そして、ついに出発の日が来た。
鬼火鳥の体力が長距離移動に耐えられるところまで戻り、奎星の神代榊が示す方角も数日にわたって変わらなかったことから、学校と魔法省はようやく遠征を許可した。
もっとも、「許可した」という言葉を御影玄一郎が気に入っているかどうかは、朝からの顔を見れば聞くまでもなかった。
マホウトコロの発着場には、奎星がこれまで見てきたものよりさらに巨大なウミツバメが待っていた。
「……でっか」
奎星が見上げる。
入学初日に迎えに来た個体ですら、翼を広げれば小型飛行機ほどあった。ところが今日用意されたウミツバメはそれより一回りどころか二回り近く大きく、発着場に身体を伏せているだけでも小さな家のように見える。黒みを帯びた濃灰色の羽根は朝日に照らされて青く艶めき、長大な翼が少し動くだけで、周囲の草が一斉に同じ方向へ倒れた。
背中には通常の鞍ではなく、遠征用の大型鞍が取りつけられていた。
前後に細長く伸びた座席には固定用の革帯がいくつもあり、中央には荷物を積める区画、その周囲には風除けと簡易結界まで施されている。水や食料、野営道具、治療用品、鬼火鳥の餌などが次々に積み込まれていた。
奎星が回り込んで尾のほうまで見る。
「これ何人乗れんの?」
高宮が荷物の確認表を見ながら答えた。
「十五人程度なら問題ない。今回は八人だから余裕はある」
「じゃ岳が二人分でも平気だな」
岳が振り向く。
「何か言ったか」
「何も」
奎星はすぐ前を向いた。
今回、鬼火鳥を送り届ける作戦へ参加するのは八人。
御影玄一郎。
烏丸スズメ。
真壁征士郎。
そして奎星、岳、伊織、楓、日向の五人だった。
鷹司は最後まで鬼火鳥の翼と脚の状態を確認し、岳へ何度も注意事項を伝えている。
「無理に飛ばすな。炎の色が薄くなったらすぐ休ませろ。餌は朝夕、この袋で一回分だ。水は自分で飲めるが、飲まなかったらこっちの薬を二滴だけ混ぜろ」
岳は真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
「それから長く飛んだあとは翼の付け根を見る。腫れてたらその日は終わりだ」
「はい」
「あと――」
日向が小声で奎星へ言った。
「岳だけ修学旅行前の母ちゃんみたいになってんな」
「鷹司先生のほうが母ちゃんだろ」
「聞こえてるぞ」
鷹司が言った。
二人とも黙った。
鬼火鳥は大きな専用籠へ入れられる予定だったが、入口を見た途端に露骨に嫌がったため、結局岳が抱えて乗ることになった。
「完全にお前のペットじゃん」
日向が羨ましそうに言う。
楓が即座に訂正する。
「野生に返すんだからペットって言わないの」
「分かってるって。でもこの顔見ろよ」
岳の腕の中で鬼火鳥は落ち着ききっていた。青白い炎も穏やかで、大きな嘴を岳の胸元へ寄せたまま目を細めている。
「かわい……」
楓が途中で咳払いした。
「……元気そうね」
日向がにやりとする。
「今かわいいって」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「途中まで――」
「黙って」
出発前からいつも通りだった。
ただ一人、御影を除いて。
御影はウミツバメの後方で真壁と何かを確認しながら、何度か五人へ視線を向けている。そのたびに眉間の皺が深くなるため、奎星は三回目あたりで耐えきれず訊いた。
「御影先生」
「何だ」
「俺らいるのそんな嫌?」
「嫌だ」
「即答!」
「本来、生徒を連れていく作戦じゃない」
楓も少し表情を引き締めた。
「でも、奎星君の杖が必要です」
「蓮根だけならまだ話は分かる」
「俺だけ!?」
日向が笑う。
「お前選ばれし者じゃん」
「今そういうのいらねえよ!」
御影は腕を組む。
「岩戸は鬼火鳥が最も懐いている。そこまでは分かる。だが残り三人まで来る必要はない」
伊織が眼鏡を押し上げた。
「訓練では五人一組で鬼火鳥を守る想定でしたから」
「訓練は訓練だ」
「だから本番でも同じほうが成功率が高い、と判断されたんでしょう?」
御影は伊織を見る。
伊織はまったく怯まない。
数秒。
「……理屈は分かっている」
「納得はしてない?」
奎星が訊く。
「していない」
やはり即答だった。
スズメが少し離れたところから言う。
「私も、生徒を危険な場所へ連れていくことに賛成したわけではありません」
