夏休み最後の日。
朝の空には、もう真夏の盛りとは少し違う色が混じっていた。雲は高く、海から吹いてくる風にもほんの僅かだけ涼しさがある。それでも日差しは十分に強く、マホウトコロの発着場へ集まった奎星たちは、荷物を積み込むだけで額に汗を浮かべていた。
「最後の日まで学校にいるとは思わなかったな」
日向が大型のウミツバメを見上げながら言う。
「お前、夏休みの半分くらいここいたんじゃね?」
奎星が指を折った。
「八咫祭で来て、そのまま泊まって、修行して、山行って、帰ってきて、課題やって……」
途中で数えるのをやめる。
「……ほぼ学校じゃん」
伊織が荷物を確認しながら答えた。
「最初は夏休みだから東京へ帰れるって喜んでたのにね」
「俺の夏休みどこ行った?」
楓が呆れた顔をする。
「八咫祭も行ったし、甘味処にも行ったし、充分遊んでるでしょう」
奎星が即座に反応した。
「そういや葛切りまだ!」
少し離れた場所で鬼火鳥たちの状態を確認していたスズメの肩が、ぴくっと動いた。
「忘れてなかったの?」
「忘れるわけないだろ!」
「そういうことだけ記憶力いいのね」
「大事だからな!」
「課題にもその記憶力を使って」
「終わったからもう言うな!」
そのやり取りを聞いていた鷹司が、鬼火鳥を抱えたまま笑った。
「元気だな、お前ら」
治療を終えた鬼火鳥たちは、もう檻には入れられていなかった。飛ぶ力が戻った個体は大型ウミツバメの周囲を自由に旋回し、まだ長距離飛行に不安が残る個体だけが、背中に設置された広い保護区画へ乗せられている。
あの山で救い出した魔法生物の多くは、それぞれ適切な生息地へ戻されることになった。
そして鬼火鳥たちは、今日、帰る。
ただし、どこへ帰すのかを知っているのは、奎星の杖だけだった。
「じゃ、行くか」
奎星が神代榊を抜いた途端、周囲の鬼火鳥たちが一斉に反応した。青白い炎が朝の光の中で揺れ、それに応じるように神代榊にも同じ色が灯る。
奎星が握る力を少し緩めると、杖先はゆっくりと一つの方角へ向いた。
岳の腕には、八咫祭の夜に最初に助けた鬼火鳥が乗っていた。
右脚の傷はもう塞がり、焼けたように荒れていた羽根にも艶が戻っている。無理に抜かれた尾羽だけはまだ短いままだったが、森で初めて見つけたときとは比べものにならないほど、その姿には力が戻っていた。
岳はその首元へそっと触れる。
「帰るぞ」
鬼火鳥は岳の顔を見上げ、小さく鳴いた。
「キィ」
やがて大型のウミツバメが長い翼を広げ、夏の終わりの空へ舞い上がった。
*
杖に導かれる旅は、以前のように何日もかからなかった。
あのときは黒曜の狩人たちが鬼火鳥を捕らえ、本来の経路から遠く離れた場所まで運んでいたらしい。今回はいくつかの山を越え、深い森の上を進むにつれて、奎星の神代榊は目に見えて強く反応し始めた。
「また右!」
前方で奎星が叫ぶ。
ウミツバメが緩やかに方向を変え、その隣で地図を広げていたスズメが現在地を確認した。
「この先は、魔法省の一般地図にもほとんど記録がありません」
「空木のじいちゃんが言ってたやつ?」
「おそらく。神代榊の自生地が意図的に記録から外されているのであれば、当然でしょうね」
「じゃ、当たりっぽいな」
その直後、奎星の手の中で杖がもう一度動いた。
今度は横ではない。
下へ。
奎星が身を乗り出す。
「……あそこ」
眼下に、深い谷があった。
四方を険しい山に囲まれ、上空から見ても気づきにくいほど深く切れ込んでいる。その谷底だけが、不自然なほど濃い緑に覆われていた。
ウミツバメが高度を下げていく。
木々の梢が近づく。
そして、森の切れ間から。
それが見えた。
