「…………え?」
眠気が、一瞬で吹き飛んだ。
男子寮の窓の下。月明かりの差す中庭に、常盤澪が立っている。
真夜中だった。消灯時間など、とっくに過ぎている。
奎星は慌てて窓をもう少し開けると、背後で眠っている三人を起こさないよう声を絞った。
「おい……! なんで外いんだよ!」
澪は下からこちらを見上げると、悪戯が成功した子どものように口元を吊り上げた。
「何?」
「何じゃねえよ。今何時だと思ってんだ!」
「へえ。噂の天才君も、校則破るのは怖いんだ?」
「は?」
「死の呪文は止められても、先生に怒られるのは怖いんだね」
明らかに煽っている。
奎星の眉がぴくりと跳ねた。
「……待ってろ!」
「え?」
「今行く!」
澪が吹き出した。
「単純」
「聞こえてんぞ!」
窓を閉めると、奎星は枕元へ放っていた羽織を掴んだ。寝巻きの上から雑に袖を通し、できるだけ音を立てないよう扉へ向かう。
途中、日向の寝台の横を通りかかったところで。
「……楓……」
寝言が聞こえた。
奎星の足が止まる。
日向はぐっすり眠ったまま、何やら幸せそうな顔をしていた。
「…………重症だな」
小さく呟き、そのままそっと部屋を出た。
*
夜のマホウトコロを歩くのは、不思議な感覚だった。
夜の校舎そのものが初めてというわけではない。一学期には古い観測塔へ向かったこともあれば、第零書庫を巡る騒動では夜更けまで校内を駆け回った。
けれど、今夜はそのどれとも違う。
事件が起きているわけでもなければ、誰かに追われているわけでもない。ただ、星迎祭を数日後に控えた学校が静かに眠っているだけだった。
昼間なら大勢の生徒が行き交う回廊の軒先には、作りかけの飾りがそのまま残されている。中庭には布を被せられた屋台が並び、壁際にはどこかの学級が作った大きな看板が立てかけられていた。海風が通るたび、紙で作られた星飾りがかさりと揺れる。
昨夜、試験点灯を行った星灯籠も今はほとんど光を失っていたが、魔力の残っているものがいくつかだけ、校庭のあちこちで呼吸するように淡く明滅していた。
祭りが始まる前の学校。
まだ何も起きていないのに、何かが始まることだけは分かっている。
そんな妙な空気があった。
「夜だと全然違うな」
奎星が周囲を見回しながら言うと、隣を歩いていた澪が横目を向けた。
「夜の学校、初めて?」
「こんな普通に歩くのは初めて。俺が夜に校内いるとき、大体なんかヤバいこと起きてるから」
「どんな学校生活送ってんの?」
「俺に聞くなよ。向こうから来るんだって」
「事件が?」
「うん」
「嫌な体質」
「俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて笑った。
羊脂玉の壁は月の光を柔らかく透かし、軒下の銀鈴が海風を受けて、ちりん、と遠慮がちに鳴る。
その向こうには黒い海。
さらに上には、昨夜の灯籠とは違う本物の星空が広がっていた。
少し肌寒くなってきた風に、奎星は羽織の前を押さえる。
「で?」
「何?」
「なんで呼んだの?」
澪は前を向いたまま答えた。
「ちょっと歩きたかったから」
「一人で歩けよ」
「女の子一人を真夜中に歩かせるの?」
「自分から出てきたんだろ!」
澪がくすくす笑う。
「冗談」
「お前、夜中に人起こしといてそれかよ……」
「紙飛行機を叩き落とした人に言われたくない」
奎星がぴたりと止まった。
「見てたの!?」
「私が飛ばしてるんだから分かるよ」
