翌朝、大食堂はいつもと変わらない騒がしさに包まれていた。
長い卓を埋める生徒たちの話し声に、椀や皿の触れ合う音が重なり、頭上では朝の連絡を運ぶ式紙が忙しなく飛び交っている。その隙間を縫うように、小さな作務衣姿の小妖たちが朝食を載せた盆を両手で抱え、器用に行き来していた。
二学期から寮生活を始めた奎星にとって、この光景もすっかり日常になっている。
「レンコン」
聞き慣れた声がした。
「だから蓮根な」
振り返ると、味噌汁を運んできた天ぷらが立っていた。いつもの作務衣、いつもの大きな黒い目。ただ、一つだけ昨日までと違うものがある。
胸元に、小さな木の板がぶら下がっていた。
《テンプラ》
「……何それ」
奎星が指差すと、天ぷらは誇らしげに胸を張った。
「ナフダ」
「名札?」
「テンプラ」
「いや、それは知ってる」
天ぷらは満足そうに頷き、味噌汁を置いて去っていった。
奎星が首を傾げていると、今度は別の小妖が焼き魚の皿を持ってやって来る。見覚えはある。大食堂で何度か見かけた小妖だった。
その小妖も、名札をつけている。
《モンジャ》
「…………」
奎星はじっと見る。小妖もじっと見る。そして、胸を張った。
「ワタシナマエ、モンジャ」
「もんじゃ?」
「モンジャ」
「なんで?」
小妖は答えた。
「ミナトガクレタ」
「湊?」
その名前に、奎星は昨夜を思い出した。立入禁止区域へ星灯籠を追って入ってしまった、下級課程の少年。足を捻り、最後は奎星の背中で笑っていた。
「……あいつ何してんだよ」
横で伊織が眼鏡を上げた。
「どうやら昨日から、下級課程で小妖に名前をつけるのが流行ってるらしいよ」
「なんで!?」
「君と天ぷらの話を湊君がしたんじゃない?」
そこへ、別の小妖がやってきた。
「ワタシ、オカカ」
《オカカ》。
続けてもう一匹。
「ワタシ、チクワ」
《チクワ》。
さらに向こうでは、《キナコ》、《オデン》、《ツクネ》。
気づけば、大食堂を歩く小妖の胸元には、妙な食べ物の名前が次々と増えていた。
奎星は立ち上がった。
「待て待て待て! なんで全部食い物なんだよ!」
天ぷらが遠くから答える。
「テンプラガ、サイショ」
「俺のせい!?」
日向が腹を抱えて笑った。
「お前が元凶じゃねえか!」
「天ぷらはちゃんと理由あったんだよ! 俺が蓮根だから!」
伊織が静かに言う。
「それを理由と呼べるかは議論の余地があるけどね」
岳は《ツクネ》という名札をつけた小妖から焼き鳥を受け取っていた。
「ツクネ」
「ツクネ」
「いい名前だ」
「お前だけ馴染むの早すぎるだろ!」
その騒ぎを聞きつけたのか、少し離れた教師席から土御門芽衣子がやってきた。
「朝から楽しそうですねえ」
「先生、これいいんすか?」
奎星が大食堂を指す。
名札をつけた小妖たちは、むしろ見せびらかすように生徒の間を歩いていた。中には自分から胸元を指し、「ナマエ、ヨンデ」と催促している者までいる。
土御門も少し困ったように笑った。
「私もこんな光景は初めて見ました」
「やっぱ普通じゃないんだ」
「小妖は昔からマホウトコロで働いていますけど、生徒が一匹ずつ名前をつけ始めたのは……少なくとも私は聞いたことがありませんね」
「止めないんすか?」
奎星が訊くと、土御門は大食堂を見渡した。
《モンジャ》と呼ばれた小妖が嬉しそうに振り返る。《キナコ》は、名前を呼んだ一年生へ何度も頭を下げている。
土御門は少しだけ目を細めた。
「本人たちが嫌がっていたら別ですが、どうやら随分気に入っているみたいですし。仕事の邪魔にならない限りは、いいのではないでしょうか」
「じゃあ続くんだ、この文化」
「そのようですね」
奎星は腕を組んだ。
「……俺が始めたみたいなもんじゃん」
「威張ること?」
伊織が訊く。
「歴史作ったな、俺」
「天ぷらから始まる歴史なんだね」
「いいだろ別に!」
