マホウトコロ   作:西野圭吾

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第15話 帰ってきた

 

青白い火の粉が、夏の森へ降っていた。

 

最初は一つだった。

 

八咫祭の森で奎星たちが助けた一羽の鬼火鳥が翼を広げる。その身体を包んでいた炎から、小さな光がこぼれ落ちた。すると、それに呼応するように、檻から解放された鬼火鳥たちも一羽、また一羽と翼を開いていく。

 

やがて十を超える青白い炎が、奎星の周囲を舞い始めた。

 

真壁は動けなかった。

 

治癒魔法では閉じられなかった傷へ、鬼火鳥の火の粉が触れていく。胸、肩、腕、脇腹。黒曜の呪いによって、何度塞いでも開き続けていた裂傷から、一瞬だけ赤黒い文字が浮かび上がった。

 

それを青白い炎が覆う。

 

文字は焼けることなく、朝靄が日差しに溶けるように、静かに消えていった。

 

「……何だ、これは」

 

真壁が呟く。

 

傷が閉じていく。

 

今度は、開かない。

 

一つ、また一つと、血に染まった服だけを残して、奎星の身体に刻まれていた裂傷が消えていった。

 

スズメは、それを見ることしかできなかった。

 

奎星の右手を握ったまま、瞬きさえ忘れたように見つめている。指先から伝わってくる体温は、まだ弱い。それでも、さっきまで失われ続けていた命の気配が、少しずつ戻ってきていた。

 

やがて鬼火鳥たちが一斉に舞い上がった。

 

青白い炎が空へ螺旋を描く。

 

その中心で、奎星の喉がかすかに動いた。

 

「……ん」

 

スズメの身体が固まる。

 

真壁も息を止めた。

 

奎星の指が、ほんの僅かに動いた。

 

ゆっくりと瞼が開く。

 

最初に見えたのは、空だった。

 

木々の隙間から差し込む夏の日差し。その下を、何羽もの鬼火鳥が青白い炎をまとって飛んでいる。

 

「……あれ」

 

夢の続きかと思った。

 

さっきまで、もっと大きな木があった。

 

ばあちゃんがいた。

 

たくさんの鬼火鳥が飛んでいた。

 

けれど今は、土の匂いがする。身体の下は硬く、遠くでは誰かが泣いている。

 

奎星はゆっくり視線を下ろした。

 

目の前にいたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたスズメだった。

 

普段なら乱れ一つない黒髪は崩れ、頬も目元も真っ赤になっている。大粒の涙が、今も次々と流れていた。

 

奎星は、しばらくその顔を見つめた。

 

こんな顔を見るのは初めてだった。

 

「……スズメちゃん……?」

 

スズメの目が大きく見開かれる。

 

「蓮根君……!」

 

次の瞬間、視界が黒髪でいっぱいになった。

 

「うわっ」

 

スズメが奎星を抱きしめた。

 

強く、本当に容赦なく。

 

両腕を背中へ回し、自分の胸元へ押しつけるように抱き寄せる。

 

「ちょ……!」

 

奎星の目が見開かれた。

 

「スズメちゃん、苦し……」

 

聞こえていない。

 

スズメは奎星の肩へ顔を押しつけたまま、腕の力を緩めなかった。

 

「……よかった」

 

掠れた声が、奎星の耳元で震える。

 

「よかった……」

 

その一言だけで、奎星にも何となく分かった。

 

自分は、かなりまずい状態だったらしい。

 

真壁は二人のすぐ横で、信じられないものを見るような顔をしていた。

 

「……消えている」

 

奎星の服には大量の血が残っている。地面にも、スズメの袖にも、胸元にも赤い血がべったり付いていた。

 

それなのに、傷だけがない。

 

真壁は奎星の胸元を確認し、肩、腕へ目を移す。

 

「黒曜の術式ごと……?」

 

理解できなかった。

 

あれほど治癒を拒絶していた呪いが、跡形もなく消えている。

 

その横で、奎星はまだスズメに抱きしめられていた。

 

「スズメちゃん……」

 

「……はい……」

 

返事がやたら素直だった。

 

「なんか……」

 

スズメが少しだけ身体を離す。目にはまだ涙が溜まっていた。

 

「どうしました……?」

 

奎星は、近い距離にあるスズメの顔を見た。それから、鼻を少し動かす。

 

「なんか、すっげー……」

 

「……?」

 

「いい匂いする……」

 

