朝七時。
南硫黄島には、すでに初夏の朝が訪れていた。海から吹き上げる風が木々の梢を揺らし、羊脂玉で築かれた校舎の屋根には、白く柔らかな光が降り注いでいる。遠くで鐘が鳴った。一度、二度、三度。生徒たちが目を覚まし、身支度を始める時間だった。
ただし、蓮根奎星だけは例外である。
彼が寝ている六畳の和室には、昨夜脱いだ靴下が片方だけ転がり、開きっぱなしのリュックからは教科書と菓子の袋が飛び出していた。畳の中央では布団が不自然なほど丸く盛り上がり、その中から「ぐぅ……」という低い音が響いている。
こんこん、と襖が叩かれた。
「蓮根君」
返事はない。
「七時です。起きてください」
布団の中で何かが動いた。
「……あと五分」
「駄目です」
「じゃあ三分」
「駄目です」
「一分」
「交渉制ではありません」
「……厳しい世界だな……」
それきり、再び静かになった。
廊下で、烏丸スズメは三秒待った。五秒待った。十秒待った。
「蓮根君」
返事はない。
「開けますよ」
やはり返事はなかった。
「返事がないので、了承とみなします」
スズメは腰から杖を抜き、扉の鍵へ向けて軽く振った。
「アロホモラ」
かちり、と音がして鍵が開く。
襖が滑ると、そこには布団へすっぽり埋まり、頭の先だけを出した十七歳の少年がいた。
スズメは冷たい目で見下ろした。
「起きてください」
「不法侵入……」
「学校です」
「プライバシー……」
「七時です」
「人権……」
「朝食を下げますよ」
ばさっ、と布団が跳ね上がった。
奎星が勢いよく起き上がる。
「それは困る!」
「ずいぶん元気ですね」
「おはようございます!」
「おはようございます」
奎星は寝癖だらけだった。髪は四方八方へ跳ね、目は半分しか開いていない。右頬には枕の跡がくっきり残り、さらに昨夜食べた菓子の袋が、なぜか背中へ貼りついている。
その背後から、ぺた、ぺた、と小さな足音が近づいてきた。
昨日の小妖である。身体ほどもある大きなお盆を両手で抱え、炊きたての米、焼き鮭、味噌汁、卵焼き、納豆、海苔を運んできていた。朝の空気へ、温かな匂いが広がる。
小妖は奎星を見上げた。
「レンコン」
「……おはよ」
「ゴハン」
「蓮根だよ」
「レンコン、ゴハン」
「起きて五秒で間違えられた」
小妖はお盆を机へ置いた。
「トリマル、モッテキタ」
「烏丸です」
スズメが即座に訂正する。
奎星は眠そうな顔で二人を見比べた。
「朝から二人とも大変だな」
「あなたが一番大変です」
「俺?」
「鏡を見てください」
スズメが杖を振ると、壁際に置かれていた小さな鏡がふわりと浮かび、奎星の前まで飛んできた。
奎星は鏡を覗き込む。
寝癖。むくみ。頬の跡。背中に貼りついた菓子の袋。
「……男前だな」
「顔を洗ってきてください」
「否定しろよ」
「早く」
「はい」
十五分後、どうにか人間らしい姿になった奎星は、朝食を猛烈な勢いでかき込んでいた。
「うま」
「ゆっくり食べてください」
「うま」
「聞いていますか」
「鮭うま」
「聞いていませんね」
小妖が嬉しそうに頷く。
「レンコン、ヨクタベル」
「育ち盛りだからな」
「横に育たないようお気をつけください」
「朝から刺してくるじゃん」
朝食を終えると、小妖は食器をお盆へ戻して部屋を出ていった。スズメは壁際に置かれていた細長い箱を開く。
「では、着替えてください」
中に入っていたのは、マホウトコロの制服だった。
奎星が取り出すと、まず淡い桃色が目に入った。桜が開く前、蕾の内側にだけ残っているような、薄く柔らかな色である。長衣は和装に似ているが、着物ほど幅広くはなく、身体を動かしやすいよう肩や腰まわりはすっきり仕立てられていた。内側には白い立ち襟のシャツ、下半身には墨色の細身の袴に似たズボン。腰には黒い帯状のベルトがあり、そこへ杖を収めるための革製の筒が取りつけられている。
上から羽織る魔法衣は膝の辺りまであり、裾には波と翼を組み合わせたマホウトコロの紋様が、ごく薄い銀糸で縫い込まれていた。
奎星が袖を通す。
「お」
少し大きいと思った次の瞬間、袖が勝手に縮んだ。肩幅が合い、腰が締まり、裾の長さまで身体に合わせて変化する。
「うわ、何これ。勝手にサイズが合った!」
「その制服には成長魔法が施されています。身体の変化に合わせて大きさを調整するのです」
「便利じゃん。太っても?」
「ある程度は」
「無敵じゃん」
「限度はあります」
「夢がないなあ」
「夢の話ではありません」
奎星は鏡の前で身体をひねった。
昨日まで黒いブレザーを適当に着崩していた少年が、そこにはいなかった。淡い桃色の長衣に杖。見慣れない服装なのに、不思議と悪くない。
「……結構カッコよくね?」
「七歳の新入生と同じ色ですが」
奎星の顔が止まった。
「え?」
「その桃色は入学時の色です」
「俺、十七だけど」
「魔法教育については一年生ですから」
「いや、でも見た目のバランスとかあるじゃん」
「ありません」
「上級課程二年なんだけど」
「一般教育上は、そうですね」
「クラス行ったら俺だけピンク薄くない?」
「非常に薄いですね」
「絶対目立つじゃん!」
スズメは答えず、机の上へ教科書を積み上げた。一冊、二冊、三冊。どれも薄く、表紙には妙に可愛らしい絵が描かれている。小さな魔法使いが杖を振り、その横で狸のような生き物が宙へ浮かんでいた。
タイトルは、『はじめての魔法社会 下級課程第一学年』。
奎星は黙った。
次の一冊には、『みんなでまもろう 魔法のおやくそく』。
さらにその下には、『たのしい日本魔法史①』。
「……十七なんだけど」
「あなたは魔法界では二日目です」
「昨日一日としてカウントされてんだ」
「されます」
「これ、小学一年生が読むやつ?」
「はい」
「もっと上級生向けの難しいやつないの?」
スズメは奎星を見た。
「昨日、羽根を天井へ突き刺した人が何を言っているのですか」
「ぐっ」
「基礎からです」
「……はい」
スズメは教科書を開いた。そこには杖を持った兎の絵が描かれている。吹き出しには、丸みを帯びた文字でこう書かれていた。
まほうは、ただしくつかおう!
