その日の夕食は、日が海へ沈みきる少し前にやってきた。
南硫黄島の夕暮れは、東京よりもずっと大きかった。森の向こうから覗く西の空が朱から紫へゆっくり色を変え、その光を受けた羊脂玉の校舎は、昼間とはまるで別の建物のように柔らかな金色を帯びていた。木々の隙間からは、授業を終えた生徒たちの声が風に乗ってかすかに届き、それより近くでは、名も知らぬ虫が規則正しく鳴いている。
そんな景色には目もくれず、奎星は低い丸机へ肘をつき、『たのしい日本魔法史①』を読んでいた。
つい昨日までなら、教科書を開いたまま三分もすれば眠っていたはずなのに、今日は違う。頁の端を折り、気になる箇所へ鉛筆で線を引き、意味の分からない単語をノートへ書き写している。
字は汚かった。
本人以外には解読不能な箇所も多い。
だが、間違いなく勉強していた。
「……陰陽寮と魔法省の前身組織に直接的な繋がりはない。ただし平安後期には――」
小声で文章を読みながら、奎星は眉間に皺を寄せた。
「いや、じゃあこっちに書いてある『術者評定』って誰がやってたんだよ……」
ぺた、ぺた、と廊下を歩く音がした。
襖が開く。
「レンコン、ゴハン」
「ん?」
奎星はようやく顔を上げた。
昨日と同じ小妖が、両手で大きなお盆を支えながら立っている。小さな身体でよくここまで運んでこられるものだと感心するほど、その盆には今日も料理がぎっしり載っていた。
白米。赤出汁。胡瓜と若布の酢の物。鶏肉と根菜の煮物。
そして中央には、黄金色に揚がった天ぷらが盛られている。
海老、南瓜、紫蘇。
その中に、薄く輪切りにされた蓮根があった。
奎星はそれを見たあと、小妖を見た。
もう一度、蓮根の天ぷらを見る。
「……決めた」
「?」
「お前、今日から天ぷらな」
小妖は首を傾げた。
「テンプラ?」
「うん。天ぷら」
奎星は蓮根の天ぷらを箸でつまみ上げた。
「俺が蓮根で、お前が毎回『レンコン』って呼ぶし、今日レンコンの天ぷら持ってきたから」
まるで筋が通っていなかった。
しかし奎星の中では完璧な命名らしい。
小妖はしばらく考えたあと、意外にも嬉しそうに両耳をぴくりと動かした。
「テンプラ」
「気に入った?」
「テンプラ」
「よし。今日からお前は天ぷら」
「レンコン」
「蓮根な」
「テンプラ」
「お前は合ってる」
どうやら互いに片方ずつしか正しい名前を覚えられないらしい。
奎星は天ぷらへ手を伸ばしかけたところで、ふと思いつき、小妖を手招きした。
「なあ天ぷら」
「ナニ」
「明日からさ、スズメちゃんの飯もここでいいよ」
小妖が瞬きをした。
「トリマル?」
「烏丸先生な。俺がスズメちゃんって呼ぶのはいいけど、お前は一応先生って呼んどけ」
「トリマル、イツモ、ケンキュウシツ」
「知ってる。だから明日からこっち」
「デモ――」
奎星は周囲を見回す。
誰もいない。
そっとリュックを開けた。
中から小袋に入ったチョコレート菓子を取り出し、小妖の前で左右へ揺らす。
天ぷらの黒い瞳が、菓子の動きに合わせて右へ、左へ動いた。
「…………」
「どう?」
「…………」
「明日の朝と昼と夜。スズメちゃんの飯も、ここ」
奎星は声を潜める。
「そしたら、これあげる」
明らかな買収だった。
天ぷらは菓子を見る。
奎星を見る。
もう一度、菓子を見る。
そして小さな両手を差し出した。
「ワカッタ、レンコン」
「蓮根な」
「オカシ」
「交渉成立」
菓子を渡す。
天ぷらは大切そうに胸へ抱き、ぺこりと頭を下げた。
「テンプラ、ガンバル」
「頼んだぞ」
「レンコンモ、ガンバレ」
「だから蓮根な」
小妖が出ていく。
奎星はその後ろ姿を見送りながら、少し考えた。
