十二年ぶりに現れた男は、まるで昨日別れた友人にでも声をかけるような調子でそう言った。
斎賀玄弥。
御影の記憶に残っている姿より髪は伸び、顎には無精髭があり、目元にも年齢相応の皺が増えている。それでも口元に浮かぶ人を食ったような笑い方も、杖を肩へ引っ掛ける持ち方も、片足へ少しだけ重心を預けて立つ癖も何一つ変わっていなかった。
「今は教師やってんだって?」
「……玄弥……」
「似合わねえなあ。お前、人に教えんの下手なのによ、昔から。大丈夫なのかよ」
軽い。
あまりにも軽い。
十二年前、任務へ出る直前に「帰ったら飲みに行こうぜ」とでも話していたときの声と変わらない。
御影の右手が杖を握り締めた。
「……十二年間……」
「ん?」
斎賀が首を傾げる。
御影の目が、ゆっくり細くなった。
「十二年間、何をしていたんだ……!」
言葉の終わりを待たず、白い光が森を切り裂いた。
斎賀の頬を狙った一撃は速い。呪文を聞いてから防ぐような距離ではなかったが、斎賀は驚きもせず杖を斜めに振り、御影の魔法を真正面から受けるのではなく横の木へ滑らせるように受け流した。
直撃を免れた光が太い幹へ突き刺さり、木肌が大きく抉れる。
「おいおい、ピリついてんなぁ」
斎賀は笑っていた。
御影は笑わない。
「答えろ」
「十二年分? 長えぞ」
「なら拘束してから聞く」
御影は杖を真っ直ぐ斎賀へ向けた。
声が変わる。
教師のものでもない。
怒りに任せた友人の声でもない。
かつて、何度も現場で使った声だった。
「斎賀玄弥。日本魔法法・禁制魔術取締条項、魔法生物保護法違反、違法拘束、密猟、および武装集団による魔法省職員、マホウトコロ生徒への攻撃行為に基づき――」
杖先が胸へ向く。
「禍祓官の名において、貴様を拘束する」
斎賀の笑みが、ほんの少し深くなった。
「……懐かしいな、その台詞」
御影の瞳が揺れない。
斎賀は肩へ担いでいた杖を下ろした。
「でもお前、元だろ?」
「試してみろ」
先に動いたのは斎賀だった。
*
「ステューピファイ!」
赤い閃光が御影の正面へ飛ぶ。
御影は一歩も退かず、最小限の動きで盾を出した。
「プロテゴ」
衝突。
だが、音が違う。
軽い。
御影は即座に気づいた。
囮。
本命は下。
地面へ撃ち込まれていた二発目の魔法が御影の足元から跳ね上がる。
御影は見る前に横へ出た。
土を突き破った拘束縄が、つい半瞬前まで御影の足があった場所を締め上げる。
「相変わらずだな」
斎賀の声がする。
御影は既に反撃していた。
「エクスペリアームス」
赤い光。
斎賀は右へ避ける。
――右へ行く。
御影は知っている。
若い頃から、玄弥は最初の武装解除を右へ避ける癖がある。
だから二発目はもうそこへ飛んでいた。
「ステューピファイ」
斎賀が着地するはずだった場所へ赤い光が突き刺さる。
だが。
いない。
御影の眉が動いた。
斎賀は右へ身体を傾けた直後、木の幹を蹴って左へ飛んでいた。
「昔なら当たってたぜ」
「昔ならな」
御影の杖が斜め上を向く。
「インカーセラス」
斎賀の着地点を今度こそ縄が襲う。
しかし斎賀は避けなかった。
自分から縄へ左腕を入れた。
御影の目が僅かに細くなる。
「捕まえた」
次の瞬間、斎賀は拘束された腕ごと強く振り抜いた。
「お前をな」
縄が御影側へ引かれる。
御影は即座に術式を解除したが、そのほんの一瞬だけ重心が前へ寄った。
斎賀の杖が上がる。
「デパルソ!」
衝撃。
御影の身体が数メートル後方へ滑った。
倒れない。
靴底で地面を削りながら止まり、同時にもう杖を向けている。
斎賀が笑う。
「それだよ。それ」
「何だ」
「絶対転ばねえんだよな、お前」
御影のプロテゴが展開される。
その盾へ。
斎賀は魔法を撃たなかった。
代わりに。
石を蹴った。
「……」
ただの石ころが御影の盾へ当たる。
こん。
御影の視線が。
ほんの僅か。
そちらへ向いた。
その瞬間、斎賀の身体が消える。
否。
伏せた。
御影の視界より下へ身体を落とし、地面を滑るように一気に間合いを詰めてきた。
杖が。
近すぎる。
「エクスペリアームス!」