奎星は額を押さえた。
「舐められてる気がする……」
「七歳児向けですので」
「俺に向けて作られてないのは分かってんだよ」
スズメは低い丸机を挟んで正座した。
「では始めます」
奎星も胡座をかく。
「先生」
「何です?」
「机、ちっちゃくね?」
「下級課程用です」
「全部一年生仕様じゃん!」
「あなたが一年生だからです」
「十七歳の尊厳を返して」
「授業を始めます」
「はい……」
こうして、奎星の魔法教育が始まった。
*
「まず、日本の魔法社会についてです」
スズメは教科書の地図を指した。そこには普通の日本地図が描かれている。しかし、東京、京都、出雲、高野山、恐山、阿蘇、そして南硫黄島には、一般の地図には存在しない記号が書き込まれていた。
「日本の魔法使いも、一般社会の中で生活しています」
奎星が眉を上げる。
「え、みんなこういう島に住んでるわけじゃないの?」
「そんなわけがないでしょう」
「じゃあ東京にもいる?」
「大勢います」
「俺、今まで会ってた可能性ある?」
「十分に」
「マジかよ。普通に電車乗ってんの?」
「乗ります」
「コンビニ行く?」
「行きます」
「マック食う?」
「食べます」
「魔法使い、思ったより普通だな」
「魔法使いも人間ですから」
「じゃあ魔法だけで生活してる人もいるの?」
「もちろんいます」
スズメは頁をめくった。霞が関の絵が現れる。ただし、国会議事堂や官庁街の絵ではない。一般人には見えない、巨大な地下施設の断面図だった。
「日本の魔法社会を統括する行政機関が、日本魔法省です」
「魔法省」
「所在地は東京都千代田区霞が関」
奎星が吹き出した。
「普通に霞が関なんだ」
「行政機関ですから」
「もっと富士山の地下とかじゃないの?」
「通勤が大変でしょう」
「そこ現実的なんだ……」
魔法省は、一般社会の官庁街と重なるように存在しているという。ただし、一般人が入口を見つけることはできない。霞が関の地下深く、地下鉄のさらに下。幾重もの認識阻害魔法、空間拡張魔法、侵入防止結界によって隔離された区域に、日本の魔法行政を担う巨大な施設がある。
「入口、どうなってんの?」
「複数あります」
「たとえば?」
「職員用なら、霞が関周辺に設置された特定の転移門。来庁者用には、一般社会から見れば存在しない地下通路があります」
「入りてえ」
「用もなく入る場所ではありません」
「役所だもんな」
「役所です」
「魔法使いも役所で待たされんの?」
スズメは少し黙った。
「待たされます」
「夢がねえ!」
「魔法使いも順番を守ります」
「魔法で割り込めば?」
「逮捕されます」
「厳しい」
「社会ですから」
スズメは教科書を指で叩いた。
「魔法省には、魔法法執行局、機密保持局、魔法災害対策局、魔法生物・妖怪共生局、魔法交通管理局、教育管理局、国際魔法協力局などがあります」
「この魔法法執行局って、昨日言ってた禍祓官?」
「禍祓官の多くが所属しています」
「御影先生も?」
「かつては」
「拳銃みたいなの持つの?」
「杖を持ちます」
「手錠は?」
「魔力拘束具があります」
「パトカーは?」
「ありません」
「魔法パトカー作れよ」
「何のために」
「カッコいい」
「行政は格好よさを基準に制度設計しません」
「だから役所は駄目なんだ」
「二日目の人間が魔法行政を批判しないでください」
奎星は笑いながら頁をめくった。
「じゃあさ、一般人に魔法を見られたらどうすんの?」
「原則として、機密保持局の案件になります」
「記憶消す?」
「必要であれば」
「マジで!?」
奎星が身を乗り出す。
「じゃあ俺も、昔魔法を見て記憶を消されてたりするかもしれない?」
「可能性が絶対にないとは言いませんが」
「怖っ」
「だからこそ厳格な規定があります」
スズメは教科書を閉じた。
「魔法社会は、一般社会と完全に切り離されているわけではありません」
「どういうこと?」
「一般社会で職業に就いている魔法使いもいます。医師、研究者、会社員、教師、公務員、料理人、警察官、芸術家、職人。様々です」
「普通の警察にも魔法使いいるの?」
「います」
「チートじゃん」
「業務中に自由に魔法を使ってよいわけではありません」
「じゃあ何のために」
「生活のために働いているのです」
「急に現実だな」
「皆、食べていかなければなりませんから」
スズメは淡々と説明を続けた。
魔法による事件が一般社会へ影響した場合、その処理は複雑になる。一般社会では「変電設備の故障による局地的停電」と発表された事件が、実際には闇の魔法使い同士の争いで放たれた呪文によるものだったり、地方都市で発生した「原因不明の集団昏睡」が、違法に流通した魔法薬の混入によるものだったりする。山間部で起きた「大型野生動物による被害」の正体が、違法飼育されていた魔法生物の逃走だったこともある。
「そういうのを魔法省が隠すの?」
「隠す、という言葉はあまり好きではありません」