「一回叩き落としたから帰ったと思った」
「あれくらいで諦めるわけないでしょ。自分で折り目を直して戻る術式を入れといたの」
「しつこ!」
「全然起きない蓮根君が悪い」
「人間は夜寝るんだよ!」
そんな他愛のないことを言い合いながら、二人は校庭の端まで歩いた。
昼間なら下級課程の子どもたちが走り回っている場所にも、今は誰もいない。作りかけの屋台と消灯した星灯籠が月明かりの下に並び、遠くから波の音だけが聞こえてくる。
そこで、澪の歩調が少しだけ遅くなった。
「蓮根君」
「ん?」
「舞踏会の相手、決まった?」
朝から日向が延々と悩んでいた話題だった。
奎星は特に考えることもなく答える。
「俺? 決まってねえけど」
「そう」
「澪は?」
何気なく訊き返すと、澪は前を向いたまま髪を耳へ掛けた。
「私は結構誘われたよ」
「へえ」
「結構どころじゃないかも」
「自分で言うなよ」
「事実だから」
「学生総代だもんな」
「それ関係ある?」
「知らん」
「適当」
澪は笑った。
ところが、その笑みはすぐに消えた。
「でも、全部断った」
「……え?」
奎星は初めて、少し不思議そうに彼女を見る。
「なんで?」
今度は澪が足を止めた。
数歩先まで進んだ奎星も気づいて振り返る。
月明かりの下、白峰の白い制服が淡く浮かんで見えた。長い黒髪が海風に揺れ、その隙間から覗く澪の横顔には、普段のように人をからかう笑みがない。
真っ直ぐに、奎星を見ている。
「あなたを誘いたかったから」
「…………」
さすがの奎星も。
今度ばかりは、すぐに言葉が出なかった。
夜の風が二人の間を通り抜け、離れた回廊で銀の鈴が一度だけ鳴る。
澪も冗談へ逃げなかった。
いつもなら、奎星が固まった顔を見た時点で笑っていただろう。けれど今は、ほんの少し頬を赤くしながらも視線を逸らさない。
「舞踏会」
一度だけ息を整えた。
それから。
「私と一緒に踊って」
*
その少し前。
烏丸スズメは、魔法史研究室から教員宿舎へ戻る途中だった。
星迎祭まで数日。普段より仕事は格段に増えている。
日中は授業を行い、放課後には奎星の補習。そのあとも祭りで使用する史料展示の確認や、他校から訪れた教師へ配布する資料の整理が残っていた。
結局、研究室を出られたのは消灯時間を大きく過ぎてからだった。
「……少し遅くなっちゃった」
誰に言うでもなく呟きながら、静まり返った渡り廊下を歩いていく。
そのとき。
下の石畳を横切る二つの人影が目に入った。
こんな時間に生徒が二人。
スズメの眉が寄る。
星迎祭が近いからといって、夜間に自由に校内を歩いていいわけではない。当然、見つけた教師が注意しなければならない。
スズメは階段へ向かった。
しかし、月明かりの下を歩く二人の姿がはっきり見えたところで、足が止まった。
一人は白峰魔法学校の白い制服を着ている。
常盤澪。
そして、その隣。
寝巻きの上から慌てて羽織ったとしか思えない格好で歩いているのは、見間違えようもなかった。
「……蓮根君?」
思わず名前が漏れた。
もちろん、二人には届かない。
何かを話しながら、並んで歩いている。
声を掛ければいい。
――何をしているのです。消灯時間は過ぎていますよ。
それだけで済む。
教師としては、むしろそうするべきだった。
なのに、スズメはその場ですぐには動けなかった。
昼間の研究室で、自分から常盤澪の話を出した。
――最近仲のよろしい常盤さんも、かなりお綺麗な方ではありませんか?
