マホウトコロ   作:西野圭吾

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第5話 舞踏会の相手

 

翌朝。

 

大食堂は、いつもと変わらない騒がしさに包まれていた。

 

長い卓を埋める生徒たちの話し声に、椀や皿の触れ合う音が重なり、頭上では朝の連絡を運ぶ式紙が忙しなく飛び交っている。その隙間を縫うように、小さな作務衣姿の小妖たちが朝食を載せた盆を両手で抱え、器用に行き来していた。

 

二学期から寮生活を始めた奎星にとって、この光景もすっかり日常になっている。

 

「レンコン」

 

聞き慣れた声がした。

 

「だから蓮根な」

 

振り返ると、味噌汁を運んできた天ぷらが立っていた。

 

いつもの作務衣。

 

いつもの大きな黒い目。

 

ただ。

 

一つだけ。

 

昨日までと違う。

 

胸元に、小さな木の板がぶら下がっていた。

 

《テンプラ》

 

「……何それ」

 

奎星が指差す。

 

天ぷらは誇らしげに胸を張った。

 

「ナフダ」

 

「名札?」

 

「テンプラ」

 

「いや、それは知ってる」

 

天ぷらは満足そうに頷き、味噌汁を置いて去っていった。

 

奎星が首を傾げていると、今度は別の小妖が焼き魚の皿を持ってやって来る。

 

見覚えはある。

 

大食堂で何度か見かけた小妖だった。

 

その小妖も。

 

名札をつけている。

 

《モンジャ》

 

「…………」

 

奎星はじっと見る。

 

小妖もじっと見る。

 

そして。

 

「ワタシナマエ、モンジャ」

 

「もんじゃ?」

 

「モンジャ」

 

「なんで?」

 

小妖は胸を張った。

 

「ミナトガクレタ」

 

「湊?」

 

その名前に。

 

奎星は昨夜を思い出した。

 

立入禁止区域へ星灯籠を追って入ってしまった、下級課程の少年。

 

足を捻り。

 

最後は奎星の背中で笑っていた。

 

「……あいつ何してんだよ」

 

横で伊織が眼鏡を上げた。

 

「どうやら昨日から、下級課程で小妖に名前をつけるのが流行ってるらしいよ」

 

「なんで!?」

 

「君と天ぷらの話を湊君がしたんじゃない?」

 

そこへ。

 

別の小妖がやってきた。

 

「ワタシ、オカカ」

 

《オカカ》。

 

続けてもう一匹。

 

「ワタシ、チクワ」

 

《チクワ》。

 

さらに向こうでは。

 

《キナコ》。

 

《オデン》。

 

《ツクネ》。

 

気づけば、大食堂を歩く小妖の胸元には、妙な食べ物の名前が次々と増えていた。

 

奎星は立ち上がった。

 

「待て待て待て! なんで全部食い物なんだよ!」

 

天ぷらが遠くから答える。

 

「テンプラガ、サイショ」

 

「俺のせい!?」

 

日向が腹を抱えて笑った。

 

「お前が元凶じゃねえか!」

 

「天ぷらはちゃんと理由あったんだよ! 俺が蓮根だから!」

 

伊織が静かに言う。

 

「それを理由と呼べるかは議論の余地があるけどね」

 

岳は《ツクネ》という名札をつけた小妖から焼き鳥を受け取っていた。

 

「ツクネ」

 

「ツクネ」

 

「いい名前だ」

 

「お前だけ馴染むの早すぎるだろ!」

 

その騒ぎを聞きつけたのか、少し離れた教師席から土御門芽衣子がやってきた。

 

「朝から楽しそうですねえ」

 

「先生、これいいんすか?」

 

奎星が大食堂を指す。

 

名札をつけた小妖たちは、むしろ見せびらかすように生徒の間を歩いていた。中には自分から胸元を指し、「ナマエ、ヨンデ」と催促している者までいる。

 

土御門も少し困ったように笑った。

 

