第1話 1時間
九月最初の日曜日。
暦の上では、もう秋へ向かっているらしい。
しかし東京の夏は、そんな都合よく退いてくれなかった。
八咫小路の石畳には昼の日差しが白く落ち、古い商家の瓦屋根の向こうでは、名残を惜しむように蝉が鳴いている。店先には朝撒かれた打ち水がまだところどころ細い筋を残し、風が通るたび、軒下に吊られた風鈴が涼しげな音を鳴らした。
中には普通ではない風鈴もある。
透明な硝子の中で小さな雪が舞い、一度鳴るごとに、ほんの少しだけ冷たい風を落としていく。
夏はまだいる。
けれど、八月ほど乱暴ではない。
そんな日だった。
八咫小路の奥。
古い暖簾に《水月庵》と書かれた甘味処の前で、蓮根奎星は長椅子に座っていた。
八咫祭の翌日。
スズメと初めて入った、あの甘味処である。
「…………」
奎星は時計を見た。
午前十時三分。
待ち合わせ。
十一時。
「早く着きすぎた……」
一時間前だった。
マホウトコロから本土へ出る休日便が思ったより早かった、という理由は一応ある。
あるにはあるが。
一本遅い便でも十分間に合った。
それでも朝一番に近い便へ乗ったのは、本人にもあまり説明がつかなかった。
「まあ遅刻するよりいいか」
誰も聞いていないのに言い訳をする。
膝の上には小さな鞄。
腰の内側には、いつもの神代榊。
二学期に入ってから、休日でも杖を持っていることにはすっかり慣れた。
ただし。
待つことには慣れていない。
五分。
時計を見る。
三分しか経っていなかった。
「遅くね?」
約束まで五十七分ある。
奎星は石畳を歩く小妖を眺め、向かいの魔法具屋を眺め、空中をふわふわ漂っている広告の式紙を眺めた。
それでも暇だった。
暖簾が持ち上がる。
中から、五十代ほどの女将が顔を出した。
「あら、お兄さん」
「ん?」
「入らないの?」
「いや、待ち合わせしてるんで!」
奎星が答えると、女将は少しだけ首を傾げた。
「そうなの。いつ来るの?」
「一時間後です!」
「…………」
女将は時計を見る。
奎星を見る。
もう一度時計を見る。
そして。
「可愛いわねえ」
笑った。
「何が!?」
「ふふ。じゃあ、ごゆっくり」
「いや何が可愛いんすか!」
女将は答えなかった。
暖簾の向こうへ消えていく。
奎星はしばらく入口を見つめていた。
「……変な人だな」
おそらく。
女将側も同じことを思っていた。
*
風が吹いた。
風鈴が鳴る。
しゃらん。
硝子の中で雪が舞った。
八咫小路の日差しは明るかったが、軒下の長椅子にはちょうどよく影が落ちていた。
朝。
寮で御影との朝練のために五時半に起きた。
訓練。
朝食。
着替え。
休日便。
八咫小路。
当然。
眠かった。
奎星は一度だけ欠伸をした。
「……ちょっとだけ」
背中を壁へ預ける。
目を閉じる。
五分だけ。
そのつもりだった。
*
「蓮根君」
声がした。
「…………」
「蓮根君」
聞いたことのある声だった。
夢の中にもよく出てくる、という意味ではない。
ここ数か月。
あまりにも聞き慣れた声だった。
「起きてください」
奎星の眉が動く。
「……あと五分……」
「休日まで言うのですか?」
「…………」
「置いて帰りますよ」
目が開いた。
「それは困る!」
勢いよく身体を起こす。
目の前に。
烏丸スズメが立っていた。
奎星は。
一瞬。
何も言わなかった。
九月の太陽が、八咫小路の屋根の隙間から差し込んでいる。
顎で真っ直ぐ揃った黒髪。
今日は教員衣ではなく、白い半袖の上着に濃紺のスカートという簡素な服装だった。
後ろでは透明な風鈴が鳴っている。
夏の強い光。
白い服。
黒い髪。
不思議なくらい。
太陽が似合った。
「…………」
スズメの眉が少し寄る。
「どうしました?」
奎星は瞬きをした。
「スズメちゃん……」
「烏丸先生です」
いつもの返事だった。
それで。
