マホウトコロ   作:西野圭吾

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第8話 星迎祭

 

そして、星迎祭の日が来た。

 

朝から南硫黄島には雲一つない青空が広がり、十月に入って少し涼しくなった海風が、校舎の屋根や回廊に飾られた色とりどりの旗を揺らしていた。

 

普段から白く輝いている羊脂玉の校舎も、この日ばかりはいつも以上に華やかだった。正門から本校舎まで続く道には数百の星灯籠が浮かび、回廊の柱には各学級や部活動が作った飾りが連なっている。広い中庭には屋台が所狭しと立ち並び、その上空では飛行部の生徒たちが巨大な横断幕を箒で引きながら飛び回っていた。

 

《星迎祭へようこそ》

 

金色の文字が青空の下で煌めくたび、初めてマホウトコロを訪れた客たちから歓声が上がる。今年は白峰魔法学校との交流行事も重なっているため、例年以上の人出だった。

 

生徒の家族や卒業生、他校の教員、魔法界の商人に加え、魔法省から招待された客人たちの姿まである。朝から呼び込みに駆り出されていた奎星も、二年二組の《魔法喫茶》の前で星形の看板を振りながら、ひっきりなしに行き交う人々を眺めていた。

 

「……あ」

 

人混みの向こうに見覚えのある男を見つけ、奎星の顔がぱっと明るくなる。

 

濃紺の魔法省制服に包まれた、百八十センチ近い頑丈な体格。短く揃えられた髪と、顎から口元を覆う髭。そして胸元には、魔法省監察局の銀色の証票が光っている。

 

「真壁さん!」

 

大声で呼ばれた真壁征士郎が足を止めた。横には同じく魔法省から来たらしい職員が何人かいる。

 

奎星が店先から飛び出すと、その声を聞いた日向たちも奥から顔を出した。

 

「お久しぶりです!」

 

「元気そうだな、蓮根君」

 

「めっちゃ元気!」

 

真壁はそう答えながら、奎星を上から下まで一度眺めた。

 

夏休みの森で共に戦ったとき、この少年は最後には全身を血に染めて倒れていた。それが今では胸元に《魔法喫茶 二年二組》と書かれた札を下げ、片手には呼び込み用の星形看板を持っている。

 

そのあまりの落差に、真壁は小さく息をついた。

 

「……平和そうで何よりだ」

 

「なんでちょっとしみじみしてんの?」

 

「君と会うときは、大抵何か起きた後だからな」

 

「失礼だな!」

 

横から伊織が静かに訊く。

 

「否定できる?」

 

奎星は少し考えた。

 

「……今日は何も起きない!」

 

真壁の眉が上がる。

 

「そういうことを先に言うな」

 

「御影先生と同じこと言う!」

 

日向が吹き出し、楓と岳も笑いながら真壁へ挨拶した。

 

「真壁さん、今日はお仕事ですか?」

 

楓が訊くと、真壁は胸元の証票を指で軽く叩いた。

 

「半分はな。魔法省からの来賓という名目だが、これだけ人が集まる催しだ。何かあれば動くことになっている」

 

奎星が顔をしかめる。

 

「それ仕事じゃん」

 

「役人に完全な休日があると思うな」

 

「夢ねえなあ」

 

「君に言われたくはない」

 

そう返しながらも、真壁の表情はいつもより少し柔らかかった。

 

奎星が看板を抱え直す。

 

「まあ、今日は何も起きないんで! 楽しんでってください!」

 

「なぜ君が主催者みたいな顔をしている」

 

「学生だから!」

 

「理由になってないよ」

 

伊織の突っ込みが入り、真壁は小さく笑った。

 

「まあ、そうさせてもらうよ」

 

そのまま歩き出しかけたところで、真壁は一度だけ足を止める。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「祭りの日くらい、普通の学生をやっていろ」

 

奎星は少しだけ目を丸くした。

 

それが単なる冗談ではないことくらいは、さすがに分かった。

 

けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻る。

 

「はい!」

 

真壁は片手を上げ、そのまま魔法省の職員たちと一緒に人混みの中へ消えていった。

 

「真壁さん、やっぱいい人だな」

 

奎星がその背中を見送りながら言うと、楓も頷いた。

 

「随分気にかけてもらってるわね」

 

「俺、魔法省でも人気出てきた?」

 

「そういう意味じゃないと思う」

 

伊織が即座に否定した。

 

そのとき。

 

「レンコン!」

 

足元から聞き慣れた声がした。

 

「だから蓮根――」

 

言いかけて振り向いた奎星は、そこで止まった。

 

「……何その格好」

 

そこには天ぷらがいた。

 

ただし、いつもの作務衣姿ではない。小さな身体には紺色の法被を羽織り、頭には赤いねじり鉢巻き。胸元には以前からつけている《テンプラ》の名札が下がり、背中には大きな白文字で《祭》と書かれている。