「でも隠してるじゃん」
「……そうですね」
「認めた」
「一般社会へ魔法の存在を知られないよう、記録を整合させるのです」
「言い方を変えただけじゃね?」
「公務員は言葉を大切にします」
「やっぱ隠してんじゃん」
「そうとも言います」
奎星は笑った。
それからも質問は止まらなかった。
妖怪はすべて魔法生物なのか。幽霊は存在するのか。河童は本当にいるのか。ツチノコは魔法生物に分類されるのか。ネッシーは外国の魔法生物なのか。宇宙人はいるのか。
スズメは一つずつ答えた。答えられないものには「知りません」と言い、授業範囲から外れた質問には「後日です」と釘を刺した。
十七年間、奎星は授業というものが嫌いだった。
黒板に書かれた公式。暗記する年号。教師が教科書を読み上げる声。窓の外を眺めながら、早く終わらないかな、と考える時間。遅刻、欠席、居眠り。提出物は忘れ、試験前だけ友人のノートを借りて、どうにか赤点を回避する。
自分は勉強が嫌いなのだ。
ずっとそう思っていた。
けれど、魔法社会の話は違った。
「じゃあ昔の陰陽師って、魔法使い?」
その質問をした瞬間、スズメの目が変わった。
「……良い質問です」
奎星は身を乗り出す。
「お?」
スズメは『たのしい日本魔法史①』を手に取った。
「すべての陰陽師が魔法使いだったわけではありません」
「違うんだ」
「ええ。一般人にも陰陽道の知識を持つ者は大勢いました。ただ、古代から中世にかけて、魔法使いが陰陽師、修験者、方士、巫女、祈祷師などとして一般社会の中で活動していた記録は多数残っています」
「じゃあ昔は魔法を隠してなかった?」
「今ほど厳密ではありませんでした」
スズメは新しい紙を広げ、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸と時代の流れを書き込んでいく。
「日本における魔法史を理解するうえで最も重要なのは、一般史と魔法史が完全に別物ではないということです」
先ほどまでと違い、スズメの言葉はどんどん増えていった。
「たとえば平安期。朝廷の陰陽寮に所属していた者の中にも、魔法能力を持つ者と持たない者が混在していました。ただ、当時は現在のような分類制度がありません。文献に『術』と記されていても、それが魔法であるとは限らない」
「どうやって見分けんの?」
「そこが面白いんです」
スズメの声が少し弾んだ。
「同時代史料を比較します。記述者が誰なのか、後世の加筆がないか、魔力痕跡を保存した物品が現存しているか。魔法省記録局の原本と一般社会に残る史料を照合し――」
「ちょ、待って待って」
スズメが止まる。
「何です?」
奎星がにやにやしていた。
「スズメちゃん、歴史の話になるとめっちゃ喋るじゃん」
「…………」
「今までで一番楽しそう」
「烏丸先生です」
「耳、ちょっと赤いよ」
「気のせいです」
「好きなんだ?」
「何がです?」
「歴史」
スズメは少し黙った。
それから、素直に答えた。
「……好きですよ」
奎星は意外そうに瞬きをした。
「へえ」
「何ですか」
「いや。スズメちゃんにも好きなもんあんだなって」
「私を何だと思っているのですか」
「怒る鴉」
「烏丸先生です」
「そこじゃないだろ、今」
スズメは咳払いをした。
「続けます」
「はいはい」
「はいは一度です」
「はい」
話は続いた。
十七世紀末、魔法社会が国際的に一般社会との分離を強めるにつれて、日本の魔法使いたちも表舞台から姿を消していった。江戸期にはすでに、魔法使いだけが利用する町、商家、医療施設、教育組織が各地に形成されていたという。
明治維新以降は、一般社会の近代国家化に合わせ、魔法社会でも行政組織が再編された。いくつもの魔法組織が統合され、現在の日本魔法省へ繋がる制度が整えられていく。
「面白え……」
奎星が小さく呟いた。
スズメの手が止まる。
「何です?」
「いや、普通の日本史より面白い」
「普通の日本史も面白いです」
「それはまだ分からん」
「では、今度教えます」
「そこまでしなくていい」
「なぜですか」
「熱量が怖い」
スズメは少し不満そうに黙った。
奎星は先ほどの紙へ目を落とした。
「さっき出てきた記録局って、何やってんの?」
スズメの指が止まった。
「歴史資料の保管です」
「それだけ?」
「それだけではありません」
魔法使いの出生記録、魔法事件、古い呪文、失われた魔術、魔法生物に関する報告、名家の系譜、裁判記録、危険な魔法具。何百年にもわたる日本魔法界の記録が、そこへ集められている。
「図書館みたいな?」
「もっと厳重です」
「行ったことある?」
「あります」
「へえ」
一拍置いて、スズメは続けた。
「働いていましたから」
奎星が固まった。
「え?」
「何です?」
「スズメちゃん、魔法省にいたの?」
「烏丸先生です」
「そこはいいから!」
「よくありません」
「いつ?」
「マホウトコロを卒業した後です」
「卒業して、先生じゃなかったんだ」