ようやく頭が起きた。
「あ、おはよ」
「もう午前十一時です」
「じゃあこんにちは」
「こんにちは」
スズメは奎星が座っている長椅子を見る。
そして。
その隣に置かれた鞄。
さらに。
少しだけ寝癖のついた髪。
「いつから待っていたのですか?」
「え?」
「かなり眠っていたようですが」
奎星は目を逸らした。
「いや、まあ」
「蓮根君」
「……十時くらい?」
スズメが止まった。
「待ち合わせは十一時ですよね?」
「うん」
「一時間前?」
「休日便が!」
「一本遅い便でも間に合ったでしょう」
「…………」
当たっていた。
奎星は指を一本立てる。
「遅刻するよりいいじゃん」
「限度があります」
そのとき。
暖簾の奥から女将が顔を出した。
スズメを見る。
奎星を見る。
そして、とても納得した顔になった。
「あらぁ」
「何すかその『あらぁ』!」
女将は笑った。
「よかったわね、お兄さん」
「だから何が!?」
スズメが不思議そうに奎星を見る。
「何の話です?」
「知らない! 入ろ!」
奎星は逃げるように立ち上がった。
女将の笑い声だけが。
背中から追ってきた。
*
水月庵の店内は、八月に来たときと変わっていなかった。
畳。
小さな庭。
竹筒を落ちる水の音。
軒先の魔法風鈴。
ただ、盛夏を過ぎたせいか客は前より少なく、開け放たれた障子から入ってくる風も、ほんの少しだけ柔らかい。
二人は庭に近い席へ座った。
女将が品書きを持ってくる。
奎星はほとんど見なかった。
「葛切り!」
スズメが顔を上げる。
「決めていたのですか?」
「当たり前じゃん」
「前回はあんみつでしたね」
「今回は葛切り」
奎星は得意げだった。
「忘れてないからな」
一瞬。
スズメが黙った。
夏の森。
血。
意識を失いかけながら。
それでも。
馬車の中で。
――葛切り。
――まだだからな。
つい数週間前。
死にかけた人間の言葉とは到底思えなかった。
そして。
今。
その本人は。
何事もなかったような顔で品書きを見ている。
「スズメちゃんは?」
「水羊羹にします」
「相変わらず!」
「何ですか?」
「いや、やっぱ好きじゃん」
「嫌いではありません」
「それを好きって言うんだよ」
「言いません」
「前も同じこと言ってた」
「覚えていたのですね」
「俺、意外と記憶力いいから」
スズメは何も言わず奎星を見る。
魔法法規。
六十一点。
三択へ四番。
「何その顔」
「いえ」
「絶対なんか思っただろ」
「注文しましょう」
「逃げた!」
少しして。
透明な器に盛られた葛切りと、よく冷えた水羊羹が運ばれてきた。
葛切りは氷水の中で透き通り、箸で持ち上げると陽を受けて細く光った。黒蜜へ浸し、一口。
奎星の目が丸くなる。
「うまっ!」
「そうですか」
「これだよ! これ食うために俺生き返ったのかもしれない!」
「もっと大切な理由を持ってください」
スズメは真顔だった。
けれど。
水羊羹を切る匙が。
ほんの少しだけ止まっていた。
生き返った。
本人にとっては軽い冗談なのだろう。
スズメには。
まだ。
少しだけ軽く聞けない。
胸を裂かれて。
血まみれになって。
呼吸まで止まりかけた少年。
自分の前へ飛び込んだ。
また。
一学期と同じように。
何も考えず。
奎星は。
そんなスズメの視線にまったく気づいていなかった。
「二学期さ」
黒蜜をつけながら言う。
「うん?」
休日だからか。
スズメの返事も。
少しだけ教師らしさが薄かった。
「めっちゃ楽しい」
その一言だけは。
ずいぶん素直だった。
スズメが少し目を細める。
「寮生活ですか?」
「そう!」
奎星はすぐに身を乗り出した。
「やっぱいいわ。朝起きて、みんなで飯食って、授業行って、昼も飯食って、また授業やって、夜飯食って、風呂入って」
「食事が多いですね」
「重要だろ!」
