夕方の魔法史研究室には、九月の終わりらしい柔らかな西日が差し込んでいた。
窓の向こうでは、星迎祭の準備を終えた生徒たちが回廊を行き交っている。遠くから机を運ぶ音や笑い声が聞こえてくるものの、昼間の騒がしさに比べれば校舎はずいぶん静かになっていた。
その穏やかな時間の中で、蓮根奎星だけが妙な違和感を覚えていた。
机の向こうには烏丸スズメが座っている。いつもの濃紺の教員衣に、顎で真っ直ぐ切り揃えた黒髪。右手には赤い筆を持ち、奎星が解いた魔法史の課題へ淡々と目を通していた。
見た目は、いつも通りである。
けれど。
「…………」
奎星は教科書から顔を上げ、しばらくスズメを観察した。
スズメは答案を見る。
奎星はスズメを見る。
赤い筆が動く。
奎星はまだ見る。
「スズメちゃん」
「何です?」
声も普段とほとんど変わらない。
だからこそ、奎星は少し考えたあと首を傾げた。
「なんか怒ってる?」
赤い筆が止まった。
「怒っていません」
「怒ってんじゃん」
「今の返事のどこに怒っている要素がありました?」
「声。今日いつもより三割くらい冷たい」
「人の機嫌を数値化しないでください」
スズメは再び答案へ視線を戻すと、しゃっ、と一本の赤線を引いた。
奎星の顔が引きつる。
「ほら!」
「何です?」
「今、めっちゃ勢いよくバツした!」
「間違っているからです」
「感情乗ってなかった?」
「乗っていません」
「絶対乗ってたって!」
スズメはようやく顔を上げた。
「蓮根君。補習を続けてもよろしいですか?」
「いいよ」
「では十七頁――」
「あ、今日さ」
スズメの眉がわずかに動いた。
「…………」
「白峰の子、案内したじゃん?」
筆先が止まったのは、ほんの一瞬だった。
奎星は気づかなかった。
「常盤さんでしたか」
「そうそう、澪。めちゃくちゃ人のこと笑うんだよ、あいつ」
「そうですか」
「学生総代だからもっと堅い奴かと思ったら全然違うし」
「そうですか」
「俺がぶつかった梁教えたら死ぬほど笑うし」
「そうですか」
奎星の眉が寄った。
「スズメちゃん、聞いてる?」
「聞いています」
「全部『そうですか』じゃん」
「あなたの学校案内の感想を聞く時間ではありませんので」
「やっぱ怒ってんじゃん!」
「怒っていません」
妙だった。
理由までは分からない。
けれど六月からほとんど毎日のようにこの教師と話してきたのだ。機嫌がいいとき、呆れているとき、本気で怒っているとき、自分を心配しているとき。その違いくらいは、本人が思っている以上に分かるようになっていた。
今日のスズメは。
何となく。
機嫌が悪い。
奎星はぱたんと教科書を閉じた。
スズメが即座に顔を上げる。
「なぜ閉じるのです?」
「緊急事態だから」
「何がです?」
「スズメちゃんの機嫌が悪い」
「補習より優先される緊急事態ではありません」
「原因究明しないと集中できない」
「普段から大して集中していないでしょう」
「今日はいつも以上に無理」
スズメは深く息を吐いた。
「開いてください」
「腹減ってる?」
「違います」
「眠い?」
「違います」
「御影先生になんか言われた?」
「いいえ」
「校長?」
「違います」
「俺?」
その質問にだけ、返事がほんの一拍遅れた。
「……違います」
奎星の目が細くなる。
「今怪しかった」
「怪しくありません」
「俺なんかした?」
「していません」
「じゃあ澪?」
ぴたり。
赤い筆が止まった。
奎星がすぐに身を乗り出す。
「澪がなんかした?」
「常盤さんは何もしていません」
「じゃあ何?」
「何でもありません」
「教えてよ」
「嫌です」
「何で?」
「何でもです」
奎星は椅子ごと、ずずず、と前へ寄った。
スズメが冷たい目を向ける。
「近いです」
「教えてくれたら戻る」
「先に戻ってください」
「先に教えて」
「蓮根君」
「はい」
「戻ってください」
ずず。
さらに近づいた。
スズメが一瞬黙る。
「逆です」
「間違えた」
「わざとでしょう」
「バレた?」
悪びれる様子もなく笑っている。
スズメはしばらく奎星を睨んでいたが、本人にはまるで効いていない。
奎星は少し考えると、今度は真顔で尋ねた。
「じゃあさ。水羊羹食う?」
「……なぜ?」
「機嫌直るかなって」
スズメが瞬きをする。
「私は子どもですか?」
「好きだろ?」
「好きだからといって、機嫌が悪いときに与えれば直るというものではありません」
「あ、好きなのは認めんだ」
「そこを拾わないでください」
少しだけ。
声がいつもの調子へ戻った。
奎星はすぐに気づいたらしい。
「今ちょっと機嫌直った?」
「直っていません」
「直ったじゃん」
「直っていません」
「笑いそうだった」
「気のせいです。十七頁を開いてください」
「はい」
今度は素直に教科書を開いた。
三秒。
「スズメちゃん」
「何です?」
「十八世紀の地方自治ってさ」
「はい」
「眠くない?」
スズメの眉間に皺が寄る。