奎星が振り返る。
「スズメちゃんまで!」
「烏丸先生です。ただし、あなたたち五人が無断で後から追いかけてくる可能性まで考慮すると、監視下へ置くほうが安全だという意見には納得しました」
日向が感心する。
「信用ねえな俺ら」
楓が冷たい目を向けた。
「森に勝手に入った人たちが何言ってるの」
「お前も入っただろ」
「あんたたちを追って!」
「結果一緒じゃん」
「違う!」
その声を背に、真壁が低く笑った。
「賑やかな遠征になりそうだ」
御影は笑わなかった。
「だから嫌なんだ」
*
午前八時。
ウミツバメはマホウトコロを飛び立った。
最初の一度、大きな翼が地面を打つように羽ばたくと、八人と大量の荷物を乗せた巨体が驚くほど軽々と浮かび上がる。二度、三度と翼を動かすうちに羊脂玉の宮殿は足元へ小さくなり、南硫黄島を覆う緑も、やがて青い海の中に浮かぶ一つの島へ変わっていった。
座る場所は、自然と役割ごとに分かれた。
一番前。
風を最も強く受ける位置に奎星がいる。
右手には神代榊。
そのすぐ隣にはスズメが座り、地図と方位器を広げていた。
「まだ?」
「さっきから同じです」
奎星は杖を少し自由にする。
神代榊はゆっくり南西へ引かれた。
握り直して向きを変える。
また戻る。
「こっち」
スズメが地図へ線を足す。
「昨日までとほぼ一致しています」
「じゃ真っ直ぐ?」
「少なくとも今は」
「いつ曲がるか分かんない?」
「分かりません」
「距離も?」
「分かりません」
奎星は海を見る。
「すげえ行き当たりばったりだな」
「それをあなたに言われるとは思いませんでした」
「俺でもここまでじゃねえよ」
「そうでしょうか」
「ちょっと考えた?」
「かなり」
「ひどくね?」
二人の少し後ろ。
鞍の中央区画には生徒四人がいる。
岳は一番風の弱い場所へ座り、膝の上で鬼火鳥を抱えていた。鳥は飛行中にもかかわらず驚くほど落ち着き、時折頭を上げては奎星のほうを見る。
そのたび。
神代榊の光が少し強くなる。
「また光った」
楓が言う。
伊織も前を見る。
「方向は変わってない?」
奎星が杖を掲げた。
「変わってねえ!」
「声でか!」
日向が耳を押さえる。
「風あるから聞こえねえかと思って!」
「普通に聞こえる!」
「じゃ次から普通にする!」
岳だけは鬼火鳥から目を離さない。
「炎も問題ない」
「餌は?」
楓が訊く。
「昼までいらない」
「水は?」
「さっき飲んだ」
日向が口を尖らせる。
「俺らより待遇いいな」
伊織が言う。
「鬼火鳥は怪我人だからね」
「俺も訓練で全身痛い」
「それは健康」
「判定厳しくね?」
さらに後ろ。
ほとんど最後尾に近い場所へ。
真壁と御影が並んでいた。
前方では奎星の声と日向の声が風に混じっている。
御影はそれを聞きながら、腕を組んだ。
「やはり気に入らん」
真壁は携行用の魔法省通信具を確認していた。
「何度目だ、その話は」
「生徒を五人も作戦へ参加させる判断だ」
「聞いた」
「魔法省は何を考えてる」
「私は魔法省だぞ」
「だから言ってる」
真壁は通信具を閉じ、御影を見る。
「霞が関では禍祓官の待機部隊が準備している。狩人の拠点を確認した時点で合流する手筈だ」
「確認してから、だろ」
「当然だ」
「だから嫌いなんだ、魔法省は」
真壁が眉を上げる。
御影は構わず続けた。
「証拠がない。場所が分からない。管轄が違う。何か起きるまで動かん」
「行政機関なんだから当たり前だろう」
「その当たり前が融通利かんと言ってる」
「文句を言うな」
真壁は呆れたように息を吐いた。
「お前だって働いてたんだから分かるだろう」
御影が黙る。
「禍祓官を十人動かして何もありませんでした、では済まん。今も日本中で別件が動いてる。それを、お前の勘だけでこっちへ寄越せと?」
「俺の勘が外れたことが何回ある」
真壁は少し考えた。
「かなりあるな」
「……」
「昔、呪物密売人がいると言って蕎麦屋へ三日張り込んだ」
「店主が怪しかった」
「普通の蕎麦屋だった」
「裏口が多かった」
「製麺所だったからな」
「……」
「二日目から普通に蕎麦食べてただろ、お前」
御影が前を向いた。
「昔の話だ」
真壁は笑った。
「そういうことにしておこう」
ただし。
その笑みはすぐ消えた。
