扉を開けた先には、誰もいなかった。
「…………」
奎星はしばらく、その場から動けなかった。
月明かりの差し込む古い観測塔。錆びた観測器具も、ところどころ欠けた石壁も、一学期に初めてここへ連れてこられたときと変わらない。開け放たれた窓の向こうには南硫黄島の夜空と黒い海が広がり、遠く、星迎祭の中心部から漏れる灯りが小さく揺れていた。
けれど、待っていた人はいない。
「……だよな」
自分でも驚くほど、あっさりした声が出た。
最初から分かっていたことだ。
スズメは「時間があれば」と言っただけで、必ず来ると約束したわけではない。星迎祭当日の教師が忙しいことくらい、今日一日遠くから彼女の姿を見ていた奎星にも分かっていた。
だから、これは仕方がない。
そう言い聞かせながら、奎星は塔の端に置かれた長椅子へ向かった。
座る。
そのとき無意識に、隣へ人一人分の空間を残した。
自分でそれに気づいて、少しだけ笑う。
「何やってんだ、俺」
詰めればもっと楽に座れるのに、動かなかった。
濃紺の正装は山道を登ったせいで少しだけ乱れていたが、冬真に直してもらったネクタイだけはまだきちんと中央に収まっている。奎星はその結び目を指先で弄りかけ、代わりに上着のポケットへ手を入れた。
昼間に買った、小さな包み。
中には銀色の星型キーホルダーが入っている。
――スズメちゃんに。
何も考えずに買った。
仕事ばかりで祭りを見て回れないのは可哀想だと思って、屋台に並んでいた星を見た瞬間、何となく観測塔と彼女を思い出した。
渡せると思っていた。
少なくとも、そのときは。
奎星は包みを握ったまま、窓の外を見上げた。
ひゅう、と遠くから高い音がした。
次の瞬間、夜空に金色の光が弾けた。
「お」
遅れて、どん、と腹に響く音が届く。
星迎祭の花火が始まった。
一発目を追うように青、赤、銀の光が夜空へ次々と咲き、黒かった海面にも色が映り込んでいく。学校の中心部からは、舞踏会で奏でられているらしい音楽もかすかに聞こえていた。
奎星は長椅子へ深く座り直す。
「すげえ……」
誰もいない塔で、一人呟く。
また花火が上がった。
今度は火の粉がそのまま消えず、空中で形を変えていく。細長く伸びた炎が翼になり、尾羽となり、やがて夜空いっぱいに巨大な鳥の姿を作った。
青白い炎を纏った、鬼火鳥。
大きく翼を広げた火の鳥が、夜空を一度旋回してから無数の光へ砕け散った。
奎星は思わず笑った。
「岳いたら大喜びだろうな」
きっと立ち上がって騒ぐ。
下手をすれば「本物よりでかい」とか言い出すかもしれない。
そんなことを考えて。
隣を見る。
空席。
笑みが少しだけ消えた。
五分。
花火は続いている。
奎星は何度も扉のほうへ視線を向けた。
開かない。
十分。
音楽が曲を変えた。
舞踏会も本格的に始まったのだろう。
日向は、ちゃんと楓と踊れているだろうか。
あれだけ緊張していたのだから、最初の一歩で足でも踏んでいるかもしれない。そんな想像をすれば少し笑えたが、やはりそのあとには静けさが戻ってくる。
十五分。
誰も来なかった。
「…………」
奎星はポケットから手を抜いた。
もう。
来ないか。
言葉にすると、本当にそうなのだという気がした。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
仕事が長引いているだけかもしれない。
今から来るかもしれない。
もう五分待てば。
あと十分待てば。
そう考えることはできた。
けれど。
もう待ちたくなかった。
待って。
期待して。
扉が開くたびに彼女かもしれないと思う、その時間が辛かった。
奎星は立ち上がった。
「……帰ろ」
長椅子から離れる。
隣に空けていた一人分の場所が、やけに目についた。
この場所まで嫌いになりたくなかった。
初めて来た夜、自分はもっと酷い顔をしていた。
日向を傷つけ、自分の魔法が怖くなり、神代榊を捨てようとまで思っていた。そんな自分をスズメがここへ連れてきてくれた。
