マホウトコロ   作:西野圭吾

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第11話 狩人の巣

 

翌朝。

 

御影玄一郎は、不機嫌だった。

 

普段から愛想のいい教師ではない。むしろ何もしていなくても生徒が勝手に姿勢を正す程度には常に険しい顔をしているのだが、その朝は輪をかけて機嫌が悪く、焚き火のそばで黙って湯を飲んでいるだけなのに、周囲の空気まで重く感じられた。

 

原因を知っている日向だけが、朝食のパンを持ったまま御影の前で縮こまっていた。

 

「御影先生」

 

「何だ」

 

「昨日は、その……すいませんでした」

 

「何の話だ」

 

声に温度がない。

 

日向の顔が引きつる。

 

「寝てるとき蹴ったらしくて」

 

「らしいな」

 

「わざとじゃないっすよ?」

 

「寝ながら狙って蹴れるなら、それはそれで才能だ」

 

「ですよね! だから――」

 

楓が日向の後頭部を叩いた。

 

「そこで喜ぶな!」

 

「痛っ!」

 

伊織は焚き火の前で珈琲を飲みながら、特に珍しいことでもないように言った。

 

「日向、寝相悪いの昔からだからね」

 

御影が伊織を見る。

 

「昔から?」

 

「下級課程の宿泊行事でも、朝起きたら三人分の布団を横断してました」

 

「俺そんなだった?」

 

「今もそうだよ」

 

岳が淡々と答える。

 

「昨日も俺の足蹴ってた」

 

「お前も!?」

 

「二回」

 

「なんで言わなかったんだよ」

 

「寝てたから」

 

「寝てても起こせよ!」

 

奎星が笑いながらパンを齧る。

 

「御影先生、今日俺の横で寝れば? 俺寝相いいよ」

 

「お前は寝言がうるさい」

 

「え、俺なんか言ってた?」

 

御影は答えなかった。

 

少し離れたところで、真壁が肩を揺らしている。

 

奎星が身を乗り出した。

 

「何言ってたの!?」

 

「聞くな」

 

「めっちゃ気になる!」

 

「出発するぞ」

 

完全に逃げられた。

 

日向が奎星へ小声で囁く。

 

「多分スズメちゃんじゃね?」

 

「なんでだよ!」

 

「お前ならありそう」

 

前を歩いていたスズメが振り返った。

 

「何の話ですか?」

 

「何でもない!」

 

二人の声が綺麗に重なった。

 

御影の機嫌は、さらに少し悪くなった。

 

 

野営地を片づけ、再びウミツバメへ乗ったのは朝七時を少し過ぎた頃だった。

 

奎星は昨日と同じく前方へ座り、右手に神代榊を持つ。隣ではスズメが地図を広げ、中ほどでは岳が鬼火鳥を抱え、その周囲に日向、楓、伊織が座った。最後尾は真壁と御影で、二人とも昨夜の寝不足など感じさせない顔をしていたが、日向だけは何度振り返っても御影と目を合わせようとしなかった。

 

神代榊は、昨日と変わらず南西を指していた。

 

深い山岳地帯を越え、谷を一つ、また一つと横切っていく。眼下には人家らしいものがほとんどなく、夏の濃い緑に覆われた山が見渡す限り続いていた。

 

二時間ほど飛んだ頃だった。

 

奎星の手の中で、神代榊が突然動いた。

 

「ん?」

 

昨日までの穏やかな反応ではない。

 

ぐん、と腕ごと持っていかれそうなほど強い力で、杖先が右下へ向く。

 

ほぼ同時に、中ほどで鬼火鳥が鋭く鳴いた。

 

「キィィィッ!」

 

岳の腕の中で大きく翼を広げ、青白い炎が一気に強くなる。

 

「どうした?」

 

岳が身体を支えると、鬼火鳥は興奮したように山の一角を見つめた。

 

奎星も同じ方向へ目を凝らす。

 

「あれ」

 

深い森の中から、一本だけ細い煙が上がっている。

 