「違います」
「何年?」
「一年ほど」
「短っ」
「そうですね」
「で、辞めた?」
「はい」
「なんで?」
スズメは頁をめくった。
「次へ進みます」
「おい」
「次は近代魔法史です」
「露骨に逃げたな」
「授業です」
「なんで辞めたの?」
「蓮根君」
「はい」
「教師にも私生活があります」
「気になる」
「駄目です」
「上司と喧嘩した?」
「違います」
「クビ?」
「違います」
「職場恋愛?」
「違います」
「失恋?」
「違います」
「じゃあ何?」
スズメの目が細くなる。
「次に訊いたら宿題を倍にします」
奎星は口を閉じた。
三秒後、恐る恐る口を開く。
「ちなみに先生、何年目?」
「今年で二年目です」
「若手じゃん!」
「だから何です?」
「俺、先生人生の序盤にとんでもない生徒として現れたんだな」
「その自覚があるなら大人しくしてください」
「思い出に残るね」
「悪夢として」
「ひど」
スズメは教科書へ目を落とした。表情はいつもと変わらない。けれど、記録局という言葉を口にした瞬間だけ、確かに何かがあった。
悲しいとも、怖いとも、怒っているとも違う。
扉を閉めるような顔だった。
奎星は、それ以上訊かなかった。
*
「制服についても説明しておきましょう」
スズメが奎星の袖を指す。
淡い桃色。
「これはさっき聞いた。勉強できると色が変わるんだろ?」
「正確には、魔法に関する習熟度と行動を制服そのものが読み取ります」
「服に監視されてんの?」
「嫌な言い方をしないでください」
「で、金が最強」
「全科目において最高水準へ到達した生徒の制服は、金色になります」
「俺もなるかな」
「まず一年生の教科書を終えてください」
「はい」
スズメは頁をめくった。
そこには、白い制服を着た少年の絵が描かれていた。さきほどまでの可愛らしい挿絵とは違い、顔は描かれていない。周囲には黒い炎が渦巻いている。
奎星の目が止まった。
「白は?」
スズメの表情が変わった。
「それは、最も恥ずべき色です」
「白が?」
「はい」
違法な魔術。国際機密保持規定への重大な違反。魔法社会そのものを裏切る行為。制服が持ち主の魔法と行動を拒むほど重大な行為へ踏み込んだとき、色は抜ける。白くなる。
「白くなった生徒は、原則として即時退学です」
「マジ?」
「その後、魔法省で審理を受けます」
「制服、怖っ」
「制服が人を罰するのではありません」
「じゃあ?」
「その人間が、何を選んだのかを示すだけです」
奎星は教科書を見つめた。
頁の端には、小さな肖像画があった。細身の男。鋭い目。冷たい表情。白いローブ。
下に名前が記されている。
カズヒロ・シラトリ
「誰?」
スズメは一瞬、その肖像を見つめた。
「かつて、この学校に在籍していた生徒です」
「有名人?」
「悪い意味で」
教科書には、こう記されていた。
カズヒロ・シラトリ。優秀な成績を修めたマホウトコロの生徒。魔法に関する才能は同世代でも群を抜いており、一時は制服が金色に近づくほど高い評価を得ていたという。
しかし、やがて禁じられた魔術へ傾倒。後年の学校記録では、違法な闇の呪法を実践していた可能性が極めて高いとされている。
制服は白変。
退学。
その後、日本を離れた。
「……こいつも天才だったんだ」
奎星が呟く。
「ええ」
スズメは静かに答えた。
「非常に才能に恵まれた人物だったとされています」
その言葉を言いながら、スズメは奎星を見た。
奎星が気づく。
「何」
「何でもありません」
「絶対俺と重ねただろ」
「少し」
「少しかよ!」
「昨日、水晶を破壊した直後に『俺って天才?』と訊いた人ですから」
「それだけじゃ悪人にならないだろ」
「もちろんです」
奎星はもう一度、白い制服の男を見る。
才能があった。強かった。頭もよかった。それでも、道を間違えた。
「……なんで悪いことしたんだろうな」
「はい?」
「こんなに魔法できたならさ。普通にやってりゃ、すげえ魔法使いになれたんだろ?」
「おそらく」
「もったいなくね?」
スズメは少しだけ視線を落とした。
「それは、本人にしか分かりません」
そして、奎星を見る。
「ですが、才能は本人を正しい方向へ導いてくれるものではありません」
「……」
「大きな才能は、人を救うこともできます。同じだけ、人を傷つけることもできる」
昨日、天井へ突き刺さった羽根。割れた水晶。奎星の脳裏に、いくつもの光景が浮かんだ。
「才能は時に、凶器になります」
スズメは静かに言った。
「それを凶器にさせないことも、私たち教員の仕事です」
奎星は数秒黙った。
それから、にっと笑う。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です」
「俺はこんなんにならないよ!」
「そうでなければ困ります」
「もっと信頼してくれてもよくない?」
「知り合って三日目です」
「薄情だなあ」
「昨夜、私が出て行った直後に魔法を使ったでしょう」