「準備はさせている。場所さえ掴めれば、霞が関から禍祓官が出る。ただ、お前も分かっている通り、そこから何分で合流できるかは目的地次第だ」
御影は海の向こうを見る。
地図上ですら。
まだ目的地はない。
あるのは。
十七歳の少年が握る一本の杖が示す方角だけだった。
「だからこそ」
御影が低く言う。
「生徒を連れてくるべきじゃなかった」
真壁はその横顔を少しだけ見た。
それ以上は何も言わなかった。
*
昼を越えても。
夕方になっても。
神代榊は同じ方向を示し続けた。
途中、海上に浮かぶ小さな島をいくつも通り過ぎた。地図には載っている島もあれば、魔法使い用の地図にしか記されていない島もあったが、杖はどこにも反応を変えない。
日が傾く。
空が橙色へ染まる。
奎星は前で杖を握ったまま、何度目か分からない欠伸をした。
「まだ着かねえな」
「距離は分からないと言ったでしょう」
「今日中くらいだと思ってた」
「何を根拠に?」
「なんとなく」
「最も信用できない根拠ですね」
スズメも少し疲れていた。
朝からずっと地図と杖の方角を照合しているため、いつものように整っていた黒髪も風でかなり乱れている。
奎星が横目で見る。
「スズメちゃん髪すごいぞ」
「あなたにだけは言われたくありません」
「俺?」
スズメが小さな鏡を出す。
奎星へ向ける。
「うわ」
髪が。
ほとんど全部。
後ろへ立っていた。
「カッコよくね?」
「どこがです?」
「速そう」
「髪型に速度を求めないでください」
後ろから日向が笑う。
「奎星そのままにしろよ!」
「お前も似たようなもんだぞ!」
楓は髪を後ろで結んでいたため被害が少ない。
日向が羨ましそうに見る。
「楓だけズル」
「何が?」
「髪」
「結べばいいでしょ」
「俺が?」
「見たい」
奎星が言う。
伊織も頷く。
「見たいね」
岳まで。
「見たい」
「何で全員乗ってくんだよ!」
結局、日向は楓に無理やり前髪を小さく結ばれた。
三分笑われた。
*
夜になる前。
御影が一度、全員へ声を掛けた。
「今日はここまでだ」
奎星が振り返る。
「まだいけるよ」
「鳥を休ませる」
その一言で。
岳がすぐ頷いた。
「降りよう」
「岳、切り替え早っ」
「鬼火鳥が優先」
鷹司に言われた通り、長距離移動の初日は無理をさせない。鬼火鳥本人はまだ元気そうに見えたが、昼頃より炎が僅かに薄くなっている。
ウミツバメはゆっくり高度を下げた。
その頃には海を越え、下には深い山地が広がっていた。
地図上では魔法使い以外がほとんど立ち入らない場所らしい。周囲には町の灯りも道路もなく、山と山の間を埋める深い森の中に、少しだけ木々の開けた場所がある。
そこへ。
巨大なウミツバメが降りた。
ばさり、と翼が動く。
周囲の草が波のように伏せた。
「着いたー……!」
日向が鞍から降りるなり背中を伸ばした。
「ケツ痛え!」
楓も足を地面へつけて息を吐く。
「ずっと座りっぱなしだったものね」
伊織は眼鏡を拭く。
「僕、途中から右足の感覚なかった」
岳だけは、自分より先に鬼火鳥を地面へ降ろしている。
奎星は最後まで前方に残り、もう一度杖を確認した。
神代榊は。
まだ。
森の奥。
同じ方角を指している。
「明日もこっちだな」
スズメが方位を記録する。
「今日はここで止めましょう」
「どのくらい来た?」
「かなり」
「雑!」
「あなたが杖しか見ていなかったからでしょう」
「スズメちゃん地図係じゃん」
「だから、かなりです」
「仕返し!?」
*
野営の準備は。
思ったより簡単だった。
高宮たちが持たせてくれた遠征用のテントは、畳まれていると布と棒の束にしか見えないのに、杖で一度叩くと勝手に骨組みが広がり、数秒で人が寝られる大きさになる。
奎星が目を輝かせる。
「便利!」
日向も。
「もう一回畳んでやろうぜ!」
楓が止める。
「壊すからやめなさい」
「見るだけ!」
「絶対手出すでしょ」
男子側には大きめのテントが一つ。
女性陣には少し離れたところへ別のものが張られた。
真壁と御影用も用意されていたが、御影は設営しただけで中へ入る様子がない。
簡単な夕食を済ませる。
岳は鬼火鳥へ餌をやる。
日向と楓は相変わらず隣で見ている。
「俺も一個」
「手見せろ」
「はい」
「急に近づけるな」
「はい」
「岳、完全に先生じゃん」
奎星が笑う。
伊織は火のそばで地図を見ている。
「明日も一日飛ぶ可能性あるね」