山火事にしては細すぎるうえ、風に煽られている様子もなく、木々の間から白い煙が一定の太さで真っ直ぐ空へ伸びていた。その近くには、自然にできたとは思えないほど不自然に開けた場所も見える。

 

スズメがすぐに地図を畳んだ。

 

「杖は?」

 

「めちゃくちゃ反応してる」

 

神代榊の炎の彫刻は、今まで見た中でも特に強く青白く輝いていた。

 

試しに奎星が杖を反対へ向けても、手を緩めた瞬間に煙の方角へ戻っていく。

 

後方から真壁も前へ移動してきた。

 

「近いな」

 

御影は煙を一度見ただけで、すぐ巨大なウミツバメの進路を変えさせた。

 

「直接近づくな。西へ回る」

 

日向が身を乗り出す。

 

「見に行かないんすか?」

 

「だからこそ遠くで降りる」

 

「なるほど」

 

「お前は特に前へ出るな」

 

「俺だけ!?」

 

「昨日俺を蹴った罰だ」

 

「まだ根に持ってる!」

 

真壁が笑った。

 

 

ウミツバメを降ろしたのは、煙の上がる場所からかなり離れた山の反対斜面だった。

 

巨大な鳥そのものを見つけられては意味がないため、木々の深い場所へ待機させ、そこから先は徒歩で進む。鬼火鳥にはまだ長距離を飛ばせないため岳が抱え、奎星は神代榊の反応を確かめながら御影と真壁の少し後ろを歩いた。

 

近づくにつれて杖の光は強まり、岳の腕の中にいる鬼火鳥も明らかに落ち着きをなくしていく。

 

「近い」

 

岳が低い声で言った。

 

やがて御影が片手を上げ、全員を止める。

 

そこからは会話もほとんどせず、木々と岩を遮蔽物にしながら斜面を下っていった。森の隙間から人工物らしい直線が見え始め、さらに数十メートル進んだところで、御影は大きな岩と茂みに囲まれた場所へ全員を伏せさせる。

 

真壁が袖から魔法式の遠眼鏡を取り出した。

 

最初に覗いたのは真壁だった。

 

しばらく無言で野営地全体を確認したあと、御影へ渡す。

 

御影の顔から、僅かに残っていた朝の苛立ちが消えた。

 

奎星も遠眼鏡を受け取る。

 

そして。

 

何も言えなくなった。

 

山と山の間に、大きな野営地が作られていた。

 

ただし、旅人や登山者のものではない。何十もの天幕と木造の仮設小屋が並び、その間を杖を持った人間たちが行き来している。数えるだけでも二十人を超え、奥にいる者まで含めればさらに多い。八咫小路の森で見たような狩人姿の者もいれば、普通の登山者にしか見えない服装の者もいたが、全員の腰や袖には杖があり、野営地の外周には黒い石を組み込んだ魔法式らしきものがいくつも設置されていた。

 

けれど、奎星の目が止まったのは人間ではなかった。

 

「……何だよ、あれ」

 

檻だった。

 

一つではない。

 

野営地のあちこちに、巨大な檻や小さな籠がいくつも置かれている。

 

翼を布で縛られた大きな鳥、角に封印具をつけられた獣、狭い籠の中で身体を丸めて震えている小型の魔法生物。奎星には名前も分からないものばかりだったが、どれも自由にここへいるわけではないことだけは一目で分かった。

 

そして一番奥。

 

巨大な網と結界に覆われた檻の中で、いくつもの青白い炎が揺れていた。

 

一つ。

 

二つ。

 

五つ。

 

十を超える。

 

鬼火鳥。

 

岳の腕に力が入った。

 

抱かれている鬼火鳥も仲間に気づいたらしく、身体を起こして細い声を上げかける。

 

「キィ……」

 

岳はすぐに嘴の近くへ手を添えた。

 

「静かに」

 

声は優しい。

 

けれど、その顔には奎星でさえ見たことがないほどはっきりした怒りが浮かんでいた。

 