御影は盾を消した。
避けるのではなく。
斎賀の手首へ自分の杖を直接ぶつける。
軌道が逸れた。
赤い光が御影の耳元を掠める。
そのまま御影は斎賀の胸へ左肩をぶつけ、身体を押し離しながら至近距離で杖先を向けた。
「ステューピファイ」
斎賀が笑った。
「おっかねえ」
今度は斎賀がプロテゴを出す。
赤い光が盾へ当たるより早く、御影は次の魔法を足元へ撃ち込んでいた。
デパルソ。
防御姿勢のまま斎賀の身体が浮く。
そこへ。
エクスペリアームス。
斎賀は空中で身体を捻り、武装解除を肩で避ける。
だが、その先には拘束縄。
三手。
四手。
五手。
御影の魔法には奇抜なものが一つもない。
武装解除。
気絶。
拘束。
防御。
退去。
生徒へ教えているものと、大して変わらなかった。
違うのは。
その精度。
撃つ速さ。
選択。
そして、次の一手へ移るまでの無駄のなさ。
防げば次。
避ければ着地点。
反撃すればその杖先。
何百回、何千回と繰り返した基本が、ほとんど思考を必要としない領域まで磨き上げられている。
攻めているのに隙がない。
守っているのに後手へ回らない。
斎賀は木の陰へ滑り込みながら、楽しそうに笑った。
「相変わらずつまんねえ戦い方!」
御影の魔法が木を回り込んできた。
「勝てばいい」
「教師らしくなったじゃねえか!」
「昔からだ」
「嘘つけ!」
斎賀が木の反対側から杖だけを出した。
御影は即座に盾を張る。
何も来ない。
その間に、斎賀本人は木へ登っていた。
上。
御影が気づく。
斎賀が枝から飛ぶ。
「遅え!」
「知ってる」
御影は最初から杖を上へ向けていた。
斎賀の顔から初めて笑みが消える。
「ステューピファイ」
空中では避けられない。
斎賀は咄嗟に盾を出すが、御影の気絶呪文は普通のそれより遥かに重く、プロテゴごと身体が後方へ弾かれた。
それでも斎賀は空中で一度回転し、枝へ片足を掛けて着地する。
御影は追わない。
追えば。
何かある。
二十年以上前から。
斎賀は追わせるときほど危険だった。
沈黙。
二人が。
初めて少し距離を取る。
斎賀は木の枝に立ち。
御影は地上から見上げる。
互いに。
次を読んでいる。
御影は斎賀が定石を外すことを知っている。
斎賀は御影が定石を外さないことを知っている。
だからこそ。
読み合いになる。
斎賀が笑った。
「玄一郎」
「何だ」
「次、俺が何すると思う?」
「喋って時間を稼ぐ」
「正解」
枝が。
爆発した。
御影の視界が木屑で埋まる。
その向こう。
斎賀の姿が三つに増えた。
「……」
右。
左。
正面。
三人の斎賀が同時に走る。
幻影。
どれが本物か。
御影は見る。
杖。
歩幅。
肩。
呼吸。
癖。
そして。
撃たない。
「お?」
三人の斎賀が笑う。
御影は杖を地面へ向けた。
「デパルソ」
衝撃が。
全方位へ広がった。
木の葉と土が円形に吹き飛び、二つの幻影が煙のように消える。
本物だけが。
右側。
その衝撃を。
妙な姿勢で飛び越えていた。
御影の目が細くなる。
「そこか」
「やっぱそれやるよな!」
斎賀は。
待っていた。
御影が全方位へ魔法を撃つことを。
跳び上がった斎賀の杖が、御影ではなく透明な結界へ向く。
「デパルソ!」
反動。
斎賀自身が魔法に押される。
御影の予想とは。
逆方向。
後方へ飛ぶのではない。
結界へ撃った反作用で。
一気に御影へ突っ込んできた。
「……!」
斎賀の杖先が目前。
御影は身体を捻る。
間に合うか。
斎賀が。
笑った。
「十二年経っても、真面目だなあお前!」
森に。
二人の魔法が同時に閃いた。
*
同じ頃。
結界の向こう側では、まったく別の戦いが続いていた。
その中心にいたのは。
真壁征士郎だった。
「下がれ!」
真壁が杖を横薙ぎに振る。
巨大なプロテゴが扇状に広がり、奎星、日向、伊織、それどころか後方から合流しようとしていたスズメたちの進路まで丸ごと覆った。
狩人六人の呪文が一斉に防壁へ叩きつけられる。
一発。
二発。
六発。
盾は揺れる。
割れない。
「すっげ……」
奎星が思わず口にした。
真壁は振り返らない。
