マホウトコロ   作:西野圭吾

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第7話 勇気の使い方

 

それでも、日常は戻ってくる。

 

どれほど気まずいことがあっても、どれほど一人で考え込んでも、学校は誰かの心の整理がつくまで待ってはくれない。

 

星迎祭まで、あと二日。

 

この日から通常授業はすべて休講となり、マホウトコロ全体が祭りの準備へ切り替わっていた。朝から校舎のあちこちを生徒や教師が行き交い、長机や屋台を運ぶ小妖たちの声が響いている。空では飛行部の生徒たちが箒に乗って装飾用の旗を張り、回廊では下級課程の子どもたちが星灯籠を抱えて走り回っていた。

 

白峰魔法学校から来ている生徒たちも作業へ加わり、いつもの学校が、少しずつ《星迎祭のための場所》へと姿を変えていく。

 

当然、二年二組も朝から大忙しだった。

 

「奎星!」

 

教室の中央で、楓の怒声が響いた。

 

「何!?」

 

「何じゃない! その星、誰がそんな向きにつけろって言ったの!」

 

脚立の一番上に立っていた奎星は、自分が取りつけた巨大な金色の星飾りを見上げた。確かに上下が逆になっているようにも見えるが、本人はまったく納得していない。

 

「星に上下なくね?」

 

「あるわよ!」

 

「でも宇宙空間なら上下なんて――」

 

「ここ教室!!」

 

下で看板を調整していた日向が、腹を抱えて笑い出した。

 

「お前、絶対分かっててやってるだろ!」

 

「いや、こっちのほうが格好よくね?」

 

「戻しなさい!」

 

「芸術への冒涜だ!」

 

「誰が芸術家よ!」

 

その横では、岳が試食用に置かれていた菓子へそっと手を伸ばしていた。しかし指先が触れる直前、伊織が無言でその手首を掴む。

 

「離せ」

 

「駄目だよ」

 

「一個だけ」

 

「さっきも一個だったよ」

 

「今のは二回目の一個」

 

「算数を破壊しないで」

 

さらに教室の入口からは、昨日からすっかり奎星へ懐いた下級課程の生徒たちが何人も顔を覗かせていた。

 

「奎星先輩!」

 

脚立の上から奎星が振り返る。

 

「何ー?」

 

「モンジャが名札なくした!」

 

「俺に言うこと!?」

 

「奎星先輩から始まったんでしょ!」

 

「俺が始めたの天ぷらだけだって!」

 

「じゃあ新しいの書いて!」

 

「あとでな!」

 

「絶対だよ!」

 

「忘れてたら言え!」

 

「忘れる前提なの!?」

 

わあわあと笑いながら、下級生たちはまた廊下を走っていく。

 

その背中を見送り、楓は呆れたように奎星を見上げた。

 

「いつの間に、あんなに懐かれたのよ」

 

「知らん。昨日からめっちゃ来る」

 

「あなたがいちいち相手するからでしょ」

 

「来たの無視すんのも可哀想じゃん」

 

奎星は本当にそれだけのことだと思っているらしく、何事もなかったように星飾りへ向き直った。

 

いつも通りだった。

 

少なくとも、傍から見れば。

 

 

昼前になると、二年二組の作業場所は校庭へ移った。

 

魔法喫茶の外装に使う木材や幕を運び、当日店先へ出す看板を組み立てていく。奎星は日向と一緒に長い木材を肩へ担いでいたが、途中からわざと左右へ振り始め、後ろを歩く岳へぶつけようとした。

 

当然、楓が見逃すはずがない。

 

「真面目に運びなさい!」

 

「ちゃんと運んでるって!」

 

「今、岳にぶつけようとしてたでしょう!」

 

「岳なら大丈夫!」

 

「基準そこ!?」

 

後ろから岳が平然と言う。

 

「俺も大丈夫」

 

「ほら!」

 

「本人がいいって言えばいい問題じゃない!」

 

そんな二年二組のやり取りを、近くで作業していた白峰の生徒たちが笑いながら見ていた。

 

その中には澪もいた。白峰側の準備状況を確認していたらしく、腕には何枚もの書類を抱えている。

 

奎星がすぐに気づいた。

 

「澪!」

 

「何?」

 

「これ持って!」

 

「嫌」

 

「即答!?」

 