「……あいつら」

 

岳が立ち上がろうとする。

 

伊織が腕を掴んだ。

 

「岳」

 

「離せ」

 

「今行ったら全部台無しになる」

 

「あいつらがやった」

 

「分かってる」

 

「足枷も」

 

「分かってるって」

 

伊織は声を荒らげなかった。

 

ただ、岳の目を真っ直ぐ見る。

 

「だから助けるんだよ。全員で」

 

岳の肩が僅かに動き、数秒の沈黙のあと、ゆっくりその場へ座り直した。

 

楓も遠眼鏡を受け取った。

 

覗いた瞬間、口元が固くなる。

 

鬼火鳥たちの尾羽は何羽も不自然に短くなっていた。脚を上げたまま伏せている個体もいれば、魔法で眠らされているのか、ほとんど動かないものもいる。

 

「……ひどい」

 

楓の指が無意識に杖へ触れる。

 

日向も珍しく何も言わなかった。

 

奎星は肉眼でも見える青白い炎を見つめたまま、低く呟く。

 

「ひでえな」

 

その横で、真壁はすでに別のことをしていた。

 

携行用の魔法省通信具を取り出し、周囲へ音が漏れないよう小さな遮音結界を張る。御影がちらりと見る。

 

「呼ぶのか」

 

「そのための証拠だろう」

 

真壁は野営地をもう一度確認してから通信具へ魔力を通した。

 

「こちら魔法省監察局、真壁征士郎。対象拠点を確認した」

 

微かな雑音の向こうから返答がある。

 

真壁は淡々と状況を伝える。

 

「山中に武装した魔法使い二十名以上。魔法生物の違法拘束を多数確認、鬼火鳥だけでも十羽以上だ。黒曜石を使用した警戒術式らしき設備もある。黒曜の環との関連性は極めて高いと判断する」

 

御影が野営地を見たまま訊く。

 

「どれくらいだ」

 

真壁は一度、通信具の向こうへ確認した。

 

表情が僅かに険しくなる。

 

「……遠いな」

 

「何分」

 

「最短で九十分」

 

御影の眉間に皺が寄った。

 

日向が小声で訊く。

 

「一時間半?」

 

真壁が通信を切りながら答える。

 

「そうだ。霞が関から禍祓官の待機部隊が出る。こちらの座標は送ったが、山間部だから最終接近には時間が掛かる」

 

御影が低く言う。

 

「だから遅いと言った」

 

「今その話をするな」

 

「事実だ」

 

「文句なら帰ってから聞く」

 

真壁は通信具をしまったあと、全員を見る。

 

「増援が来るまで余計なことはしない。まず人数と警戒術式をもう少し確認する。見つかっていない今が一番有利だ」

 

奎星も頷いた。

 

「分かった」

 

いつもなら「助けに行こうぜ」と真っ先に言いそうな少年が、今は鬼火鳥たちを睨みながらもその場を動かなかった。

 

数日の訓練が。

 

少しは効いている。

 

スズメはそんな奎星を一度だけ見た。

 

しかし。

 

奎星の右手は。

 

無意識に神代榊を強く握っていた。

 

檻。

 

傷。

 

切り取られた尾羽。

 

岳の腕の中にいる鬼火鳥の脚にも。

 

同じ傷があった。

 

怒り。

 

ほんの少し。

 

魔力が漏れる。

 

水滴一つを静かな水面へ落としたほどの、ごく僅かなものだった。

 

普段なら。

 

誰にも分からない。

 

奎星自身でさえ。

 

気づいていなかった。

 

けれど、狩人たちの野営地の外周に埋められた黒曜石だけは違った。

 

草むらの中。

 

一つ。

 

赤く光る。

 

別の木の根元でも。

 

一つ。

 

さらに奥で。

 

もう一つ。

 

八咫小路から二人を追跡し、海上で奎星のエクスペリアームスを受けて砕かれた黒曜の鳥と同系統の術式。野営地を取り囲むように埋め込まれた黒い石は、周囲の魔力を監視し、その特徴を照合するためのものだった。

 

そして。

 

覚えていた。

 

あの異常な魔力を。

 

蓮根奎星を。

 

赤い光が地中を走る。

 

御影が何かに気づいたように顔を上げた。

 

「蓮根、杖を――」

 

その声を。

 

山中へ響き渡った甲高い音が遮った。

 

カァァァァァン――!