「一日の説明の半分が食事です」
「岳といるとそうなるんだよ!」
奎星は笑う。
「で、部屋戻って、日向がうるさくて、伊織が静かに煽ってきて、岳なんか食ってて。俺もなんか食って。寝る」
「また食べましたね」
「夜食」
「必要ですか?」
「寮生活には必要」
「初めて聞きました」
「でもマジで楽しいよ。前はさ、授業終わったら俺だけ森の小屋戻ってたじゃん」
スズメの匙が止まる。
ほんの少しだけ。
「今はみんなと帰れるから」
奎星は。
ただ嬉しそうだった。
「なんか学校って感じする」
スズメは黙って聞いていた。
一学期。
教室の窓の外から。
日向たち四人の輪へ入っていく奎星を見た日のことを思い出す。
それから。
ずっと入りたがっていた学生寮。
ようやく。
その中にいる。
「よかったですね」
「おう!」
奎星は笑った。
「ただ」
「何です?」
「朝が終わってる」
「朝?」
「二学期から、俺だけ御影先生の朝練始まった」
スズメの眉が少し上がる。
「正式に始めたのですか」
「うん。夏休みも訓練したけどさ、今度は毎朝!」
奎星は両手を机へ置く。
「五時半!」
「普通ですね」
「普通じゃねえ!」
「御影先生なら普通です」
「みんな寝てんだぞ!?」
奎星の声が少し大きくなる。
「日向なんか布団から足出して寝てるし! 伊織は顔まで布団かぶってるし! 岳はなんか寝ながら食ってた!」
スズメが止まる。
「最後はどういう状態ですか?」
「俺も分かんない」
「寝ながら食べるのは危険ですよ」
「昨日は煎餅持ってた」
「没収してください」
「俺が食った」
「あなたも同罪ですね」
「でも!」
奎星の顔が急に明るくなる。
「新しい呪文教えてくれるんだよ」
その変化が。
あまりにも分かりやすかった。
「朝早いのは嫌だけど、新しいの覚えんのは楽しい。今日もさ、今までのプロテゴをもっと小さく出して、動きながら三方向――」
話し始める。
止まらない。
御影に昨日褒められた。
一回だけだった。
でも絶対褒めた。
日向はまだ使えない呪文を先に覚えた。
楓には言ったら多分すぐ覚えられるからまだ言ってない。
伊織は見ただけで理屈を考え始めるから面倒。
岳に撃つときは人形より大きいから距離感がおかしくなる。
「あと御影先生さ、俺が一回成功するとすぐ次行くんだよ! もうちょい褒めていいと思わない?」
「調子に乗るからでしょう」
「スズメちゃんと同じこと言う!」
「御影先生とは教育方針が一致しています」
「最悪の同盟だな!」
奎星は笑った。
話す。
食べる。
また話す。
目が動く。
手が動く。
思いついたことを、そのまま全部口にする。
スズメは。
水羊羹を食べながら。
その姿を見ていた。
ほんの数週間前。
この少年は。
死にかけた。
血の中に倒れて。
声も出なくなって。
自分が名前を呼んでも。
返事をしなくなった。
あの光景が。
嘘みたいだった。
いや。
嘘であってほしいと思った。
けれど。
今、目の前にいる奎星は。
黒蜜を少しこぼし。
「あ」と言って慌てて拭き。
御影の朝練へ文句を言いながら。
次に教わる魔法を楽しみにしている。
生きている。
それだけのことが。
まだ少し。
不思議なくらい嬉しかった。
「スズメちゃん?」
「はい」
「聞いてた?」
「聞いていましたよ」
「絶対途中ぼーっとしてた」
「あなたの話が長いのです」
「先生が二学期どうって聞いたんじゃん!」
「私は一言しか訊いていません」
「会話ってそういうもんだろ」
「あなたの場合は演説です」
「ひど!」
スズメは。
小さく笑った。
*
葛切りが半分ほど減った頃。
奎星がふと思い出したように顔を上げた。
「そういやさ」
「何です?」
「二学期っていえば」
葛切りを箸で持ち上げる。
「前の学校だと文化祭あったんだけど」
「はい」
「マホウトコロって、そういうのあんの?」
