森の中で、御影玄一郎と斎賀玄弥は互いに杖を下ろさないまま、ゆっくりと円を描くように歩いていた。
先ほどまでの激しい攻防で周囲の木々は何本も折れ、地面には呪文が抉った跡が幾筋も残っている。透明な結界の向こうでは今も戦闘音が響いているというのに、二人の間だけは妙に静かだった。
斎賀が土を踏む。
御影も同じだけ動く。
互いに視線は杖先ではなく、肩、腰、足元へ向いている。
二十年以上前から知っている。
相手が魔法を撃つ前。
どこが動くか。
どちらへ避けるか。
何を囮に使うか。
どんなときに勝負を急ぐか。
斎賀が先に笑った。
「腕上がったんじゃねえか? 玄一郎ぉ」
「……」
「昔より面倒くせえわ、お前」
御影は歩みを止めない。
「お前がいなくなってからも鍛錬を積んだ」
「へえ」
「お前がくだらない黒曜石の力を借りている間も、ずっとだ」
「俺ぁ石の力なんか借りてねぇ!!」
怒声とともに魔力が膨れ上がり、足元の枯葉が弾けるように散った。
御影の目が細くなる。
「だったら何をしていた!」
「話しててめえに分かるかよ!」
「話してみろ!」
「今じゃ征士郎は魔法省で出世して、お前に至っては先生だ。笑えるよな、三人の中で一番人に物教えんの向いてなかった奴がよ!」
「玄弥……」
「俺が!!」
斎賀の杖が跳ね上がった。
無詠唱のボンバーダ
空気を押し潰すような爆発が御影へ飛ぶ。
御影は真正面へプロテゴを展開したが、衝突の瞬間、その顔が僅かに変わった。盾そのものは破られていない。しかし衝撃が腕から肩まで突き抜け、靴底が地面を半歩滑った。
強い。
記憶の中より。
はっきりと。
「十二年間!!」
斎賀が二撃目を放つ。
無詠唱のコンフリンゴ
御影は身体を横へ投げた。直後、それまで立っていた地面が爆ぜ、土砂と木片が高く噴き上がる。
昔からこれだ。
御影の記憶が、嫌でも蘇る。
斎賀玄弥の魔法は、感情の昂りに比例して威力を増す。
怒れば怒るほど。
追い詰められれば追い詰められるほど。
杖から出る魔法が凶暴になる。
昔なら御影がそれを叱り、真壁が間に入った。
何度。
同じことをしたか。
「何してたか知らねえくせに!!」
斎賀が叫ぶ。
「インセンディオ!」
炎が一直線ではなく、地面を這うように広がった。
御影は一枚の盾で受けることをやめ、斜め前へ走る。炎が木々を飲み込むより早く水流を放って進路だけを断ち、そのまま杖を返した。
「エクスペリアームス!」
赤い光を斎賀は身体を沈めて避ける。
御影はそれを読んでいた。
「インカーセラス!」
着地点へ縄が走る。
斎賀も読んでいた。
着地しない。
横にあった木の幹へ片足をつき、ほとんど水平のまま蹴り返す。
「だからそれは知ってんだよ!」
飛びながらディフィンド。
御影は首を傾けるだけで鋭い刃を避け、頬のすぐ横を白い光が通過した瞬間には、すでに次を撃っていた。
「ステューピファイ!」
斎賀がプロテゴを出す。
赤い光が防壁へぶつかる。
その裏で斎賀は笑った。
「昔っからお前はそうだ。基本、基本、基本! 飽きねえの?」
「それでお前を何度止めた」
「七回」
「十一回だ」
「数えてんじゃねえよ!」
盾の陰から斎賀が杖を振り抜いた。
魔法は御影ではなく、頭上の太い枝へ当たる。
枝が折れる。
御影の真上へ落ちる。
普通なら避ける。
御影も、斎賀がそう読んでいることを知っていた。
だから避けなかった。
「デパルソ」
落下してきた枝を横へ吹き飛ばし、その向こうにいた斎賀へ同じ術式の余波を叩きつける。
「っ!」
斎賀が半歩崩れる。
御影の武装解除が来る。
それも斎賀は知っている。
だからあえて杖を左手へ投げた。
「何――」
右手が空になった瞬間、斎賀は御影へ殴りかかった。
魔法使い同士の決闘で。