 

全員が一斉に立ち上がる。

 

「何!?」

 

日向が杖を抜いた。

 

野営地のあちこちで狩人たちが動きを止め、次の瞬間には一斉にこちら側の森へ顔を向ける。

 

真壁が通信具ではなく杖を抜いた。

 

「発見された! 全員、配置につけ!」

 

同時に御影が叫ぶ。

 

「一度下がれ!」

 

だが。

 

遅かった。

 

地面に刻まれていた何かが光り、奎星たちと御影の間を横切るように一本の線が走った。

 

次の瞬間。

 

透明な壁が、凄まじい勢いで空へ伸びた。

 

どん、と空気が震える。

 

奎星が反射的に一歩下がった。

 

「御影先生!」

 

目の前には、左右を森の遥か奥まで塞ぎ、上端さえ見えない巨大な透明結界が立っていた。

 

こちら側にいるのは奎星、スズメ、真壁、日向、楓、伊織、岳、そして鬼火鳥。

 

向こう側。

 

御影だけが。

 

一人。

 

「は?」

 

御影はすぐに結界へ手をつけた。

 

硬い。

 

魔法の膜というより、見えない岩壁に近い。

 

「御影先生!」

 

奎星が駆け寄ろうとする。

 

真壁が肩を掴んだ。

 

「行くな!」

 

「でも!」

 

森の向こうで枝が揺れた。

 

一人。

 

二人。

 

五人。

 

十人。

 

警報を聞きつけた黒曜の狩人たちが、次々と木々の間から姿を現す。

 

真壁の顔から、普段の穏やかな雰囲気が消えた。

 

そこに立っているのは魔法省の監察官であり、かつて禍祓官として現場へ立っていた男だった。

 

「全員聞け!」

 

声が森へ響く。

 

「増援はすでに要請済みだ。到着予定は最短九十分、それまではここにいる人員だけで持たせる!」

 

日向の顔が引きつる。

 

「やっぱ九十分!?」

 

「一時間半と言っても同じだ!」

 

「そういう問題じゃ――」

 

「喋る余裕があるなら動け!」

 

最前列の狩人が杖を上げた。

 

真壁は一瞬で指示を飛ばす。

 

「蓮根、前へ!」

 

奎星が隣へ並んだ。

 

「俺?」

 

「私と前線を張る。できるな」

 

ほんの一瞬だけ驚いた。

 

魔法省の大人から。

 

正面を任された。

 

けれど奎星はすぐに笑い、神代榊を構えた。

 

「おう!」

 

「はいと言え!」

 

「はい!」

 

「朝比奈、榊! 左右の遊撃、前へ出すぎるな!」

 

「はい!」

 

「分かりました」

 

「烏丸先生、魔法生物の解放を!」

 

スズメはもう檻の位置を見ていた。

 

「分かりました!」

 

「岩戸、水無瀬! 烏丸先生の護衛! 魔法生物を最優先だ!」

 

岳の顔が変わる。

 

「はい」

 

楓も杖を握った。

 

「はい!」

 

直後。

 

森の向こうで。

 

十本を超える杖が光った。

 

真壁と奎星は、ほぼ同時に前へ出る。

 

「プロテゴ!」

 

二枚の防壁へ、無数の魔法が一斉に叩きつけられた。

 

 

轟音とともに赤や白、青の光が森の中を走り、木々の表面が弾け、地面が抉れ、千切れた葉が雨のように降ってくる。

 

奎星は下がらなかった。

 

「プロテゴ!」

 