「あなたは何をしにここへ来ているのですか?」
「スズメちゃんと喋りに」
あまりにも反射的に答えたので。
言った本人が。
「あ」
と止まった。
スズメも止まる。
研究室の中が、急に静かになった。
開けた窓の向こうから、星迎祭の準備をしている生徒たちの笑い声だけが遠く聞こえてくる。
奎星は少し気まずそうに頭を掻いた。
「いや……勉強もだけど」
「…………」
「半々?」
スズメはじっと奎星を見る。
「三対七では?」
「どっちが三?」
「勉強です」
「ひど!」
そう言いながら。
スズメの口元には、さっきまでなかった僅かな笑みが浮かんでいた。
奎星は見逃さなかった。
「あ!」
すぐに表情が戻る。
「何です?」
「今笑った!」
「笑っていません」
「笑ったって!」
「十七頁」
「誤魔化した!」
「課題を増やしますよ」
「ごめんなさい!」
奎星は慌てて教科書へ顔を戻したが、口元には妙に満足そうな笑みが残っていた。
そしてスズメも、再び赤い筆を動かしながら、先ほどよりほんの少しだけ柔らかな顔をしていた。
なぜ機嫌が悪かったのか。
奎星には最後まで分からなかった。
そしておそらく。
スズメ自身にも、まだきちんとは分かっていなかった。
*
翌日。
昼過ぎの二年二組では、星迎祭の準備が本格的に進んでいた。
教室の天井近くには星を模した紙飾りが並び、壁際には魔法で色を変える予定の大きな幕が広げられている。以前日向が燃やしかけた《魔法喫茶》の看板も修復され、今度こそ安全な発光魔法が施されていた。
「奎星、もうちょい右!」
脚立の上に立つ奎星へ楓が声を飛ばす。
「こっち?」
「そっちは左!」
「俺から見て?」
「世界共通の右よ!」
「分かりづれえ!」
「何でよ!」
日向は看板の明るさを調整し、伊織は当日の会計表を作っている。
岳は。
「岳」
楓の声が低くなった。
焼き菓子を持っていた岳の手が止まる。
「何」
「今何個目?」
「二個」
伊織が顔も上げずに言った。
「七個目」
「何で数えてんだ」
「君だから」
「返しなさい!」
楓に残りを奪われた岳の顔には、普段滅多に見せないほど分かりやすい悲しみが浮かんだ。
そのとき、教室の天井近くに設置された放送用の術具が淡く光った。
『上級課程の生徒へ連絡します』
全員の手が少し止まる。
『本日午後三時より、第一決闘訓練場にて、白峰魔法学校との合同選抜決闘を実施します』
教室が一気にざわついた。
日向が看板から顔を上げる。
「決闘?」
『星迎祭期間中の交流教育の一環として、両校より選抜された生徒三名ずつによる模擬決闘を行います。マホウトコロ代表は――』
奎星の顔が見る見る輝く。
「絶対見に行こうぜ!」
「まだ準備終わってないわよ」
「決闘だぞ!?」
「だから何?」
「決闘だぞ!?」
「二回言っても同じ!」
放送は続く。
『上級課程第三学年、三枝冬真』
教室の何人かが声を上げる。
『上級課程第二学年、水無瀬楓』
「…………え?」
楓本人の動きが止まった。
奎星と日向が同時に振り返る。
『上級課程第一学年、鳴海景。以上三名をマホウトコロ代表とします』
放送がまだ終わらないうちに。
「待って待って待って!」
奎星が脚立から飛び降りた。
「俺は!?」
「そこなの?」
楓が呆れる。
「楓が選ばれたの先に祝えよ!」
日向が言う。
「あ、そうじゃん。楓すげえ!」
「順番!」
そのとき、教室の扉が開いた。
「水無瀬」
低い声。
御影玄一郎だった。
おそらく選抜された楓を早めに訓練場へ連れていくために来たのだろう。
そして奎星には、これ以上ないほど都合のいい相手だった。
「御影先生!」
御影が露骨に嫌そうな顔をする。
「何だ」
「俺は!?」
「出さん」
早い。
「なんで!?」
「水無瀬がいる」
「俺でもいいじゃん!」
御影は一秒ほど奎星を見たあと、極めて冷静に言った。
「お前、水無瀬に負けているだろう」
「…………」
教室が静かになった。
日向がすでに笑いを堪えている。
「いや、一回目は――」
「一学期。水無瀬の勝ち」
「二回目は黒曜石で中断だし!」
「夏休み」
「…………」
「水無瀬の勝ち」
日向がとうとう吹き出した。
「ぶはっ!」
「笑うな!!」
楓まで口元を押さえている。
奎星は必死に食い下がった。
「でも夏休みのはほぼ勝ってたじゃん! 指二本だぞ!? 二本しか掛かってなかった!」
「杖は落ちていない」
「ほぼ落ちてた!」
「決闘に『ほぼ』はない」
「くっそぉ……!」
御影は腕を組んだ。
「選抜は魔力量の多い順ではない。現時点で最も安定して結果を出せる三人を選んだ」
「俺だって最近めっちゃ安定してる!」
「今朝、訓練人形を壊したな」
「あれは人形が弱かった!」
「昨日は防御を反射させて自分の靴を飛ばした」
「事故!」
「一昨日は?」
「もういいです!」
奎星は完全に拗ねた顔で自分の席へ戻った。
御影はそれ以上相手にせず楓を見る。
「十分後、訓練場へ来い」
「はい」
扉が閉じる。
