マホウトコロ   作:西野圭吾

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第2話 白峰の雪姫

 

星迎祭の準備が始まってから、二年二組の放課後は目に見えて騒がしくなった。

 

教室の後ろには大きな模造紙が何枚も貼られ、《魔法喫茶》の看板案や内装案、当日の役割分担、使用可能な呪文の一覧が所狭しと並んでいる。机の上では飾りつけ用の折り紙の蝶が勝手に羽ばたき、天井から吊るす予定の星形灯籠は、誰かが少し魔力を込めすぎるたびに教室中を飛び回っていた。

 

そのたびに土御門が杖を軽く振り、暴走した飾りを何事もなかったように元の机へ戻している。

 

そんな中。

 

「水羊羹を出そう!」

 

蓮根奎星だけは、かなり本気だった。

 

教室の中央で片手を高く上げ、そのまま黒板へ大きく《水羊羹》と書く。字まで妙に力強い。

 

「考えてみろよ。魔法喫茶なんだぞ? ここで普通のケーキとか出してどうすんだよ。和! 伝統! マホウトコロ! そして水羊羹!」

 

作業表をまとめていた楓が、ゆっくり顔を上げた。

 

「最後だけ理由になってないわよ」

 

「冷たくてうまい!」

 

「完全に感想になったね」

 

横で看板用の文字を切っていた伊織が淡々と言う。

 

しかし奎星は止まらない。

 

「しかも星迎祭は十月上旬だぞ。秋っつっても昼間はまだ暑い日あるだろ? そこでキンキンに冷えた水羊羹が出てきたら最高じゃん!」

 

その瞬間、教室の後ろから大きな手が上がった。

 

岳だった。

 

「賛成」

 

「おお、さすが岳! 分かってる!」

 

「俺が食う」

 

「客に出せよ!」

 

奎星の叫びに、教室の何人かが笑った。

 

楓は深いため息をつくと、手にしていた星迎祭の実施要項を奎星の前へ突き出した。

 

「残念だけど、そもそも無理よ。飲食物は学校側が衛生確認した指定品から選ぶことになってるから、勝手にメニューを増やせないの」

 

「え?」

 

「ほら、ここ」

 

楓が指で示した先には、きっちりした文字でこう書かれている。

 

《飲食を伴う催事については、指定業者および調理担当小妖から提供される品目のみ販売を許可する》

 

奎星は読んだ。

 

眉を寄せ、もう一度読んだ。

 

「…………交渉は?」

 

「却下」

 

「校長に直談判」

 

「やめなさい」

 

「じゃあスズメちゃんに頼む」

 

伊織が眼鏡を押し上げた。

 

「どうして烏丸先生なら、水羊羹をメニューへねじ込めると思ったの?」

 

奎星は一瞬だけ黙った。

 

そして、自分でも少し理由が弱いと思ったのか、声を小さくする。

 

「……好きだから?」

 

楓の目が細くなった。

 

「誰が?」

 

「スズメちゃん」

 

「へえ」

 

「何その顔」

 

「別に?」

 

「絶対なんか思ってるだろ!」

 

そのとき、教室の隅で日向が看板へ杖を向けた。

 

「よし、これで文字を光らせれば――」

 

ぼっ。

 

看板の端から炎が上がった。

 

「うおっ!?」

 

「朝比奈君」

 

土御門の柔らかな声が飛ぶ。

 

声量は大きくない。

 

それなのに日向の背筋が一瞬で伸びた。

 

「すみません!」

 

土御門が杖を一振りすると、炎はあっさり消えた。焦げ跡だけが、無残に《魔法喫茶》の「魔」の字を半分黒くしている。

 

奎星が振り返った。

 

「お前何してんだよ!」

 

「文字だけ光らせようとしたんだよ!」

 

「燃えてたぞ!」

 

「ちょっと出力ミスった!」

 

「俺みたいなことすんなよ!」

 

「お前にだけは言われたくねえ!」

 

とにかく騒がしい。

 

誰かが飾りを飛ばし、誰かが看板を焦がし、岳は隙を見て試作品の菓子を食べ、楓はその全部を止めようとしている。伊織は口では手伝いながら、時々わざと火へ油を注ぐ。

 

けれど、教室全体で一つのものを作っていく時間を、奎星は自分でも意外なくらい楽しんでいた。

 

