マホウトコロ   作:西野圭吾

33 / 114
第14話 まだ早い

 

血飛沫が、夏の森へ舞った。

 

一瞬、誰も動けなかった。

 

奎星の身体に刻まれた傷は、一本ではない。胸を斜めに走る裂傷を皮切りに、肩から腕、脇腹、背中へと、見えない刃で何度も切りつけられたような傷が次々に開いていく。薄い紺色のシャツは、瞬く間に赤黒く染まった。

 

「……奎星?」

 

日向の声が掠れる。

 

その声が消えるより早く、真壁が動いた。

 

巨大な《プロテゴ・マキシマ》を維持していた杖を一瞬だけ返し、後方へ向ける。倒したはずの女狩人は、まだ片膝をついたまま、奎星を貫いた呪文の余韻に笑みを浮かべようとしていた。

 

真壁の目から、あらゆる感情が消えた。

 

「エクスペリアームス」

 

赤い閃光が女の手を正確に撃ち抜き、杖が遥か後方へ弾け飛ぶ。真壁は間髪入れず、杖先を僅かに下げた。

 

「インカーセラス」

 

地面から何本もの縄が噴き出し、女の両腕、両脚、胴体を一瞬で締め上げる。身体が強く地面へ叩きつけられた。

 

それでも真壁は止まらなかった。

 

「ステューピファイ」

 

三つ目の光が女の胸へ直撃し、女は完全に意識を失った。

 

わずか数秒の出来事だった。

 

だが、その数秒のあいだに、奎星の膝から力が抜けた。

 

「蓮根君!」

 

スズメが飛び込む。

 

倒れ込む身体を抱き留めた。十七歳の少年の身体は、彼女が思っていたよりずっと重い。それでも必死に両腕で支え、奎星の頭を胸元へ抱き寄せるようにして地面へ膝をついた。

 

「蓮根君……?」

 

返事がない。

 

さっきまで笑っていた。

 

ついさっきまで、《スズメちゃん》といつもの声で呼んでいた。その奎星が、今は目を閉じたまま動かない。

 

スズメは震える手を奎星の胸元へ触れた。

 

ぬるい。

 

濡れている。

 

掌を見ると、赤く染まっていた。

 

「…………」

 

息が止まる。

 

奎星の血。

 

自分を庇って、また一学期と同じように、自分の前へ飛び込んだ。

 

違う。

 

一学期より、ずっとひどい。

 

「いや……」

 

スズメの口から、ほとんど音にならない声が漏れた。

 

少し離れた場所では、楓も奎星を見ていた。

 

血。

 

倒れた奎星。

 

その身体を抱くスズメ。

 

状況を理解した瞬間、楓の顔から色が消えた。

 

「日向っ……」

 

日向が振り向く。

 

楓の目が大きく揺れていた。

 

「奎星がっ……奎星が……!」

 

泣き叫びそうになった楓を、日向は咄嗟に自分の胸へ抱き寄せた。

 

「大丈夫」

 

「でもっ……!」

 

「大丈夫だ。大丈夫だから」

 

楓の顔を自分の胸へ押しつける。血も、傷も、動かない奎星の姿も、見せないように。

 

「見んな。今は見なくていい」

 

「日向……」

 

「大丈夫だ……」

 

日向は何度も繰り返した。楓を安心させるために。そして、自分自身へ言い聞かせるために。

 

けれど、楓を抱く日向の肩も、はっきりと震えていた。

 

岳は動けなかった。

 

ついさっきまで解放した鬼火鳥たちの前に立ち、どんな流れ弾も通さないと言っていた大きな身体が、その場で固まっている。

 

「……奎星」

 

声だけが出た。

 

伊織も何も言えない。

 

いつもなら誰より早く状況を見て、何をすべきか考える。けれど今は、頭が何も動かなかった。

 

眼鏡の奥で、ただ倒れている友人を見つめている。

 

 

「蓮根……!」

 

透明な結界が崩れ落ちた向こうで、御影もその光景を見ていた。

 

血が舞うところを。

 

奎星が倒れるところを。

 

スズメが抱き留めるところを。

 

「……っ!」

 

立たなければ。

 

そう思った。

 

御影は片膝をついたまま、杖を支えにして立ち上がろうとする。しかし、脚へ力が入らない。

 

それでも、立たなければならなかった。

 

「動け……」

 

斎賀との死闘で、魔力も体力も底をついている。長衣の下にはいくつもの傷があり、呼吸するだけで胸元の裂傷が痛んだ。

 