奎星が嫌そうな顔をした。
「マジ?」
「杖がずっと同じ方向ならね」
「俺ずっと前で持ってんの?」
スズメが食器を片づけながら言う。
「交代できませんから」
「腕太くなるわ」
「片腕だけ?」
日向が笑う。
「右だけムキムキになって帰ってきたら嫌だな」
「杖左右で持つか」
「反応変わる可能性あるので駄目です」
「マジかよ」
なんだかんだ。
遠征初日の夜は。
穏やかだった。
魔法で小さく作った火。
周囲を囲む簡易結界。
少し離れたところで羽根を休める巨大なウミツバメ。
岳の近くで眠る鬼火鳥。
山の中に響く虫の声。
そして。
星。
マホウトコロから見る夜空も綺麗だったが、ここには学校の灯りすらない。木々の間から見える空には、数え切れないほどの星が浮かんでいた。
奎星が寝転んだまま見上げる。
「すげえな」
日向も隣へ転がる。
「明日、昼まで寝たい」
「無理だろ」
「先生三人もいる時点で無理」
伊織が訂正する。
「真壁さんは先生じゃないけどね」
「じゃ大人四人」
「鷹司先生いないぞ」
岳が言う。
「御影先生、スズメちゃん、真壁さん」
奎星が指を折る。
「三人だ」
「高宮先生もいないよ」
伊織が言う。
奎星は。
しばらく黙った。
「俺、誰数えてた?」
「知らない」
全員笑った。
*
深夜。
山は完全に静まり返っていた。
子どもたちのテントからも、もう声はしない。
スズメも休んでいる。
鬼火鳥は岳たちのテントのすぐ近くに用意した簡易の囲いの中で眠り、巨大なウミツバメも首を翼へ埋めていた。
起きているのは。
御影だけだった。
火はほとんど消えている。
御影は少し高い岩の上へ座り、杖を膝の上へ置いたまま、周囲の森を見ている。
風。
枝。
草。
時折鳴く虫。
その全部を。
無意識に確認していた。
しばらくして。
背後から足音がした。
「まだ起きてたのか」
真壁だった。
御影は振り返らない。
「見張りだ」
「結界を張っている」
「結界は万能じゃない」
「私もいる」
「知ってる」
「なら寝ろ」
「断る」
真壁がため息をついた。
「明日も一日移動かもしれんぞ」
「問題ない」
「問題ある。お前、昨日も夜遅くまで足枷の資料見てただろ」
御影が何も言わない。
真壁は隣まで来る。
「何時間寝た」
「寝た」
「何時間だ」
「十分だ」
「質問に答えろ」
御影は森を見る。
真壁はしばらくその横顔を見ていたが、やがて男子用のテントへ顎を向けた。
「寝てこい」
「お前が見張るのか」
「ああ」
「監察局の人間に現場の見張りができるのか?」
「喧嘩売ってるのか」
「事実を聞いた」
「元禍祓官様は偉そうだな」
「元を強調するな」
真壁が少し笑った。
ただ。
次の言葉だけは。
少し真面目だった。
「お前が無茶するから、生徒も真似するんだ」
御影が眉を寄せる。
「あいつらと一緒にするな」
「同じだよ。『まだいける』『問題ない』『大丈夫だ』。今日、蓮根君もまったく同じこと言ってたぞ」
「……」
「朝比奈君ならもっと言うだろうな」
「……」
「水無瀬さんに怒られるところまで似てる」
御影が真壁を見る。
真壁は笑っている。
「教師なんだろ?」
御影は何も言わなかった。
それから立ち上がる。
「一時間だけだ」
「朝まで寝ろ」
「一時間」
「六時間」
「二時間」
「交渉するところじゃない」
御影は不満そうな顔のまま、男子側のテントへ向かった。
真壁はその背中を見送り、岩の上へ座る。
静かな山。
星。
森。
風。
久しぶりに。
昔のようなことを言った気がした。
――お前が無茶するから。
何度。
言っただろう。
御影は昔から変わらない。
自分が一番傷ついても。
一番疲れていても。
最後まで立っている。
真壁がそんなことを考えていると。
男子側のテントが開いた。
御影が出てきた。
入ってから。
十秒も経っていない。
真壁が見る。
「どうした?」
御影は。
少しだけ。
不機嫌そうだった。
「朝比奈が蹴ってきた」
真壁は一度。
御影を見る。
次に。
テントを見る。
中から日向の寝言らしきものが聞こえた。
「……楓、それ俺の焼きそば……」
真壁は頷いた。
「なるほど」
御影は無言で真壁の横に腰かけた。
山の夜は。
まだ長かった。
そして、神代榊は眠っている奎星の枕元で、誰にも触れられていないまま。
静かに。
南西を指し続けていた。