一般社会の高校にいた頃なら、文化祭の準備など適当に理由をつけて逃げていただろう。実際、去年までは当日だけ顔を出して、準備をしていた友人から文句を言われる側だった。

 

今年は違う。

 

気づけば放課後になっても教室に残り、頼まれてもいないのに看板を運び、飾りを作り、役に立っているのか立っていないのか分からない意見を延々出している。

 

そんな毎日だった。

 

もっとも。

 

星迎祭の準備だけで、一日が忙しいわけではない。

 

 

朝。

 

南硫黄島の東の空が、ようやく青み始める頃。

 

「遅い」

 

御影玄一郎の低い声が訓練場へ落ちた。

 

「五時半っすよ!?」

 

奎星は息を切らしながら叫んだ。

 

「だから何だ」

 

「人類が起きる時間じゃないって!」

 

「口を動かす前に立て」

 

「はい!」

 

走る。

 

訓練場を何周も走り、足が重くなったところから本番だった。

 

防御呪文。

 

回避。

 

反撃。

 

足運び。

 

再び防御。

 

少しでも身体の軸がぶれれば御影の呪文が容赦なく飛んでくる。

 

「右!」

 

「プロテゴ!」

 

半透明の盾が展開され、赤い光を受け止める。

 

しかし衝撃で奎星の身体が半歩ずれた。

 

「遅い!」

 

「今ちゃんと出したじゃん!」

 

「敵にそう言え」

 

「敵が聞いてくれるわけないだろ!」

 

「なら言い訳するな」

 

「朝から正論が怖い!」

 

そんな朝練を終えれば、急いで寮へ戻って朝食を食べる。

 

それから授業。

 

魔法史、呪文学、魔法薬学、変身術、飛行術。

 

そして放課後。

 

「違います」

 

赤い筆が、奎星の答案へ一本の線を引いた。

 

「また!?」

 

「またです」

 

「いや、これは絶対合ってるだろ!」

 

「十八世紀の地方魔法自治制度と、十九世紀の魔法省地方支局制度を混同しています」

 

「名前が似すぎなんだよ!」

 

「歴史に文句を言わないでください」

 

夕方の魔法史研究室。

 

窓の外が茜色へ変わる頃、奎星の机の上には教科書とノート、それから大量の赤字が並んでいた。

 

奎星は椅子の背にもたれ、天井を見上げる。

 

「朝は御影先生に魔法で殺されかけて、夕方はスズメちゃんに赤ペンで殺される。俺の一日、教師に挟まれてんだけど」

 

「御影先生はあなたを殺そうとしていませんし、私も採点しているだけです」

 

「精神的には瀕死だよ」

 

「充実していますね」

 

「どこが!?」

 

それが、ほとんど毎日だった。

 

朝から晩まで学校にいて。

 

仲間と騒いで。

 

御影に鍛えられ。

 

スズメに勉強を見てもらい。

 

星迎祭の準備をする。

 

そうしているうちに、九月は驚くほどの速さで過ぎていった。

 

星迎祭まで。

 

あと一週間。

 

 

昼休み。

 

二年二組の五人は、大食堂のいつもの辺りに集まっていた。

 

星迎祭が近いせいか、大食堂そのものも普段より騒がしい。あちこちの机で当日の衣装や学級催事、部活動の出し物について話しており、頭上を飛び交う連絡用の式紙まで、いつもより明らかに多かった。

 

岳の前には大きな丼。

 

日向は焼き魚。

 

楓は蕎麦。

 

伊織は定食。

 

そして奎星だけ、なぜか二人前の膳を並べている。

 

楓が五人を見回した。

 

「とりあえず、当日の役割だけど。まず岳は厨房に入れたら駄目ね」

 

岳の箸が止まる。

 

「なぜ俺なんだ」

 

日向が即答した。

 

「食うからだろ」

 

「食わない」

 

伊織が岳を見る。

 

「材料を?」

 

「…………」

 

数秒の沈黙。

 

伊織が頷く。

 

「今の間で全部分かったよ」

 

「じゃあ岳は接客な!」

 

奎星が言う。

 

楓は少し考えた。

 

「それなら……まあ、厨房よりは安全かも」

 

岳が真剣な顔で尋ねる。

 

「客の料理がうまそうだったら?」

 

「食うなよ!?」

 

日向の声が大食堂へ響いた。

 

「客は金払って来てんだぞ!」

 

岳は、なぜか完全には納得していない顔をしていた。

 