あの夜のことまで。
今夜のせいで。
嫌な思い出にしたくなかった。
「時間あったらって言ってたしな」
誰に説明するでもなく、奎星は呟いた。
「仕事終わればって。勝手に期待したの、俺だし」
そうだ。
二日前のことだって。
勝手に近づいたのは自分だった。
体調が悪そうだからと、勝手に額へ触った。
嫌がられた。
当たり前なのかもしれない。
毎日のように研究室へ押しかけて。
何度訂正されても「スズメちゃん」と呼び続けて。
忙しいと言われても話しかけて。
先生と生徒なのに。
自分だけが、その距離を普通だと思い込んでいた。
「……俺とスズメちゃんは」
声が少し掠れた。
「ただの教師と生徒だったんだな」
それを。
ようやく受け入れられたような気がした。
いや。
受け入れようとした。
そうでもしなければ、ここから帰れそうになかった。
奎星は一度だけ夜空を見た。
また花火が上がる。
綺麗だった。
けれど、もう先ほどまでのように声は出なかった。
扉へ向かう。
右手を伸ばす。
そのとき。
向こう側から勢いよく扉が開いた。
「うわっ!」
奎星が反射的に一歩下がる。
そこに。
肩で息をするスズメが立っていた。
「…………」
今度は。
奎星のほうが、何も言えなくなった。
顎で揃った黒髪が少し乱れている。普段ならきちんと整えられている教員衣も、急いできたせいか裾が僅かに崩れ、片手はまだ扉を掴んだままだった。
スズメは一度息を吸い、どうにか声を整えようとした。
「遅れて……申し訳ありません」
「…………」
「仕事が長引いてしまって。他校の先生方への対応が終わったあとにも確認事項が増えて、それから……ここまで来るのにも、少し時間がかかりました」
息が切れている。
走ったのだ。
ここまで。
奎星はそれが分かった。
それでも。
すぐには喜べなかった。
一度「来ない」と思ってしまった気持ちは、そんなに簡単には元へ戻らなかった。
「いいよ、別に」
自分でも嫌になるくらい、平坦な声だった。
「最初から、時間あったらって話だったし」
スズメの表情が僅かに曇った。
「……はい」
「仕事なら仕方ねえじゃん。俺も勝手に来てただけだし」
「それだけではありません」
奎星が顔を上げる。
スズメは扉から手を離した。
「二日前のことも」
「…………」
「私が……『やめてください』と言ったことです」
奎星の右手が、ほんの僅かに動いた。
「ああ」
「謝らせてください」
「別に謝んなくていいよ。俺が勝手に触ったんだから」
「違います」
普段のスズメなら、そこで言葉を選び終えてから話しただろう。
今日は違った。
奎星の言葉へ被せるように、はっきり否定した。
「違うんです」
「…………」
奎星には分からなかった。
では、何が違うのか。
スズメは何を伝えようとしているのか。
目の前の彼女自身も、それを一つの言葉へまとめられていないように見えた。
唇を開いて。
閉じる。
視線を落とし。
また奎星を見る。
自己表現が得意な人ではない。
奎星は、それを知っている。
教師として説明するときなら、どんな難しい魔法史でも落ち着いて話せる。けれど自分自身のことになると、途端に口数が減る。美琴の話をするときもそうだったし、夏休みの車内で「あなたがいなくなるのは嫌です」と言ったときですら、随分時間がかかった。
そのスズメが。
今。
必死に言葉を探していた。
「……触れられることが」
ようやく声が出た。
「嫌だったのではありません」
奎星の目が僅かに見開かれる。
スズメは続ける。
「むしろ……逆でした」
「逆?」
「はい」
また少し間が空く。
夜空で花火が開き、青い光が二人の横顔を照らした。
「嬉しかったんです」
奎星が動かなくなる。
スズメの声は小さかった。
それでも、逃げなかった。
「あなたに心配されて。あなたに触れられて……私は、それを嫌だとは思いませんでした。むしろ嬉しいと思ってしまって、そのことが……怖くなりました」