「私もこんな光景は初めて見ました」

 

「やっぱ普通じゃないんだ」

 

「小妖は昔からマホウトコロで働いていますけど、生徒が一匹ずつ名前をつけ始めたのは……少なくとも私は聞いたことがありませんね」

 

「止めないんすか?」

 

奎星が訊くと、土御門は大食堂を見渡した。

 

《モンジャ》と呼ばれた小妖が嬉しそうに振り返る。

 

《キナコ》は、名前を呼んだ一年生へ何度も頭を下げている。

 

土御門は少しだけ目を細めた。

 

「本人たちが嫌がっていたら別ですが、どうやら随分気に入っているみたいですし。仕事の邪魔にならない限りは、いいのではないでしょうか」

 

「じゃあ続くんだ、この文化」

 

「そのようですね」

 

奎星は腕を組んだ。

 

「……俺が始めたみたいなもんじゃん」

 

「威張ること?」

 

伊織が訊く。

 

「歴史作ったな、俺」

 

「天ぷらから始まる歴史なんだね」

 

「いいだろ別に!」

 

そんな話をしながら席へ戻り。

 

奎星はようやく朝食へ手をつけた。

 

今日一緒にいるのは、日向、岳、伊織の三人。

 

いつもなら当然のようにいる楓の姿がない。

 

「楓は?」

 

奎星が焼き魚をほぐしながら訊く。

 

伊織が答えた。

 

「星迎祭の準備。朝から先生に呼ばれてるって」

 

「朝飯も食わずに?大変だな」

 

奎星はそれだけ言うと、特に気にすることもなく白米を頬張った。

 

岳もいつも通りだった。

 

目の前の朝食に集中している。

 

伊織も静かに茶を飲んでいる。

 

ただ一人。

 

日向だけが。

 

妙に静かだった。

 

「…………」

 

箸を持ったまま。

 

ぼんやり味噌汁を見ている。

 

奎星が気づく。

 

「どうした?」

 

「……なあ」

 

「何?」

 

日向は少し周囲を確認した。

 

なぜか声を潜める。

 

「お前らさ」

 

「うん」

 

「舞踏会の相手、決まったか?」

 

奎星の箸が止まった。

 

伊織も日向を見る。

 

岳だけは出汁巻き卵を食べている。

 

「……え?」

 

「舞踏会だよ! 星迎祭の!」

 

日向が少し声を大きくする。

 

奎星は数秒考えた。

 

「ああ。あれ」

 

一週間ほど前。

 

水月庵でスズメから聞いた話を思い出す。

 

星迎祭の夜に開かれる舞踏会。

 

男女二人で踊り。

 

その夜、一緒に踊った男女はいずれ結ばれる――などという、学生たちの間で昔から続いている噂。

 

奎星にとっては。

 

それより。

 

観測塔からスズメと花火を見る約束のほうがずっと重要だった。

 

だから舞踏会自体には、ほとんど興味がない。

 

とはいえ。

 

そのことを今ここで言えば。

 

確実に面倒なことになる。

 

――スズメちゃんと二人で花火?

 

――なんで?

 

――どこで?

 

――お前それデートじゃね?

 

そんな未来が簡単に想像できた。

 

奎星は黙って味噌汁を飲んだ。

 

伊織が答える。

 

「僕はいないよ」

 

岳も言った。

 

「いない」

 

日向が奎星を見る。

 

「お前は?」

 

「いない」

 

「マジで?」

 

「なんで驚くんだよ」

 

岳が顔を上げた。

 

「じゃあ日向と踊る」

 

「なんで俺がお前と踊んなきゃいけねえんだよ!」

 

「相手いないんだろ」

 

「だからって男同士で踊る必要ねえだろ!」

 

「駄目なのか?」

 

「知らねえけど! 俺が嫌だ!」

 

岳は少し考え。

 

また味噌汁へ戻った。

 

「じゃあいい」

 

「軽いな!」

 