そんな話をしながら席へ戻り、奎星はようやく朝食へ手をつけた。
今日一緒にいるのは、日向、岳、伊織の三人。いつもなら当然のようにいる楓の姿がない。
「楓は?」
奎星が焼き魚をほぐしながら訊く。
伊織が答えた。
「星迎祭の準備。朝から先生に呼ばれてるって」
「朝飯も食わずに? 大変だな」
奎星はそれだけ言うと、特に気にすることもなく白米を頬張った。
岳もいつも通り、目の前の朝食に集中している。伊織も静かに茶を飲んでいる。
ただ一人、日向だけが妙に静かだった。
「…………」
箸を持ったまま、ぼんやり味噌汁を見ている。
奎星が気づいた。
「どうした?」
「……なあ」
「何?」
日向は少し周囲を確認した。なぜか声を潜める。
「お前らさ」
「うん」
「舞踏会の相手、決まったか?」
奎星の箸が止まった。伊織も日向を見る。岳だけは出汁巻き卵を食べている。
「……え?」
「舞踏会だよ! 星迎祭の!」
日向が少し声を大きくする。
奎星は数秒考えた。
「ああ。あれ」
一週間ほど前、水月庵でスズメから聞いた話を思い出す。
星迎祭の夜に開かれる舞踏会。男女二人で踊り、その夜、一緒に踊った男女はいずれ結ばれる――などという、学生たちの間で昔から続いている噂。
奎星にとっては、それより観測塔からスズメと花火を見る約束のほうがずっと重要だった。だから舞踏会自体には、ほとんど興味がない。
とはいえ、そのことを今ここで言えば、確実に面倒なことになる。
――スズメちゃんと二人で花火?
――なんで?
――どこで?
――お前それデートじゃね?
そんな未来が簡単に想像できた。
奎星は黙って味噌汁を飲んだ。
伊織が答える。
「僕はいないよ」
岳も言った。
「いない」
日向が奎星を見る。
「お前は?」
「いない」
「マジで?」
「なんで驚くんだよ」
岳が顔を上げた。
「じゃあ日向と踊る」
「なんで俺がお前と踊んなきゃいけねえんだよ!」
「相手いないんだろ」
「だからって男同士で踊る必要ねえだろ!」
「駄目なのか?」
「知らねえけど! 俺が嫌だ!」
岳は少し考え、また味噌汁へ戻った。
「じゃあいい」
「軽いな!」
日向は両手を卓へついた。
「お前ら分かってねえな!」
「何を?」
「舞踏会で一緒に踊った男女は、いずれ結ばれるって言われてんだぞ!」
伊織が平然と答えた。
「噂でしょ」
「でも実際、結婚した奴らいるらしいじゃん!」
「踊った全員が結婚してるわけじゃないよ」
「夢がねえな、お前!」
「統計の話をしただけだけど」
奎星は焼き魚を口へ運びながら、スズメの言葉を思い返していた。
確かに、同じことを言っていた。舞踏会で踊った男女は結ばれる。実際、その後結婚した組もいる。
もっとも、スズメ自身は学生時代、一度も舞踏会へ出なかったらしいが。
日向は頭を抱えた。
「どうすっかなあ……」
奎星が箸を止めた。
「楓誘えばいいじゃん」
「…………え?」
日向が顔を上げた。
「な、なんで楓なんだよ」
「仲いいし」
「それだけで!?」
「お前、楓のこと好きじゃん」
日向の動きが完全に止まった。
「…………」
次の瞬間、大食堂中に響くほどの声が出た。
「は、はあ!?」
何人かが振り返る。
「なんだよそれ!」
「え?」
「なんで俺が楓を好きって話になるんだよ!」
奎星のほうが不思議そうだった。
「違うの?」
「違っ……いや、そうじゃなくて!」
「どっちだよ」
「仲はいいけど! 昔から一緒にいるからで!」
「ほら仲いいじゃん」
「だからそれと好きは違うだろ!」
横から、伊織が静かに茶碗を置いた。
「みんな気づいてるよ」
日向が固まる。
「…………みんな?」
「うん」
岳が顔を上げた。
「そうなの?」
伊織が一度岳を見る。
「岳以外は」
「俺は知らなかった」
「だから今言ったんだよ」
日向は耳まで赤くなっていた。
「いや、待てって! お前ら勝手に――」
奎星が首を傾げる。