「見惚れてる場合か!」
「はい!」
「右三人、来るぞ!」
奎星が見る。
確かに。
盾へ攻撃を集中させている間に、三人が大きく回り込んでいた。
「日向!」
「おう!」
日向が走る。
一人目へ。
エクスペリアームス。
だが相手は防ぐ。
伊織が後ろから叫ぶ。
「日向、そのまま!」
二発目。
敵は日向へ撃った。
しかし。
日向は避けない。
「プロテゴ」
伊織の盾が先に出る。
日向は守りを任せ、そのまま相手へ踏み込む。
至近距離。
「ステューピファイ!」
一人。
倒れる。
二人目が横から来る。
奎星の杖が動いた。
「デパルソ!」
身体を吹き飛ばすのではなく。
杖先だけ。
押す。
敵の狙いが逸れる。
日向の頭上を光が通り抜けた。
「助かった!」
「前!」
「分かってる!」
三人目。
真壁が一撃で杖を飛ばす。
速い。
奎星は。
また見た。
杖を狙うのではない。
敵の腕。
いや。
握り。
魔法を撃つ瞬間。
指の力が一度だけ緩む。
そこへ。
当てている。
「……」
奎星の目が細くなる。
次。
別の敵。
奎星が撃つ。
「エクスペリアームス!」
外れた。
相手の腕。
少し上。
「蓮根君!」
真壁の声。
敵の反撃を真壁の盾が防ぐ。
「すんません!」
奎星は後ろへ下がる。
だが。
落ち込まない。
今の。
何が違った。
相手は。
撃つ直前。
肩が上がった。
次は。
そこを見る。
新しい狩人が杖を構えた。
奎星も構える。
敵が撃つ。
その瞬間。
手首。
指。
「エクスペリアームス!」
赤い光。
杖が飛んだ。
奎星の顔が明るくなる。
「できた!」
真壁が横目で見た。
「……今、私のを見たのか?」
「え?」
「武装解除の狙いだ」
「うん。そっちのが当たりやすそうだったから」
答えながら。
もう別の敵へ撃っている。
真壁は。
一瞬だけ。
言葉を失った。
一度。
見た。
それだけ。
それを。
次の一発で試し。
外す。
理由を考え。
その次で。
当てる。
御影が「異常な速度で覚える」と言っていた意味が、ようやく本当の意味で分かった。
「……玄一郎」
真壁が小さく呟く。
「あれを毎日見てるのか」
「何?」
「何でもない!」
前方。
狩人が増える。
真壁の表情が戻る。
「来るぞ!」
「おう!」
「はい!」
「そこ今!?」
真壁の盾。
奎星の盾。
二枚が重なる。
狩人の魔法が殺到した。
真壁は全員を守りながら、隙間から一発だけ撃つ。
一人。
杖が飛ぶ。
次の一発。
二人目。
ステューピファイ。
三人目が倒れる。
派手な大技を使っているわけではない。
ただ、真壁がいる場所から敵が一人ずつ確実に減っていく。
伊織が思わず呟いた。
「……エースだね」
日向が横で笑った。
「強すぎだろあのおっさん」
真壁の声が飛ぶ。
「聞こえてるぞ!」
「すいません!」
「おっさんは余計だ!」
「そこ!?」
奎星は笑いながら。
また真壁を見る。
盾を出す位置。
撃つ順番。
味方を動かす声。
敵を倒すより先に。
危険な相手を見つける目。
奎星の動きが。
少しずつ。
変わっていく。
さっきまでなら目の前の敵を追っていた場面で、一歩引く。
後ろを見る。
日向の位置。
伊織。
真壁。
そして。
遠く。
スズメたち。
「……」
一人を倒すより。
今は。
こっち。
「伊織!」
「何?」
「右の二人止めて! 日向、左!」
「分かった」
「おう!」
奎星は自分で中央へ残る。
その一瞬後。
真壁が見ていた相手と。
奎星が見ていた相手が。
同じになる。
危険。
攻撃役ではない。
後方から何か術式を作っている。
二人同時に。
「エクスペリアームス!」
光が重なる。
敵の杖が。
遥か後方へ飛んだ。
真壁が奎星を見る。
奎星も見る。
一瞬。
「被った!」
「悪くない!」
二人とも笑った。
*
最後の足枷が外れた。
黒い輪が地面へ落ちる。
「これで全部です!」
スズメが叫んだ。
岳が檻の扉を開ける。
鬼火鳥だけではない。
翼を縛られていた鳥たち。
角を拘束されていた獣。
小さな籠へ入れられていた魔法生物たち。
一斉に。
動き出す。
すぐ飛べるものは。
空へ。
傷ついたものは。