「昨日から何回、私を荷物持ちにすれば気が済むの?」

 

「学生総代って暇だろ?」

 

澪は抱えている書類をわざとらしく持ち上げた。

 

「今これ見えてない?」

 

「紙じゃん」

 

「紙を舐めるな!」

 

一昨日、澪は奎星を舞踏会へ誘い、そして断られた。

 

けれど、そんな出来事があった二人にはまるで見えなかった。

 

澪は以前と変わらず奎星をからかい、奎星も遠慮なく言い返す。少し前には、下級課程の生徒から預かった星灯籠を奎星が頭へ被り、澪が「馬鹿じゃないの」と笑いながら記録用の写真術式を向けていたほどだった。

 

日向も、楓も、岳も、伊織も、澪も。

 

みんな昨日までと変わらない。

 

一人だけ。

 

違った。

 

「蓮根君」

 

その声に、奎星の動きが止まった。

 

少し離れた回廊を、資料の束を抱えたスズメが歩いている。

 

「……あ」

 

普段なら、何も考えず「スズメちゃん!」と声を上げて手を振っただろう。相手が忙しそうにしていても勝手に近づき、どうでもいい話を一つ二つ始めていた。

 

今日は、それができなかった。

 

「……お疲れ」

 

ようやく出てきたのは、自分でも違和感を覚えるほど無難な一言だった。

 

スズメも僅かに足を止める。

 

「……はい。蓮根君も」

 

それだけだった。

 

「準備、頑張ってください」

 

「うん」

 

「では」

 

スズメは再び歩き出した。

 

奎星も追いかけなかった。

 

ほんの数秒のやり取りである。日向は木材の向きを直し、楓は下級生へ指示を出し、岳はいつの間にか手に入れた饅頭を食べ、伊織は作業表へ何かを書き込んでいる。

 

誰も気にしていない。

 

ただ。

 

少し離れた場所にいた澪だけが、奎星を見ていた。

 

ついさっきまで下級課程の子どもたちと馬鹿みたいに笑っていた少年が、遠ざかっていくスズメの背中をいつまでも目で追っている。

 

その顔には、笑みがなかった。

 

 

午後。

 

日差しが強くなってきた頃、奎星は校庭の端にある大きな木の陰へ逃げ込んでいた。

 

別に仕事を放棄したわけではない。午前中から木材を運び、看板を吊り、魔法喫茶の外壁へ飾りをつけ、頼まれてもいないのに下級課程の星灯籠まで手伝ったのだ。

 

さすがに疲れた。

 

太い幹へ背中を預けて座り込み、片膝を立てる。少し離れた場所では、日向が屋台の屋根へ上がって楓に何か怒鳴られており、岳は一人で三人分ほどの荷物を運んでいた。伊織は教師と一緒に配置図を確認している。

 

白峰の生徒たちも作業を続けていた。

 

さらにその向こう。

 

教師たちの輪の中に、スズメがいる。

 

奎星は何となくそちらを見た。

 

すぐに。

 

目を逸らした。

 

「何悩んでるのよ」

 

「うおっ!」

 

真横から声がして、奎星の肩が跳ねた。

 

いつの間に来たのか、澪が立っていた。朝から抱えていた書類も今はない。

 

「何も悩んでねえよ」

 

「嘘」

 

「ほんとだって」

 

「じゃあ、その顔何?」

 

「普通だけど」

 

「笑い方が下手くそ」

 

奎星が黙る。

 

澪はその隣へ腰を下ろした。肩が触れるほどではないが、普通に会話をするには十分近い。

 

「今日ずっとそう」

 

しばらく黙っていた奎星は、やがて小さく笑った。

 

「……分かる?」

 

「ええ」

 

「マジかあ」

 

「私、学生総代だから人を見るの得意なの」

 

「関係あんの?」

 

「ない」

 

「なんだよ!」

 

澪が笑う。

 

けれど、すぐに奎星へ向き直った。

 

今度は、からかう顔ではなかった。

 

「で、何があったの?」

 

奎星は答えなかった。

 

校庭を眺めながらしばらく迷った末、ようやく口を開く。

 

「なあ、澪」

 

「何?」

 

「仮にだぞ?」

 

「うん」

 

「澪が先生だったとしてさ」

 

澪の眉が少し動く。

 

「うん」

 