「…………」
「だから、逃げました。あなたからではなく……多分、自分の気持ちから」
言ってしまうと、スズメは一度視線を落とした。
頬が少し赤い。
けれど。
まだ終わっていなかった。
「蓮根君は」
少しだけ困ったような顔になる。
「しつこいです」
「……え?」
こんな場面で突然何を言われたのか分からず、奎星が瞬きをした。
「何度『烏丸先生です』と言っても、ずっとスズメちゃんと呼びます」
「それは……うん」
「忙しいと言っても研究室へ来るでしょう」
「……うん」
「補習が終わっているのに帰らないこともあります。近いですと言っても近づいてきますし、追い返しても次の日には何もなかったような顔でまた来ます」
「めっちゃ文句言うじゃん……」
「今は黙って聞いてください」
「はい」
反射的に返事をした。
スズメは少しだけ息を吐いた。
「それが……いつの間にか、当たり前になっていました」
奎星の顔から、わずかに冗談めいた色が消えた。
「朝、学校へ来ればあなたがいて、研究室にいれば勝手に入ってきて、授業が終わればどうでもいい話をしに来る。食べ物の話ばかりして、課題はなかなかやらなくて、怒られても次の日にはまた笑っている」
スズメは静かに続けた。
「何があっても、あなたはまた来ると思っていたんです」
それは。
自分でも気づかないうちに。
信じていたことだった。
一学期。
何度叱っても。
第零書庫から生きて帰ってきたあとも。
夏休み。
死にかけて。
それでも目を覚ましたあとも。
奎星は。
また「スズメちゃん」と呼んだ。
だから。
ずっと。
明日も同じだと思っていた。
「でも」
スズメの指先が、教員衣の袖を僅かに握った。
「常盤さんと一緒にいるあなたを見て、初めて気づきました」
奎星が黙って聞いている。
「あなたには、私の知らないところへ行くこともできるんですよね」
「…………」
「私の知らない人と出会って、私の知らない話をして。卒業すれば、当然ここからもいなくなる。いつかは……私ではない誰かを選ぶことだってできる」
澪と笑って歩く奎星を見た。
肩を叩き合い、年齢の近い者同士で遠慮なく笑っていた。
それは。
とても自然な光景だった。
だからこそ。
初めて怖くなった。
「今まで、そんなことを考えたこともありませんでした。あなたが勝手に近づいてくるから、ずっとそのままだと思っていたんです」
スズメは少し自嘲するように笑った。
「随分、勝手ですよね」
奎星は何も言わない。
「それなのに常盤さんに舞踏会へ誘われたあなたは……また、私との約束を選んでくれた」
「…………」
「嬉しかったんです」
声が僅かに震える。
「本当に。自分でも困るくらい、嬉しかった」
奎星の胸の奥で。
固まっていた何かが、ゆっくり解け始める。
「でも、どうしてそこまで嬉しいのか、自分でも整理できませんでした。私は教師で、あなたは生徒で……それなのに、常盤さんに誘われたことが気になって、断ったと知って安心して。あなたに触れられたことまで嬉しいと思ってしまって」
スズメはそこで一度言葉を切った。
「分からなくなりました」
それは。
彼女らしくない告白だった。
綺麗に整理されていない。
結論もない。
教師らしい正しい説明でもない。
ただ。
自分の中にあるものを、あるまま必死に言葉へしている。
「分からなくて。怖くなって。それで……あなたを傷つけました」
「スズメちゃん……」
やっと。
奎星が名前を呼んだ。
いつもの呼び方。
スズメは。
訂正しなかった。
真っ直ぐ奎星を見る。
「蓮根君」
その目が、少し潤んでいた。
「私は、あなたを嫌ってなどいません」
「…………」
「あなたに触れられることが嫌なのでもありません」
奎星の喉が動く。
スズメは。
それでも続けた。
「あなたは……私にとって、とても大切な人です」
言葉にした瞬間、声が掠れた。
それでも。
目は逸らさなかった。
「ですから……」
一度。
息を吸う。