楓の視線が次に奎星へ向く。

 

「それから奎星も厨房は禁止」

 

「なんで!?」

 

「料理できるの?」

 

「できるぞ!」

 

「何を?」

 

「卵かけご飯」

 

「料理ではないね」

 

伊織が淡々と切り捨てた。

 

「じゃあカップ麺!」

 

「お湯を入れただけでしょ」

 

「目玉焼き!」

 

楓が少しだけ意外そうな顔をした。

 

「焼けるの?」

 

「この前焦げた」

 

「駄目じゃない!」

 

「味はした!」

 

伊織が茶を一口飲む。

 

「君と岳を厨房へ入れたら、開店前に在庫が半分になりそうだね」

 

「ならねえよ!」

 

横から岳が言った。

 

「俺は三割」

 

「具体的に計算すんな!」

 

日向が腹を抱えて笑い出した。

 

「じゃあ俺は接客だろ」

 

そう言って、日向が何気なく髪をかき上げる。

 

「顔がいいから」

 

楓の箸が止まった。

 

伊織は一秒だけ日向を見てから言った。

 

「厨房でいいんじゃない?」

 

「何でだよ!」

 

「客前に出すと喋るから」

 

「接客って喋る仕事だろ!」

 

「必要以上にね」

 

「お前、今日ずっと俺に喧嘩売ってない!?」

 

そんなくだらない話をしていたときだった。

 

大食堂の入口近くで、一人の生徒が窓の外を見て足を止めた。

 

続いてもう一人。

 

さらに何人かが窓際へ集まる。

 

「おい、来たぞ」

 

「白峰じゃね?」

 

ざわり。

 

それまで別々だった大食堂の話題が、少しずつ一つの方向へ集まっていく。

 

奎星が箸を止めた。

 

「何?」

 

日向も窓のほうを見る。

 

「さあ」

 

「みんな外見てるわね」

 

楓が眉を寄せる。

 

奎星は立ち上がろうとしたが、自分の皿にまだ肉が残っているのを見てやめた。

 

「まあ、ここから見えるじゃん」

 

「食事を優先したね」

 

「当たり前だろ」

 

五人も窓の外へ目を向けた。

 

校庭に、二十人ほどの見慣れない生徒たちが立っている。

 

制服からしてマホウトコロではない。

 

白を基調とした上着に、淡い水色の刺繍。肩や袖には雪の結晶を思わせる細かな紋様が入り、マホウトコロの魔法衣が習熟度によって桃色から色を深めていくのとは対照的に、全員が白と青で統一されていた。

 

中央には九重院紫苑。

 

その隣には数名の教師らしい大人たちがいる。

 

奎星が目を細めた。

 

「あれ誰?」

 

「東北の白峰魔法学校だね」

 

伊織が答えた。

 

「白峰?」

 

「クィディッチの強豪校」

 

その一言で。

 

日向の表情が変わった。

 

さっきまで焼き魚を食べていた男の目が、一瞬で競技者のものになる。

 

「マジか。去年の全国交流杯、準決勝で当たった」

 

奎星がすぐに食いついた。

 

「勝った?」

 

「勝った」

 

日向は胸を張った。

 

「俺が四点取った」

 

楓が横からため息をつく。

 

「その話、三回聞いた」

 

「大事な話だから」

 

「自慢話でしょ」

 

「歴史的事実だろ!」

 

奎星は笑いながら、もう一度校庭を見た。

 

そこで。

 

一人の少女が目に留まった。

 

「……お」

 

白峰の生徒たちの中央。

 

奎星たちと同じくらいの年頃に見える少女だった。

 

雪を思わせる白い制服。

 

腰のあたりまで伸びた黒髪には、ごく僅かに青みがあり、日差しを受けると夜明け前の空のような色を返す。透き通るように白い肌と整った顔立ちは派手というより澄んでいて、細い睫毛の奥には冬の空を思わせる青い瞳があった。

 

黙っていれば。

 

かなり近寄りがたく見える。

 

けれど九重院の話を聞きながら、隣の白峰生へ何か返すときだけは柔らかく笑った。

 

その瞬間。

 

大食堂の男子たちが。

 

止まった。

 

一秒。

 

二秒。

 

そして。

 

「可愛い!!」

 

誰かが叫んだ。

 

別の男子が窓へ身を乗り出す。

 

「なんだあの激マブ姉ちゃんは!?」

 

