翌朝。
大食堂は、いつもと変わらない騒がしさに包まれていた。
長い卓を埋める生徒たちの話し声に、椀や皿の触れ合う音が重なり、頭上では朝の連絡を運ぶ式紙が忙しなく飛び交っている。その隙間を縫うように、小さな作務衣姿の小妖たちが朝食を載せた盆を両手で抱え、器用に行き来していた。
二学期から寮生活を始めた奎星にとって、この光景もすっかり日常になっている。
「レンコン」
聞き慣れた声がした。
「だから蓮根な」
振り返ると、味噌汁を運んできた天ぷらが立っていた。
いつもの作務衣。
いつもの大きな黒い目。
ただ。
一つだけ。
昨日までと違う。
胸元に、小さな木の板がぶら下がっていた。
《テンプラ》
「……何それ」
奎星が指差す。
天ぷらは誇らしげに胸を張った。
「ナフダ」
「名札?」
「テンプラ」
「いや、それは知ってる」
天ぷらは満足そうに頷き、味噌汁を置いて去っていった。
奎星が首を傾げていると、今度は別の小妖が焼き魚の皿を持ってやって来る。
見覚えはある。
大食堂で何度か見かけた小妖だった。
その小妖も。
名札をつけている。
《モンジャ》
「…………」
奎星はじっと見る。
小妖もじっと見る。
そして。
「ワタシナマエ、モンジャ」
「もんじゃ?」
「モンジャ」
「なんで?」
小妖は胸を張った。
「ミナトガクレタ」
「湊?」
その名前に。
奎星は昨夜を思い出した。
立入禁止区域へ星灯籠を追って入ってしまった、下級課程の少年。
足を捻り。
最後は奎星の背中で笑っていた。
「……あいつ何してんだよ」
横で伊織が眼鏡を上げた。
「どうやら昨日から、下級課程で小妖に名前をつけるのが流行ってるらしいよ」
「なんで!?」
「君と天ぷらの話を湊君がしたんじゃない?」
そこへ。
別の小妖がやってきた。
「ワタシ、オカカ」
《オカカ》。
続けてもう一匹。
「ワタシ、チクワ」
《チクワ》。
さらに向こうでは。
《キナコ》。
《オデン》。
《ツクネ》。
気づけば、大食堂を歩く小妖の胸元には、妙な食べ物の名前が次々と増えていた。
奎星は立ち上がった。
「待て待て待て! なんで全部食い物なんだよ!」
天ぷらが遠くから答える。
「テンプラガ、サイショ」
「俺のせい!?」
日向が腹を抱えて笑った。
「お前が元凶じゃねえか!」
「天ぷらはちゃんと理由あったんだよ! 俺が蓮根だから!」
伊織が静かに言う。
「それを理由と呼べるかは議論の余地があるけどね」
岳は《ツクネ》という名札をつけた小妖から焼き鳥を受け取っていた。
「ツクネ」
「ツクネ」
「いい名前だ」
「お前だけ馴染むの早すぎるだろ!」
その騒ぎを聞きつけたのか、少し離れた教師席から土御門芽衣子がやってきた。
「朝から楽しそうですねえ」
「先生、これいいんすか?」
奎星が大食堂を指す。
名札をつけた小妖たちは、むしろ見せびらかすように生徒の間を歩いていた。中には自分から胸元を指し、「ナマエ、ヨンデ」と催促している者までいる。
土御門も少し困ったように笑った。
「私もこんな光景は初めて見ました」
「やっぱ普通じゃないんだ」
「小妖は昔からマホウトコロで働いていますけど、生徒が一匹ずつ名前をつけ始めたのは……少なくとも私は聞いたことがありませんね」
「止めないんすか?」
奎星が訊くと、土御門は大食堂を見渡した。
《モンジャ》と呼ばれた小妖が嬉しそうに振り返る。
《キナコ》は、名前を呼んだ一年生へ何度も頭を下げている。
土御門は少しだけ目を細めた。
「本人たちが嫌がっていたら別ですが、どうやら随分気に入っているみたいですし。仕事の邪魔にならない限りは、いいのではないでしょうか」
「じゃあ続くんだ、この文化」
「そのようですね」
奎星は腕を組んだ。
「……俺が始めたみたいなもんじゃん」
「威張ること?」
伊織が訊く。
「歴史作ったな、俺」
「天ぷらから始まる歴史なんだね」
「いいだろ別に!」
そんな話をしながら席へ戻り。
奎星はようやく朝食へ手をつけた。
今日一緒にいるのは、日向、岳、伊織の三人。
