血飛沫が夏の森へ舞った。
一瞬、誰も動けなかった。
奎星の身体へ刻まれた傷は一本ではない。胸を斜めに走った裂傷を皮切りに、肩から腕、脇腹、背中へと見えない刃で何度も切りつけられたような傷が次々と開き、薄い紺色のシャツは瞬く間に赤黒く染まっていった。
「……奎、星?」
日向の声が掠れた。
その声が終わるより先に、真壁が動いた。
巨大な《プロテゴ・マキシマ》を維持していた杖を一瞬だけ返し、後方へ向ける。倒したはずの女狩人はまだ片膝をついたまま、奎星を貫いた呪文の余韻に笑みを浮かべようとしていた。
真壁の目から、あらゆる感情が消えた。
「エクスペリアームス」
赤い閃光が女の手を正確に撃ち抜き、杖が遥か後方へ弾け飛ぶ。続けて杖先をほんの僅かに下げた。
「インカーセラス」
何本もの縄が地面から噴き出し、女の両腕、両脚、胴体を一瞬で締め上げた。身体が強く地面へ叩きつけられる。
それでも真壁は終わらせなかった。
「ステューピファイ」
三つ目の光が胸へ直撃し、女は完全に意識を失った。
わずか数秒。
それだけだった。
だが、その数秒のあいだに。
奎星の膝から力が抜けた。
「蓮根君!」
スズメが飛び込んだ。
倒れ込む身体を抱き留める。十七歳の少年の身体は、彼女が思っていたよりずっと重かった。それでも必死に両腕で支え、奎星の頭を胸元へ抱き寄せるようにして地面へ膝をついた。
「蓮根君……?」
返事がない。
さっきまで笑っていた。
ついさっきまで。
《スズメちゃん》と。
いつもの声で。
呼んでいた。
その奎星が。
目を閉じている。
「……蓮根君?」
もう一度呼ぶ。
揺らす。
反応がない。
スズメの手が、奎星の胸元へ触れた。
ぬるい。
濡れている。
自分の掌を見る。
赤かった。
「…………」
息が止まった。
奎星の血。
自分を庇って。
また。
一学期と同じように。
自分の前へ。
飛び込んだ。
違う。
一学期より。
ずっと。
ひどい。
「いや……」
スズメの口から、ほとんど音にならない声が漏れた。
少し離れた場所では、楓も奎星を見ていた。
血。
倒れた奎星。
その身体を抱くスズメ。
理解した瞬間、楓の顔から色が消えた。
「日向っ……」
日向が振り向く。
楓の目が、大きく揺れていた。
「奎星がっ……奎星が……!」
泣き叫びそうになった楓を、日向は咄嗟に自分の胸へ抱き寄せた。
「大丈夫」
「でもっ……!」
「大丈夫だ。大丈夫だから」
楓の顔を、自分の胸へ押しつける。
見せないように。
血も。
傷も。
動かない奎星も。
「見んな。今は見なくていい」
「日向……」
「大丈夫だ……」
日向はそう言った。
何度も。
楓を安心させるように。
自分自身へ言い聞かせるように。
けれど。
楓を抱く日向の肩も、はっきりと震えていた。
岳は動けなかった。
ついさっきまで解放した鬼火鳥たちの前に立ち、どんな流れ弾も通さないと言っていた大きな身体が、その場で固まっている。
「……奎星」
声だけが出た。
伊織も。
何も言えない。
いつもなら誰より早く状況を見て、何をすべきか考える。
今は。
頭が。
何も動かなかった。
眼鏡の奥で、ただ倒れている友人を見つめていた。
*
「蓮根……!」
透明な結界が崩れ落ちた向こう。
御影も見ていた。
血が舞うところを。
奎星が倒れるところを。
スズメが抱き留めるところを。
「……っ!」
立たなければ。
そう思った。
御影は片膝を地面についたまま、杖を支えにして立ち上がろうとする。
脚へ。
力が入らない。
それでも。
「動け……」
斎賀との死闘で魔力も体力も底をついている。長衣の下にはいくつもの傷があり、呼吸するだけで胸元の裂傷が痛んだ。
そんなことは。
どうでもいい。
「動け……!」
教師だ。
