夕暮れを迎えたマホウトコロの校庭には、普段とはまるで違う景色が広がっていた。
長机の上に並べられているのは、大小さまざまな星形の灯籠。薄い和紙のような素材で作られた五つの角には銀色の術式が描かれ、中央には小さな魔石が埋め込まれている。灯りを入れれば淡い光を放ち、浮遊術式を起動させると人の背丈ほどの高さへゆっくり浮かび上がる仕組みだった。
星迎祭の夜、校庭から本校舎へ続く道には数百もの《星灯籠》が浮かべられる。
今夜は、その試験点灯と設置作業だった。
上級課程だけではない。中級課程や下級課程の生徒たちも参加し、白峰魔法学校から滞在している生徒まで加わっているため、普段の放課後より校庭はずっと賑やかだった。
「蓮根先輩!」
声を掛けられた奎星が振り返る。
呼んだのは、下級課程の男子生徒だった。両手で星灯籠を抱えているが、その中央はうんともすんとも言わず、周りの灯籠が次々に光り始めている中で一つだけ完全に沈黙している。
「これ死んでる!」
奎星が灯籠を見る。
「灯籠に生き死にあんの?」
「光んない!」
「どれどれ」
奎星はしゃがみ込み、少年と同じ高さから灯籠を覗き込んだ。
魔石へ触れる。
壊れてはいない。
「お前、点灯するとき何てやった?」
「ルーモス」
「杖どこ向けた?」
少年が再現する。
奎星はすぐに気づいた。
「あー、近すぎじゃね?」
「近い?」
「俺も最初やった。こういう魔石って、杖先くっつけると逆にうまくいかねえやつあるんだよ」
奎星は自分で直そうとはせず、少年の杖を持つ手を少しだけ後ろへ下げた。
「その辺。そのままもう一回」
「蓮根先輩がやってよ」
「嫌だよ」
「何で!?」
「お前の灯籠だろ。自分で光らせたほうが、星迎祭の日に『これ俺がやった!』って言えんじゃん」
少年が灯籠を見る。
少しだけ表情が変わった。
「……やってみる」
「おう」
杖を構える。
「ルーモス!」
ぽっ。
灯籠の中央へ、淡い金色の光が宿った。
「ついた!」
「ほら!」
少年が跳ねる。
近くで作業していた下級課程の生徒たちまで集まってきた。
「すげえ!」
「蓮根先輩、こっちも!」
「俺の浮かない!」
「私の回ってる!」
「回ってるって何!?」
見ると。
一つの星灯籠が地面すれすれで猛烈に回転していた。
「なんでそうなった!?」
「分かんない!」
「一回止めろ! それ飛ばしたら絶対誰かに刺さる!」
奎星が杖を振る。
回転していた灯籠が止まった。
今度は別の少女が袖を引っ張る。
「蓮根先輩!」
「今度何!」
「本当に死の呪文、手で止めたの?」
突然だった。
奎星が瞬きをする。
「誰から聞いたんだよ」
「みんな知ってるよ」
「手、痛くなかった?」
「めちゃくちゃ痛かった」
「手なくならなかった?」
「あるだろ!」
奎星が両手を広げて見せると、子どもたちが笑った。
「じゃあ私もできる?」
「絶対やんな」
奎星の声だけが少し真面目になる。
少女がきょとんとする。
「なんで?」
「危ねえから。ああいうのは止めようとすんな。ちゃんと逃げて、先生呼んで、習った防御使え」
「蓮根先輩はやったのに?」
「俺は……」
少し考える。
「その場の勢い」
「駄目じゃん」
「そう。だから真似すんな」
また笑いが起きた。
その輪の少し外から。
常盤澪は、奎星たちを見ていた。
白峰側の学生総代として、先ほどまで後輩たちの配置を確認し、灯籠の数を教師へ報告していたところだった。
「人気者ね」
奎星が振り向く。
「澪」
「さっきから全然自分の仕事してないじゃん」
「してるって!」
「下級課程の子に囲まれてるだけに見えるけど」
「俺が囲んでんじゃねえよ。向こうから来んの!」