「私から、離れないでください」
奎星の目が揺れた。
スズメの表情は。
酷く切なかった。
いつもの教師の顔でもない。
第零書庫で助けを求めた顔でもない。
夏休みに血だらけの奎星の手を握っていたときとも違う。
ただ。
二十一歳の烏丸スズメが。
自分の大切な人へ。
必死に言葉を届けようとしていた。
「離れないで……ほしいです」
「…………」
二人とも。
何も言えなくなった。
奎星の目も、いつの間にか潤んでいた。
十五分。
一人でこの場所へ座って。
来ない扉を見続けた。
教師と生徒。
それだけだったのだと。
無理やり自分へ言い聞かせた。
あの時間に押し込めたものが。
全部。
一気に戻ってきた。
先に崩れたのは。
奎星だった。
「……よかった」
一歩。
近づく。
次の瞬間には。
スズメを抱きしめていた。
「蓮根君――」
驚いた声が胸元で止まる。
奎星の腕に力が入る。
一学期よりも身体は鍛えられ、スズメよりずっと大きいはずなのに。
今だけは。
小さな子どものようだった。
「よかった……」
声が震える。
「俺、嫌われたと思ってた」
スズメの目が大きくなる。
「昨日、全然喋れなくて。今日も避けられてる気して……ここ来てもいなくて」
「…………」
「もう来ないと思った。俺だけ勝手に特別だと思ってたのかと思って……」
とうとう。
涙が落ちた。
「よかった……」
何度も。
それしか言えなかった。
スズメはしばらく驚いたまま動けなかった。
やがて。
ゆっくりと。
両腕を奎星の背中へ回した。
抱きしめ返す。
「嫌いになるはずがないでしょう」
静かな声。
けれど。
その声も少し震えていた。
奎星はスズメの肩へ顔を埋めたまま言う。
「……もう、あんなこと言わないで」
何を指しているのか。
スズメには分かった。
――やめてください。
たった一言で。
こんなにも傷つけていた。
「言いません」
「……うん」
「すみませんでした」
「うん……」
「でも」
「何?」
「人の額へ触るときは、一言訊いてください」
奎星は少しだけ顔を上げた。
「そこは駄目なの?」
「駄目という話ではなく、普通は訊きます」
「……はい」
スズメが小さく笑った。
それにつられて。
奎星も。
涙の残った顔で少しだけ笑った。
どれくらい、そうしていたのか。
分からなかった。
やがて奎星の呼吸が落ち着き、自分から少し身体を離した。
気まずそうに目元を袖で拭う。
「……めっちゃ泣いた」
「そうですね」
「そこ否定してくれよ」
「事実ですから」
「スズメちゃんも泣きそうじゃん」
「泣いていません」
「目赤いって」
「花火の光です」
「便利だな花火」
ようやく。
いつもの調子が少し戻った。
奎星は鼻をすすりながら窓のほうを見る。
そして。
「あ!」
急に表情が明るくなった。
「見て、スズメちゃん! めっちゃ綺麗な花火!」
スズメも窓の向こうを見る。
夜空いっぱいに、銀と青の光が広がっていた。そこから細かな星が雨のように降り、海面へ届く直前に消えていく。
スズメの表情が柔らかくなる。
「ええ。そうでしょう」
奎星が横を見る。
「ずっと、ここで見てたんだね」
「……はい」
学生だった頃。
舞踏会へ行く気になれず。
皆が大広間へ向かう夜に。
一人でここへ来た。
遠くから聞こえる音楽を背に。
何度も。
花火を見た。
スズメは夜空を見上げたまま、ほんの少し笑った。
「でも、今年は」
そこで。
奎星を見る。
「一人ではありません」
「…………」
目が合う。
今度は奎星が先に逸らした。
照れた。
普通に。
誤魔化す言葉も出てこなかった。
「……あー」
意味もなくネクタイへ触れる。
スズメはそこで、ようやく奎星の格好を改めて見た。
濃紺の正装。
白いシャツ。
きちんと中央に収まったネクタイ。
普段の制服姿とも、夏休みに見た私服とも違う。
「蓮根君」
「ん?」
「その格好」
「これ?」
「似合っていますよ」
「…………」
奎星が止まった。
いつもなら。
――だろ?