すぐ隣から突っ込みが入る。

 

「言い方古すぎるだろ!」

 

「そこ気にするとこかよ!」

 

「おい、あれ白峰の常盤じゃね!?」

 

「マジで!?」

 

「写真で見たことある!」

 

「誰だよ!?」

 

「学生総代だよ!」

 

「学生総代!?」

 

男子たちが一斉に窓側へ寄っていく。

 

奎星も普通にその中へ視線を向けた。

 

「へえー」

 

その横で。

 

楓が男どもを見回した。

 

長い。

 

本当に長い。

 

ため息。

 

「ほんっとに最低」

 

日向が振り返る。

 

「なんだよ、嫉妬してんのか?」

 

ごんっ。

 

「痛ってぇ!!」

 

楓の拳が日向の頭へ落ちた。

 

「何で殴んだよ!」

 

「今の一言が気持ち悪かったから」

 

「理由ひどくね!?」

 

伊織は平然と味噌汁を飲んでいる。

 

岳に至っては、そもそも少女より自分の唐揚げを見ていた。

 

奎星が気になって訊く。

 

「岳は見ねえの?」

 

岳は一度だけ外を見た。

 

「綺麗だな」

 

「お」

 

「でも唐揚げ冷める」

 

奎星は妙に感心した。

 

「強えな、こいつ」

 

そのとき。

 

外で九重院が少女へ何かを言った。

 

少女――常盤澪が大食堂のほうを見る。

 

そして九重院へ軽く頭を下げると、こちらへ向かって歩き始めた。

 

男子たちがざわついた。

 

「おい」

 

「来るぞ」

 

「こっち来るぞ!」

 

「俺だな」

 

「何がだよ!」

 

「絶対俺に用がある」

 

「あるわけねえだろ。お前、去年の交流試合で白峰の女子に声かけて無視されてただろ!」

 

「うるせえ!」

 

あちこちで急に髪を直す者、襟を整える者、制服の皺を伸ばす者が出てくる。

 

さっきまで頬に米粒をつけていた男子まで、何食わぬ顔で背筋を伸ばしていた。

 

奎星はその光景を見回した。

 

「何してんだ、こいつら」

 

横を見る。

 

日向も髪を整えていた。

 

楓の視線が突き刺さる。

 

「…………」

 

日向の手が止まった。

 

「違うぞ」

 

「何も言ってないけど」

 

「これは癖だから」

 

「へえ」

 

「その目やめろ!」

 

やがて澪が大食堂へ入ってきた。

 

不思議なくらい。

 

一帯が静かになった。

 

白い制服の裾が揺れ、規則正しい靴音が床へ響く。

 

一つ目のテーブルを通り過ぎる。

 

「あ……」

 

誰かが肩を落とした。

 

二つ目も通過。

 

三つ目。

 

そして。

 

澪は二年二組の五人が座るテーブルの前で止まった。

 

ちょうどそのとき。

 

奎星は米を口いっぱいに頬張っていた。

 

「…………」

 

澪が奎星を見る。

 

奎星も見上げる。

 

「蓮根奎星君?」

 

「……ん?」

 

米を頬張ったまま。

 

非常に間抜けな声が出た。

 

後ろから小さな声がする。

 

「声まで綺麗だぞ……」

 

「マジかよ……」

 

楓が振り返った。

 

男どもと目が合う。

 

全員、黙った。

 

奎星は慌てて米を飲み込む。

 

「そうだけど」

 

澪は小さく頷いた。

 

「私、白峰魔法学校の常盤澪。学生総代を務めています」

 

「おお」

 

奎星も何となく姿勢を正す。

 

「蓮根奎星。マホウトコロ編入生総代」

 

隣の日向が即座に振り向いた。

 

「なんだよ編入生総代って!」

 

「俺しかいないから一位だろ!」

 

「一人中一位を総代とは言わねえんだよ!」

 

澪の口元が。

 

ほんの少しだけ緩んだ。

 

「聞いていたより変な人ね」

 

「初対面で!?」

 

奎星が抗議すると、澪は少しだけ肩をすくめた。

 

「九重院校長先生から、分からないことがあれば蓮根君に聞くように言われたの。それでお願いがあるんだけど」

 

「何?」

 

「このあと少し、学校の中を案内してもらえない?」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

奎星は自分を指した。

 

「いや、俺この学校に来てまだ四か月くらいだぞ」

 