しかもこの距離で。
普通はやらない。
御影は腕で受けた。
鈍い音。
斎賀は宙へ放った杖を左手で掴み直しながら、ほとんど密着した状態で魔法を撃つ。
「デパルソ!」
御影は咄嗟に斎賀の手首を上へ跳ね上げた。
衝撃が二人の頭上へ抜け、木々の枝葉をまとめて吹き飛ばす。
御影の膝が斎賀の腹へ入る。
斎賀が身体を折る。
そこへ杖。
斎賀の胸。
だが斎賀は笑った。
御影が気づく。
――誘われた。
斎賀の左脚が御影の足を払う。
御影は転びながら地面へ片手をつき、その勢いのまま身体を回して距離を取った。
二人とも。
すぐ立つ。
息が。
僅かに乱れている。
「……相変わらず、くだらんことばかり思いつく」
「褒めんなよ」
「褒めてない」
「知ってる」
一瞬だけ。
昔の会話だった。
だからこそ。
次の言葉が重かった。
御影は息を整えながら言う。
「俺らだって、ずっと探してた」
斎賀の表情が止まる。
「……」
「十二年間だ。俺も、征士郎もだ。お前が死んだという証拠が出なかったから、任務先も、失踪者も、闇市場も、国外記録も片っ端から調べた」
「……やめろ」
「征士郎は魔法省に残って調べ続けた。俺だって――」
「やめろっつってんだろ!」
斎賀の魔力が膨れ上がる。
御影は止めなかった。
「何をしていた、玄弥!」
「俺ぁ生き残るために汚いことだってした!!」
斎賀が叫んだ。
声が。
初めて。
揺れた。
「生きるためだ! 何でもやった! 使えるもんは使ったし、騙したし、奪った! そうしなきゃっ…!」
「それで今は何をしている!」
「黙れ!」
「魔法生物を捕まえて、羽根を引き抜いて、生徒まで襲って! それがお前の言う生き残るってことか!」
「黙れ!!」
「だから傷つけるのか!」
御影の怒声が重なる。
「子供もか!!」
斎賀の顔が歪んだ。
「黙れ!!」
杖が横薙ぎに振られる。
「ディフィンド!」
白い刃が。
森を裂いた。
御影は咄嗟に身体を反らす。
間に合わない。
長衣の胸元が大きく裂け、布の下へ赤い線が走った。
それでも御影は退かなかった。
むしろ。
そこからだった。
いつもの御影玄一郎なら、選ばない魔法が増えた。
「コンフリンゴ!」
斎賀の足元が爆ぜる。
「ボンバーダ!」
斎賀が盾を出す。
爆発。
御影は煙が晴れるのを待たない。
「ディフィンド!」
煙の中から斎賀の切断呪文。
「プロテゴ!」
御影が防ぎ、その防壁を自ら前へ押し出すようにデパルソを重ねる。
斎賀は横へ飛びながら炎を放ち、御影が避ける位置を読んで先に拘束縄を仕掛ける。御影はその縄を切断すると、今度はアクシオで足元の石を引き寄せ、斎賀の視界を一瞬だけ塞いでから武装解除を撃ち込んだ。
斎賀の杖が弾かれる。
――ように見えた。
指先一本で残っている。
「惜しい!」
斎賀は笑い、杖を引き戻しながら気絶呪文を撃った。
御影は首を振るだけで避けた。
互いに。
息が上がっていた。
肩も。
重くなっている。
斎賀の頬には切り傷があり、御影の長衣も何か所か裂けていた。二人とも何度も決定打になり得る攻撃を放っているのに、そのすべてが半歩、指一本、杖一本分だけ届かない。
強さが。
ほとんど同じだった。
御影が完成された基本で相手の選択肢を一つずつ潰せば、斎賀はその外側から訳の分からない手を持ち込んで盤面そのものを崩す。
御影が読み切る。
斎賀が外す。
斎賀が罠を張る。
御影が見抜く。
二人とも。
相手を知りすぎていた。
だから決まらない。
そして。
先に限界が来るのは。
どちらかだけ。
*
結界のこちら側では、最後の狩人が真壁のステューピファイを受けて倒れた。