「毎日、生徒に『澪ちゃん』って呼ばれて」

 

「うざ」

 

「まだ最後まで聞けよ!」

 

「はいはい」

 

「勝手に研究室へ来られて、しつこく話しかけられて、補習なのに全然勉強しないで飯の話ばっかされて。それで……距離も近くて」

 

奎星は少し言い淀んだ。

 

「勝手に額とか触られたら」

 

澪が、ゆっくり奎星を見る。

 

「…………烏丸先生でしょ」

 

「…………」

 

「分かりやす」

 

「まだ何も言ってねえじゃん!」

 

「そこまで具体的に言っておいて、他に誰がいるのよ」

 

奎星は両手で頭を抱えた。

 

「くそ……」

 

澪は少し考え、それからあっさり言った。

 

「まあ、そりゃうざいでしょ」

 

「だよなあああ……」

 

奎星はそのまま木の幹へ後頭部を預け、完全に落ち込んだ顔で空を見上げた。

 

「やっぱそうだよな。俺、毎日研究室行くし、スズメちゃんって呼ぶし、何百回も『烏丸先生です』って訂正されてんのに一回も直してねえし……」

 

「自覚あるなら直しなさいよ」

 

「いや、でも今さら『烏丸先生』って呼ぶのも変じゃん」

 

「知らないよ」

 

「しかも昨日さ、ちょっと体調悪そうだったから熱見ようとしたら、すげえ避けられて」

 

そこで声が少しだけ小さくなった。

 

「……多分、嫌だったんだと思う」

 

澪は何も言わなかった。

 

奎星は立てた膝の上に腕を乗せる。

 

「俺さ。ずっと普通にああやってたから……勝手に、大丈夫だと思ってたんだよ」

 

風が吹き、頭上で木の葉がざわめいた。少し離れた場所では祭りの準備が続いているはずなのに、その喧騒が妙に遠く感じられた。

 

やがて澪が訊く。

 

「ねえ」

 

「ん?」

 

「あんたにとって、烏丸先生って何なの?」

 

奎星が止まった。

 

「俺にとって?」

 

「そう」

 

先生。

 

そう答えるだけなら簡単だった。

 

魔法史の教師。

 

自分の補習担当。

 

二十一歳で、妙に小さくて、真面目で、水羊羹が好きで、何百回訂正しても「スズメちゃん」と呼ばせてくれない人。

 

それだけなら。

 

簡単だった。

 

けれど。

 

どう考えても、それだけではなかった。

 

「スズメちゃんは……」

 

口を開いたものの、言葉が続かない。

 

その代わりに、最初の記憶が浮かんだ。

 

東京の自室。

 

十七歳になった翌日の深夜。

 

突然おかしな力が使えるようになった自分の前へ、一羽の鴉が手紙を咥えて現れた。

 

そして。

 

食おうとした。

 

「…………」

 

思い出して、奎星の口元が少し緩む。

 

「何?」

 

「いや……初対面のとき、俺スズメちゃん食おうとしたなって」

 

「何それ」

 

「鴉だったから」

 

「余計分かんないんだけど」

 

奎星は少し笑った。

 

けれど、あの夜だった。

 

昨日まで普通の高校生だった自分に、「あなたは魔法使いです」と告げた人。

 

勝手に動く物にも、浮かぶ机にも、自分の中で暴れ始めた力にも、一つずつ名前をつけてくれた人。

 

マホウトコロという場所の存在を教え、何も知らなかった自分を魔法界へ連れてきた人。

 

学校へ来てからの最初の二週間、奎星は他の生徒と一緒に授業へ出ることさえ許されなかった。魔力が強すぎて、まともに制御することができなかったからだ。

 

朝になれば扉が開く。

 

――起きてください。

 

寝ていれば鍵を開けてまで入ってくる。

 

食事を運び、魔法を教え、教科書を持ってくる。奎星が質問をすれば、大抵は面倒そうな顔をしながら、それでも最後には答えてくれた。

 

一人で食べるはずだった夕食も、奎星が無理やり引き留めれば、深いため息をつきながら結局は一緒に食べてくれた。

 

窓の外では、他の生徒たちが笑っていた。

 

自分はまだ、その中へ行けなかった。

 

あの二週間、一番近くにいたのはスズメだった。

 

「……俺を魔法界に連れてきてくれた人」

 