「蓮根先輩ー!」
また呼ばれる。
澪が笑う。
「ほら」
「なんで俺なんだよ!」
そう言いながら。
奎星はもう声のした方向へ歩き始めている。
澪は少しだけ目を細めた。
不思議だった。
死の呪文を消した。
黒曜の狩人と戦った。
測定器を壊すほどの魔力を持っている。
外から聞こえてくる蓮根奎星の噂は、どれも十七歳の学生とは思えないものばかりだった。
けれど実際の本人は。
下級課程の子どもに袖を掴まれれば普通に立ち止まり、簡単な点灯魔法に成功しただけで本人以上に喜んでいる。
何より。
年下へ話しかけるときも。
ほとんど口調が変わらない。
偉そうに教えない。
子ども扱いもしない。
一緒になって笑いながら、危ないことだけはきちんと止める。
「……変な人」
澪が小さく呟いた。
昨日までとは。
少し違う意味で。
*
日が完全に沈む少し前。
試験点灯を前に、最後の配置確認が始まった。
校庭から本校舎へ続く道には、一定の間隔で星灯籠が並べられている。まだ火は入っていないものの、数百の星が地上へ降りてきたような光景だった。
「三十七、三十八……」
澪は白峰側の担当表と灯籠の数を照らし合わせていた。
「西側、あと二つ」
「こっち一個余ってる!」
白峰の生徒から声が飛ぶ。
「じゃあ一つ西へ持っていって。もう一つは予備で――」
そのとき。
海側から。
強い風が吹いた。
ばさっ。
まだ固定術式を入れていなかった灯籠が何個か転がる。
「あ!」
一つ。
軽い星灯籠が風へさらわれた。
地面を跳ね。
校庭の端。
さらに。
その先へ。
「飛んだ!」
誰かが叫んだ。
一人の小さな男子生徒が反射的に走り出す。
「待って!」
上級生の声。
けれど。
少年は自分が持っていた別の灯籠を抱えたまま、飛ばされた星を追って木々の向こうへ消えていった。
その場では。
すぐに誰も大事だとは思わなかった。
学校の敷地内。
少し先まで行けば取って戻ってくる。
そう思った。
十分後。
「……戻ってなくね?」
最初に気づいたのは奎星だった。
下級課程の生徒たちが集まっている場所を見回す。
さっきまで何度も自分へ質問してきていた小さな姿がない。
「あいつどこ?」
近くにいた少女が首を傾げた。
「湊?」
「そう。灯籠追ってったやつ」
「まだ帰ってきてない」
奎星の表情が変わる。
「どっち行った?」
少女が指を差した。
校庭の西。
普段使われていない古い庭園へ続く道。
入口には。
縄。
そして。
《整備中・立入禁止》
奎星の眉が寄った。
すぐに。
走り出す。
けれど。
縄の前で止まった。
「先生!」
近くで設置を監督していた教師を呼ぶ。
「下級の子が一人、こっち入ったかもしれないです!」
教師の顔色が変わった。
「誰です?」
「湊って子。灯籠追ってった」
「あの子か……!」
教師は周囲へすぐ指示を出す。
「二人は北側を! 私はこの道から入ります!」
「俺も行きます」
「蓮根君」
「一人で勝手に行かないっす。先生にも言った!」
一応。
成長している。
教師は一瞬考えた。
「では西側の遊歩道だけ確認してください。奥へは行かないこと」
「はい!」
「私も行きます」
澪だった。
教師が見る。
「常盤さん」
「白峰側の配置は副総代に任せました。私も探します」
教師は頷いた。
「無理はしないように」
「はい」
奎星と澪は。
並んで暗くなり始めた道へ入った。
*
旧庭園へ入ると、祭りの準備をしていた校庭の明かりは驚くほど早く遠ざかった。
木々に囲まれた細い道。
夏の名残を残す葉が風に揺れ、その隙間から夕暮れの最後の光が落ちている。
澪は杖先へ明かりを灯した。
「二手に分かれる?」
「いや」
奎星はすぐに首を振る。