そんなことは、どうでもいい。

 

「動け……!」

 

教師だ。

 

あいつらを連れてきたのも、自分が訓練したのも、守ると言ったのも自分だ。

 

危険な場所へ生徒を連れてきて、その生徒が目の前で倒れているのに、何もできない。

 

「生徒も守れないで……」

 

御影は歯を食いしばった。

 

「何が教師だ……!」

 

一歩、足を出す。

 

もう一歩。

 

地面が揺れたように見えた。

 

違う。

 

揺れているのは、自分の身体だった。

 

「蓮、根……」

 

三歩目は出なかった。

 

杖を握っていた手から力が抜け、御影玄一郎の身体がそのまま前へ崩れ落ちる。

 

「玄一郎!」

 

真壁が振り返った。

 

しかし、今はそちらへ行けない。

 

倒れた御影。

 

気絶した斎賀。

 

そして、目の前にはもっと一刻を争う少年がいる。

 

真壁は一瞬で優先順位を決めた。

 

「烏丸先生!」

 

スズメのもとへ駆け寄り、奎星の傷を確認する。

 

その顔が、初めて険しくなった。

 

「……まずいな」

 

出血量が多すぎる。

 

胸元だけではない。肩、腕、脇腹、背中。傷が深く、しかも通常の切創とは違う。

 

セクタムセンプラ。

 

それだけではない。

 

「烏丸先生、手をどかしてください」

 

返事がない。

 

スズメは奎星を抱いたまま固まっていた。両手で奎星の身体を必死に押さえている。血を止めようとしているのか、ただ離したくないのか、本人にも分からなかった。

 

「烏丸先生。治療します。手をどかしてください」

 

聞こえていない。

 

スズメの目は、奎星の顔しか見ていなかった。

 

「蓮根君……」

 

真壁が声を強める。

 

「烏丸先生!」

 

びくりと、スズメの肩が跳ねた。

 

ようやく真壁を見る。

 

「手を」

 

「あ……」

 

自分の両手を見る。

 

血に濡れている。

 

「……はい」

 

震える指を奎星から離す。

 

真壁はすぐに傷の上へ杖を構えた。

 

「ヴァルネラ・サネントゥール」

 

低く、ゆっくりと呪文を紡ぐ。

 

杖先から柔らかな光が伸び、奎星の胸元へ触れた。開いていた最も深い傷の縁が、ほんの僅かに近づいていく。

 

血の流れが弱まった。

 

スズメが息を呑む。

 

「……治ってる」

 

真壁は集中を崩さない。

 

「ヴァルネラ・サネントゥール」

 

もう一度、呪文を重ねる。

 

肩の傷が閉じる。

 

腕。

 

脇腹。

 

少しずつ、赤く裂けていた皮膚が繋がっていく。

 

「よかった……」

 

スズメが震える手で奎星の右手を握った。

 

冷たい。

 

いや、まだ温かい。

 

「大丈夫……」

 

指を絡めるように、強く握る。

 

「大丈夫ですから……」

 

誰に言っているのか分からない。

 

奎星に。

 

自分に。

 

その両方に。

 

「大丈夫……」

 

ぽた、と奎星の頬へ何かが落ちた。

 

スズメは、自分が泣いていることにようやく気づいた。

 

大粒の涙が、次々と頬を伝っている。

 

「蓮根君……お願いです」

 

握る手に、さらに力を込める。

 

「起きてください」

 

返事はない。

 

「いつまで寝ているのですか……」

 

いつもなら、起こせば嫌そうな声を出す。

 

あと五分。

 

今日は休み。

 

死ぬ。

 

そんな馬鹿なことを言って、布団へ潜ろうとする。

 

「蓮根君……」

 

今は何も言わない。

 

真壁の三度目の魔法が、背中の傷を閉じていく。

 

これなら助かる。

 

そう思った直後だった。

 

奎星の胸元。

 

閉じたはずの傷の上に、黒い線が浮かんだ。

 

「……え?」

 

スズメが目を凝らす。

 

赤黒い細い文字。

 

黒曜石の中で見たものと同じような色をしている。

 

傷の縁をなぞるように一瞬だけ光った。

 

次の瞬間。

 

ざくっ。

 

閉じた傷が、もう一度裂けた。

 

血が溢れる。

 

「……何?」

 

真壁の顔色が変わった。

 

「ヴァルネラ・サネントゥール!」

 

すぐに魔法を重ねる。

 

傷が閉じる。

 