奎星がぽつりと言った。

 

澪は黙って聞いている。

 

「最初に魔法教えてくれた人でもある。俺、最初はみんなと授業出れなかったからさ。二週間くらい、ほとんどスズメちゃんと練習してた」

 

それから、やっと二年二組へ入った。

 

日向。

 

楓。

 

岳。

 

伊織。

 

初めて魔法界で友達ができた。

 

学校が一気に楽しくなった。

 

その日の夕方、自分は何をしたか、誰と何を話したか、飛行術で梁に激突したことまで、全部スズメに話した。

 

今考えれば。

 

あれも少し不思議だった。

 

友達ができたのに。

 

その友達との出来事を、真っ先に聞いてほしかった相手が教師だった。

 

そして。

 

日向を傷つけた。

 

決闘で魔法を制御できず、楓へ向けたはずの一撃が暴走し、日向を吹き飛ばした。

 

怖くなった。

 

あれほど気に入っていた神代榊に触れることさえ、嫌になった。

 

誰とも話したくなくて、一人で学校の裏手を歩いていた。

 

そんなとき。

 

スズメが来た。

 

――悩むのであれば、もう少し景色の良いところで悩みませんか。

 

連れていかれたのは。

 

古い観測塔だった。

 

誰にも教えていなかった、スズメの秘密の場所。

 

あそこで無理に励まされたわけではない。

 

「大丈夫です」とも。

 

「あなたは悪くありません」とも。

 

簡単な慰めは言われなかった。

 

ただ隣にいて、話をした。

 

そして帰るとき。

 

奎星は怖くて捨てようとまで思っていた杖を、もう一度自分の腰へ戻した。

 

塔を下りるとき、スズメは少しだけ歩く速度を落としていた。

 

自分が追いつけるくらいに。

 

「……俺、自分の魔法がめちゃくちゃ怖くなったことあってさ」

 

奎星はゆっくりと言葉を探す。

 

「そのときも、秘密の場所に連れてってくれた」

 

澪が僅かに眉を上げた。

 

「秘密の場所?」

 

「うん」

 

奎星は少しだけ笑う。

 

「あそこは内緒」

 

「……そう」

 

それから。

 

第零書庫。

 

スズメが捕まった。

 

助けに行った。

 

今なら分かる。

 

一人で行くべきではなかった。

 

御影たちへ知らせるべきだった。

 

けれど、あのときはそんな選択肢など本当に浮かばなかった。

 

スズメが傷つけられている。

 

なら。

 

行く。

 

それだけだった。

 

久我に杖を捨てろと言われた。

 

捨てた。

 

何でも言うことを聞くから、もう傷つけるなと頭を下げた。

 

そして。

 

緑色の閃光。

 

死の呪文。

 

杖はなかった。

 

避ければ、後ろにいるスズメへ当たる。

 

だったら。

 

避けない。

 

奎星は自分の右手へ目を落とした。

 

何の変哲もない、十七歳の少年の手。

 

あのときは。

 

その掌を死の呪文へ向けた。

 

考えたわけではない。

 

ただ、身体が先に動いた。

 

夏休みも同じだった。

 

黒曜の狩人たちとの戦い。崩れていく結界の中で、スズメだけが自分へ向けられた杖に気づいていなかった。

 

知らない呪文だった。

 

けれど。

 

見た瞬間に、駄目だと思った。

 

叫ぶより。

 

プロテゴを使うより。

 

先に身体が動いた。

 

スズメを突き飛ばし。

 

自分がその場所へ入った。

 

青白い刃が身体を走り、胸、肩、腕、脇腹、背中を次々と切り裂いた。

 

後から聞けば。

 

本当に死にかけていたらしい。

 

けれど、あの瞬間は自分がどうなるかなど考えていなかった。

 

「……俺さ」

 

奎星の声が少しだけ低くなる。

 

「スズメちゃんが危ないと、考える前に動いちゃうんだよな」

 

澪は何も言わなかった。

 

「一学期もそうだったし、夏休みも」

 

もう一度、自分の右手を見る。

 

第零書庫で死の呪文を消したのも。

 

昨日、スズメの額へ伸ばしたのも。

 

同じ右手だった。

 

そして、さらに思い出す。

 

夏休み。

 

傷が癒えたあとの帰りの馬車。

 