「……これ、賄賂っていうのかな」
三秒ほど考え、
「まあいいか」
と天ぷらを食べた。
食事を終えたあとも、奎星は本を閉じなかった。
夜が深くなるにつれ、森の音は静まり、窓の外には無数の星が現れた。一般社会の街灯も高層建築もない南硫黄島では、夜空そのものが天井のない巨大な天文台のようだった。
部屋の明かりを消し、布団へ腹這いになる。
そして枕元に置いてあった杖を手に取った。
「ルーモス」
神代榊の杖の先に、淡い光が灯った。
昨日までなら部屋全体を白く焼くほど暴力的に輝いていた魔法は、今は掌に載せた蛍のように静かだった。奎星が少し意識を絞れば光は弱まり、逆に魔力を足せば、文字を読むのに十分な明るさになる。
その微調整が楽しかった。
何度か光量を変えてから、ちょうどよいところで止める。
「よし」
小さな明かりの下で、再び教科書を開いた。
平安期の魔法使い。
日本における国際魔法使い機密保持法の施行。
江戸時代の魔法共同体。
近代魔法行政の成立。
教科書に載っているのは七歳児向けに整理された内容に過ぎない。それでも、知らない世界へ開いた扉としては十分すぎた。
一頁読むたび、疑問が増える。
《昔の魔法使いは杖を使ったのか?》
《陰陽術と呪文学は同じものなのか?》
《外国から魔法が入ってきた時、日本に元々あった魔法と混ざった?》
《じゃあ一番古い魔法って何?》
ノートへ書く。
また読む。
さらに書く。
《古代魔術って今でも使える?》
そこで鉛筆が止まった。
頁の下部に小さな囲み記事があった。
現代では失われた魔術
古い時代に用いられていた魔術のうち、現代では呪文、術式、発動条件の全部または一部が失われ、使用不可能となったものを失伝魔術と呼ぶ――。
「……失われた?」
俄然、面白くなった。
次の頁。
その次。
だが、小学一年生向けの本だけあって説明は浅く、「詳しくは上級課程で学びましょう」という無情な一文で終わっている。
「ここからだろ普通!」
誰もいない部屋で教科書へ文句を言う。
それでも諦めきれず、何度か同じ頁を行ったり来たりした。
やがて瞼が重くなる。
杖を握ったまま。
教科書を開いたまま。
頬が畳へ落ちた。
杖先の光だけが、夜更けまで少年の寝顔と開いた頁を静かに照らしていた。
翌朝。
かちり。
鍵の開く音がした。
奎星は薄く目を開けた。
すでに聞き覚えがある。
「……アロホモラかよ」
襖が開いた。
朝の光を背に、スズメが立っている。
「おはようございます」
「……おはよう、スズメちゃん」
「烏丸先生です」
寝起きでも訂正速度は落ちない。
だが今日のスズメは、そのまま部屋へ入ろうとして、足を止めた。
後ろから、ふるふると震える二本の腕が見えている。
「ヨイ……ショ……」
天ぷらだった。
昨日は一つだった大きな盆を、今日は二つ重ねて持っている。
正確には、一つを両手で抱え、もう一つを頭の上に載せていた。
両膝がぷるぷる震えている。
「天ぷら! 無理すんな!」
奎星が慌てて起き上がり、上の盆を受け取る。
スズメはその光景を見ていたが、やがて何かを察したらしい。
視線が奎星へ向く。
冷たい。
「蓮根君」
「はい」
「なぜ私の朝食までここへ届いているのですか」
「偶然じゃない?」
「研究室へ届くはずの食事が、偶然あなたの隔離室へ?」
「魔法って不思議だよな」
「小妖に何をしました?」
「何も」
天ぷらが元気よく片手を上げた。
「レンコン、オカシクレタ!」
「天ぷら!」
「オカシ、オイシカッタ!」
裏切りが早かった。
スズメは目を閉じる。
「……買収しましたね」
「言い方悪いな。友好関係を築いただけだよ」
「食べ物で?」
「外交の基本だろ」