十数分前まで森を埋め尽くしていた魔法の光は途絶え、地面には武装解除された杖や拘束縄に縛られた狩人たちが散らばっている。奎星たちは肩で息をしながら周囲を確認し、真壁だけは呼吸一つ乱していないように見えたが、その額には薄く汗が浮かんでいた。
「全員、残っている敵がいないか確認しろ。倒れている者には近づきすぎるな」
真壁がそう指示しながら透明な結界へ視線を向けた。
向こうでは、まだ戦いが続いている。
御影。
そして。
もう一人。
真壁の目が細くなった。
煙の切れ間から横顔が見える。
杖を左手へ投げ、掴み直す癖。
笑いながら間合いへ入り込む姿。
あまりにも。
見覚えがあった。
「……」
真壁の呼吸が止まる。
十二年前、何度も探した。
名簿にもいない。
遺体もない。
記録にも残らない。
それでも、どこかで生きているのではないかと探し続けた男。
「……玄弥……?」
低すぎる声は、隣にいた奎星にも聞き取れなかった。
「真壁さん?」
真壁は答えない。
ただ、透明な結界の向こうにいる男を見つめていた。
二人だったはずの過去が。
突然。
三人へ戻ったような気がした。
ほんの一瞬だけ。
*
斎賀が大きく息を吸った。
「玄一郎ぉ!」
正面から。
エクスペリアームス。
あまりにも。
普通。
御影の目が細くなる。
玄弥が。
この状況で。
真正面から普通に来るはずがない。
御影は避けなかった。
プロテゴ。
赤い光が弾ける。
案の定。
斎賀が消えた。
右。
違う。
左。
違う。
後ろ。
御影は振り返らなかった。
足元。
「昔からそれだ」
斎賀が地面すれすれを滑ってくる。
最初の武装解除を囮にして視線を上げさせ、死角へ潜り込む。
昔。
何度も見た。
ただし。
十二年前までなら。
御影も後ろへ退いていた。
今回は。
前へ出た。
「なっ――」
斎賀の予想が。
初めて。
完全に外れた。
御影が間合いの内側へ踏み込む。
斎賀が杖を上げる。
間に合わない。
御影の左手が斎賀の手首を掴み、そのまま外側へ捻った。
右手。
杖先。
胸。
至近距離。
二人の目が合う。
斎賀が。
小さく。
舌打ちした。
「ちっ」
御影の声は。
静かだった。
「ステューピファイ」
赤い光が、斎賀の胸元で弾けた。
斎賀の身体から一瞬で力が抜ける。
御影は手首を離した。
玄弥は。
何かを言おうとした。
けれど。
声にはならなかった。
そのまま。
地面へ倒れた。
森が。
静かになった。
御影はしばらく立っていた。
倒れた斎賀を。
見下ろしている。
十二年前。
帰ってこなかった。
死んだと思った。
何度も探した。
それでも。
どこにもいなかった。
その男が。
今。
目の前で眠っている。
生きている。
御影の杖を握る手が。
震えた。
「……馬鹿が」
それだけ言った直後。
御影の膝が。
地面へついた。
「……っ」
身体が限界だった。
使い慣れない高火力の呪文を何度も重ね、斎賀の予測不能な攻撃を避け続け、普段なら絶対に許さないほど魔力も体力も削っていた。
それでも。
御影は倒れなかった。
片膝をついたまま。
斎賀を見ている。
そのとき。
透明な結界の表面へ。
亀裂が走った。
一筋。
二筋。
黒い術式が浮かび。
砕ける。
そして。
巨大な壁が。
音もなく。
崩れ始めた。
*
最初に変化へ気づいたのは、結界のすぐ近くにいた真壁だった。
透明だった壁の内部に細かな亀裂が無数に走り、その一つ一つが黒い術式を引き裂きながら広がっていく。御影と斎賀の決着によって術者か術式の核が失われたのか、理由を考える暇もなく、山を二つに分断していた巨大な結界そのものが一斉に崩壊を始めた。
「全員、伏せろ!」
真壁の怒声に、奎星たちが顔を上げる。
壁は消えなかった。
砕けた。