数秒後。
奎星が楓を見る。
「絶対勝てよ」
先ほどまで自分が出られないと騒いでいたのに、声にはもう悔しさより期待のほうが強かった。
楓が少し笑う。
「言われなくても」
「俺に二回勝ったんだから負けんなよ」
「二回って認めたわね」
「あ」
日向がまた笑った。
*
午後三時前。
第一決闘訓練場には、かなりの数の生徒が集まっていた。
円形の広い訓練場を囲むように観覧席が設けられ、上級課程だけでなく中級課程の生徒まで見学に来ている。普段の授業では広く感じる場所も、これだけ人が集まると別の競技場のようだった。
奎星たちは当然のように前列近くを確保していた。
というより。
日向が取った。
「楓ぇぇぇー!」
まだ試合すら始まっていない。
下で準備をしていた楓が振り返る。
「うるさい!」
「応援だって!」
「恥ずかしいからやめて!」
「頑張れー!」
「あとで覚えてなさいよ!」
奎星が笑う。
「仲いいな」
「どこが!?」
楓の怒声が下から飛んできた。
その隣で、一人の青年が楽しそうに笑っていた。
上級課程三年。
奎星たちより一つ上。
身長は百八十センチほどあり、さらりとした黒髪に深い紅色の魔法衣をまとっている。整った顔立ちだが、いかにも上級生然とした近寄りがたさはなく、むしろ普通に教室の隣の席へ座っていても違和感がなさそうな柔らかい雰囲気だった。
観客席から声が飛ぶ。
「冬真先輩ー!」
青年――三枝冬真はすぐに顔を上げた。
「聞こえてるよー。できれば試合中もそれくらい頼む!」
「冬真先輩、負けんなよ!」
「そっちもな! 俺だけ負けたらあとで慰めて!」
周囲に笑いが起こる。
奎星が日向を見る。
「誰?」
「三枝冬真先輩。決闘部の主将」
「強い?」
「めっちゃ」
伊織が補足した。
「去年の校内決闘大会優勝。純粋な決闘技術なら、今の上級課程で一番完成度が高い生徒の一人だと思う」
「楓より?」
下から楓本人が答えた。
「強いわよ」
奎星の目が輝く。
「マジ!?」
「何で私より強い人見つけて嬉しそうなのよ!」
三枝が笑った。
「いや、後輩にそんな目で見られると俺もプレッシャーなんだけど」
「三枝先輩!」
奎星が手すりへ身を乗り出す。
「今度俺ともやって!」
「いきなり?」
「お願いします!」
三枝は一瞬驚いたあと、すぐに笑った。
「いいよ。俺でよければ」
「マジ!?」
「ただし御影先生の許可取ってからな。勝手にやると俺まで怒られそうだから」
その言い方が妙に親しみやすかった。
「敬語もそんなガチガチじゃなくていいよ。俺ら一個しか違わないし。三枝でも冬真でも好きに呼んで」
「じゃ冬真先輩!」
「結局先輩つくんだ」
そのとき、訓練場の端で教師が運んでいた防護用具の箱が傾いた。
三枝は会話の途中だったにもかかわらず、すぐに気づいて駆け寄る。
「先生、こっち持ちますよ」
「あら三枝君、いいの?」
「準備終わってますし。これ結構重いやつですよね」
「助かるわ」
箱を一緒に運びながら、通りがかった一年生にも自然に声をかける。
「鳴海、大丈夫?」
「あ……はい」
「顔真っ青だけど」
「人が……多くて……」
「俺も一年のとき最初の公式戦吐きそうだったから大丈夫」
「三枝先輩もですか?」
「実際ちょっと吐いた」
「え」
「先生には内緒な」
すぐそばにいた教師が言った。
「聞こえていますよ」
三枝が笑う。
「あ、まずい」
観客席まで笑いが広がった。
奎星は少し感心したように眺める。
「いい人じゃん」
日向が頷く。
「先生にも後輩にもめっちゃ好かれてるよ」
「分かるわ」
楓も素直に言った。
三枝の横では、先ほど話していた一年生――鳴海景が杖を何度も持ち替えていた。
淡い桜色の魔法衣。少し長めの髪に、寝不足のような薄い隈。
そして何より。
顔色が悪い。
奎星が手すり越しに声をかけた。
「鳴海!」
鳴海がびくっと肩を震わせる。
「は、はい!」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
一度観客席を見る。
さらに青ざめる。
「……ちょっと吐きそうです」
「冬真先輩と同じじゃん!」
「そこでまとめないでください……」
普段は極度の人見知り。
教師へ質問するときでさえ頭の中で文章を組み立ててからでなければ喋れないらしい。
ところが決闘となれば別だった。
相手の杖先、肩、足、呼吸。
魔法が放たれる前の僅かな動きを読むことにかけて、異常なほど鋭い。
攻撃力そのものは高くない。
だが。
当たらない。
伊織の説明を聞いて。
奎星の目がさらに輝いた。
「面白そう!」
鳴海の顔が引きつる。
「見ないでください……」
「なんで!?」
「蓮根先輩の噂、怖いので」
「俺!?」
「死の呪文とか……」
「普段は普通だから!」
鳴海は奎星をじっと見る。
「…………」
「何?」
「思っていたより普通ですね」
「昨日も言われたぞ、それ!」
三枝が吹き出した。
「蓮根、後輩にもそう思われてるのか」