「あなたは十七歳でしょう」
「将来は国際派かもしれない」
「第一志望が海賊の人間が何を言っているのです」
奎星は朝食を机へ置きながら笑う。
「いいじゃん。聞きたいこといっぱいあったんだよ」
「昨日、教科書を置いていったばかりですが」
「だからだよ!」
そこでスズメは、ようやく部屋の様子へ注意を向けた。
布団の横に教科書。
その隣に鉛筆。
頁の間には何枚もの紙切れが挟まっている。
床には、走り書きだらけのノートが開かれていた。
そして神代榊の杖は、奎星が眠りについた場所の横に転がっている。
「……読んだのですか?」
「読んだ」
「全部?」
「一巻は」
スズメの表情がわずかに止まった。
「昨夜だけで?」
「うん」
奎星は顔を洗うより先にノートを拾った。
「でさ、聞いていい?」
「まず顔を洗って――」
「昔の日本の魔法使いって杖使ってない時代もあった?」
「顔を」
「陰陽術と今の呪文学ってどの辺から分かれたの?」
「蓮根君」
「あとさ、失伝魔術って書いてあったけど、失われてんのにどうやって失われたって分かんの?」
スズメは彼を見つめた。
奎星の髪は今日も見事に跳ねている。
頬には教科書の角が押しつけられていたらしく、細長い赤い跡が一本ついていた。
外見だけなら、到底まともな生徒には見えない。
けれどその目だけが、完全に覚めていた。
「……顔を洗ってきてください」
「答えてよ」
「戻ったら答えます」
「全部?」
「可能な範囲で」
奎星は立ち上がった。
「三十秒で行ってくる!」
「歯も磨いてください!」
「一分!」
「制服も着てください」
「五分!」
ばたばたと外へ飛び出していく。
スズメは黙って見送った。
天ぷらが隣で言った。
「レンコン、ゲンキ」
「蓮根です」
「トリマルモ、ゲンキ」
「烏丸です」
「フタリ、ナカヨシ」
「違います」
即答だった。
朝食を食べながら始まった授業は、もはや教科書の順番など完全に無視していた。
奎星はご飯を口へ運びながらノートを開き、昨夜書き溜めた質問を上から順番に投げつける。スズメは最初こそ「食べながら質問しないでください」と注意したが、三問目には諦め、味噌汁を飲みながら答えるようになった。
「じゃあ、昔の魔法使いって杖なしでも魔法使えたの?」
「現在でも杖を使わない魔法は存在します。そもそも杖は魔力を生み出す道具ではなく、術者の魔力を集約し、指向性を与え、術式を安定させるための補助具です」
「じゃあ俺が最初リモコン飛ばしたのも、別に変じゃない?」
「杖なし魔法そのものは珍しくありません。ただし、訓練を受けていない十七歳が意図的に物を引き寄せたという部分は、かなり変です」
「やっぱ天才?」
「次の質問をどうぞ」
「認めろよ」
奎星は鮭をほぐしながらノートを見る。
「これは? 一番古い日本の魔法って何?」
「答えられません」
「なんで?」
「分からないからです」
「先生でも?」
「研究者ほど、分からないことに対して簡単に答えを決めつけません」
それはスズメらしい言い方だった。
奎星は納豆を混ぜる手を止める。
「じゃあ、分かってる中で古いのは?」
スズメの箸が止まった。
少しだけ考え、答える。
「現代魔術の体系へ直接繋がっていないものまで含めるなら、古代魔術と総称される術式群があります」
奎星の目が上がった。
昨夜、最も気になっていた言葉だった。
「それ。教科書にちょっとしか書いてなかった」
「下級課程の教科書で詳しく扱う内容ではありませんから」
「どんな魔法?」
「一言では説明できません」
「じゃあ百言で」
「数えません」
スズメは箸を置いた。
歴史の話になると彼女は変わる。