「…………」
「信頼というものは積み重ねです」
「ごもっとも」
奎星は教科書を閉じた。
「なあ」
「何です?」
「もう終わり?」
「座学は」
「よっしゃ!」
奎星が立ち上がる。
「魔法やろうぜ!」
スズメが時計を見る。
午前十一時四十二分。四時間以上、途中の休憩を除けば、奎星はほとんど一度も眠らなかった。
スズメはそれに気づいていた。
本人だけが、まだ気づいていなかった。
*
午後になると、畳の部屋は簡易的な実習室へ変えられた。
スズメが杖を振る。
「エンゴージオ」
机がわずかに大きくなる。さらに壁際の棚から、小さな木箱が三つ飛んできた。一つには羽根、一つには壊れた陶器の湯呑み、もう一つには小さな南京錠が入っている。
奎星は期待に満ちた顔で座っていた。
「何から?」
「まず、杖の持ち方からです」
「そこから!?」
「そこからです」
「昨日いっぱい撃ったじゃん」
「だから昨日、色々なものが壊れたのでしょう」
「はい」
奎星は杖を持つ。
神代榊。鬼火鳥の尾羽。あの妙に手へ馴染む杖。
「強く握りすぎています」
「こう?」
「弱すぎます」
「じゃあこう」
「親指が違います」
「細か」
「魔法は細部です」
スズメが奎星の手へ触れ、指の位置を直す。
「ここ」
「はい」
「手首に力を入れない」
「はい」
「杖は腕力で振るものではありません」
「はい」
「返事だけは良いですね」
「俺、素直な生徒だから」
「それは初耳です」
最初の魔法は、発光呪文だった。
「ルーモス」
スズメの杖先に、柔らかな光が灯る。電球ほど強くはない。暗闇の中で本を読める程度の、穏やかな白い光だ。
「おお」
「基礎中の基礎ですね」
「昨日、俺が部屋を真っ白にしたやつ?」
「そうです」
「じゃあ余裕」
「その考えを捨ててください」
奎星は杖を構えた。
「ルーモス」
ばっ、と部屋が真っ白になる。
「うわ!」
スズメが目を覆った。
「眩しい!」
「また!?」
「魔力を流しすぎです!」
奎星が慌てる。
「止まれ、止まれ!」
「ノックス!」
光が消え、部屋が暗くなる。二人とも目をぱちぱちさせた。
スズメは息を整える。
「蓮根君。昨日説明した魔力の流れを覚えていますね」
「身体の中の液体みたいなやつ?」
「はい」
「流す量を減らしたつもりなんだけどな」
「あなたの『少し』が多すぎるのです」
スズメは考え、指先で空中に小さな蛇口を描くような仕草をした。
「あなたの中に巨大な水槽があるとして」
「五千以上の?」
「その言い方は腹が立ちますが、そうです」
「はい」
「昨日までのあなたは、蛇口を開けるか閉めるかしかしていない」
スズメが指を開く。
「全開」
閉じる。
「ゼロ」
奎星が頷く。
「それを、一滴にしてください」
「一滴」
「魔法とは、力を出す技術ではありません」
スズメは杖先を見る。
「必要な量だけ使う技術です」
奎星は目を閉じた。
胸の奥にある、膨大な熱を思い出す。昨日、水晶へ流れ込んでいったもの。あれを全開にするのではなく、一滴だけ。
やがて目を開く。
「ルーモス」
ぽっ、と杖先に小さな光が灯った。豆電球よりも弱い。
「……暗っ」
「減らしすぎです」
「難しいな!」
「今度は少し増やしてください」
三回目は明るすぎた。四回目は少し明るい。五回目は弱い。六回目。
「ルーモス」
今度は、スズメの光とほとんど同じ柔らかな白い光が灯った。
奎星が杖先を見る。
「これ?」
「……はい」
「できた!」
奎星が笑う。
「簡単じゃん!」
「六回失敗しましたが」
「七回目で成功したからいいんだよ」
「六回目です」
「細か」
スズメは黙っていた。
六回。
普通なら、魔力量の微調整だけで何週間もかかることがある。まして、この少年の魔力量は水晶を破壊するほど巨大だ。大量の水を流すことより、一滴だけ垂らすほうが遥かに難しい。
それを、六回。
「次!」
奎星が言った。
スズメは我に返る。
「まだです」
「え?」
「ノックス」
杖先の光が消える。
奎星も真似をした。
「ノックス」
消えた。
「……一発」
スズメが呟く。
「何?」
「いえ」
次にスズメが取り出したのは、南京錠だった。
「アロホモラ」
「今朝、私があなたの部屋へ入るとき使った開錠呪文です」
「やっぱ不法侵入魔法じゃん」
「違います」
「鍵を開ける魔法だろ?」
「魔法的に保護された錠前や、高度な施錠には通用しません」
「泥棒が覚えたら便利そう」
「だから魔法倫理の授業があります」
「なるほど」
スズメが杖を振る。
「アロホモラ」
かちり、と鍵が開いた。
奎星がやる。
「アロホモラ」
ばんっ、と南京錠が弾け飛び、壁へぶつかった。
沈黙。
奎星が振り返る。
「開いた」
「破壊したのです」
「結果は一緒」
「まったく違います」
「鍵は開いたじゃん」
「ドアを爆破しても開錠とは言いません」
「厳しいな」
「当然です」
二度目は強すぎた。三度目は鍵が変形した。四度目。
「アロホモラ」