なぜあんなことを訊いたのか。
今になって思えば、自分でもよく分からない。
それに対して奎星は、周囲の男子が騒いでいたことを思い出しただけで、特に澪の容姿を意識している様子はなかった。
そのことを。
なぜか。
少しだけ嬉しいと思った。
その直後。
――でもスズメちゃんも、すげえ美人だよね。
何の前触れもなく投げられた言葉まで思い出す。
肌が綺麗。
睫毛が長い。
目がくりくりしている。
具体的に言われたせいで、考えないようにしていたことまで思い出してしまった。
「…………」
何を考えているのですか。
自分へ言い聞かせる。
生徒が二人、校則を破っている。
注意すればいい。
それだけ。
スズメは今度こそ歩き出した。
けれど、距離が近づいたことで二人の会話が耳へ届いた。
「舞踏会の相手、決まった?」
スズメの足が止まった。
常盤澪の声だった。
聞いてはいけない。
教師が生徒同士の私的な会話を、本人たちに気づかれないまま聞くなど褒められたことではない。
分かっている。
それでも。
身体が動かなかった。
「俺? 決まってねえけど」
奎星の声が返ってくる。
胸の奥が、妙な形でざわついた。
澪は何人もの生徒に誘われているらしい。
そして。
全て断った。
奎星が理由を訊く。
短い沈黙。
「あなたを誘いたかったから」
スズメは息を止めた。
月明かりの向こうで、澪が奎星へ向き直る。
「舞踏会、私と一緒に踊って」
そこから先を。
スズメは聞けなかった。
踵を返した。
自分でも驚くほど早く、二人から離れていく。
本来なら二人とも叱らなければならない。
寮へ戻し、事情によっては担任へ報告する。
それが教師だ。
なのに。
できなかった。
返事を聞くのが。
怖かった。
「…………」
何が怖いのでしょう。
歩きながら自分へ問いかける。
常盤澪は、奎星より一つ年上なだけだ。
同じ学生。
容姿も整っている。
成績も優秀。
実技も高く評価され、白峰では学生総代を務めている。
何より。
奎星と一緒にいるとき、よく笑っている。
二人が並んで歩いても。
誰も不自然だとは思わない。
同じ学生なのだから。
むしろ自然だった。
舞踏会へ誘われて、奎星が断る理由など。
あるのだろうか。
そこまで考えて。
スズメはさらに歩調を速めた。
もう。
聞きたくなかった。
*
翌日の夕方。
魔法史研究室。
蓮根奎星は、机の向こうにいる烏丸スズメをじっと見ていた。
いつもの濃紺の教員衣。
いつもの顎で揃った黒髪。
いつもの赤い筆。
見た目だけなら、何も変わっていない。
ただし。
今日のスズメは。
明らかにおかしかった。
「スズメちゃん」
「何です?」
「それ」
奎星が指を差す。
「はい?」
「右手」
スズメが自分の右手を見る。
握っているのは羽ペン。
問題は。
その先端が、湯呑みの中へ深々と浸かっていることである。
「…………」
スズメもようやく気づいた。
湯呑みを見る。
羽ペンを見る。
もう一度、湯呑みを見る。
それから何事もなかったような顔で、ゆっくり羽ペンを抜いた。
先端から茶が、ぽたり、ぽたりと机へ落ちる。
奎星の眉が上がった。
「何してんの?」
「……少し間違えました」
「何と?」
「…………」
答えはなかった。
奎星は納得できない顔をしながらも、自分の答案へ視線を戻す。
すると。
今度は別の異変を見つけた。
「あれ?」
「何です?」
「ここ」
奎星が答案を持ち上げる。
「俺、これ合ってない?」
《慶応四年の魔法界における政体変化について――》
その問いに対する奎星の解答には、一度赤い丸がつけられていた。
そしてなぜか。
その丸の上から、さらに大きな赤いバツが重なっている。
「丸なの? バツなの?」
「…………」
スズメは答案を受け取った。
問題を読む。
奎星の回答を読む。
丸とバツを見る。
「……丸です」
「だよな!?」
奎星の顔が一気に明るくなった。
「俺合ってたじゃん!」
「はい。……すみません」
「え?」
奎星が少しだけ止まる。
普段なら、ここぞとばかりに茶化していたはずだった。
――スズメちゃんも間違えんじゃん!
――歴史に謝れ!