日向は両手を卓へついた。

 

「お前ら分かってねえな!」

 

「何を?」

 

「舞踏会で一緒に踊った男女は、いずれ結ばれるって言われてんだぞ!」

 

伊織が平然と答えた。

 

「噂でしょ」

 

「でも実際、結婚した奴らいるらしいじゃん!」

 

「踊った全員が結婚してるわけじゃないよ」

 

「夢がねえな、お前!」

 

「統計の話をしただけだけど」

 

奎星は焼き魚を口へ運びながら、スズメの言葉を思い返していた。

 

確かに。

 

同じことを言っていた。

 

舞踏会で踊った男女は結ばれる。

 

実際、その後結婚した組もいる。

 

もっとも。

 

スズメ自身は学生時代、一度も舞踏会へ出なかったらしいが。

 

日向は頭を抱えた。

 

「どうすっかなあ……」

 

奎星が箸を止めた。

 

「楓誘えばいいじゃん」

 

「…………え?」

 

日向が顔を上げた。

 

「な、なんで楓なんだよ」

 

「仲いいし」

 

「それだけで!?」

 

「お前、楓のこと好きじゃん」

 

日向の動きが完全に止まった。

 

「…………」

 

次の瞬間。

 

「は、はあ!?」

 

大食堂中に響くほどの声が出た。

 

何人かが振り返る。

 

「なんだよそれ!」

 

「え?」

 

「なんで俺が楓を好きって話になるんだよ!」

 

奎星のほうが不思議そうだった。

 

「違うの?」

 

「違っ……いや、そうじゃなくて!」

 

「どっちだよ」

 

「仲はいいけど! 昔から一緒にいるからで!」

 

「ほら仲いいじゃん」

 

「だからそれと好きは違うだろ!」

 

横から。

 

伊織が静かに茶碗を置いた。

 

「みんな気づいてるよ」

 

日向が固まる。

 

「…………みんな?」

 

「うん」

 

岳が顔を上げた。

 

「そうなの?」

 

伊織が一度岳を見る。

 

「岳以外は」

 

「俺は知らなかった」

 

「だから今言ったんだよ」

 

日向は耳まで赤くなっていた。

 

「いや、待てって! お前ら勝手に――」

 

奎星が首を傾げる。

 

「でも誘えばいいじゃん」

 

「簡単に言うな!」

 

「なんで?」

 

「断られたらどうすんだよ!」

 

あまりにも必死だった。

 

三人が。

 

黙る。

 

日向は気づかない。

 

「昔から一緒にいるんだぞ!? 誘って『嫌』とか言われたら、そのあとどうすんだよ! 毎日顔合わせるんだぞ!?」

 

奎星の口が半開きになる。

 

「……情けな」

 

「うるせえ!」

 

「クィディッチの試合より怖がってんじゃん」

 

「試合は相手が殴ってこねえだろ!」

 

「楓も殴ってこないだろ」

 

伊織が言う。

 

奎星が見る。

 

「殴るだろ」

 

「殴るね」

 

「殴るな」

 

岳も頷いた。

 

「殴る」

 

「お前らどっちの味方だよ!」

 

そのときだった。

 

「朝から面白そうな話してるね」

 

明るい声。

 

四人が振り向く。

 

朝食を載せた盆を手にした三枝冬真が立っていた。

 

「冬真先輩!」

 

日向が声を上げる。

 

冬真は空いていた日向の隣へ、特に遠慮する様子もなく腰を下ろした。

 

「ここいい?」

 

「もちろん」

 

「ありがと」

 

ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き。

 

意外と普通の朝食だった。

 

岳だけが盆の量を見る。

 

「少ない」

 

「朝から君基準は無理だよ」

 

冬真は笑い、箸を取った。

 

奎星がすぐに身を乗り出す。

 

「冬真先輩は舞踏会の相手いるの?」

 

「ああ」

 

あまりにもあっさり。

 