「……うわ」
奎星の口から、自然に声が漏れた。
巨大な榊だった。
幹は何人で腕を回しても届かないほど太く、枝は周囲の木々すべてを覆うように空へ広がっている。葉の一枚一枚には淡い青白い光が宿り、風が梢を撫でるたび、巨大な樹冠全体が星空のように瞬いていた。
奎星は言葉を失った。
知っている。
夢で見た。
あの場所ほど幻想的にぼやけてはいない。空の色も違うし、目の前の木には触れられそうなほど現実の重さがある。
それでも。
同じだった。
「……ここだ」
スズメが奎星を見る。
「分かるのですか?」
「うん」
「なぜ?」
奎星は大樹を見つめたまま、少しだけ首を振った。
「分かんねえ。でも、ここ」
理由は説明できなかった。
けれど、間違いない。
神代榊は今までで一番強く青白い光を放ち、奎星の手の中で微かに震えていた。
そして次の瞬間。
谷の向こうから、一羽の鳴き声がした。
続けて、もう一羽。
山の斜面から。
木々の間から。
青白い炎が次々と姿を現す。
「……すげ」
日向が呟いた。
十羽や二十羽ではなかった。
何十。
何百。
数え切れないほどの鬼火鳥が、巨大な神代榊を囲むように舞い上がり、谷の空を青白い炎で埋め尽くしていく。
岳は立ち尽くしていた。
腕の中にいた一羽が急に落ち着きをなくし、翼を広げる。
「……仲間だな」
岳が言う。
「キィィ!」
それに応えるように、空から無数の声が返ってきた。
「キィィィ――!」
大型のウミツバメがゆっくりと地面へ降り立つ。
保護されていた鬼火鳥たちが一羽ずつ外へ出た。最初は見慣れない谷を警戒するように周囲を見ていたが、やがて一羽が翼を広げる。
飛んだ。
二羽目。
三羽目。
青白い炎が次々と地上を離れ、空へ戻っていく。
楓は笑っていた。
けれど、その目は少し赤かった。
「よかったね」
日向も、いつものような軽口は言わなかった。
「……うん」
伊織は何も言わず眼鏡を押し上げたが、その手はいつもより少しだけ長く目元に残っていた。
そして。
最後の一羽。
祭りの日、森で最初に見つけた鬼火鳥だけが、岳の腕に残った。
岳はしばらく鳥を見つめ、それからゆっくり腕を上げる。
「……お前も行け」
鬼火鳥は飛ばなかった。
「岳?」
奎星が隣から覗き込む。
岳も困ったように鳥を見る。
「仲間いるぞ」
「キィ」
「行け」
「キィ」
「……」
日向が鼻を啜った。
「行きたくねえんじゃね?」
楓がすぐ睨む。
「そういうこと言わないでよ」
「だって……」
「余計離せなくなるでしょ」
そう言う楓自身の声も、少し震えていた。
岳はもう一度、腕の上の鬼火鳥を見る。
しばらく何も言わなかったあと、大きな手でその頭をゆっくり撫でた。
「楽しかった」
鬼火鳥が首を傾げる。
岳は少しだけ笑った。
「元気でな」
ようやく鬼火鳥が翼を広げた。
岳の腕から、一メートル、二メートルと浮かび、そのまま青白い群れへ向かっていく。
岳はずっと目で追っていた。
このまま仲間のもとへ戻るのだと思った。
ところが、鬼火鳥は途中で止まった。
旋回し、戻ってくる。
「え?」
岳の目の前で羽ばたきながら、鬼火鳥は自分の翼へ嘴を寄せた。
一本。
青白い炎をまとった羽根を、自ら引き抜く。
岳が目を見開く。
「おい」
その羽根を咥えたまま近づき、岳が差し出した掌へそっと落とした。
「……」
鬼火鳥が小さく鳴く。
「キィ」
岳は掌の羽根を見つめた。
黒に近い深い藍色。その中央に細い銀色の筋が走り、根元から先端まで、ごく淡い青白い光が消えずに残っている。
鷹司もその光景を見ていた。
「……持ってろ」
岳が顔を上げる。
鷹司は少し笑った。