その瞬間だった。

 

周囲から。

 

一斉に椅子の音がした。

 

「はい! 俺が案内します!」

 

「いや常盤さん、俺に任せてください!」

 

「校内なら俺めっちゃ詳しいっすよ!」

 

「白峰の方に変な案内させるわけにいかないんで!」

 

男どもが次々と名乗りを上げる。

 

奎星が目を丸くした。

 

「急に元気になったな、お前ら」

 

ところが。

 

そこから。

 

なぜか話がおかしな方向へ進んだ。

 

「お前は駄目だろ! 先月、天文学塔行こうとして薬草園に出てただろ!」

 

「一回だけだ!」

 

「二回だよ!」

 

「じゃあお前だって東棟と西棟間違えて、昼休み丸々帰ってこなかったじゃねえか!」

 

「下級課程の頃の話な!」

 

「十年以上いて迷ってた事実は消えねえだろ!」

 

別の男子が割り込む。

 

「二人とも引っ込め! 俺が一番詳しい!」

 

「お前、下級課程の交流会で白峰の女子に道聞かれて、格好つけて案内した結果二人で迷ってただろ!」

 

「だから下級課程の頃の話だって言ってんだろ!!」

 

「しかも女子だけ先に教師に保護されて、お前一時間見つからなかったよな!」

 

「それ言う必要ある!?」

 

「去年は八咫小路で迷子になってただろ!」

 

「あれは人混み!」

 

「十七歳が迷子の言い訳すんな!」

 

「お前こそ二年前、校舎から寮までの道間違えたじゃねえか!」

 

「あの日は霧が濃かった!」

 

「廊下に霧は出ねえよ!」

 

「魔法学校なんだから出るかもしれねえだろ!」

 

「出てなかっただろ!」

 

澪そっちのけで。

 

完全に喧嘩が始まった。

 

「あいつら何してんの?」

 

奎星が呆然とする。

 

伊織が静かに答えた。

 

「自己推薦から、互いの候補者を潰す段階へ入ったね」

 

「選挙かよ」

 

楓はもう顔を覆っている。

 

「恥ずかしい……本当に恥ずかしい……」

 

澪も最初は驚いていたが。

 

やがて。

 

耐えきれなかったらしい。

 

口元を押さえた。

 

「……ふふっ」

 

奎星が見る。

 

「笑ってんじゃん」

 

「だって……」

 

澪はまだ笑いながら、言い争う男子たちを見る。

 

「マホウトコロって、面白い人が多いのね」

 

楓が即座に否定した。

 

「お願いだから、あれを標準だと思わないで」

 

「おい聞こえたぞ水無瀬!」

 

「事実でしょ!」

 

結局。

 

男子たちが互いの黒歴史を暴露し続けた末。

 

澪が改めて奎星へ向き直った。

 

「やっぱり蓮根君にお願いする」

 

「今の見て!?」

 

「一番迷わなさそうだから」

 

後ろから。

 

「そいつが一番危ないぞ!」

 

と声が飛んだ。

 

奎星が振り返る。

 

「うるせえ!」

 

澪は笑った。

 

「九重院校長先生からも、蓮根君って言われてるし」

 

奎星は窓の外を見る。

 

「校長先生?」

 

校庭。

 

九重院がちょうどこちらを見ていた。

 

目が合う。

 

いつもの柔らかな笑顔。

 

しかし奎星には、もう分かる。

 

あれは。

 

絶対に。

 

何か企んでいるときの顔だ。

 

九重院は小さく手を振った。

 

そして。

 

何事もなかったように背を向ける。

 

「逃げた!」

 

奎星が立ち上がった。

 

「なんなんだよ、あの人……」

 

 

結局。

 

昼食後。

 

奎星が澪を案内することになった。

 

本校舎の回廊へ出るなり、奎星は先に念を押した。

 

「最初に言っとくけど、俺マジで学校詳しくねえからな」

 

「さっき聞いた」

 

「四か月しかいないんだぞ」

 

「四か月もいたら、普通は自分の学校くらい案内できるんじゃない?」

 

「広いんだって、ここ!」

 

二人で廊下を歩く。

 

澪は物珍しそうに周囲を眺めていた。

 

白峰魔法学校とは、建築様式そのものがまるで違うらしい。

 

淡い光を透かす羊脂玉の壁。

 

翼のように空へ反った屋根。

 