 

しかも、片手には小さな団扇まで握っていた。

 

「マツリ」

 

天ぷらは誇らしげだった。

 

その後ろから、さらに何匹もの小妖がわらわらと現れる。《モンジャ》は赤い法被、《オカカ》は黄色。《チクワ》はなぜか鉢巻きを二本巻いており、《キナコ》は腰へ小さな鈴を下げ、《オデン》に至ってはどこから持ってきたのか提灯まで担いでいる。

 

「ワッショイ」

 

「ワッショイ」

 

「マツリ」

 

「ワッショイ」

 

小妖たちは楽しそうに声を合わせながら、生徒や客へ団扇を配っていく。

 

奎星は呆然とその光景を眺めた。

 

「誰が教えたんだよ、これ……」

 

ちょうど近くを通りかかった土御門が、口元へ手を添えて笑った。

 

「自分たちで用意したそうですよ」

 

「自分で!?」

 

「倉庫にあった古い布を譲ってほしいと、昨日お願いされたそうです」

 

小妖たちが祭りの意味をどこまで理解しているのかは分からない。けれど、今日は楽しい日なのだということだけは十分に分かっているらしかった。

 

天ぷらが奎星へ団扇を差し出す。

 

「レンコン、ワッショイ」

 

「俺もやんの?」

 

「ワッショイ」

 

「なんで命令形なんだよ」

 

文句を言いながら受け取ると、天ぷらの顔が嬉しそうに緩んだ。

 

それを見て、奎星も笑う。

 

「まあいいか。ワッショイ」

 

「ワッショイ!」

 

近くにいた下級課程の子どもたちまで面白がって混ざり始め、朝の中庭へ一際大きな笑い声が広がっていった。

 

そうして、星迎祭は本格的に始まった。

 

 

二年二組の《魔法喫茶》は、開店直後から予想以上の客で賑わった。

 

店内では魔法で色を変える幕がゆっくり星空から朝焼けへ移り変わり、天井に浮かべられた小さな星々が客の頭上を漂っている。学校指定の業者から仕入れた甘味や飲み物が並び、奎星があれほど推していた水羊羹も、結局少量だけメニューへ加えられていた。

 

「水羊羹二つ!」

 

「俺!」

 

奎星が勢いよく手を上げる。

 

楓は即座に睨んだ。

 

「食べるんじゃないわよ」

 

「運ぶんだよ!」

 

「あなた、さっき一個食べようとしたでしょ」

 

「品質確認!」

 

「もう開店してるの!」

 

一方、日向はなぜか接客だけ妙に様になっていた。

 

「こちらのお席どうぞ」

 

笑顔で席を案内するたび、女子生徒たちが小さくざわつく。

 

奎星は盆を持ったまま、遠巻きにその様子を見た。

 

「うわ、あいつマジで接客してる」

 

会計を担当している伊織が、帳簿から顔も上げずに言う。

 

「本人が言っていた通り、顔だけは役に立つね」

 

「顔だけ言うな!」

 

離れた場所から、きっちり聞きつけた日向の声が飛んできた。

 

岳はというと、厨房から追放されていた。

 

理由は単純である。

 

「岳、そこから動かないでね」

 

楓が念を押す。

 

「何で」

 

「商品が減るから」

 

「食わない」

 

「その手に持ってるの何?」

 

岳が自分の右手を見る。

 

饅頭がある。

 

「……知らん」

 

「返して!!」

 

また店内に笑いが広がる。

 

客の波は昼前になっても途切れず、奎星たちは目が回るほど働いた。水羊羹を運び、注文を間違え、楓に怒られ、下級課程の子どもたちから「奎星先輩!」と呼び止められ、いつの間にか《モンジャ》の新しい名札まで書かされる。

 

それでも、祭りの空気に浮かされているのか、不思議と嫌ではなかった。

 

午前の当番がようやく終わった頃には、奎星も日向もぐったりしていたが、数分後にはもう屋台へ繰り出していた。

 

「切り替え早すぎない?」

 

伊織が言う。

 

「働いたから遊ぶんだろ!」

 

「さっきまで死にそうな顔してたじゃない」

 

楓も呆れていた。

 

「祭りで休んでどうすんだよ」

 

「祭りは休むものでもあるのよ」

 

岳は既に食べ物の屋台へ消えかけている。

 

「岳待て! 午後クィディッチ見んだろ!」

 

「まだ時間ある」

 

「だからって一人で消えるな!」

 

五人は人混みの中を進んだ。

 

菓子。

 

魔法玩具。

 

古書。

 

小さな魔法具。

 

他校の生徒が出している店も多く、白峰の生徒たちが雪の結晶を閉じ込めた飾りを売る屋台には人だかりができていた。

 

その少し先。

 

奎星の目が、一つの露店で止まった。

 