その程度のことは、平気で言う男である。
けれど今日は。
何も言わなかった。
少し心配そうに、スズメの顔を覗き込む。
「体調悪いんじゃないの?」
「問題ありません」
「あるだろ。さっきから変だって」
「ありません」
「でも――」
「私だって」
少しだけ強い声が出た。
奎星が止まった。
スズメ自身も、自分の声に驚いたようだった。
「……私だって、間違えることくらいあります」
研究室が静かになった。
奎星の顔から笑みが消える。
言い返さない。
不満そうな顔もしない。
ただ。
「……ごめん」
素直に謝った。
「心配しただけ」
その一言が。
今度はスズメの胸へ刺さった。
分かっている。
本気で心配してくれている。
だからこそ。
自分が嫌になった。
八つ当たりだった。
奎星は何もしていない。
常盤澪から舞踏会へ誘われたことすら、奎星の責任ではない。
それなのに昨夜から、考えたくもないことばかりが頭の中を巡っている。
常盤澪は、自分にはないものを全て持っているように見えた。
奎星とほとんど同じ年齢。
教師と生徒ではない。
人前で堂々と舞踏会へ誘うことができる。
一緒に歩いても。
笑い合っても。
触れても。
隣に立っても。
誰もおかしいとは思わない。
そして仮に。
奎星が澪を選んだとしても。
それは誰から見ても、ごく自然なことなのだ。
自分には。
できない。
――舞踏会、私と一緒に踊って。
昨夜の声が、また耳の奥で蘇る。
大体。
なぜ自分が。
こんなことで。
「……大体」
気づけば、声に出ていた。
奎星が顔を上げる。
「え?」
一度口から出てしまった言葉は、止まらなかった。
「大体、あなたこそ昨晩、間違いを犯したではありませんか」
奎星が完全にきょとんとする。
「なんの話?」
「消灯時間を過ぎてから、寮の外へ出ていましたね」
「…………」
一秒。
二秒。
奎星が椅子から浮き上がりそうな勢いで身を乗り出した。
「なんで知ってんの!?」
スズメは一瞬だけ視線を逸らす。
「……生徒から聞きました」
嘘だった。
教師になってから、生徒相手にこんな嘘をついた記憶はほとんどない。
「誰だよ! 告げ口したの!」
奎星は本気で周囲を疑い始める。
「日向じゃねえな。あいつ爆睡してたし……伊織? いや、岳はもっと寝てたし……」
スズメは少しだけ罪悪感を覚えた。
やがて奎星は犯人探しを諦めたらしく、頭を掻いた。
「まあ……それは、ごめん」
「…………」
「別に悪いことしてたわけじゃないんだけど」
その言葉に。
スズメの指が止まった。
訊かなければいい。
訊く必要などない。
分かっているのに。
「……何をしていたのですか」
「ん?」
「昨晩です」
「ああ」
奎星は何でもないことのように答えた。
「澪に呼ばれた」
胸が一度、大きく鳴った。
「紙飛行機飛んできてさ。最初ぶっ叩いたんだけど、勝手に直ってまた飛んできて」
「……そうですか」
「そんで外見たら澪がいたから降りてって。ちょっと学校歩いてたら――」
奎星は課題の余白へ意味もなく鉛筆で線を引きながら続ける。
「舞踏会、一緒に出てって言われた」
「…………そうですか」
自分でも驚くほど。
普通の声が出た。
「うん」
それで。
話は終わった。
奎星はあっさり課題へ戻り、鉛筆を動かし始める。
かり。
かり。
研究室に、その音だけが響く。
スズメは動けなかった。
聞きたい。
返事を。
何と答えたのか。
けれど、訊く理由がない。
生徒の恋愛事情へ教師がそこまで踏み込む理由など、どこにもない。
それに。
答えなど分かりきっている。
常盤澪は綺麗だ。
成績も良い。
決闘も強い。
奎星と一緒にいると楽しそうだった。
何より。
同年代だ。
断る理由など――。
一行目を読む。
頭へ入らない。
もう一度読む。
気づけば、また同じ一行目を追っている。
向かいでは奎星が普通に課題をしていた。
何も言わない。
その沈黙に耐えられなくなったのは。
スズメのほうだった。
「……返事は」
奎星が顔を上げる。
「え?」
「常盤さんへの返事は……したのですか?」
自分でも分かるほど声が小さかった。
奎星は何の疑問も持たず頷く。
「うん」
スズメの手に、無意識に力が入る。
「……なんと?」
「断ったよ?」
「え?」
声が。
素で出た。
奎星が瞬きをする。