「でも誘えばいいじゃん」
「簡単に言うな!」
「なんで?」
「断られたらどうすんだよ!」
あまりにも必死だった。三人が黙る。
日向は気づかない。
「昔から一緒にいるんだぞ!? 誘って『嫌』とか言われたら、そのあとどうすんだよ! 毎日顔合わせるんだぞ!?」
奎星の口が半開きになる。
「……情けな」
「うるせえ!」
「クィディッチの試合より怖がってんじゃん」
「試合は相手が殴ってこねえだろ!」
「楓も殴ってこないだろ」
伊織が言う。
奎星が見る。
「殴るだろ」
「殴るね」
「殴るな」
岳も頷いた。
「殴る」
「お前らどっちの味方だよ!」
そのときだった。
「朝から面白そうな話してるね」
明るい声に、四人が振り向く。
朝食を載せた盆を手にした三枝冬真が立っていた。
「冬真先輩!」
日向が声を上げる。
冬真は空いていた日向の隣へ、特に遠慮する様子もなく腰を下ろした。
「ここいい?」
「もちろん」
「ありがと」
ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き。意外と普通の朝食だった。
岳だけが盆の量を見る。
「少ない」
「朝から君基準は無理だよ」
冬真は笑い、箸を取った。
奎星がすぐに身を乗り出す。
「冬真先輩は舞踏会の相手いるの?」
「ああ」
あまりにもあっさりした返事だった。
「俺は彼女と踊るよ」
「…………」
奎星が止まる。日向も止まる。
二人は顔を見合わせた。
「彼女?」
「うん」
「いるの!?」
「いるよ」
奎星は思わず冬真を上から下まで見る。
去年の校内決闘大会優勝。決闘部主将。強い。爽やか。後輩に優しい。先生にも気に入られている。そして、彼女までいる。
奎星が真顔で言った。
「冬真先輩、本当に人間?」
「何の確認?」
日向も同じ顔をしている。
「強くて、性格よくて、彼女までいるって反則じゃないすか?」
「俺どういう生き物だと思われてたの?」
冬真は笑いながら焼き魚をほぐす。それから、隣で絶望的な顔をしている日向へ少しだけ身を寄せた。
「朝比奈」
「はい?」
「ちなみにさ」
声を落とす。
「その彼女と付き合えたの、去年俺が舞踏会に誘ったのがきっかけなんだよね」
日向の目が大きくなった。
「…………マジすか?」
「マジ」
冬真はさらに小声になる。
「俺調べだけど、はっきり言って舞踏会を一緒に踊るところまで行けたら、告白の成功率は上がるよ」
「…………」
日向の口が、ぽかんと開いた。
奎星が横から覗き込む。
「死んだ?」
「生きてる」
「目動いてねえぞ」
冬真は笑っている。
そのとき。
「おはよう」
楓が遅れて大食堂へやってきた。
腕には書類の束。どうやら朝から本当に星迎祭の仕事をしていたらしく、いつもより少しだけ疲れた顔をしている。
「遅くなった。席空いてる?」
「空いてるよ」
伊織が隣の椅子を引く。
楓は腰を下ろしてから、冬真がいることに気づいた。
「あ、三枝先輩。おはようございます」
「おはよう。朝から大変そうだね」
「先生に捕まって、飾りの配置確認やってました」
「お疲れ」
岳が言った。
「冬真先輩、去年の舞踏会で彼女作ったらしい」
「お前!」
日向が叫んだ。
冬真は笑う。
「まあ、間違ってはないけど」
楓の表情が少しだけ明るくなる。
「えっ、そうなんですか?」
奎星が気づいた。
「あ、楓こういう話好きなんだ」
「何よ」
「いや、いつもより食いついた」
「別に普通でしょ」
そう言いつつ、ちゃんと冬真のほうを見ている。やはり、女の子ではあるらしい。
冬真が何気なく尋ねた。
「水無瀬は? 舞踏会の相手、もう決まってる?」
楓の手が少し止まった。
「私ですか?」
「うん」
「まだです」
その答えに、日向の肩が僅かに上がった。
けれど、楓は続けた。
「何人かには誘われてるんですけど、まだ返事してなくて。ちょっと迷ってます」
「…………」