いつもなら当然のようにいる楓の姿がない。
「楓は?」
奎星が焼き魚をほぐしながら訊く。
伊織が答えた。
「星迎祭の準備。朝から先生に呼ばれてるって」
「朝飯も食わずに?大変だな」
奎星はそれだけ言うと、特に気にすることもなく白米を頬張った。
岳もいつも通りだった。
目の前の朝食に集中している。
伊織も静かに茶を飲んでいる。
ただ一人。
日向だけが。
妙に静かだった。
「…………」
箸を持ったまま。
ぼんやり味噌汁を見ている。
奎星が気づく。
「どうした?」
「……なあ」
「何?」
日向は少し周囲を確認した。
なぜか声を潜める。
「お前らさ」
「うん」
「舞踏会の相手、決まったか?」
奎星の箸が止まった。
伊織も日向を見る。
岳だけは出汁巻き卵を食べている。
「……え?」
「舞踏会だよ! 星迎祭の!」
日向が少し声を大きくする。
奎星は数秒考えた。
「ああ。あれ」
一週間ほど前。
水月庵でスズメから聞いた話を思い出す。
星迎祭の夜に開かれる舞踏会。
男女二人で踊り。
その夜、一緒に踊った男女はいずれ結ばれる――などという、学生たちの間で昔から続いている噂。
奎星にとっては。
それより。
観測塔からスズメと花火を見る約束のほうがずっと重要だった。
だから舞踏会自体には、ほとんど興味がない。
とはいえ。
そのことを今ここで言えば。
確実に面倒なことになる。
――スズメちゃんと二人で花火?
――なんで?
――どこで?
――お前それデートじゃね?
そんな未来が簡単に想像できた。
奎星は黙って味噌汁を飲んだ。
伊織が答える。
「僕はいないよ」
岳も言った。
「いない」
日向が奎星を見る。
「お前は?」
「いない」
「マジで?」
「なんで驚くんだよ」
岳が顔を上げた。
「じゃあ日向と踊る」
「なんで俺がお前と踊んなきゃいけねえんだよ!」
「相手いないんだろ」
「だからって男同士で踊る必要ねえだろ!」
「駄目なのか?」
「知らねえけど! 俺が嫌だ!」
岳は少し考え。
また味噌汁へ戻った。
「じゃあいい」
「軽いな!」
日向は両手を卓へついた。
「お前ら分かってねえな!」
「何を?」
「舞踏会で一緒に踊った男女は、いずれ結ばれるって言われてんだぞ!」
伊織が平然と答えた。
「噂でしょ」
「でも実際、結婚した奴らいるらしいじゃん!」
「踊った全員が結婚してるわけじゃないよ」
「夢がねえな、お前!」
「統計の話をしただけだけど」
奎星は焼き魚を口へ運びながら、スズメの言葉を思い返していた。
確かに。
同じことを言っていた。
舞踏会で踊った男女は結ばれる。
実際、その後結婚した組もいる。
もっとも。
スズメ自身は学生時代、一度も舞踏会へ出なかったらしいが。
日向は頭を抱えた。
「どうすっかなあ……」
奎星が箸を止めた。
「楓誘えばいいじゃん」
「…………え?」
日向が顔を上げた。
「な、なんで楓なんだよ」
「仲いいし」
「それだけで!?」
「お前、楓のこと好きじゃん」
日向の動きが完全に止まった。
「…………」
次の瞬間。
「は、はあ!?」
大食堂中に響くほどの声が出た。
何人かが振り返る。
「なんだよそれ!」
「え?」
「なんで俺が楓を好きって話になるんだよ!」
奎星のほうが不思議そうだった。
「違うの?」
「違っ……いや、そうじゃなくて!」
「どっちだよ」
「仲はいいけど! 昔から一緒にいるからで!」
「ほら仲いいじゃん」
「だからそれと好きは違うだろ!」
横から。
伊織が静かに茶碗を置いた。
「みんな気づいてるよ」
日向が固まる。
「…………みんな?」
「うん」
岳が顔を上げた。
「そうなの?」
伊織が一度岳を見る。
「岳以外は」
「俺は知らなかった」
「だから今言ったんだよ」
日向は耳まで赤くなっていた。
「いや、待てって! お前ら勝手に――」
奎星が首を傾げる。
「でも誘えばいいじゃん」
「簡単に言うな!」
「なんで?」
「断られたらどうすんだよ!」
あまりにも必死だった。
三人が。
黙る。
日向は気づかない。