「うん。断った」
「…………」
聞き間違いではなかった。
冗談を言っている顔でもない。
「……そうですか」
どうにか平静な声を作り、スズメは赤い筆を持ち直した。
「まあ、それは……あなたの自由ですから」
「うん」
「常盤さんは、その……容姿も整っていますし、成績も優秀で、白峰では学生総代まで務めている方でしょう。お話も合っているようでしたし」
「うん」
「それなのに、なぜ……」
最後だけ。
声が少し弱くなった。
奎星は本当に不思議そうな顔をした。
「スズメちゃんと花火見たいから」
「…………」
今度こそ。
研究室の時間が止まったように感じた。
奎星だけは。
自分が何か特別なことを言ったとは思っていない。
「舞踏会って夜だろ? 澪と踊ってたら花火見に行けないじゃん」
「……私は」
スズメはようやく声を出した。
「私は、『時間があれば』と言っただけです」
「うん」
「当日になって、仕事が入るかもしれません」
「知ってるよ」
「そうなれば、行けないかもしれませんよ」
「まあ、そんときはしゃーないけど」
奎星は鉛筆を指先でくるりと回した。
「でもさ。行けるってなったときに、俺が舞踏会行ってたら困るじゃん」
「…………」
「せっかくスズメちゃんと花火見れるかもしれないのに」
それだけだった。
計算も。
駆け引きも。
裏の意味も。
何もない。
以前交わした約束がある。
だから、その時間を空けておく。
奎星にとっては、本当にそれだけのことなのだろう。
だからこそ。
スズメには。
どうしようもなかった。
「…………っ」
頬が一気に熱くなった。
自分でも分かる。
顔が赤い。
常盤澪の誘いを。
断った。
自分との、確実ですらない約束のために。
同年代の綺麗な少女から舞踏会へ誘われて。
それでも。
こちらを選んだ。
――違う。
すぐに自分を止める。
自分を選んだのではない。
約束を選んだだけ。
奎星にはそんな意図はない。
ただ一度交わした言葉を、当たり前のように守ろうとしているだけだ。
分かっている。
全部。
分かっているのに。
嬉しかった。
どうしようもなく。
そのことが。
何より怖かった。
「スズメちゃん?」
奎星がこちらを覗き込む。
「顔赤くない?」
「赤くありません」
「いや、めっちゃ赤いって」
「赤くありません」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
奎星は机を見る。
湯呑みを見る。
そして真顔になった。
「大丈夫な奴は湯呑みに羽ペン刺さねえって」
「それは……少し考え事をしていただけです」
「熱でもあんじゃねえの?」
「ありません」
「でも顔熱そうじゃん。ちょっとじっとして」
「え?」
奎星の右手が伸びた。
スズメが反応するより先に。
その掌が。
額へ触れた。
「…………」
温かい。
右手だった。
一学期。
第零書庫。
久我朔弥の杖から放たれた、毒々しい緑の閃光。
自分が。
逃げて。
今すぐ逃げてください。
そう叫んだのに。
奎星は逃げなかった。
杖さえ持っていなかった。
自分のすぐ後ろにスズメがいることを知って。
ただ右手を差し出した。
そして。
その掌から溢れた青白い光が。
死の呪文そのものを。
消した。
あの直後。
自分の右手を呆然と見ていた少年の顔を、スズメは今でもはっきり覚えている。
それだけではない。
夏休み。
鬼火鳥を巡る戦い。
自分へ向けて放たれたセクタムセンプラに、スズメは気づかなかった。
奎星だけが気づいた。
考えるより先に。
自分を突き飛ばした。
そして代わりに。
自分の身体を。
そこへ入れた。
青白い刃に胸を裂かれた。
肩。
腕。
脇腹。
背中。
次々と深い傷が開いて。
何度治癒魔法を掛けても傷は再び裂け、身体の下へ血溜まりが広がっていった。
息も弱くなって。
本当に。
死にかけた。
あのとき。
帰りの車内で。
自分は言った。
――私だって、あなたがいなくなるのは嫌です。
あれから。
まだ。
それほど経っていない。
二度も。
自分を守った少年。
その右手が今は。
何の危険もない研究室で。
ただ熱を確かめるためだけに。
自分の額へ触れている。
「熱い気するけど……」
奎星は真剣な顔で心配していた。
それだけ。
分かっている。
きっと相手が日向でも。