「自分から置いてったもんだ。密猟でも何でもねえよ」
「でも」
「鬼火鳥は、気に入った相手へ羽根を残すことがある」
岳がもう一度羽根を見る。
「どういう意味ですか」
鷹司は肩を竦めた。
「友達の証ってとこだ」
岳の顔が止まった。
その隣で、奎星が笑う。
「よかったじゃん」
岳は何も答えなかった。
ただ、その羽根が折れないように、大きな手で本当に大事そうに包んだ。
鬼火鳥は今度こそ空へ上がった。
岳はずっとその姿を追った。
群れへ入る。
青白い炎の中へ紛れ、どれがあの一羽なのか分からなくなる。
それでも、しばらく目を離さなかった。
「岳」
日向が隣へ来る。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「目赤いぞ」
「殴るぞ」
「元気じゃん」
楓も自分の目を拭きながら笑った。
「日向だって赤いじゃない」
「俺は風!」
伊織が周囲を見渡す。
「無風だけど」
日向が黙った。
少し離れたところでは、奎星が神代榊を持ったまま空を見上げていた。
何百羽もの鬼火鳥。
その中心に立つ巨大な神代榊。
「帰れたな」
小さく言う。
手の中の杖が、温かかった。
あの夢。
八重子。
――蓮根家はね、遥か昔から鬼火鳥の友達だったのさ。
奎星は少しだけ笑った。
「ばあちゃん」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、空へ向かって呟く。
「ちゃんと帰したぞ」
その瞬間。
大樹の枝が、風もないのに一度だけ揺れた。
青白い火の粉が梢から舞い上がり、夏の空へ溶けていった。
*
その日の夜。
マホウトコロの食堂は妙に静かだった。
夏休み中なので他の生徒はほとんどおらず、広い食堂にいるのは奎星たち五人だけ。目の前に並んでいるのは、事件も黒曜も関係のない、いつもの夕食だった。
日向は箸で焼き魚を突きながらぼんやりしている。普段なら真っ先にそれを注意する楓も、今日は何も言わない。伊織は食事をしながら、ときどき窓の向こうへ視線を向けていた。
岳の隣には、鬼火鳥からもらった羽根を入れた専用の細い箱が置かれている。
奎星はそんな四人を見渡した。
「……なんか静かじゃね?」
日向が顔を上げる。
「お前もだろ」
「俺は普通」
伊織がすぐに言った。
「普通の人は五分もご飯見つめないと思うよ」
奎星は自分の茶碗を見る。
「いや」
少しだけ笑う。
「終わったなーって」
楓が小さく頷いた。
「うん」
夏休みが始まった。
東京へ帰った。
課題を始めた。
分からないところを訊きに、スズメへ会いに学校まで来た。
八咫祭へ行き、鬼火鳥を見つけ、黒曜の狩人と戦った。杖職人に会い、甘味処へ行き、海へ落ち、修行をして、鬼火鳥を帰すために山を越えた。
そこでまた戦った。
死にかけた。
八重子に会った。
そして今日。
鬼火鳥を帰した。
奎星は改めて全部を頭の中で並べてみて、眉を寄せた。
「……濃すぎね?」
伊織が頷いた。
「普通の高校生の夏休みではないね」
日向が笑う。
「普通の高校生じゃねえしな、俺ら」
「でもさ」
奎星は広い食堂を見回した。
「結局俺、夏休みの半分くらい学校いたよな」
楓が首を傾げる。
「もっとじゃない?」
「マジ?」
岳がご飯を食べながら答えた。
「来すぎ」
「でも来てよかっただろ?」
奎星が言うと、日向は少し笑った。
「まあな」
楓も頷く。
「……うん」
伊織も眼鏡の奥で小さく笑った。
「悪くはなかったね」
岳は羽根の入った箱へ一度目を落としてから、短く言う。
「よかった」
奎星はその返事を聞いて、笑った。
明日から二学期。