かちり。
今度は、きちんと開いた。
奎星が得意げに見る。
「天才?」
「次です」
「絶対認めないじゃん」
壊れた湯呑みが机へ置かれた。二つに割れている。
「レパロ」
スズメが杖を振ると、破片が浮かび、吸い寄せられ、亀裂が消えた。湯呑みは元通りになる。
奎星の目が輝いた。
「すげえ!」
「修復呪文です」
「スマホが割れても直せる?」
「対象と損傷によります」
「最強じゃん」
「万能ではありません」
「やっていい?」
「慎重に」
奎星が壊れた別の湯呑みへ杖を向ける。
「レパロ」
破片が跳ね、ものすごい勢いで合体した。
ぐにゃり。
湯呑みは、ひしゃげた球体になった。
「…………」
奎星が首を傾げる。
「なんで?」
「力が強すぎます」
「修復にパワーとかある?」
「あります」
スズメは頭を抱えた。
「もっと丁寧に。壊れる前の形を想像してください」
「形」
「魔力を流すだけではありません。呪文には目的があります」
「元の湯呑み」
「そうです」
奎星は割れた破片を見つめた。
ここ。ここ。この曲線。縁。底。
頭の中で、壊れる前の形を組み立てる。
「レパロ」
破片が浮いた。
一つ、二つ、三つ。
綺麗に重なり、亀裂が消える。
湯呑みが完成した。
「お」
スズメが手に取り、裏返して確認する。ひび一つない。
「どう?」
「もう一つ」
三つ目、成功。四つ目、成功。五つ目、成功。しかも、少しずつ速くなっている。
「次!」
奎星が言った。
「少し休みませんか?」
「いや、まだいける」
スズメは彼を見る。
目が違っていた。
昨夜までの眠たそうな少年ではない。授業中、窓の外ばかり見ていたという高校生でもない。
純粋に、楽しいのだ。
知らないこと。できなかったこと。それが一つずつ、自分の手でできるようになっていく。
「じゃあスズメちゃん、物を引き寄せるやつ!」
「烏丸先生です」
「俺、能力が出たとき勝手にできてたじゃん」
「召喚呪文ですね」
「教えて!」
「まだ少し早いですが……」
スズメは部屋の反対側へ本を置いた。
「アクシオ」
本が飛んできて、スズメの手へ収まる。
奎星の目が輝いた。
「それ!」
「対象物を明確に意識して」
「はい」
「初めはゆっくり」
「はい」
「絶対に全力で――」
「アクシオ、教科書!」
どんっ、と本が弾丸のように飛んできた。
「うわっ!」
奎星が避ける。
教科書は後ろの布団へ突き刺さった。
スズメは目を閉じた。
「最後まで聞いてください」
「ごめんなさい」
「昨日から何度言えば」
「次はできる」
「蓮根君」
「マジで」
奎星は布団へ刺さった教科書を見る。
さっきの感覚。強すぎた。なら、十分の一。いや、もっと小さく。
「アクシオ、教科書」
本が浮いた。
するすると進み、奎星の手前で速度が落ちる。ぱさり、と掌へ収まった。
スズメが固まる。
「できた」
奎星が笑う。
「二回目」
「…………」
「スズメちゃん?」
「烏丸先生です」
「どうした?」
「もう一度」
別の本。
「アクシオ」
成功。
ペン。
「アクシオ」
成功。
少し重い木箱。
「アクシオ」
速度を落として、成功。
スズメの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「次!」
奎星が言った。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
今度は羽根だった。
「昨日、天井へ刺さった呪文です」
「これを維持してください」
「昨日やった」
「昨日は発射しました」
「言い方」
奎星が構える。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
羽根が五十センチほど跳ね上がった。
「あ」
奎星が杖を下げると、羽根が落ちる。
スズメは何も言わなかった。
奎星は羽根を見つめる。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「これさ」
「はい」
「浮かせる瞬間と、浮かせた後で、魔力の量って違う?」
スズメの瞳がわずかに大きくなった。
「……違います」
「やっぱり」
「なぜ分かりました?」
「最初だけ上に行きすぎたから。持ち上げるときに力が要る。でも浮いたら、その力はいらない」
「…………」
「じゃあ最初だけちょっと出して、すぐ絞る」
「理屈としては――」
スズメが言い終える前に、奎星は杖を振った。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
羽根が浮く。
十センチ。二十センチ。少し高い。
奎星の指が動き、杖先がほんの僅かに下がる。羽根も下がり、十五センチの高さで止まった。
揺れている。
一秒。
二秒。
五秒。
十秒。
羽根は、まるで最初から空中が自分の居場所だったように、そこに留まっていた。
「できた」
奎星が囁く。
スズメは答えなかった。
「できた!」