「昔から一緒にいるんだぞ!? 誘って『嫌』とか言われたら、そのあとどうすんだよ! 毎日顔合わせるんだぞ!?」
奎星の口が半開きになる。
「……情けな」
「うるせえ!」
「クィディッチの試合より怖がってんじゃん」
「試合は相手が殴ってこねえだろ!」
「楓も殴ってこないだろ」
伊織が言う。
奎星が見る。
「殴るだろ」
「殴るね」
「殴るな」
岳も頷いた。
「殴る」
「お前らどっちの味方だよ!」
そのときだった。
「朝から面白そうな話してるね」
明るい声。
四人が振り向く。
朝食を載せた盆を手にした三枝冬真が立っていた。
「冬真先輩!」
日向が声を上げる。
冬真は空いていた日向の隣へ、特に遠慮する様子もなく腰を下ろした。
「ここいい?」
「もちろん」
「ありがと」
ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き。
意外と普通の朝食だった。
岳だけが盆の量を見る。
「少ない」
「朝から君基準は無理だよ」
冬真は笑い、箸を取った。
奎星がすぐに身を乗り出す。
「冬真先輩は舞踏会の相手いるの?」
「ああ」
あまりにもあっさり。
「俺は彼女と踊るよ」
「…………」
奎星。
止まる。
日向も。
止まる。
二人は。
顔を見合わせた。
「彼女?」
「うん」
「いるの!?」
「いるよ」
奎星は思わず冬真を上から下まで見る。
去年の校内決闘大会優勝。
決闘部主将。
強い。
爽やか。
後輩に優しい。
先生にも気に入られている。
そして。
彼女までいる。
奎星が真顔で言った。
「冬真先輩、本当に人間?」
「何の確認?」
日向も同じ顔をしている。
「強くて、性格よくて、彼女までいるって反則じゃないすか?」
「俺どういう生き物だと思われてたの?」
冬真は笑いながら焼き魚をほぐす。
それから。
隣で絶望的な顔をしている日向へ少しだけ身を寄せた。
「朝比奈」
「はい?」
「ちなみにさ」
声を落とす。
「その彼女と付き合えたの、去年俺が舞踏会に誘ったのがきっかけなんだよね」
日向の目が大きくなった。
「…………マジすか?」
「マジ」
冬真はさらに小声になる。
「俺調べだけど、はっきり言って舞踏会を一緒に踊るところまで行けたら、告白の成功率は上がるよ」
「…………」
日向の口が。
ぽかん。
と開いた。
奎星が横から覗き込む。
「死んだ?」
「生きてる」
「目動いてねえぞ」
冬真は笑っている。
そのとき。
「おはよう」
楓が遅れて大食堂へやってきた。
腕には書類の束。
どうやら朝から本当に星迎祭の仕事をしていたらしく、いつもより少しだけ疲れた顔をしている。
「遅くなった。席空いてる?」
「空いてるよ」
伊織が隣の椅子を引く。
楓は腰を下ろしてから。
冬真がいることに気づいた。
「あ、三枝先輩。おはようございます」
「おはよう。朝から大変そうだね」
「先生に捕まって、飾りの配置確認やってました」
「お疲れ」
岳が言った。
「冬真先輩、去年の舞踏会で彼女作ったらしい」
「お前!」
日向が叫んだ。
冬真は笑う。
「まあ、間違ってはないけど」
楓の表情が。
少しだけ明るくなる。
「えっ、そうなんですか?」
奎星が気づいた。
「あ、楓こういう話好きなんだ」
「何よ」
「いや、いつもより食いついた」
「別に普通でしょ」
そう言いつつ。
ちゃんと冬真のほうを見ている。
やはり。
女の子ではあるらしい。
冬真が何気なく尋ねた。
「水無瀬は? 舞踏会の相手、もう決まってる?」
楓の手が少し止まった。
「私ですか?」
「うん」
「まだです」
その答えに。
日向の肩が。
僅かに上がった。
けれど。
楓は続けた。
「何人かには誘われてるんですけど、まだ返事してなくて。ちょっと迷ってます」
「…………」
日向の顔から。
血の気が引いた。
「さ……」
声が震える。
「誘われてる……?」
楓が日向を見る。
「何?」
「いや!」
一瞬。
楓の視線が。
日向の顔に留まった。
ほんの僅か。
何かを待つような。
不満そうな。