「冬真先輩まで笑うなよ!」
「ごめんごめん」
たった数分話しただけなのに。
三枝とは。
妙に話しやすかった。
*
やがて反対側の入口が開き、白峰魔法学校の一団が入ってきた。
最初に姿を現したのは、五十代後半ほどの女性教師だった。
柔らかな灰色の髪を後ろでまとめ、白峰の教員用らしい紺青の長衣をまとっている。目尻には穏やかな笑い皺があり、歩き方までゆったりとしていて、一見すれば魔法学校の教師というより近所の優しい婦人にも見えた。
しかし。
御影は女性の姿を見た途端、僅かに目を細めた。
「相変わらず怖い顔をしているのねえ、御影先生」
「柊木先生」
「お久しぶり」
「三年ぶりです」
「あら。覚えてたの?」
「当然です」
白峰魔法学校、闇の魔術に対する防衛術担当。
柊木志乃。
五十八歳。
若い頃には決闘競技の全国大会を三度制し、教師となってからも二十年以上にわたって白峰の防衛術教育を支えてきた魔女だった。
御影ほど実戦の世界へ長くいたわけではない。
それでも純粋な対人決闘となれば、今なお相手にしたがる者は少ない。
奎星が日向へ小声で尋ねる。
「あの人強いの?」
御影の耳が動いた。
「聞こえてるぞ」
「また!?」
柊木が楽しそうに笑った。
「あらあら。あなたが蓮根君?」
「はい!」
「話は聞いてるわよ」
奎星が少し身構える。
「どんな?」
「廊下を壊したとか」
「そこ!?」
「訓練場も壊したとか」
「俺だけじゃない!」
「死の呪文を消したとか」
「急に重い!」
柊木は声を上げて笑った。
「面白い子ねえ」
それから後ろを振り返る。
「ほら、澪ちゃんたちも入りなさい」
「先生」
聞き覚えのある声。
「人前でちゃん付けやめてって言ったでしょう」
常盤澪が入ってきた。
昨日と同じ白い制服。
長い黒髪。
奎星はすぐに手を上げた。
「お、澪!」
澪も気づく。
「昨日ぶり」
「出るんだな!」
「代表だから」
「学生総代だもんな」
その後ろから二人の生徒が続く。
柊木が澪の襟元を見て眉を上げた。
「あら、澪ちゃん。襟曲がってるわよ」
「自分でやります」
「動かないの」
「先生!」
柊木は澪の抗議を気にせず、手早く襟を直した。
「はい。綺麗」
「……ありがとうございます」
奎星が笑う。
「お母さんみてえ」
澪が睨む。
「聞こえてる」
「仲いいな」
「一年の頃からずっとこの人なの」
柊木が嬉しそうに笑った。
「昔はもっと可愛かったのよ。試合に負けると――」
「先生」
澪の声が低くなる。
「それ以上言ったら怒る」
「あら怖い」
全然怖がっていない。
そんなやり取りの中、進行役の教師が選抜名簿を開いた。
「白峰魔法学校代表――上級課程第三学年、常盤澪」
「はい」
奎星が。
止まった。
「…………え?」
澪が顔を向ける。
「何?」
「今……三年って言った?」
「言ったね」
「澪、三年なの!?」
「そうだけど」
昨日の記憶が。
ものすごい勢いで脳裏へ戻ってきた。
――悪ガキじゃん。
――お前こそ学生総代のくせに悪いやつ!
――待て!
――遅い。
全部。
年上に言った。
先輩に。
「…………」
奎星の顔が見る見る青くなる。
澪はそれを見て、すぐに事情を察したらしい。
口元が上がる。
「昨日、随分言ってくれたよねえ」
「…………常盤先輩」
日向が爆笑した。
「急に!」
澪も吹き出す。
「あはは! 何その呼び方!」
「いや、だって先輩じゃん!」
「昨日まで澪だったのに?」
「知らなかったんすよ!」
「悪ガキって言ったよね?」
「申し訳ありませんでした!」
奎星が深々と頭を下げる。
観客席から笑いが起こった。
澪は腹を抱えながら首を振る。
「もういいって。昨日あれだけ普通に喋ってたのに、今さら急に敬語使われるほうが変だから」
「でも三年だろ?」
「一個上なだけじゃん。タメ口でいいよ。そのまま澪で」
「マジ?」
「うん。急に『常盤先輩』とか言われると気持ち悪い」
「気持ち悪いは余計だろ!」
「ほら。もう戻った」
澪が楽しそうに笑う。
奎星も少し安心して笑った。
その間にも名簿は続く。
「上級課程第二学年、御子柴漣」
「はーい」
明るい茶色の髪を後ろへ流した少年が一歩前へ出ると、観客席へ向かって両手を広げた。
「白峰二年、御子柴漣! せっかくなんで盛大な拍手よろしく!」
ぱらぱら。
「少なっ!」
マホウトコロ側から笑いが起きた。
澪が呆れたように言う。
「白峰一の拍手泥棒」
御子柴が振り返る。
「それ褒めてる?」
「一度も」
「ひどいな総代!」
派手好き。
観客好き。
目立つことが好き。
決闘でも大きな動作を好む。
ただし。
それ自体が囮だった。
本当に撃つ魔法は、大きな動きの陰から僅かな予備動作だけで飛んでくる。
最後。
「上級課程第一学年、小鳥遊真白」
「はい」
白に近い銀髪の少女が一歩前へ出た。
小柄な体格。
柔らかな笑顔。
両手を身体の前で揃え、ぺこりと丁寧に頭を下げる。
「小鳥遊真白です。よろしくお願いいたします」