色とりどりの小さな装飾品が並ぶ店だった。魔法石を使った髪飾りや、触れると音を鳴らす根付、夜になると淡く光る小さな飾り物。その端に、親指ほどの銀色の星がいくつも並んでいる。

 

「何見てんの?」

 

日向が横から覗き込む。

 

「んー」

 

奎星は一つを摘まみ上げた。

 

銀色の小さな星型キーホルダーだった。派手なものではないが、角度を変えると表面に細かな光が走り、中央に埋め込まれた小粒の魔法石が夜空の星のように淡く瞬く。

 

「これ何?」

 

店番をしていた上級生が答える。

 

「星灯石のキーホルダー。暗いところでほんの少し光るよ」

 

「へえ」

 

指の上で転がす。

 

なんとなく。

 

観測塔を思い出した。

 

夜空。

 

海。

 

あそこで隣に座っていた、小柄な教師。

 

今日は朝から何度か姿を見かけたが、ずっと来賓の案内や教師同士の仕事に追われていた。きっと、祭りの屋台をゆっくり見る時間などないのだろう。

 

「これ一個ください」

 

「はいよ」

 

日向がすぐに反応した。

 

「お前そういうの欲しいの?」

 

「俺じゃねえよ」

 

「じゃ誰?」

 

奎星は代金を渡しながら、何でもないことのように答えた。

 

「スズメちゃん」

 

楓と伊織の視線が同時にこちらへ向いた。

 

「…………」

 

「何?」

 

「いや」

 

伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「別に」

 

「その言い方が一番気になるんだけど」

 

楓も何か言いたげだったが、結局口には出さなかった。

 

奎星は包んでもらった星型のキーホルダーを受け取り、その小さな包みを上着のポケットへしまう。

 

「今日ずっと仕事してるっぽいし。祭り来てんのに何も見れねえの可哀想じゃん」

 

「ふーん」

 

日向がにやにやする。

 

「何だよ」

 

「何でもねえ」

 

「その顔やめろ!」

 

奎星が蹴ろうとすると、日向は笑いながら逃げた。

 

「待て!」

 

「クィディッチ前に怪我させんな!」

 

「お前が煽ったんだろ!」

 

二人が人混みの間を走り出し、楓の怒声が飛ぶ。

 

「祭り会場で走るな!」

 

その横を、岳が串焼きを三本持って普通に追い越していった。

 

「岳、いつ買ったの!?」

 

そんな調子で。

 

星迎祭の午前は、あっという間に過ぎていった。

 

 

午後。

 

祭りの空気が大きく変わる時間が来た。

 

校舎の外へ出る人の流れが、次々とクィディッチ競技場へ向かっている。

 

マホウトコロ対白峰魔法学校。

 

星迎祭特別交流試合。

 

観覧席は既に満員だった。

 

白と淡青を基調とした白峰の旗と、深い紅を基調としたマホウトコロの旗が観客席で激しく揺れ、競技場の上空には実況用の大きな拡声術式が浮かんでいる。

 

奎星は楓、岳、伊織と並んで座っていた。

 

「日向、緊張してた?」

 

奎星が訊くと、楓は競技場を見たまま答えた。

 

「全然」

 

「マジ?」

 

「試合前になると、あいつだけ頭の中から余計なものが全部消えるのよ」

 

伊織が続ける。

 

「普段ももう少し消したほうがいいものは多そうだけどね」

 

「聞こえたら怒るぞ」

 

「今は空だから大丈夫」

 

その瞬間、競技場を揺らすような歓声が上がった。

 

マホウトコロの選手たちが一斉に飛び出してくる。

 

先頭近く。

 

箒へ跨がった日向が、一気に上空へ駆け上がった。

 

「日向ー!」

 

奎星が立ち上がる。

 

「落ちろー!」

 

楓が即座に振り返った。

 

「なんで落ちろなのよ!」

 

「応援!」

 

「どんな応援!?」

 

どうやら日向にも聞こえたらしい。

 

空中から奎星へ向けて中指を――上げかけ、途中で教師席が目に入ったのか、ぎこちなく親指へ変えた。

 

伊織が淡々と言う。

 

「今、絶対変えたよね」

 

「成長したな」

 

奎星は妙に感心していた。

 

やがて開始の笛が鳴る。

 

その瞬間から。

 

日向は、まるで別人だった。

 

普段の騒がしさも、舞踏会へ楓を誘うだけで一日中頭を抱えていた情けなさも、全部空へ置いてきたようだった。

 

箒が一気に加速する。

 

白峰の選手が二人、進路を塞いだ。

 

日向は止まらない。

 

一人目が右から寄った瞬間、箒を僅かに左へ傾ける。相手がその動きへ釣られたところで身体だけを逆へ倒し、紙一重の隙間を抜けた。

 

二人目は正面。

 

奎星の目には、どう見ても衝突するようにしか見えない。

 