その場へ。
岳が叫ぶ。
「走れるやつは森の奥へ!」
人間の言葉が通じるわけではない。
それでも。
空気は。
伝わった。
檻から。
一匹。
また一匹。
出ていく。
鬼火鳥たちも。
青白い炎を揺らしながら。
集まる。
その中心。
岳たちが最初に助けた一羽が。
大きく鳴いた。
「キィィィィ――!」
十を超える鬼火鳥が。
答える。
山の中。
青白い炎が。
一斉に揺れた。
岳が。
ほんの少し。
笑った。
「よかった」
楓も息を吐いた。
「まだよ」
前を見る。
戦いは。
続いている。
「奎星たちのところへ戻らないと」
スズメが立ち上がった。
「行きます!」
三人が走る。
野営地を抜ける。
前線。
光。
煙。
土。
真壁の盾。
日向。
伊織。
そして。
奎星。
スズメの目が。
真っ先に。
そこへ向いた。
無事。
立っている。
戦っている。
その瞬間だけ。
胸が少し軽くなった。
「蓮根君!」
奎星が振り返る。
「スズメちゃん!」
「烏丸先生です!」
「無事!?」
「見れば分かるでしょう!」
「よかった!」
スズメが奎星の隣へ走り込む。
まるで。
そこが。
最初から自分の場所だったように。
杖を構える。
少し遅れて楓も前線へ戻った。
「日向!」
日向が振り返る。
「楓!」
「無茶してないでしょうね!」
「俺の第一声それ!?」
「してるの!?」
「ちょっとだけ!」
「馬鹿!」
言いながら。
楓は日向の隣へ入る。
日向が笑った。
「遅えよ」
「魔法生物助けてたの!」
「全部?」
「全部」
日向の顔が明るくなる。
「やるじゃん!」
「当たり前でしょ!」
二人の杖が。
同時に前へ向く。
伊織も横へ戻ってくる。
岳だけは。
来なかった。
解放された魔法生物たちのそばへ残る。
傷つき。
まだ飛べない。
逃げられない。
そんな生き物の前へ。
大きな身体で立つ。
「岳!」
奎星が遠くから呼ぶ。
岳は一度だけ振り返る。
「こっちは任せろ」
狩人の流れ弾。
一発。
岳が盾を張る。
「プロテゴ」
青白い炎の前。
透明な防壁。
魔法が。
弾ける。
「一発も通さない」
それで。
十分だった。
奎星は前を見る。
真壁。
右。
日向と楓。
左。
伊織。
隣。
スズメ。
後ろ。
岳。
訓練場。
何度も。
同じ形をやった。
青い布を。
守った。
あの布が。
今は。
本物になっただけ。
敵は。
まだいる。
多い。
増援までも。
まだ時間がある。
御影先生も。
向こう側。
何をしてるか。
分からない。
でも。
やることは。
分かる。
奎星は。
神代榊を握る。
息を吸う。
そして。
言った。
「いくぞ!」
命令ではなかった。
誰かに任されたわけでもない。
役職があるわけでも。
一番年上でも。
一番経験があるわけでもない。
ただ。
奎星が言った。
日向が。
笑う。
「おう!」
楓が杖を構える。
「分かった!」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「了解」
スズメも。
少しだけ。
奎星を見る。
「無茶はしないでくださいね」
「分かってる!」
後ろから。
岳。
「行け」
声が返る。
真壁は。
その真ん中で。
奎星を見た。
誰も。
迷わなかった。
奎星が声を出した瞬間。
自然に。
全員の意識が。
同じ方向へ向いた。
それは。
魔力量ではない。
呪文の才能でも。
古代魔術でも。
御影が。
教えたものでもない。
おそらく。
誰にも。
教えられないもの。
「……なるほど」
真壁が小さく笑った。
奎星が見る。
「何?」
「いや」
真壁は杖を構える。
「君は、そっちも持っているのかと思ってな」
「何が?」
「今はいい」
「気になる!」
「前を見ろ!」
「はい!」
真壁は。
もう一度。
少年を見る。
天才。
一万七百二。
死の呪文を消した少年。
古代魔術を止めた少年。
けれど。
もしかすると。
それらとは。
まったく別のところに。
この少年の。
もっと厄介で。
もっと大きな才能が。
あるのかもしれない。
奎星が。
杖を振る。
「行くぞ!」
今度は。
全員が。
同時に動いた。