正面から三発を受け、右から来た一発は身体をずらして避ける。後ろへ通してはいけない。真壁が隣で一人へ武装解除を撃つと、それを庇うように別の狩人が前へ出たため、奎星はすぐ杖先を下げた。

 

「デパルソ!」

 

空気が弾け、二人の身体が横へ押し出される。

 

倒すほどではない。

 

ただ陣形を崩すだけ。

 

「今!」

 

日向が木々の横から飛び出した。

 

「エクスペリアームス!」

 

一人の杖が宙へ飛び、反対側から伊織の拘束縄が伸びて足元へ絡む。倒れた相手を確認する前に日向は退き、たった今まで立っていた場所へ赤い気絶呪文が突き刺さった。

 

「楓!」

 

「奎星、左二人!」

 

奎星は振り向かない。

 

指示だけで位置を読む。

 

「ステューピファイ!」

 

左から回ろうとしていた一人の胸へ赤い光が直撃し、その場へ崩れる。二人目はすぐ盾を張ったため、奎星は同じ呪文を重ねず、デパルソで盾ごと三歩押し下げた。

 

その空いた線へ。

 

真壁の魔法が走る。

 

「エクスペリアームス!」

 

杖が飛んだ。

 

真壁はほんの一瞬、隣の少年を見る。

 

奎星はもう次の相手へ視線を移していた。

 

撃った結果を確かめるために足を止めない。

 

御影から何度も聞かされた通り、次を見る。

 

病室で初めて会ったときの姿が、真壁の脳裏を過ぎった。

 

死の呪文を素手で消したくせに、自分のしたことを自分でもよく分かっていない顔をしていた少年。

 

魔力一万七百二という数字を聞かされても、その意味より先に口を開けて驚いていた十七歳。

 

訓練の話は聞いていた。

 

異常な学習速度も。

 

それでも。

 

報告書と。

 

実際に横で戦うのとは。

 

まるで違った。

 

「真壁さん!」

 

奎星の声が飛ぶ。

 

真壁が顔を上げる。

 

「上!」

 

頭上の枝から、狩人が一人飛び降りてきた。

 

真壁は反射的に盾を上へ展開し、至近距離から放たれた呪文を弾く。その一瞬の硬直を奎星は見逃さず、神代榊を振った。

 

「エクスペリアームス!」

 

赤い光が正確に手元だけを射抜き、狩人の杖が森の奥へ飛んでいく。

 

真壁は思わず笑った。

 

「なるほどな……」

 

「何!?」

 

「いや」

 

真壁も構え直す。

 

「病室で会った頃とは、まるで別人だと思ってな」

 

奎星が嬉しそうに笑った。

 

「今の俺、結構すげえから!」

 

「自分で言うな!」

 

「御影先生にも言われる!」

 

「だろうな!」

 

新たな狩人が前へ出る。

 

今度は真壁と奎星が、同時に踏み込んだ。

 

 

スズメたちは、真壁たちが前線を押さえている間に野営地の内側へ入っていた。

 

岳は自分たちが連れてきた鬼火鳥を抱えたまま最初の檻へ駆け寄り、その脚についている黒い輪を見た瞬間、顔を険しくする。

 

「これ」

 

同じだった。

 

自分たちが八咫祭の森で助けた個体についていたものと。

 

「全部ついてる」

 

スズメもしゃがみ込む。

 

「直接壊してはいけません。術式と繋がっている可能性があります」

 

「じゃどうするんですか?」

 

周囲を警戒する楓が訊いた。

 

「拘束そのものではなく、足枷と術式の接続を切ります」

 

スズメは足枷へ杖を向けた。

 

普段なら古い資料の前へ何時間でも座り込み、歴史の話を始めれば時間を忘れる研究者の手が、今は迷いなく動く。

 

「フィニート」

 

細い光が足枷へ触れる。

 

刻まれていた文字が一度揺れた。

 

消えない。

 

スズメの眉が寄る。

 

「やはり単純な拘束術では……」

 

遠くで杖が光った。

 

「烏丸先生!」

 

楓がすぐ前へ入る。

 

「プロテゴ!」

 