スズメの水羊羹を切る匙が止まる。
「ああ」
「ある?」
「ありますよ」
奎星の目が輝く。
「マジ!?」
「星迎祭と呼ばれています」
「ほしむかえさい?」
「星を迎える祭り、と書きます」
十月上旬。
毎年。
マホウトコロで開催される大きな学校行事。
上級課程だけではない。
下級。
中級。
すべての課程が参加する。
各学級や部活動が出し物を用意し、校庭には屋台が並び、魔法を使った展示や演奏、競技も行われる。
さらに。
「他校の生徒も招かれます」
「他校!?」
奎星が食いつく。
「魔法学校って他にもあるんだよな」
「当然です」
「全員マホウトコロじゃないもんな」
「そうですね」
「どんな奴来んだろ」
「普通の学生ですよ」
「魔法使いの普通、まだ信用できないんだよ」
「あなたが言いますか?」
「俺は普通だろ」
スズメは無言だった。
「何か言ってよ」
「話を続けます」
「認めろよ!」
スズメは無視した。
「クィディッチの交流試合もあります」
奎星が止まった。
次の瞬間。
「日向じゃん!」
「朝比奈君が選手に入れば、そうですね」
「入るだろ! エースなんだから!」
奎星は嬉しそうだった。
一学期。
飛行術で初めて知った。
朝比奈日向。
全国魔法学校交流杯。
得点王。
普段は楓に叩かれ、伊織に煽られ、授業で騒いで怒られている男が。
箒へ乗った瞬間だけは。
本当に。
別人みたいに格好いい。
「日向のカッコいいとこ見れるかもな!」
「本人へそのまま言ったら、一週間は自慢されますよ」
「じゃ絶対言わねえ」
「賢明です」
奎星は葛切りを食べる。
「屋台もあるんだ」
「あります」
「岳死ぬほど喜ぶじゃん」
「食べすぎで倒れないよう見ていてください」
「俺も食う」
「監視役になりませんね」
「楓に任せよう」
「水無瀬さんの負担を増やさないでください」
「伊織?」
「面白がって止めないでしょうね」
「詰んだな」
スズメが笑った。
「それから」
「まだあんの?」
「夜には舞踏会があります」
奎星の箸が止まる。
「…………舞踏会?」
「はい」
「ダンス?」
「そうです」
奎星は。
数秒。
スズメを見る。
「何で?」
「何でとは?」
「文化祭で急に踊んの?」
「昔からの伝統です」
「マホウトコロってそういうとこだけ急に貴族っぽいよな」
「魔法学校への偏見が雑ですね」
「スズメちゃんも踊った?」
何気ない質問だった。
スズメの返事も早い。
「いいえ」
「ないの?」
「ありません」
「一回も?」
「一回も」
奎星は不思議そうに首を傾げる。
「誘われたことないの?」
ぴたり。
スズメの匙が止まった。
「…………」
「スズメちゃん?」
「その質問に答える必要がありますか?」
夏休み。
どこかで。
聞いたような返しだった。
奎星が少しにやつく。
「あるんだ?」
「それはありますよ」
「あるんじゃん!」
「何ですかその反応は」
「じゃ何で踊んなかったの?」
スズメは少しだけ困った顔をした。
昔を思い出すように。
庭を見る。
竹筒から水が落ちる。
こつん。
「星迎祭には、昔から妙な噂があるのです」
「噂?」
「星迎祭の夜に二人で踊った男女は、いずれ結ばれる、と」
奎星が目を丸くする。
「結婚すんの?」
「そういう意味で言われていますね」
「マジ?」
「噂です」
「でも実際いる?」
「星迎祭で踊って、その後結婚した方々ならいます」
「ほら!」
「一緒に踊った全員のその後など知りません」
「じゃあ本当かもしれないじゃん」
「そういう話になるのが嫌だったのです」
スズメは水羊羹へ視線を戻した。
「一緒に踊っただけで、誰が誰を好きだとか。あの二人は付き合うとか。そういう噂になるでしょう?」
「あー」
「私はそういう話が苦手でした」
「恋バナ?」
「そうです」
「今も?」
「苦手です」
即答だった。
「でも友達は好きだった」