あいつらを。
連れてきた。
自分が。
訓練した。
守ると言った。
危険な場所へ生徒を連れてきて。
その生徒が目の前で倒れているのに。
「生徒も守れないで……」
御影は歯を食いしばった。
「何が教師だ……!」
一歩。
出た。
もう一歩。
地面が揺れたように見えた。
違う。
自分が。
揺れている。
「蓮、根……」
三歩目は。
出なかった。
杖を握っていた手から力が抜け、御影玄一郎の身体がそのまま前へ崩れ落ちた。
「玄一郎!」
真壁が振り返る。
しかし。
今は行けない。
倒れた御影。
気絶した斎賀。
そして。
目の前には。
もっと一刻を争う少年がいる。
真壁は一瞬で優先順位を決めた。
「烏丸先生!」
スズメのもとへ駆け寄る。
奎星の傷を見る。
その顔が。
初めて険しくなった。
「……まずいな」
出血量が多すぎる。
胸元だけではない。
傷が深い。
しかもセクタムセンプラ。
通常の切創とは違う。
「烏丸先生、手をどかしてください」
返事がない。
スズメは奎星を抱いたまま。
固まっていた。
両手で。
奎星の身体を。
必死に押さえている。
血を止めようとしているのか。
ただ。
離したくないのか。
本人にも分からなかった。
「烏丸先生。治療します、手をどかしてください」
聞こえていない。
スズメの目は。
奎星の顔しか見ていない。
「蓮根君……」
真壁が声を強めた。
「烏丸先生!」
びくっ。
スズメの肩が跳ねた。
ようやく。
真壁を見る。
「手を」
「あ……」
自分の両手を見る。
血に濡れている。
「……はい」
震える指を。
奎星から離す。
真壁はすぐに傷の上へ杖を構えた。
「ヴァルネラ・サネントゥール」
低く。
ゆっくり。
呪文を紡ぐ。
杖先から柔らかな光が伸び、奎星の胸元へ触れた。
開いていた最も深い傷の縁が、ほんの僅かに近づいていく。
血の流れが弱まる。
スズメが息を呑んだ。
「……治ってる」
真壁は集中を崩さない。
「ヴァルネラ・サネントゥール」
もう一度。
肩の傷が閉じる。
腕。
脇腹。
少しずつ。
赤く裂けていた皮膚が繋がっていく。
「よかった……」
スズメが震える手で奎星の右手を握った。
冷たい。
いや。
まだ温かい。
「大丈夫……」
指を絡めるように。
強く握る。
「大丈夫ですから……」
誰に言っているのか。
分からない。
奎星に。
自分に。
両方に。
「大丈夫……」
ぽた。
奎星の頬に。
何かが落ちた。
スズメは。
自分が泣いていることに。
ようやく気づいた。
大粒の涙が。
次々と。
頬を伝っている。
「蓮根君……お願いです」
握る。
「起きてください」
返事はない。
「いつまで寝ているのですか……」
いつもなら。
起こせば。
嫌そうな声を出す。
あと五分。
今日休み。
死ぬ。
そんな馬鹿なことを言って。
布団へ潜ろうとする。
「蓮根君……」
今は。
何も言わない。
真壁の三度目の魔法が。
背中の傷を閉じていく。
これなら。
助かる。
そう思った。
直後だった。
奎星の胸元。
閉じたはずの傷の上に。
黒い線が浮かんだ。
「……え?」
スズメが見る。
赤黒い。
細い。
文字。
黒曜石の中で見たものと。
同じような色。
傷の縁をなぞるように。
一瞬。
光った。
次の瞬間。
ざくっ。
閉じた傷が。
もう一度。
裂けた。
血が溢れる。
「……何?」
真壁の顔色が変わる。
「ヴァルネラ・サネントゥール!」
すぐに魔法を重ねる。
傷が閉じる。
数秒。
再び。
赤黒い文字。
裂ける。
「なんで……」
スズメの声が震える。
真壁は答えない。
肩。
腕。
同じ。
治す。
開く。
治す。
開く。
何度繰り返しても。
奎星の身体へ刻まれた傷は、まるで「治ることそのもの」を拒絶するように蘇ってくる。