そして明日からは、もうこの学校へ「来る」のではない。
ここで暮らす。
*
夜。
男子寮の四人部屋では、奎星の正式な引っ越し作業がまだ続いていた。
「これどこ置く?」
奎星が大きな鞄を床へ置く。
伊織が即答した。
「自分のスペース」
「どこまで俺?」
「そこからそこ」
奎星の顔が明るくなる。
「結構広いじゃん!」
「その代わり、僕のところへ物を侵入させたら捨てるから」
「怖っ」
日向は既に自分のベッドへ寝転がっていた。
「奎星、早く終わらせろよ。明日朝早いぞ」
「お前が言うなよ」
「俺はもう終わってる」
奎星は日向の机の横へ積み上がっている雑誌を見る。
「その雑誌の山は?」
「インテリア」
「絶対違う」
岳は自分の棚の一角に、今日もらった羽根の細長い箱を置いた。少し考えたあと、他の物がぶつからないよう位置を整える。
奎星はそれを見て、少しだけ笑った。
そして、自分の机へ向き直る。
一学期。
この部屋を初めて見たとき。
ここが自分の場所になるのだと思うだけで、妙に嬉しかった。
今は本当に、自分の荷物をここへ置いている。
教科書。
ノート。
服。
神代榊。
そして鞄の奥から、小さな木札を取り出した。
八重子にもらった交通安全の木札。
机の端へ置く。
裏返せば、見慣れた字がある。
――好きに生きろ。迷惑だけはほどほどに。
奎星はその文字を見ながら、ぽつりと呟いた。
「好きに生きろ……」
日向がベッドから顔を向ける。
「何?」
「何でもない」
そのとき。
こんこん、と扉が鳴った。
奎星が振り返る。
「はいはい、今出ますよ〜」
日向が笑う。
「寮生っぽい」
「もう正式だからな!」
奎星は妙に誇らしげな顔で扉を開けた。
そこにいたのは、小さな身体、茶色い肌、尖った耳、藍色の仕事着。
「レンコン」
「天ぷら!」
天ぷらは相変わらず無表情だった。
「トリマル――」
奎星が反射的に訂正する。
「烏丸先生な」
「チガウ」
「え?」
「ミカゲ」
奎星が少し止まった。
「御影先生?」
天ぷらが頷く。
「レンコン、ヨンデル」
「どこ?」
「キョウシツ」
「今?」
「イマ」
奎星は部屋の中を振り返った。
日向が少しだけ眉を上げる。
御影は、まだ入院しているはずだった。
「……行ってくる」
奎星は神代榊を腰へ差し、部屋を出た。
天ぷらがその後ろを、とことこ歩いてくる。
「なあ天ぷら」
「ナンダ」
「御影先生戻ってきてんの?」
「キョウ、キタ」
「退院?」
「シラナイ」
「だよな」
夜の廊下を歩く。
明日から二学期が始まれば、この静けさもなくなるだろう。今はまだ、長い夏休みの終わりを惜しむように、校舎全体が静まり返っていた。
*
御影の教室。
扉を開ける。
「御影先生?」
いた。
教卓の近く。
窓際に。
御影玄一郎が立っていた。
奎星は目を細める。
「……何してんの?」
「見れば分かるだろう」
「分かんねえよ。入院中じゃなかった?」
「退院した」
「先生が許した?」
御影が黙った。
奎星の目が半分になる。
「逃げた?」
「退院した」
「逃げたじゃん」
「うるさい」
まだ怪我は残っていた。胸元には包帯が巻かれ、右腕にも長衣の下から白い布が覗いている。立っているだけならいつもの御影に見えるが、数歩歩いただけで身体の片側を僅かに庇っているのが分かった。
奎星が指を差す。
「スズメちゃんに言お」
御影の目が鋭くなる。
「やめろ」
奎星が笑った。
「怖い?」
「面倒だ」
「怖いんじゃん」
「蓮根」
「はい」
笑いが残ったままの奎星へ、御影はいつもの声で言った。
「座れ」
奎星は言われた通り椅子を引いた。
