰還。その三つを遠隔で実行するための」

 

真壁は別の紙を取り出した。

 

「つまり、今回の黒曜石は久我が作ったものじゃない」

 

部屋が静かになった。

 

一学期、久我朔弥は黒曜石を訓練場へ仕込み、魔力を増幅させた。第零書庫では古代魔術そのものを黒曜石へ記録し、自分の身体へ流し込んだ。

 

魔法省は、ずっと久我から始まった技術だと考えていた。

 

あるいは、久我が独自に発見したものだと。

 

しかし、違う。

 

「もっと前から」

 

真壁が言った。

 

「この加工方法を知っていた人間がいる」

 

御影は何も答えなかった。

 

真壁は今度、足枷のほうへ視線を向ける。

 

「それから、こっちだ」

 

結界箱の中に浮かぶ黒い輪は、見た目だけなら何の変哲もない拘束具だった。だが、魔力を通すと表面へ細い術式が浮かび上がる。

 

真壁が杖を一度振る。

 

白い光が足枷へ触れた。

 

黒い金属の上を、幾何学的な線が走る。細く、複雑で、何重にも折れ曲がった術式だった。

 

御影の目が止まる。

 

ほんの一瞬。

 

真壁はそれを見逃さなかった。

 

「見覚えがあるのか」

 

御影はすぐに目を離した。

 

「……ない」

 

真壁が御影を見る。

 

「玄一郎」

 

「ないと言っている」

 

「なら、なぜ今――」

 

「征士郎」

 

御影の声が低くなる。

 

それ以上訊くな。

 

そう告げる声だった。

 

真壁は黙った。

 

二十年以上の付き合いだ。御影が嘘をつくのが上手くないことも、無理に口を割らせようとしても絶対に話さないことも知っている。

 

真壁は足枷へ視線を戻した。

 

「分かった。今は聞かない」

 

御影は答えなかった。

 

しかし、結界箱の中に浮かぶ術式からだけは、視線を離せずにいた。

 

 

七日目。

 

訓練場。

 

「右、二!」

 

伊織の声が飛ぶ。

 

奎星と楓が同時に動いた。

 

奎星は一体目の人形へステューピファイを撃つ。人形が盾を出した瞬間、追撃はせず、楓へ視線を送ることさえなく横へ走った。

 

「インカーセラス!」

 

楓の拘束縄が二体目を止める。

 

一体目が楓へ狙いを変えた。

 

そこへ奎星が割り込む。

 

「デパルソ!」

 

人形を押し出す。

 

空いた場所へ日向が突っ込んだ。

 

「エクスペリアームス!」

 

人形の杖が飛ぶ。

 

反対側から三体目が日向へ向いた。

 

「日向、そのまま!」

 

伊織が叫ぶ。

 

「プロテゴ!」

 

日向は振り返らなかった。

 

伊織の盾を信じ、そのまま前の敵を追う。

 

岳は後方で、今日の「鬼火鳥役」である青い布を守りながら、近づいてくる人形だけを拘束していた。

 

「奎星、戻って!」

 

楓の声に、奎星が即座に引く。

 

「分かった!」

 

「ステューピファイ!」

 

二人の呪文が、ほぼ同時に別々の標的へ命中した。

 

人形が倒れる。

 

最後の一体が岳の前へ回り込んだ。

 

「俺がやる」

 

岳が杖を向ける。

 

「インカーセラス」

 

縄が人形を拘束した。

 

訓練終了を告げる鐘が鳴る。

 

御影が時計を見る。

 

「十分」

 

誰も、すぐには声を出さなかった。

 

昨日までなら、途中で一度は布を奪われていた。今日は一度も敵を近づけていない。

 

日向が先に笑った。

 

「いけた!」

 

楓も息を吐く。

 

「やっとね」

 

奎星が岳のところへ走る。

 

「布、無事?」

 

岳が青い布を持ち上げた。

 

「無傷」

 

「鬼火鳥、生還!」

 

「布だけどな」

 

伊織が冷静に指摘する。

 

奎星は構わず拳を上げた。

 

「よっしゃ!」

 

日向も拳を上げ、岳まで少しだけ笑った。

 

御影はそんな五人を眺め、僅かに頷く。

 

「明日から条件を上げる」

 

「ええ!?」

 

喜びは十秒で終わった。

 

 

その夜。

 

奎星は眠れなかった。

 

正確には、一度眠った。だが、夜中に目が覚めた。

 

正式入寮前なのに何日も泊まっている四人部屋では、日向が布団を蹴り飛ばして眠っている。岳は微動だにせず、伊織は眼鏡を外すと意外なほど普通の寝顔をしていた。

 