数秒の間、森から音が消えた。

 

スズメの顔が一気に真っ赤になる。

 

「烏丸先生!!」

 

ぱぁん、と乾いた音が森へ響いた。

 

奎星の顔が真横を向く。

 

真壁ですら目を見開いた。

 

「……え」

 

奎星が頬を押さえる。

 

「いってぇー!!」

 

今まで死にかけていたとは思えない声だった。

 

スズメは奎星から勢いよく離れ、真っ赤な顔のまま肩で息をしている。

 

「な、なんで!? 俺なんか言った!?」

 

「言いました!」

 

「いい匂いって褒めたじゃん!」

 

「今言うことですか!?」

 

「だって近かったから!」

 

「そういう問題ではありません!」

 

いつもの奎星だった。

 

真壁はしばらく唖然としていたが、やがて張り詰めていた肩から少しだけ力を抜いた。

 

この騒がしさが戻ってきたのなら、多分、大丈夫だ。

 

奎星は頬を擦りながら、ようやく周囲を見回した。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

全員が、何とも言えない顔でこちらを見ている。

 

次に、自分の服へ目を落とす。

 

「……ん?」

 

血だらけだった。

 

地面にも血がある。

 

スズメの服には、もっと血が付いている。

 

奎星は数秒、何が起きたのかを考えた。

 

さっきまで夢みたいな場所にいた。

 

八重子に会った。

 

その前は、何をしていた?

 

女。

 

杖。

 

スズメ。

 

青白い光。

 

「……あ」

 

思い出した。

 

奎星は自分の胸へ触れ、肩、腕へ順番に手を当てていく。

 

どこにも痛みはない。

 

「痛くない」

 

全員が奎星を見る。

 

奎星は安心させるように笑い、右頬を指差した。

 

「あ、痛いのは……ここだけ」

 

ぱぁん、と二発目の音が響いた。

 

「いってぇ!!」

 

今度は左を向く。

 

「二発目!? なんで!?」

 

スズメの目から、また涙がこぼれた。

 

「あなたは……!」

 

怒っているのか、泣いているのか。もう本人にも分からないのだろう。

 

「あなたは本当に……!」

 

最後まで言葉にならなかった。

 

その直後、別のものが奎星へ飛び込んできた。

 

「うわっ!」

 

楓だった。

 

正面から、思いきり抱きついてくる。

 

「馬鹿!!」

 

「楓!?」

 

「本当に馬鹿!!」

 

声が震えていた。

 

「何で……何でまたそういうことするのよ!!」

 

「いや、だってスズメちゃんが――」

 

「そういうとこ!!」

 

「え!?」

 

楓は泣いていた。

 

普段なら、奎星相手にこんなふうに抱きつくはずがない。けれど今は、止められなかった。

 

「死ぬかと思った……!」

 

その一言で、奎星の表情が変わる。

 

「あ……」

 

楓の後ろから、日向が歩いてきた。

 

いつもの笑顔を作ろうとしている。

 

けれど、全然できていなかった。

 

目が赤い。

 

「奎星」

 

日向は奎星を見つめたまま、何かを言おうとした。

 

「お前さ、マジで……」

 

そこで一度、言葉が止まる。

 

日向は何かを誤魔化すように鼻を擦り、奎星の頭を乱暴に掴んで引き寄せた。

 

「次やったら俺が殺すからな!」

 

「死にかけたやつに言う!?」

 

「うるせえ!」

 

その横から、岳も近づいてくる。

 

「岳?」

 

返事の代わりに、岳が奎星へ抱きついた。

 

ぎゅう、と大きな腕が締まる。

 

「痛い痛い痛い! 岳が一番力強い!」

 

「……」

 

「岳?」

 

「よかった」

 

それだけだった。

 

奎星は黙り、岳の大きな背中を軽く叩いた。

 

「……おう」

 

そして最後に、伊織が近づいてくる。

 

奎星が見る。

 

「伊織」

 

伊織は少し離れたところに立ち、眼鏡を押し上げた。

 

「僕はそういう暑苦しいの、いいから」

 

声は普通だった。

 

奎星が笑う。

 

「伊織っぽ――」

 

最後まで言う前に、伊織も奎星へ抱きついた。

 

奎星の顔が止まる。

 

「…………」

 

「…………」

 

「伊織?」

 

「今は喋らないで」

 

「はい」

 

伊織の腕にも、しっかり力が入っていた。

 