御影も向かいへ腰を下ろす。その動作がいつもより少し遅かったことには、奎星も何も言わなかった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
奎星も珍しく急かさず待った。
やがて御影が言う。
「斎賀玄弥の話をする」
奎星の表情が変わった。
「……あの人?」
「ああ」
御影は窓の向こうに広がる暗い海へ目を向けた。
「昔、俺と真壁と斎賀は同じ禍祓官部隊にいた」
「三人?」
「ああ」
「仲良かった?」
御影が僅かに顔を顰める。
「質問が軽い」
「気になるじゃん」
「……まあ」
ほんの少しだけ、御影の声が柔らかくなる。
「悪くはなかった」
奎星には、それで十分だった。
御影がそう言うなら、多分かなり仲が良かった。
「当時は、俺たち三人で動くことが多かった。性格も戦い方も違ったが、任務の成功率は高かった」
「強かった?」
「強かった」
即答だった。
奎星の目が輝く。
「三人なら、誰が一番?」
「くだらん」
「気になる!」
「任務による」
「じゃ戦ったら?」
御影は少しだけ目を細めた。
「玄弥が聞いたら喜ぶ質問だな」
「絶対あの人好きそう」
「ああ」
その返事にも、僅かに昔を思い出す響きがあった。
「俺は前線を維持する。真壁は全体を見る。玄弥は……勝手に動く」
奎星が笑う。
「日向みたいじゃん」
「朝比奈より酷い」
「マジ?」
「命令を守ったら珍しい」
「やべえ」
御影も僅かに息を吐いた。
「それでも、必要なところには必ずいた」
一般人が危険なとき。
仲間が倒れたとき。
誰かが助けを必要としているとき。
斎賀玄弥は、何をしていても一番先にそこへ現れた。
「俺たちは当時、最強の禍祓官三人組なんて呼ばれていた」
奎星の目が大きくなる。
「最強?」
「周囲が勝手に呼んでいただけだ」
「カッコよ!」
「だから周囲がだ」
「御影先生、昔めっちゃ有名人じゃん!」
「今も一部ではそうだ」
奎星が御影を見る。
「自分で言った!」
「話を聞け」
「はい」
奎星が口を閉じると、御影の顔から少しずつ懐かしさが消えていった。
「十二年前、任務があった」
声が低くなる。
奎星も自然と姿勢を正した。
「魔法犯罪組織が立て籠もった建物から一般人を救出する任務だ。建物は既に崩壊が始まっていた。俺と真壁は内部に取り残されていた一般人の救助へ向かい、玄弥は別区域で敵を押さえていた」
御影の視線が机へ落ちる。
「救助を終えて戻ろうとしたとき、建物が崩れた。玄弥のいた区画ごとな」
奎星は何も言わなかった。
「捜した。何度もな。瓦礫の下も、周辺も、魔法省の記録も。その後も真壁と二人で、行方不明者、闇市場、国外の記録まで調べた」
「……見つからなかった?」
「ああ」
遺体はなかった。
生きている証拠もなかった。
何もないまま、十二年が過ぎた。
「俺たちは、死んだと思った」
奎星の頭に、あの森が浮かんだ。
透明な結界。
その向こう側。
御影と笑いながら死闘を繰り広げていた男。
「でも、生きてた」
「ああ」
「黒曜に捕まって」
「ああ」
御影はそこから少し長く黙った。
奎星も待った。
そして御影は、今度は真っ直ぐ奎星を見る。
「お前を初めて見たときは、何とも思わなかった」
「急に俺?」
「聞け」
「はい」
「魔力が多い。制御が下手。騒がしい。それだけだった」
「悪口多くね?」
「事実だ」
「……はい」
御影の目に、一学期の訓練場が蘇る。
何度失敗しても、その次には修正する。
一度教えたことを異常な速度で吸収し、成功すればすぐ次を試したがる。失敗すれば悔しがるくせに、その数分後には笑っている。
思いつけば、教師が止めるより先に身体が動く。