「へえ」
「美琴は毎年楽しそうでしたよ」
奎星の動きが止まる。
「……美琴?」
スズメが顔を上げる。
「あ」
「誰?」
考えてみれば。
奎星へ。
名前を出したことはなかった。
「学生時代からの親友です」
「スズメちゃん親友いたんだ!」
「失礼ですね」
「いやなんか一人で本読んでそうだから」
「読んでいましたよ」
「ほら!」
「友人と本は両立できます」
スズメは少しだけ呆れた顔になる。
「美琴は同級生です。今は魔法省で働いています」
「へえー!」
奎星は妙に興味を持った。
「どんな人?」
「よく喋ります」
「スズメちゃんと真逆じゃん」
「否定はしません」
「舞踏会好きだったんだ」
「好きでしたね。毎年、かなり楽しみにしていました」
奎星が少し考える。
「じゃ、その噂当たった?」
スズメは。
一拍置いて。
「ちなみに、今も独身です」
奎星が吹き出した。
「駄目じゃん!」
「だから噂だと言ったでしょう」
「美琴さん聞いたら怒るんじゃね?」
「本人も笑うと思います」
そのときだけ。
スズメの顔が。
教師ではなく。
少しだけ。
美琴とカフェで話していたときの二十一歳へ戻った。
奎星は知らない。
けれど。
なんとなく。
学生だった頃のスズメが。
少しだけ見えた気がした。
「じゃあさ」
「はい」
「舞踏会やってる時間、スズメちゃん何してたの?」
「花火を見ていました」
「花火?」
「ええ」
奎星の目がすぐに明るくなる。
「上がんの!?」
「毎年、専門の花火師の方々が来てくださいます。舞踏会のほうが目立つので、あまり話題にはなりませんけど」
「魔法の花火?」
「もちろん」
八咫祭でも見た。
空へ残る光。
鳥。
龍。
星。
魔法使いの花火。
星迎祭では。
学校の上空へ。
さらに大きなものが上がるらしい。
「どこで見てたの?」
奎星が訊く。
スズメの答えは。
少しだけ遅かった。
「秘密の場所です」
奎星は。
一秒。
考える。
そして。
「ああ」
すぐ分かった。
「観測塔?」
スズメが目を細めた。
「もう秘密ではありませんね」
「俺知ってるし」
「あなたに教えてしまいましたから」
古い観測塔。
本校舎の裏。
普段は誰も使わない道の先。
一学期。
日向を傷つけ。
杖が怖くなり。
一人で森の中に座り込んでいた自分を。
スズメが連れていった場所。
――悩むのであれば、もう少し景色の良いところで悩みませんか。
初めて。
スズメが。
誰かを連れていった場所。
奎星はすぐに景色を思い出した。
島。
海。
空。
夜。
あそこから花火を見る。
「絶対いいじゃん!」
「綺麗ですよ」
「去年も見た?」
スズメが首を横へ振った。
「去年は仕事で見られませんでした」
「先生だったから?」
「はい。見回りと後片づけで」
「じゃ今年」
奎星は。
何でもないことのように言った。
「連れてってよ」
スズメが瞬きをする。
「……何をです?」
「花火」
「蓮根君」
「俺もう場所知ってるけど、一人で行くのも違うじゃん」
「舞踏会へ行けばいいでしょう」
「別にいいよ」
「女の子と踊ればいいじゃないですか」
少しだけ。
変な言い方になった。
本人は。
気づいていなかった。
奎星も。
気づかない。
「えー」
葛切りを箸で持ち上げる。
黒蜜へ。
そのまま。
ごく普通に。
言った。
「それよりスズメちゃんと花火見るほうがいい!」
ぴたり。
竹筒から。
水が落ちる。
こつん。
風鈴が鳴る。
しゃらん。
スズメの頭の中だけが。
止まった。
それより。
スズメちゃんと。
花火を見るほうがいい。
意味。
どういう意味。
舞踏会。
女の子。
踊る。
自分。
花火。
二人。
いや。
待って。
教師と生徒。
ただ場所を知っている。
一学期にも二人で観測塔へ行った。
八咫祭でも偶然二人で花火を見た。
だから。
その延長。
そう。