「一緒のほうがいい。先生にも奥行くなって言われたし」
澪が少し意外そうに見る。
「ちゃんと先生の言うこと聞くんだ」
「俺だって成長すんだよ!」
「昨日、御影先生にずっと文句言ってたけど」
「文句と言うこと聞くのは別!」
「便利な理屈ね」
二人は歩く。
数十メートル。
人影はない。
「湊ー!」
奎星が声を上げる。
返事なし。
澪も辺りを見回した。
「灯籠を追ったなら、風向き的にはもっと北側じゃない?」
「多分な」
「だったら一度分岐まで戻って――」
「いや」
奎星が止まった。
「こっちじゃね?」
右。
細い脇道。
澪が見る。
「どうして?」
奎星は何も言わず、道の横へしゃがんだ。
折れた小枝。
まだ折れ口が新しい。
「これ」
「枝?」
「さっき折れたっぽい」
さらに。
少し先。
湿った土。
小さな靴跡。
澪も気づいた。
「本当だ」
「あと」
奎星が低い枝を指す。
表面に。
ほんの僅か。
金色の粉がついていた。
星灯籠の縁へ使われている装飾粉だった。
「灯籠擦ったんだと思う」
澪は奎星を見る。
「よく気づくね」
「湊、右手に灯籠持ってただろ?」
「……覚えてるの?」
「うん。こう抱えてた」
奎星が再現する。
右の脇へ。
星灯籠。
「もう暗くなってきてるから、光ってる灯籠持って歩いたら眩しいだろ。多分、顔から遠ざけながら進んだ」
少し先の木。
右側の枝だけに。
同じ金色。
「だからこっち」
澪は数秒。
奎星を見ていた。
昨日。
決闘で。
自分の左足の癖を見つけた。
偶然ではなかったらしい。
「……何?」
奎星が振り返る。
「何でもない」
「行こうぜ」
二人は脇道へ入った。
やがて。
「……っ」
小さな音がした。
すすり泣く声。
奎星の足が速くなる。
「湊!」
木々の向こう。
古びた石垣の下に。
少年が座り込んでいた。
隣には。
風に飛ばされた星灯籠。
木の根へ引っ掛かっている。
そして少年の腕には。
自分が運んでいたもう一つ。
大事そうに。
まだ抱えたまま。
「蓮根先輩……」
奎星はすぐに走り寄った。
「お前! 何やってんだよ!」
声は強かった。
けれど。
怒鳴らなかった。
目の前まで行くと、そのまましゃがむ。
「怪我してない?」
少年は鼻をすすった。
「……してない」
「ほんとに?」
「うん」
「よし」
奎星の肩から。
ほんの少しだけ。
力が抜けた。
澪も追いつく。
そして。
少年の横にある《立入禁止》の小さな立札を見る。
「湊君」
声は静かだった。
少年の肩がびくっと動く。
「ここ、入っちゃ駄目って書いてあったよね?」
「……うん」
「灯籠を取りたかったのは分かる。でも、一人で入ったら駄目。あなたが戻ってこないほうが、灯籠一つなくなるよりずっと困るんだから」
「……ごめんなさい」
少年の目から。
また涙が落ちた。
「先生に……怒られる……」
澪は一度黙った。
間違ったことは言っていない。
勝手に立入禁止区域へ入った。
叱られるのは。
当然だった。
横で奎星が口を開く。
「まあ、怒られるな」
「蓮根君」
澪が見る。
奎星は。
普通に言った。
「だって駄目なことしたし」
湊の顔がさらに下を向く。
そのまま奎星は続けた。
「でもさ」
少年が顔を上げる。
「一人で怒られんの怖いなら、俺も一緒に怒られてやるよ」
「……いいの?」
「おう」
「なんで?」
「俺、怒られんの慣れてるし」
一拍。
湊が。
吹き出した。
「なにそれ……!」
「御影先生とかスズメちゃんとか楓とか、ほぼ毎日誰かに怒られてるぞ」
「楓って先生?」
「違う。同級生」
「同級生にも怒られるの?」
「めっちゃ」
湊は。
泣きながら笑った。
奎星も笑う。