「だが、見ているうちに似ていると思った」
奎星が黙る。
「玄弥に」
以前、真壁も同じことを匂わせていた。
――誰かに似てるな。
御影は続ける。
「戦い方は違う。性格も全部同じじゃない。ただ、伸びる速度や、考えるより先に動くところ、失敗しても次には修正しているところはよく似ていた」
少し間を置く。
「そして、力がつけばつくほど、自分一人でどこへでも行けると思い始めるところまでな」
奎星の眉が僅かに動いた。
御影は目を逸らさなかった。
「だから怖かった」
奎星が止まる。
御影玄一郎の口から、初めて聞いた言葉だった。
怖い。
「……先生が?」
「ああ」
御影は誤魔化さなかった。
「お前に力がつくことが」
奎星は何も言えない。
「あれだけの魔力があって、自信がついて、もっと強い魔法を覚えて、自分なら一人でも何とかできると思い始めたら、そのまま俺たちの手の届かないところまで行くんじゃないかと思った」
御影の拳が、膝の上で僅かに握られる。
十二年前。
一人、いなくなった。
御影と真壁が別の誰かを守っている間に。
「だから、教えないことで安心しようとしていた」
奎星が目を上げた。
「攻撃魔法を教えなければいい。危険な術を遠ざければいい。基礎だけを徹底させていれば、少なくとも俺の手の届く範囲にいる。お前のためだと思っていた」
御影の口元に、自嘲するような僅かな歪みが浮かんだ。
「違った。俺自身のためだった」
教えなければ同じことは起きない。
強くしすぎなければ失わない。
そう思おうとしていた。
奎星はしばらく御影を見ていたが、やがて小さく言った。
「けど、俺、勝手に覚えるぞ」
御影が見る。
「知ってる」
「人の魔法見てたら真似したくなるし」
「それも知ってる」
「禁止されても?」
「それが一番問題だ」
奎星が少し笑った。
御影も、ほんの僅かに息を吐く。
「間違っていた」
御影は静かに言った。
「俺が教えるべきなのは、力を持たせないことじゃない」
奎星は黙って聞く。
「正しい力の使い方だ」
一学期。
御影が最初から教えてきたこと。
必要な力だけを使う。
怒っていても、怖くても、仲間が傷ついていても、それでも相手を殺すのではなく止める。
魔法を持つことより、その力をどう選ぶか。
「お前が俺より強くなるなら、それでもいい」
御影が言う。
「俺の知らない魔法を覚えるなら、それもいい」
奎星が目を丸くする。
「いいの?」
「ああ」
「前はめっちゃ嫌そうだったじゃん」
「うるさい」
「はい」
御影は少し間を置き、はっきりと言った。
「ただ、何を覚えるにしても、自分で選べる人間になれ。力に選ばせるな。才能にも、過去にも」
真っ直ぐ奎星を見る。
「俺にもだ」
奎星は、その言葉をゆっくり受け止めた。
御影玄一郎。
斎賀玄弥。
十二年前。
自分はそこにいなかったし、何があったのか全部を理解できるわけでもない。
それでも少しだけ分かった。
御影が自分を見るとき、時々妙に遠くを見るような目をしていた理由。
派手な攻撃魔法を教えてくれなかった理由。
無茶をすれば、誰より本気で怒った理由。
御影が静かに言った。
「お前は斎賀玄弥じゃない」
ほんの少し間を置く。
「蓮根奎星だ」
胸の奥で、何かがゆっくり落ち着いていくような感覚がした。
奎星は小さく頷く。
「……うん」
それだけ答えた。
御影も、それ以上過去を重ねなかった。
代わりに、少しだけ声を戻す。
「二学期から、教える魔法を増やす」
奎星が僅かに顔を上げた。
「実戦で必要なものは、一通りだ」
「……マジ?」
「ああ」
「ボンバーダとか?」
「ああ」
「コンフリンゴも?」
「ああ」
「もっと派手なのも?」