くらいは即座に返しそうなのに。
今日は出てこない。
目が泳ぐ。
耳が少し赤くなる。
「……ありがと」
小さな声。
スズメが少し驚いた。
「珍しいですね」
「何が?」
「素直です」
「俺いつも素直だろ!」
「そういうことにしておきます」
「なんだよ!」
少しだけ。
二人の間に笑いが戻った。
遠くからは、まだ舞踏会の音楽が聞こえている。
風に乗って。
ほんのかすかに。
奎星は耳を澄ませた。
「まだ踊ってんのかな」
「舞踏会ですか?」
「うん」
日向の顔を思い出す。
今頃。
どうしているだろう。
「日向さ」
「はい」
「勇気出して、楓のこと舞踏会に誘ったんだ」
スズメが少し目を見開き、それから微笑んだ。
「そうですか。朝比奈君、ちゃんと誘えたんですね」
「昨日やっと」
「水無瀬さんは?」
「行くって」
「でしたら、今頃一緒に踊っているかもしれませんね」
「多分」
奎星は遠くの音楽をしばらく聞いていた。
そして。
何かを思いついたように。
スズメを見る。
「……踊らない?」
「え?」
スズメの顔から微笑みが消えた。
「何をですか」
「何って、ダンス」
「ここで?」
「うん」
「なぜ?」
「誰もいないだろ」
「理由になっていません」
「音楽も聞こえるし」
「それも理由になっていません」
奎星はもう笑っていた。
「いいじゃん。一曲だけ」
「私は舞踏会へ出たことがないと話したでしょう」
「俺もない」
「だから何なのですか」
「条件一緒じゃん!」
「二人とも踊れないという意味では?」
「じゃあ失敗してもバレねえじゃん」
「誰にですか!」
奎星は笑いながら手を差し出した。
「ほら」
スズメはその手を見る。
「嫌です」
「一曲!」
「嫌です」
「ちょっとだけ!」
「蓮根君」
「誰も見てないって」
「そういう問題では――」
「スズメちゃん」
奎星は笑っている。
また。
この顔だった。
何度断っても。
絶対にもう一度来る顔。
スズメはしばらくその手を見て。
深く。
ため息をついた。
「……本当に、一曲だけですよ」
「よっしゃ!」
「声が大きいです」
「誰もいねえって!」
差し出した手へ。
スズメの手が重なる。
奎星も。
一瞬だけ静かになった。
どうすればいいのか。
分からない。
「……これどうすんの?」
「知りません」
「スズメちゃん先生だろ」
「魔法史の教師です」
「ダンス史は?」
「ありません」
「使えねえ!」
「帰りますよ」
「嘘嘘嘘! やろ!」
慌てて引き止める。
結局。
二人は遠くから流れてくる曲に合わせ、見よう見まねで動き始めた。
当然。
下手だった。
奎星は最初の三歩でスズメの足を踏みかけた。
「危なっ」
「今、踏もうとしましたね」
「してない! 床が悪い!」
「床は百年以上ここにあります」
「じゃ古いからだ!」
「自分の足元を見てください」
今度はスズメが逆へ動き。
二人の身体がぶつかる。
「あ」
「…………」
一瞬止まる。
そして。
同時に笑った。
「スズメちゃんも下手じゃん!」
「あなたにだけは言われたくありません!」
「今逆だったって!」
「蓮根君が先に動いたんです!」
「音楽に合わせた!」
「合っていません!」
「分かんねえよ!」
誰もいない観測塔に。
二人の笑い声が響いた。
一学期。
同じ場所で。
杖を握れずに膝を抱えていた奎星がいる。
その隣で。
何も無理に言わずに座っていたスズメがいる。