奎星が小声で言った。
「一番まともそう」
澪が即座に答える。
「最初はね」
「え?」
真白はにこやかな顔のまま尋ねた。
「三試合ですよね?」
柊木が頷く。
「そうよ」
「では、全員三分以内に終わらせれば、お茶の時間に間に合いますね」
鳴海の顔色がさらに悪くなった。
「怖い……」
奎星は笑う。
「面白え!」
常に丁寧。
常に笑顔。
ただし。
ものすごく負けず嫌い。
白峰では《笑顔の喧嘩屋》と呼ばれているらしい。
本人だけは、その呼び名を気に入っていなかった。
*
両校の六人が揃うと、御影が訓練場の中央へ進んだ。
「ルールを説明する」
低い声が響いただけで、先ほどまでざわついていた観客席まで自然に静まっていく。
「使用可能な呪文は、武装解除、気絶、拘束、押し出し、防御術その他、両校上級課程で許可された非致死性呪文に限る」
続いて柊木が説明する。
「相手が戦闘不能になる、杖を失う、場外へ出る、あるいは審判が危険と判断した時点で終了です。交流試合なんだから、熱くなりすぎちゃ駄目よ」
「はい」
六人が答えた。
対戦順が発表される。
第一試合。
マホウトコロ、上級課程一年。
鳴海景。
対する白峰は。
上級課程二年、御子柴漣。
鳴海の顔が再び青ざめた。
「二年……」
御子柴は笑顔で杖を回す。
「よろしく、一年坊主」
「帰りたい……」
「始まる前から!?」
奎星が思わず叫んだ。
ところが。
鳴海が開始線へ立った瞬間。
空気が変わった。
肩から余計な力が抜ける。
視線は御子柴の杖先へ真っ直ぐ固定され、先ほどまで震えていた指も止まっていた。
御子柴もそれを見て、笑みを少し変える。
「へえ」
御影が腕を上げた。
「始め」
御子柴が先に動いた。
派手に右腕を振り抜く。
「ステューピファイ!」
赤い光が一直線に飛ぶ。
鳴海は半歩。
ただ、それだけ横へ動いた。
呪文が頬の横を抜けていく。
観客がざわつく。
御子柴はもう次の動きに入っていた。
「エクスペリアームス!」
鳴海は右へ。
避ける。
三発目。
左。
四発。
五発。
一つも当たらない。
奎星は手すりへ身を乗り出した。
「すげえ……!」
日向も目を丸くしている。
「避けるのうまっ!」
御子柴の顔から余裕は消えていない。
むしろ。
次第に楽しそうになっていく。
「いいね!」
大きく右腕を振る。
誰が見ても、そこから魔法が来る。
鳴海の視線も右手へ動いた。
その瞬間。
御子柴の左肩が僅かに沈んだ。
本命は逆。
ほとんど予備動作なしで、杖が走る。
「エクスペリアームス」
しかし。
鳴海はもうしゃがんでいた。
御子柴の目が初めて大きくなる。
「見えてんの?」
鳴海の声だけは、決闘へ入った途端に不思議なくらい落ち着いていた。
「肩が動きました」
「肩?」
「その前に左足へ体重を移してます。右手は囮ですよね」
御子柴が一瞬黙る。
そして笑った。
「怖っ」
鳴海の杖が動いた。
「インカーセラス」
縄が床を這う。
御子柴が跳ぶ。
そこから十数秒。
攻防は一気に速くなった。
御子柴が見せる。
鳴海が読む。
鳴海が避ける。
御子柴がさらに裏をかく。
奎星は声も出さずに二人を追っていた。
自分とはまるで違う。
魔力で押さない。
派手な術もない。
ただ相手を見る。
次の一手を先に見つける。
その戦い方が。
面白かった。
やがて御子柴が一歩、大きく踏み込んだ。
鳴海は反撃を読んだのか、先に杖を構える。
その瞬間。
御子柴が笑った。
「そこ」
杖先は鳴海ではなく。
床へ。
「デパルソ!」
衝撃が足元で弾けた。
「っ!」
鳴海の身体が宙へ浮く。
空中では避けられない。
「エクスペリアームス!」
杖が飛んだ。
御影の腕が上がる。
「終了」
御子柴が大きく息を吐いた。
「っしゃ!」
白峰側から歓声が上がる。
鳴海は地面へ座り込んだまま、飛ばされた自分の杖を見つめていた。
御子柴が近づき、手を差し出す。
「強いじゃん」
「……負けました」
「一年だろ?」
「はい」
「来年やりたくねえ」
鳴海がほんの少し笑う。
「僕はやりたいです」
「言うじゃん!」
鳴海は立ち上がった。
けれど。
観客席から聞こえてきた小さな声に。
その表情が曇った。
「やっぱ一年じゃ厳しかったか」
悪意はなかったのだろう。
ただの感想。
それでも。
鳴海には聞こえた。
視線が下へ落ちる。
そのとき。
「いや、めちゃくちゃすごかっただろ!」
大きな声。
鳴海が顔を上げた。
奎星だった。
「あいつ、御子柴の本命ほとんど全部見てたじゃん! 最後の床だけだろ、読めなかったの!」
観客席の何人かが奎星を見る。
鳴海も。
「俺だったら最初の派手なやつ全部引っかかってるぞ!」
伊織が横から言う。
「そこは自慢しないほうがいいと思う」
「でも次は床撃つの知ってんだから、次やったらもう当たんねえだろ!」
奎星は笑って。
思い切り親指を立てた。
「すげえよ、鳴海!」
一瞬。
鳴海は固まった。
それから。