「おい!」

 

だが日向は直前で箒の柄を引き上げた。

 

身体がほとんど垂直になる。

 

相手の頭上を、ひらりと飛び越える。

 

観客席が沸いた。

 

「うおおおおお!!」

 

奎星も思わず叫んでいた。

 

「カッケえ!!」

 

日向は味方から得点球を受け取ると、そのままゴールへ向かう。

 

投げる。

 

そう見せて、一度止めた。

 

白峰の守手が左へ動く。

 

日向が笑う。

 

次の瞬間、球は逆側の輪を通り抜けた。

 

先制。

 

『朝比奈、先制! 昨年度全国魔法学校交流杯得点王、今年もその精度は健在です!』

 

拡声術式から実況が響き、会場全体が揺れるほどの歓声が上がった。

 

奎星は目を輝かせる。

 

「マジでエースじゃん!」

 

楓が呆れる。

 

「今まで何だと思ってたのよ」

 

「口だけの奴」

 

「友達でしょ!?」

 

試合はその後も激しく続いた。

 

白峰も強い。特に守備の連携が速く、日向が一人を抜けば、すぐに次の選手が進路へ入ってくる。

 

それでも。

 

二点目。

 

三点目。

 

日向は決めた。

 

そして四度目。

 

白峰の選手三人に囲まれる。

 

「無理じゃね?」

 

奎星が身を乗り出した。

 

日向は一度だけ上空を見る。

 

次の瞬間、急降下した。

 

三人が追う。

 

地面がみるみる迫り、観客席から悲鳴が上がる。

 

「日向!」

 

楓が思わず立ち上がった。

 

地面まで数メートル。

 

そこで日向は一気に箒を引き起こした。

 

追っていた三人のうち、一人だけ反応が遅れる。

 

それで十分だった。

 

生まれた隙間へ身体を滑り込ませ、そのまま再び上昇。味方から飛んできた球を片手で掴むと、振り向きざまに投げた。

 

球が輪を通る。

 

一拍遅れて。

 

競技場が爆発した。

 

『朝比奈! 本日四得点目ぇぇぇ!!』

 

奎星が飛び上がる。

 

「うおおおおお!!」

 

岳まで拍手していた。

 

伊織も珍しく声を上げる。

 

「今のはすごいね」

 

「でしょ!」

 

なぜか楓が得意げだった。

 

奎星が即座に振り向く。

 

「なんで楓が自慢すんの?」

 

「してない!」

 

そのとき、空にいる日向がこちらを見た。

 

何千人もいる観客の中から、迷いなく一か所へ指を差す。

 

楓だった。

 

「…………え?」

 

楓が固まった。

 

観客たちも一瞬遅れて日向の指先を追い、そして誰を指しているのか気づいたらしい。

 

試合とは別の意味で、巨大な歓声が上がる。

 

「おおおおおおおおおお!!」

 

「うわああああ!!」

 

その中でも一番騒いだのは奎星だった。

 

「楓! お前じゃん!」

 

「分かってるわよ!!」

 

楓の顔は真っ赤だった。

 

「何してんの、あいつ!?」

 

空の日向は、ものすごく得意げに笑っている。

 

伊織が眼鏡を押し上げた。

 

「昨日誘えたから、急に強気になったね」

 

「舞踏会まだなのに!」

 

「浮かれてる」

 

岳が端的に言った。

 

楓はとうとう両手で顔を覆う。

 

「もう……馬鹿……」

 

怒っているような声だった。

 

けれど。

 

指の隙間から覗く口元は、少しだけ笑っていた。

 

 

クィディッチの交流試合が終わる頃には、太陽が海へ傾き始めていた。

 

昼の祭りが終わる。

 

そして星迎祭は、ゆっくり夜の顔へ変わっていく。

 

校庭を覆う星灯籠へ次々と火が入り、頭上には金、青、白、淡い桃色の星々が浮かび始めた。屋台の提灯も灯され、羊脂玉の校舎はその明かりを柔らかく透かして、昼間よりも幻想的な姿へ変わっていく。

 

やがて日が完全に沈むと、祭りの中心は中庭から、夜の舞踏会が開かれる大広間へ移っていった。

 

 

男子寮の談話室では、その頃。

 

別の戦いが始まっていた。

 

「これどうなってんだよ!!」

 

日向の叫び声が響く。

 

鏡の前に立つ日向は、黒を基調とした正装姿だった。昼間のクィディッチ用の魔法衣とは違い、上着も靴もきちんとしている。

 

問題は。

 

ネクタイだった。

 

一応、結ばれてはいる。

 

しかし何をどうしたのか、結び目が完全に横を向いていた。

 

伊織が呆れた顔をする。

 

「なんでそうなるの?」

 

「知らねえよ!」

 

「さっき教えただろ!」

 

近くにいた三年生男子が言う。

 