それだけ。
スズメは。
目の前の少年を見る。
奎星は。
葛切りがうまく箸で掴めず。
三回目の挑戦をしていた。
「逃げんなこれ……」
何も。
考えていなさそうだった。
スズメの肩から。
僅かに力が抜ける。
おそらく。
言葉通りの意味なのだろう。
舞踏会で知らない誰かと踊るより。
自分と。
知っている場所で。
花火を見る。
ただ。
それだけ。
「時間があればですよ」
「マジ?」
奎星が顔を上げる。
「仕事があるでしょうから」
「よし!」
「まだ決まっていません」
「時間空けといて!」
「教師へ予定の強要をしないでください」
「一時間くらい!」
「花火の時間全部ではありませんか」
奎星は笑った。
「じゃあ決まりな!」
「決まっていません!」
八咫小路へ。
二人の声が。
風鈴の音と一緒に流れていった。
*
しばらくして。
奎星は葛切りを食べ終えた。
スズメの水羊羹も。
きれいになくなっていた。
冷たい茶が運ばれてくる。
奎星は湯呑みならぬ硝子の茶器を両手で持ち、ふとスズメを見る。
「でもさぁ」
「何です?」
「学生時代のスズメちゃん、会ってみたかったな」
スズメが瞬きをする。
「今と変わりませんよ」
「そう?」
「ええ」
「でも制服着てたんだろ?」
「学生でしたから」
「御影先生見ただけで姿勢よくなってた?」
スズメが止まった。
「…………誰から聞いたのです?」
「え、そうなの!?」
しまった。
自白だった。
奎星が笑い始める。
「マジかよ! 見てえ!」
「忘れてください」
「御影先生来た! って廊下でピシッて?」
「蓮根君」
「今度本人に――」
「言ったら課題を増やします」
奎星が止まる。
「卑怯だぞ先生」
「教育的措置です」
「権力の乱用だろ」
「卒業したのも別に三年前だもんな」
「そうですね」
「二十一だもんな」
「何ですか?」
「いや」
奎星は頬杖をついた。
少しだけ。
面白そうに。
「俺とスズメちゃんが同級生だったら、どうなってたかなーって」
スズメの指が。
茶器の縁で止まった。
また。
変なことを言う。
十七歳。
二十一歳。
四歳差。
今は。
教師と生徒。
それが。
もし。
なかったら。
同じ年。
同じ教室。
同じ制服。
授業を受け。
昼食を食べ。
星迎祭へ行き。
廊下ですれ違う。
蓮根奎星が。
教師へではなく。
ただの同級生として。
自分へ。
「スズメちゃん!」
と声を掛けてくる。
スズメは。
流そうとした。
いつものように。
くだらない質問として。
なのに。
一瞬だけ。
考えてしまった。
もし。
蓮根奎星との関係が。
教師と生徒ではなかったら。
「…………」
奎星が首を傾げる。
「スズメちゃん?」
スズメは我に返った。
「何です?」
「考えてた?」
「考えていません」
「絶対考えてたじゃん」
「考えていません」
「俺、同級生だったらモテたかも」
「その自信はどこから来るのです?」
「顔?」
「自分で言いますか?」
「性格?」
「もっと難しいですね」
「ひど!」
奎星は笑う。
それから。
自分で出した話なのに。
急にどうでもよさそうに。
肩をすくめた。
「ま!」
茶を一口。
「俺がしつこく話しかけて、スズメちゃんにあしらわれて、今と変わんなそう!」
スズメは。
数秒。
奎星を見る。
そして。
想像した。
十七歳の自分。
十七歳の奎星。
本を読んでいる自分の横から。
勝手に覗き込んでくる。
「何読んでんの?」
「それ面白い?」
「昼飯行こうぜ!」
「美琴って誰?」
「御影先生怖くね?」
おそらく。
うるさい。
間違いなく。
しつこい。
そして。
多分。
何度追い払っても。
次の日には。
普通に話しかけてくる。
スズメの口元が。
少しだけ緩んだ。
「そうですね」
「だろ?」
「今とあまり変わらないでしょうね」
二人は。
同時に笑った。
夏の終わり。
風鈴が。