日向の顔から血の気が引いた。
「さ……」
声が震える。
「誘われてる……?」
楓が日向を見る。
「何?」
「いや!」
一瞬、楓の視線が日向の顔に留まった。ほんの僅か、何かを待つような、不満そうな、けれど本人には絶対悟られたくないような顔。
奎星は気づいた。伊織も、当然気づいている。冬真も一度だけ楓を見て、次に日向を見た。そして、何となく事情を察したらしい。口元だけで小さく笑った。
岳だけは、二杯目の味噌汁を飲んでいる。
「日向?」
楓がもう一度呼ぶ。
「なんでもない!」
「変なの」
楓は朝食へ手を伸ばした。
日向は動かない。視線は宙。頭の中ではきっと、《何人か》という三文字だけが、延々と響いている。
奎星が手を顔の前で振る。反応なし。
「駄目だこりゃ」
伊織も日向を見る。
「しばらく動かないね」
冬真が茶を飲みながら、ぼそっと言った。
「早くしないと、本当に誰かに取られそうだけど」
日向の指が、ぴくっと動いた。
「聞こえてるじゃん」
奎星が笑った。
*
少し離れた場所、白峰魔法学校の生徒たちが使っている卓では、常盤澪が朝食を取っていた。
昨夜の星灯籠設置で遅くなったぶん、白峰側の生徒たちも今日はどこか眠そうだった。
澪は湯飲みを口元へ運びながら、少しだけマホウトコロの席を見る。
騒がしい。特に、蓮根奎星の周りは朝からずっと騒がしい。
途中までは何を話しているのか聞こえなかった。ただ、「舞踏会」という言葉だけは何度か耳へ届いた。
澪の手が僅かに止まった。
視線の先では、奎星が完全に固まった日向の頬を箸の持ち手でつついている。
「…………舞踏会」
小さく口に出す。
星迎祭の夜、学生たちが男女で踊る。白峰にも似たような行事はある。けれど、マホウトコロの舞踏会には例の噂がある。
一緒に踊った男女はいずれ結ばれる。
くだらない噂。そう思う。
普段の澪なら、多分、笑って終わる。
けれど昨夜、何百もの星灯籠の下で空を見上げていた少年の横顔を、ふと思い出した。
「…………」
澪はもう一度だけ、奎星のほうを見た。
*
その日の夕方、魔法史研究室で、奎星は今日も補習そっちのけで朝の出来事を喋っていた。
「でさ! 日向がもうめちゃくちゃ情けねえの!」
「蓮根君」
スズメは赤い筆を動かしたまま言う。
「朝比奈君のいないところで、あまり言いふらさないほうがいいですよ」
「スズメちゃんしかいないからいいじゃん」
「烏丸先生です」
「でも絶対好きなんだって。俺が『楓誘えば?』って言ったら顔真っ赤になってさ」
「…………」
スズメは少しだけ考え、小さく笑った。
「まあ」
「ん?」
「お二人の距離感を見ていれば、何となくは」
奎星の目が輝く。
「やっぱスズメちゃんも気づいてた!?」
「朝比奈君と水無瀬さんは、ずっと以前から親しいですからね」
一学期、楓が吹き飛ばされたとき、日向は考えるより先に飛び出した。彼女を庇い、自分の身体を壁との間へ入れた。
スズメもあの場にいた。それ以前から二人の付き合いが長いことも知っている。
「朝比奈君も、ちゃんと誘えるといいですね」
「本人たちはまだ認めてねえけどなあ」
奎星は椅子の背にもたれた。
「もうお似合いなのに」
「それを本人へ言えば、また揉めるでしょうね」
「絶対揉める」
「でしたら黙っていてください」
「でも面白いじゃん」
「蓮根君」
「はい」
スズメの赤い筆が答案の一か所へ向く。
「ここも違います」
「恋バナ中に現実戻すなよ!」
「補習中です」
奎星は渋々答案へ目を落とした。しかし、三秒後にはまた顔を上げる。
「あ、そうだ。冬真先輩、彼女いるんだって」
「三枝君ですか?」
「知ってんの?」
「もちろんです」
スズメは当然という顔だった。
「三枝君たちは有名なカップルですよ。どちらも優秀な生徒ですから」
「へえー!」
奎星は妙に感心する。
「彼女さん美人?」
スズメは少し考える必要すらなかった。