普段なら必要最低限しか動かない表情に、ごく小さな熱が宿る。瞳の焦点が遠い時代を追うようになり、言葉も少し速くなる。
「現代魔法の多くは、呪文、杖の動き、魔力の流し方、術式構造などが体系化されています。誰が教えても、おおむね同じ手順で再現できる。それに対して、古代魔術と呼ばれるものの中には、現代の理論では構造そのものを説明できない術が存在します」
「じゃあ、めちゃくちゃ強い?」
「強さの話ではありません」
「魔法の話すると毎回それ言うよな」
「あなたが毎回強さで評価するからです」
奎星は少し笑い、続きを促す。
スズメは話した。
かつて存在したことだけが記録されている魔法。
効果は分かっているのに、正しい発動方法が失われた魔法。
呪文の文言は残っていても、その発音や魔力運用が不明なもの。
逆に、術式だけが残されていて何を起こすための魔法だったのかすら分からないもの。
何百年も前、あるいは千年以上前に記された巻物の中には、現在の魔法理論では解読不能なものも存在するという。
「使えないの?」
「原則として」
「誰も?」
「正しい使い方が分かる者がいません」
「じゃあ試せばいいじゃん」
スズメが眉を寄せる。
「何が起きるか分からない魔法を?」
「ちょっとずつ」
「昨日『ちょっと』で部屋を昼間にした人が何を言っているのですか」
「あれは昨日の俺」
「昨日のあなたも今日のあなたです」
「細かいなあ」
「命に関わる部分なので細かくなります」
奎星は少し考えた。
「そういうの、どこにあるの?」
「物によりますが、特に危険度や歴史的価値の高い資料は、マホウトコロの第零書庫に保管されています」
「ゼロ?」
「第一書庫よりも古く、一般の蔵書体系から外された資料を収めた場所です」
「この学校にあるの?」
「あります」
奎星の顔が明るくなる。
「行こう」
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
「ちょっと見るだけ」
「駄目です」
「触らないから」
「駄目です」
「入口だけ」
「駄目です」
「ケチ」
「安全管理です」
奎星は箸で卵焼きを半分に割る。
「誰なら入れんの?」
「現在、日本国内で常時入庫権を持つ者は二名です」
「二人だけ?」
「はい」
「校長?」
「九重院校長と」
スズメは味噌汁の椀を手に取った。
「私です」
奎星の箸が止まった。
「…………え?」
「何です?」
「スズメちゃん入れんの!?」
「烏丸先生です」
「いや今そこどうでもいい! なんで!?」
「学生時代から古代魔法史を専攻していましたし、現在も研究を続けています。資料の閲覧と保全に必要な資格も取得していますから」
奎星はしばらく彼女を見た。
真正面から。
まじまじと。
スズメが眉を寄せる。
「何ですか」
「いや……」
「はい」
「スズメちゃんって、もしかしてすごい人なのか……」
「その言い方は何です?」
「ずっと鴉になれる歴史オタクだと思ってた」
「随分限定的な評価ですね」
「二十一歳で先生で、元魔法省で、第零書庫入れて、古代魔術研究してんだろ?」
「そうですが」
「すげえじゃん」
あまりにまっすぐ言われて、スズメの目がわずかに泳いだ。
奎星は気づく。
「照れた?」
「照れていません」
「今絶対照れた」
「納豆を食べてください」
「話そらした!」
「残すと天ぷらが悲しみますよ」
部屋の隅で食器を片づけていた小妖が振り返る。
「テンプラ?」
「お前のこと」
「テンプラ、ウレシイ」
「なぜ名前をつけているのですか?」
今さら気づいたらしい。
奎星は得意げに親指を立てた。
「昨日命名しました」
スズメが額を押さえた。
「本人が気に入っているなら、もう何も言いません……」