「……はい」
「昨日、天井に刺さったやつだぞ!?」
「知っています。見ていましたから」
「俺、うまくね?」
スズメは黙った。
「なあ」
「…………」
「天才?」
「うるさいです」
「今、一瞬認めそうになっただろ!」
「なっていません」
「顔に出た!」
「出ていません!」
珍しく、スズメの声が大きくなった。
奎星が笑う。
羽根が揺れた。
「あ」
集中が切れ、羽根が落ちる。
二人は同時にそれを見た。
「……まだまだですね」
スズメが言う。
「はいはい」
奎星は羽根を拾った。
けれど、笑っていた。
スズメはその横顔を見ていた。
昨日、彼の魔力量を見たとき、怖いと思った。五千以上。もし暴走すれば、御影ですら抑えられるか分からない。九重院校長なら、おそらく。
けれど今日になって初めて、スズメは別の意味で、この少年が恐ろしいと思った。
魔力量ではない。
見ている。考えている。失敗した原因を自分で探す。一度説明すると、次で修正する。一度成功すると、再現する。そして、再現したものをもう自分のものにし始めている。
普通の生徒が何十回、何百回と失敗しながら身につける調整を、この少年は数回で掴みかけている。
「蓮根君」
「ん?」
「もう一度、発光呪文を」
「ルーモス?」
「はい」
「ルーモス」
柔らかな光が灯る。
「少し弱く」
光が弱まる。
「少し強く」
強くなる。
「元へ」
戻る。
スズメの眉間に皺が寄った。
「次。召喚呪文」
「アクシオ」
本が飛び、途中で速度を落として静かに掌へ収まる。
「浮遊呪文」
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
羽根が十五センチ浮く。
「二十五センチ」
上がる。
「十センチ」
下がる。
「左右へ」
動く。
「停止」
止まる。
スズメは完全に黙った。
奎星が振り返る。
「なに?」
「…………」
「怖い顔してるぞ」
「考えています」
「俺が天才かどうか?」
「調子に乗ったあなたをどう黙らせるかです」
「暴力教師!」
「まだ何もしていません」
「『まだ』って言った!」
スズメは杖をしまった。
「今日はここまでです」
「えー!」
「十分です」
「もっとやろうよ」
「駄目です」
「なんで」
「疲労すると魔力制御が乱れます」
「全然疲れてないけど」
「駄目です」
「じゃあ、昨日言ってた爆発する魔法!」
「論外です」
「ちょっとだけ!」
「論外です」
「防御魔法!」
「まだです」
「人を吹っ飛ばすやつ!」
「もっと駄目です」
「透明!」
「駄目です」
「空飛ぶ!」
「駄目です」
「何ならいいの!?」
「復習」
「一番つまんねえ!」
スズメが片づけを始める。
奎星は畳の上へ大の字に倒れた。
「魔法ってケチだなぁ」
「魔法がケチなのではありません。私が止めています」
「じゃあスズメちゃんがケチ」
「烏丸先生です」
窓から午後の光が差し込み、風が木々の葉を揺らしていた。遠く、校舎の方角から生徒たちの声が聞こえる。
奎星は天井を見上げた。
「……なあ」
「何です?」
「俺、いつ普通の授業へ行ける?」
スズメの手が止まった。
「早く行きたいですか?」
「まあ」
奎星は腕を頭の後ろへ回した。
「ここも悪くないけど、やっぱ同い年と喋りたいじゃん」
「友達が欲しい?」
「別に」
「昨日も同じことを言っていました」
「うるせえな」
「そうですね」
スズメは少し考えた。
「制御能力が一定水準まで達すれば、九重院校長へ通常授業への参加許可を申請します」
奎星が起き上がる。
「どのくらい?」
「今日の速度で進めば――」
スズメは言葉を切った。
「……私が想定していたより、ずっと早いかもしれません」
奎星の目が輝いた。
「マジ?」
「ただし」
スズメは人差し指を立てた。
「調子に乗らない」
二本目。
「勝手に魔法を使わない」
三本目。
「私の指示を守る」
「条件多いな」
「これでも減らしました」
「じゃあ守る」
「本当ですか?」
「任せろ」
「最も信用できない言葉ですね」
「なんでだよ」
奎星が立ち上がった。
そのとき、スズメの目が彼の制服で止まった。
「……蓮根君」
「ん?」
「動かないでください」
「何?」
スズメが近づき、奎星の袖を取る。
「ちょ」
「静かに」
朝、ほとんど白に近いほど淡かった桃色。その袖口が、ほんのわずかに濃くなっていた。
薄桃色から、桜色へ。
注意して見なければ気づかないほどの変化だった。
奎星も袖を見る。
「……色、変わった?」
「はい」
「これ、俺が成長したってこと?」
「制服は、そう判断しているようですね」
「今日だけで?」
スズメは答えなかった。
奎星は袖を見つめ、嬉しそうに何度も頷いた。
「すげえ」
その声は、魔力量が五千を超えたときより、ずっと嬉しそうだった。
魔力量を褒められたときではない。
自分で一つ覚えた。できなかったことが、できるようになった。その結果、制服がほんの少しだけ色を変えた。