「それはもう」
「すげえや!」
妙に素直な反応だった。
スズメが奎星を見る。
「何がすごいのですか」
「冬真先輩、強いし優しいし先生にも好かれてるし、彼女まで美人なんだぞ? 完成してんじゃん」
「彼を何だと思っているのです?」
「完成された人間」
「大袈裟です」
奎星は頬杖をつく。
「友人の水無瀬さんもお綺麗だと思いますよ」
「あー、確かに」
「随分軽いですね」
「いや、あいつ昔から友達みたいな感じだから。あんま意識したことねえんだよな」
奎星は本当に、今気づいたような顔をしていた。
スズメの赤い筆が、一瞬止まる。
「……最近仲のよろしい常盤さんも、かなりお綺麗な方ではありませんか?」
声は普段とほとんど変わらない。ただ、ほんの少しだけ言葉の端が硬かった。
奎星は気づかない。
「あー……」
昨日の大食堂。窓へ群がった男ども。
《可愛い》。
《写真より可愛い》。
《激マブ》。
思い出す。
「そういや、食堂のバカどももそんなこと言ってたな」
「…………」
「俺は別に気にしてなかったけど」
「そうですか」
「うん」
奎星は答え、少し考えた。
そして、何の前触れもなく言った。
「でもスズメちゃんも、すげえ美人だよね」
「…………」
赤い筆が止まった。
スズメが顔を上げる。
「……何ですか、急に」
「いや?」
奎星は不思議そうにする。
「美人の話してたから」
「私の話はしていません」
「今したじゃん」
「あなたが勝手に入れたのでしょう」
「でも普通に美人だろ」
あまりにもあっさり、当然のことのように言う。
スズメが一瞬、言葉を失った。
「そんなことありません」
「んなことあるだろ!」
今度は奎星のほうが納得していない。
「肌めっちゃ綺麗だし」
「…………」
「まつ毛長いし」
「…………」
「目だってくりくりしてるし」
「…………蓮根君」
「何?」
「課題をしてください!」
突然、少し大きな声が響いた。
奎星が目を丸くする。
「なんで怒んの!?」
「怒っていません!」
「怒ってるじゃん!」
「十七頁!」
「はいはい」
「返事は一回です!」
「はーい」
奎星はようやく教科書へ戻った。鉛筆を持ち、本当に何事もなかったように課題の続きを始める。
その向かいで、スズメは動かなかった。赤い筆を持ったまま、答案の同じ場所を見ている。
水無瀬楓については、美人だと言われて初めて、そうかもしれないと考えた。常盤澪についても、周囲の男子が騒いでいたことを思い出しただけ。
なのに、なぜ自分のことだけ、あんなに具体的に。
肌。
睫毛。
目。
「…………」
そこまで見ていたということなのか。
スズメは僅かに頬が熱くなるのを感じた。
――違う。
どうせ、何も考えていない。茶化しているだけ。
それに、そもそも教師が生徒の言葉を気にすること自体がおかしい。
「スズメちゃん」
「っ」
顔を上げる。
奎星が教科書を指差していた。
「ここ、十九世紀?」
「……十八世紀です」
「また!?」
「昨日も同じ間違いをしましたよ」
声はちゃんと、いつもの調子に戻っていた。
ただ、赤い筆はしばらく、一度も動かなかった。
*
その日の夜、男子寮では消灯時間を過ぎても日向が眠らなかった。
同じ部屋の四人のうち、岳は既に布団へ入っている。伊織は寝台の上で本を読んでいた。奎星は枕へ寝転がり、日向だけが窓際の椅子に座って、もう何十分も頭を抱えている。
「どうしよう……」
奎星が寝返りを打つ。
「まだ言ってんの?」
「だって何人かに誘われてんだぞ!」
「朝からずっとそれじゃん」
「お前には分かんねえよ!」
「何が」
「断られたら終わりだろ!」
伊織が本から目を上げる。
「誘わないまま他の人に決まっても終わりだね」
日向がさらに頭を抱えた。
「やめろぉぉ……!」
「現実を言っただけだよ」
岳が布団の中から言う。
「明日誘えばいい」
「だから簡単に言うなって!」