窓の向こうでは、月が明るく輝いている。

 

奎星はしばらく天井を見つめていたが、やがて身体を起こした。

 

理由は特にない。

 

喉が渇いた。

 

少し暑い。

 

そういうことにして、部屋を出る。

 

廊下を歩き、階段を降り、気づけば魔法生物飼育棟へ向かっていた。

 

「……何してんだ、俺」

 

そう呟きながらも、足は戻らなかった。

 

夜の飼育棟は静かだった。

 

昼間は様々な魔法生物の声が聞こえる場所も、今はほとんど眠っている。小さな灯りだけが廊下を照らし、開けた窓から夏の夜風が入り込んでいた。

 

鬼火鳥の診療室。

 

扉を開ける。

 

青白い光が、暗い部屋の中で静かに揺れていた。

 

鬼火鳥は起きていた。

 

大きな止まり木の上で、奎星を見る。

 

「起きてんじゃん」

 

奎星は小さく扉を閉めた。

 

「俺もなんか起きた」

 

鬼火鳥は何も言わない。

 

奎星は止まり木の前にあった椅子を引っ張り、逆向きに座って背もたれへ腕を置いた。

 

「元気になったな」

 

鬼火鳥が一度、小さく鳴く。

 

「最初はやばかったもんな。岳なんか、あの日からずっとお前のことしか見てねえし」

 

また鳴く。

 

「日向と楓もだいぶキモいぞ。知ってる?」

 

鬼火鳥は首を傾げた。

 

「伊織なんか隠れて撫でてるからな。あいつ、絶対に他のやつには言うなって言うと思う」

 

言ってから、奎星は少し笑った。

 

夜中に、鳥へ何を話しているのか。

 

自分でも分からない。

 

ただ、黙っているより話していたかった。

 

奎星は神代榊を取り出した。

 

すぐに青白い光が灯る。

 

以前より、ずっと強い。

 

鬼火鳥の炎も同じように明るくなった。

 

「お前さ」

 

奎星は杖を眺めながら言った。

 

「治ったら帰るんだよな」

 

鬼火鳥が奎星を見る。

 

「岳、絶対寂しがるぞ。日向も楓も、伊織も多分」

 

そして、自分も。

 

そう言いかけたが、奎星は口にしなかった。

 

代わりに、神代榊の杖先を鬼火鳥へ少し近づける。

 

「でも、お前も帰りてえよな」

 

鬼火鳥がゆっくり首を伸ばした。

 

嘴が神代榊へ近づく。

 

一度。

 

こつ、と杖先へ触れた。

 

その瞬間、光が強くなった。

 

「うわっ」

 

奎星が目を細める。

 

青白い光が部屋の壁まで照らした。

 

そして、神代榊が動いた。

 

奎星は何もしていない。

 

右手の中で、杖そのものがゆっくり横へ向きを変えていく。

 

「……え?」

 

握り直す。

 

それでも、また動いた。

 

今度ははっきりと、何かに引っ張られるように一方向へ向いている。

 

奎星が立ち上がった。

 

「何だ?」

 

腕を下ろし、もう一度自由に持つ。

 

神代榊は、やはり同じ方角を指した。

 

鬼火鳥が低く鳴く。

 

奎星は杖を見つめ、それから窓の向こうへ目を向けた。

 

夜の海。

 

その先。

 

さらに遠く、まだ見えない場所。

 

「……あっち?」

 

鬼火鳥がもう一度鳴いた。

 

奎星の表情が変わる。

 

今までずっと、勘違いしていた。

 

この杖は鬼火鳥に反応している。

 

ただ、それだけだと思っていた。

 

けれど、違う。

 

何かを示している。

 

「まさか」

 

奎星は窓の前まで歩き、神代榊を水平に構えた。

 

右へ向ける。

 

光が少し弱くなる。

 

左へ向ける。

 

やはり弱い。

 

先ほどの方向へ戻す。

 

光が強くなる。

 

「……お前の仲間?」

 

鬼火鳥が翼を少し開いた。

 

青白い炎が、ふわりと揺れる。

 

奎星の胸が高鳴った。

 

「マジかよ」

 

そのとき、背後から声がした。

 

「何をしているのですか」

 

「うわっ!」

 

奎星が振り返る。

 

入口に、スズメが立っていた。

 

薄い寝間着の上から濃紺の羽織を肩へ掛けている。黒髪はいつものように整っておらず、片側だけが少し跳ねていた。

 

奎星が目を丸くする。

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生です」

 

声が少し眠そうだった。

 

奎星は思わず笑う。

 

「寝起き?」

 