スズメは、それに気づいていた。
「……スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「俺、金までどんくらい?」
スズメは即答した。
「その性格を直す期間を含めると、百年ほどでしょうか」
「長っ!」
「薬師寺先生くらいになりますね」
「嫌だよ!」
「ふぉっふぉっふぉ、と笑える頃には」
「絶対そんな歳まで学生やらねえから!」
夕方の森へ、奎星の声が響いた。
スズメは片づけを終え、教科書を重ねた。その一番上に置かれたのは、『たのしい日本魔法史①』だった。
奎星はそれを見る。
昨日までなら、教科書を見るだけで眠くなった。今は、少し違う。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「それ、置いてって」
スズメが振り返る。
「何をです?」
「教科書」
「宿題はまだ出していませんが」
「違う」
奎星は少し気まずそうに鼻を掻いた。
「暇だったら読むから」
スズメは、ほんの一瞬、何も言えなかった。
「…………そうですか」
「何その顔」
「別に」
「今、絶対感動しただろ」
「していません」
「教師冥利に尽きるとか思った?」
「思っていません」
「泣いていいぞ」
「没収しますよ」
「嘘です。ごめんなさい!」
教科書を抱え、スズメは扉へ向かった。
「夕食は六時半に持ってきます」
「今日も一緒に食う?」
「食べません」
「冷た」
「昨日だけと言ったでしょう」
「質問あるんだけどなぁ」
「明日聞きます」
「夜中、暴走するかも」
「その手は二度と通用しません」
「学習してる」
「教師ですから」
扉を開ける。
「またな、スズメちゃん」
スズメは振り返らない。
「烏丸先生です」
襖が閉じた。
部屋に静けさが戻る。
奎星は教科書を机へ置き、開いた。
一頁。
二頁。
三頁。
自分でも、少し信じられなかった。
「俺が自主勉強……」
窓の外を見上げる。
「母さん知ったら泣くな」
父親なら写真を撮るだろう。祖母なら、どうしただろう。笑っただろうか。
奎星は一瞬だけ、病室の八重子を思い出した。
――奎星も、やりたいこと見つけな。
「……別に」
教科書へ目を戻す。
「勉強がやりたいわけじゃねえけど」
独り言を呟きながら、それでも次の頁をめくった。
*
建物の外へ出たスズメは、校舎へ戻る山道を歩いていた。夕日が木々の間から差し込み、葉の影が地面へ長く伸びている。
十歩、二十歩。
そこで、スズメは立ち止まった。
振り返る。
小さな建物の窓から、奎星の姿が見える。本を読んでいる。
スズメは無言で見つめた。
魔力量、五千以上。
制御、昨日は最低水準。
今日、数時間でルーモス、ノックス、アロホモラ、レパロ、アクシオ、ウィンガーディアム・レビオーサを覚えた。
正確には、覚え始めたのではない。
すでに使い分けていた。
「…………あり得ない」
スズメは小さく呟いた。
袖から一羽の折り鶴を取り出す。黒い紙で折られた、教員間でのみ使用する連絡用の式神だった。
杖先を触れる。
「九重院校長へ」
折り鶴が顔を上げる。
スズメは少し迷った。
そして、言葉を選ぶ。
「蓮根奎星について、追加報告があります」
一拍。
「魔力量だけではありません」
スズメは窓を見る。
奎星が教科書を読みながら、一人で笑っている。
「彼の習得速度は――」
教師として、冷静に。大袈裟ではなく、正しく評価しなければならない。
「……異常です」
折り鶴が飛び立った。
黒い翼が夕暮れの空へ消えていく。
スズメはしばらく空を見ていた。
そのとき。
背後の小さな建物から、奎星の声が響いた。
「おおっ!?」
続いて、ばたばたばた、と何かが倒れる音。
スズメが振り返る。
嫌な予感がした。
窓の向こうで、本棚が浮いている。
「…………」
スズメの眉間に皺が寄った。
「蓮根君!」
「違う違う! これ事故!」
「魔法を勝手に使わないと言ったでしょう!」
「本を取ろうとしただけ!」
「杖を置きなさい!」
「はい!」
今日だけで何度目になるか分からないため息をつきながら、スズメは建物へ戻っていった。
それでも、その口元には、自分でも気づかないほど小さな笑みが浮かんでいた。
その夜、マホウトコロの記録には一行の文章が追加された。
上級課程第二学年編入生 蓮根奎星。
初回個別指導、六種基礎呪文。
魔力出力調整能力――著しい改善を確認。
その記録を、九重院紫苑は一人、校長室で読んでいた。
机の上には、もう一冊、誰にも見せていない古い記録簿がある。百年以上前のものだった。
九重院はそれを開く。
黄ばんだ紙。
墨で記された、一人の魔法使いの名前。
そして、その横に描かれた杖。
神代榊。
芯材――鬼火鳥の尾羽。
現在、蓮根奎星が持っているものと同じ杖。
九重院は静かに帳面を閉じた。
窓の外には、夜の海が広がっている。
遥か下、学校の地下。誰も知らない場所で、古代の文字がまた一つ、青く灯った。