数秒後、再び赤黒い文字が浮かび、傷が裂けた。

 

「なんで……」

 

スズメの声が震える。

 

真壁は答えない。

 

肩。

 

腕。

 

同じだった。

 

治す。

 

開く。

 

治す。

 

開く。

 

何度繰り返しても、奎星の身体に刻まれた傷は、まるで「治ることそのもの」を拒絶するように蘇ってくる。

 

真壁の額へ汗が滲んだ。

 

「黒曜石か……」

 

「え?」

 

「呪文に何か混ぜている。通常のセクタムセンプラじゃない」

 

「では解除を!」

 

「今探してる!」

 

真壁が杖を動かす。

 

治癒。

 

解除。

 

また治癒。

 

赤黒い文字。

 

再裂傷。

 

止まらない。

 

スズメは、そのたびに奎星の身体から流れ出す血を見ていた。

 

「……もっと」

 

真壁には聞こえなかった。

 

「もっと強く」

 

「何?」

 

スズメが真壁を見る。

 

その顔に、普段の冷静さはもうなかった。

 

「何をやっているんですか!」

 

真壁の目が見開かれる。

 

「もっと強く魔法をかけてください!」

 

「烏丸先生――」

 

「治癒魔法でしょう!? だったらもっと強く! もっと……早く……!」

 

「強さの問題じゃない!」

 

「でも血が!」

 

「分かっている!」

 

真壁も声を荒らげた。

 

冷静に見えた。

 

そうしていただけだった。

 

自分の手元で、十七歳の少年が死にかけている。

 

それも、自分が一度制圧した相手の最後の一撃で。

 

「ヴァルネラ・サネントゥール!」

 

光が強まる。

 

傷が閉じる。

 

また開く。

 

「くそっ……!」

 

もう一度。

 

「ヴァルネラ・サネントゥール!」

 

それでも、傷は再び開いた。

 

スズメは奎星の手を両手で握っていた。

 

「蓮根君!」

 

指先へ力を込める。

 

「起きてください!」

 

返事はない。

 

「お願いです、起きてください……!」

 

涙で視界が滲む。

 

「蓮根君……!」

 

真壁は何度も、何度も魔法をかけた。

 

奎星の傷が閉じるたび、赤黒い術式がそれを切り開く。

 

一度。

 

二度。

 

五度。

 

十度。

 

やがて、真壁の杖が止まった。

 

「…………」

 

光が消える。

 

スズメが顔を上げた。

 

「……真壁さん?」

 

返事がない。

 

「何をしているんですか」

 

真壁は奎星を見ていた。

 

「続けてください」

 

「……」

 

「真壁さん!」

 

「烏丸先生」

 

「早く!」

 

真壁は静かに首を横へ振った。

 

「これ以上は……」

 

言葉を選ぶ。

 

それでも、言わなければならない。

 

「無理な延命措置は、かえって彼を苦しめるだけだ」

 

スズメの表情が止まった。

 

「……何を」

 

「呪いが治癒を上回っている」

 

「だから解除すれば――」

 

「今ここに、その方法がない」

 

「魔法省なら!」

 

「増援はまだ来ていない」

 

「御影先生は!」

 

「倒れている」

 

「薬師寺先生を呼べば!」

 

「ここはマホウトコロじゃない!」

 

一つずつ、道が閉じていく。

 

スズメは奎星を見た。

 

血に濡れた顔。

 

閉じた目。

 

いつもなら、自分を見るとすぐに笑う。

 

「スズメちゃん」

 

そう呼ぶ。

 

何百回訂正しても、一度も直さなかった。

 

スズメは奎星の頬へ、そっと手を当てた。

 

「……お願いです」

 

声が小さくなる。

 

「蓮根君……」

 

頬を撫でる。

 

「目を覚ましてください……」

 

涙がまた落ちた。

 

「まだ……行っていないでしょう」

 

誰も声を出さない。

 

「箒専門店も……」

 

あの日、八咫小路で行こうと言っていた。

 

引っ張っていかなければ、何軒でも寄りそうな顔をしていた。

 

「魔法具屋も……行きたいと言っていたじゃないですか……」

 

あのときは断った。

 

調査だから。

 

遊びではないから。

 

「……行きますから」

 

スズメの声が震える。

 

「今度は……行きますから」

 

奎星の手を握る。

 

「甘味処だって……」

 

水羊羹。

 

あんみつ。

 

自分の皿のものまで欲しがった。

 

「何度だって……連れて行きますから……」

 

敬語を保とうとしている。

 