耳まで赤くなった。
「……大声で言わないでください」
「なんで!?」
「恥ずかしいです!」
「褒めてんだぞ!」
「もっと小声でお願いします!」
観客席から笑いと拍手が起こった。
さっきより。
ずっと大きな拍手だった。
鳴海は困ったように顔を伏せながら。
それでも。
少し笑っていた。
その様子を。
白峰側から澪が見ていた。
昨日は。
変な奴だと思った。
噂とはまるで違う。
間抜けで。
うるさくて。
学校案内すらまともにできない。
けれど。
今。
自分が選抜から外されたことをあれほど悔しがっていた少年が。
負けた後輩の良かったところだけを真っ先に見つけ。
何の照れもなく。
あれだけ大きな声で褒めた。
自分が目立つためではない。
慰めようとしているようにも見えない。
本当に。
すごいと思ったから。
言っただけ。
「…………」
澪は少しだけ。
奎星を見る目を変えた。
「どうした?」
横の御子柴が訊く。
澪はすぐに顔を戻す。
「何でもない」
「蓮根見てた?」
「何で?」
「いや、ずっとそっち見てたから」
「見てない」
「今の速さ、怪しいな」
「次の試合であんたも殴られたい?」
「怖っ」
澪は前を向いた。
ただ。
口元に。
ほんの僅かな笑みが残っていた。
*
第二試合。
「マホウトコロ、水無瀬楓」
歓声が起きた。
日向が即座に立ち上がる。
「楓ぇぇぇぇぇ!!」
「だからやめろって言ってるでしょ!!」
「頑張れー!」
「あとで覚えてなさいよ!」
続いて。
「白峰魔法学校、常盤澪」
澪が決闘場へ出る。
奎星の顔から。
少しだけ笑みが消えた。
昨日一緒に学校を歩き。
悪ガキ呼ばわりして。
追いかけ回した少女。
けれど。
杖を構えた瞬間。
その印象が。
まるで変わった。
肩から余計な力が抜け、足は自然に開かれている。杖先は一切ぶれず、視線だけが楓の全身を静かに捉えていた。
さっきまで柊木に襟を直されて文句を言っていた女の子と。
同じ人間には見えない。
「……強そう」
奎星が呟く。
日向も笑わない。
楓が開始線へ立つ。
澪が少しだけ笑った。
「あなたが水無瀬さんね」
「知ってるの?」
「有名だから」
「あなたもね」
「お互い様か」
「みたいね」
杖を構える。
御影が腕を上げた。
「始め」
直後。
二人が同時に動いた。
「エクスペリアームス!」
「プロテゴ!」
赤い閃光が透明な盾へぶつかり、白い火花を散らす。
楓は防いだ直後にはもう右へ踏み込み、澪も同じ瞬間に射線から外れていた。
二発目。
三発目。
攻撃と防御が目まぐるしく入れ替わる。
「速っ……!」
奎星の声が漏れた。
楓が撃つ。
澪が防ぐ。
澪が返す。
楓が避ける。
どちらも結果を見るために足を止めない。
一つの呪文が終わる頃には。
もう次の一手へ入っている。
「ステューピファイ!」
「プロテゴ!」
盾が砕ける。
その光の破片の向こうから楓の武装解除が飛ぶ。
澪は身体を捻った。
赤い光が黒髪を僅かに揺らして通り過ぎる。
「惜しい!」
奎星が叫ぶ。
澪の口元が上がる。
「強いね」
楓も笑った。
「そっちも」
再び。
杖が動く。
訓練場に大きな歓声が上がった。
だが。
奎星は。
途中からほとんど声を出さなくなっていた。
澪を見る。
楓を見る。
また澪。
「…………」
伊織が隣から視線だけを向ける。
「何か見つけた?」
奎星は答えなかった。
澪が楓の攻撃を防ぐ。
右へ。
反撃。
次。
楓が連続で二発撃つ。
一発。
澪は左。
二発目。
右。
三発目。
澪の左足が。
ほんの僅か。
先に動く。
奎星の眉が寄る。
もう一度。
今度は澪から攻める。
二発。
三発。
楓が防ぐ。
澪は一度距離を取る。
その前。
また。
左足。
「…………」
奎星が立ち上がった。
「楓!」
日向が驚いて見る。
楓は決闘中。
当然振り返らない。
それでも声は届いた。
「澪、距離取る前に左足の踵が浮く!」
澪の目が。
一瞬だけ。
観客席へ動いた。
奎星は続ける。
「二回とも同じ! 左足浮いたら後ろじゃなくて右に来る!」
楓の目が細くなる。
次の攻防。
澪がプロテゴ。
楓の攻撃が弾ける。
一歩。
澪の左踵が。
上がった。
楓は。
前へ出た。
「エクスペリアームス!」
澪が。
初めて。
驚いた。
いつもなら右へ逃げる場所。
そこへ楓の魔法が先回りしている。
「っ!」
咄嗟に盾。
だが遅い。
杖が大きく跳ねた。
「澪!」
柊木の声。
澪は二本の指でどうにか柄を掴み。
落とさない。
奎星が叫ぶ。
「うわ惜しい!」
日向が振り返る。
「お前いつ分かったんだよ!?」
「二回目!」
「早くね!?」
「楓と戦ってるときも、足見ないと次分かんねえから!」
奎星は。
普通に言った。
一学期。
自分が楓に負けた。
負けた直後。
自分の足が止まっていると気づいた。
夏休み。
また。
勝ったと思った一瞬だけ。
足が止まった。
負けたから。
見るようになった。
杖だけではない。
肩。
腰。
足。
視線。