風が通るたびに鳴る銀の鈴。

 

中庭の池では、鯉が時折水面から身体を出し、そのまま水の上を数歩歩いてから戻っていく。

 

澪が足を止めた。

 

「あれは?」

 

中庭の中央に立つ大きな石像。

 

奎星も見る。

 

「知らん」

 

「…………」

 

二人はまた歩く。

 

壁に刻まれた古い文字。

 

「あれは?」

 

「知らん」

 

さらに進む。

 

「じゃあ、あの軒先の銀色の鈴は?」

 

「知らん」

 

澪がゆっくり奎星を見る。

 

「案内役よね?」

 

「だから最初に言ったじゃん!」

 

「何なら知ってるの?」

 

「俺に関係ある場所なら!」

 

「学校案内として最悪じゃない?」

 

「思い出案内なら最強」

 

「何それ」

 

少し歩いたところで。

 

奎星が突然声を上げた。

 

「あ!」

 

「何?」

 

「ほら、あそこ!」

 

奎星が嬉しそうに指差す。

 

本校舎から張り出した大きな梁。

 

澪は見上げた。

 

「何かあるの?」

 

「あそこ、俺が初めて飛行術やった日にぶつかった場所」

 

「…………」

 

「めっちゃ速かったんだよ」

 

澪は梁を見る。

 

そして奎星を見る。

 

「それ、自慢してる?」

 

「思い出を紹介してんの!」

 

次の瞬間。

 

澪が吹き出した。

 

「ふっ……あはは!」

 

「笑いすぎだろ!」

 

「だって学校案内で最初に詳しく教えてくれるのが、自分がぶつかった梁って……!」

 

「名所だぞ!」

 

「あなたの中だけでしょ!」

 

澪はまだ笑っている。

 

最初に大食堂へ入ってきたときには、雪のように静かで近寄りがたい少女に見えたのに。

 

笑うと。

 

随分印象が違った。

 

奎星もつられて笑う。

 

そのまま少し歩いたところで。

 

前方から。

 

ぺた。

 

ぺた。

 

小さな足音が近づいてきた。

 

作務衣姿の小妖。

 

奎星の顔が明るくなる。

 

「天ぷら!」

 

小妖も顔を上げた。

 

「レンコン!」

 

「蓮根な」

 

ほとんど条件反射だった。

 

澪が足を止める。

 

「……天ぷら?」

 

「こいつ天ぷら」

 

「テンプラ」

 

小妖が胸を張った。

 

澪は目線を合わせるようにしゃがみ込む。

 

「本当に天ぷらって名前なの?」

 

「テンプラ」

 

「へえ……可愛い」

 

「だろ?」

 

なぜか奎星が得意げだった。

 

天ぷらが澪を見る。

 

「ダレ?」

 

奎星が口を開きかける。

 

「白峰の――」

 

澪が先に答えた。

 

「常盤澪」

 

「ミオ」

 

「うん」

 

天ぷらは奎星と澪を交互に見る。

 

そして。

 

「レンコンノ、トモダチ」

 

奎星が笑った。

 

「会ってまだ十五分くらいだけどな」

 

天ぷらは細かいことなど気にしなかった。

 

満足そうに一度頷き、そのまま。

 

ぺた。

 

ぺた。

 

歩いていく。

 

澪は小さな背中をしばらく目で追っていた。

 

「可愛い」

 

「だろ?」

 

「でも、どうして天ぷら?」

 

「俺が蓮根だから」

 

「…………」

 

澪がゆっくり振り向く。

 

「何?」

 

「やっぱり馬鹿なの?」

 

「なんでだよ!」

 

また笑われた。

 

 

その後も。

 

学校案内らしき何かは続いた。

 

「こっちが大食堂」

 

「そこはさっきいたから分かる」

 

「俺が初めて岳と海老天争奪戦した場所」

 

「誰?」

 

「岳」

 

「知らない人の思い出を急に追加しないで」

 

「あっちが訓練場」

 

澪が少し興味を示した。

 

「闇の魔術に対する防衛術で使うところ?」

 

「そう。御影先生がめちゃくちゃ怖い」

 

「それは白峰まで有名よ」

 

奎星が振り返る。

 

「マジ?」

 

「元禍祓官の御影玄一郎を知らない学生のほうが少ないと思う」

 

「へえ」

 

なぜか奎星の顔が少し嬉しそうになる。

 

「俺の師匠」

 