飛んできた赤い光が盾へ弾け、その音に岳も振り返った。

 

三人。

 

狩人がこちらへ向かってくる。

 

スズメは足枷から目を離さない。

 

「三十秒ください!」

 

楓は杖を構えた。

 

「任せてください!」

 

岳も鬼火鳥を安全な位置へ置いて立つ。

 

「来い」

 

一人目を楓が止め、二人目へ岳の拘束縄が飛ぶ。三人目が大きく横へ回り込もうとしたとき、連れてきた鬼火鳥が突然翼を広げ、青白い炎を一際強く燃やして大きく鳴いた。

 

狩人が反射的にそちらを見る。

 

「今!」

 

岳の杖が動く。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光が胸へ入り、狩人はその場へ崩れた。

 

同時にスズメの術式が完成する。

 

足枷を走っていた文字が端から一つずつ消え、最後の一文字が消えた瞬間、黒い輪が小さな音を立てて開いた。

 

「外れます!」

 

岳が鬼火鳥を支える。

 

檻の中。

 

捕らえられていた鬼火鳥たちが一斉にざわめいた。

 

一つ。

 

また一つ。

 

弱々しかった青白い炎が、次々と灯る。

 

楓が次の檻を見る。

 

「まだあります!」

 

「行きましょう!」

 

スズメが立ち上がり、三人は次の檻へ走る。

 

二つ目。

 

三つ目。

 

その途中。

 

聞き覚えのある声がした。

 

「見つけたよ」

 

スズメの足が止まった。

 

楓も岳も。

 

その声を知っている。

 

八咫祭の森で。

 

――坊や、その鳥を離しな。

 

八咫小路の古本屋で。

 

――見つけたよ坊や。

 

女が立っていた。

 

今度はフードもない。

 

顔がはっきり見える。

 

「しつこいねえ、あんたたち」

 

女が杖を持ち上げた。

 

楓も同時に構える。

 

「烏丸先生!」

 

だが。

 

スズメのほうが。

 

速かった。

 

女の杖先に魔力が集まる、そのほんの半瞬前にスズメの杖が真っ直ぐ上がった。

 

「ステューピファイ!」

 

赤い光は細く、派手さなどまるでなかった。

 

ただ。

 

正確だった。

 

女の胸の中心へ吸い込まれるように命中し、身体が一度だけ硬直したかと思うと、そのまま膝から崩れ落ちる。

 

楓は一瞬遅れて瞬きをした。

 

「……烏丸先生、強い!」

 

スズメは杖を下ろさず、倒れた女の状態を確認してから次の敵へ視線を移した。それでも口元には、ほんの少しだけ得意そうな色が浮かんでいる。

 

「首席でしたから!」

 

岳が女を見る。

 

「知らなかった」

 

「昔の話です!」

 

楓の顔が少し輝いた。

 

「すご……」

 

「水無瀬さん、後ろ!」

 

「はい!」

 

すぐに戦闘へ戻る。

 

スズメは次の足枷へ。

 

楓と岳は、その左右へ立つ。

 

訓練場で何度も繰り返した、守る対象と自分の役割、互いの距離。場所も状況もまったく違うのに、何度も身体へ叩き込んだ動きだけは裏切らなかった。

 

 

透明な結界の反対側で。

 

御影玄一郎は、一人だった。

 

壁の向こうでは生徒たちが戦っている。

 

真壁と奎星が前線に立ち、日向と伊織が左右へ動いている。そのさらに奥には、スズメ、楓、岳、そして鬼火鳥たちの檻がある。

 

御影は結界へ手を触れた。

 

押しても。

 

当然動かない。

 

「……」

 

杖を向ける。

 

「ディフィンド」

 

白い刃が透明な壁へ命中した。

 

光が散るだけ。

 

傷一つつかない。

 

御影は間を置かず次の魔法へ移った。

 

「コンフリンゴ」

 

爆発が起き、森が一瞬白く染まる。

 