いつもの自分で。

 

教師として。

 

そうしなければ、崩れてしまう。

 

「葛切りだって……」

 

店を出た直後、今度は葛切りが食べたいと笑っていた。

 

自分は、はいはい、と流した。

 

「だから……」

 

息がうまく吸えない。

 

「お願いです……」

 

声が壊れる。

 

「お願い……」

 

そして、ついに敬語が消えた。

 

「目を覚まして……」

 

誰も何も言えなかった。

 

 

奎星は立っていた。

 

「……あれ?」

 

自分でも、どこにいるのか分からない。

 

森ではない。

 

山でもない。

 

マホウトコロでも、東京でもない。

 

夢。

 

たぶん、そうなのだろうと思った。

 

何もかもが少しだけぼやけている。

 

遠くの景色も、足元の草も、空も、ちゃんと見えているのに、輪郭だけが柔らかい。

 

それでも、綺麗だった。

 

空は夕方のようでもあり、夜明けのようでもある。

 

青。

 

紫。

 

金。

 

そのすべてが混ざり合っていた。

 

そして、目の前には大きな木があった。

 

「……でっか」

 

今まで見たどんな木よりも大きい。

 

幹だけで家がいくつも入りそうだった。枝は遥か上、雲の中まで伸びている。葉の一枚一枚が淡い青白い光を帯び、風が吹くたび、木全体が静かに瞬いていた。

 

奎星は無意識に腰へ手をやる。

 

杖がある。

 

神代榊。

 

いつもの、自分の杖。

 

そして、目の前の大樹と杖が同じものだと気づいた。

 

完全に同じというわけではない。

 

けれど、触れなくても分かる。

 

同じ何かが、そこにある。

 

奎星が木を見上げる。

 

そのさらに上、空を鳥が飛んでいた。

 

一羽。

 

十羽。

 

百羽。

 

数えられない。

 

鬼火鳥。

 

青白い炎をまとった群れが、大樹の周囲をゆっくり旋回している。火の粉が夜空の星のように降ってきた。

 

「……すげえ」

 

奎星は笑った。

 

そのとき。

 

「相変わらずだねえ」

 

声がした。

 

奎星の身体が止まる。

 

聞き間違えるはずがない。

 

ゆっくり振り返る。

 

大樹の根元に、一人の女性が立っていた。

 

病室にいたときのように痩せてはいない。

 

昔、家へ遊びに来て、母に隠れて小遣いを渡してきた頃の、元気な姿だった。

 

「……ばあちゃん」

 

八重子は笑った。

 

「奎星」

 

その声を聞いた瞬間、奎星の顔が歪んだ。

 

「……ばあちゃん」

 

歩く。

 

次の瞬間には、走っていた。

 

「ばあちゃん!」

 

抱きつく。

 

八重子の身体は温かかった。

 

ちゃんと、そこにいる。

 

「おっと」

 

八重子が笑いながら受け止める。

 

「でかくなったねえ」

 

「ばあちゃん……!」

 

奎星は離れなかった。

 

十六歳の冬。

 

病室。

 

痩せた手。

 

頬をつままれた。

 

またね、と言って。

 

次はなかった。

 

「ずっと……」

 

声が勝手に震える。

 

「ずっと会いたかったんだ」

 

八重子の手が奎星の頭を撫でた。

 

「そうかい」

 

「ばあちゃん」

 

「うん」

 

「俺さ……」

 

何を言えばいいのか分からない。

 

話したいことは、いくらでもあった。

 

魔法使いになった。

 

マホウトコロへ行った。

 

友達ができた。

 

先生も、変な小妖も、杖も、古代魔術も。

 

話したいことがありすぎる。

 

八重子は、それを全部分かっているように笑っていた。

 

「忙しくしてるみたいだね」

 

奎星が顔を上げる。

 

「知ってんの?」

 

「さてね」

 

「何それ」

 

「年寄りには秘密の一つや二つあるもんさ」

 

「死んでても?」

 

「口が悪いねえ」

 

昔みたいに、頭を軽く叩かれた。

 

奎星は笑った。

 

八重子の視線が、奎星の右手へ向く。

 

神代榊。

 

そして、その先に広がる鬼火鳥の群れ。

 

「そこまで来たか」

 

奎星も杖を見る。

 

「ばあちゃん、これ知ってんの?」

 

「そりゃあね」

 

「鬼火鳥も?」

 

「もちろん」

 

八重子は大樹を見上げた。

 

「蓮根家はね、遥か昔から鬼火鳥の友達だったのさ」

 