眠っているふりをしていた自分の耳へ届いた声。

 

――私だって、あなたがいなくなるのは嫌です。

 

ちゃんと聞こえていた。

 

あの言葉は。

 

ずっと残っていた。

 

だから。

 

自分は勝手に思っていたのかもしれない。

 

「俺にとってスズメちゃんは……」

 

奎星はもう一度、言葉を探した。

 

先生。

 

友達。

 

恩人。

 

姉のような人。

 

家族に近い何か。

 

どれも少しずつ合っている。

 

けれど、どれか一つでは足りない。

 

「……特別だと思ってた」

 

澪の瞳が僅かに揺れた。

 

奎星は気づかない。

 

校庭の向こうを見たまま続ける。

 

「俺にとって、すごく……大切な人」

 

口に出してから。

 

自分自身が少し驚いた。

 

思っていた以上に。

 

重い言葉だった。

 

それでも。

 

間違っているとは思わなかった。

 

「何の特別なのかは、分かんねえけど」

 

恋なのか。

 

そう訊かれても、まだ分からない。

 

好きか嫌いかで言えば。

 

好きに決まっている。

 

けれど、それが日向が楓へ向けているものと同じなのか、それとも別のものなのか。

 

奎星にはまだ区別がつかなかった。

 

魔法界へ連れてきてくれた恩。

 

毎日顔を合わせてきた愛着。

 

初めて魔法を教わった信頼。

 

家族のようでもあり。

 

友達のようでもあり。

 

姉のようでもある。

 

けれど。

 

そのどれとも少し違う気もする。

 

ただ一つだけ。

 

はっきりしていた。

 

いなくなったら嫌だ。

 

自分の世界から。

 

スズメがいなくなることだけは。

 

想像したくない。

 

「スズメちゃんもさ」

 

奎星は膝へ腕を乗せた。

 

「俺のこと、そう思ってくれてると思ってた」

 

澪は横顔を見る。

 

「同じじゃなくてもいいんだよ。せめて他の生徒よりは……ちょっと特別なんじゃねえかなって」

 

笑おうとした。

 

でも。

 

やはり少し下手だった。

 

「でも、違ったのかも」

 

昨日の研究室。

 

額へ触れようとした自分の右手から。

 

スズメは身体を引いた。

 

――やめてください。

 

あの声だけが。

 

何度も頭の中へ戻ってくる。

 

「俺が勝手に距離近くしてさ。ただ先生だから相手してくれてただけなのに、それを俺が勘違いしてたのかもしれない」

 

澪はしばらく黙っていた。

 

安易な慰めは。

 

言わなかった。

 

「知らないよ、そんなの」

 

「え?」

 

奎星が顔を上げる。

 

澪は呆れたような顔をしていた。

 

「私、烏丸先生じゃないし」

 

「いや、そうだけど」

 

「本人に聞いてないんでしょ?」

 

「……聞けるわけないじゃん」

 

「なんで?」

 

「なんでって……怖いだろ」

 

澪の眉が上がった。

 

「私の誘い断った人が何言ってんの」

 

「それとこれとは――」

 

「舞踏会に誘うほうが、よっぽど勇気いるわよ。間抜け」

 

「間抜け言うな!」

 

ようやく奎星がいつもの調子で言い返す。

 

澪は鼻で笑った。

 

「しかも私、一応あんたのこと好きだったんだけど?」

 

「だった?」

 

「そこ拾う!?」

 

「いや、今過去形だったから!」

 

「うるさい!」

 

澪が奎星の肩を軽く叩いた。

 

「痛っ!」

 

「大体ね。私にあれだけ長々と烏丸先生がどれだけ大事か語っておいて、最後に『俺って嫌われてるかな』みたいな顔されても困るのよ」

 

「いや、聞いてねえし!」

 

「聞いてるのと同じ!」

 

「じゃあ何て言えばいいんだよ」

 

「知らない」

 

「冷た!」

 

「慰めてもらえると思った?」

 

「ちょっと」

 

「甘えるな」

 

澪は立ち上がり、制服についた草を軽く払った。

 

奎星が見上げる。

 

「結局どうすりゃいいんだよ」

 

「だから本人に聞けば?」

 

「無理だって」

 

「じゃあ、そのまま勝手に悩んでれば?」

 

「ひど!」

 