「俺は彼女と踊るよ」

 

「…………」

 

奎星。

 

止まる。

 

日向も。

 

止まる。

 

二人は。

 

顔を見合わせた。

 

「彼女?」

 

「うん」

 

「いるの!?」

 

「いるよ」

 

奎星は思わず冬真を上から下まで見る。

 

去年の校内決闘大会優勝。

 

決闘部主将。

 

強い。

 

爽やか。

 

後輩に優しい。

 

先生にも気に入られている。

 

そして。

 

彼女までいる。

 

奎星が真顔で言った。

 

「冬真先輩、本当に人間?」

 

「何の確認?」

 

日向も同じ顔をしている。

 

「強くて、性格よくて、彼女までいるって反則じゃないすか?」

 

「俺どういう生き物だと思われてたの?」

 

冬真は笑いながら焼き魚をほぐす。

 

それから。

 

隣で絶望的な顔をしている日向へ少しだけ身を寄せた。

 

「朝比奈」

 

「はい?」

 

「ちなみにさ」

 

声を落とす。

 

「その彼女と付き合えたの、去年俺が舞踏会に誘ったのがきっかけなんだよね」

 

日向の目が大きくなった。

 

「…………マジすか?」

 

「マジ」

 

冬真はさらに小声になる。

 

「俺調べだけど、はっきり言って舞踏会を一緒に踊るところまで行けたら、告白の成功率は上がるよ」

 

「…………」

 

日向の口が。

 

ぽかん。

 

と開いた。

 

奎星が横から覗き込む。

 

「死んだ?」

 

「生きてる」

 

「目動いてねえぞ」

 

冬真は笑っている。

 

そのとき。

 

「おはよう」

 

楓が遅れて大食堂へやってきた。

 

腕には書類の束。

 

どうやら朝から本当に星迎祭の仕事をしていたらしく、いつもより少しだけ疲れた顔をしている。

 

「遅くなった。席空いてる?」

 

「空いてるよ」

 

伊織が隣の椅子を引く。

 

楓は腰を下ろしてから。

 

冬真がいることに気づいた。

 

「あ、三枝先輩。おはようございます」

 

「おはよう。朝から大変そうだね」

 

「先生に捕まって、飾りの配置確認やってました」

 

「お疲れ」

 

岳が言った。

 

「冬真先輩、去年の舞踏会で彼女作ったらしい」

 

「お前!」

 

日向が叫んだ。

 

冬真は笑う。

 

「まあ、間違ってはないけど」

 

楓の表情が。

 

少しだけ明るくなる。

 

「えっ、そうなんですか?」

 

奎星が気づいた。

 

「あ、楓こういう話好きなんだ」

 

「何よ」

 

「いや、いつもより食いついた」

 

「別に普通でしょ」

 

そう言いつつ。

 

ちゃんと冬真のほうを見ている。

 

やはり。

 

女の子ではあるらしい。

 

冬真が何気なく尋ねた。

 

「水無瀬は? 舞踏会の相手、もう決まってる?」

 

楓の手が少し止まった。

 

「私ですか?」

 

「うん」

 

「まだです」

 

その答えに。

 

日向の肩が。

 

僅かに上がった。

 

けれど。

 

楓は続けた。

 

「何人かには誘われてるんですけど、まだ返事してなくて。ちょっと迷ってます」

 

「…………」

 

日向の顔から。

 

血の気が引いた。

 

「さ……」

 

声が震える。

 

「誘われてる……?」

 

楓が日向を見る。

 

「何?」

 

「いや!」

 

一瞬。

 

楓の視線が。

 

日向の顔に留まった。

 

ほんの僅か。

 

何かを待つような。

 

不満そうな。

 

けれど本人には絶対悟られたくないような顔。

 

奎星は。

 

気づいた。

 

伊織も。

 

当然気づいている。

 

冬真も一度だけ楓を見て。

 

次に日向を見た。

 

そして。

 

何となく事情を察したらしい。

 