「トリマル」
「烏丸です。そこだけは言います」
朝の授業は、そのまま教科書へ戻らなかった。
スズメが説明し、奎星が疑問を挟む。
時には奎星の勘違いをスズメが直し、時には奎星の素朴な疑問にスズメが少し考え込む。
一方的に知識を渡す授業ではなかった。
「じゃあ、古代魔術って昔の人なら普通に使えたの?」
「その前提自体が疑われています。そもそも一部の古代魔術は、当時でも誰にでも扱えたものではない可能性がある」
「血筋とか?」
「可能性の一つです。特定の土地、特定の魔法具、特定の魔力特性。それから、術者個人との結びつきが必要だったという説もあります」
「人を選ぶ魔法?」
「分かりやすく言えば」
「杖みたいに?」
奎星は腰に差した神代榊の杖を見た。
九重院から渡されたときの、あの不思議な感覚を思い出す。
初めて握ったはずなのに。
ずっと昔から手にしていたような。
「……それも、似た部分はあります」
スズメは答えた。
だが、奎星の杖を見た彼女の表情に、ごく薄い疑問が浮かんだ。
奎星は気づかなかった。
昼になっても、天ぷらは約束を守った。
二人分の昼食を持って現れたのである。
ただし今度は無理をしなかったらしく、もう一匹の小妖を連れてきていた。
「トリマル、ゴハン」
「……またですか」
「天ぷら優秀だな」
「テンプラ、ユウシュウ」
本人も得意げである。
「あなたが変なことを教えるからでしょう」
そう言いながらも、スズメは結局帰らなかった。
昼食は炊き込みご飯と鯖の塩焼き、それに根菜の味噌汁だった。
窓を開けると、五月の終わりの風が畳の上を通り抜ける。
そのときだった。
校舎と寮を結ぶ渡り廊下が、遠く木々の間から見えた。
ちょうど昼休みらしい。
同じくらいの年頃の生徒たちが何人も歩いている。
男子が三人、何かを言い合って笑っていた。
その前を女子二人が歩き、一人が振り返って男子へ何か言う。
途端に全員が笑う。
別の集団では、誰かの肩に小さな白い魔法生物が乗っていた。
制服の色は、それぞれ違う。
桜色。
紅梅色。
深い緋。
奎星は箸を止めた。
無意識だった。
賑やかな声が、遠くから風に混じって聞こえる。
「…………」
スズメは気づいていた。
「どうしました?」
「いや」
奎星は鯖を一口食べた。
また外を見る。
「楽しそうだなって」
スズメも窓の向こうへ視線を向ける。
「そうですね」
「俺も早く外出てえな」
冗談ではなかった。
「早くあっち行って、友達作りたい」
言ったあと、少し気恥ずかしくなったらしい。
奎星は味噌汁へ目を落とす。
「まあ、別に友達いなくても生きてけるけど」
「昨日から何度も友達の話をしていますが」
「数えんなよ」
「三度目です」
「数えてんじゃん」
スズメはほんの少し口元を緩めた。
「では、早く皆さんに証明しなければいけませんね」
「証明?」
奎星が顔を上げる。
「何を?」
スズメの視線が、奎星の腰にある杖へ落ちる。
「あなたが危険ではないと」
遠くの渡り廊下で、誰かが杖を振った。
小さな紙の鳥が何羽も空へ舞い上がり、友人たちの頭上を旋回する。
笑い声。
奎星はそれを見る。
そしてスズメを見る。
「それができたら?」
「九重院校長へ、隔離措置解除の申請を出します」
「普通の寮?」
「段階的に、ですが」
「普通の授業?」
「許可が下りれば」
「大食堂?」
「そこですか?」
「大事だろ!」
奎星の顔に、悪戯を思いついたときのような笑みが浮かんだ。
だが今回は、それだけではなかった。
今まで「何とかなる」で物事を済ませてきた少年の目に、珍しく明確な目的が宿っている。
奎星は残っていた炊き込みご飯を一気に口へ放り込んだ。