澪は数歩進んだところで足を止め、振り返った。

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

「相手がどう思ってるかなんて、どれだけ人を見るのが上手くても分かんないよ」

 

奎星が黙った。

 

澪の左足の癖は見抜けた。

 

迷子になった湊の足跡も見つけた。

 

痛めていた足にも気づいた。

 

相手の肩。

 

視線。

 

呼吸。

 

歩き方。

 

そういうものを見る力は。

 

少しずつ身についてきた。

 

けれど。

 

「そういうのだけは、ちゃんと聞かなきゃ分かんないでしょ」

 

「…………」

 

「じゃ、私仕事戻るから」

 

「待って」

 

「何?」

 

「結構いいこと言ったな」

 

澪の眉が動く。

 

「今ので全部台無し」

 

「褒めたじゃん!」

 

「馬鹿」

 

澪は背を向ける。

 

少し歩いてから。

 

今度は振り返らないまま言った。

 

「あと」

 

「ん?」

 

「私が先生だったら、毎日『澪ちゃん』って呼んで研究室に入り浸る生徒は普通にうざい」

 

「やっぱうざいんじゃん!!」

 

遠ざかる澪の笑い声だけが返ってきた。

 

「くっそぉ……」

 

一人になった木陰で、奎星はもう一度頭を抱えた。

 

けれど。

 

さっきまでより。

 

ほんの少しだけ。

 

顔は上を向いていた。

 

 

夕食時の大食堂は、星迎祭直前らしく準備の話で持ちきりだった。

 

奎星たち五人もようやく一日の作業から解放され、いつもの卓を囲んでいる。

 

ただし。

 

今夜は二人の男が妙に静かだった。

 

一人は奎星。

 

もう一人は。

 

「…………」

 

日向。

 

箸を持ったまま、さっきからほとんど食事が進んでいない。

 

奎星が見る。

 

日向も奎星を見る。

 

数秒。

 

二人は同時に目を逸らした。

 

伊織がそんな二人を交互に眺める。

 

「面倒な空気だね」

 

岳だけは、いつもと何一つ変わらず食べ続けていた。

 

「奎星は分からん。日向は楓だろ」

 

日向の箸が落ちた。

 

「お前、急に鋭くなるなよ!」

 

岳は平然としている。

 

「ずっとその話してるからな」

 

「岳にまでバレた……」

 

奎星が呆れる。

 

「いや、お前は前からみんなにバレてるって」

 

楓が眉を寄せた。

 

「何の話?」

 

「何でもない!」

 

日向の声が裏返る。

 

楓は怪訝そうに彼を見た。

 

「今日ずっと変じゃない?」

 

「変じゃねえよ!」

 

「ならちゃんと食べなさいよ。全然減ってないじゃない」

 

「食ってる!」

 

「どこが?」

 

「これから減る!」

 

日向は勢いよく白米を口へ詰め込んだ。

 

そして。

 

むせた。

 

「馬鹿なの?」

 

楓は呆れながらも、自分の水を差し出す。

 

「ほら」

 

「……ありがと」

 

日向は素直に受け取った。

 

奎星は、その光景を見ながら心の中で思う。

 

――もう付き合えよ。

 

けれど。

 

言わなかった。

 

今の日向に必要なのは、多分周囲から何かを言われ続けることではない。

 

最後に一歩踏み出すのは。

 

本人なのだ。

 

奎星は伊織を見る。

 

伊織もこちらを見ていた。

 

目が合う。

 

数秒。

 

「……岳」

 

伊織が言った。

 

「何」

 

「そろそろ帰ろうか」

 

「まだ食ってる」

 

奎星もすぐ立ち上がる。

 

「持って帰れ」

 

岳が箸を止める。

 

「何を」

 

「お前を」

 

「嫌だ」

 

「いいから!」

 

奎星と伊織が両側から岳の腕を掴む。

 

「何する」

 

「寮帰るぞ!」

 

「俺まだ三杯目」

 

「十分食った!」

 

「足りん」

 

岳は椅子へしがみついた。

 

強い。

 

単純に。

 

かなり強い。

 

伊織が冷静に切り札を出す。

 

「夜食を買ってあげる」

 

岳が立った。

 

「帰ろう」

 

「早っ!」

 

楓が目を丸くする。

 

「何なの、急に」

 

奎星は何でもない顔を作った。

 