結局、日向、楓、岳、伊織の全員が奎星の周りへ集まった。

 

四方向から押し潰され、奎星は悲鳴を上げる。

 

「ちょ、待っ……苦し……!」

 

誰も離れない。

 

「俺! 今一番苦しい!!」

 

それは、傷が本当にもうないという、何よりの証拠だった。

 

少し離れた場所で、スズメはその光景を見ていた。

 

泣きながら、ほんの少し笑っている。

 

 

それから二十分ほど経った頃、山の空に何本もの白い光が走った。

 

最初に現れたのは、魔法省の紋章を掲げた大型の飛行馬車だった。翼のない黒い馬たちが何もない空を駆け、その後ろへ長い車体を引いている。さらに後方から数台の小型馬車が続き、山の開けた場所へ次々と降下してきた。

 

禍祓官、医療術師、魔法生物管理部門の職員たちが地面へ降り立つと、目の前に広がる惨状を確認する間もなく、一斉に動き始めた。

 

拘束された黒曜の狩人たちを確認し、一人ずつ杖を回収して魔法封じを施していく。

 

その途中、数人の禍祓官が森の奥で足を止めた。

 

「……え?」

 

倒れている男へ、一人の年嵩の禍祓官が近づく。

 

顔を確認した瞬間、その表情が変わった。

 

「斎賀……?」

 

別の男も駆け寄る。

 

「嘘だろ」

 

「十二年前の……」

 

小さな声が交わされる。

 

真壁は何も言わなかった。

 

気絶した斎賀のそばへ立ち、魔法省の拘束具が両手首へ掛けられるのを、黙って見届けている。

 

少し離れた場所では、御影も医療術師たちに囲まれていた。

 

「歩ける」

 

御影が起き上がろうとすると、即座に押し戻される。

 

「歩けません」

 

「歩ける」

 

「さっき倒れましたね?」

 

「……」

 

「重症者です」

 

「蓮根は」

 

御影の視線が奎星へ向く。

 

奎星は地面へ座り、岳と何か話していた。血だらけだった服は着替えさせられているが、本人はいつも通りの顔で笑っている。

 

医療術師も困惑していた。

 

「大量の血液は確認できるんですが……外傷がありません」

 

御影の眉が動く。

 

そのとき、奎星が御影に気づいた。

 

「御影先生!」

 

手を振る。

 

「俺、全然平気!」

 

御影はしばらく奎星を見つめた。

 

そして、ほんの僅かに目を閉じる。

 

「……そうか」

 

その直後、御影は担架へ載せられた。

 

「いや、自分で歩ける」

 

「歩けません」

 

「歩ける」

 

「歩けません」

 

そのまま運ばれていく御影を見て、奎星が笑う。

 

「御影先生、めっちゃ怒られてんじゃん」

 

「あなたもです」

 

背後からスズメの声がした。

 

奎星が振り返る。

 

「え?」

 

「乗ってください」

 

そこには、もう一つ担架が用意されていた。

 

「いや、俺、怪我ないって!」

 

「乗ってください」

 

「歩ける!」

 

「駄目です」

 

「御影先生より元気だぞ!」

 

「乗りなさい」

 

「スズメちゃん!」

 

「烏丸先生です!」

 

「戻った!」

 

最終的に、奎星もほぼ強制的に怪我人として運ばれることになった。

 

 

解放された魔法生物たちも、その場へ放置されることはなかった。

 

飛べる個体の中には山へ戻っていくものもいたが、羽根を傷つけられた鳥や、長期間拘束されて衰弱した獣、尾羽を抜かれた鬼火鳥たちは、魔法省の魔法生物管理部門が一頭ずつ状態を確認し、安全な治療施設へ移送することになった。

 

岳は最後まで、鬼火鳥たちのそばを離れなかった。

 

「ちゃんと治してくれますか」

 

管理官へ、何度も確認する。

 

「もちろん。元気になれば、可能な個体から野生へ戻す」

 

「どこに?」

 

「本来の生息域が分かれば、そこへ」

 

岳は少し離れたところにいる奎星を見る。

 

「帰す場所は」

 

奎星も岳を見る。

 

そして、血の跡が残る服のまま、いつものように笑った。

 

「分かるかも」

 

岳の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 

魔法省の移動馬車は、夕暮れの空を走っていた。

 

外から見たよりも車内はずっと広く、治療用に作られているらしく、車体が上下しても内部はほとんど揺れない。左右には簡易寝台が並び、その一つに御影が寝かされ、向かい側には奎星がいた。