魔力で作られていたはずの透明な結界が、まるで巨大な硝子の壁だったかのように無数の破片へ変わり、陽光を反射しながらこちら側へ雪崩れ込んでくる。大小さまざまな鋭い欠片が木々を切り、枝を落とし、地面へ突き刺さる光景を見た瞬間、真壁は全員の位置を確認した。
奎星。
スズメ。
日向。
楓。
伊織。
岳。
さらにその後ろには、まだ自力で遠くへ逃げられない魔法生物たちがいる。
避けるだけでは足りない。
「全員、私の後ろへ!」
真壁が杖を両手で握り、地面へ強く踏み込んだ。
「プロテゴ・マキシマ!」
白銀の光が爆発するように広がった。
半球状の巨大な防壁が奎星たちだけでなく、その後方に集まっていた鬼火鳥や解放された魔法生物まで一気に包み込み、直後、数え切れないほどの結界片が雨のように降り注ぐ。
耳を塞ぎたくなるような衝突音が続いた。
一枚、二枚などという数ではない。透明な破片が次々と白銀の盾へ激突して砕け、そのたびに光の波紋が空いっぱいへ広がっていく。
「うお……!」
日向が思わず声を漏らした。
楓も杖を構えながら真壁の盾を見上げる。
「これ全部……一人で?」
真壁は答えない。
両腕に力を込めたまま、一歩も動かず防壁を維持している。
奎星も見ていた。
やっぱり。
強い。
戦っているときからそうだった。
攻撃も。
防御も。
判断も。
全部。
自分より遥かに上。
それでも奎星の目は、ただ真壁の魔法に見惚れていたわけではなかった。
何を見るのか。
どこを見るのか。
さっきから。
ずっと真壁を見ていた。
だからこそ。
気づいた。
真壁の目が。
突然。
動いた。
ほんの僅か。
後ろ。
奎星たちの背後へ。
それまで崩壊する結界を追っていた視線が、一点だけを鋭く捉えた。
表情も変わる。
盾を維持しているせいで身体は動かせない。
けれど。
明らかに。
何かを見つけた。
奎星は反射的に、その視線を追った。
「……え?」
倒れている狩人たち。
その中。
一人。
女。
八咫祭の森で。
八咫小路で。
そして先ほど。
スズメに気絶呪文を受けて倒れたはずの女だった。
完全には立ち上がれていない。
片膝を地面につき、もう片方の手で身体を支えている。顔色は悪く、呼吸も荒い。
それでも。
右手には。
杖があった。
その先。
奎星は。
視線を辿る。
「……スズメちゃん?」
スズメは気づいていない。
真壁の《プロテゴ・マキシマ》の内側で、崩壊する結界と、その向こうに倒れている御影を見ていた。
女の口元が動く。
真壁が叫んだ。
「烏丸先生――!」
だが。
巨大な盾を維持している。
間に合わない。
女の杖先に。
青白い。
細い光が集まる。
奎星は。
知らない呪文だった。
それでも。
分かった。
駄目だ。
あれは。
今まで飛んできた気絶呪文とは違う。
盾越しですら分かる。
殺意。
敵を止めるためではない。
傷つけるための魔法。
女が叫んだ。
「セクタムセンプラ!」
光が飛んだ。
真っ直ぐ。
スズメへ。
その瞬間。
奎星の頭には。
何もなかった。
プロテゴを使う。
避けろと叫ぶ。
真壁に任せる。
そんな選択肢が浮かぶより先に。
身体が。
動いた。
一学期。
第零書庫。
背後にスズメがいて。
目の前から緑色の光が飛んできたときと。
同じだった。
「スズメちゃん!」
「え――」
奎星がスズメを突き飛ばす。
自分の身体を。
その場所へ入れる。
次の瞬間。
青白い光が。
奎星の胸へ直撃した。
「――っ」
音が。
消えた。
最初は。
何が起きたのか分からなかった。
シャツの胸元へ、細い赤い線が一本浮かぶ。
次に肩。
腕。
脇腹。
背中。
目に見えない何本もの刃が一斉に身体を走り抜けたように、服が裂け、その下から鋭い傷が次々と開いた。
「蓮根君――!」
スズメの声。
その声が聞こえた直後。
血が。
弾けた。
赤い飛沫が。
夏の森へ舞った。