けれど本人には絶対悟られたくないような顔。
奎星は。
気づいた。
伊織も。
当然気づいている。
冬真も一度だけ楓を見て。
次に日向を見た。
そして。
何となく事情を察したらしい。
口元だけで小さく笑った。
岳だけは。
二杯目の味噌汁を飲んでいる。
「日向?」
楓がもう一度呼ぶ。
「なんでもない!」
「変なの」
楓は朝食へ手を伸ばした。
日向は。
動かない。
視線は宙。
頭の中ではきっと。
《何人か》。
その三文字だけが。
延々と響いている。
奎星が手を顔の前で振る。
反応なし。
「駄目だこりゃ」
伊織も日向を見る。
「しばらく動かないね」
冬真が茶を飲みながら。
ぼそっと言った。
「早くしないと、本当に誰かに取られそうだけど」
日向の指が。
ぴくっ。
と動いた。
「聞こえてるじゃん」
奎星が笑った。
*
少し離れた場所。
白峰魔法学校の生徒たちが使っている卓では。
常盤澪が朝食を取っていた。
昨夜の星灯籠設置で遅くなったぶん、白峰側の生徒たちも今日はどこか眠そうだった。
澪は湯飲みを口元へ運びながら。
少しだけ。
マホウトコロの席を見る。
騒がしい。
特に。
蓮根奎星の周りは。
朝からずっと騒がしい。
途中までは。
何を話しているのか聞こえなかった。
ただ。
「舞踏会」
その言葉だけは。
何度か耳へ届いた。
澪の手が。
僅かに止まった。
視線の先では。
奎星が。
完全に固まった日向の頬を箸の持ち手でつついている。
「…………舞踏会」
小さく。
口に出す。
星迎祭の夜。
学生たちが。
男女で踊る。
白峰にも似たような行事はある。
けれど。
マホウトコロの舞踏会には。
例の噂がある。
一緒に踊った男女は。
いずれ結ばれる。
くだらない噂。
そう思う。
普段の澪なら。
多分。
笑って終わる。
けれど。
昨夜。
何百もの星灯籠の下で。
空を見上げていた少年の横顔を。
ふと思い出した。
「…………」
澪は。
もう一度だけ。
奎星のほうを見た。
*
その日の夕方。
魔法史研究室。
奎星は今日も。
補習そっちのけで。
朝の出来事を喋っていた。
「でさ! 日向がもうめちゃくちゃ情けねえの!」
「蓮根君」
スズメは赤い筆を動かしたまま言う。
「朝比奈君のいないところで、あまり言いふらさないほうがいいですよ」
「スズメちゃんしかいないからいいじゃん」
「烏丸先生です」
「でも絶対好きなんだって。俺が『楓誘えば?』って言ったら顔真っ赤になってさ」
「…………」
スズメは少しだけ考え。
小さく笑った。
「まあ」
「ん?」
「お二人の距離感を見ていれば、何となくは」
奎星の目が輝く。
「やっぱスズメちゃんも気づいてた!?」
「朝比奈君と水無瀬さんは、ずっと以前から親しいですからね」
一学期。
楓が吹き飛ばされたとき。
日向は。
考えるより先に飛び出した。
彼女を庇い。
自分の身体を壁との間へ入れた。
スズメも。
あの場にいた。
それ以前から二人の付き合いが長いことも知っている。
「朝比奈君も、ちゃんと誘えるといいですね」
「本人たちはまだ認めてねえけどなあ」
奎星は椅子の背にもたれた。
「もうお似合いなのに」
「それを本人へ言えば、また揉めるでしょうね」
「絶対揉める」
「でしたら黙っていてください」
「でも面白いじゃん」
「蓮根君」
「はい」
スズメの赤い筆が。
答案の一か所へ向く。
「ここも違います」
「恋バナ中に現実戻すなよ!」
「補習中です」
奎星は渋々答案へ目を落とした。
しかし。
三秒後。
また顔を上げる。
「あ、そうだ。冬真先輩、彼女いるんだって」
「三枝君ですか?」
「知ってんの?」
「もちろんです」
スズメは当然という顔だった。
「三枝君たちは有名なカップルですよ。どちらも優秀な生徒ですから」
「へえー!」
奎星は妙に感心する。
「彼女さん美人?」
スズメは少し考える必要すらなかった。
「それはもう」
「すげえや!」
妙に素直な反応だった。
スズメが奎星を見る。
「何がすごいのですか」