 

御影は胸や腕に包帯を巻かれ、完全に重症者として扱われている。

 

一方の奎星は、血だらけの服から着替えさせられた以外、ほぼ無傷だった。それでも、スズメの判断で寝台へ寝かされている。

 

「俺、座っていい?」

 

「駄目です」

 

「さっきから寝てるだけじゃん」

 

「死にかけた人は黙って寝ていてください」

 

「もう死にかけてないじゃん」

 

「死にかけました」

 

スズメは奎星の寝台の横に置かれた椅子へ座っていた。

 

いつもの濃紺の教員衣ではない。遠征用の服も奎星の血が落ちきらず、袖の一部にはまだ薄い赤が残っている。

 

奎星はそれに気づいた。

 

「……ごめん」

 

スズメが見る。

 

「何がです?」

 

「服」

 

「そこですか?」

 

「血ついちゃったじゃん」

 

スズメは、また少し怒りそうな顔をした。

 

奎星が慌てて手を上げる。

 

「ビンタは禁止!」

 

「しません!」

 

「よかった」

 

「今は」

 

「今は!?」

 

スズメはため息をついた。

 

けれど、怒鳴りはしなかった。

 

馬車の窓の向こうでは、夕方の雲がゆっくり流れている。森の上を離れ、山の稜線が少しずつ遠ざかっていく。

 

奎星はしばらくその景色を眺めたあと、静かに口を開いた。

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「俺さ、変なとこ行ってた」

 

「変なところ?」

 

「夢かもしんないけど」

 

奎星は天井を見上げた。

 

大きな木。

 

青白い空。

 

鬼火鳥。

 

そして。

 

「ばあちゃんに会った」

 

スズメの表情が変わる。

 

「八重子さんに?」

 

「うん」

 

奎星は少し笑った。

 

「元気だった」

 

「……そうですか」

 

「昔の感じ。病院にいた最後の頃じゃなくて、普通に家へ来て小遣いくれてた頃」

 

その声には、悲しさよりも、久しぶりに家族へ会えた人の満足感があった。

 

「抱きついた」

 

スズメは何も言わず、奎星の話を聞いている。

 

「ずっと会いたかったんだよな」

 

奎星はそう言いながら、窓の外へ目を向けた。

 

「でさ」

 

寝台の横へ丁寧に置かれた神代榊を見る。

 

「鬼火鳥と、俺のばあちゃんは友達なんだって」

 

スズメが眉を寄せる。

 

「友達……?」

 

「うん。ていうか、ばあちゃんだけじゃなくて」

 

奎星は思い出しながら、ゆっくり話した。

 

蓮根家。

 

鬼火鳥。

 

神代榊。

 

昔から、助けたり助けられたりしてきたこと。

 

八咫小路で空木が言っていた、鬼火鳥を守っていた一族のこと。

 

「多分、あれ、蓮根家だったんだよ」

 

スズメの表情が、完全に研究者のものへ変わった。

 

「……それを八重子さんが?」

 

「言ってた」

 

「正確には、どのような表現でした?」

 

「え?」

 

「鬼火鳥を管理していたのですか。それとも共生関係に――」

 

「急に研究者になるじゃん!」

 

スズメがはっとして口を閉じる。

 

「……すみません」

 

奎星が笑った。

 

「ばあちゃんは、友達って言ってた」

 

「友達」

 

「飼ってたわけでも、言うことを聞かせてたわけでもなくて。困ったら助ける。向こうも助けてくれる」

 

奎星は少し考えた。

 

「支え合う関係って」

 

スズメは、その言葉を静かに胸へ置くように聞いていた。

 

「……そうですか」

 

「うん」

 

奎星は窓の向こうを見る。

 

遠くには、別の移送用馬車が飛んでいる。そこには、傷ついた鬼火鳥たちが乗っているはずだった。

 

「あいつらさ」

 

「はい」

 

「俺がいないと、帰れないみたいだから」

 

スズメが奎星を見る。

 

嫌な予感ではない。

 

もう分かっている。

 

この少年なら、次に何を言うのか。

 

「みんなが治ったら、帰しに行こう」

 

やはりそうだった。

 

スズメは目を閉じ、深い、深いため息をついた。

 

「あなたは全く……」

 

「何?」

 

「つい先ほどまで死にかけていた人が、目を覚まして最初に心配するのが鬼火鳥ですか」

 