「あなたのほうこそ、こんな時間に何をしているのです?」

 

「こいつに相談してた」

 

スズメが鬼火鳥を見る。

 

「……相談?」

 

「うん」

 

「返事をするのですか?」

 

「しない」

 

「では、相談になっていないのでは?」

 

「聞いてくれるからいいんだよ」

 

奎星は神代榊を持ち上げた。

 

「それより、見て」

 

スズメが近づく。

 

奎星は杖を自由に持った。

 

神代榊が、ゆっくりと動く。

 

同じ方向へ。

 

スズメの眠気が一瞬で消えた。

 

「もう一度」

 

奎星が向きを変える。

 

杖はしばらく揺れたあと、また同じ方角へ戻った。

 

鬼火鳥が嘴を杖へ寄せると、青白い光がさらに強くなる。

 

「これさ」

 

奎星が窓の向こうを見る。

 

「ただ、こいつに反応してるんじゃないと思う」

 

スズメも窓へ目を向けた。

 

「方角を……示している?」

 

「たぶん」

 

「何の?」

 

奎星は鬼火鳥を見た。

 

「仲間」

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

夜の飼育棟には、窓の外から波の音だけが小さく聞こえている。

 

スズメは奎星の杖へ手を伸ばしかけたが、触れずに止めた。

 

「空木さんの話を覚えていますか」

 

「うん」

 

「鬼火鳥は霊脈を辿り、神代榊のある場所へ向かう」

 

「うん」

 

「もし、この杖に使われている神代榊と尾羽が、その経路に反応しているのなら……」

 

奎星が笑った。

 

「帰れるじゃん」

 

スズメはすぐには答えなかった。

 

「まだ断定はできません」

 

「分かってる」

 

「方向だけでは距離も分かりませんし、その先に群れがいるという保証もありません」

 

「それも分かってる」

 

「途中で黒曜の狩人に見つかる可能性もあります」

 

「うん」

 

そこまで言われても、奎星の笑顔は消えなかった。

 

「でも」

 

神代榊を見る。

 

「初めて分かった」

 

スズメが奎星を見る。

 

「あっちに、何かある」

 

奎星の声は静かだった。

 

いつものように、今すぐ行こうとも、明日行こうとも言わない。

 

少し前までなら、確実にそう言っていたはずだ。

 

スズメはその変化に気づいた。

 

「明日」

 

彼女のほうから言う。

 

奎星が顔を上げる。

 

「鷹司先生と御影先生に報告しましょう。方角を記録して、既存の霊脈図とも照合します」

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「おう!」

 

「ただし、勝手に出発してはいけませんよ」

 

「しないよ」

 

「本当に?」

 

「俺、もう結構成長したぞ」

 

「今日も訓練中に朝比奈君と競争して怒られていましたが」

 

「それはそれ」

 

「成長とは」

 

スズメがため息をつく。

 

奎星は笑った。

 

鬼火鳥も小さく鳴く。

 

奎星が振り返った。

 

「聞いた? 帰れるかもだって」

 

「そう決まったわけではありません」

 

「スズメちゃん、空気読んで」

 

「事実です」

 

奎星は鬼火鳥へ顔を向ける。

 

「お前も、この先生は真面目すぎると思うだろ?」

 

「キィ」

 

奎星が笑った。

 

「ほら」

 

「何がです?」

 

「真面目すぎるって」

 

「都合よく翻訳しないでください」

 

夜中の飼育棟に、小さな笑い声が響いた。

 

 

翌朝。

 

マホウトコロの地図の上に、一本の線が引かれた。

 

奎星の神代榊が指した方向。

 

南西。

 

海の向こう。

 

正確な距離は、まだ分からない。

 

その先に鬼火鳥の群れがいるのか。

 

神代榊があるのか。

 

あるいは、もっと別の何かがあるのか。

 

誰にも分からなかった。

 

ただ、一つだけ変わったことがある。

 

昨日まで、奎星たちは傷ついた鬼火鳥を守っていた。

 

今日からは違う。

 

帰す場所を、探せるかもしれない。

 

岳が鬼火鳥へ餌をやる。

 

日向と楓が、その横でどちらが先に撫でるか揉めている。

 

伊織は少し離れた場所で呆れた顔をしていた。

 

奎星は、青白く光る神代榊を握っている。

 

その少し離れた場所では、御影玄一郎が真壁から渡された足枷の術式写しを、誰にも見られないよう一人で見つめていた。

 

杖が示した先に、何が待っているのか。

 

まだ、誰も知らない。

 

ただ一人、御影だけは、そこにあるものをすでに知っているようだった。

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