衝撃波で御影側の木々が大きく揺れ、何十羽もの鳥が枝から飛び立ったが、煙が晴れたあとに残っていたのは、何一つ変わらない透明な壁だった。

 

御影の眉間に深い皺が刻まれる。

 

向こうでは奎星が二人の狩人を相手にし、真壁がその横を支えている。日向と伊織も訓練通り互いを補い、奥にはスズメまでいる。

 

まだ大丈夫だ。

 

頭では分かっている。

 

訓練した。

 

力もある。

 

真壁もいる。

 

スズメもいる。

 

それでも、御影の手は杖を強く握り直していた。

 

「……くそ」

 

今度は呪文を唱えない。

 

ただ。

 

魔力を流す。

 

その瞬間、御影の周囲だけ空気の密度が変わった。

 

足元の土が僅かに沈み、数メートル四方に積もっていた落ち葉が風もないのにふわりと浮き上がる。木々の枝が中心から押し退けられるようにしなり、杖先へ集まり始めた魔力の圧力だけで山の空気そのものが重くなっていく。

 

壁の向こうで戦っていた狩人の何人かが、思わずこちらを振り向いた。

 

真壁も気づく。

 

「おい、玄一郎――」

 

声は届かない。

 

御影の杖先には、白い光が小さな点となって集まっていた。

 

派手ではない。

 

むしろ。

 

小さすぎる。

 

だが、その点を中心に空間そのものが歪んでいるように見え、葉も砂も小石も一瞬だけ杖先へ吸い寄せられた。

 

御影が放つ。

 

最初の一瞬。

 

音すらなかった。

 

次の瞬間。

 

山が鳴った。

 

白い衝撃が結界へ叩きつけられ、御影側の地面には一直線の亀裂が走った。周囲の太い木々が根元から揺さぶられ、離れた岩肌から砂と小石が崩れ落ちるほどの震動が山中を駆け抜ける。

 

壁の向こうで奎星が思わず振り返った。

 

「……何あれ」

 

日向も目を丸くする。

 

「御影先生!?」

 

真壁だけが顔をしかめた。

 

「本気で撃つ馬鹿があるか……!」

 

訓練場で奎星へ何度も「必要な力だけを使え」と教えてきた男が、今は本気で一枚の壁を破壊しようとしている。

 

煙が晴れていく。

 

しかし。

 

透明な結界には亀裂どころか、小さな傷さえなかった。

 

御影の表情が、初めてはっきり変わる。

 

今の一撃を受けて。

 

無傷。

 

普通の防護結界ではない。

 

御影は表面を睨んだ。

 

魔力がぶつかった一瞬だけ、普段は透明な壁の奥へ黒い文字が浮かんでいた。

 

細い線。

 

折れ曲がる幾何学模様。

 

何重にも重なる術式。

 

それを見た瞬間、御影の頭に真壁が見せた足枷の術式が蘇る。

 

似ている。

 

いや。

 

それどころではない。

 

「……まさか」

 

背後で枝が踏まれた。

 

御影が振り返る。

 

薄い朝霧の残る森。

 

木々の間に。

 

一人の人影がいた。

 

最初は、まだ顔が見えなかった。

 

それなのに御影は動かなかった。

 

歩き方。

 

肩の位置。

 

杖を握る手。

 

一歩近づくごとに強くなる。

 

その魔力。

 

知らないはずがない。

 

人影が、ゆっくり明るい場所へ出る。

 

そして。

 

声がした。

 

「久しぶりだなぁ、玄一郎」

 

御影の指から、ほんの僅かに力が抜けた。

 

杖先が数センチだけ下がる。

 

森の向こうではまだ戦いが続き、呪文がぶつかる音も、生徒たちの声も、真壁の指示も絶えず響いているはずだった。

 

けれど。

 

御影玄一郎の耳には。

 

その瞬間。

 

何も入ってこなかった。

 

目の前に立つ男から。

 

視線を外せない。

 

「……玄弥……?」

 

十二年。

 

帰ってこなかった男が。

 

そこにいた。

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