あの夜から。
まだ数か月しか経っていない。
けれど。
今は二人とも笑っていた。
花火の光が窓から差し込み、遠くの音楽に合わせるように床へ影が揺れる。
しばらくして。
奎星も少しだけ動き方に慣れてきた。
「お、俺うまくなってね?」
「気のせいです」
「絶対なってるって」
「でしたら前を見て――」
スズメの足が。
僅かにもつれた。
「あっ」
身体が傾く。
奎星の反応は早かった。
「危な!」
腰へ腕を回し。
そのまま引き寄せる。
倒れる寸前で。
止まった。
「…………」
同時に。
最後の花火が上がった。
巨大な金色の光が夜空いっぱいに広がり、少し遅れて響いた音が海の向こうへ消えていく。
遠くから聞こえていた曲も。
ちょうど。
終わった。
静かになった。
残ったのは。
窓から入る夜風。
遥か下から届く海の音。
そして。
二人の呼吸だけ。
「…………」
近かった。
奎星の腕は。
まだスズメの身体を支えている。
スズメの顔が。
すぐそこにある。
少し頭を動かせば。
何かが変わってしまいそうな距離だった。
奎星も。
スズメも。
動かなかった。
互いの目だけを見る。
呼吸の音が。
やけに大きく感じる。
スズメの手がゆっくり上がり。
奎星の胸へ触れた。
押し返すわけではない。
ただ。
そこへ手を置く。
その下で。
心臓が。
馬鹿みたいに速く鳴っている。
スズメにも。
多分。
分かってしまった。
「…………」
やがて。
スズメが目を伏せた。
「そろそろ、帰りましょうか」
小さな声だった。
奎星は数秒遅れて。
腕を緩める。
「……うん」
二人が離れる。
ほんの少し前まで笑っていたのに。
今度は。
どちらも顔を見られなかった。
奎星は意味もなくネクタイを触り。
スズメは髪を耳へ掛ける。
「…………」
「…………」
気まずい。
でも。
嫌な気まずさではなかった。
「じゃ、帰ろっか」
「はい」
扉へ向かおうとして。
奎星が。
「あ!」
大きな声を出した。
スズメの肩が跳ねる。
「な、何ですか」
「忘れてた!」
「何をです?」
「これ!」
奎星は上着のポケットへ手を突っ込み、昼間から何度も握っていた小さな包みを取り出した。
「スズメちゃんに渡したくて」
「私に?」
「うん。今日、屋台で見つけた」
包みを開く。
中から。
小さな銀色の星が現れた。
中央に埋め込まれた星灯石が夜の中で淡く光っている。
「キーホルダー。暗いとちょっと光るんだって」
スズメは。
その星を見た。
数秒。
何も言わなかった。
そして。
突然。
ふっと笑った。
「何?」
奎星が首を傾げる。
スズメはまだ笑っている。
珍しい。
声こそ出していないが。
本当に可笑しそうだった。
「なんだよ!」
「いえ……すみません」
「気に入らなかった?」
「違います」
スズメは首を横へ振った。
そして。
自分の教員衣の袖へ手を入れる。
「私も」
小さな包みを取り出した。
奎星の目が丸くなる。
「……え?」
「今日、少しだけ時間が空いたときに」
包みを開く。
そこにあったのは。
銀色の星。
奎星の掌にあるものと。
まったく同じ。
星灯石のキーホルダーだった。
「…………」
奎星は自分の星を見る。
スズメの星を見る。
もう一度。
自分の星。
「一緒じゃん!」
「一緒ですね」
「マジで!?」
「同じ屋台だったようです」
奎星が吹き出した。
「おんなじこと考えてた?」
スズメも。