「眠い」

 

「まだ七時前よ」

 

「今日は疲れた」

 

伊織も頷く。

 

「僕も」

 

「伊織まで?」

 

「岳を寝かせないと」

 

「俺は寝ない」

 

「ほら、行くぞ岳!」

 

「引っ張るな」

 

三人で大食堂の出口へ向かう。

 

その途中。

 

奎星は一度だけ振り返った。

 

日向を見る。

 

日向も気づいた。

 

視線が重なる。

 

奎星は何も言わなかった。

 

ただ。

 

一度だけ。

 

小さく顎を上げる。

 

――行け。

 

多分。

 

伝わった。

 

日向の顔から、ほんの少し迷いが消えた。

 

奎星たちはそのまま大食堂を出る。

 

そして扉が閉まる直前。

 

後ろから。

 

かすかに日向の声が聞こえた。

 

「なあ、楓……」

 

三人とも。

 

振り返らなかった。

 

 

男子寮の談話室。

 

「遅い」

 

長椅子へ寝転がっていた奎星が言った。

 

隣では伊織がいつものように本を読み、岳は約束どおり買ってもらった夜食の焼き餅を食べている。

 

大食堂を出てから。

 

二十分。

 

奎星は勢いよく上半身を起こした。

 

「まだ?」

 

伊織は本から目も上げない。

 

「二十分しか経ってないよ」

 

「長くない?」

 

「場合によるね」

 

岳が焼き餅を噛む。

 

「断られたんじゃないか」

 

「やめろ!」

 

「可能性はある」

 

「お前、急に現実的になるなよ!」

 

やがて。

 

同じ談話室にいた別の男子たちまで、三人が何を待っているのか気づき始めた。

 

「朝比奈、まだ帰ってねえの?」

 

「まさか今日?」

 

「水無瀬誘ってんの?」

 

「ついに!?」

 

「遅えよあいつ!」

 

「下級課程から何年かかってんだよ!」

 

気づけば十人近くが集まっている。

 

奎星は笑った。

 

「なんで増えてんだよ」

 

三年の男子が当然のように答える。

 

「だって朝比奈と水無瀬だぞ?」

 

「まだ舞踏会に誘うだけだって!」

 

「同じようなもんだろ!」

 

「違うだろ!」

 

「どうせ時間の問題だって!」

 

完全に野次馬だった。

 

それでも。

 

全員が何となく落ち着かず、時々廊下へ視線を向けている。

 

そのとき。

 

ばたばたばたばた――。

 

廊下の向こうから、ものすごい勢いの足音が近づいてきた。

 

全員が扉を見る。

 

「来た!」

 

ばあん!

 

扉が勢いよく開いた。

 

日向が立っていた。

 

肩で息をしている。

 

顔は真っ赤。

 

けれど。

 

その表情には隠しようもない満面の笑みが浮かんでいた。

 

何も言わず。

 

右手を上げる。

 

親指を。

 

ぐっ。

 

一秒。

 

談話室が爆発した。

 

「うおおおおおおおおおお!!」

 

「っしゃあああああ!!」

 

「やっとかよ朝比奈ぁぁぁ!!」

 

「遅えんだよ!」

 

男子たちが一斉に日向へ殺到する。

 

「うわっ、待て待て!」

 

「何て言った!?」

 

「水無瀬なんて!?」

 

「舞踏会だけか!?」

 

「そのまま告った!?」

 

「告ってねえよ!!」

 

「ヘタレ!」

 

「うるせえ!」

 

奎星も笑いながら日向の肩へ飛びついた。

 

「やったじゃん!」

 

「おう!」

 

「断られなかった?」

 

「見りゃ分かるだろ!」

 

「なんて言われた!?」

 

日向の顔が、さらに赤くなる。

 

「……いいよって」

 

「うわああああ!!」

 

再び大騒ぎ。

 

「そこから!?」

 

「それだけ!」

 

「なんで告んねえんだよ!」

 

「舞踏会で言うんだよ!!」

 

一瞬。

 

談話室が。

 

静まり返った。

 

日向も、自分が何を口走ったのか気づいたらしい。

 

「あ」

 

次の瞬間。

 

さっき以上の歓声が爆発した。

 

「うおおおおおおお!!」

 

「言った!!」

 

「朝比奈言ったぞ!!」

 