「一回こうして、ここ通して――」

 

途中でその手が止まった。

 

「あれ? これどっちだ?」

 

「お前も分かってねえじゃん!」

 

談話室には、これから舞踏会へ向かう男子生徒たちが集まっていた。

 

普段の魔法衣とは違う正装。

 

黒や濃紺を基調とした上着。

 

磨かれた靴。

 

そして慣れないネクタイ。

 

これが最大の敵だった。

 

「岳、それ違う」

 

奎星が言う。

 

岳が振り返る。

 

ネクタイを頭に巻いている。

 

「祭りだろ」

 

「昼の小妖じゃねえんだぞ!」

 

「首苦しい」

 

「だからって鉢巻きにすんな!」

 

ちなみに奎星も、今夜はきちんと正装していた。

 

舞踏会へ出る予定はない。それでも日向たちが揃って着替える中、一人だけ普段着でいるのも妙な話になり、「せっかくなんだから着ろ」と半ば強引に着せられたのである。

 

濃紺の上着に白いシャツ。

 

見慣れない服装のせいか、本人もどことなく落ち着かない。

 

そして。

 

当然のように。

 

奎星のネクタイもおかしかった。

 

伊織が見る。

 

「奎星、それ短すぎない?」

 

「そう?」

 

「結び目、喉に刺さってるみたいになってるよ」

 

奎星は鏡を見る。

 

「正装ってそういうもんじゃないの?」

 

「違うと思う」

 

伊織自身も一応形にはなっていたが、左右の長さが明らかに合っていない。

 

奎星が指を差す。

 

「伊織も変じゃん!」

 

「僕はこれでいいよ」

 

「よくねえだろ!」

 

日向がネクタイと格闘しながら叫んだ。

 

「お前ら、魔法でできないの!?」

 

「生活魔法でネクタイ結ぶ練習なんかしねえよ!」

 

そのとき。

 

談話室の扉が開いた。

 

「何この惨状」

 

全員が振り返る。

 

三枝冬真だった。

 

黒を基調とした正装に、深い紅色の上着。ネクタイも当然のように綺麗に収まり、髪も普段より少しだけ整えている。

 

それでも気取った雰囲気はなく、部屋の有様を見るなり普通に笑った。

 

日向が救世主を見る顔になる。

 

「冬真先輩!」

 

「助けてください!」

 

別の男子まで立ち上がった。

 

冬真は笑う。

 

「なんで全員、決闘よりネクタイに苦戦してんの」

 

奎星が指を差す。

 

「冬真先輩、こういうのもできんの!?」

 

「普通にできるよ」

 

奎星は真顔になった。

 

「やっぱ人間じゃねえ」

 

「まだ言ってるの?」

 

冬真は笑いながら、一番近くにいた一年生のネクタイを直してやった。

 

「はい。次」

 

「お願いします!」

 

「列作らなくていいって」

 

そう言われても、自然と人が並んでいく。

 

冬真は嫌な顔一つせず、一人ずつ結び目を整えていった。

 

「榊、これ長さ逆」

 

「あ、やっぱりですか」

 

「岩戸はまず頭から外そうか」

 

「嫌だ」

 

「舞踏会でそれやったら、相手の子に帰られるぞ」

 

岳が無言で外した。

 

奎星が吹き出す。

 

「言うこと聞いた!」

 

「うるさい」

 

「相手の子の力すげえ!」

 

岳は今日、同じ学年の女子生徒と舞踏会へ出るらしい。本人に訊いても、「誘われたから行く」としか答えなかった。

 

伊織も、いつの間にか相手を決めている。

 

奎星が理由を聞いたところで返ってきたのは、「一人でいるのも暇だから」という、いかにも伊織らしい答えだけだった。

 

その伊織を直し終えた冬真が、次に奎星を見る。

 

「ほら、蓮根も」

 

「俺?」

 

「そのネクタイでどこ行く気?」

 

「舞踏会じゃないからいいじゃん」

 

「正装着てる以上、よくない」

 

「マジかよ……」

 

奎星は渋々冬真の前へ立った。

 

冬真は奎星の結び目を見るなり笑う。

 

「何でこんなに締め上げたの?」

 

「緩いと落ちると思って」

 

「首輪じゃないんだから」

 

「苦しいとは思ってた」

 

「そりゃそうだろ」

 

冬真は奎星のネクタイを一度緩め、手際よく形を整えていく。

 

奎星はその手元を見下ろした。

 

「すげえ。全然分かんねえ」

 

「来年までに覚えろよ」

 

「来年も冬真先輩に頼む」

 

「俺卒業してるよ」

 

「じゃ残って」

 

「ネクタイのために留年させるな」

 

周囲から笑いが起きる。

 

冬真は最後に結び目を中央へ合わせ、奎星の襟を軽く整えた。

 

「はい。これでいい」

 

奎星は鏡を見る。

 