澪の足が止まった。

 

「御影玄一郎が?」

 

「うん」

 

澪は奎星を上から下まで見た。

 

無遠慮なく。

 

じっと。

 

「…………」

 

奎星の眉が寄る。

 

「何?」

 

「ちょっと納得した」

 

「何が?」

 

「あなたの噂」

 

今度は奎星が足を止めた。

 

「俺?」

 

「知らないの?」

 

「何を?」

 

澪は少しだけ悪戯っぽく笑った。

 

「蓮根奎星って、魔法界じゃ結構有名よ」

 

「…………マジで?」

 

「十七歳で突然魔力が覚醒して、マホウトコロへ編入。測定器を壊すほどの魔力量を持っていて――」

 

「まあ」

 

「一学期の終わりには、死の呪文を素手で消した」

 

「…………」

 

「夏休みには黒曜の狩人と戦って、死にかけたのにまた普通に戻ってきた」

 

奎星はしばらく黙った。

 

そして。

 

ゆっくり自分の胸へ手を置く。

 

「そうやって並べて聞くと……」

 

澪が続きを待つ。

 

奎星は少し感心したような顔になった。

 

「すごいな、俺」

 

澪の表情が止まった。

 

一秒後。

 

「ふっ」

 

「何?」

 

「ふふっ……」

 

「だから何だよ!」

 

澪はとうとう腹を押さえた。

 

「あははは!」

 

「なんで笑うんだよ!」

 

「だって!」

 

目尻に涙まで浮かんでいる。

 

「私、もっと怖い人だと思ってた!」

 

「誰が!?」

 

「ものすごく寡黙で、周りを寄せつけなくて、近くにいるだけで魔力が漏れてるみたいな人」

 

「漏れたら御影先生に殺されるわ!」

 

「それなのに……」

 

澪が奎星を指差す。

 

「本人、思ってたよりずっと間抜けだった!」

 

「なんだとぉ!?」

 

奎星が詰め寄る。

 

澪は笑いながら一歩下がった。

 

「だって学校のこと全然知らないじゃない!」

 

「四か月なんだよ!」

 

「自分がぶつかった梁だけ異様に詳しい!」

 

「大事だろ!」

 

「小妖に天ぷらって名づけるし!」

 

「本人も気に入ってんだよ!」

 

「編入生総代!」

 

「俺しかいねえんだって!」

 

澪はまた声を上げて笑った。

 

最初に見た、隙のない白峰の学生総代は。

 

もうどこにもいなかった。

 

奎星は眉を寄せる。

 

「俺さ」

 

「何?」

 

「学生総代っていうから、もっと楓みたいなやつだと思ってた」

 

「楓?」

 

「さっき同じテーブルにいた女子。真面目で、頭よくて、口うるさくて」

 

遠くから。

 

なんとなく。

 

楓の怒声が聞こえたような気がした。

 

奎星は一度だけ周囲を見る。

 

誰もいない。

 

気のせいだった。

 

「だから学生総代って、全員ああいう優等生なのかと思ってた」

 

澪の眉が上がる。

 

「何。私が優等生じゃないって言いたいの?」

 

「全然違うじゃん。とんだ悪ガキだよ」

 

「誰が悪ガキよ!」

 

「さっきから人のこと笑ってばっかだろ!」

 

「だって面白いんだもの」

 

「性格悪っ!」

 

「編入生のくせに変なやつ」

 

「お前こそ学生総代のくせに悪いやつ!」

 

澪は笑いながら。

 

ぽん。

 

奎星の腕を叩いた。

 

「痛っ!」

 

「絶対痛くないでしょ」

 

「心が痛い!」

 

「死の呪文を止めた人間が?」

 

「物理と心は別だろ!」

 

「弱っ」

 

「おい!」

 

また。

 

ぽん。

 

今度は肩。

 

奎星がやり返そうと手を伸ばす。

 

澪はするりと避けた。

 

「遅い」

 

「待て!」

 

「学校案内中に客を追い回していいの?」

 

「客が案内役を殴ったんだろ!」

 

「優しく叩いただけ」

 

「暴行は暴行だ!」

 

澪がちらりと振り返る。

 

「魔法法規六十一点の人が法律語ってる」

 

奎星が。

 

ぴたりと止まった。

 

ゆっくり澪を見る。

 

「…………なんで知ってんの?」

 

澪の口元が。

 