楓でも。
岳でも。
伊織でも。
昨夜の下級課程の子でも。
同じように手を伸ばす。
奎星はそういう人間だ。
自分だけが。
特別なわけではない。
なのに。
「…………」
離さないでほしい。
一瞬。
そう思ってしまった。
その瞬間。
スズメの中で。
何かが限界を越えた。
駄目だ。
これ以上。
触れられてはいけない。
嬉しいなどと思ってはいけない。
この手を離してほしくないなど。
絶対に。
思ってはいけない。
「やめてください」
反射的に身体を引いた。
奎星の掌から。
逃げるように。
一歩。
距離を取る。
「…………」
研究室から音が消えた。
奎星の右手だけが。
行き場を失って空中へ残る。
一秒。
二秒。
やがて。
ゆっくり下ろされた。
「……ごめん」
その顔を見た瞬間。
スズメの胸が強く締めつけられた。
傷ついている。
ほんの少し。
けれど。
はっきり分かった。
さっきまで本気で自分を心配していた少年の顔から、笑顔が消えている。
違う。
触れられることが嫌だったわけではない。
むしろ。
逆だった。
嬉しくなってしまった。
近すぎて。
自分の気持ちが見えてしまいそうで。
怖くなったから。
逃げただけ。
そう言えばいい。
「蓮根君」
「…………」
けれど。
その先が続かない。
何と説明すればいい。
あなたに触れられて嬉しかったのです。
だから離れました。
そんなことを。
教師が。
生徒へ。
言えるはずがない。
奎星は一度だけ自分の右手を見たあと、何でもないように教科書へ戻ろうとした。
けれど。
その動きは明らかに。
いつもよりぎこちなかった。
「……続き、やる?」
訊き方まで。
少し遠慮している。
また。
胸が痛んだ。
「今日は……」
スズメは赤い筆を机へ置いた。
「今日の補習は、ここまでにしましょう」
奎星が顔を上げた。
「え?」
「私も……少し疲れているようです」
「…………」
「すみません」
奎星はしばらくスズメを見ていた。
普段なら。
――マジ? じゃ帰る!
とでも言って喜んだはずなのに。
今日は言わなかった。
「……分かった」
小さく答える。
教科書を閉じ。
ノートを重ね。
筆箱を鞄へ入れる。
一つずつ片づけていく音が、妙に大きく聞こえた。
やがて奎星は鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ……また明日」
「…………はい」
「ちゃんと休んでね」
最後まで。
心配していた。
それだけ言うと、奎星は扉へ向かった。
スズメの足が。
一歩だけ動きかける。
呼び止めればいい。
違います。
嫌だったわけではありません。
今なら、まだ言える。
けれど。
「…………」
声は出なかった。
扉が開く。
奎星は一度だけ振り返った。
スズメを見る。
それから。
いつもより少しだけ控えめに手を上げた。
「またね」
「……はい」
扉が閉じた。
足音が、回廊の向こうへ遠ざかっていく。
スズメはしばらく動けなかった。
追いかけることはできた。
ほんの数歩。
走れば。
まだ間に合う。
それなのに。
できなかった。
やがて研究室には完全な静寂が戻った。
机の上には途中の課題。
赤い筆。
そして。
茶で濡れた羽ペンと。
すっかり冷めてしまった湯呑み。
スズメはゆっくり椅子へ腰を下ろした。
それから。
自分の額へ。
そっと手を触れる。
もうそこに。
奎星の右手はない。
それでも。
温かさだけが。
まだ残っているような気がした。
「……何をしているのでしょう」
誰も答えない。
常盤澪には。
奎星を舞踏会へ誘うことができる。
自分には。
できない。
常盤澪なら。
奎星の隣へ立っても。
誰もおかしいと思わない。
自分は教師。
奎星は生徒。
分かっている。
最初から。
分かっていたはずだった。
なのに。
澪からの誘いを。
奎星が断ったと知った瞬間。
あれほど嬉しかった。
自分との。
ほんの小さな約束を。
忘れずにいてくれたことが。
嬉しかった。
自分との時間を。
空けておいてくれたことが。
嬉しかった。
そして。
触れられたことまで。
嬉しくなってしまった。
だから。
怖くなった。
「…………」
窓の外。
星迎祭へ向けて設置された星灯籠が、夕暮れの中で一つだけ淡く光っていた。
祭りまで。
あと三日。