噛む。
飲み込む。
湯呑みのお茶で流す。
そして勢いよく立ち上がった。
「よし!」
スズメが目を丸くする。
「何ですか」
「早く訓練しよ!」
「まだ昼食中です」
「俺は食い終わった」
「私は終わっていません」
「じゃあ早く!」
「急かさないでください!」
「スズメちゃん食うの遅いんだよ」
「烏丸先生です。普通です」
「天ぷら、先生の魚アクシオで口に飛ばして」
「テンプラ、ヤル」
「やらないでください!」
小妖が杖を持っていないことだけが、この昼食の救いだった。
午後の訓練は、昨日までとは明らかに様子が違った。
スズメは部屋の中央にいくつもの物を並べた。
羽根。
木製の球。
陶器の杯。
紙風船。
空の硝子瓶。
重さも形も異なる物ばかりだった。
「今日は、呪文の種類を増やすことよりも、既に覚えた魔法の精度を上げます」
奎星は少し不満そうだった。
「新しいの教えてよ」
「昨日六種類覚えたばかりでしょう」
「覚えたから次」
「その考えが危険です」
スズメは一本の羽根を机へ置いた。
「強力な呪文を十種類知っている人より、一つの基礎呪文を完璧に使える人のほうが、状況によっては遥かに強い」
「強いって言った」
「そこだけ拾わないでください」
「今強さの話したじゃん」
「例えです」
「やっぱ先生も強さ気にしてるじゃん」
「訓練を始めますよ」
「はいはい」
「はいは一度です」
「はい」
最初は浮遊呪文だった。
「十五センチ」
スズメが言う。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
白い羽根が静かに浮いた。
十五センチ。
ほとんど誤差がない。
「三十」
奎星が杖を少し上げる。
羽根も上がる。
「二十」
下がる。
「停止」
止まった。
「左右」
右。
左。
昨日なら、それだけで奎星は得意げな顔をした。
だが今日はスズメがすぐ次の対象を指す。
「木球」
羽根より重い。
奎星は一度、魔力を流す量を読み違えた。
球が勢いよく五十センチほど跳ね上がる。
「強いです」
「分かってる」
二回目。
今度は持ち上がらない。
「弱いです」
「分かってるって」
奎星は球を睨んだ。
重さ。
昨日の羽根よりずっと重い。
しかし必要なのは、単純に魔力を何倍にもすることではない。
最初に持ち上げる力。
維持する力。
動かすときの力。
昨日考えたのと同じ。
ただ対象が違う。
「……よし」
三回目。
木球がふわりと浮く。
「二十センチ」
ぴたり。
スズメの目が細くなる。
「硝子瓶」
奎星は移る。
最初は少し揺れた。
二回目。
安定する。
「紙風船」
軽い。
だから流す量を一気に絞る。
成功。
「三つ同時に」
奎星が振り向く。
「え?」
「羽根、木球、硝子瓶。三つを同時に浮かせてください」
「それアリ?」
「実際の魔法では、同じ重さの物一つだけが都合よく置いてあるとは限りません」
「急に実戦的だな」
「やりますか?」
スズメの言い方が少し挑発的だった。
奎星は笑った。
「やる」
杖を向ける。
三つ。
重さが違う。
必要な魔力量も違う。
一つの魔法で、三つへ別々の出力を与える。
最初の試み。
羽根だけが天井近くまで上がった。
木球は動かない。
硝子瓶が横倒しになる。
「うわっ」
「一つの対象に意識が偏っています」
「分かってる!」
二度目。
三つとも浮く。
ただし高さはばらばら。
三度目。
揃う。
だが五秒で木球が落ちる。
四度目。
十秒。
五度目。
三十秒。
スズメは壁際に立ったまま、何も言わなくなった。
奎星の額には汗が浮かんでいる。
唇も、もう笑っていない。
目だけが対象を追っていた。