「冬真先輩、強いし優しいし先生にも好かれてるし、彼女まで美人なんだぞ? 完成してんじゃん」
「彼を何だと思っているのです?」
「完成された人間」
「大袈裟です」
奎星は頬杖をつく。
「友人の水無瀬さんもお綺麗だと思いますよ」
「あー、確かに」
「随分軽いですね」
「いや、あいつ昔から友達みたいな感じだから。あんま意識したことねえんだよな」
奎星は本当に。
今気づいたような顔をしていた。
スズメの赤い筆が。
一瞬止まる。
「……最近仲のよろしい常盤さんも、かなりお綺麗な方ではありませんか?」
声は。
普段とほとんど変わらない。
ただ。
ほんの少しだけ。
言葉の端が硬かった。
奎星は気づかない。
「あー……」
昨日の大食堂。
窓へ群がった男ども。
《可愛い》。
《写真より可愛い》。
《激マブ》。
思い出す。
「そういや、食堂のバカどももそんなこと言ってたな」
「…………」
「俺は別に気にしてなかったけど」
「そうですか」
「うん」
奎星は答え。
少し考えた。
そして。
何の前触れもなく。
「でもスズメちゃんも、すげえ美人だよね」
「…………」
赤い筆が。
止まった。
スズメが顔を上げる。
「……何ですか、急に」
「いや?」
奎星は不思議そうにする。
「美人の話してたから」
「私の話はしていません」
「今したじゃん」
「あなたが勝手に入れたのでしょう」
「でも普通に美人だろ」
あまりにも。
あっさり。
当然のことのように言う。
スズメが一瞬、言葉を失った。
「そんなことありません」
「んなことあるだろ!」
今度は奎星のほうが納得していない。
「肌めっちゃ綺麗だし」
「…………」
「まつ毛長いし」
「…………」
「目だってくりくりしてるし」
「…………蓮根君」
「何?」
「課題をしてください!」
突然。
少し大きな声。
奎星が目を丸くする。
「なんで怒んの!?」
「怒っていません!」
「怒ってるじゃん!」
「十七頁!」
「はいはい」
「返事は一回です!」
「はーい」
奎星はようやく教科書へ戻った。
鉛筆を持ち。
本当に何事もなかったように課題の続きを始める。
その向かいで。
スズメは。
動かなかった。
赤い筆を持ったまま。
答案の同じ場所を見ている。
水無瀬楓については。
美人だと言われて。
初めて。
そうかもしれないと考えた。
常盤澪についても。
周囲の男子が騒いでいたことを。
思い出しただけ。
なのに。
なぜ。
自分のことだけ。
あんなに具体的に。
肌。
睫毛。
目。
「…………」
そこまで。
見ていたということなのか。
スズメは。
僅かに頬が熱くなるのを感じた。
――違う。
どうせ。
何も考えていない。
茶化しているだけ。
それに。
そもそも。
教師が生徒の言葉を気にすること自体がおかしい。
「スズメちゃん」
「っ」
顔を上げる。
奎星が教科書を指差していた。
「ここ、十九世紀?」
「……十八世紀です」
「また!?」
「昨日も同じ間違いをしましたよ」
声は。
ちゃんと。
いつもの調子に戻っていた。
ただ。
赤い筆は。
しばらく。
一度も動かなかった。
*
その日の夜。
男子寮。
消灯時間を過ぎても。
日向は眠らなかった。
同じ部屋の四人。
岳は既に布団へ入っている。
伊織は寝台の上で本を読んでいた。
奎星は枕へ寝転がり。
日向だけが。
窓際の椅子に座り。
もう何十分も頭を抱えている。
「どうしよう……」
奎星が寝返りを打つ。
「まだ言ってんの?」
「だって何人かに誘われてんだぞ!」
「朝からずっとそれじゃん」
「お前には分かんねえよ!」
「何が」
「断られたら終わりだろ!」
伊織が本から目を上げる。
「誘わないまま他の人に決まっても終わりだね」
日向が。
さらに頭を抱えた。
「やめろぉぉ……!」
「現実を言っただけだよ」
岳が布団の中から言う。
「明日誘えばいい」
「だから簡単に言うなって!」
「じゃあ誘わなきゃいい」
「それも嫌なんだよ!」
岳が。
布団から顔だけ出す。
「面倒だな」
「恋愛ってそういうもんなんだよ!」