悪戯っぽく持ち上がった。

 

「有名人だから?」

 

奎星の顔色が変わる。

 

「そこまで広まってんの!?」

 

一拍。

 

「嘘」

 

「お前!!」

 

澪が逃げる。

 

「待て!」

 

「嫌!」

 

奎星が追う。

 

二人の笑い声が、白く透き通る羊脂玉の回廊へ長く響いた。

 

 

二階。

 

魔法史研究室へ続く渡り廊下で。

 

烏丸スズメは足を止めていた。

 

腕には数冊の教科書と史料。

 

夕方。

 

今日も奎星の補習がある。

 

そのための資料を研究室へ運んでいる途中だった。

 

下から。

 

笑い声が聞こえた。

 

聞き慣れた声。

 

何度も聞いた。

 

教室で。

 

研究室で。

 

八咫小路で。

 

スズメは何気なく下を見た。

 

中庭へ続く回廊に。

 

奎星がいた。

 

その隣には。

 

知らない少女。

 

いや。

 

制服を見れば、すぐに分かった。

 

白峰魔法学校。

 

今日から星迎祭と交流試合へ向け、一部の生徒が先行して滞在すると聞いている。

 

中央にいた少女の名前も。

 

覚えていた。

 

「……常盤澪」

 

白峰魔法学校上級課程。

 

学生総代。

 

成績優秀。

 

実技評価も高く、白峰側の代表生徒として星迎祭までマホウトコロへ滞在する予定。

 

九重院から聞いたのは。

 

それくらいだった。

 

そして今。

 

その常盤澪が。

 

奎星の肩を軽く叩いた。

 

奎星が何か言い返す。

 

澪が笑う。

 

奎星も笑った。

 

もう一度何かを言い合い。

 

今度は澪が奎星の腕へ触れる。

 

距離が。

 

近い。

 

今日初めて会ったはずなのに。

 

昔からの友人のように。

 

自然に話している。

 

「…………」

 

スズメは何も言わなかった。

 

ただ。

 

少しだけ足を止めた。

 

蓮根奎星は。

 

人と仲良くなるのが早い。

 

それは知っている。

 

自分だってそうだった。

 

初めて会った夜。

 

鴉の姿で部屋へ入れば、食べられかけ。

 

人間へ戻った直後から「スズメちゃん」と呼ばれ。

 

翌朝には。

 

まるで以前から知っている相手のように話しかけられていた。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

一学期。

 

誰とも話せず、教室の窓の外ばかり見ていた少年が。

 

気づけば四人の輪の真ん中で笑うようになった。

 

だから。

 

これも。

 

いつものこと。

 

他校から来た生徒と仲良くなった。

 

それだけ。

 

何も。

 

おかしくない。

 

それに。

 

常盤澪は。

 

綺麗な少女だった。

 

雪のような白い制服。

 

長い黒髪。

 

澄んだ青い瞳。

 

奎星の隣に立つと。

 

身長も。

 

年齢も。

 

雰囲気も。

 

妙に自然だった。

 

スズメは。

 

ふと思った。

 

お似合いだ。

 

ひどく。

 

「…………」

 

胸の奥で。

 

何かが僅かに引っかかった。

 

痛いわけではない。

 

苦しいわけでもない。

 

まして。

 

怒る理由など。

 

一つもない。

 

ただ。

 

いつもなら何でもないはずの景色が。

 

今日は妙に。

 

目に残った。

 

下では。

 

澪がまた笑った。

 

奎星が何か言う。

 

今度は二人とも。

 

同時に笑った。

 

スズメは腕に抱えていた教科書へ目を落とした。

 

「……補習」

 

小さく呟く。

 

けれど。

 

約束の時間には。

 

まだ少し早い。

 

呼ぶ理由はない。

 

教師として。

 

生徒が他校の生徒を案内している。

 

それだけのことを。

 

邪魔する理由など。

 

どこにもない。

 

「…………」

 

スズメは歩き出そうとした。

 

一歩。

 

それでも。

 

なぜか。

 

もう一度だけ。

 

下を見た。

 

蓮根奎星。

 

常盤澪。

 

並んで歩いていく。

 

二人の後ろ姿が。

 

回廊の角へ消えるまで。

 

烏丸スズメは。

 

自分でも理由の分からないまま。

 

ほんの少しだけ長く。

 

そこに立っていた。

 

星迎祭まで。

 

あと一週間。

 

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