奎星が眉を上げる。

 

「友達?」

 

「そう。飼い主でもない。主人でもない。まして、あの子たちを従わせていたわけでもない」

 

一羽の鬼火鳥が、ゆっくりと降りてきた。

 

八重子の肩へ止まる。

 

青白い炎をまとっているのに、服は燃えない。

 

八重子がその首元を撫でた。

 

「困ったときは助ける。こっちが困ったときには助けてもらう。互いの場所を守って、互いの道を教える」

 

奎星が小さく呟く。

 

「支え合う……?」

 

「そういう関係のことさ」

 

奎星の頭へ、八咫小路で聞いた言葉が蘇った。

 

空木宗玄。

 

――鬼火鳥の群れを管理していた一族がいたらしい。

 

傷ついた個体を助け、神代榊まで飛ぶ道を守り、霊脈を管理したとも言われた。

 

「……待って」

 

奎星が八重子を見る。

 

「杖屋のじいちゃんが言ってた。昔、鬼火鳥を助けていた一族がいたって」

 

「そうかい」

 

「それって……」

 

空。

 

鬼火鳥。

 

神代榊。

 

自分の杖。

 

そして、蓮根八重子。

 

「俺ら?」

 

「そういうことだね」

 

奎星はしばらく何も言えなかった。

 

「……マジで?」

 

「マジだよ」

 

「ばあちゃんがマジって言うの、変な感じ」

 

「誰のばあちゃんだと思ってるんだい」

 

「俺の」

 

「なら似たんだろ」

 

「母さんじゃなくて!?」

 

八重子が声を上げて笑った。

 

奎星もつられて笑う。

 

けれど、そのあとで、ずっと聞きたかったことを思い出した。

 

「ばあちゃん」

 

「何だい?」

 

「なんで母さんに魔法のこと、ちゃんと教えなかったの?」

 

八重子の笑みが、少しだけ静かになる。

 

「俺にも、俺が魔法を使えるかもしれないって知ってたんだろ?」

 

「可能性はね」

 

「じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」

 

八重子はすぐには答えなかった。

 

大樹の幹へ、そっと手を触れる。

 

「蓮根家は、唯一鬼火鳥に認められた一家だった」

 

奎星が黙る。

 

「それがどういう意味か、昔は知っている人間も多かった。鬼火鳥の飛ぶ道を知っている。神代榊へ辿り着ける。霊脈の流れを知っている」

 

八重子の目が少し遠くなる。

 

「珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。味方になれと言う奴もいれば、利用しようとする奴もいる。守れと言う奴もいるし、独り占めしようとする奴もいる」

 

奎星は森で見た鬼火鳥を思い出した。

 

足枷。

 

切られた尾羽。

 

檻。

 

黒曜の狩人。

 

「……面倒だな」

 

「だろう?」

 

八重子が笑う。

 

「私はね、そんなものを娘に背負わせたくなかったのさ」

 

「母さんに?」

 

「あの子に魔力が出なかったと分かったときは、少し安心したよ」

 

「普通、逆じゃね?」

 

「親なんてそんなもんさ」

 

「そうなの?」

 

「そのうち分かる」

 

「まだいいわ」

 

八重子は今度は奎星を見る。

 

「まして、あんたにまで背負わせたくなかった」

 

「俺?」

 

「奎星」

 

八重子の手が、昔のように奎星の頬へ触れる。

 

「好きに生きてほしかったんだよ」

 

奎星の目が少し大きくなる。

 

「鬼火鳥がどうとか。蓮根家がどうとか。何百年前の約束がどうとか。そんなものを、生まれたときから背中へ括りつけたくなかった」

 

「……」

 

「魔法を知らずに生きるなら、それでもよかった。普通の学校へ行って、普通に馬鹿やって、好きなことを見つけて」

 

八重子は少し笑った。

 

「まあ、海賊はどうかと思うけどね」

 

奎星が目を見開く。

 

「なんで知ってんの!?」

 

「ばあちゃんだから」

 

「万能すぎだろ!」

 

八重子が声を上げて笑う。

 

奎星も笑った。

 

けれど、そのあとで少しだけ考える。

 

「……ばあちゃん」

 

「ん?」

 

「俺、今、色々楽しいよ」

 

八重子が静かに奎星を見る。

 

「魔法とか、最初はマジで意味分かんなかったけど」

 

奎星は笑った。

 

「学校へ行って、友達ができて。日向とか楓とか岳とか伊織とか、めっちゃうるせえし」

 