口元だけで小さく笑った。

 

岳だけは。

 

二杯目の味噌汁を飲んでいる。

 

「日向?」

 

楓がもう一度呼ぶ。

 

「なんでもない!」

 

「変なの」

 

楓は朝食へ手を伸ばした。

 

日向は。

 

動かない。

 

視線は宙。

 

頭の中ではきっと。

 

《何人か》。

 

その三文字だけが。

 

延々と響いている。

 

奎星が手を顔の前で振る。

 

反応なし。

 

「駄目だこりゃ」

 

伊織も日向を見る。

 

「しばらく動かないね」

 

冬真が茶を飲みながら。

 

ぼそっと言った。

 

「早くしないと、本当に誰かに取られそうだけど」

 

日向の指が。

 

ぴくっ。

 

と動いた。

 

「聞こえてるじゃん」

 

奎星が笑った。

 

 

少し離れた場所。

 

白峰魔法学校の生徒たちが使っている卓では。

 

常盤澪が朝食を取っていた。

 

昨夜の星灯籠設置で遅くなったぶん、白峰側の生徒たちも今日はどこか眠そうだった。

 

澪は湯飲みを口元へ運びながら。

 

少しだけ。

 

マホウトコロの席を見る。

 

騒がしい。

 

特に。

 

蓮根奎星の周りは。

 

朝からずっと騒がしい。

 

途中までは。

 

何を話しているのか聞こえなかった。

 

ただ。

 

「舞踏会」

 

その言葉だけは。

 

何度か耳へ届いた。

 

澪の手が。

 

僅かに止まった。

 

視線の先では。

 

奎星が。

 

完全に固まった日向の頬を箸の持ち手でつついている。

 

「…………舞踏会」

 

小さく。

 

口に出す。

 

星迎祭の夜。

 

学生たちが。

 

男女で踊る。

 

白峰にも似たような行事はある。

 

けれど。

 

マホウトコロの舞踏会には。

 

例の噂がある。

 

一緒に踊った男女は。

 

いずれ結ばれる。

 

くだらない噂。

 

そう思う。

 

普段の澪なら。

 

多分。

 

笑って終わる。

 

けれど。

 

昨夜。

 

何百もの星灯籠の下で。

 

空を見上げていた少年の横顔を。

 

ふと思い出した。

 

「…………」

 

澪は。

 

もう一度だけ。

 

奎星のほうを見た。

 

 

その日の夕方。

 

魔法史研究室。

 

奎星は今日も。

 

補習そっちのけで。

 

朝の出来事を喋っていた。

 

「でさ! 日向がもうめちゃくちゃ情けねえの!」

 

「蓮根君」

 

スズメは赤い筆を動かしたまま言う。

 

「朝比奈君のいないところで、あまり言いふらさないほうがいいですよ」

 

「スズメちゃんしかいないからいいじゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「でも絶対好きなんだって。俺が『楓誘えば?』って言ったら顔真っ赤になってさ」

 

「…………」

 

スズメは少しだけ考え。

 

小さく笑った。

 

「まあ」

 

「ん?」

 

「お二人の距離感を見ていれば、何となくは」

 

奎星の目が輝く。

 

「やっぱスズメちゃんも気づいてた!?」

 

「朝比奈君と水無瀬さんは、ずっと以前から親しいですからね」

 

一学期。

 

楓が吹き飛ばされたとき。

 

日向は。

 

考えるより先に飛び出した。

 

彼女を庇い。

 

自分の身体を壁との間へ入れた。

 

スズメも。

 

あの場にいた。

 

それ以前から二人の付き合いが長いことも知っている。

 

「朝比奈君も、ちゃんと誘えるといいですね」

 

「本人たちはまだ認めてねえけどなあ」

 

奎星は椅子の背にもたれた。

 

「もうお似合いなのに」

 

「それを本人へ言えば、また揉めるでしょうね」

 

「絶対揉める」

 