「最初じゃないぞ」

 

「では、何でした?」

 

奎星は少し考えた。

 

「スズメちゃん、いい匂い――」

 

「それ以上言ったら三発目です」

 

「すみません」

 

今度は即座に謝った。

 

スズメは額を押さえた。

 

けれど、その口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

「本当に……どうしてあなたは」

 

途中で言葉が止まる。

 

奎星が見る。

 

「ん?」

 

スズメは、奎星の右手へ目を落とした。

 

さっきまで、ずっと握っていた手。

 

離したら、そのままどこかへ行ってしまうような気がして、必死に握っていた。

 

今は、ちゃんと動いている。

 

「……怖かったんですよ」

 

奎星の表情が少し変わる。

 

スズメは視線を上げなかった。

 

「本当に」

 

声が小さい。

 

「あなたが……もう、目を覚まさないのではないかと」

 

奎星は何も言わなかった。

 

こういうとき、いつもなら冗談を言う。

 

大丈夫だって。

 

俺は強いし、死なねえよ、と。

 

けれど今は、そうしなかった。

 

代わりに少し迷ってから手を伸ばし、スズメの手へ指先を重ねる。

 

スズメが顔を上げた。

 

「……蓮根君?」

 

「ごめん」

 

「……」

 

「心配かけた」

 

あまりに素直な言葉だった。

 

スズメの目が、また少し揺れる。

 

「……本当にですよ」

 

「うん」

 

「あなたは、いつもそうやって自分のことを後にするから」

 

「でもスズメちゃんいたし」

 

「それです」

 

スズメは少しだけ強い声で言った。

 

「私がいたから、ではありません」

 

「……?」

 

「私だって」

 

スズメは、奎星の手の上へ自分の指をほんの少し重ねた。

 

「あなたがいなくなるのは、嫌です」

 

奎星が止まった。

 

「…………」

 

スズメも、言ってから動けなくなった。

 

馬車の中が急に静かになる。

 

車輪はないのに、空を走る馬車から微かな風の音だけが聞こえていた。

 

奎星の耳が少し赤くなる。

 

「……そっか」

 

「……はい」

 

スズメも視線を逸らす。

 

「じゃ」

 

奎星が言った。

 

「死なないようにする」

 

スズメが見る。

 

「できるのですか?」

 

「頑張る」

 

「そこは約束してください」

 

「約束すると、破ったとき怒られるじゃん」

 

「怒りますよ」

 

「じゃ、頑張る」

 

「蓮根君」

 

奎星が笑った。

 

「でもさ」

 

「何です?」

 

「葛切り」

 

「……」

 

「まだだからな」

 

スズメは少しだけ笑った。

 

「……そうですね」

 

「魔法具屋も」

 

「それは別です」

 

「なんで!?」

 

「葛切りは言いましたが、魔法具屋へ行くとは言っていません」

 

「俺、死にかけてんのに!?」

 

「今は元気でしょう」

 

「扱い戻るの早すぎ!」

 

「元気なら当然です」

 

奎星は笑った。

 

スズメも、今度ははっきりと笑った。

 

その向かいの簡易寝台で、御影玄一郎は目を閉じていた。

 

意識は、とっくに戻っている。

 

最初は本当に眠っていた。

 

途中、「ばあちゃんに会った」と聞こえたあたりで目が覚めた。声を掛けようとも思ったが、その後は何となく起きる機会を失ってしまった。

 

――私だって、あなたがいなくなるのは嫌です。

 

御影は目を開けなかった。

 

今起きたら、非常に面倒な空気になる。

 

教師として、生徒と同僚の会話へ不用意に割って入らない。

 

適切な判断だ。

 

そういうことにしておいた。

 

「葛切り食ったことある?」

 

奎星の声が聞こえる。

 

「あります」

 

「どこの?」

 

「八咫小路です」

 

「じゃ、今度そこ!」

 

「調査が終わってからです」

 

「まだ調査扱い!?」

 

「鬼火鳥を帰すのでしょう?」

 

「あ、そうだった!」

 

「忘れないでください!」

 

御影は寝たふりを続けた。

 

心の中で、一度だけ思う。

 

元気すぎる。

 

つい数時間前まで死にかけていた男とは、到底思えなかった。

 

けれど、それでいい。

 

馬車は夕暮れの空を進んでいく。

 

マホウトコロへ。

 

生きて、帰るために。

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