「必要ならな」
いつもの奎星なら、ここで立ち上がっていた。
目を輝かせ、机へ身を乗り出して、いつから、何時から、明日から、それとも今から、と騒いでいたはずだった。
けれど今日は、そうしなかった。
御影の包帯。
十二年前の話。
斎賀。
そして。
怖かった。
その言葉。
全部を奎星なりに少しだけ受け止めてから、静かに頷いた。
「分かった」
御影がほんの一瞬、意外そうな顔をする。
奎星は腰の神代榊へ触れた。
「ちゃんと覚える」
「当然だ」
「力加減も」
「ああ」
「人形も吹っ飛ばさない」
「それは最初からやれ」
「でも、たまには吹っ飛ばしていい?」
「駄目だ」
「厳し」
二人の会話が、少しだけいつもの調子へ戻る。
奎星が笑った。
「御影先生」
「何だ」
「ありがと」
御影の目が僅かに動く。
「……何がだ」
「色々」
「雑だな」
「細かく言うと恥ずい」
「なら言うな」
「だからありがとだけ」
御影は少し黙った。
そして、いつもの仏頂面のまま言う。
「さっさと寝ろ」
奎星がにやりとする。
「照れた?」
「二学期初日に十周走りたいか」
「おやすみなさい!」
即座に立ち上がる。
奎星は扉まで歩き、取っ手へ手をかけた。
そこで一度だけ振り返った。
「御影先生」
「今度は何だ」
奎星は少しだけ笑う。
「俺、まだ御影先生みたいになりたいよ」
御影が、何も言えなくなった。
奎星は返事を待たない。
「じゃ!」
扉が閉まる。
教室が静かになった。
御影はしばらく、その扉を見つめていた。
誰もいない教室で、小さく息を吐く。
「……俺みたいにはなるな」
少し間を置き。
「もっとまともになれ」
*
男子寮へ戻ると、日向はもう寝ていた。
布団を半分蹴飛ばし、片足だけ外へ出している。
伊織はベッドで本を読んでおり、岳は鬼火鳥の羽根が入った箱を棚の一番奥へ大事そうにしまっていた。
「おかえり」
伊織が言う。
「ただいま」
奎星は自分の机へ座った。
神代榊を置く。
その隣には、八重子の木札。
――好きに生きろ。
――迷惑だけはほどほどに。
奎星はその二つを並べて眺め、少し笑った。
「まだ見つかってねえけどな」
やりたいこと。
将来。
何になるのか。
禍祓官なのか。
教師なのか。
あるいは、そのどちらとも全然違うものなのか。
まだ分からない。
けれど、少し前より見えるものは増えた。
守りたい友達がいる。
追いつきたい人がいる。
もっと知りたい魔法がある。
もっと聞きたい歴史がある。
それから。
一緒に葛切りを食べたい人もいる。
「……あ」
奎星が突然立ち上がった。
伊織が本から顔を上げる。
「何?」
「明日スズメちゃんに、葛切りいつ行くか聞くの忘れてた」
伊織は数秒、無言で奎星を見た。
「今までの流れから、最後それ?」
「大事だろ!」
「……まあ、いいけど」
岳がベッドへ入る。
「寝ろ」
「はいはい」
伊織が本を閉じた。
「はいは一度」
奎星が笑う。
「はい」
明日。
二学期が始まる。
今度は朝になっても、東京へ帰らない。
日向も、岳も、伊織も同じ部屋にいる。
楓も教室へ来る。
スズメも研究室にいる。
御影も、多分あの調子なら怪我人扱いを振り切って授業へ来る。
奎星は自分のベッドへ倒れ込み、枕へ顔を埋めた。
窓の外には、マホウトコロの夜空が広がっている。
遠い山の向こうを、青白い光が一つだけ、流れ星のように横切った。
眠りかけていた奎星は、それには気づかなかった。
夏が終わる。
魔法なんて知らなかった少年が、初めて丸ごと過ごした魔法界の夏が。
そして明日から。
蓮根奎星の、二度目の季節が始まる。
シーズン2 鬼火鳥と黒曜の狩人 完