さっきまでと同じ服のはずなのに、急にまともな正装に見えた。

 

「おお」

 

「似合ってるじゃん」

 

「マジ?」

 

「黙ってればね」

 

「最後いらなくね!?」

 

冬真は笑いながら次へ向かった。

 

「そういえば鳴海もさっき通ったよ」

 

奎星が振り返る。

 

「鳴海も出んの?」

 

「うん。同級生の子に誘われたらしい」

 

「へえ!」

 

「ただ、迎えに来た相手の子を見た瞬間、完全に喋れなくなってた」

 

奎星が吹き出した。

 

「決闘のときだけ別人だな、あいつ!」

 

「ネクタイ締めてやってる間も『人が多い……帰りたい……』ってずっと言ってたよ」

 

「鳴海らしい」

 

「でも、ちゃんと行った」

 

冬真は笑った。

 

「まあ、あいつなりに頑張ってるんじゃない?」

 

その一言に。

 

奎星は少しだけ、二日前から考えていたことを思い出した。

 

怖くても。

 

聞かなければ分からない。

 

勇気の使い方。

 

冬真は最後に日向を見る。

 

「じゃあ、朝比奈」

 

「お願いします!」

 

日向が背筋を伸ばした。

 

冬真は完全に横を向いていた結び目を見て、さすがに一度全部ほどいた。

 

「力抜けって」

 

「無理っす!」

 

「クィディッチであれだけ飛び回ってた奴が、何で今のほうが緊張してんだよ」

 

「試合とこれは違うんすよ!」

 

「水無瀬だろ?」

 

日向が固まった。

 

談話室にいる何人かが笑いを堪える。

 

「……はい」

 

「今日、観客席に指差してたの格好よかったよ」

 

日向の顔が少し得意げになった。

 

「マジすか?」

 

「うん」

 

冬真はネクタイを締めながら言う。

 

「その勇気があるなら大丈夫」

 

最後に結び目を整えた。

 

「はい。男前」

 

日向が鏡を見る。

 

「おお……!」

 

髪も、服も、ネクタイもきちんと整っている。

 

昼間、箒で空を駆けていた姿とはまた違う。

 

十七歳の少年なりに。

 

かなり決まっていた。

 

奎星が口笛を吹く。

 

「うわ。日向じゃないみてえ」

 

「どういう意味だよ!」

 

冬真は笑いながら日向の肩を軽く叩いた。

 

「ちゃんと言うんだろ?」

 

日向が一瞬だけ止まる。

 

何を、とは訊かなかった。

 

「……はい」

 

今度の返事には迷いがなかった。

 

冬真は満足そうに笑う。

 

「なら頑張れ」

 

「ありがとうございます!」

 

「じゃ、俺も彼女待たせてるから行くわ」

 

冬真が扉へ向かう。

 

「冬真先輩!」

 

奎星が呼んだ。

 

「ん?」

 

奎星は自分のネクタイを摘まんで見せる。

 

「ありがとな!」

 

冬真が少し笑った。

 

「いいよ。来年は自分で結べるようになれよ」

 

「努力はする!」

 

「その言い方、絶対覚えない奴じゃん」

 

冬真は片手を振り、談話室を出ていった。

 

やがて、他の男子たちも一人、また一人と大広間へ向かい始める。

 

「じゃあ俺も行く」

 

岳が立ち上がった。

 

ネクタイは冬真のおかげで、ちゃんと首にある。

 

奎星が言う。

 

「食うなよ」

 

「何を」

 

「舞踏会の料理全部」

 

「無理」

 

「即答すんな!」

 

伊織も立ち上がった。

 

「じゃあ僕も行くよ」

 

「伊織」

 

「何?」

 

「踊れんの?」

 

「君よりは」

 

「何で分かんだよ!」

 

「奎星は踊ったことあるの?」

 

「ない」

 

「ほら」

 

「くっそ」

 

伊織は笑い、岳と一緒に部屋を出ていった。

 

他の男子たちもほとんどいなくなり、さっきまであれほど騒がしかった談話室には、やがて二人だけが残った。

 

奎星と。

 

日向。

 

日向は扉の前まで行ったところで、ふと振り返る。

 

「……奎星」

 

「ん?」

 

少しだけ間があった。

 

「お前、行かないのか?」

 

奎星は長椅子へ座ったまま、一度窓の外を見た。

 

夜の校庭。

 

浮かぶ星灯籠。

 

その向こうにある校舎の裏手。

 

もっと遠く。

 

「俺は」

 

奎星は立ち上がった。

 

ポケットの中で、昼間買った小さな包みがかすかに触れる。

 

「行かなきゃいけないとこがあるから」

 

「…………」

 

日向は何も訊かなかった。

 

昨日までなら、「どこ?」「誰?」「なんで?」くらいは平気で訊いていたかもしれない。

 