本人すら気づいていない。
次の魔法より先に動く場所。
それを見る。
今度は。
自分が勝つためではなく。
楓を勝たせるために。
「楓! もう一回いける!」
楓は返事をしない。
けれど。
口元が。
少しだけ上がった。
澪も聞いていた。
「……ほんとに」
小さく呟く。
「よく見てる」
そして。
今度は。
わざと左踵を上げた。
楓が反応する。
右。
しかし。
澪は左へ出た。
「あ!」
奎星が気づく。
澪が笑った。
「もう使わせない!」
「ずるっ!」
「癖教えた本人が言う!?」
決闘の最中なのに。
奎星の声へ。
澪は普通に言い返した。
楓が怒鳴る。
「二人で喋らないで!」
「ごめん!」
「ごめん!」
二人同時だった。
観客席が笑う。
けれど。
次の瞬間。
三人の顔が一斉に変わった。
澪がフェイントを入れる。
楓は読まない。
奎星も黙る。
ここからは。
互いに。
相手が気づいたことまで含めて。
読み合う。
楓が右。
澪が左。
二人の呪文が空中ですれ違う。
楓のステューピファイ。
澪が低く沈んで避ける。
直後。
「デパルソ!」
楓の足元。
衝撃。
「っ!」
楓が半歩押される。
決闘円の縁。
あと一歩。
日向が手すりを握った。
「楓!」
澪は追う。
武装解除。
楓は盾。
弾く。
だが。
澪はそれを待っていた。
盾で楓の視界が一瞬切れる。
その死角へ。
「インカーセラス!」
縄が楓の足首へ絡む。
「しまっ――」
楓が転ぶ前に杖を振った。
「ディフィンド!」
縄を切る。
だが。
一瞬。
遅れた。
澪の杖が。
もう楓を捉えている。
「エクスペリアームス!」
楓の杖が飛んだ。
からん。
床へ落ちる。
御影の腕が上がった。
「終了」
一瞬の静寂。
次いで。
大きな歓声。
白峰。
二勝目。
澪は大きく息を吐いた。
楓も悔しそうに床の杖を見る。
けれど。
すぐに拾った。
澪が近づく。
「強かった」
楓が苦笑する。
「負けたけどね」
「一個下でしょ?」
「そうだけど」
「来年やりたくない」
楓が少し笑った。
「来年は勝つわよ」
「じゃ、私も強くならないと」
二人が手を合わせる。
そして澪は。
観客席を見た。
すぐに。
奎星を見つけた。
奎星は悔しそうに。
頭を抱えている。
「惜しかったぁぁぁ!」
勝った澪ではなく。
負けた楓のほうを全力で悔しがっている。
それが。
少し。
おかしかった。
澪は笑う。
「蓮根君」
奎星が顔を上げる。
「何?」
「さっきの。よく気づいたね」
「あれ?」
「足」
「ああ」
奎星は。
まるで大したことではないように答えた。
「俺、楓に二回負けてっから。相手の癖見るのだけは前より得意になった」
「負けたことそんな普通に言えるんだ」
「負けたもんは負けたし」
一度。
楓を見る。
「でも次勝つ」
迷いなく言った。
澪は。
少し黙った。
負けたことを恥じない。
相手の強さを認める。
そこから覚える。
後輩が負ければ、その強かったところを誰より先に見つける。
自分が選ばれなかった試合でも。
仲間が勝てるように本気で考える。
昨日の。
間抜けな少年と。
目の前の少年が。
どうしても。
同じ人間だった。
「…………」
少しだけ。
胸が変な鳴り方をした。
何だろう。
と思った。
思っただけで。
まだ。
答えを探すほどではなかった。
「澪?」
「何?」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「スズメちゃんも昨日同じこと言ってた」
澪の眉が上がる。
「烏丸先生?」
「うん」
「……ふーん」
何となく。
その名前だけ。
覚えた。
*
一勝二敗。
三試合目を待たずして、両校の勝敗そのものは白峰に決まった。
それでも。
最後の試合を見ずに帰る生徒はいなかった。
むしろ。
会場の熱気は。
先ほどまで以上に高まっていた。
マホウトコロ。
上級課程第三学年。
三枝冬真。
白峰。
上級課程第一学年。
小鳥遊真白。
真白が中央へ出る。
いつもの笑顔。
「三枝先輩」
「何?」
「先に謝っておきます」
「何を?」
「勝ちます」
三枝が笑った。
「それ謝罪じゃないだろ」
「では宣戦布告です」
「一年ってもう少し先輩に遠慮しない?」
「決闘中に年齢は関係ありませんので」
「先生、小鳥遊めっちゃ怖いんですけど」
柊木が楽しそうに答える。
「頑張りなさい」
「助けてくれない!」
観客席から笑いが起こる。
三枝も笑っている。
ただ。
杖を構えた瞬間。
奎星の表情が変わった。
「……あ」
何が。
とは。
すぐに言えなかった。
立ち方。
さっきまでと同じ。
笑顔もある。
肩にも力が入っていない。
なのに。
隙が。
ない。
御影が腕を上げる。
「始め」
真白が先手を取った。
「ステューピファイ!」
速い。
三枝は半歩ずれる。
真白の二発目。
三発目。
間隔が短い。
楓や澪とは違う。
相手に考える時間を与えない。
さらに拘束。
押し出し。
攻撃。
攻撃。
攻撃。