真壁の額へ汗が滲んだ。
「黒曜石か……」
「え?」
「呪文に何か混ぜている。通常のセクタムセンプラじゃない」
「では解除を!」
「今探してる!」
真壁が杖を動かす。
治癒。
解除。
また治癒。
赤黒い文字。
再裂傷。
止まらない。
スズメは。
そのたび。
奎星の身体から流れ出す血を見ていた。
「……もっと」
真壁は聞こえなかった。
「もっと強く」
「何?」
スズメが真壁を見る。
その顔に。
普段の冷静さは。
もうなかった。
「何やってるんですか!」
真壁の目が見開かれる。
「もっと強く魔法をかけてください!!」
「烏丸先生――」
「治癒魔法でしょう!? だったらもっと強く! もっと……早く……!」
「強さの問題じゃない!」
「でも血が!」
「分かってる!」
真壁も。
声を荒らげた。
冷静に見えた。
そうしていただけだ。
自分の手元で。
十七歳の少年が。
死にかけている。
それも。
自分が一度制圧した相手の。
最後の一撃で。
「ヴァルネラ・サネントゥール!」
光が強まる。
傷が閉じる。
また開く。
「くそっ……!」
もう一度。
「ヴァルネラ・サネントゥール!」
また。
開く。
スズメは。
奎星の手を。
両手で握っていた。
「蓮根君!」
指先へ力を込める。
「起きてください!」
返事はない。
「お願いです、起きてください……!」
涙で。
視界が滲む。
「蓮根君……!」
真壁は何度も。
何度も。
魔法をかけた。
奎星の傷が閉じるたび、赤黒い術式がそれを切り開く。
一度。
二度。
五度。
十度。
やがて。
真壁の杖が。
止まった。
「…………」
光が消える。
スズメが顔を上げた。
「……真壁さん?」
返事がない。
「何をしているんですか」
真壁は。
奎星を見ていた。
「続けてください」
「……」
「真壁さん!」
「烏丸先生」
「早く!」
真壁は。
静かに首を横へ振った。
「これ以上は……」
言葉を選ぶ。
それでも。
言わなければならない。
「無理な延命措置は、かえって彼を苦しめるだけだ」
スズメの表情が。
止まった。
「……何を」
「呪いが治癒を上回っている」
「だから解除すれば――」
「今ここに、その方法がない」
「魔法省なら!」
「増援はまだ来ていない」
「御影先生は!」
「倒れている」
「薬師寺先生を呼べば!」
「ここはマホウトコロじゃない!」
一つずつ。
道が。
閉じていく。
スズメは。
奎星を見た。
血に濡れた顔。
閉じた目。
いつもなら。
自分を見ると。
すぐ笑う。
「スズメちゃん」
そう呼ぶ。
何百回訂正しても。
一度も直さなかった。
スズメは。
奎星の頬へ。
そっと手を当てた。
「……お願いです」
声が。
小さくなる。
「蓮根君……」
頬を撫でる。
「目を覚ましてください……」
涙が。
また落ちる。
「まだ……行っていないでしょう」
誰も。
声を出さない。
「箒専門店も……」
あの日。
八咫小路。
行こう。
と言っていた。
引っ張っていかなければ、何軒でも寄りそうな顔をして。
「魔法具屋も……行きたいと言っていたじゃないですか……」
あのときは。
断った。
調査だから。
遊びではないから。
「……行きますから」
スズメの声が。
震える。
「今度は……行きますから」
奎星の手を。
握る。
「甘味処だって……」
水羊羹。
あんみつ。
自分の皿のものまで欲しがった。
「何度だって……連れて行きますから……」
敬語を保とうとしている。
いつもの自分で。
教師として。
そうしなければ。
崩れてしまう。
「葛切りだって……」
店を出た直後。
今度は葛切りが食べたい。
そう笑った。
自分は。
はいはい。
と流した。
「だから……」
息が。
うまく吸えない。