「ほら。泣き止んだ」
澪は何も言わず。
二人を見ていた。
奎星は。
駄目なことを駄目ではないとは言わなかった。
叱られるなとも。
逃げろとも。
言わなかった。
ただ。
一人で怖いなら。
隣にいてやる。
それだけだった。
「灯籠、取りに行ったんだろ?」
「……うん」
「見つかったじゃん」
「でも……怒られる」
「それは別」
「やだなあ」
「じゃ一緒に謝ろうぜ」
「蓮根先輩も?」
「俺もちゃんと見てなかったし」
「先輩悪くないじゃん」
「お前、そういうとこだけ冷静だな」
また。
小さく笑う。
奎星が立ち上がった。
「よし、戻るぞ」
湊も立とうとした。
「……っ」
身体が。
僅かに傾いた。
奎星の目が止まる。
「待って」
「大丈夫」
「お前さ」
少年の足元を見る。
「さっきから左足、全然ついてねえじゃん」
湊の顔が。
固まった。
澪も足を見る。
確かに。
先ほど座っていたときから。
左足だけ。
不自然に浮いている。
「捻った?」
「……ちょっとだけ」
「いつ?」
「ここ降りるとき」
石垣。
低い段差。
「なんで言わなかったんだよ」
「歩けるから」
奎星が眉を上げた。
「大丈夫な奴はそんな歩き方しねえよ」
「でも……」
「ほら」
奎星は。
湊へ背中を向けた。
しゃがむ。
「乗れ」
少年が目を丸くする。
「え」
「背負ってく」
「いいよ! 重いよ!」
「お前が?」
奎星が振り返る。
「岳より軽い」
「岳って誰?」
「すげえ食う奴」
「何キロ?」
「知らん」
澪が笑う。
「比較対象がおかしくない?」
「じゃあ御影先生」
「それは背負ったことないでしょ」
「多分岳より重い」
「怒られるよ」
「聞こえてないって」
そのとき。
遠く。
「聞こえてるぞ」
気がした。
奎星が周囲を見る。
「…………」
澪が笑った。
「気のせい」
「怖えこと言うなよ!」
結局。
湊はおそるおそる奎星の背中へ乗った。
「重くない?」
「全然」
「本当に?」
「朝から御影先生に走らされてる俺なめんな」
「強い?」
「御影先生が?」
「蓮根先輩」
奎星は少し考える。
「まあまあ」
澪が横から言った。
「噂ではとんでもなく強いよ」
「澪!」
「死の呪文を消したって」
「それさっき聞かれた!」
湊の目が少し輝く。
「ほんとに手で消したの?」
「またその話!?」
「怖くなかった?」
その質問に。
奎星は少しだけ黙った。
「……怖かったよ」
湊が意外そうな顔をする。
「怖かったの?」
「そりゃ怖いだろ」
「でも止めたじゃん」
「止めなきゃヤバかったから」
少しだけ間を置いて。
「怖くても、やんなきゃいけないときはあるじゃん」
説教するような言い方ではなかった。
何でもない話の続きをするような声だった。
湊はしばらく黙っていたが。
やがて。
小さく頷いた。
「……そっか」
それから。
また少し歩く。
「蓮根先輩」
「ん?」
「俺、先輩もっと怖い人だと思ってた」
「なんでだよ!」
「みんな言ってたから。魔力がすごくて、敵をボーンってして、死の呪文をバーンってして」
「説明雑すぎるだろ!」
「でも全然怖くない」
「だろ?」
「うるさい」
「お前な!」
湊が背中で笑う。
その笑い声を聞きながら。
澪は。
二人の横を歩いていた。
右手には。
湊が守った星灯籠。
左手には。
飛んでいった灯籠。
奎星が横を見る。
「あ、澪」
「何?」
「それ両方持ってやって」
澪が足を止める。
「私?」
「俺、両手塞がってるし」
「白峰の学生総代を荷物持ちにする?」
奎星が笑う。
「一個上だろ?」
澪の眉が上がった。
「昨日まで『常盤先輩』って慌ててたのに」
「タメ口でいいって言ったのお前じゃん!」