今度は素直に笑った。
「……かもしれませんね」
「何それ!」
二人で笑う。
さっきまで泣いて。
言葉を探して。
妙に近い距離で固まっていたのが。
少しだけ馬鹿らしくなるくらい。
自然に笑えた。
奎星は自分が買った星を差し出した。
「じゃ、これスズメちゃんの」
スズメも。
自分の星を差し出す。
「こちらは蓮根君へ」
交換する。
同じものなのに。
なぜか。
自分で買ったものより大切なものになった気がした。
奎星は受け取った星を目の高さまで持ち上げる。
「俺のと同じなのに」
「同じだからいいのでは?」
「確かに」
ポケットへしまう。
今度は。
昼間よりずっと丁寧に。
スズメも、奎星から受け取った星を掌へ載せて眺めたあと、大事そうに袖へしまった。
「じゃ」
奎星が扉を見る。
「帰ろっか」
「はい」
今度は。
二人で。
観測塔を出た。
一学期のあの夜と同じように。
暗い螺旋階段を並んで下りていく。
けれど。
あのときとは。
少し違う。
今日は。
どちらかが歩調を緩めなくても。
最初から。
二人の歩く速さは同じだった。
*
その晩。
男子寮の灯りがすっかり消えたあとも。
奎星は眠れなかった。
寝台へ仰向けになり。
暗い天井を見上げる。
右手には。
銀色の星型キーホルダー。
星灯石が僅かな魔力へ反応しているのか、掌の中で淡い光を放っている。
「…………」
目を閉じる。
すぐに。
思い出す。
――私は、あなたを嫌ってなどいません。
目を開く。
寝返りを打つ。
――あなたは、私にとって、とても大切な人です。
反対を向く。
また戻る。
――私から、離れないでください。
「…………寝れるか!」
小声で叫び、枕へ顔を押しつけた。
少しして。
また顔を上げる。
手の中の星を見る。
口元が。
勝手に緩んだ。
「……同じの買ってんの、やば」
誰にも聞こえない声で笑う。
そのまま。
また眠れなくなった。
*
同じ頃。
教員宿舎。
烏丸スズメも。
眠れていなかった。
寝台の上で身体を起こし。
膝の上へ小さな星を載せている。
自分で買ったものではない。
奎星が。
自分のために選んだ星。
暗い部屋の中で。
淡く光っている。
「…………」
今日。
言ってしまった。
嬉しかったと。
大切だと。
離れないでほしいと。
そして。
抱きしめ返した。
一緒に踊った。
転びそうになって。
支えられて。
あんな距離まで。
近づいた。
思い出した瞬間。
スズメは両手で顔を覆った。
「…………」
頬が。
また熱くなる。
しばらくして。
指の隙間から。
星型のキーホルダーを見る。
――おんなじこと考えてた?
あのときの。
嬉しそうな奎星の顔が浮かぶ。
スズメは。
小さく息を吐いた。
それから。
星をそっと掌で包む。
今夜くらいは。
もう。
自分の気持ちを否定するのをやめてもいいのかもしれない。
何なのかは。
まだ。
分からない。
教師として。
どうすればいいのかも。
何も答えは出ていない。
それでも。
一つだけ。
もう疑わなくていいことがある。
奎星は。
自分にとって。
大切な人だった。
そして。
自分も。
彼にとって。
大切な人だった。
それを知ってしまった夜に。
眠れるはずなどなかった。
窓の外では、星迎祭の最後の灯籠が夜風に揺れ、遠い海の上には本物の星々が静かに瞬いていた。
二人の部屋で。
同じ形の小さな星も。
それぞれ淡く。
光っていた。