「お前が言うのかい」

 

「俺は普通」

 

「それはないね」

 

「ばあちゃんまで!?」

 

それでも奎星は笑っていた。

 

「スズメちゃんに歴史を教えてもらって、御影先生に魔法を教えてもらって。俺、勉強とかマジで嫌いだったのにさ」

 

手の中の杖を見る。

 

「面白いんだよ」

 

それは、自分でも少し不思議な言葉だった。

 

「魔法を学んで、よかったって思ってる」

 

八重子の目が柔らかくなる。

 

奎星は続けた。

 

「やりたいことも!」

 

少し胸を張る。

 

「まだ見つかってないけど!」

 

「見つかってないのかい」

 

「最後まで聞けよ!」

 

「はいはい」

 

「はいは一度!」

 

八重子が一瞬だけ目を丸くする。

 

そして、吹き出した。

 

「誰に教わったんだい、それ」

 

「スズメちゃん」

 

「なるほどねえ」

 

「何が?」

 

「何でもないよ」

 

奎星は少し首を傾げた。

 

「でもさ」

 

続ける。

 

「ちょっと分かってきたんだ」

 

御影。

 

あの背中。

 

強くて、怖くて、厳しくて。

 

それでも、誰かを守るために一番前へ立つ。

 

「俺、御影先生みたいになりたい」

 

八重子は何も言わず、聞いている。

 

「禍祓官になるかとか、まだ分かんねえけどさ。強くなって、ちゃんと誰かを守れて」

 

奎星は少し照れくさそうに鼻を掻いた。

 

「それで……」

 

ふと思い出す。

 

「あ」

 

「何だい?」

 

「葛切り」

 

「は?」

 

「スズメちゃんと葛切り食べるって言ったんだ」

 

八重子が目を細める。

 

「ほう」

 

「何その顔」

 

「いや?」

 

「水羊羹も食ったし、あんみつも食ったけど、葛切りはまだなんだよ」

 

「二人で?」

 

「うん」

 

「へえ」

 

「何だよ」

 

「別に?」

 

「その顔、スズメちゃんもする!」

 

八重子は笑った。

 

「じゃあ、そろそろ帰りな」

 

奎星が止まる。

 

「え?」

 

「話はまだいくらでもあるけどね」

 

八重子は奎星から一歩離れた。

 

「奎星。あんたがここへ来るには、まだ早すぎるよ」

 

奎星の表情から笑みが消えた。

 

「……ここって」

 

そこで初めて気づいた。

 

八重子は死んでいる。

 

ずっと前に死んだ。

 

その八重子が、ここにいる。

 

では、自分はなぜここにいるのか。

 

「……俺」

 

奎星は自分の身体を見る。

 

傷はない。

 

血も、痛みもない。

 

「俺……死んだの?」

 

八重子は答えなかった。

 

ただ、笑っている。

 

「ばあちゃん」

 

「帰りな」

 

「待って」

 

「奎星」

 

「俺、もっと話したい」

 

声が子どもみたいになった。

 

「ばあちゃんに、まだいっぱい話したい」

 

「うん」

 

「魔法のことも。学校のことも。スズメちゃんのことも。御影先生のことも」

 

「うん」

 

「母さんと父さんも元気だし」

 

「知ってるよ」

 

「俺……」

 

八重子の手が、もう一度奎星の頬へ触れた。

 

「またいつか聞くよ」

 

「いつ?」

 

「ずっと先さ」

 

「……」

 

「それまで」

 

八重子は指で奎星の頬を、昔のように軽くつまんだ。

 

「好きに生きな」

 

奎星の目が揺れる。

 

八重子は笑っている。

 

「迷惑だけは、ほどほどにね」

 

その瞬間、上空で何百羽もの鬼火鳥が一斉に翼を広げた。

 

青白い炎が空を覆う。

 

「うわ……」

 

奎星が見上げる。

 

火の粉が一つ、また一つと舞い落ちてくる。

 

無数の光が、雪のように降ってきた。

 

熱くない。

 

優しい青白い光だった。

 

肩へ。

 

手へ。

 

神代榊へ。

 

光が触れるたび、杖が淡く輝く。

 

奎星が八重子を見る。

 

「ばあちゃん!」

 

八重子の姿が、火の粉の向こうで少しずつぼやけていく。

 

「ばあちゃん!」

 

「奎星」

 

最後に八重子は、昔と同じ顔で笑った。

 

「またね」

 

青白い炎が、奎星の視界いっぱいに広がった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。