「うわ、めっちゃ行くじゃん!」
日向が声を上げる。
真白は笑顔のまま。
一切止まらない。
それでも。
三枝は。
一度も。
大きく動かなかった。
半歩。
一歩。
盾。
半歩。
奎星の目が細くなる。
「……全部最小限だ」
伊織が頷く。
「そうだね」
攻撃を大きく避けない。
強く盾を張らない。
必要なぶんだけ。
少しずつ。
御影が奎星へ教えているものと。
似ている。
真白が一気に間合いを詰める。
「インカーセラス!」
縄。
三枝は。
避けなかった。
「プロテゴ」
小さな盾。
縄が弾かれる。
同時。
その盾の横から。
杖先だけが出た。
「エクスペリアームス」
真白の目が大きくなる。
攻撃を止められ。
一瞬だけ。
足が止まる。
その一瞬で。
杖が飛んだ。
からん。
「終了」
御影の声。
静かだった。
試合時間。
一分少し。
真白は。
自分の空になった手を見つめていた。
三枝も。
少し驚いたように杖を見る。
「……今の結構危なかったな」
真白が顔を上げる。
「どこがですか!」
「いやいや、ほんとだって」
「余裕だったじゃないですか!」
「途中二発くらい普通に怖かったよ」
「嘘です」
「嘘じゃないって」
真白は悔しそうに唇を尖らせる。
三枝は笑いながら、床に落ちた真白の杖を拾った。
両手で返す。
「またやろう」
「次は勝ちます」
「うん」
「本当に」
「分かったって」
「絶対です」
「先生、この子負けず嫌いすぎません?」
柊木が笑う。
「今さら?」
三枝も笑った。
観客席から拍手が起こる。
奎星は。
誰より大きく。
拍手していた。
「冬真先輩すげえ!」
三枝が振り返る。
「ありがとう!」
「今度絶対やろうな!」
「御影先生に聞けって!」
奎星はすぐに御影を見る。
「御影先生!」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かる」
「横暴!」
三枝が腹を抱えて笑った。
「蓮根、俺まで巻き込まないでくれ!」
爽やかで。
強くて。
先輩らしい。
けれど。
たった一つ上。
少し話せば。
普通に冗談を言い合える。
奎星にとって三枝冬真は。
憧れの大先輩というより。
一つ先を歩いている。
妙に感じのいい兄ちゃんだった。
*
試合終了後。
観客席から生徒たちが一斉に立ち上がり、訓練場は再び賑やかな声に包まれた。
日向はすぐに楓のところへ向かう。
「惜しかったな!」
「大声で言わなくても分かってる!」
「でもめっちゃ強かった!」
「……ありがと」
あまりにも素直に言われたせいか。
楓の怒る勢いが。
少しだけ落ちた。
岳は真白が用意されていた試合後の菓子を見ている。
伊織はそれを見ている。
奎星は。
鳴海のところへ行っていた。
「なあ鳴海」
「はい?」
「さっきのさ、どうやって肩見てんの?」
「え」
「俺もやりたい」
負けたことなど。
もう誰も話していない。
次。
どうするか。
それだけ。
鳴海も。
少しずつ。
普通に話せるようになっていた。
「肩だけじゃなくて……視線も見ます」
「視線?」
「人って、次に魔法を撃つ場所を無意識に見たりするので」
「へえ!」
奎星が目を輝かせる。
「御影先生にも聞こ!」
「多分もう知ってますよ」
「じゃあ何で教えてくんなかったんだよ!」
「順番があるのでは……」
そんな二人を少し離れた場所から。
澪は見ていた。
柊木が隣へ来る。
「何見てるの?」
「別に」
「そう?」
「うん」
柊木は奎星を見る。
そして。
澪を見る。
少しだけ。
面白そうに。
「蓮根君、面白い子ね」
「……まあ」
「澪ちゃん好きそう」
澪が。
一瞬で振り向いた。
「どういう意味!?」
「面白い子が、って意味よ?」
「紛らわしい言い方しないで!」
柊木は笑っている。
完全に。
分かっていて言った顔だった。
「先生!」
澪は怒った。
けれど。
そのあと。
もう一度。
奎星を見た。
鳴海と話しながら。
身振り手振りで。
自分でも杖を振っている。
途中で。
何か失敗したらしい。
鳴海が。
珍しく笑った。
奎星も笑う。
「…………」
昨日より。
少しだけ。
気になる。
その程度。
まだ。
それだけだった。
少なくとも。
常盤澪は。
そういうことにしておいた。
*
そして。
誰もいなくなったあとの。
マホウトコロ地下。
普段、生徒が足を踏み入れることのない古い石の回廊。
壁面の奥深く。
何百年も前からそこに埋め込まれている。
一片の。
黒曜石。
昼間。
訓練場では。
何十という魔法がぶつかった。
三枝冬真。
常盤澪。
水無瀬楓。
御子柴漣。
鳴海景。
小鳥遊真白。
そして。
そのすべてを。
遠くから。
別の何かが。
聞いていた。
黒曜石の内部で。
一筋の光が。
脈打つ。
一度。
二度。
三度。
まるで。
誰かが。
扉の向こう側から。
こちらを叩いているように。
やがて。
暗闇の中で。
小さな音がした。
――かちり。
まだ。
誰も知らない。
星迎祭まで。
あと六日。