「お願いです……」
声が。
壊れる。
「お願い……」
そして。
ついに。
敬語が。
消えた。
「目を覚まして……」
誰も。
何も言えなかった。
*
奎星は。
立っていた。
「……あれ?」
自分でも。
どこにいるのか分からない。
森ではない。
山でもない。
マホウトコロでも。
東京でもない。
夢。
たぶん。
そう思った。
何もかもが。
少しだけぼやけていた。
遠くの景色も。
足元の草も。
空も。
ちゃんと見えているのに。
輪郭だけが。
柔らかい。
それでも。
綺麗だった。
空は。
夕方のようでもあり。
夜明けのようでもある。
青。
紫。
金。
その全部が。
混ざっている。
そして。
目の前には。
大きな木があった。
「……でっか」
今まで見た。
どんな木より。
大きい。
幹だけで。
家がいくつも入りそうだった。
枝は遥か上。
雲の中まで。
伸びている。
葉の一枚一枚が。
淡い青白い光を帯びていた。
奎星は。
無意識に。
腰へ手をやる。
杖。
ある。
神代榊。
いつもの。
自分の杖。
そして。
気づく。
「……同じ?」
目の前の大樹。
杖。
完全に同じとは言えない。
けれど。
触れなくても。
分かった。
同じ。
何かが。
ある。
奎星が木を見上げる。
そのさらに上。
空。
鳥が飛んでいた。
一羽。
十羽。
百羽。
数えられない。
鬼火鳥。
青白い炎をまとった群れが、大樹の周囲をゆっくり旋回している。
火の粉が。
夜空の星みたいに。
落ちてくる。
「……すげえ」
奎星は。
笑った。
そのとき。
「相変わらずだねえ」
声。
奎星の身体が。
止まった。
聞き間違える。
はずがない。
ゆっくり。
振り返る。
大樹の根元。
一人の女性が。
立っていた。
もう。
病室にいたときみたいに。
痩せていない。
昔。
家へ遊びに来て。
母に隠れて小遣いを渡してきた頃の。
元気な姿。
「……ばあちゃん」
八重子は。
笑った。
「奎星」
その声。
「久しぶりだね」
奎星の顔が。
歪んだ。
「……ばあちゃん」
歩く。
次。
走る。
「ばあちゃん!」
抱きついた。
八重子の身体。
温かい。
ちゃんと。
いる。
「おっと」
八重子が笑いながら受け止める。
「でかくなったねえ」
「ばあちゃん……!」
奎星は。
離れなかった。
十六歳の冬。
病室。
痩せた手。
頬をつままれた。
またね。
と言って。
次は。
なかった。
「ずっと……」
声が。
勝手に震える。
「ずっと会いたかったんだ」
八重子の手が。
奎星の頭を撫でた。
「そうかい」
「ばあちゃん」
「うん」
「俺さ……」
何を言えばいい。
いっぱいあった。
魔法使いになった。
マホウトコロへ行った。
友達ができた。
先生も。
変な小妖も。
杖も。
古代魔術も。
話したいことが。
ありすぎる。
八重子は。
それを全部分かっているように。
笑っていた。
「忙しくしてるみたいだね」
奎星が顔を上げる。
「知ってんの?」
「さてね」
「何それ」
「年寄りには秘密の一つや二つあるもんさ」
「死んでても?」
「口が悪いねえ」
昔みたいに。
頭を軽く叩かれた。
奎星は。
笑った。
八重子の視線が。
奎星の右手へ向く。
神代榊。
そして。
空を飛ぶ。
鬼火鳥。
「そこまで来たか」
奎星も杖を見る。
「ばあちゃん、これ知ってんの?」
「そりゃあね」
「鬼火鳥も?」
「もちろん」
八重子は。
大樹を見上げた。
「蓮根家はね、遥か昔から鬼火鳥の友達だったのさ」
奎星が眉を上げる。
「友達?」
「そう。飼い主でもない。主人でもない。まして、あの子たちを従わせてたわけでもない」
一羽の鬼火鳥が。
ゆっくり。
降りてきた。
八重子の肩へ。
止まる。
青白い炎。
けれど。