けれど今夜は、奎星の顔を見ただけで何となく分かったらしい。

 

「……そうか」

 

「うん」

 

日向は自分のネクタイへ一度だけ触れる。

 

奎星が訊いた。

 

「怖い?」

 

「めちゃくちゃ」

 

即答だった。

 

「昼、あんなドヤ顔で楓指差してたのに?」

 

「あれは試合中だから!」

 

「意味分かんねえ」

 

「試合中って何でもできるんだよ!」

 

「告白も試合中にすりゃよかったじゃん」

 

「箒乗りながら!?」

 

二人は笑った。

 

その笑いが収まると、少しだけ静かになる。

 

日向が奎星を見る。

 

「でもさ」

 

「ん?」

 

「昨日、お前らが出てってくれたから」

 

奎星は黙って聞いた。

 

「俺、誘えた」

 

日向は少し照れたように笑う。

 

「あれなかったら、多分まだグダグダ言ってたわ」

 

「絶対言ってたな」

 

「うるせえ」

 

奎星も笑う。

 

日向は拳を差し出した。

 

「ありがとな」

 

奎星は少しだけ目を丸くしてから、自分の拳をぶつける。

 

「おう」

 

軽い音がした。

 

たったそれだけ。

 

でも、二人には十分だった。

 

日向は拳を下ろし、今度は奎星の顔を真っ直ぐ見る。

 

「頑張れよ、奎星」

 

「…………」

 

誰に。

 

何を。

 

とは。

 

訊かなかった。

 

奎星も説明しない。

 

ただ少しだけ笑った。

 

「お前もな」

 

「おう」

 

日向は今度こそ扉を開ける。

 

「じゃ!」

 

「転ぶなよ!」

 

「お前も、何しに行くか知らねえけど逃げんなよ!」

 

「余計なお世話!」

 

日向は笑いながら走っていった。

 

扉が閉じる。

 

男子寮の談話室には、奎星一人だけが残った。

 

さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだった。

 

窓の向こう、校舎のどこかで舞踏会が始まったのだろう。遠くから音楽が聞こえてくる。

 

奎星は自分の正装を見下ろした。

 

「……これで山登るのか」

 

冬真が綺麗に直してくれたネクタイを少しだけ引っ張る。

 

「汚したら怒られそうだな」

 

それでも着替え直すつもりはなかった。

 

ポケットへ手を入れる。

 

指先に触れたのは、昼間買った星型のキーホルダー。

 

小さな包み。

 

スズメに渡すつもりで買ったもの。

 

ちゃんと渡せるかは。

 

まだ分からない。

 

けれど。

 

行かなければ。

 

約束した場所へ。

 

 

大広間では、既に舞踏会が始まっていた。

 

高い天井には夜空を模した魔法が広がり、無数の星が瞬いている。中央では正装した学生たちが音楽に合わせて踊り、その周囲では友人たちが笑いながら眺めていた。

 

日向が入ってきた瞬間。

 

楓はすぐに気づいた。

 

淡い色を基調とした正装。

 

普段とは少し違う髪。

 

彼女もまた、いつもの魔法衣ではない。

 

日向の足が。

 

完全に止まった。

 

「…………」

 

楓が眉を寄せる。

 

「何?」

 

「いや……」

 

言葉が出ない。

 

後ろから岳が押した。

 

「邪魔」

 

「うおっ!」

 

日向が前へよろける。

 

楓が思わず笑った。

 

「何やってんの」

 

「岳が!」

 

「早く行け」

 

その岳は、自分の相手を探して既にどこかへ歩いていく。

 

伊織も少し離れたところでこちらを見ながら、ほんの少し笑っていた。

 

そして。

 

白峰側。

 

澪も大広間へ来ていた。

 

舞踏会には誘った。

 

断られた。

 

だから今夜。

 

奎星はいない。

 

それを澪は知っている。

 

一度だけ、入口へ視線を向けた。

 

誰かを待つように。

 

けれど当然、そこに奎星の姿はなかった。

 

澪は少しだけ目を細める。

 

「……ちゃんと行ったんだ」

 

誰にも届かないほど小さな声で呟いた。

 

悔しくないと言えば。

 

多分。

 

嘘になる。

 

けれど。

 

あの日、木陰で聞いた。

 

奎星がどれほど烏丸スズメという人を大切にしているのか。

 

あれだけ聞いてしまえば。

 

今夜、奎星がここにいない理由くらい。

 

分かっていた。

 

澪は小さく息を吐くと、今度こそ大広間の中央へ視線を戻した。

 

 

その頃。

 

奎星は一人、祭りの人混みとは反対方向へ歩いていた。

 

星迎祭の夜は、学校の中心へ向かうほど賑やかになる。

 

大広間からは音楽が聞こえ、中庭ではまだ何軒かの屋台が最後の客を呼び込んでいる。頭上には無数の星灯籠が浮かび、あちこちから笑い声が響いていた。

 