また鳴った。
*
翌日。
月曜日。
マホウトコロ上級課程二年二組。
朝の教室は。
相変わらず騒がしかった。
「だから俺、絶対出るって!」
日向が机へ片手をつく。
楓が呆れた顔で教科書を出している。
「選手発表まだでしょ」
「出るに決まってんだろ。俺だぞ?」
「その自信だけはすごいわね」
「去年の得点王!」
「知ってる」
「エース!」
「知ってる」
「カッコいい!」
「それは自分で言わないの」
奎星が横から笑う。
「日向、星迎祭で試合あるんだろ?」
日向が振り返った。
「お前知ったの?」
「昨日聞いた」
「誰に?」
「スズメちゃん」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「日曜日に?」
「うん」
「どこで?」
「八咫小路」
伊織の目が。
ほんの少しだけ。
面白そうに細くなる。
「二人で?」
「そうだけど」
楓も。
日向も。
なぜか一瞬。
黙った。
岳だけが。
机の中から饅頭を出しながら言う。
「甘味処?」
「そう」
「何食った?」
「葛切り」
「うまかった?」
「めっちゃ」
岳が立ち上がる。
「場所教えろ」
「今!?」
「今」
「授業始まるぞ!」
「放課後行く」
「南硫黄島から!?」
そのとき。
教室の扉が開いた。
「はいはい、皆さん。席へ戻ってくださいね」
柔らかな声。
土御門芽衣子だった。
岳が無言で座る。
日向も座る。
奎星が笑う。
「やっぱ土御門先生すげえ」
「何がですか?」
「何でもないです!」
「そうですか?」
笑顔だった。
怖い。
土御門は教壇へ上がると、分厚い紙束を机へ置いた。
その表紙。
大きな文字。
《星迎祭 学級催事実施要項》
奎星の目が。
すぐに輝く。
「あ!」
土御門が笑う。
「蓮根君は、もう聞いたようですね」
「はい!」
「返事が元気で何よりです」
教室のあちこちから声が上がる。
星迎祭。
十月。
まだ一か月ほど先。
けれど。
準備は。
今日から始まる。
「今年も各学級、部活動、委員会ごとに催しを行います。二年二組の皆さんにも、もちろん準備をしていただきます」
日向が小声で言う。
「授業潰れる?」
楓が即答する。
「そういう行事じゃないわよ」
「放課後?」
伊織が言う。
「そっちが増えると思う」
「最悪じゃん!」
「遊びじゃないの?」
奎星が訊く。
楓が振り返る。
「文化祭も準備が一番大変なの」
「前の学校、俺ほぼ当日しか参加してなかった」
「でしょうね」
「何で分かんの!?」
土御門が。
ぱん。
手を叩いた。
全員が前を見る。
「では」
柔らかな笑顔のまま。
一枚の紙を持ち上げる。
「今年の二年二組の出し物を発表しますね」
教室が。
少し静かになる。
日向が身を乗り出す。
岳が饅頭を食べる手を止める。
伊織が顔を上げる。
楓は何となく嫌な予感がするのか、眉を寄せている。
奎星だけが。
完全に楽しそうだった。
「何!?」
土御門は紙を開いた。
「学年内での調整と抽選の結果――」
一拍。
「二年二組は、《魔法喫茶》を担当します」
沈黙。
最初に反応したのは。
岳だった。
「料理?」
土御門が微笑む。
「出しますよ」
岳の目が。
輝いた。
「やる」
「お前さっきまで内容聞いてなかっただろ!」
日向が笑う。
楓は額を押さえる。
伊織が静かに言った。
「岳を厨房へ入れてはいけないね」
「なぜ」
「材料が客席まで届かない」
「俺は食わない」
全員が岳を見る。
「…………」
岳が付け加えた。
「多分」
「信用できねえ!」
教室が笑いに包まれる。
土御門は。
そんな二年二組を見ながら。
いつものように。
柔らかく微笑んでいた。
二学期。
学生寮。
御影との朝練。
そして。
星迎祭。
蓮根奎星にとって。
魔法使いになってから。
初めて迎える秋が。
少しずつ。
始まろうとしていた。