服は燃えない。
八重子がその首元を撫でる。
「困ったときは助ける。こっちが困ったときには助けてもらう。互いの場所を守って、互いの道を教える」
奎星が。
小さく呟く。
「支え合う……?」
「そういう関係のことさ」
奎星の頭へ。
声が蘇る。
八咫小路。
空木宗玄。
――鬼火鳥の群れを管理してた一族がいたらしい。
傷ついた個体を助け。
神代榊まで飛ぶ道を守り。
霊脈を管理したとも言われた。
「……待って」
奎星が八重子を見る。
「杖屋のじいちゃんが言ってた」
「うん?」
「昔、鬼火鳥を助けてた一族がいたって」
八重子が。
笑う。
「そうかい」
「それって……」
空。
鬼火鳥。
神代榊。
自分の杖。
そして。
蓮根八重子。
「俺ら?」
「そういうことだね」
奎星は。
しばらく。
何も言えなかった。
「……マジで?」
「マジだよ」
「ばあちゃんがマジって言うの変な感じ」
「誰のばあちゃんだと思ってるんだい」
「俺の」
「なら似たんだろ」
「母さんじゃなくて!?」
八重子が笑った。
奎星も。
つられて笑う。
でも。
一つ。
ずっと。
聞きたかったことがあった。
「ばあちゃん」
「何だい?」
「なんで」
少し。
言葉を探す。
「なんで母さんに魔法のこと、ちゃんと教えなかったの?」
八重子の笑みが。
少しだけ。
静かになる。
「俺にも」
奎星は続ける。
「俺が魔法使えるかもしれないって、知ってたんだろ?」
「可能性はね」
「じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」
八重子は。
すぐには答えなかった。
大樹の幹へ。
そっと手を触れる。
「蓮根家は、唯一鬼火鳥に認められた一家だった」
奎星が黙る。
「それがどういう意味か、昔は知ってる人間も多かった。鬼火鳥の飛ぶ道を知っている。神代榊へ辿り着ける。霊脈の流れを知っている」
八重子の目が。
少し遠くなる。
「珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。味方になれと言う奴もいれば、利用しようとする奴もいる。守れと言う奴もいるし、独り占めしようとする奴もいる」
奎星は。
森で見た鬼火鳥を思い出した。
足枷。
切られた尾羽。
檻。
黒曜の狩人。
「……面倒だな」
「だろう?」
八重子が笑う。
「私はね、そんなものを娘に背負わせたくなかったのさ」
「母さんに?」
「あの子に魔力が出なかったと分かったときは、少し安心したよ」
「普通逆じゃね?」
「親なんてそんなもんさ」
「そうなの?」
「そのうち分かる」
「まだいいわ」
八重子は。
今度は奎星を見る。
「まして、あんたにまで背負わせたくなかった」
「俺?」
「奎星」
八重子の手が。
昔みたいに。
頬へ触れる。
「好きに生きてほしかったんだよ」
奎星の目が。
少し大きくなる。
「鬼火鳥がどうとか。蓮根家がどうとか。何百年前の約束がどうとか。そんなものを、生まれたときから背中へ括りつけたくなかった」
「……」
「魔法を知らずに生きるなら、それでもよかった。普通の学校へ行って、普通に馬鹿やって、好きなこと見つけて」
少し笑う。
「まあ、海賊はどうかと思うけどね」
奎星が目を見開いた。
「なんで知ってんの!?」
「ばあちゃんだから」
「万能すぎだろ!」
八重子が。
声を上げて笑った。
奎星も笑った。
けれど。
そのあと。
少しだけ。
考えた。
「……ばあちゃん」
「ん?」
「俺」
神代榊を見る。
「今、色々楽しいよ」
八重子が。
静かに。
奎星を見る。
「魔法とか、最初マジで意味分かんなかったけど」
笑う。
「学校行って。友達できて。日向とか楓とか岳とか伊織とか、めっちゃうるせえし」