「じゃあ誘わなきゃいい」
「それも嫌なんだよ!」
岳が布団から顔だけ出す。
「面倒だな」
「恋愛ってそういうもんなんだよ!」
「知らん」
岳は再び潜った。
数秒後。
「おやすみ」
「諦めんなよ!」
「眠い」
伊織も本を閉じた。
「僕も寝るよ」
「伊織! 俺の人生かかってんだぞ!」
「朝比奈家の人生が星迎祭の舞踏会一回で決まるなら、かなり脆いね」
「そういう意味じゃねえ!」
伊織は眼鏡を外した。
「おやすみ」
「薄情者!」
灯りが一つ消える。
岳も既に寝息を立て始めている。
最後まで起きているのは、奎星と日向だった。
「奎星」
「んー?」
「お前、本当に誰も誘わねえの?」
「うん」
「なんで?」
「踊れねえし」
「練習すりゃいいだろ」
「めんどい」
本当は、少し違う。
舞踏会の時間、もし約束通りなら、奎星はスズメとあの古い観測塔から花火を見るつもりだった。
そのことを一瞬、日向へ言おうとして、やめる。
絶対、面倒になる。
「お前はいいよなあ……」
日向が机へ突っ伏した。
「何が?」
「何も悩んでなさそうで」
「失礼だな。俺だって悩むぞ」
「何に?」
「明日の朝飯」
「幸せだなお前!」
「大事だろ」
やがて、日向も諦めた。布団へ入る。
「……明日考える」
「今日一日考えてたじゃん」
「うるせえ」
「楓取られんぞ」
「寝る前に言うな!!」
「おやすみ」
「最悪だ……」
それからしばらく、部屋には四人分の寝息だけが残った。
*
真夜中、南硫黄島の夜は静かだった。
昼間あれほど賑わっていた校舎も、星迎祭の準備が進む校庭も、今は眠っている。寮の窓の向こうには黒い海が広がり、遠くで波の音が聞こえていた。
四人部屋も完全に暗かった。
岳は布団を蹴飛ばしている。伊織はきっちり毛布を胸まで掛けている。日向は既に寝相が悪い。そして奎星は枕へ顔を半分埋め、完全に熟睡していた。
かたり。
小さな音がした。
窓の鍵がひとりでに動き、ゆっくり窓が開く。夜の風が部屋へ入り、薄いカーテンが僅かに揺れた。
その隙間から、白い何かが飛んできた。
紙飛行機。
ふわ、ふわと部屋の中を一周し、奎星の寝台へ近づく。先端が頬をつん、とつついた。
「…………」
反応なし。
つん。
「…………ん」
つん。
奎星の眉が寄る。
そして、ばしっ!
寝ぼけたまま、思い切り紙飛行機を叩き落とした。
床へぺしゃりと落ち、静かになる。
「…………」
奎星は再び眠った。
十秒後、床に落ちていた紙飛行機が、むくりと起き上がる。折れた翼を自分でぱたぱたと直し、再び飛んだ。
つん。
「…………」
つん。
「んだよ……」
つん。
「……うるせえ」
つん。
奎星の目がゆっくり開いた。
目の前に、紙飛行機がある。
「…………」
寝ぼけた頭で、数秒見つめ合う。
紙飛行機が、もう一度頬へ突撃した。
「なんだよ、こいつ……!」
奎星は、ぱしっと今度こそ掴んだ。
隣を見る。
岳は寝ている。伊織も寝ている。日向はものすごい方向を向いて寝ている。
「…………?」
奎星は上体を起こし、手の中の紙飛行機を見た。
どこにでもありそうな白い紙。ただ、僅かに淡い青色の光が縁を走っている。
「なんだこれ」
小声で呟き、折り目を開く。
紙の中央に、短い文字があった。
《外みろ》
「…………」
奎星の眉が寄った。
外?
半分眠ったまま、窓へ視線を向ける。いつの間にか、少しだけ開いている。
奎星は寝台から降りた。床を踏まないよう、岳の脱ぎ捨てた服を避け、日向の寝台から落ちている腕を跨いで窓際へ近づく。
カーテンを少し開いた。
夜の中庭。月明かり。星迎祭のために設置された星灯籠は、まだ消灯されている。
その静かな景色の中に、一人、人影が立っていた。
白い制服。月明かりを受けた、長い黒髪。
「…………え?」
眠気が一気に飛んだ。
常盤澪が、こちらを見上げている。
真夜中なのに。
星迎祭まで、あと四日。