「でしたら黙っていてください」

 

「でも面白いじゃん」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

スズメの赤い筆が。

 

答案の一か所へ向く。

 

「ここも違います」

 

「恋バナ中に現実戻すなよ!」

 

「補習中です」

 

奎星は渋々答案へ目を落とした。

 

しかし。

 

三秒後。

 

また顔を上げる。

 

「あ、そうだ。冬真先輩、彼女いるんだって」

 

「三枝君ですか?」

 

「知ってんの?」

 

「もちろんです」

 

スズメは当然という顔だった。

 

「三枝君たちは有名なカップルですよ。どちらも優秀な生徒ですから」

 

「へえー!」

 

奎星は妙に感心する。

 

「彼女さん美人?」

 

スズメは少し考える必要すらなかった。

 

「それはもう」

 

「すげえや!」

 

妙に素直な反応だった。

 

スズメが奎星を見る。

 

「何がすごいのですか」

 

「冬真先輩、強いし優しいし先生にも好かれてるし、彼女まで美人なんだぞ? 完成してんじゃん」

 

「彼を何だと思っているのです?」

 

「完成された人間」

 

「大袈裟です」

 

奎星は頬杖をつく。

 

「友人の水無瀬さんもお綺麗だと思いますよ」

 

「あー、確かに」

 

「随分軽いですね」

 

「いや、あいつ昔から友達みたいな感じだから。あんま意識したことねえんだよな」

 

奎星は本当に。

 

今気づいたような顔をしていた。

 

スズメの赤い筆が。

 

一瞬止まる。

 

「……最近仲のよろしい常盤さんも、かなりお綺麗な方ではありませんか?」

 

声は。

 

普段とほとんど変わらない。

 

ただ。

 

ほんの少しだけ。

 

言葉の端が硬かった。

 

奎星は気づかない。

 

「あー……」

 

昨日の大食堂。

 

窓へ群がった男ども。

 

《可愛い》。

 

《写真より可愛い》。

 

《激マブ》。

 

思い出す。

 

「そういや、食堂のバカどももそんなこと言ってたな」

 

「…………」

 

「俺は別に気にしてなかったけど」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

奎星は答え。

 

少し考えた。

 

そして。

 

何の前触れもなく。

 

「でもスズメちゃんも、すげえ美人だよね」

 

「…………」

 

赤い筆が。

 

止まった。

 

スズメが顔を上げる。

 

「……何ですか、急に」

 

「いや?」

 

奎星は不思議そうにする。

 

「美人の話してたから」

 

「私の話はしていません」

 

「今したじゃん」

 

「あなたが勝手に入れたのでしょう」

 

「でも普通に美人だろ」

 

あまりにも。

 

あっさり。

 

当然のことのように言う。

 

スズメが一瞬、言葉を失った。

 

「そんなことありません」

 

「んなことあるだろ!」

 

今度は奎星のほうが納得していない。

 

「肌めっちゃ綺麗だし」

 

「…………」

 

「まつ毛長いし」

 

「…………」

 

「目だってくりくりしてるし」

 

「…………蓮根君」

 

「何?」

 

「課題をしてください!」

 

突然。

 

少し大きな声。

 

奎星が目を丸くする。

 

「なんで怒んの!?」

 

「怒っていません!」

 

「怒ってるじゃん!」

 

「十七頁!」

 

「はいはい」

 

「返事は一回です!」

 

「はーい」

 

奎星はようやく教科書へ戻った。

 

鉛筆を持ち。

 

本当に何事もなかったように課題の続きを始める。

 

その向かいで。

 

スズメは。

 

動かなかった。

 

赤い筆を持ったまま。

 

答案の同じ場所を見ている。

 

水無瀬楓については。

 

美人だと言われて。

 

初めて。

 

そうかもしれないと考えた。

 

常盤澪についても。

 

周囲の男子が騒いでいたことを。

 

思い出しただけ。

 

なのに。

 