「お前が言うのかい」
「俺は普通」
「それはないね」
「ばあちゃんまで!?」
それでも。
奎星は笑っていた。
「スズメちゃんに歴史教えてもらって。御影先生に魔法教えてもらって。俺、勉強とかマジで嫌いだったのにさ」
手の中の杖を見る。
「面白いんだよ」
それは。
自分でも。
少し不思議な言葉だった。
「魔法学んで、よかったって思ってる」
八重子の目が。
柔らかくなる。
奎星は。
続ける。
「やりたいことも!」
少し。
胸を張る。
「まだ見つかってないけど!」
「見つかってないのかい」
「最後まで聞けよ!」
「はいはい」
「はいは一度!」
八重子が。
一瞬だけ。
目を丸くする。
そして。
吹き出す。
「誰に教わったんだい、それ」
「スズメちゃん」
「なるほどねえ」
「何が?」
「何でもないよ」
奎星は。
少し首を傾げた。
「でもさ」
続ける。
「ちょっと分かってきたんだ」
御影。
あの背中。
強くて。
怖くて。
厳しくて。
それでも。
誰かを守るために。
一番前へ立つ。
「俺、御影先生みたいになりたい」
八重子は。
何も言わず。
聞いている。
「禍祓官になるかとか、まだ分かんねえけどさ。強くなって。ちゃんと誰か守れて」
少し。
照れくさそうに。
鼻を掻く。
「それで」
ふと思い出した。
「あ」
「何だい?」
「葛切り」
「は?」
「スズメちゃんと葛切り食べるって言ったんだ」
八重子が。
目を細めた。
「ほう」
「何その顔」
「いや?」
「水羊羹も食ったし、あんみつも食ったけど、葛切りまだなんだよ」
「二人で?」
「うん」
「へえ」
「何だよ」
「別に?」
「その顔スズメちゃんもする!」
八重子は笑った。
「じゃあ」
少し。
声を柔らかくする。
「そろそろ帰りな」
奎星が。
止まった。
「え?」
「話はまだいくらでもあるけどね」
八重子は。
奎星から。
一歩。
離れた。
「ばあちゃん?」
「あんたがここに来るには」
笑う。
いつもの。
八重子の顔。
「早すぎるよ」
奎星の表情から。
笑みが消えた。
「……ここって」
そこで。
初めて。
気づいた。
八重子は。
死んでいる。
ずっと前に。
死んだ。
その八重子が。
ここにいる。
では。
自分は。
なぜ。
ここにいる。
「……俺」
奎星は。
自分の身体を見る。
傷はない。
血も。
痛みも。
何もない。
「俺……死んだの?」
八重子は。
答えなかった。
ただ。
笑う。
「ばあちゃん」
「帰りな」
「待って」
「奎星」
「俺、もっと話したい」
声が。
子どもみたいになった。
「ばあちゃんに、まだいっぱい話したい」
「うん」
「魔法のことも。学校のことも。スズメちゃんのことも。御影先生のことも」
「うん」
「母さんと父さんも元気だし」
「知ってるよ」
「俺……」
八重子の手が。
もう一度。
奎星の頬へ。
触れた。
「またいつか聞くよ」
「いつ?」
「ずっと先さ」
「……」
「それまで」
指で。
頬を。
昔みたいに。
つまむ。
「好きに生きな」
奎星の目が。
揺れた。
八重子は。
笑っている。
「迷惑だけは、ほどほどにね」
その瞬間。
上空。
何百羽もの鬼火鳥が。
一斉に。
翼を広げた。
青白い炎が。
空を覆う。
「うわ……」
奎星が見上げる。
火の粉。
一つ。
二つ。
無数。
雪みたいに。
降ってくる。
熱くない。
優しい。
青白い光。
肩へ。
手へ。
神代榊へ。
落ちる。
杖が。
光った。
奎星が八重子を見る。
「ばあちゃん!」
八重子の姿が。
火の粉の向こうで。
少しずつ。
ぼやけていく。
「ばあちゃん!」
「奎星」
最後に。
八重子は。
昔と同じ顔で。
笑った。
「またね」
青白い炎が。
奎星の視界いっぱいに広がった。