「そうだけど!」
「じゃ頼んだ!」
「扱い変わるの早すぎ!」
背中から湊が笑う。
「仲いいね」
二人が同時に答えた。
「普通!」
「普通!」
一瞬。
顔を見合わせる。
そして。
どちらからともなく笑った。
*
旧庭園を出ると。
待っていた教師がすぐに駆け寄ってきた。
「湊君!」
少年の身体が奎星の背中で少し固くなる。
奎星はそれに気づいた。
「先生」
「怪我は?」
「左足、多分捻ってます。先に見てもらっていいですか?」
教師もすぐに気づき、しゃがみ込む。
「痛む?」
「……ちょっと」
「医務室へ行きましょう」
それから。
教師の表情が少し厳しくなる。
「それと、どうして立入禁止区域へ――」
湊の指が。
奎星の肩を僅かに掴んだ。
奎星は振り返らない。
ただ。
「先生」
教師が見る。
「怒るの、俺も一緒に聞くんで」
「蓮根君?」
「ちゃんと反省してます。だから先に足だけお願いします」
湊が。
奎星の背中から顔を上げた。
教師は二人を見たあと、小さく息を吐いた。
「……分かりました。ですが、叱らないとは言っていませんよ」
「はい」
「蓮根君もです」
「俺も!?」
「下級課程の生徒を煽って灯籠を回転させていたでしょう」
「見てたの!?」
澪が吹き出した。
「一緒に怒られることになったじゃん」
奎星は数秒黙った。
それから。
背中の湊を見る。
「ほらな?」
「ほんとに慣れてる!」
「笑うな!」
医務室へ向かう途中。
他の下級課程の子どもたちが奎星たちに気づいた。
「湊!」
「いた!」
「蓮根先輩が連れてきた!」
一斉に集まりかける。
教師が止める。
「皆さん、今は道を空けてください」
「大丈夫?」
「足痛い?」
湊が少し恥ずかしそうに答える。
「大丈夫!」
奎星がすぐに口を挟んだ。
「大丈夫じゃないから背負われてんだろ!」
「言わなくていいじゃん!」
「あとお前ら!」
奎星が下級生たちを見る。
何人かがびくっとする。
奎星は人差し指を立てた。
「次、灯籠飛んでも絶対追うなよ」
「はーい」
「先生か上級生呼べ。俺とか」
「蓮根先輩でもいいの?」
「いいよ」
「忙しくても?」
「まあ……」
考える。
「一応呼べ」
「なんで一応なの?」
「俺もなんかやってるかもしれないから!」
「使えない!」
「お前ら!」
子どもたちが笑う。
一人の少女が手を振った。
「奎星先輩、また明日ね!」
奎星が振り返る。
「急に名前呼びになってんぞ!」
「駄目?」
「別にいいけど!」
「じゃあ奎星先輩!」
「俺も!」
「俺も!」
「好きにしろ!」
わあ、と子どもたちが笑った。
澪は。
その光景を少し後ろから見ていた。
上級課程へ編入して。
たった四か月。
なのに。
いつの間にか。
下級課程の子どもたちが。
あんなふうに。
自然に名前を呼んでいる。
「…………」
少し。
分かった気がした。
この人は。
人との間にある距離を。
驚くほど簡単に飛び越える。
*
湊を医務室へ送り届けると。
奎星と澪は二人で校庭へ戻ることになった。
すっかり夜になっていた。
校舎の窓には暖色の明かりが灯り、海の向こうには細い月が浮かんでいる。試験点灯の準備はほとんど終わったらしく、道沿いに並ぶ星灯籠の前では生徒たちが最後の確認をしていた。
澪は隣を歩く奎星を見る。
「下級課程の子たち、すごく懐いてるね」
「そう?」
「名前で呼ばれてたじゃん」
「あいつら馴れ馴れしいんだよ」
「蓮根君が言う?」
「俺そんな馴れ馴れしい?」
「会った初日に悪ガキって言われたけど」
「まだ言う!?」
澪が笑う。
奎星は少し考えながら歩いた。
「まあでも、下級生って言ってもさ」
「うん」