「知らん」
岳は再び潜った。
数秒後。
「おやすみ」
「諦めんなよ!」
「眠い」
伊織も本を閉じた。
「僕も寝るよ」
「伊織!俺の人生かかってんだぞ!」
「朝比奈家の人生が星迎祭の舞踏会一回で決まるなら、かなり脆いね」
「そういう意味じゃねえ!」
伊織は眼鏡を外した。
「おやすみ」
「薄情者!」
灯りが一つ。
消える。
岳も既に寝息を立て始めている。
最後まで起きているのは。
奎星と。
日向。
「奎星」
「んー?」
「お前、本当に誰も誘わねえの?」
「うん」
「なんで?」
「踊れねえし」
「練習すりゃいいだろ」
「めんどい」
本当は。
少し違う。
舞踏会の時間。
もし約束通りなら。
奎星はスズメと。
あの古い観測塔から。
花火を見るつもりだった。
そのことを。
一瞬。
日向へ言おうとして。
やめる。
絶対。
面倒になる。
「お前はいいよなあ……」
日向が机へ突っ伏した。
「何が?」
「何も悩んでなさそうで」
「失礼だな。俺だって悩むぞ」
「何に?」
「明日の朝飯」
「幸せだなお前!」
「大事だろ」
やがて。
日向も諦めた。
布団へ入る。
「……明日考える」
「今日一日考えてたじゃん」
「うるせえ」
「楓取られんぞ」
「寝る前に言うな!!」
「おやすみ」
「最悪だ……」
それから。
しばらく。
部屋には。
四人分の寝息だけが残った。
*
真夜中。
南硫黄島の夜は。
静かだった。
昼間あれほど賑わっていた校舎も。
星迎祭の準備が進む校庭も。
今は眠っている。
寮の窓の向こうには。
黒い海。
遠く。
波の音。
四人部屋も。
完全に暗かった。
岳は布団を蹴飛ばしている。
伊織はきっちり毛布を胸まで掛けている。
日向は。
既に寝相が悪い。
そして奎星は。
枕へ顔を半分埋め。
完全に熟睡していた。
かたり。
小さな音がした。
窓。
鍵が。
ひとりでに動く。
ゆっくり。
窓が開いた。
夜の風が。
部屋へ入る。
薄いカーテンが。
僅かに揺れる。
その隙間から。
白い何かが。
飛んできた。
紙飛行機。
ふわ。
ふわ。
部屋の中を一周。
そして。
奎星の寝台へ。
近づく。
先端が。
頬を。
つん。
「…………」
反応なし。
つん。
「…………ん」
つん。
奎星の眉が寄る。
そして。
ばしっ!
寝ぼけたまま。
思い切り。
紙飛行機を叩き落とした。
床。
ぺしゃ。
静かになる。
「…………」
奎星は。
再び眠った。
十秒。
床に落ちていた紙飛行機が。
むくり。
と起き上がる。
折れた翼を。
自分で。
ぱたぱた。
直す。
そして。
再び。
飛んだ。
つん。
「…………」
つん。
「んだよ……」
つん。
「……うるせえ」
つん。
奎星の目が。
ゆっくり開いた。
目の前。
紙飛行機。
「…………」
寝ぼけた頭で。
数秒。
見つめ合う。
紙飛行機が。
もう一度。
頬へ突撃した。
「なんだよ、こいつ……!」
奎星は。
ぱしっ。
今度こそ。
掴んだ。
隣を見る。
岳。
寝ている。
伊織。
寝ている。
日向。
ものすごい方向を向いて寝ている。
「…………?」
奎星は上体を起こした。
手の中の紙飛行機を見る。
どこにでもありそうな。
白い紙。
ただ。
僅かに。
淡い青色の光が。
縁を走っている。
「なんだこれ」
小声で呟き。
折り目を開く。
紙の中央。
短い文字。
《外みろ》
「…………」
奎星の眉が寄った。
外?
半分眠ったまま。
窓へ視線を向ける。
いつの間にか。
少しだけ。
開いている。
奎星は寝台から降りた。
床を踏まないよう。
岳の脱ぎ捨てた服を避け。
日向の寝台から落ちている腕を跨ぎ。
窓際へ。
近づく。
カーテンを。
少し開いた。
夜の中庭。
月明かり。
星迎祭のために設置された星灯籠は、まだ消灯されている。
その静かな景色の中。
一人。
人影が立っていた。
白い制服。
月明かりを受けた。
長い黒髪。
「…………え?」
眠気が。
一気に飛んだ。
常盤澪が。
いた。
こちらを見上げている。
真夜中なのに。
星迎祭まで。
あと四日。