なぜ。

 

自分のことだけ。

 

あんなに具体的に。

 

肌。

 

睫毛。

 

目。

 

「…………」

 

そこまで。

 

見ていたということなのか。

 

スズメは。

 

僅かに頬が熱くなるのを感じた。

 

――違う。

 

どうせ。

 

何も考えていない。

 

茶化しているだけ。

 

それに。

 

そもそも。

 

教師が生徒の言葉を気にすること自体がおかしい。

 

「スズメちゃん」

 

「っ」

 

顔を上げる。

 

奎星が教科書を指差していた。

 

「ここ、十九世紀?」

 

「……十八世紀です」

 

「また!?」

 

「昨日も同じ間違いをしましたよ」

 

声は。

 

ちゃんと。

 

いつもの調子に戻っていた。

 

ただ。

 

赤い筆は。

 

しばらく。

 

一度も動かなかった。

 

 

その日の夜。

 

男子寮。

 

消灯時間を過ぎても。

 

日向は眠らなかった。

 

同じ部屋の四人。

 

岳は既に布団へ入っている。

 

伊織は寝台の上で本を読んでいた。

 

奎星は枕へ寝転がり。

 

日向だけが。

 

窓際の椅子に座り。

 

もう何十分も頭を抱えている。

 

「どうしよう……」

 

奎星が寝返りを打つ。

 

「まだ言ってんの?」

 

「だって何人かに誘われてんだぞ!」

 

「朝からずっとそれじゃん」

 

「お前には分かんねえよ!」

 

「何が」

 

「断られたら終わりだろ!」

 

伊織が本から目を上げる。

 

「誘わないまま他の人に決まっても終わりだね」

 

日向が。

 

さらに頭を抱えた。

 

「やめろぉぉ……!」

 

「現実を言っただけだよ」

 

岳が布団の中から言う。

 

「明日誘えばいい」

 

「だから簡単に言うなって!」

 

「じゃあ誘わなきゃいい」

 

「それも嫌なんだよ!」

 

岳が。

 

布団から顔だけ出す。

 

「面倒だな」

 

「恋愛ってそういうもんなんだよ!」

 

「知らん」

 

岳は再び潜った。

 

数秒後。

 

「おやすみ」

 

「諦めんなよ!」

 

「眠い」

 

伊織も本を閉じた。

 

「僕も寝るよ」

 

「伊織!俺の人生かかってんだぞ!」

 

「朝比奈家の人生が星迎祭の舞踏会一回で決まるなら、かなり脆いね」

 

「そういう意味じゃねえ!」

 

伊織は眼鏡を外した。

 

「おやすみ」

 

「薄情者!」

 

灯りが一つ。

 

消える。

 

岳も既に寝息を立て始めている。

 

最後まで起きているのは。

 

奎星と。

 

日向。

 

「奎星」

 

「んー?」

 

「お前、本当に誰も誘わねえの?」

 

「うん」

 

「なんで?」

 

「踊れねえし」

 

「練習すりゃいいだろ」

 

「めんどい」

 

本当は。

 

少し違う。

 

舞踏会の時間。

 

もし約束通りなら。

 

奎星はスズメと。

 

あの古い観測塔から。

 

花火を見るつもりだった。

 

そのことを。

 

一瞬。

 

日向へ言おうとして。

 

やめる。

 

絶対。

 

面倒になる。

 

「お前はいいよなあ……」

 

日向が机へ突っ伏した。

 

「何が?」

 

「何も悩んでなさそうで」

 

「失礼だな。俺だって悩むぞ」

 

「何に?」

 

「明日の朝飯」

 

「幸せだなお前!」

 

「大事だろ」

 

やがて。

 

日向も諦めた。

 

布団へ入る。

 

「……明日考える」

 

「今日一日考えてたじゃん」

 

「うるせえ」

 

「楓取られんぞ」

 

「寝る前に言うな!!」

 

「おやすみ」

 

「最悪だ……」

 