失敗するたび、その直前に何をしていたかを思い返している。
教えられたことを繰り返しているのではない。
自分で原因を探し、自分で修正している。
六度目。
三つの物体が同じ高さで静止した。
十秒。
二十秒。
三十秒。
一分。
「…………」
スズメは時計を見る。
一分三十秒。
まだ揺れない。
二分。
奎星が眉を寄せたまま言う。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「これ、いつまで?」
「話せる余裕があるのですね」
「腕疲れてきた」
「杖を腕力で支えるからです。肩の力を抜いて」
奎星は言われた通りにする。
わずかに杖先が下がる。
三つの物も少し下がったが、すぐに元の高さへ戻った。
修正。
速い。
異様なほどに。
スズメは昨日と同じ感覚を覚えた。
見せたものを覚えるだけではない。
言葉で説明された感覚を、ほとんどその場で自分の身体へ落とし込んでいる。
「降ろしてください」
奎星が杖を下げる。
三つの物体は、音ひとつ立てずに机へ戻った。
「どう?」
「合格です」
「よっしゃ!」
奎星が拳を握る。
「次!」
「休憩を――」
「次!」
「元気ですね……」
次は召喚呪文。
「アクシオ」
本が飛ぶ。
速度調整。
停止。
軌道変更。
最初は直線でしか引き寄せられなかったものを、障害物を避けて飛ばす。
椅子を置く。
奎星が本を呼ぶ。
一度目。
本は椅子に激突した。
二度目。
椅子の背へ擦る。
三度目。
弧を描いて避ける。
四度目。
速度まで落とし、奎星の手へ収まる。
「できた」
「もう一度」
五度目。
成功。
六度目。
成功。
スズメは机へ新たな障害物を二つ置く。
奎星が笑う。
「ゲームみたいになってきた」
「遊びではありません」
「こういうゲームあったら買うわ」
「集中してください」
発光呪文では、目標となる明るさを変えた。
蝋燭程度。
読書灯。
部屋全体。
再び蝋燭程度。
奎星の杖先は、スズメが指定するたびに明暗を変える。
修復呪文では、二つに割れた器だけでなく、細かく砕けた皿を使った。
十三個の破片。
奎星は最初の一度だけ、二枚を逆に接合した。
「変な皿できた」
「芸術作品を作る授業ではありません」
「これ売れない?」
「元に戻してください」
二度目。
完全修復。
「……速いですね」
スズメが思わず漏らした。
奎星が振り返る。
「今褒めた?」
「事実を言っただけです」
「録音していい?」
「駄目です」
「もう一回言って」
「言いません」
「ケチ」
訓練は続いた。
やがて窓から入る光が傾き始める。
森の影が長くなり、部屋の畳へ木々の輪郭が伸びてきた。
奎星は汗を袖で拭う。
顔には疲労が見え始めていた。
それでも。
「もう一回」
と言った。
スズメは少し驚く。
「十分にやりました」
「最後」
「疲れているでしょう」
「だからやる」
「なぜです?」
奎星は答えず、窓を見る。
遠くに。
帰寮する生徒たちが見える。
誰かが肩を組んで歩いている。
笑っている。
自分と同じ十七歳くらいの生徒も、その中にいる。
奎星は杖を握り直した。
「証明すんだろ」
スズメの目が僅かに見開かれる。
「俺が危なくないって」
昨日までなら。
面倒だ。
別にいい。
そのうち。
何とかなる。
そう言っていたはずの少年だった。
「だから、もう一回」
スズメは何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「では最後です」
机の上へ。
羽根。
木球。
硝子瓶。
紙風船。
本。
五つ。
「全て同時に浮遊させてください」
奎星が口を開く。
「増えてんじゃん!」
「証明するのでしょう?」