「魔法歴だけなら、俺あいつらより下なんだよな」
澪が見る。
奎星は前を見たまま続ける。
「俺、まだ四か月だし。下級課程の一年でも、俺より魔法長く使ってる奴いるだろ?」
「……確かに」
「だからあんま年下って感じしない」
「でも十七歳でしょ」
「歳はな」
「完全にお兄ちゃんだったよ」
その言葉に。
奎星の歩みが止まった。
「俺が?」
「うん」
「兄ちゃんっぽかった?」
少し嬉しそう。
澪が笑う。
「何その顔」
「俺、一人っ子だから」
「そうなんだ」
「なんかいいな。兄ちゃん」
「調子乗ると嫌われるよ」
「明日から全員に『兄ちゃんって呼べ』って言おうかな」
「絶対やめたほうがいい」
即答された。
奎星が笑った。
少し歩いて。
澪が口を開く。
「でも」
「ん?」
「蓮根君って、思ってたよりずっと人のこと見てるよね」
「そう?」
「昨日も」
「昨日?」
「決闘。私の足」
「ああ」
「今日もそう。枝も足跡も、湊君の足も」
奎星は一瞬考えた。
「まあ……御影先生に死ぬほど言われてるからな」
「何を?」
「相手を見ろって。杖ばっか見んな、撃たれた魔法ばっか追うな、肩見ろ、足見ろ、目見ろって」
「全部御影先生のおかげにするんだ」
「だって俺が自分で考えてるみたいに言ったら、頭いい奴みたいじゃん」
澪が吹き出した。
「頭悪いの?」
「魔法法規六十一点」
「自分から言うんだ」
「最近これ言うと大体ウケる」
「持ちネタにしないでよ」
二人は笑いながら歩く。
それから。
奎星が何気なく横を見た。
「でも澪も今日ずっと働いてんな」
「学生総代だからね」
「昼飯ちゃんと食った?」
澪の動きが僅かに止まった。
「食べたよ」
「嘘じゃん」
「なんで?」
「昼、白峰の一年に弁当渡して、自分のやつ机に置いたままだったろ」
澪が奎星を見る。
「……見てたの?」
「たまたま」
「それだけで食べてないって決めつける?」
ぐう。
小さな音。
二人の間に。
はっきり響いた。
「…………」
「…………」
澪の顔が。
少しずつ赤くなった。
奎星が笑う。
「ほら!」
「今のは違う!」
「何が!?」
「お腹じゃない!」
「じゃ何の音だよ!」
「……知らない!」
「絶対腹じゃん!」
「聞いてたの!?」
「真横にいるんだから聞こえるだろ!」
「最悪……!」
澪が顔を覆う。
奎星はまだ笑っている。
けれど。
少しすると鞄の中へ手を入れた。
「ほら」
「何?」
小さな包み。
黒糖の焼き菓子。
「食えよ」
澪が見る。
「いいよ」
「腹減ってんだろ」
「蓮根君が食べれば?」
「俺もう一個ある」
鞄から。
本当にもう一つ出てくる。
澪が呆れる。
「なんで二個も持ってるの?」
「岳から守った」
「意味分かんない」
「二年二組の試食用で余ったやつ。岳に見つかったら消えるから確保した」
「それ、本当に余ったやつ?」
「多分」
「不安になる言い方しないで」
奎星は包みを澪へ押しつけた。
「食えって。倒れられたら面倒だし」
澪は受け取る。
「……優しくするなら、最後まで優しくできないの?」
「腹減ってる奴に飯やってるだけだろ」
「そこだよ」
「何が?」
「何でもない」
澪は包みを開いた。
一口。
「……おいしい」
「だろ?」
奎星も自分の分へ齧りつく。
「岳には内緒な」
「見つかったら?」
「半分要求される」
「そこは全部じゃないんだ」
「岳にも良心はある」
「基準が低いね」
また。
笑う。
澪は焼き菓子を食べながら。
隣の少年を見た。
女だから。
優しくされた。
そんな感じは。
まったくしなかった。
湊にも。
鳴海にも。
自分にも。
奎星は多分。
同じようにする。
困っていれば手を出す。
腹が減っていれば食べ物を渡す。