「逃げ道なくした!!」

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「これで当日逃げられないね」

 

日向の顔色が変わる。

 

「待って。今のなし」

 

「無理」

 

「お前ら忘れろ!」

 

「無理!」

 

「奎星!」

 

「俺めっちゃ覚えた!」

 

「最悪だ!!」

 

岳が焼き餅を食べながら、ぼそっと言った。

 

「頑張れ」

 

日向が感動したように岳を見る。

 

「お前だけ優しい……!」

 

「早く付き合えばいい」

 

「お前もそっちかよ!」

 

談話室は。

 

しばらく笑い声でいっぱいだった。

 

 

夜。

 

騒ぎが収まり、四人部屋にもようやく静けさが戻った。

 

日向は一日中悩み続けた反動なのか、誰より早く眠っていた。けれど寝顔だけは妙に嬉しそうで、奎星は見るたび少し笑いそうになる。

 

岳も眠り。

 

伊織も本を閉じている。

 

起きているのは。

 

奎星だけだった。

 

自分の寝台へ座り。

 

膝の上に神代榊の杖を載せている。

 

百年以上前に作られた杖。

 

鬼火鳥の尾羽を芯に持ち。

 

自分の知らない過去を抱えながら。

 

今は自分の手の中にある。

 

奎星は指先で、その古い木目をゆっくりなぞった。

 

昼間。

 

澪に言われた。

 

――本人に聞いてないんでしょ?

 

――舞踏会に誘うほうが、よっぽど勇気いるわよ。間抜け。

 

そして今夜。

 

日向は。

 

ずっと怖がっていた楓を誘った。

 

断られれば、舞踏会へ行けないだけではない。

 

下級課程の頃から続いてきた今の関係さえ、変わってしまうかもしれない。

 

それが怖いと言っていた。

 

それでも。

 

日向は行った。

 

そして。

 

満面の笑みで帰ってきた。

 

親指を立てて。

 

「…………」

 

奎星は杖を見つめる。

 

自分は。

 

どうだ。

 

死の呪文へ、右手を差し出した。

 

怖くなかったわけではない。

 

ただ。

 

後ろにスズメがいたから。

 

動いた。

 

黒曜の狩人の呪文へも、身体を入れた。

 

胸も肩も腕も脇腹も背中も切り裂かれ。

 

本当に死にかけた。

 

あのときだって。

 

怖くなかったわけではない。

 

考えるより先に。

 

身体が動いただけだった。

 

敵が相手なら。

 

戦える。

 

魔法なら。

 

防げる。

 

誰かを守らなければならないなら。

 

怖くても前へ出られる。

 

なのに。

 

たった一人の女の人へ。

 

一つ訊くだけのことが。

 

できない。

 

――俺のこと、嫌になった?

 

たった。

 

それだけ。

 

その一言が。

 

死の呪文よりも。

 

ずっと怖かった。

 

もし。

 

「そうです」と言われたら。

 

もし、自分だけが勝手に特別だと思い込んでいたのだと分かってしまったら。

 

今までと同じようには。

 

もう戻れないかもしれない。

 

「…………」

 

神代榊を握る指に、僅かに力が入った。

 

澪は。

 

慰めてくれなかった。

 

大丈夫だとも。

 

嫌われていないとも。

 

言わなかった。

 

ただ。

 

自分で訊けと言った。

 

そして日向も。

 

最後には。

 

自分で一歩を踏み出した。

 

なら。

 

「俺は……?」

 

小さく呟く。

 

勇気というものは。

 

死ぬかもしれない敵へ向かっていくときだけ使うものではないのかもしれない。

 

誰かを守るためだけでもない。

 

怖くても。

 

答えを知りたいなら。

 

自分から一歩。

 

近づかなければならないときがある。

 

そのほうが。

 

奎星にとっては。

 

よほど難しかった。

 

答えは。

 

まだ出ない。

 

明日になったからといって、急に怖くなくなるわけでもない。

 

それでも。

 

何も聞かず。

 

一人で勝手に決めつけて。

 

このままスズメから離れていく。

 

それだけは。

 

もう違う気がした。

 

窓の向こうでは、星迎祭へ向けて並べられた灯籠が夜風に揺れ、いくつかが淡い光を瞬かせていた。

 

祭りまで。

 

あと二日。

 

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