にやり。
今度はスズメが。
本当に僅かに。
笑った。
奎星は一瞬ぽかんとし、それから笑い返す。
「いいね。やってやるよ」
杖を構える。
呼吸する。
身体の奥にある魔力を感じる。
五千を超えてなお底が見えない、巨大すぎる何か。
最初の頃は。
それを出すことしかできなかった。
今は。
必要なところへ。
必要なだけ。
蛇口ではない。
五本の細い糸を。
それぞれ違う太さで伸ばす。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
五つの物が浮いた。
羽根が少し高い。
奎星の指が僅かに動く。
下がる。
硝子瓶が揺れる。
止める。
木球が遅れる。
支える。
五つ。
同じ高さ。
スズメの瞳に。
五つの影が映った。
一分。
二分。
三分。
奎星の額から汗が落ちる。
それでも。
崩れない。
「……五センチ上へ」
上がる。
「右へ三十センチ」
動く。
「停止」
止まる。
「元の位置へ」
五つが移動する。
そして。
一つずつ。
静かに。
机へ戻った。
かすかな音だけがした。
奎星の肩から力が抜ける。
「っはぁ……」
畳へ座り込む。
「できた……」
スズメは机を見る。
次に。
奎星を見る。
「はい」
奎星は顔を上げる。
髪は汗で額へ張りついている。
疲れている。
それでも、笑っていた。
「できました」
その言葉を聞いた瞬間。
奎星の顔が明るくなる。
「じゃあ!」
「まだです」
「ええ!?」
「一日できただけでは判断できません。疲労時、感情が乱れた場合、咄嗟の状況でも制御できる必要があります」
「聞いてない!」
「今言いました」
「魔法学校、後出し多くね!?」
「安全基準です」
奎星は畳へ倒れ込んだ。
「うわああああ、今日で出れると思ったのに!」
「ですが」
スズメの言葉に。
奎星が顔だけ向ける。
「今日の結果は、九重院校長へ報告します」
「……マジ?」
「ええ」
「いい感じに書いて」
「事実を書きます」
「『類を見ない天才』とか」
「書きません」
「『百年に一人の逸材』」
「書きません」
「『顔もいい』」
「魔法訓練の報告書です」
「一行だけ!」
「絶対に嫌です」
奎星は笑った。
外では夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
その音の向こう。
遠い校舎。
大食堂。
寮。
同い年の生徒たち。
昨日より。
ほんの少しだけ。
近くなった気がした。
その晩。
校長室では、九重院紫苑が一枚の報告書を読んでいた。
窓の外には夜の海が広がっており、月光を受けた波だけが遠く白く光っている。
報告書の筆跡は、整然としている。
蓮根奎星。魔力制御訓練第二日。
複数対象への出力分散に成功。
五対象同時制御、三分間維持。
九重院の指が止まる。
最後の一文。
習得速度について、前日の評価を訂正。
異常ではあるが、単純な模倣能力とは考えにくい。魔力そのものに対する理解が極めて速い。
九重院は、何度かその文章を読み返した。
机の上には例の古い記録簿が置かれている。
百年以上前。
同じ神代榊。
同じ鬼火鳥の芯。
そして。
古びた紙に書かれた、ひとつの記録。
九重院は報告書から顔を上げた。
「……理解、ですか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その頃。
学校の地下。
第零書庫よりも。
さらに深い場所。
誰の足音も届かない暗闇の中で。
石壁へ刻まれた古代文字が、ひとつ。
またひとつ。
静かに青白い光を帯びていた。
まるで。
遠い昔に交わした約束を。
誰かが。
思い出し始めているように。