怪我をしていれば。
気づく。
それを。
特別なことだとも思っていない。
だから。
余計に。
ずるいと思った。
「澪」
「……何?」
「何ぼーっとしてんの」
「してない」
「今日みんなぼーっとするな」
「みんなって誰?」
「スズメちゃんも前――」
「烏丸先生?」
澪が少しだけ反応した。
「うん。補習中に」
「……補習、二人でやってるんだ」
「そうだよ」
「毎日?」
「だいたい」
「ふーん」
「何?」
「別に」
奎星は首を傾げた。
そのとき。
校庭の中央から教師の声が響いた。
「試験点灯を始めます! 全員、灯籠から離れてください!」
二人が同時に顔を上げた。
道の両側。
校庭。
回廊。
階段。
いたるところに並べられた星灯籠。
一つ目へ。
光が入る。
ぽっ。
次。
ぽっ。
ぽっ。
光が。
連なっていく。
金。
青。
白。
淡い桃。
数十。
百。
二百。
そして。
浮遊術式が起動した。
ふわり。
地面に置かれていた星々が。
ゆっくり。
空へ上がっていく。
「うお……」
奎星が。
完全に足を止めた。
数百の星灯籠が。
校庭の上へ浮かんでいる。
夜のマホウトコロ。
白く輝く羊脂玉の校舎。
銀の鈴。
遠くに聞こえる海。
その間を。
無数の星が漂っていた。
「すげえ……!」
奎星の顔が。
子どもみたいに輝く。
「澪、見ろよ!」
「見てるよ」
「これ当日もっと増えんの!?」
「多分ね」
「やば!」
奎星は。
空ばかり見ていた。
澪は。
違った。
最初は。
星灯籠を見ていた。
綺麗だった。
白峰にも。
こんな景色はない。
けれど。
いつの間にか。
視線が。
横へ動いていた。
星の光に照らされた。
奎星の横顔。
噂で聞いたときは。
怖い人だと思った。
初めて話したときは。
変な人だと思った。
学校を案内された日は。
間抜けで。
面白い奴だと思った。
昨日。
決闘を見ている姿は。
少しだけ。
格好いいと思った。
負けた鳴海を。
誰より先に褒めた。
自分の癖を。
ほんの数分で見抜いた。
今日。
下級課程の子どもたちへ囲まれて。
一緒になって笑っていた。
泣いている子には。
同じ高さまでしゃがんだ。
駄目なことは。
駄目だと言った。
一人で怒られるのが怖いと言えば。
隣に立つと言った。
痛いと言わない足にも。
気づいた。
そして。
今。
何百もの星が浮かぶ空の下で。
本人だけは。
何も知らない顔をしている。
「うお、あれ動いた!」
奎星が指を差す。
「あっち青い!」
十七歳。
一つ下。
魔法を始めて。
まだ四か月。
噂とは。
全然違う。
思っていた人とも。
全然違う。
なのに。
澪は。
気づけば。
ずっと見ていた。
奎星が振り返る。
「澪?」
目が合った。
「…………」
「どうした?」
「……別に」
澪は慌てて空へ視線を戻した。
胸の奥が。
少しだけ。
うるさい。
昨日は。
面白いと思った。
今日の決闘では。
少し格好いいと思った。
そして。
今は。
もう少し。
この人と話していたい。
星迎祭が終わって。
白峰へ帰る前に。
もう少しだけ。
二人で。
何かを話したい。
「…………」
その気持ちが。
何なのか。
常盤澪は。
多分。
もう。
気づき始めていた。
空には。
数えきれない星灯籠が浮かんでいる。
その下で。
奎星だけが。
何も知らず。
「これ一個、寮に持って帰れねえかな」
などと言っていた。
澪は。
思わず笑った。
「盗んだら学生総代として通報するよ」
「一個くらいいいだろ!」
「駄目」
「じゃ澪も共犯」
「なんで!?」
「荷物持って」
「絶対嫌!」
二人の声が。
星灯籠の明かりの下へ。
溶けていった。
星迎祭まで。
あと五日。