奎星だけが、その賑わいから離れていく。

 

正装姿のまま、校舎の裏手へ。

 

普段ほとんど使われない古い道へ入ると、祭りの明かりは少しずつ遠ざかり、足元を照らすものも等間隔に置かれた古い魔法灯だけになった。

 

この道は。

 

知っている。

 

一学期。

 

自分の魔法が怖くなった日。

 

スズメに連れられて。

 

初めて歩いた。

 

あの日の自分は、ずっと俯いていた。

 

周囲の景色など、何も見ていなかったと思う。

 

けれど二度目からは。

 

もう迷わなかった。

 

曲がる場所も。

 

古い石段も。

 

途中で枝が低く垂れている場所も。

 

全部、覚えている。

 

奎星は歩きながら、ポケットの上から小さな包みへ一度触れた。

 

昼間。

 

ほんの思いつきで買った、銀色の星。

 

渡したとき。

 

スズメは何と言うだろう。

 

――何ですか、急に。

 

多分、まずそう言う。

 

――祭りだから。

 

と返したら。

 

――理由になっていません。

 

そんな答えが返ってくる気もする。

 

想像しただけで、少し笑えた。

 

けれど。

 

その笑みは長く続かなかった。

 

歩くほどに、胸の奥が少しずつうるさくなっていく。

 

舞踏会へ向かう日向は、怖いと言っていた。

 

けれど。

 

行った。

 

奎星も今。

 

少し怖かった。

 

観測塔へ向かうことが怖いわけではない。

 

そこに。

 

誰もいないことが。

 

怖い。

 

スズメは最初から言っていた。

 

仕事が入るかもしれない。

 

時間があれば。

 

それだけの話だった。

 

絶対の約束ではない。

 

しかも二日前には、自分の手を避けられた。

 

昨日もほとんど話していない。

 

今日だって。

 

祭りの間。

 

スズメの姿を探さなかったわけではない。

 

何度か遠くから見かけた。

 

教師たちと話していた。

 

来賓を案内していた。

 

ずっと忙しそうだった。

 

結局、一度も声を掛けられなかった。

 

「…………」

 

もし。

 

いなかったら。

 

そのときは。

 

どうする。

 

少し前までの奎星なら。

 

多分。

 

そこで勝手に答えを決めていた。

 

――やっぱ嫌われたんだ。

 

そう思い込み。

 

距離を取って。

 

一人で落ち込んでいた。

 

けれど。

 

澪に言われた。

 

――相手がどう思ってるかなんて、どれだけ人を見るのが上手くても分かんないよ。

 

――そういうのだけは、聞かないと分かんないでしょ。

 

そして。

 

日向も。

 

怖いと言いながら。

 

楓のところへ行った。

 

なら。

 

今夜。

 

スズメがいなかったとしても。

 

明日。

 

訊けばいい。

 

避けられた理由も。

 

自分のことが嫌になったのかも。

 

ちゃんと。

 

本人に。

 

「……よし」

 

奎星は、自分へ言い聞かせるように小さく呟いた。

 

さらに坂を上がっていく。

 

祭りの音楽はもう遠い。

 

代わりに、海の音が少しずつ近くなる。

 

夜風が木々を揺らし、正装の上着の裾が僅かにはためいた。

 

「……やっぱこの格好歩きにくいな」

 

一人でぼやく。

 

冬真が整えたネクタイはまだ綺麗なままだった。

 

木々の隙間から。

 

やがて古い塔が見える。

 

誰も使わなくなった観測塔。

 

月明かりの下。

 

一学期と何も変わらない姿で立っている。

 

奎星の足が少しだけ速くなった。

 

階段へ。

 

一段。

 

二段。

 

駆け上がる。

 

頼む。

 

まだ花火の時間には間に合う。

 

頼む。

 

仕事。

 

終わっててくれ。

 

頼む。

 

「……いてくれ」

 

最後には声に出ていた。

 

螺旋階段を上がる。

 

いつもより長く感じる。

 

心臓の音が、やけに大きかった。

 

上へ。

 

さらに上へ。

 

そして。

 

見覚えのある扉。

 

奎星はその前で足を止めた。

 

一度。

 

息を整える。

 

ポケットの中には。

 

星型のキーホルダー。

 

目の前には。

 

あの日と同じ扉。

 

右手を伸ばす。

 

けれど、あと少しのところで止まった。

 

怖い。

 

敵などいない。

 

呪文も飛んでこない。

 

死ぬこともない。

 

それなのに。

 

妙に怖かった。

 

奎星は目を閉じ、小さく息を吐いた。

 

「……行け、俺」

 

右手を扉へ掛ける。

 

そして。

 

開いた。

 

星迎祭の夜。

 

その向こうに誰がいるのか。

 

まだ。

 

奎星には見えていなかった。

 

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