それから。

 

しばらく。

 

部屋には。

 

四人分の寝息だけが残った。

 

 

真夜中。

 

南硫黄島の夜は。

 

静かだった。

 

昼間あれほど賑わっていた校舎も。

 

星迎祭の準備が進む校庭も。

 

今は眠っている。

 

寮の窓の向こうには。

 

黒い海。

 

遠く。

 

波の音。

 

四人部屋も。

 

完全に暗かった。

 

岳は布団を蹴飛ばしている。

 

伊織はきっちり毛布を胸まで掛けている。

 

日向は。

 

既に寝相が悪い。

 

そして奎星は。

 

枕へ顔を半分埋め。

 

完全に熟睡していた。

 

かたり。

 

小さな音がした。

 

窓。

 

鍵が。

 

ひとりでに動く。

 

ゆっくり。

 

窓が開いた。

 

夜の風が。

 

部屋へ入る。

 

薄いカーテンが。

 

僅かに揺れる。

 

その隙間から。

 

白い何かが。

 

飛んできた。

 

紙飛行機。

 

ふわ。

 

ふわ。

 

部屋の中を一周。

 

そして。

 

奎星の寝台へ。

 

近づく。

 

先端が。

 

頬を。

 

つん。

 

「…………」

 

反応なし。

 

つん。

 

「…………ん」

 

つん。

 

奎星の眉が寄る。

 

そして。

 

ばしっ!

 

寝ぼけたまま。

 

思い切り。

 

紙飛行機を叩き落とした。

 

床。

 

ぺしゃ。

 

静かになる。

 

「…………」

 

奎星は。

 

再び眠った。

 

十秒。

 

床に落ちていた紙飛行機が。

 

むくり。

 

と起き上がる。

 

折れた翼を。

 

自分で。

 

ぱたぱた。

 

直す。

 

そして。

 

再び。

 

飛んだ。

 

つん。

 

「…………」

 

つん。

 

「んだよ……」

 

つん。

 

「……うるせえ」

 

つん。

 

奎星の目が。

 

ゆっくり開いた。

 

目の前。

 

紙飛行機。

 

「…………」

 

寝ぼけた頭で。

 

数秒。

 

見つめ合う。

 

紙飛行機が。

 

もう一度。

 

頬へ突撃した。

 

「なんだよ、こいつ……!」

 

奎星は。

 

ぱしっ。

 

今度こそ。

 

掴んだ。

 

隣を見る。

 

岳。

 

寝ている。

 

伊織。

 

寝ている。

 

日向。

 

ものすごい方向を向いて寝ている。

 

「…………?」

 

奎星は上体を起こした。

 

手の中の紙飛行機を見る。

 

どこにでもありそうな。

 

白い紙。

 

ただ。

 

僅かに。

 

淡い青色の光が。

 

縁を走っている。

 

「なんだこれ」

 

小声で呟き。

 

折り目を開く。

 

紙の中央。

 

短い文字。

 

《外みろ》

 

「…………」

 

奎星の眉が寄った。

 

外?

 

半分眠ったまま。

 

窓へ視線を向ける。

 

いつの間にか。

 

少しだけ。

 

開いている。

 

奎星は寝台から降りた。

 

床を踏まないよう。

 

岳の脱ぎ捨てた服を避け。

 

日向の寝台から落ちている腕を跨ぎ。

 

窓際へ。

 

近づく。

 

カーテンを。

 

少し開いた。

 

夜の中庭。

 

月明かり。

 

星迎祭のために設置された星灯籠は、まだ消灯されている。

 

その静かな景色の中。

 

一人。

 

人影が立っていた。

 

白い制服。

 

月明かりを受けた。

 

長い黒髪。

 

「…………え?」

 

眠気が。

 

一気に飛んだ。

 

常盤澪が。

 

いた。

 

こちらを見上げている。

 

真夜中なのに。

 

星迎祭まで。

 

あと四日。

 

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